何ものかを言語化するということは、すなわち同一性を設定することです。個々別々の物体を「茶碗」と命名する行為は、それらを同一の意味で規定することだからです。これを換言すれば、概念化(=「同一」の認識)ということでしょう。
言語化・概念化は、まずは同一性の設定ですが、この行為は必然的に、言語化・概念化された当のものとそれ以外との差異性を発生させます。つまり、同一性の設定が、同時に差異性を惹起するのです。
差異性の認識は、差異性の言語化・概念化のことですから、それはすなわち「差異」としての同一性の設定ということになります。
これに対して、まさにそこにおいて最初の言語化・概念化が起こる、それ自体は非言語的・概念外的・前自意識的な事態こそ、「無常」「無我」、さらに言うなら「非思量」と呼ぶべき事態でしょうが、この事態そのものは決して認識できない(言語化できない)わけで、「同一」でも「差異」でもありません。言語に可能なのはせいぜいその事態を「指し示す」ことくらいです。
このとき、その指し示しは、「同一」と「差異」を構成する言語行為への、言語による絶えざる批判によってなされるほかありません。つまり、「非思量」的事態とは、言語による言語への批判可能性として現成しているのです。
にもかかわらず、近代科学や上座部の存在論のごとき要素分割主義は、概念化された「要素」の「同一」と「差異」の組み合わせでその「認識」を構成しているわけですから、少なくとも「非思量」的事態とは、無関係な議論になるでしょう。
すなわち、そのような存在論は不可避的かつ根本的に「無常」「無我」を誤解するのです。
たとえば、「無常」を「何もかもが絶えず変化(=差異化)する」ということとして理解(「刹那滅」的理解)するなら、「変化」という認識(概念化)が必然的に同一性を要請してしまい(「同じ」何ものかについてしか、「変化」は言えない)、「無常」でなくなってしまいます(もし「刹那滅するもの」自体が刹那滅すると言うなら、今度は刹那滅が刹那滅して、何も刹那滅しなくなる)。
したがって、問題は「変化」の認識なのではありません。その認識を成立させる言語化・概念化という行為を批判することなのです。
言語化・概念化は、まずは同一性の設定ですが、この行為は必然的に、言語化・概念化された当のものとそれ以外との差異性を発生させます。つまり、同一性の設定が、同時に差異性を惹起するのです。
差異性の認識は、差異性の言語化・概念化のことですから、それはすなわち「差異」としての同一性の設定ということになります。
これに対して、まさにそこにおいて最初の言語化・概念化が起こる、それ自体は非言語的・概念外的・前自意識的な事態こそ、「無常」「無我」、さらに言うなら「非思量」と呼ぶべき事態でしょうが、この事態そのものは決して認識できない(言語化できない)わけで、「同一」でも「差異」でもありません。言語に可能なのはせいぜいその事態を「指し示す」ことくらいです。
このとき、その指し示しは、「同一」と「差異」を構成する言語行為への、言語による絶えざる批判によってなされるほかありません。つまり、「非思量」的事態とは、言語による言語への批判可能性として現成しているのです。
にもかかわらず、近代科学や上座部の存在論のごとき要素分割主義は、概念化された「要素」の「同一」と「差異」の組み合わせでその「認識」を構成しているわけですから、少なくとも「非思量」的事態とは、無関係な議論になるでしょう。
すなわち、そのような存在論は不可避的かつ根本的に「無常」「無我」を誤解するのです。
たとえば、「無常」を「何もかもが絶えず変化(=差異化)する」ということとして理解(「刹那滅」的理解)するなら、「変化」という認識(概念化)が必然的に同一性を要請してしまい(「同じ」何ものかについてしか、「変化」は言えない)、「無常」でなくなってしまいます(もし「刹那滅するもの」自体が刹那滅すると言うなら、今度は刹那滅が刹那滅して、何も刹那滅しなくなる)。
したがって、問題は「変化」の認識なのではありません。その認識を成立させる言語化・概念化という行為を批判することなのです。
「なんでそこで『批判』?」て感じ。
生きていれば認識もするけど
認識するために生きてるわけでもなかろう、みたいな。
「間違えている」場合もあるからね。
面白いコメント
いつもありがとう。
また来てね♪
至極納得してしまう愚人的大衆!!。
そこで孤高の賢人曰く;
「無常」と「常」は差異性を現す一対語だ。しかし絶対矛盾無し的自己同一性たるべき「常」は実存しないのだから、「無常」も実存しないのだ。
此の世には「常」もなく、また「無常」もないのだ。
ただ此の世にあるのは「空」だ、
「空」のエネルギーが充満してるのだ。
そこで愚民ハタと膝を打つ。
俺って「空」のエネルギーの中にいるんだってな~。さあ今日一日元気いっぱいがんばろ~ぜ!!
イエスちゃんに問うたのは、如何に答えられるかにありました。
それぞれの単位における無限小や無限大という領域を考えればわかることですが、現代人の認識領域では遠く及びません。 私の考えは、認識にとらわれるなですね。
言語的認識は、定冠詞と不定冠詞に関することでは、「何処の誰だか知らないが、誰でもみんな知っている月光仮面のおじさん」という言葉を通用させる日本語を踏まえておくことでしょう。
この一つ一つの細胞は、「活性」と「非活性」の2つの状態の「どちらか」で「だけ」、存在する。
そして、これは「情報」であり、固定であり、「不変」であり、「永遠」を本質にする。
この頭脳が、「自己」にとっての外界を認識して、脳細胞の「活性」と「不活性」とに「写し取る」。
その「写し取った」情報を、「大脳皮質内」で、どんどん「情報変換」していく。
「知覚した情報」から「主観の情報」へと、「意味」と「価値」とをごてごてと付加して、デフォルメしていく。
だから「心頭滅却すれば、火も涼し」となってしまう。
「主観情報」が「感覚情報」を完全に否定し抑制し「火を存在しないもの」にまでできるようになる。
特殊な訓練をしないと、普通の人はこのようにはなれないが。
しかし、たとえ主観が「涼しい」といっても、「肉体」の方は「自然の法則」で動いているのだから、焼け死んでいく。この「主観が支配する状態の頭脳」を道連れにして焼け死んでいく。
「自己」の消滅に対する恐怖心・苦悩…つまり「死苦」
に憑りつかれた者は、
この蟻地獄からどうやって抜け出すことができるのか?
それは・・・
「自己」とは「自我意識」が造りだした「虚構」である事実・・・これに目覚める、体感する。
このことを釈尊は教え、
体感する方法を、禅定、思考作用の停止、
「自我意識の活動を極限まで低下させる」
小脳の活動「呼吸、心肺機能」だけにまでもっていく。
この世界では「言語活動は停止」し、「自我意識が停止」し、その結果、自己と世界との「境界」がなくなり、
「梵我一如」と見えてくる。
しかし、これでは「これを大我と認めて」錯覚して、結局は、
現実の「自己」の肯定に、成り下がってしまう事となる。
「大我」は「言語」が生み出した虚構であるから。
事態は逆であり、
「世界と自己とが、究極では、ひとつ」なのではなく、
「自己」とは、言語による「虚構」である、
この事実に踏みとどまり、
常に、「自己」に戻ろうとする力・源泉「言語」を、
常に、批判し続ける行為の中に居続けるしかない。
歴史上の「釈尊」の仏法とは、このことを示している。
だから、「密教」は、「非仏教」なのである。
「梵我一如」のヒンドゥー教そのものに後退したから。
そして、必然的に、「インド仏教」はヒンドゥー教に完全に飲み込まれ、消滅した。