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恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

次の世代と秋季祭

2018年10月10日 | 日記
 本年秋季祭直前の3・4日、30代を中心とする僧侶の方々が研修に来山されました(未来の住職塾サンガ)。

 いわゆる伝統教団に所属する若手のお坊さんが超宗派で参加する勉強会のようなものらしく、すでに何回も集まりを重ねているのだそうです。

 これまでは時代環境の急激な変化の中、今後の寺院をどう運営していくかに焦点をあてて活動していたそうですが、今年から従来の組織を改め、未来の「僧侶のあり方」を考える方向にも活動を広げていくのだそうです。その手始めとして、恐山で研修したいという依頼があったわけです。

 実は、私は最近、自宗派の僧侶の研修のみならず、他宗派の住職研修や青年会活動での講演を依頼されることが増えてきました。そのほとんどが、「今後の教団と僧侶」問題をテーマにするものです。

 一度、なぜ宗派の違う私なんかに依頼されるんですかと訊いてみたら、「あなたほど思い切った言い方をする人間が、自分たちの宗門内にいない」と言われてしまいました。

 思い切ったこと言わせてもらえる宗派に属していてよかったなと、内心しみじみ感謝しましたが、確かに私が言うことは、檀家制度を前提に組織された教団体制・教学体系・僧侶養成システムを持つ全ての宗派に共通する問題だと思います。

 今回も、日ごろの考えをストレートに言わせていただきましたが、皆さんには非常に熱心に聴いていただき、質問も活発でした。講演後の分科会でも突っ込んだやりとりが長時間続いたと聞きました。

 前にも言いましたが、少子高齢化・人口減という未踏の領域に踏み込んでいく日本では、もはや60歳以上からまともな知恵は出ません。今後の荒波は、まず40歳以下の世代の試行錯誤によって乗り切ってもらうことを期待するだけです。

 翌日、境内案内の途中やお見送りの間際まで、質問が途切れず、一人の質問の周りに数人の方が集まって私との問答を聞いていただきました。その真剣な姿を見ていると、もはや否も応もなく、この世代に未来の伝統教団を託す以外に選択肢がないことを、いまさらながら実感しました。

 皆さんの精進を祈るばかりです。

 1日おいて6日から、秋季祭でした。台風通過にもろにかかった3日間で、特に7日は今まで経験したことがないような強風。小石が舞い上がる通称「賽の河原」への参拝を停止し、建物の雨戸をすべて閉めざるを得ませんでいた。もちろん参拝者も大減少。参りました。

 その強風の日、わざわざ塔婆供養にみえられたおばあさんがいました。旦那さんと早くに亡くなった娘さんの供養を申し込まれて、一言。

「こんな日でもお祭りさ、やってる。ありがてえ」

 こちらこそ、ありがたかったです。そして、変えたくない大切なことを守るために、我々は変わらなければならないのだと思います。

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187 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2018-11-27 23:01:02
この前「先生」と呼ばれる人のお話を聞く機会があって、
聞いてて「若者に託す」的な話が出てきた時イヤな感じがして、
この記事を思い出した。

南さん、このブログで、永平寺の上司だった人が亡くなったって記事で
「『思うようにやりなさい、責任は私が取る』と言ってその通りだった3人の内の一人。恩返しできなかった。」
って書いてて、
「南さんはもう、恩返しできなかったって結論づけちゃったんだ。なんだそりゃ」って思った。
なんか、「恩返し」があるとすれば、
南さんが「思うようにやりなさい。責任は私が持つから」みたいなことじゃないの?てのは、ナシなのかしら?
人間としてとか僧侶としてとかそんなんじゃなく、恩返しって言うんなら、っていうか。
で、この記事読んで「若者に託す、精進を祈る」ってなってて、
やっぱり全然釈然としない。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-22 07:00:20
まともな仏教かあ

まともな主催者
まともな若僧侶
まともな老師

この三拍子が揃うこと?
返信する
桂蓮さんへ (ノリィ)
2018-10-20 23:49:28
遅レスになってしまいますが・・・。
若い方の参加というのは非常に良い視点だと思います。

若い方が(便宜上で言いますが)まともな仏教を学ぶ機会が増えることは、
確実に世の中を良い方向に向かわせると思います。
それが出来なければ・・・、またオカルトブームが来た時に
過去の過ちの繰り返しになるでしょう、きっと。

かく言う私も若いころの仏教のイメージは
あまり良いものではありませんでしたし・・・。

『主催者の若さ』と『参加者の若さ』は呼応するのではないでしょうか?
若い僧侶が若年層を相手に法話や座禅の場を開く。
良いと思うけどなあ。
そこに監督で老師が必要かどうかなどは、
まさに教団側で考えてもらいたいですね。
勉強会などでこういう意見は出てると思うのですが。
南さんはどうお考えなのでしょうか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-20 02:48:29
http://www.oteranomirai.or.jp/juku/regular_course/

(引用開始)

未来の住職塾は、お寺の永続を導く寺業計画を策定し、
その実現を力強く支援します。

将来に不安を抱えるお寺が増えています。人口の減少、家計の悪化、宗教法人への厳しい目など、お寺を取り巻く環境は厳しさを増すばかり。法要の参拝者は減り、檀信徒は次世代に引き継がれない・・・ いまや、お寺も選ばれる時代。

しかし、不安を抱えながらの現状維持の継続も、焦りによる場当たり的な行動も、お寺を危険にさらします。

時間やお金などが限られた中、お寺を次世代へ確実に存続・発展させるためには、確かな方法論や情報に基づいた具体的な計画が必要です。

未来の住職塾では約350の寺業計画書®の蓄積に加え、200ヶ寺・約3,000名の檀信徒から得た最新の分析データを用い、お寺の本質を守りながらも社会環境の変化に対応した、実現性の高い寺業計画の策定を支援します。

卒業後は僧伽(サンガ)の集いが全国各地で開かれ、講師も交えて研鑽を深めています。共に汗をかいた仲間だからこそ生まれる強い絆が、計画の推進を力強く後押しします。

ぜひ一緒に、ニッポンを明るくするお寺の「これからの百年」を切り開きましょう!

(引用終わり)

坊主丸儲けというのは、もはや過去のことだ、ということでしょうか。

坊主には簡単になれる。しかし、それで食っていくのは簡単じゃない。そんな言葉を目にします。

他に才能がある人なら、兼業僧侶という道もあるのでしょうが。

これからは、以前にも増して僧侶個人の人間味が重要になる。

人間力アップのためには、より多くの場数を踏むこと。

そのためには、僧侶よ、街に出よ、ですね。

一番効果的なのは、托鉢に出ることだと思います。

そうすれば、気軽に話し掛けてくる人も増えると思います。

自らを低くして、逐一それに対応していけば、自ずと道は見えてくる。

そして、僧侶として食えるレベルを下げれば、問題は、よりシンプルになる。民衆の要求にいかに応えるか。それはまさに大乗の精神。

そう思います。

偉そうに、じゃあ、お前に出来るのかと言われたら、私には出来ないので、その道は選択しません、と言うしかないのですが。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-20 00:53:59
知恵が出ないのでしょうか。

いえ、御忙しいのでしょうね。
御先に失礼します。

それでは皆さん御休みなさい。
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おかしなフタリ (Unknown)
2018-10-19 23:48:34
裏切られても ほっとかれても
嘘つかれても 呑む打つ買うでも
仕事しなくても 道で寝てても
電話はないし 手紙もこないし
住所わからない

たとえ 勝てはしないゲームでも
どうにかなるの

過ぎてゆく季節のなか
巡る 巡る 巡る 巡る
このおかしなフタリ
返信する
還暦問答⁉ (Unknown)
2018-10-19 23:11:33
ないない、期待しない
期待しても裏切られるだけです

なぜ?

裏切り専門家ですから‼

そんな~
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-19 23:06:08
>日本曹洞宗は、二人の「祖」がいらっしゃるのです。

それは知っていますが、どこがどう違うのですかね。なぜ二人にする必要があったのか?
坐禅派と悟り派ですかね。それなら坐禅派にも悟り派がいるようですが、結構ややこしくないですか。
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日本曹洞宗は、二人の「祖」がいらっしゃるのです (イエスちゃん)
2018-10-19 22:33:44
『永平寺と總持寺とは、「そんなに中身」が違うんですかね。』

もしも同じならば、「道元和尚の流れ」つまり、永平寺だけでいいのです。しかし、
日本曹洞宗は、二人の「祖」がいらっしゃるのです。
一人には、ならない、できないのです。

他方、
浄土真宗は、親鸞聖人、
日蓮宗は、日蓮大聖人、
浄土宗は、法然上人、
臨済宗は「中国からの24流」あるが、各々それの初祖「お一人」
返信する
転換「期」のせいだな (Unknown)
2018-10-19 19:16:18
夜中の更新を
充血しながら
楽しみにしてます

返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-19 18:38:00
気のせいです。
返信する
気のせいですかね。 (Unknown)
2018-10-19 17:09:29
ブログの雰囲気が、何だか御通夜みたいな感じが続いてませんかね。祭りのワリに。

ここらで、還暦問答は如何でしょうかね。面白くなくても、ゼンゼン構いませんよ。
ゼンゼン。
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あれ! イエスちゃんは消えたのでは (Unknown)
2018-10-19 15:39:08
逆に言えば、「60歳~70歳」に達したら、延命を希望しない教育が必要となる。
その中で「さまざまな癌」は「老化」「細胞分裂の異常」であり、人生の終幕に相応しい。が遺言と思っていました
返信する
あれ! イエスちゃんは消えたのでは (Unknown)
2018-10-19 15:39:07
逆に言えば、「60歳~70歳」に達したら、延命を希望しない教育が必要となる。
その中で「さまざまな癌」は「老化」「細胞分裂の異常」であり、人生の終幕に相応しい。が遺言と思っていました
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-19 12:47:43
>悟り・真理・涅槃寂静は常住形態だから、ダメよダメダメってこと???

それらって無常概念からの逸脱があるよね。自己矛盾ってこと??

これはもう、言語の底なしパラドックスという感じでしょうか。

無常の立場からいくと、「悟り・真理・涅槃寂静」の常住形態は、あり得ない概念になりますよね。

だからまあ、それが何かはわからなくても、常住形態ということなら否定はできますよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-19 08:38:58
永平寺と總持寺とは、そんなに中身が違うんですかね。
返信する
凄いですね『大本山永平寺(福井)・大本山總持寺を両本山とする曹洞宗』 (イエスちゃん)
2018-10-19 08:06:41
54歳にしてこの世を去られたのは早すぎた。
「もし道元をして、70、80の齢をほしいままにすることを得しめたならば、と思わずにはいられない」


凄いですね。「会の規定」の仕方が。
『大本山永平寺(福井)・大本山總持寺を「両」本山とする曹洞宗』

「双頭の鷲」をイメージしてしまいます。
右の考えで行くのか、左の考えで行くのか。常にその問題が起こる所以。

現実は、早くから大本山總持寺の子孫たちだけになってしまいました。残念です。

しかし道元和尚の『正法眼蔵』だけはしっかり残してくださった。感謝しなければならない。
返信する
曹洞宗埼玉県第二宗務所青年会 (桂蓮)
2018-10-19 06:25:36
今回の記事は
秋季祭に関わる次の世代のバートンタッチが
上手く行われるかどうかの懸念だと思っていますが、

皆様の意見は(私を含め)
他の記事へのリンクURLばかりで、
実際、記事内容に答えている人は少ないと見え受けますね。


日本に住んでた時、
曹洞宗埼玉県第二宗務所青年会が開催している坐禅会に毎年参加してました。
青年会の要旨は
(以下、誤解を避けるためHPの紹介文をコピペします)

>大本山永平寺(福井)・大本山總持寺を両本山とする曹洞宗の41歳以下(原則として)の青年僧侶で現在会員数約3000名で構成されています。
「古教照心の示訓を旨に自己の研鑽に努め、互いに乳水和合し、自由で創造的な活動を通じ、心豊かな社会を形成する」ことを目的に、昭和50年に発会いたしました。

①現代の諸問題に関する研究及びその対応活動」
②各曹洞宗青年会活動との連携及び支援、並びに親睦を図る
③教化活動並びに文化事業推進の研究開発及びその方策の実施
④情報誌の発刊並びに図書・資料の刊行及び紹介
などの諸活動に、全国の加盟団体と共に取り組んでおります。<

その参加から感じたことは
①若い人の参加が少ない
②坐禅会を開催するのに、本部からの支援が足りない
③年に1回という回数は少ない
④若い人への参加勧誘が必要とされるなどです。

若い方が積極的に参加できる環境を曹洞宗本部は支援すべきかなと思っています。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-19 04:19:35
えッ、
次の世代の人は
どう判断するのだろう??
悟り・真理・涅槃寂静は常住形態だから、
ダメよダメダメってこと???

