私と同世代のある男性は、サラリーマンをしながら、目の不自由な父親とずっと暮らしてきました。彼は一人っ子で、母親は8年前になくなり、転居を繰り返した父親には、いわゆる親戚付き合いがほとんどなく、結果的にこの二人世帯は孤立に近い状態だったと思われます。
数年前からは、認知障害とまでは言わなくても、父親の記憶や判断には曖昧さが目立つようになり、90歳を過ぎた最近では耳がほとんど聴こえない状態だそうです。
しかも、おそらくは現在よりもずっと露骨できびしかったであろう、若いころの視覚障碍者への差別的扱いのせいか、他人に対する深い猜疑心が身についてしまって、息子である彼の世話しか受け付けないのだそうです。施設入所とまではいかなくても、デイサービスや自宅でのケアなど、公的その他の様々な介護サービスを部分的にでも利用したいと思っても、彼らをまったく受け付けず、「他人の世話にはならない!」「息子が親の面倒を見るのは当たり前だ!」の一点張りだそうです。
耳の聴こえが悪くなってからは、意志の疎通がいっそう難しくなり、会社に出勤しているとき以外はほとんどつきっきりでいないと、父親は感情が不安定になり、まだ立って歩けるだけに、いつ何をするかわからない怖さがあると、彼は言いました。
「頑張ったんですが、もう限界です。そんなことを思ってはいけないんですが、死んでほしいと思うときも。最近は怖くてニュースが見られません。介護がらみの殺人事件が報じられると、自分もしてしまいそうで」
「限界も限界、その状態、もう危険ですよ。殺人などはともかく、あなたが倒れたら父上もアウト、共倒れでしょう」
「職場でも顔つきが変わってきていると言われてます。持病も悪化してきましたし」
そう言いながら、彼は父親の死を非常に怖れていました。両親から十分な愛情を注がれて育ち、ずっと独身の彼には、いまや唯一の身内である父親は単に大切なだけではなく、矛盾するようですが、この苦しい生活の支えでもあるのです。ですから、私が「もう限界」だと言っても
「でも、父親がどうしても嫌がることを無理強いするのは、あまりに可哀そうで」
すでに自治体の福祉関係の人や父親の主治医なども、二人の苦境を心配して、何度も足を運びサービスを受けるように説得しているようなのですが、状況は好転していません。
話を聞き終えて、私は問題が父親である以上に、「可哀そうで」と言う彼にあると考えました。今や彼は濃密な父親との関係に支配されて、窒息寸前なのです。私は断言しました。
「ダメです。可哀そうでも、第三者を入れなさい。デイサービスなど利用して、あなた自身が一人になれる時間を必ず作るべきです。それができなければ、早晩お二人は共倒れです」
「わかっているんですが・・・」
「それだけではダメです。父親には自分の苦しさをもう一度正直に話して、了解されなくても物理的にデイサービスの場所に連れていくべきです。そして、移動先の世話を受け入れなくても、職員に事情を話して、半日くらいは滞在させてもらうのです」
「やはり、そうすべきでしょうか」
「どうしても必要です。これは、何より父上のためです。父上に深い愛情を持つ貴方が、その愛情のとおりに暖かく父上に接するには、休息の時間が是非とも必要です。父上が平穏な最期を迎えるためには、それこそ貴方が今しなければならないことなのです」
おそらく、私が言ったようなことは、彼自身が十分承知で、周囲からは何度も助言されたことでしょう。しかし、自分自身の考えや、あまりに近い関係の人からの助言、あるいは助言して当たり前の人からの意見は、往々にして有効ではありません。
そのような人がそういうことを言うのは、立場上(つまり、利害関係や役割関係において)当然のことで、自分たちの「特殊な事情」を考慮した上での「客観的」意見には聞こえないからです。
私のような「見ず知らず」の言い分が時として効くのは、関係が「遠い」からです。その「遠さ」が、自分の置かれた「特殊な事情」の困難を「客観的」に彼に認識させる機会となるのでしょう。生きていると、「親身」ではないアドバイスが役に立つときもあるのです。
以後、彼は近況の連絡をしてくれます。
数年前からは、認知障害とまでは言わなくても、父親の記憶や判断には曖昧さが目立つようになり、90歳を過ぎた最近では耳がほとんど聴こえない状態だそうです。
しかも、おそらくは現在よりもずっと露骨できびしかったであろう、若いころの視覚障碍者への差別的扱いのせいか、他人に対する深い猜疑心が身についてしまって、息子である彼の世話しか受け付けないのだそうです。施設入所とまではいかなくても、デイサービスや自宅でのケアなど、公的その他の様々な介護サービスを部分的にでも利用したいと思っても、彼らをまったく受け付けず、「他人の世話にはならない!」「息子が親の面倒を見るのは当たり前だ!」の一点張りだそうです。