それらって無常概念からの逸脱があるよね。
自己矛盾ってこと??
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-19 03:35:07
おお成程、
悟っちゃったらいけない訳ですね。

涅槃寂静って無常ではないですよね、
涅槃寂静・・・X
混沌迷悟・・・〇
返信する
僧侶について (榮久)
2018-10-19 02:58:28
「rabbi 」
ユダヤ教の聖句はラビたちの論争を通じて生きてくる。
この聖句のこの部分はどういう意味だという問いに対して一意的で最終的な
「解」というのは与えられないし、与えてはならないとして
根本的な経典自体が変化していく、またユダヤ教は布教ということしない。
ユダヤ教には聖職者というものはいない。
律法についての専門家はいるが、「学者」であって
キリスト教における「神父」や「牧師」や
仏教における「僧侶」というものではない。

「ラビ」というのは「わが師」という意味であるから。

『聖句の解釈は、永遠に開放状態に、永遠に未決状態に保持されなければならない』 ユダヤ教

南氏の言葉に 『「無常である」ならば、〝答え〟も存在しないことになる。
「これが答えだ」となった瞬間に、無常ではなくなる・・・・結論めいたものが出たら
その結論をさらに裏切って次に進まないと。
つまり、「真理はこうだ」などと言い切らない。
言い切らないで、余りを出し続けるという作業が必要に・・・』と


永遠に問い続ける思索者の姿が浮かび、
相談相手であり師として、お坊様とかラビとか呼ばれ敬われた立場で
市井のなかに暮らして行けるのではないだろうか。
返信する
応用力 (Unknown)
2018-10-19 00:15:44
>仏教の純粋理論の構築は天才でなければできない。しかし、それを衆生に応用していく法を探し当てるのは、年を重ね、人間として円熟しないと難しいのではないか。

http://syuronoki.blog.jp/archives/1072667602.html?p=2

>54歳にしてこの世を去られたのは早すぎた。「もし道元をして、70、80の齢をほしいままにすることを得しめたならば、と思わずにはいられない」


道元禅師の死は早すぎた。
あとは南老師に託そう。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-19 00:03:28
かたや淘汰されない

https://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150130/276932/?ST=smart



宗教を信じるか信じないか?

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/dot.asahi.com/amp/wa/2017062300023.html%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-18 23:59:49
全教団を一回、解体してみる。
サンガに一元化、とか。

ムリか・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-18 22:08:38
あくまでも仏教を継いでいくための教団であって、教団を継いでいくための仏教ではないと思う。

ただの教線拡大のための教団、僧侶なら必要なし!と思う。どの宗教にしても。
返信する
Unknown (おらだ)
2018-10-18 19:55:10
あと百年もすればさあ、ワアワア言わなくなるんかあ。高子・少齢化になるんかあ。何してんだあ。今のうちによお、原点時代に戻ってよお、菜っ葉が最高のオカズにしとくんさあ。バア様の時代はよお、モノは無かったがあ、生きる知恵はあったんさあ。知恵袋ってもんがさあ。ワッハッハ。
返信する
僧侶のあり方とは (Unknown)
2018-10-18 18:53:39
涅槃を目指して出家することなのでしょうか?

桂蓮宅で、たかはし教授が、

<涅槃を求めて出家したと言ってる経典があります。
中部経典第26経 聖求経です。機会があったら読んでみてください。>

こんなことを書き留めていらっしゃいました。


少し調べて見ると、南博士の名前が出てきました。

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/nibbaana/entry-10940772854.html%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB
返信する
Unknown (黄昏)
2018-10-18 18:07:39
社会にとって「適正な寿命」があるのだろう。
まあ「60歳~70歳」であり、それに抑える必要があるだろう。ではイエスちゃんから消えてゆくのが妥当ですね。ご自分で承知できるのですから。では「さようなら」。
返信する
「人生百歳時代」と「少子高齢化・人口減という未踏の領域に踏み込んでいく日本」 (イエスちゃん)
2018-10-18 16:03:58
「人生百歳時代」と「少子高齢化・人口減という未踏の領域に踏み込んでいく日本」。


日本列島の「適正な人口」は、江戸時代まで戻って良いのかも知れない。

(人類は、人口爆発で破滅に陥る。
アフリカ大陸、インド大陸、中国大陸、止まらない。
自分の力で生きていく、その仕掛けが間に合わない。
食糧の増産は追いつかない。
奪い合いで戦争となる。)

むしろ、
「人生・百歳・時代」の方に問題がある。

社会にとって「適正な寿命」があるのだろう。
まあ「60歳~70歳」であり、それに抑える必要があるだろう。

逆に言えば、「60歳~70歳」に達したら、延命を希望しない教育が必要となる。
その中で「さまざまな癌」は「老化」「細胞分裂の異常」であり、人生の終幕に相応しい。

1945年以降、戦後生まれの団塊世代、定年退職後の人々に、「綺麗に退場する覚悟を示していく」役割が「伝統仏教にある」と考える。

「仏教」は「死の問題の解決」に役割があるのだから。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-18 13:46:21
>更に、その親も「同じく、自分も親が怖かった」と告白する。
キリスト教の問題点がここにある。と思う。


そして親もまた親の怖さを解決していない、子供が怖い、と。お互いがお互いを怖い存在として認識し、そして何より自己の怖さを認識することが、お互いの関係性を紡ぐ作業として不可欠なことではなかろうか。
返信する
Unknown (朝寝坊)
2018-10-18 05:54:50
>>「○○は真理であるから、信じなさい」と言われた瞬間に、ある錯覚の中に溺れていくような気がするんです。
その〝真理〟は、時の権力や正義と結びついて、最初の意図とは全く違うところに連れていかれることもある。
>>「〝ある〟と断言してはいけない」とギリギリのところで止めるわけです。そちらの方が私にとってはリアルなのです。
やはり洞察の深さが魅力の源泉なのでしょうね。
返信する
僧侶に思うこと (榮久)
2018-10-18 04:22:37
「出家」が世俗を離れて修行する事であるなら、「寺院をどう運営していくか」等の経営者的な視点の発想からは
資本の効果的運用と効率化、これはまさに世俗そのもの。
周りをみれば気付くであろうが魅力のない人や場所に人々は集わない。
寺院の減少は時代の趨勢であり、それに伴い僧侶も減ってゆくのは自明のこと、と傍目にはうかがえます。

そこで南氏の受章インタビュー記事の『を自らの足元を見据えて、深い問いを重ねて、しっかりと言葉にしておかなければ・・・』に私たちも含め僧侶の在り方も展望できる。

仏教の原点ともいえる。
根本仏教における基本的実践 ━━
一切の生きとし生けるものどもに対しても、全世界に対しても、無量の慈しみのこころと意を起こすべし。
上に下にまた横に、障礙なく怨恨なく敵意なき慈しみを ━━

「縁起」 の視座 ━━
どのような人も事物も、永続的に、不変的に、独立して、遊離して、他者との関係なしに存在しているものは、
何ひとつなく、これがないならあれもなく、これが生起するとあれも生起し、これが消失するとあれも消失する。
事実上の相互依存性または相互因果性ともいえる「縁起」に他ならない。 ━━━

この事の理解が無我・透我の実践を呼び起こすのではないだろうか。
また僧侶の原点ではないのだろうか。
返信する
あっ、失礼。出版社の宣伝文です (イエスちゃん)
2018-10-18 03:28:23
あっ、失礼。
これは「出版社の宣伝文」です。
当然、著者自身も認めた内容です。
題名だけでは不十分だからこそ、
読者のために「添えられた文章」です。

『一筋のけもの道がみえて「正法眼蔵」が読めたと感得するまでの思索の記録。言語と行為が織り成す世界こそ存在の棲家-。

たいへん失礼ですが、
「これが榮久さんの質問にたいする返答」なのですか、
とすれば貴方の思考回路、論理ではなく「単なる戯言か茶飲み噺」です…』

これに、「どんな問題がある」のでしょうか?
著者の言葉です!
返信する
あっ!失礼しました。出版社自身(ご本人の認めた)の宣伝文です。 (イエスちゃん)
2018-10-18 02:57:26
あっ!失礼しました。

出版社自身の宣伝文です。
当然、著者ご本人も認めた内容です。
題名だけでは、不十分なので、「宣伝文も追加した」だけ。

『一筋のけもの道がみえて「正法眼蔵」が読めたと感得するまでの思索の記録。言語と行為が織り成す世界こそ存在の棲家-。

たいへん失礼ですが、
「これが」榮久さんの質問にたいする返答なのですか、
とすれば貴方の思考回路、論理ではなく「単なる戯言か茶飲み噺」です』

著者自身でも「単なる戯言か茶飲み噺」ですか?
違うでしょ。
返信する
いのちのセミナー 2018年11月29日(木)18時~ (Unknown)
2018-10-17 23:22:59
会場:
毎日新聞オーバルホールにて

http://ryukoji49.noor.jp/days/「魂のゆくえ」/

https://www.zuiganji.com/2013/02/02/寺子屋講演会-南直哉さん講演会-恐山と魂のゆくえ/

https://blog.goo.ne.jp/katsuura421/e/e1c1bf862285149f190234902739fbef

<本セミナーではこのような中、
日々を生き続ける私たちが曇りない心、晴れやかな気持ちで明日を迎えるためのお話をいただきます。>


応募締切:
2018年10月25日(木曜日)
※注釈:ハガキの場合は必着


締め切り間近!
返信する
ー教団と僧侶のゆくえー (Unknown)
2018-10-17 22:49:28
それよりも
「魂のゆくえ」を考える僧侶のカガミ
南大師様であった
返信する
Unknown (おらだ)
2018-10-17 21:19:36
交通事故はさあ、ル~ル守って運転してもさあ、起こる時には起こるもんでさあ。バ~チャル世界ゆうてもなあ、起こる時には起こるんさなあ。何も起こらんでもさあ、み~んな死んじまうんさあ。だからよお、閉鎖されてもよお、大切なことは大切な時に言っとかねえとさあ。誰に遠慮する必要あるんさあ。寒なってよお、ちいと人肌恋しなっていけねえなあ。ワッハッハさあ。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-17 20:27:35
『ウィトゲンシュタインから道元へ ―私説『正法眼蔵』 』
2003/2/1
黒崎宏(著)

一筋のけもの道がみえて「正法眼蔵」が読めたと感得するまでの思索の記録。言語と行為が織り成す世界こそ存在の棲家-。

たいへん失礼ですが、これが榮久さんの質問にたいする返答なのですか、とすれば貴方の思考回路、論理ではなく単なる戯言か茶飲み噺です、ご自分の力量以上のコメントは無理があります。ご自分のブログとやらで発散した方がよろしいのでは、見苦しいし醜悪でもあります。
返信する
魂とは記憶? (Unknown)
2018-10-17 19:32:59
記憶だけでは、魂は無いに等しいことかもしれない。記憶が揺さぶられる程の事態に、魂というものから生者が呼び起こされている。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-17 18:22:07
その魂は、霊魂のようなモノとはまた違うモノではないですかね。

そのように、魂だけを見ると勘違いしやすいので、「死者の魂」と位置付けておいた方が、わけのわからない霊魂とは、区別して考えられるかもしれませんね。
返信する
「魂の行方」論 (Unknown)
2018-10-17 16:39:52
南さんは職業柄、あたかも実体的な魂を言及せざるを得ないという事でしょうかね、方便として・・。
死体が死者として立ち上がるというのも同じ便法ですよね。
(とにかく実体とかではないんだから)

ズバっていえば、生きて残った人の記憶の中に刻まれているというだけ事な訳でしょうから・・
メッセージの伝え方がしごく微妙ですよね。(ヘタすると実体論になってしまうし、まさか輪廻の変身かとか)。

返信する
魂の行方 (新潟市秋葉区広大寺近隣住民)
2018-10-17 15:26:32
去年の秋広大寺で、魂の行方と言うタイトルで南先生の講演を伺いました
私は1番前の席でゲラゲラと笑ってお話しを聞いていました
でも最後に南先生は亡くなった方の魂は愛する人のところに帰っていくと教えてくださいました

私はその時亡くなった父の魂は私の胸の中にいてくれるのかなと思い 胸がいっぱいになりました

今日はその父の19回目の命日でした
午前中にお墓参りに行ってきました
いつもは父のお墓の前に立っただけで涙が溢れて止まりませんでした
でも今日初めて父の魂は私の胸の中 心の中にいつもいてくれると感じることができました
そして父が亡くなってから初めて いつも父と一緒だったんだと実感できて、心強い気持ちになれました

南先生から教えていただいたことが 1年経った今心に深く刻まれ 気持ちが落ち着きました
良いお話を聞かせていただき本当にありがとうございました
心より感謝申し上げます

これから少しずつ寒くなって参りますのでお体をお気をつけてお過ごし下さいませ
またいつかお会いできてお話しをうかがえることを楽しみにしております
返信する
南師は、「私流…」講座で、春日佑芳さんを読む価値があるとおっしゃっていた。 (イエスちゃん)
2018-10-17 14:48:38
ご参考まで

『道元 ―正法眼蔵の言語ゲーム』
1998/6
春日佑芳(著)
本書は、道元の思想についての歴史的な研究ではなく、道元の基本的な思想の理解をふまえて、言語表現の謎を解明しようとしたものである。


『ウィトゲンシュタインから道元へ ―私説『正法眼蔵』 』
2003/2/1
黒崎宏(著)

一筋のけもの道がみえて「正法眼蔵」が読めたと感得するまでの思索の記録。言語と行為が織り成す世界こそ存在の棲家-。
返信する
Unknown (カエル)
2018-10-17 13:37:42
何故に言語が無明であるんに、自分の言葉になどせにゃいかんのかえ。

坐禅は、思考停止ではないんかえ?
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交通事故コメ (桂蓮)
2018-10-17 13:18:40
今回のこのコメ広場は
特定の人のコメントに対する反響で
険悪ムードですね。

批判する側もされる側も
結果的に不快な思いが残るだけでしょうから、
このようなぶつかりは
交通事故みたいなものでしょうね。

交通事故は
交通ルールを無視した運転者が起こします。

赤信号(削除した)を無視して
突っ走ると
必然的に他の車とぶつかります。

青信号(削除されない)で
安心して道を渡る者に
赤信号で速度制限をオーバーした車(ポンコツの軽車)が
何人もぶつけては
そのまま疾走していますね。

取り締まる人に
何の礼を払わず
速度も落とそうとしない、それは結構ヤバイ運転者だと見えますね。

然るべきルールを守って
快適な運転を楽しみたいですよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-17 06:49:48
自分が共感したから他の人に紹介してみた。共感しない事は紹介しないし、
興味のない質問には反応しない。

自分が共感した事を紹介(公開)してみて、
其れをどう処するかは
あなたの自由とあなた自身の問題。

それで充分じゃないの??

栄久さんの様に自分の意見として問答したいとか言う哲学者魂は
見方によっては、自己確認の手段を探してるってことじゃあないの。動機は自己の探求。それ以上でもそれ以下でもない。

イエスちゃんの主眼は「とにかく賢者はそうこう言ってるけど、君はどう受け取るのかな?」という問題提起をしてるだけ。
私的には、それを契機として自分で考え調べてみて、賢者の知見に納得したり、自分の思考の枠を広げる事が出来たり、或る時はちょっと変かな~とか思ったり・・

私にとってイエスちゃんや高橋さんのコメは充分過ぎるくらい役に立ってる。
有難うお二人方さま。
返信する
なるほど あります ()
2018-10-17 05:04:38
ここまでを整理してみます
榮久17/12/06 06:50
◎釈尊は経験主義者。禅定での観察で「自己の死の苦」から解放された。
イエスちゃん17/12/04 07:30 の書き込みから
✳ 西田幾多郎には「道元和尚の仏教」は理解できない。
鈴木大拙は「道元禅」は語らなかった。
それは、鈴木には「理解できなかった」から。

それに対する私からのお尋ね
✳ 西田幾太郎さんの哲学を越えることができて
さらに鈴木大拙さんをも批判できる実力をお持ちなのですね。
ぜひ 著名な方々の名前や引用文は抜きでご自身の言葉で
「無常、無我」「縁起」「言葉という道具に騙される」ご説明をお願いいたします。

◎ それに対する答え
説明になりませんが、そこはご勘弁を… イエスちゃん 17/12/05 11:45

✳ 秋月老師は、「西田幾太郎」の論文を書き、「鈴木大拙」の直系です。
大学時代に、ひとりで、『正法眼蔵』に格闘していたが、ちんぷんかんぷんだった。「その原因は文章が古文のせいだ」と考えて、仏教学者の増谷文雄先生の「現代語訳」を読んだ。・・・・・から始まる引用文のみ。
何処にも、自分の考えは記されていない。

◎ 感謝です。 イエスちゃん 17/12/05 00:19
『ご自分自身の考えはどこに書かれているのですか。
著名な方々の名前を出せば、何か効能があるのですか。』との私の質問

答え ✳ 私の「独自の考え」というものは「ありません」。
ただし、「ご紹介した考え」に共鳴している者です。
・・・・・・・・
もしも「言語」を論じるのならば、
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」が、仏教・道元和尚の仏教に相応しい。

◎ 言葉の裏打ち 責任とは 榮久 17/12/05 18:41

・・・・・・・質問
✳ 次に
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」が、仏教・道元和尚の仏教に相応しい。
に関して お尋ねします。
ご承知かと思いますが、前期と後期と見解が異なりますが
どの時期の論説を元に道元との類似点を主張なさるのでしょうか。
お尋ねに対しての土台を確かめたいと思います。


◎ 勘違いですよ。返事を差し上げました。 イエスちゃん 17/12/06 03:30
・・・・・・
私の「独自の考え」というものは「ありません」。
ただし、「ご紹介した考え」に共鳴している者です。
つまり、私が自分の判断で「拾い上げた考え」と「捨てた考え」・・・
その「峻別が私の考え」です。
・・・・・
何処にも、西田哲学の批判文やヴィトゲンシュタインに関する返信も記されていない。

◎ 言葉の定義の問題。言葉に騙されている。 イエスちゃん 17/12/06 03:52
「生物と無生物」・・・・・
・・・・・・・・・・・
ここでも、西田哲学やヴィトゲンシュタインの事は出てこない。


◎ 「話しをすり替えることは止めて下さい」 榮久 17/12/06 04:24
✳ ご自分の書き込みにに対しての責任ある回答を求めているのです。

・・・・・・提案ですが・・・・

西田哲学の語彙から質問させて戴きますから、返信をお願いいたします。

行為的直観 の西田哲学における概要と、貴方のご批判。
レーベンとロジックとリアリティーとは同一のものである、西田哲学における概要と貴方のご批判。
先ず 部分の確認作業からはじめていきましょう。

同じように ヴィトゲンシュタイン論説に関しても「前期」なのか「後期」なのか
に関して 確認させて下さい。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-17 04:31:10
てか、蚤に金玉あったん?

そうね。坐禅に帰れってことなんだよね。釈迦の体伝は、口伝より説得力あるかもね。
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道元和尚は、この世で救えと教えていらっしゃる (イエスちゃん)
2018-10-17 04:21:24
道元和尚は、「他をこの世で救え」と教えていらっしゃる。

「自未得度先度他」
「自みずからは未いまだ得ていなくても、
まず先に他に得させてあげる」

『「もし私が地獄へ落ちたら、…』

これは、秋月老師がいつも仰っていた。
老師は、趙州従諗禅師の『趙州録』(禅の語録11筑摩書房)の註解書を著述していますが、それに載っています。
鈴木大拙が一番重要だと言っていたとも…。
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Unknown (Z)
2018-10-17 03:47:49
イエスちゃんと称する老人のコメントは、コピーコメントであるし自らの見識ではないと昨年12月初旬の榮久さんの論拠追求で発覚しました。しばらくはコメント数も少なくなっていましたが、最近は再び捏造数増加です。過去のブログを読み直してみると良いと思います。いかに取り繕いお伽噺を騙ってきたか明白でしょう。そんな老人に何を尋ねても無駄で、このブログの主旨に反します。当事者関でのコメントやり取りは控えるようにと院代からの要望でもあるからです。ご理解の程をお願いします。
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南師が仰る様に「悟りの内容」はお経に記述はない (イエスちゃん)
2018-10-17 03:45:47
南師が何度も仰る様に「悟りの内容」は「お経には記述はない」ということです。

ただ釈尊は、それ以後、それまでの「死苦」を解消なさった。解決なさった。

道元和尚も「一生参学の大事ここに終わりぬ」と、中国で如浄禅師の下で根本疑念を解消なさった。
釈尊と同様に「悟りの内容」は記述なさらない。
ただ「悟る前に想像しているのとまったく異なる」とだけ教えている。

だから、今後の教団を考える場合は、ここに重要な点がある。

秋月老師も、ご自分の悟り体験について話す場合は「蚤の金玉を八つ割にしたようなもの(極々ちいさなもの、ちっぽけなもの)」と頻りに仰っていた。
勿論、内容の話は一切ない。

よく言われる「全宇宙と一体に成った」なんていうのは、「うその悟り」でしょう。

ただし、釈尊も道元和尚も、その後の生き方は変わらずに、坐禅三昧だった。

だから、今後の布教は、坐禅に回帰し、坐禅を中心にするのが良いと思っています。
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緊急なことは (Unknown)
2018-10-17 03:05:45
どんどん質問しましょう。

( ・´ω・)∩シツモーン
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同じツッコミ不要!君しつこいよ (Unknown)
2018-10-17 03:02:57
釈迦も道元禅師も、見性大悟の自覚はあったけど、それが釈迦のと同じかどうかまでは確認できないことだから、道元禅師は曖昧に済ませていた、こう考えます。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-17 02:30:39
イエスチャンへの質問はイエスチャンのブログでして下さい。このブログを汚さないで下さい。老人の愚痴には付き合えませんし迷惑です。ここは院代のブログであって、質問は院代になら分かりますが以外は主旨に反します。それは、常識でありマナー、それが何か。
返信する
緊急質問を南さんは直接答えて呉れない。だから知識の有るイエスちゃんに聞くのです、ここで。‟それが何か?” (Unknown)
2018-10-17 02:23:02
イエスちゃんに再質問です。
「本当に悟っていれば、自分は悟っていると感じる事は無い」
「自分は悟っていると思う時は、実は悟っていない」
と、道元師が言っているという事であれば、

釈迦のケースはどうなるんでしょうか?
釈迦は自分は見性大悟したと思ったってことではないんでしょうか??
それと道元師の言う修証一如(修証一等、修証不二)との関係はどうなっているのでしょう。
道元師の言葉に矛盾が有るのか??

なお、質問②についても、イエスちゃんの知ってる事を教えてください。
南さんが直接答えて下さるでもいいですが・・・
返信する
インドで生まれた (Unknown)
2018-10-17 00:57:07
仏さまみたいな
やさしいカレー誕生!!🍛

https://higan.net/now/2018/10/carry/

会場は、、かの總持寺!

カレー坊主さんに会いたいかも🎽
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Unknown (Unknown)
2018-10-17 00:45:20
未来の住職塾には、南さんみたいな過去の住職(いや失礼)、還暦くらいの住職は入れないんでしょうかね。

だから南さん少し、疎外されたような記事を書かれたんでしょうかね。

転換期といえど、新たな思想までは出ないようですね。鎌倉時代に出尽くしたんですかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-17 00:30:06
まあ、色んな御坊さんがいるものです。

https://higan.net/category/hijiri/

見性成仏など、問題にもしてないかもしれません。
返信する
「なぜ自己の死の苦しみが起こってくるのか」が分かった (イエスちゃん)
2018-10-16 23:59:44
数学の問題解決の瞬間と同じだと思います。
無意識の内に考え続けている。

仕事でコンピュータのソフトウエアのロジックを必死で考えていた時期、
会社の寮に戻ってきて、寝ようとして、
「2段ベットの梯子を上っている途中で」そのロジック・解決方法がひらめいた。

だから、釈尊の場合も同じで、ひたすら
「なぜ自己の死の苦しみが起こってくるのか」を必死に考え、追求してきた。

そしてついに解った。

きっかけは重要ではない。
「朝日が昇る」「竹に石が弾けた」…
無意識の内に考え続けた、
これこそが重要と思います。

それを言語化したのが「十二支縁起」です。
「生じる縁起」と「それを滅する縁起」。
これが解った。
返信する
道元和尚は「本人が悟っていることは認識できない」と教えている (イエスちゃん)
2018-10-16 23:36:18
『①.「道元さんは「悟り」なんて錯覚だ」って言ってるのですか?』

本当に悟っていれば、
「自分は悟っていると感じることはない」
「まだまだ、自分は十分でないと感じる」
と教えています。

逆に、
「自分は悟ったと思っているときは、実は悟ってはいない」
とも、教えています。

だから、臨済宗のいう
「見性成仏」とは、まったく異なります。

だから、「見性成仏」を批判なさっている。

これを、将来の僧侶は、どのように信徒に展開していくのでしょうか?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-16 19:15:23
http://houe.jp/souryo/お寺の在り方%E3%80%80僧侶の生き方/

考えてみよう。
返信する
Unknown (おらだ)
2018-10-16 17:39:45
語で語を裏切り続けるんさあ。
答えらしきもん出されたらあ、その答えをチョン切ってさあ、次に進むんさあ。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-16 17:00:33
なぜURLを貼付し誘うのか、引っ掛けかも知れないし、自分で説明できないのでしょうか。安易に済ますことが風潮ではありますが言葉にすることで確認できることもあります。
返信する
『同時参加』 (Unknown)
2018-10-16 14:49:59
>「道元はほとんど、この『一体』という言葉を使わず、『一如』という言葉でまにあわせている。

https://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/65769573.html?__ysp=6YGT5YWDIOS7j%2BaApw%3D%3D

前の世代。
返信する
前後際断 (Unknown)
2018-10-16 14:27:20
>曹洞宗はすでに道元の思想からは離れている。なぜそう言えるかというのは、「修証義」にある。これは、道元の語句集のようでありながら、道元の思想とは異なるものだからだ。と、いうあたりもかなり説明が難しい。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/touch/20130322/1363958764
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-16 14:21:39
イエスチャンへの質問はイエスチャンのブログでして下さい。このブログを汚さないで下さい。老人の愚痴には付き合えませんし迷惑です。ここは院代のブログであって、質問は院代になら分かりますが以外は主旨に反します。
返信する
「修証一如(一等)」は錯覚ではない (Unknown)
2018-10-16 14:21:18
<道元さんは「只管打坐」「身心脱落」「修証一如」といった独自のキーワードで、自己が体得した坐禅こそが悟りの道であると主張しました。>

http://syuronoki.blog.jp/archives/1072203234.html


その道を坐りながら歩く。
返信する
直感と直面 (Unknown)
2018-10-16 14:10:57
直感と直面は違うでしょうね。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/ded0e1cda640c0d14835f59de6a61eb8

これを読んでも、そんな感じがします。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-16 13:56:00
記事とは無関係のやり取りを当事者関でしないで下さい。という院代のコメントを無視しないで下さい。
返信する
イエスちゃんに質問 (Unknown)
2018-10-16 08:52:50
朝寝坊さんやZさんがいやがるのは一向構いませんから
イエスちゃん、どうぞ教えて・・・

①.「道元さんは悟りなんて錯覚だ」って言ってるのですか?