耳の聴こえが悪くなってからは、意志の疎通がいっそう難しくなり、会社に出勤しているとき以外はほとんどつきっきりでいないと、父親は感情が不安定になり、まだ立って歩けるだけに、いつ何をするかわからない怖さがあると、彼は言いました。
「頑張ったんですが、もう限界です。そんなことを思ってはいけないんですが、死んでほしいと思うときも。最近は怖くてニュースが見られません。介護がらみの殺人事件が報じられると、自分もしてしまいそうで」
「限界も限界、その状態、もう危険ですよ。殺人などはともかく、あなたが倒れたら父上もアウト、共倒れでしょう」
「職場でも顔つきが変わってきていると言われてます。持病も悪化してきましたし」
そう言いながら、彼は父親の死を非常に怖れていました。両親から十分な愛情を注がれて育ち、ずっと独身の彼には、いまや唯一の身内である父親は単に大切なだけではなく、矛盾するようですが、この苦しい生活の支えでもあるのです。ですから、私が「もう限界」だと言っても
「でも、父親がどうしても嫌がることを無理強いするのは、あまりに可哀そうで」
すでに自治体の福祉関係の人や父親の主治医なども、二人の苦境を心配して、何度も足を運びサービスを受けるように説得しているようなのですが、状況は好転していません。
話を聞き終えて、私は問題が父親である以上に、「可哀そうで」と言う彼にあると考えました。今や彼は濃密な父親との関係に支配されて、窒息寸前なのです。私は断言しました。
「ダメです。可哀そうでも、第三者を入れなさい。デイサービスなど利用して、あなた自身が一人になれる時間を必ず作るべきです。それができなければ、早晩お二人は共倒れです」
「わかっているんですが・・・」
「それだけではダメです。父親には自分の苦しさをもう一度正直に話して、了解されなくても物理的にデイサービスの場所に連れていくべきです。そして、移動先の世話を受け入れなくても、職員に事情を話して、半日くらいは滞在させてもらうのです」
「やはり、そうすべきでしょうか」
「どうしても必要です。これは、何より父上のためです。父上に深い愛情を持つ貴方が、その愛情のとおりに暖かく父上に接するには、休息の時間が是非とも必要です。父上が平穏な最期を迎えるためには、それこそ貴方が今しなければならないことなのです」
おそらく、私が言ったようなことは、彼自身が十分承知で、周囲からは何度も助言されたことでしょう。しかし、自分自身の考えや、あまりに近い関係の人からの助言、あるいは助言して当たり前の人からの意見は、往々にして有効ではありません。
そのような人がそういうことを言うのは、立場上(つまり、利害関係や役割関係において)当然のことで、自分たちの「特殊な事情」を考慮した上での「客観的」意見には聞こえないからです。
私のような「見ず知らず」の言い分が時として効くのは、関係が「遠い」からです。その「遠さ」が、自分の置かれた「特殊な事情」の困難を「客観的」に彼に認識させる機会となるのでしょう。生きていると、「親身」ではないアドバイスが役に立つときもあるのです。
以後、彼は近況の連絡をしてくれます。
時に近い人は、自利で親身に聴こうなくなる現象ですね。
不信感を抱くより、遠い人の方が有効、でしょうね。
両親にとっても本人にとってもまずいと私は思っていました。共倒れの不安です。 その後両親が亡くなり家庭の事情で私が一人で対処せざるを得ない状況になりました。
私は四人家族で到底妹を面倒見れる状況では有りませんでした。可哀想、切ない思いは当然ありましたが
心を鬼にして、施設に入ってもらいました。本人は長年自宅で両親と生活をしていたので施設に入ることには強硬に抵抗しました。約一ヶ月説得にかかりました。今では一乃至二カ月に一度の割りで外泊をさせ、私にとっても本人にとってもよかったと思っています。
私の場合は妹ですが今後高齢化社会が進み日本国中で大変な状況があちこちで起きてゆくと思われます。これは社会問題であるだけでなく、個人問題でもあり宗教的救済はますます重要になると確信します。
その責任の行先を先ず、計算する。
自分への善が相手への悪になる可能性がある場合、善良な人は自分の善を選ばない。
悪人は自分への善のみを選び、相手を悪人に仕立てることにより、自分を正当化する。
それらの善悪の判断を下す際に生じる人間の悩みこそ人間性の本質であろう。
自分の手を悪で汚したくない人は
権威を持つ人に
判断をゆだねる。
確かな権力を見極める人は
その委ねられた委託を活かし
3者にとって最善の道を開ける。
今回の記事は権威で人を救えた事例かもしれない。