②.道元さんは、
「もし私が地獄へ落ちたら、
自分はそこで菩薩行をするから(地獄へ落ちても)構わない」と言っているのですか?
返信する
Unknown (朝寝坊)
2018-10-16 06:00:50
「悟り」とは錯覚か、修行の疲れと栄養不良による幻覚として、この言葉自体を否定しているのが覚者あるいは老僧と呼ばれる人びとのなかに多くみられます。「拘り」を減らすことではないでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-16 05:16:45
>釈迦の発見も直感、、な訳ないか・・・

私は直感だと思いますけどね。
少なくとも瞑想思考中、意識した頭で理屈をイロイロこねくり回した結果出て来た論理的推論(結論)ってものではない。

釈迦の場合、
オンドリが明けの明星を見て突如、時の声を揚げた途端、
ハタと合点が行って悟りが開けちゃった・・・これは直感によるヒラメキ
って事ですよね。

いままで頭の中をぐらぐら駆け巡っていた正体不明のモノ(潜在意識下のもの)が、
突如、統合したスッキリした映像として浮かび上がって来る。

左様に、悟りとは、瞑想中の突発的な音とか一瞬の閃光とかがキッカケで発現する。

南和尚さんの例では、永平寺で屋根の雪がバサッと落ちて来た音に触発されて
突如、変性意識の中に投げ出された。

石ころが竹に当たってカ~ンと立てた音でも直感が実を結ぶ。
徒歩ちゅう道端の雑草が付ける、一輪の逞しい花びらを見た途端でも悟っちゃったりも出来るかも。

こんなのはやっぱり『直感』に分類されるべき現象ってことですよね。

まあ此処の和尚さんの場合はその「直感」に悟りと言う名と、それにもとずいた個人的ストーリーを乗っける事を拒んで
「ただそれだけ!!」の現象として重要視する事を避けているけど‥
返信する
Unknown ()
2018-10-16 04:20:00
>>>「今まで学んだ教え」を捨てて、「吾我の見」を捨てて、「坐禅」をせよ、と教えている。
イエスチャンが教えに反する第一人者
>>>だから、最新の現代科学と親和性のある、矛盾しない教えを構築できると考える。
この結論を導く根拠はどこに?
>>>啓蒙する
上から目線で傲慢です。優越感が根にあるようなドヤ顔が浮かび不気味。

やはり老人の戯言、妄想、自分のブログでコメントは垂れ流すようにして下さい。
返信する
「修行」「身で学道」 (イエスちゃん)
2018-10-16 03:34:57
『釈迦の発見も直観、、な訳ないか、、』

今『正法眼蔵随聞記』を読み直しているが、
「修行」「身で学道」…「坐禅」を強調している。

既に、日本達磨宗で修業が完成し、悟った「二祖に対しての教え」である。
(個人指導の記録である。自分のためであり、公開の意図はなかった。)

「今まで学んだ教え」を捨てて、「吾我の見」を捨てて、「坐禅」をせよ、と教えている。

「心で学道」でなく「身で学道」…「坐禅」に功徳があると教えている。

「直観」つまり「心」では、ないところ、
「思量ではない」「非思量」、身体性につながっていると思う。

だから、最新の現代科学と親和性のある、矛盾しない教えを構築できると考える。

「輪廻転生」ではなく、「死ねば、それで終わり」の上でも、釈尊の仏教、道元和尚の仏教が成立すると考える。

今後の「超党派の仏教」を考えていく場合、科学の発見が進み「死ねば、それで終わり」がさらに強固になっていく。

その中で、「個人」を超えた「人間の社会」に目が行くように、啓蒙することによって、再び「個人」の意味が生まれてくる。

それの先頭に立つのが「僧侶」なのだろう。
返信する
直観について (Unknown)
2018-10-16 01:43:03
>人生いかに生きるべきかをとことん考え、よりよく生きるために、小林秀雄先生が日頃から大事にしていたこととして、「微妙ということ」「原始ということ」に折々ふれてきたが、もうひとつの大事は「直観ということ」であった。

http://kangaeruhito.jp/articles/-/2118


釈迦の発見も直観、、な訳ないか、、
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-16 01:30:16
二つのリンク元記事読みました。
とても良かった。
『無常という事』(裸のキヨシ)
『眼蔵の「すがた」』(Unknown)。
コピペ(=紹介)してくれてありがとう。

コピペを非難するコメ者の方々に是非読んでもらいたい。
自分(=実は凡夫)の意見(=解釈)を発表するのが価値ある事だというのは大変な思い上がり、僭越の極みだと言ってる小林秀雄氏と真向こうから対立する。

知見のある人の文章をコピペでいいから紹介し、
それを読む人がどう判断するかは個々人の責任に任せ、
それを見た人が、自分の力で読み取る。時間をかけて考え続けて成熟させていく。

井の中のカワズの偏狭凡人なコメ者の意見などは何の役に立たないどころか、むしろ有害なのだ・・・
そう小林秀雄氏はいっている。
返信する
『正法眼蔵』を読めば、道元和尚自身が考えていらっしゃる (イエスちゃん)
2018-10-15 23:22:17
『正法眼蔵』を読めば、道元和尚自身が考えていらっしゃるのがわかる!

「仏性」の巻などは、「いろいろな方向から」考察している。

つまり、一方向では把握できない。

そして、何度も「ここから、更に自分で考えよ」と読者に命令している。

道元和尚は、深く考える人だった。

『正法眼蔵』の各巻巻は、何度も推敲して、改訂版を造り続けている。
考えを深めるのに終わりがなかった。
返信する
眼蔵の「すがた」 (Unknown)
2018-10-15 22:42:12
眼蔵も素読するものかな。

http://kangaeruhito.jp/articles/-/2525
返信する
「無常という事」 (裸のキヨシ)
2018-10-15 21:10:05
<小林先生は、歴史や文学に対して行う「解釈」を、厳しく戒め続けたのだが、その戒めが、いっそう厳しかったのは音楽の世界に対してだった。「解釈」は音楽の分野でも猖獗しょうけつをきわめていた。>

http://kangaeruhito.jp/articles/-/2632


解釈しないんだな。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-15 14:40:49
他所の神様にケチつけることを、自分の神様は御許しなのですかね。

戒は守らず、自己主張と自利ばかりが先立って横行するから、戦争にまで発展しているんですよね。
返信する
排他主義国家「イスラエル」が造られる前は、エルサレムは平和だった。 (イエスちゃん)
2018-10-15 12:30:11
『人びとは世界中で、お互いの神々を憎悪するゆえに殺し合っている。』

歴史を正しく観なければならない。

最大の聖地、エルサレムにおいて、

『預言者アブラハムの伝統を受け継ぐと称する宗派、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教』

キリスト教も、多種多様であり、コプト教、アルメニア教…なども含み、

「長い時代に渡って」平和に共存していた。

これは非常に重要なことである。
「観念の遊戯事」ではない。
現実に行われてきた歴史的事実である。

「イスラエル」という国家が、1945年以降、建国されて、これを破壊した。

なぜそうなったのか?
現在は、米国も共犯である。
返信する
Unknown (朝寝坊)
2018-10-15 04:41:55
仏教 と 非仏教 ・ 超越者を認める宗教と認めない宗教 。
預言者アブラハムの伝統を受け継ぐと称する宗派、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教
宗教は解釈的概念であり、この概念を用いる人びとはその厳密な意味について意見が一致していない。
人びとは世界中で、お互いの神々を憎悪するゆえに殺し合っている。
ーーーー榮久さんのコメントからーーーー

人間の業であろうか戦争、政争、利権、欲望・・・・、宗派、セクト、拘り・・・,
返信する
んだんだ。 (Unknown)
2018-10-15 00:50:51
思い通りにはいかない世界で(苦)、

「今も、明日も明後日も、死ぬまでこれだ!!」って思う事をするしかない。
返信する
伝統教団も政治も紙一重 (Unknown)
2018-10-15 00:44:20
同調圧力で、僧侶も国民も如何様にも変わる。

だからこそ、個人との対峙が大事となる。

思うに、大体、元々、時代に関係なく、個人との対峙が基本でしょうに。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-15 00:23:53
たしかに
>どっちが正解とかではなくて・・・

が正解。

人間万事塞翁が馬
神のみぞ知る
縁起が全てを決める・・・

いずれにしても
人には正解なんて分からんって事、

で、あるならば、
じぶんが、
「今、これだ!!」って思う事をするしかない。
でもまあ、自分でも良く考えて、周りの意見も聞いて、いろいろ調べて見て、なるべく客観的立場から、冷静になって・・等々、いろいろタグがつくけどね。
そうそう「踏みとどまる勇気」なんちゃらもありそうだし…人間万事塞翁が馬さ

コメントするのは「今、これだ」しかない
返信する
更に、その親も。キリスト教の問題点。 (イエスちゃん)
2018-10-15 00:20:35
山形の基督教独立学園高校に、
自分の子供を送るというのは、
非常に真面目なクリスチャンホームが多いだろう。

そこで、
更に、その親も「同じく、自分も親が怖かった」と告白する。
キリスト教の問題点がここにある。と思う。

「クリスチャンの家庭」に育っているのに…、
否、
「クリスチャンの家庭」だからこそ。

親が真面目でなければならないという、
旧約聖書の「裁きの神」がモデルとなって、
家庭を家族を支配してしまうことになる。

そのモデルがひな型になって、親から子に、子から孫にと、伝わっていく。

仏教の場合は「裁きの神」は存在しない。

本来、親は「甘える」対象である筈だ。
日本人は「甘えの世界」にどっぷりつかっている。

これが、日本でキリスト教の布教が失敗した原因である。
150年の布教で、人口の1%に達していない。
返信する
そうそう。 (Unknown)
2018-10-14 22:17:22
>釈迦が小さな一国を50年間だけ救うのと、全世界の心ある民を既に2500年にわたって救い続けるのとどっちが正解なのか。


これも、どっちが正解とかでなくて、マッサージチェアか座布団か、くらい座る土俵が違う話だね。(違う?)

まあ目先の話ではないってことなんすよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-14 19:11:56
「親が怖い」という話で、映画の「いまを生きる」を思い出しました。

(不確かなアラスジ)
エリートな父親が、エリートな学園に息子を送り込み、エリートな道へ向かわせようとするが、息子は自分の好きなことに精を出し、それを親から認めて貰えない。ついには、止めないなら退学と言い渡される。

だが、学園祭を前に隠れて練習し、その日が来た。

そして、「こんなに好きなんだ!これをやりたいんだ!」といわんばかりに、生き生きとした姿を舞台で観せるも、父親から連れて帰られた。

間もなく息子は、父親の書斎デスクにて、父親の拳銃を口に入れ発砲した。


残された先生や友人達は、「生きる」を突き付けられた。
返信する
若者たち (Unknown)
2018-10-14 18:25:35
先日放送の「こころの時代」で、

<安積力也さんは2014年、山形の基督教独立学園高校の校長を辞し、東京での生活を始めた。都会で出会ったのは、他人との関わりを避けようとする若者たち。周囲の流れにのる一方で、他人と距離を置き、本来の自分を心の底に隠して生きていた。山形の高校では、若者たちが大自然の中で、本来の自分と大いなる世界とを発見する姿を目の当たりにしていた。教育が、若者たちに与えられる希望とは。>

『何をおそれるか―本来の私を生きる―』をテーマにされていました。


生徒の中には、
「大人達は責任を取ろうとせず、そのツケを(次世代の)自分達に押し付けてくる。こんな社会で生きて行きたくない!」

尤もなことです。


またあえて「本来の私」には言及しませんが、「何を恐れているか?」の方に関心がありました。

当時校長をされていた安積さんは、なかなか言い出せなかった自分のテーマでもあった課題を、生徒達に思い切って問われました。

そこで、恐れていることを3つまで絞り込ませてみると、「人が怖い」、「時代が怖い」、「親が怖い」という内容が多かったそうです。

中でも安積さんは、「親が怖い」ということに衝撃を受け、それを親達にも問わせてみました。

そこで親達はドン底に落とされ、反省します。

安積さんは、親達が子供達のドン底を考えるようになると、子供達は落ち着いていく、と言われていました。

一緒にドン底を考える。


これはキリスト教の学園高校ですが、
仏教関係で、このような学園高校はないのでしょうかね。小学高学年から中学にあってもよさそうな学園ですよね。
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賢坊さんへ・・・一人でも変わる (Unknown)
2018-10-14 17:44:32
釈尊や宗祖も一人で、多くの個人を変えていかれた。

だから、今も思想が残っている。

社会が変われど、根本問題は変わらない。

死ぬまで、次世代に任せっきりな態度ではなかった、筈。

ですよね、南さん。
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南さんへ・・・社会は変わる (賢坊)
2018-10-14 15:51:32
私も六十台。もはや、子供達に期待して、根本的な考え方のみ伝えて、あ
とは任せていくのが適当かと。一人で社会は変えられないが、社会は長い
時を経て、確実に変わっていく。
例えば、結婚して三十有余年、結婚式とその披露宴のありようは、多様化
し、変化してきました。今や大概の招待状は親名からではなく、本人名か
らになっています。つまり、儀式の主催者が変化するとともに、その儀式
の内容も目的も変化してきていると思います。その原動力の源は、いわゆ
る団塊の世代であり、その意向を受けた子供達だったと思っています。
戦後教育を受け、多様で合理的な考え方をしていたけれども、様々なしが
らみと若さゆえにできなかったことを子供達にさせてきたように思ってい
ます。
この団塊の世代が葬儀を迎えるとき、仏教を取り巻く環境は、大きく変わ
ると推測しています。その意向を受けて、それをするのは、今の四十台の
人達でしょうか。
今、東京において、葬儀をしない直葬は約三割と言われていて、まだ少数
派ですが、そのころに多数派になると推測します。それに伴い、お墓のあ
りようも大きく変わるとするなら、お寺社会も変わるしかなくなる。
私の父は大正生まれで、生前にどれほど話合いをしても、その死生観を変
えさせることはできなかった。したがって、遺言に従い、できるだけのこ
とはしていくけれども、自分が死んだ後は、それを子供達に引き継がせる
つもりはありません。
今の日本のお寺社会がどうなろうと、二千五百年の間、消えることがなか
った仏教の神髄はこれだと思えるようなものを淡々と伝え続けていただき
たいと思います。
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尊敬 (ノリィ)
2018-10-14 12:01:00
『尊敬』という言葉が出ましたが、これまた良いキーワードだと思います。
その人が何故尊敬されるべきか。
「指導者と信者」という関係を作るなら重要な事じゃないですね。

生活していると人から何かを指摘されると腹が立つもんです。
特に尊敬していない人から偉そうに言われると(笑)
腹が立つのは指摘が的を得ているからだったりしますが。
でもこの人には言われるのは嫌だ、みたいになりませんか?

例えば『永平寺で○年修業した』って尊敬に値することなのでしょうか?
『修業』と『苦行(シゴキ)』が一緒になっていて、それに耐えたから偉いってのが
世間一般の評価な印象があります。
シゴキに耐えたから偉い、みたいな。

私たちが正師を求めるとき、何を以ってその人だとしましょうや。
まあ、語る言葉から判断するしかないですかね~。
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無神経とは、この方のことかも (Z)
2018-10-14 08:00:30
自称救世主のコメントは偏った事例から一般化し飛躍して論証したつもりの老人の愚痴
「取るに足りないコメント」の一つの例として貴重ではあるが、いささか食傷気味の感も
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釈尊は「自分の死」を問題にした。「自分」とは何か? (イエスちゃん)
2018-10-14 07:00:09
釈尊は「自分の死」を問題にした。
そして、その「自分」とは何か?

今『正法眼蔵随聞記』を、読み直しているが、
「直ぐに死ぬということに、気が付け」と強調している。

「観・無常の仏法」なのです。

最大の課題は「死」なのです。

他方、キリスト教は、死ではなく「生」なのです。
死は「神から永遠の命を授かる」で解決されている。
だから、最大の課題は「どのように生きるのか」なのです。
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Unknown (Unknown)
2018-10-14 06:25:11
優れた資質を持った釈迦が優れた教育をうければ、
その後の人生の過程に於いて、
何を思ったか突然出家したとしても、
僧侶界で持ち前の優れた資質を発揮して
僧侶界のリーダーとなって他者を束ねていける。教えは永遠に生き残る。

優れた資質はなくて、教育環境も悪ければ釈迦的悟りも、後代の仏教も生まれなかった。

釈迦が小さな一国を50年間だけ救うのと、
全世界の心ある民を既に2500年にわたって救い続けるのとどっちが正解なのか。

有神論ではそれを神の啓示といい、仏教ではそれを縁起と言う。
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釈尊はパンを与えなかった (イエスちゃん)
2018-10-14 06:21:43
インドは、今も「昔も」、貧しい人は周りに無数にいた。

しかし、釈尊は、誰一人として「パン」を与えなかった。

昔、インドの中央部・世界遺産「サンチーの仏教遺跡」を巡礼した。

(安いツアーだったから、すべて、普通の鉄道で移動した)

その列車を待っているプラットホームで、人がどたっと倒れていて、死にそうになっていた。
ハエが、目尻の濡れた部分に、集まってきているのに、追い払う力もない。
ぴくともしなかった。

周りのインド人はみな完全に無視していた。
まるで存在しないもののようだった。

数年前に、個人旅行で、南インドのヒンドゥー教の寺院の巡礼を計画した。
(イスラム教の影響のない世界を求めて)

マドライの本当に中央部で、
(朝早く、散歩していたのだが)
最高裁判所の近くの「大通り」で、
その大通りの車道で、老女が寝ているのである。
大きなシーツの塊があり、その中で、老女が寝ているのである。
つまり、ホームレスなのである。

日本では、想像できない貧しさが、
インドでは、日常生活、見えるところにある。今でも。
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Unknown (朝寝坊)
2018-10-14 05:30:28
「取るに足りないコメント」そういう認識が必要なのですね。あの自称救世主の偏った事例から一般化し飛躍して論証したように思っている独断性が不快感の源か、なるほど、納得できます。やはり老人の愚痴「取るに足りないコメント」の一つとして院代も捨て置くコメンターの群れの一人
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レッテルごときに惑わされない (大日方)
2018-10-14 04:42:02
>社会で適合できないなら、教団では更に適合できないかもしれませんね。衆生を救う立場の世界ですから。

私は全く反対の見方を取ります。社会に適合できる人は上手くやっているのだから、教団がそういう人に関わる必要はない。放っておけばいい。社会(の提示する価値観、生き方、役割など)に適合できないから、悩み苦しむ人々がいる。彼らを救う、「ともに寄り添い、ともに歩む」には、同じように社会に適合できず「生きづらい」と思っている人の方が向いていると思います。

逆に、教団が社会に迎合して、悩める人々に対して世情に同調するように圧力をかけるようでは、それこそ世も末です。

そもそも仏教者たるものが、「社会的不適合者」ごときレッテルに過敏に反応するというのは如何なものでしょうか。「社会不適合」を否定的な意味で使う人がいたら、「君の言う社会って何?」「なぜそれに適合しなきゃならないと思うの?」と返すのが常道ではないでしょうか。

>釈尊がお城で暮らしている時は
>何を遣っても一番出来が良かったそうだし、
>リーダーとして優れた才能を持っていた。

その論で行くならば、お釈迦さまは王子だったのですから、文武に精進し、国を良く治め、人心を安らげるのが筋でしょう。

ところが、お釈迦は全てを投げ出してしまい、その生涯のうちに国は滅ぼされた。リーダー云々という価値観からすると、この結末はどう評価されるのですか?
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D’autres ・ l’autre ・ (榮久)
2018-10-14 03:41:05
ご承知かも知れませんが「私は一個の他者なのです」とはアルチュール・ランボーの言葉
実存主義の中で好んで使われた言葉として、
もともとフランス語にあった l’autreが特別な意味付けの哲学用語として他者という訳語にあてた、
ということであるらしい。

「人」。そこにいて、目では見え、手で触れることもできる人。
だが、その人そのものをどうしても掴みとることのできない人というもの。
私たちは完全には分かりあえない。それはあたりまえのこと
他人の言うことがすべて完璧に他人に伝わるということもない。
しかし、不完全ながらわかりあえるということも、ありえる。
勿論、取るに足りないコメントは除くが。
「考えは人それぞれ」で終わらせると、自分の考えを深めることも、改善することもできない。
分かりあおうとする努力、それを支える言葉の力。

論理展開の基礎は、根拠は、循環論法ではないか、偏った事例からの帰納になっていないか。
国語、文章力が問われるのもコメントの見方でもある。
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Unknown (Unknown)
2018-10-14 02:14:04
おおお、
「無悟宗」とは最適な名称。
採用決定。
賞金還暦万円は同集団に寄付させていただきます。
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小林賞の後 (Unknown)
2018-10-14 00:42:59
今度は、ノーベル賞を取って下さい。
 
本庶佑さんは、まだ76歳なんですから、南さんはイケイケですよね。
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Unknown (Unknown)
2018-10-14 00:32:37
>飢えて死にそうな人に座禅を勧めるよりは、まずパンを与えるべきでしょうね。


ここは、パンではなく乳粥にしてね。

こうやって、仏教に超越が侵入してくるよねー。
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Unknown (Unknown)
2018-10-14 00:23:07
>お寺では「住職」「方丈さん」…と尊敬される存在。


尊敬するのは、お大師様になられた後でよい。
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Unknown (Unknown)
2018-10-14 00:17:42
>超宗派勉強会で、若き僧たちは何を語ったのでしょうか?


「超越と実存」じゃないでしょうかね。

超宗派ですし
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削除を考える人 (Unknown)
2018-10-14 00:12:35
自己顕示欲の塊かァ~。
アルアル!!
コテハン付けてね。
返信する
良き論点 (ノリィ)
2018-10-14 00:07:21
>単に、困っている人を助けるのならば、慈善団体の方が専門である。
イエスちゃん、記事と関係ない知識を垂れ流すのは相変わらずですが、
たまに良い論点を提示されます。

飢えて死にそうな人に座禅を勧めるよりは、まずパンを与えるべきでしょうね。
ただ、人はパンのみで生きるものではない。
とはいえ、大日方さんも言及された通り
無思慮に禅指導のための施設を作ったところで、
時ならずしてセラピービジネスに成り下がるだろうなあとも思います。

超宗派勉強会で、若き僧たちは何を語ったのでしょうか?
気になりますね。
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一緒に考える人 (Unknown)
2018-10-13 23:52:18
遺影は、「考える人」で撮影された菅野健児氏の写真は如何でしょうか。

よく撮れてますよね。


あ、笑ってない方です。念のため。
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そうだな~ (Unknown)
2018-10-13 23:23:17
その時は、無悟宗としましょうか。

南大師様か~

お仏壇のどこに奉ればよいでしょうね。
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Unknown (Unknown)
2018-10-13 23:15:48
「まともな知恵が出ない」とか、もう修行を止めたかのようにも見えるのですが、引退するおつもりなのでしょうか。


乗り切ってもらうとか
期待するだけとか
精進を祈るばかりとか

何だか丸投げしているみたいでもありますよね。出家した還暦の先はこうなるのでしょうか。

変わるとは?
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化膿性蟻妄想 (Unknown)
2018-10-13 22:59:23
まあ
キリストも自分で宗門(キリスト教)を開いた訳では無いし
釈迦も自分で宗門(仏教)を開いた訳では無いし、
後になって後進が親分を担ぎ上げて勝手に固有名称を創り出すケースは往々にしてある。

南さんも死後何十年もすれば、南教も立派に南宗としての信仰対象となって、
独立した仏教宗派に(後進によって)担ぎ出されてるかも・・
南宗宗徒は毎日欠かさず、南大師の遺影に向かって朝・昼・晩の三回礼拝し
その都度、著作の一節を読経する・・

その時にはすでに、
南大師様は常に宙に浮きあがっていたという言伝えが出来ている。遺影からは後光が射してくる。

逆に言って、
生きてる俺様は偉い特別人だからと、
自ら自分名称をグループに付けて、俺が宗祖だと主張する方がおかしいという見方もありえるかも、
それじゃあ、ただ単なる自己顕示欲の塊じゃあね~か、
営利目的の会社設立じゃああるめ~し・・とか。
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プロの宗教家とは、死の決着がついている人 (イエスちゃん)
2018-10-13 22:49:25
「プロの宗教家」とは、「宗教指導者」とは、「人から正師と呼ばれる人」は、
死の決着がついている人。

少なくとも日本曹洞宗においては。

お寺では「住職」「方丈さん」…と尊敬される存在。

だからこそ、現在社会で、尊敬される。

単に、困っている人を助けるのならば、慈善団体の方が専門である。
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Unknown (Unknown)
2018-10-13 22:12:37
60歳という年齢的区切りにどれだけの根拠があるのかは別として、
現場をなんとかするのは現場にいる人間にならざるを得ない、とは思います。
彼らに頑張って貰うしかない、というのは、
少子高齢化が進み、檀家制度がどのようにしてか機能不全を丸出しにした社会において、南さんはもう現場を預かっていないだろう、ということなのでしょうかね。
(…でも私は、南さんはもともと現場の人ではないよな…と思っていますが。)

現場の荒波をかぶることができなくなったとしても、現在の60歳があと20年30年生きることはあり得ること。
20年30年後の現実を生きるのはその時点での今の南さんの年齢ぐらいの人達だけということでもなく、
80歳には80歳の、90歳には90歳の、その時がある。
…そっか、今の40歳とかが20年後に今の南さんの年齢になって、「もうまともなことは考えられないから」とか言いだしてしまうかもしれないですね。

いえ、まともな知恵がどんなものか、私にはわからないのですが。
「このお坊さん、好きだな」と思う人がいるのですが(たぶんアラフォー)、彼は「まともなことを考えている」つもりがあるんだろうか?とかも思う。

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Unknown (Unknown)
2018-10-13 20:14:03
その島田さんって、オウムと関わりがありながら、見識に疑問を持たれていた人でしょうか。

当時の祖師方が、後進の人達に勝手に宗門を開かせ作らせた、とは考え難いのですがね。
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Unknown (asano)
2018-10-13 18:29:35
宗教学者の島田さんが言うには、道元や親鸞本人は、宗門を開いてはいないようですよ。後進が勝手につくったようですよ。

果たして、仏教を日々の生活の中で、考える視点をもち、実践できる、する人はどれくらいいるのでしょうか。また、必要な人も多くはないと思います。
私は、南さんの考え方は、他にもこれまで触れてきたものの中で、一番説得力を持ち、私を動かします。
ただ、今、意識して使うことは
ありません(身についたのか?)。
結局、日常をやり過ごして終わりなのです(それも大変ですが)。
日常や生きることの無意味さ、どうせ死ぬのに生きる矛盾。
これは、仏教の限界というか、やり過ごす仏教、、これが指し示せる限界なのではないでしょうか(いや、一切皆苦なのだからそれで十分なのかもしれないが)。
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供養に来られたお婆さんへ。 (Unknown)
2018-10-13 16:35:24
無事に帰れましたか?

御気持ちは察しますが、怪我でもしたらありがてくない話になりますよ。強風の日に出歩くのは危ないですので、あまり無茶しないで下さいね。

ありがてえ話で終わって何よりです。
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Unknown (Unknown)
2018-10-13 16:16:44
現代にも数多くの優秀な僧侶はいるはずだろうに、転換期を迎えても、伝統教団を脱した新たな教団が生まれないのは、どうしてだろうか。

黒歴史ではあるが、あのオウムでさえ宗教法人を立ち上げた、ということは、リーダーになりえる僧侶がいない、ということを認めざるを得ないだろう。
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Unknown (Unknown)
2018-10-13 15:52:17
釈迦さんに見習い、日本では空海さんを始め、親鸞さんや道元さんなどの祖師方は、世間でいうところのかなりの事業家だったとかと思いますね。

鎌倉時代の転換期を切に感じている南さんであるなら、そろそろ事業を始められても宜しいのではないですかね。

大切な事を守る為にも。
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Unknown (Unknown)
2018-10-13 15:46:02
厄介者であったとしても、出家後にどうか?ということが重要なんではないですかね。
修行もせずに、只の乞食として教団に居続けられたのか?これも疑問ですね。
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Unknown (Unknown)
2018-10-13 15:22:47
釈尊がお城で暮らしている時は
何を遣っても一番出来が良かったそうだし、
リーダーとして優れた才能を持っていた。
だから仏教団を結成できたし、大々的に活動できた。
弟子にも優秀な人達も居たろうし
社会不適合者って言う言い方は、はなはだおかしくないかえ??
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Unknown (Unknown)
2018-10-13 14:37:20
社会で適合できないなら、教団では更に適合できないかもしれませんね。衆生を救う立場の世界ですから。

「社会不適合者」と表現するのは、可・付加が問題となりやすく、誤解を招きかねませんので、それは適合しない言葉となるでしょう。
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Unknown (Unknown)
2018-10-13 14:17:49
宗教「法人」だから、宗務庁?か何かが各お寺から巻き上げて、法人税は払ってるのでは?
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「宗教家は、税金を払わない」理由は、何なのか? (イエスちゃん)
2018-10-13 13:32:42
『僧籍を「職業」として考えるとか、
お寺を「事業」として考える…』

「宗教家は、税金を払わない」理由は、何なのか?

それは、
「職業」ではなく、
「事業」ではなく、
「仕事」ではないから。

宗教家の「自覚」とは何か?
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Unknown (おらだ)
2018-10-13 12:13:56
この世界の「適合」なんてえのはあ、ワッハッハさあ。とてつもなく切ないんさあ。
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歴史的「事実」を知る必要があります。 (イエスちゃん)
2018-10-13 07:15:52
『お釈迦さまがいた頃の出家者の服装は、「糞掃衣」…』

歴史的「事実」を知る必要があります。

これは「捨てられた布」が材料であり、
「人々が欲しいという欲望から解放された布」です。

「死体を巻いた布」「血に染まった布」「糞にまみれた布」…

これらを奇麗に洗ってから「まだ使用できる部分」を切り取り、この「小片の布」を「膨大に」継ぎ足して、パッチワークで、「ようやく・衣の大きさ」にしてから、着たり、寝るときは布団にしたりして、利用したものです。

だから、最後に、全体を、元の汚れが見えないように、カーキ色に染めたのです。これが「袈裟色」です。

インド人は、「広い」「一枚の」「大きなサリー」を着ているでしょう。
他方、袈裟は「継ぎはぎ」なのです。
これでは、誰も盗もうとする欲望をもたない。
「清浄な布」なのです。
勿論、非常に清潔です。沐浴を大切にするでしょう。同じことです。

若いころ、岩波文庫『正法眼蔵』の水野弥穂子先生の大森のご自宅に、袈裟を縫いに2年ほど通っていましたが、その会員の人が、さまざまな「端切れ」で「大きな袈裟」を縫い上げ皆に披露していましたが、とても美しいものです。
そして、袈裟色には染めないでしょうね。
水野弥穂子先生はその会で『袈裟功徳』の巻のエッセンスを話してくださいました。
ご自分で現代語訳もなさっています。

道元和尚はこの袈裟に非常に感激なさいました。
大哉 解脱服(だいさいげだっぷく)
無相 福田衣(むそうふくでんえ)
披奉 如来教(ひぶにょらいきょう)
広度 諸衆生(こうどしょしゅじょう)
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-13 06:53:13
ブッダ、
ザ・スーパースター!!
世界でただ一人の悟りを実現した人!!
衆生の憧れのマト!!
神にも等しい偉大なお方!!
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-13 06:32:53
>「社会に適合できなかった」

御説に一理はありますが
視点を変えた見方をすれば
釈迦は大変高潔な覚者(悟りびと)として世俗の尊敬を一身に集めていた。
周りの王族の人も一目も二目も置いてい釈迦を敬(うやま)っていた。
講演会をすると、南さんケースの千倍以上の聴衆を集める事が出来た。
釈迦は僧侶界において
偉大な教師として、立派に社会に適合していた。
という事になりますね。
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共同幻想からの解脱 (大日方)
2018-10-13 05:04:59
博識のイエスちゃんさんに反論するのは、やや勇気が要りますが、私の思うところを述べてみます。

まず、お釈迦さまがいた頃の出家者の服装は、「糞掃衣」という言葉あるくらいですから、我々が「乞食」という言葉からイメージする格好に近いと思います。

「修行者」に「お布施」と言うか、「乞食」に「施し」と言うか。言葉の選択には気を使わねばならないのかもしれませんが、自らは生産活動に従事せず、他者から無償で生産物を提供してもらい生活するという経済的立場はどちらも同じです。

以前このブログでアングリマーラの話が紹介されていましたが、お釈迦様の弟子となった、連続殺人犯アングリマーラや人喰い魔アラバカなどは、社会からゴロツキ、厄介者としてみなされたでしょう。これらの話がどこまで史実を反映しているのかわかりませんが、お釈迦様の弟子に、社会から厄介者と見なされた人間がいたというのは、突拍子もない想像ではないと思います。

お釈迦様は、物見遊山や趣味が高じて出家したわけではないでしょう。社会が提示する価値観とか道理の下で生きるのは、たとえ王子という恵まれた環境でも耐えられなかった。どうしようもなく出家したのでしょう。それを私は「社会に適合できなかった」と言うのです。

社会に適合できないのは、悪いことではない。社会の価値観や道理なんてものに絶対的な根拠があるわけでなく、歴史の事情と権力者の都合で「こうしよう」と大勢が決めたことでしかない。根拠のない「こうあるべき」という共同幻想を共有できるか、できないか。社会に適合するしないは、その違いだけ。

しかし、根拠のない共同幻想によって世の中は動いている。「世間虚仮」とはそのことを指していると思います。共同幻想を虚仮と見ることのできるのが、仏教の強みであり肝ではないかと思います。私が偉そうに言うことでもないですが、自給自足をして立派な社会の一員になるよりも、乞食をしてでも共同幻想から解脱するほうが、仏教徒にとっては重要なのではないでしょうか。

僧籍を職業として考えるとか、お寺を事業として考えるのは、今日の社会では当然のことで、何一つ悪いことはありません。ただそれに気を取られてしまうと、「世間虚仮」という視点には至らないのではないかと思います。
返信する
Unknown (Z)
2018-10-13 05:04:07
朝寝坊さんに一票! もう一歩もうひと押しのご支援を! うんざりコメント自粛のご支持を!
返信する
インドで大乗仏教が興るが、比丘戒を変える必要がなかった (イエスちゃん)
2018-10-13 04:43:06
インドで大乗仏教が興るが、それまでの「比丘戒」を変える必要がなかった。
つまり、僧侶の生活そのものは、所謂、小乗仏教から変える必要はなかった。
(だから、一緒に生活ができた)

中国の唐代の禅宗で「作務」「自給自足」が興った。
それまでの仏教の「パトロン階級」が、全て没落したので、
中国では「禅宗」と「浄土教」しか残らなかった。
(パトロンなしで「自力で生きていた」から残った。逆にいえば、生き残るためには、自給自足する必要があった。)


そして、その「禅宗」も「念仏禅」にと融合していった。

だから、中国では、多くの他の宗派はそのパトロンと一緒に消滅していった。

インドでは、パトロン階級の崩壊に対して、
民衆に養ってもらおうとした。
そのためヒンドゥー教の要素を大量に導入して「インド密教」にと変わった。
しかし、そのため、ヒンドゥー教と同質に変質し、ヒンドゥー教に埋没して、インドでは「仏教」が消滅した。
返信する
コメント政策など (桂蓮)
2018-10-13 03:55:29
朝寝坊さんに一票

そうすると、
イエスちゃんサポーターから
忽ち反論され、嫌味を言われそうですけどね。

因みに
ここアメリカでは
トランプ支持者≒嫌われ者みたいな風潮です。
トランプに投票したとのジョークがありますが、
その隠れ意味は
①人の不道徳な品性を善しとする
②金至上主義者
③税金払いたくない
④ビジネスで潰された人は弱いからだ
⑤人の評判など気にしないエゴイスト
④アメリカが最高だ
⑤金持ちの百人が一番
などの傾向がある人に対して使う新ジョークです。

この私論で反論する人は
トランプ支持者扱いされて
もう戦争並みになりかねます。

今、アメリカは
トランプ支持者と反トランプ派が
南北戦争みたいになっています。

記事関連でなくて
管理者の機嫌を損ね削除されるかも知れませんが、
削除されるまでは
読んだ人の記憶に残るでしょうね。

ここのコメント欄に
誰かを支持するしないなどの
政策系で汚れないないことを望んでいながら
それを煽るような結果になっていますが、
がしかし、誰かに煽られている現状を指摘するには
記事無関係のコメントにどうしてもなってしまいますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-12 23:57:46
「愚かなる 心一つの 行く末を 
六つの道とや 人のふむらん」


ふむらん。
返信する
曹 洞 宗 宗 歌  (Unknown)
2018-10-12 19:29:34
 
花の晨(あした)に
片頬笑(かたほえ)み

雪の夕べに 臂(ひじ)を断(た)ち
代々(よよ)に伝うる 道はしも

余所(よそ)に比(たぐ)いは 荒磯の
浪(なみ)もえよせぬ 高巌に
かきもつくべき 法(のり)ならばこそ
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-12 18:30:13
ハゼさん来なくなったけど、御自愛されてるんかな。

朝寝坊さんも、御自愛してね。
返信する
Unknown (朝寝坊)
2018-10-12 17:43:18
自らイエスと騙る方のコメントに反応してはいけない。あれは自分のブログが不評でコメント数が少ない事が原因の投稿に過ぎず、ただのコペピコメント、院代のコメントから二日か三日間あちこちのネット検索で寄せ集めた文章を切り貼りしているコメントでしかない。決して自らの意見ではない、もし違うと言うなら反論し根拠を示して欲しい、自説の押し売りは迷惑で老人の愚痴は自分のブログでして下さい。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-12 17:35:31
「だから、釈迦の承認なんて意味が無いことになるでしょう。
いずれにせよ、釈迦の承認を気にするのは、ナンセンスだと思いますよ。」


桂蓮宅で、まだこんなことを言う人を見かけましたが、承認あっての仏教ですよね?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-12 17:06:19
>「一日作さざれば一日食らわず」、出家者にとって労働は一番重要な修業とし、労働しないなら食べることは出来ない。


釈迦は、出家者は労働しちゃいけないってこと(それも修行)だけど、百丈和尚は自給自足はOKとしたのかな。

それが一番重要なら、わざわざ出家しないでも、農家で労働して食べればよくない?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-12 17:06:18
>「一日作さざれば一日食らわず」、出家者にとって労働は一番重要な修業とし、労働しないなら食べることは出来ない。


釈迦は、出家者は労働しちゃいけないってこと(それも修行)だけど、百丈和尚は自給自足はOKとしたのかな。

それが一番重要なら、わざわざ出家しないでも、農家で労働して食べればよくない?
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イエスちゃん怒んないで。 (Unknown)
2018-10-12 16:32:41
>お釈迦様の頃の教団というのは、社会に適合できず、施しにより生きながらえている人達だったと思います。


これは違うよね。釈迦自身、家柄もよろしく王族のお坊ちゃんだったらしいから、跡も継げた訳だし、施し受けずとも生きられた訳だしね。

そして、親族や裕福な人なども、次々に出家させていたんだよね。

中には、邪道な修行者もいたかもしれないけど、それでは意味もなく、志低ければいずれ逃げ出すだろうし、逆に改心した人もいただろうけどね。
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心底そう考えているのか! (イエスちゃん)
2018-10-12 15:36:28



『しかし、仏教では事情が違う。
お釈迦様の頃の教団というのは、社会に適合できず、施しにより生きながらえている人達だったと思います。
言い方は悪いですが、乞食と厄介者の集まりのようなものでしょう。』

洞山良价禅師
(とうざん りょうかい、807年 - 869年)
の下では、修行僧が500~1000人に達したともいう。

こんなに大勢では、托鉢では暮らせない。
「作務」で「自給自足の生活」を送った。

百丈による教え。
「一日作さざれば一日食らわず」、出家者にとって労働は一番重要な修業とし、労働しないなら食べることは出来ない。

そして、必死に「生死の問題」を追及した。

この「生死の問題」は(人間である限り)現代人も同じである。と考える。

だからこそ「仏教」は貴い。と思う。
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「明治のシステム変更」⇒僧侶・出家者が「在家」になってしまった問題点を直視せよ。 (イエスちゃん)
2018-10-12 08:19:10
要は、江戸時代までは、徳川幕府が法律「寺社諸法度」で、「僧侶の結婚を禁止」していた。

だから、(自分の子でない)弟子を育てて、その中から、「志の高い」「優秀な者」を選んで、「自分の跡継ぎ」にした。
「老いたる」師匠が「自分の宗教生命をかけて」「若い」弟子を選んで、抜擢していった。

また、寺院も「個人の私有物でない」から、次々と移っていき、最初は「小寺」でも、能力によって「大寺」に移っていった。

これは「出家」だから、「子供を造らないから、実現できるシステム」だった。

しかし、この「禁止してきた徳川幕府」がなくなると、(曹洞宗を考えると)僧侶が「在家」に戻って、結婚し子供を作った。

お寺が私物化され、「その僧侶の子供」がそのまま継いで所有するようになった。
もしも、他の僧侶が来て、その寺を継ぐと、老いた両親がその寺を出なければならなくなるシステムでもあった。

ここで、前代未聞の、
「わたくしのもの・寺・子供…」
執着するものが、結婚「在家」で、できてしまった。

子供の方は「いやでも、親に説得されて」、僧侶になって「その寺」を継ぐようになった。
宗教者として「志がない者」が寺を継ぐことになる。

他方、如何に優秀であっても「大寺」に移って継いで、大きく宗教活動ができないことになる。

「出家」者が、「在家」になって「子を産む」、このシステムの変更は大きい。

他方、キリスト教の方は「志のある者」が牧師となり、また、教会も「牧師の私有物」でないから、その牧師の子供が継ぐわけではない。
カトリックでは「出家」であり、一生涯「独身」である。

明治維新後、宗教は自由となり、「自律」組織になったときに、
「出家」を止めて「在家」にシステムを変えた、その原動力は何なのか?

それは「宗教改革」「宗教運動」なのか?
それは、どのようなテーゼなのか?
僧侶には、これへの「説明責任」がある。

宗祖「道元和尚の教え」とも乖離してくる。
それとの整合性はどうつけているのか?

ここには、ごまかしがある。後ろめたさがある。と感じる。

これを正視する必要性がある。
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なぜ仏・法・僧を敬うのか (大日方)
2018-10-12 05:29:24
>定住禁止、就職(就業)禁止、自炊禁止、セックス禁止、プラス、~~、~~の戒律の全てを行え??

戒律を厳密に守るといった原理主義は、やめた方がいいと私も思います。戒律は、その土地と時代の背景に合わせて決められたもの。なぜそう決められたかを考えるのは大事かもしれませんが、今日それを一字一句従うことに意味があるとは思えません。

私が思うに、仏教の強みというのは、文化とか価値観といった社会の共同幻想を共有しない視点を持てること。しかし、寺や教団の一次的な目的が、家業を継ぐとか組織防衛などと一般社会と同じ様になっては、そういう視点は持てないだろうと思います。

回りくどい話になりますが、一神教のように神とか真理なるものがあると想定するのなら、そういったものとの繋ぎ役である聖職者が、社会的に高い地位を得るのは分かります。しかし、仏教では事情が違う。お釈迦様の頃の教団というのは、社会に適合できず、施しにより生きながらえている人達だったと思います。言い方は悪いですが、乞食と厄介者の集まりのようなものでしょう。その教団の構成員である出家者が、社会から疎んじられるどころか、敬われる存在になったのはどういう訳でしょうか。

もちろん仏教が伝わった土地でのそれぞれの事情があるのでしょうが、根底にあるのは、社会に適合できない、つまり共同幻想を共有できないが故に持ちうる視点があり、そこから得られる知見が社会に有用で重宝されたからではないかと想像します。そう考えるならば、「修行」というのは、知識を積むとか精神を鍛えるといったことだけではなく、共同幻想から自らの思考を外すためのプロセスと言えるのではないでしょうか。

社会と共存していくためには、お坊さんが社会の共同幻想から完全に離れるというのは無理な話です。しかし、それにどっぷり浸かっているようでは、一般社会と同じように悩むことはできても、たいした智慧は出ないと思います。
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欲望とは? (Unknown)
2018-10-12 05:11:52
簡単に言えば、バカ。
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被支配 (榮久)
2018-10-12 05:06:09
檀家制度は、特定の寺への隷属に伴う上納金と拘束を受け入れ、その寺の経済的な裏付けであり見返りが
祖先の墓守やらを主として続いてきたが
1970年代、田中角栄首相の列島改造と称する資本経済の強化が自家用車、マイホームと欲望拡大策に乗せられてきた結果人口流動化と
また都市部への流入とそれに伴う住居の増加、バブル経済への発端であり檀家制度が揺らぎ始める要因にもなった。
大家族からの分離分散、故郷を出て就学なり就職してそのまま帰省せづに分家ともいえる住まいが増え檀家意識も希薄化し形骸化し
檀家制度の崩壊へと向かうし、この流れを止めることは出来ない。

わかってわからない自分、見えて見えてしまわない意識、支配できて支配できない生存、人間というものの一生にわたる不確定さ
意識の海の中をたえまなく泳ぎつづけることが「いる」ことの中身であろう
人は誰も、他人の意識の場にはたてず、自分の意識の場だけにいる
「愛憎違順」が、個人と個人の間以上に、集団と集団の間、民族と民族の間、国家と国家の間、文明と文明の間、宗教と宗教の間など、
さまざまなレベルにおいて、しかも、さらに立派なタテマエをかかげてエスカレートしてゆく
一人一人の欲望の対象を追いかけて生きていて、それら何人か何十人か何百人かの一人一人が作りだす、目には見えぬ流れが、
たえまなく合流したり分流したりしながら全体として大きな濁流を成している。

さて、欲望とは
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Unknown (おらだ)
2018-10-11 22:42:09
ないがままに生きるんさあ。
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パラダイムシフト (Unknown)
2018-10-11 19:58:57
「原ぬるに夫れ道本円通争でか修證を仮らん」


前回の記事からしても、南氏の厚い思いが観ぜられます。
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Unknown (Unknown)
2018-10-11 17:55:09
>現代において、生き残る事の出来る、
有るべき仏教の姿は何かと言う考察、
教団がそれを充分覚醒してるのかという疑問、ということでしょう。


ですがその前に、思い切った発言ができないから、わざわざ恐ろしい山まで行かれるんでしょ?
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Unknown (Unknown)
2018-10-11 17:51:17
>ムリを通せば道理が引っ込む

はは・・
なかなか痛いツッコミですね

そうなると・・
思い切った発言もムズカシイ

となるワケかな
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桂蓮さんグッジョブ! (Unknown)
2018-10-11 17:32:06
早速、南和尚の写真を壁紙にしました。
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桂蓮さん、ありがとう (Unknown)
2018-10-11 17:22:16
最新の情報提供、ありがとうございます。早速2度も読み返しました。
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Unknown (裸のキヨシ)
2018-10-11 14:30:38
>だから言語で言語を裏切り続けなきゃいけないでしょうね。つまり結論めいたものが出たら、その結論をさらに裏切って次に進まないと。
つまり、「60歳以上はこうだ」などと言い切らない。言い切らないで、余りを出し続けるという作業が必要になるでしょう。<


言い切らないんだな。
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Unknown (Unknown)
2018-10-11 13:29:28
おっ
新○社もマトモな雑誌で名誉挽回

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南直哉師インタビュー (桂蓮)
2018-10-11 12:42:08
受賞インタビュー
「思想には仏教と仏教以外しかない」

http://kangaeruhito.jp/articles/-/2627

2018年10月10日

私のメールマガに送信されていたので
コピペしておきます。
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Unknown (桂蓮)
2018-10-11 09:31:26

『過剰な本音は人間関係を破壊し
 過剰な建前は個人の心を破壊し
 過剰な自己保守はおのれの墓石』
核心を得てますね。
(的を得た)

追加
 過剰な自意識は己を中で破壊し

 過剰なコメントは記事を破壊し

 過剰な礼儀は信頼関係を破壊し

 過剰な削除は正直意見を破壊し

 過剰な知識偏りは感覚を破壊し
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ムリを通せば道理が引っ込む (Unknown)
2018-10-11 07:26:57
>お釈迦様の教えとは齟齬をきたす
・・って何でしょう。

定住禁止、就職(就業)禁止、自炊禁止、セックス禁止、プラス、~~、~~の戒律の全てを行え??

そうなら齟齬が有って全く当然で、建物・職場としての寺院運営何て到底できない(=山野で吠える乞食集団にしかなれない)。

南師、若い僧侶達に向かって曰く、
教主の釈迦はあなたにとって必要なのか、なぜ必要なのか、(或いはどこが必要でないのか)、自分の頭でよく考えろ(=既成概念を疑え)
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-11 05:37:09
>教団の問題もある・・・

それは本音だとか建前だとかの問題では無くて、
現代において、生き残る事の出来る、
有るべき仏教の姿は何かと言う考察、
教団がそれを充分覚醒してるのかという疑問、ということでしょう。
建前だ、本音だとかの葛藤とは多分、別だとおもいますが・・
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葬式仏教は必要 (大日方)
2018-10-11 05:31:09
葬式仏教とお寺を揶揄するのは、筋違いだと思います。

葬儀というものを必要としている人がいる以上、それを司るのは大事な役割。一般の人が仏教を法事の時以外に必要とせず、まとまったお金をお布施することもないのなら、お寺は法事をやるしかない。

私は、宗教法人の税制上の優遇措置は全てなくすべきで、それで廃寺となるところはそれで仕方がないと思います。もし、お寺に地域の集会所や公園、もしくは災害時の避難所という性格があるならば、そういうお寺に自治体が補助金を出すべきという議論は成り立つと思います。しかし、基本的には檀家やお寺を大事と思う人が、お寺の維持運営の負担を覚悟するべきだと思います。

と書いた上で思うのですが、果たして、お寺と住民・信者の関係というのは、法要というサービスを提供する事業者と消費者、もしくは公共サービスと納税者という経済関係に縮小されてしまっていいのでしょうか。「それでいいのか」というよりも、それ以外に何か違う関係があるのかどうか。そういった関係があるのならば、大事にすべきこともあると思いますが、それがないお寺の将来は市場原理に任せていいと思います。

人をお寺に呼ぶという目的で、「禅センター」のようなものを開くのは、安直にはしない方がいいと思います。まず、「何のために禅をするのか」をはっきり説明できる人がいるのでしょうか?もし坐禅が「健康法」というのであれば、それなりの効用を実証できる形で示さないと、インチキ医療と同じになってしまう。お寺の敷居を下げるのはいいと思いますが、お寺や教団の維持のために坐禅を使うのは本末転倒だと思います。

私が思うに、今日の日本での寺の存続とは、親から子へと「家業」を続けることであり、教団の存続とは組織保全という官僚主義のこと。それらが一概に悪いとは思いませんが、それが主目的になると、どうしたってお釈迦様の教えとは齟齬をきたすことになると思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-11 03:46:46
基本的には自分の問題なのでしょうが、ここでの問題は僧侶が「言えないこと」から、教団の問題もある、ということですよね。

一般人とは違い、法を伝える立場としてどうなのか?、ということです。
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Unknown (Unknown)
2018-10-11 03:28:43
>「・宗派には建前が蔓延」

該当する当人達はそれを「建前」だとは思っていない。
彼等は、それが当然で自分が正当だと思っている。

建前だ、本音だと自他を分別する人は
自らが葛藤のど真ん中にあって、
自分の不誠実さに悩み、他者をも非難するが、
結局は、あくまで自分自身の問題に過ぎないのではないか。

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塩梅2 (Unknown)
2018-10-11 03:11:04
過剰な本音は人間関係を破壊し
過剰な建前は個人の心を破壊し
過剰な自己保守はおのれの墓石
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塩梅 (Unknown)
2018-10-11 01:26:03
桂蓮さんと南さんの最新記事を読んで、他宗派には「建前」が蔓延しているのかな、と思いました。

「思い切ったことが言えない」とは、つまり本音を語れない宗門ということですが、それは仏教か?ということでもあるのかもしれませんね。

僧侶は、世俗とは違う立場ですから、思想は思想として発言できるようになるとよいですね。
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アウトサイダーが陽の目を見る日 (Unknown)
2018-10-10 23:38:01
アウトサイダーこそ、転換期に必要な素材かと思います。

思い切った御活躍を祈年申し上げます。
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Unknown (Unknown)
2018-10-10 23:02:42
教団のための僧侶か
僧侶のための教団か

ここが分かれ道かと。
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未來より今 (Unknown)
2018-10-10 22:58:21
還暦でも「やってやる😤」
ってとこを見せて下さい。

お願いします、南さん
返信する
Unknown (おらだ)
2018-10-10 21:50:10
バア様はジイ様より歳上でさね。アネ様女房いうもんでさあ、ジイ様にベタ惚れでさあね。ジイ様は戦争行かされたもんでえ恩給出たんさね。ジイ様は働きもんだったがあ、戦争行って人が変わっちまったでさ。ギャンブル三昧なったで、人にバラまいてたさね。バア様も働きもんだったがさ、稼いだ金をジイ様がごっそり使っちまうでさ、困ったもんさあ。だけんどお、ジイ様もバア様も面白いことばかり言ってなあ、人を笑わせてたさ。わっはっは、ワッハッハでさあ。
返信する
訂正 (Unknown)
2018-10-10 21:27:03
アッ、60才って死んだじい様の事だったね。
ばあさまは60前だったとして宜しいのかな??
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 21:23:28
おだらのバアさまは
亭主にズッと抑圧されてたという事ですかね。
これもDVに属するが、
熟年離婚しちゃうと経済的に困窮しちゃう女性が多いニッポンだから無理ないでさあネ。

ばあ様が60才と言う、まだこれからな時に
旦那に死者になって頂いて、
せめてもの幸運でござました。

頭の固い僧侶も
早々に死者にならしゃったら、
世の功徳となったでさあ・・・ですかね。
返信する
Unknown (おらだ)
2018-10-10 20:30:21
死んだバア様が生きてた時でさね、虚弱体質で寝た切りの日が多かったんだがあ、当時60歳のジイ様が死んだ途端にな、元気ピンピンになったでさあ。世の中、歳だけで判断しちゃいかんでさね。どうなるもんか、わからんでさあ。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 19:18:03
土に触れる機会も少なくなっていますから、菜園コースも追加。
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Unknown (Unknown)
2018-10-10 18:51:40
試行錯誤はいいけど、訳のわからない袈裟のパフォーマンスなどは不要です。

寺カフェはNiceアイデアですね。中身を充実させれば、もっと人は集まるんじゃないですかね。お寺図書館と併設したり。坐禅やヨガ、茶道や華道、作務や掃除を日替わりコース。相談は別コース。


ああ、忙しい‼
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 17:53:55
曹洞宗の跡取り住職のお寺へ行くと、Tシャツに短パンという格好で、出て来られました。

日ごろ何されているんだろう?と思わずにはいられませんでしたが、これも「思い切った格好」ということでしょうか。

ですが、もう住職の脛毛は見たくありません。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 17:41:14
思い切ったことを話されてるようですが、人生100歳時代に何だか弱気な発言ですね。

もっと肉を食べられて下さい。
寂聴さんみたいに。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 17:36:02
>問題は如何に家族に誤解されないで行けるか、なんですよ。

これはオウムのような心配ですかね。

「無常の南塾」ならどうですかね?

早く開校いただき、思い切った発言を無常のままに為されてみては如何ですかね。

南塾長!
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 17:29:12
研修に台風の秋季祭、休む間も無く座禅会、その間の夜中にブログの更新と、60歳にして八面六臂の大活躍の南さんをして、60歳以上からは良い知恵が出ないとは…。私などは60歳を前にして急激な気力、体力の衰えを感じる今日この頃です。流石の南さんでも台風にはかなわず「参りました」とのお疲れがでたのでしょうか?どうぞ、たまにはごゆっくりなさって下さい。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 16:29:11
禅には悟り執着もあるから
「道元センター」でいいと思います、はい。


なにか?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 16:19:29
次世代に、(南流)正法眼蔵を託してみて下さい。

託児所を真似て、「託禅所」があってもいいじゃないですか。

あ、待機坊主が増えたりして⁉
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 16:11:21
自殺は他殺で、他殺は自殺のようなもので、どちらも殺人者には変わりないんですよね。

動画サイトにあげるとは、自己顕示欲もかなり強いんですかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 14:18:40
YouTubeで自殺配信動画を観た。

なんでだろう。自らの自殺の動画を撮るということは、社会に対しての復讐の気持ちがあるのかな。
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Unknown (Unknown)
2018-10-10 13:52:39
南直哉は長生きしそうな気がするなぁ。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-10 13:37:05
思い切った言い方




院代が話されている時
場内は緊張で張り詰めた感じになりましたね。

院代が言っていることを
熱心にノートに書いている方もいれば、
記事でも言及されているように
真面目に質問したりする光景を今でも
鮮明に覚えています。

私は人の態度を見て
話し手と聞き手の相好作用観察に
絶えない興味がありますが、

恐山で観察された院代の
『人を鷲掴む』言い方は
草分け的な事例でしたね。

私も他の方が質問されている脇で
邪魔にならないようにして
聞いてましたが、

その時、
質問者A
応答者B
観察者C
ABCの要素がどう影響し合っているかを
気が済むまで
観察できました。

その観察の結果から言えることは
応答者Bは
質問者Aが言おうとする事柄に対して
地図的な視点から答えているが、
質問者は既知識に対しての解釈を求めている。
だが、応答者Bはそれを敢えて指摘せず、
視野の限界性を見せようとする。

観察者Cはその流れをただ見つめていただけでしたが、
今になって振り返って考えると、

院代の思い切った言い方は
聞く人の狭い視野を広げてあげる
手術のメスのような働きをしているのではと思えてきたので
私個人の鑑賞(感想も含む)を書いてみました。
返信する
Unknown (asano)
2018-10-10 12:36:53
今、居場所創りが色々と行わていますよね。
近所には、複合的な市民センターが建ちました。老若男女が自由に活動やお茶できる場所。
浄土真宗本願寺派は、京都から始まった、自殺相談センター(sotto)に場所を提供したり、協力しているようです。
禅センターいいですねぇ。
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Unknown (Unknown)
2018-10-10 03:10:50
廃寺が増えたと聞きますから、禅寺に禅センターは無理でしょう(笑)

そうではなく、原点から言えば本来、僧侶と寺は葬儀屋ではないでしょうから、思い切って檀家は無くして、全て禅センターにしてしまえばどうでしょうね。

<案として>

葬儀自体は大体、葬儀屋さんがされていますし、遺族から必要とされれば、必要に応じて執り行う、という臨機応変さも兼ね備えておく。

今後は無縁仏も増えるようですし、墓問題のように場所確保や管理も厳しい状況ですから、遺骨のあり方も墓や納骨は取り止めて、散骨や樹木葬のように、自然に還す方法に変えていく。

そこら辺もう少し、次世代にも負担のかからない方法を取り決めて、その分、禅センターに力を注ぐ。


こんな感じです。
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恐山 (独学の者)
2018-10-10 02:44:55
台風の中、秋季祭お疲れ様でした。
わたくし南さんのご著書や講演の追っかけなのですが、
今年の8月にようやく恐山を参拝いたしました。
暴風雨で雷もなっていましたが、
小雨の時に全体を歩くことができました。
なんだか慄然としつつ、初めて見たのに原風景のような安心感もあり…。
また、ここ(と福井のお寺)が南さんの日常だと思うと、
都会でご著書を読んでいるのと違う思いが湧いてきました。

若いお坊さんが、試行錯誤していらっしゃるのは、とても楽しみです。
いくつかの名刹といわれるお寺の座禅会や講話にミーハーに行ってみたのですが、
(年配の)お坊さんの話のつまらなさに愕然としました。
参加者は若い人も含めて数十人いるのに、「苦労があってこそ人生楽しい」みたいな
床屋談義で、せっかく仏教を知る機会なのにもったいない〜〜と思いました。

檀家も減って、お坊さんたちには部外者にはわからないご苦労があるのだと思いますが、
素晴らしい仏教をどうにか伝え広めて頂きたく存じます。
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脱皮 (Unknown)
2018-10-10 02:44:45
還暦世代の南さんなら、思い切った祖師のように、そろそろ「伝統」から下山して、先頭に立つ頃合いなのではないですか?

超宗派からも需要があるようですし、丁度よいではありませんか。

ノーベル賞を受賞された本○氏が「新たな道を開かれた」のように、試行錯誤にも内助の支えが必要ですし、何事もバランスでしょう。

なお、氏は76歳で、モットーは「好奇心と常識を疑うこと(簡単に信じない)」、6つのCです。

この場を借りて、おめでとうございます‼
返信する
被指導者目線 (ノリィ)
2018-10-10 02:34:14
物事の在り方を『改革』『中道』『保守』みたいに分けて
考えようと思ったんですけど、それだとまるで政治みたい。
保守は檀家制度ベース。
改革は檀家制度抜き。

最近南さんのアメリカ安居体験記を読みました。
ミネソタの禅センターは快適だったそうで。
それこそ、お寺ではない禅センターみたいな場所が増えたらどうなんでしょうね。
被指導者目線で言えば、そういう場所の方が近づきやすい気もします。
正直な話、自分の事はどうでも良いんですよ。
お寺だろうが、道場だろうが、禅センターだろうが、
行きたいものは行きたいわけです。
問題は如何に家族に誤解されないで行けるか、なんですよ。
そう考えると逆にむしろ得体の知れない場所より
お寺の方が誤解が少ない気もするなあ。

檀家制度はともかく、
弔う事、供養する想いがある以上
それに応える場所は必要なんでしょうね。
その場所を設けることにお寺と僧侶ほど適任はないんじゃないですかね。

まあそういうわけで全ての禅寺に禅センターを
併設するという方向でお願いします(笑)
返信する
センニチコウの花言葉は「変わらない愛情」 (Unknown)
2018-10-10 02:18:47
台風お見舞い申し上げます。

僧侶のあり方ですか・・・・

どなた宛に書かれているのか知りませんが、政治も権力者次第と言いますし・・・・、つまり、思い切って年金クラスのトップを解雇してみる、とかですかね?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-10 01:56:03
なぜ60歳以上は「知恵がない」などと、決め付けようとするんですかね。これも、60歳以上の人に思い切った発言ですかね。

ブッダは80歳まで、智恵を持ち続け生きられたようですから、アキラメズ、少しは期待されてもよろしいのではないですかね。


>この世代に未来の伝統教団を託す以外に選択肢がない

わざわざ託さなくても、担われていきますよ。頼もしい人達ではありませんか。

高所得の高齢者の皆さんへ!

ケチケチ貯め込まず、この若者達に、たっぷりバラまいて下さい。近い将来、あなた方を助けてくれる人達なんですから!

たぶん。
返信する
不朽 (千日紅)
2018-10-10 01:39:11
夜分に御疲れ様です。

41~59歳の方は、どうなるんでしょうか?
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