何ものかを言語化するということは、すなわち同一性を設定することです。個々別々の物体を「茶碗」と命名する行為は、それらを同一の意味で規定することだからです。これを換言すれば、概念化(=「同一」の認識)ということでしょう。
言語化・概念化は、まずは同一性の設定ですが、この行為は必然的に、言語化・概念化された当のものとそれ以外との差異性を発生させます。つまり、同一性の設定が、同時に差異性を惹起するのです。
差異性の認識は、差異性の言語化・概念化のことですから、それはすなわち「差異」としての同一性の設定ということになります。
これに対して、まさにそこにおいて最初の言語化・概念化が起こる、それ自体は非言語的・概念外的・前自意識的な事態こそ、「無常」「無我」、さらに言うなら「非思量」と呼ぶべき事態でしょうが、この事態そのものは決して認識できない(言語化できない)わけで、「同一」でも「差異」でもありません。言語に可能なのはせいぜいその事態を「指し示す」ことくらいです。
このとき、その指し示しは、「同一」と「差異」を構成する言語行為への、言語による絶えざる批判によってなされるほかありません。つまり、「非思量」的事態とは、言語による言語への批判可能性として現成しているのです。
にもかかわらず、近代科学や上座部の存在論のごとき要素分割主義は、概念化された「要素」の「同一」と「差異」の組み合わせでその「認識」を構成しているわけですから、少なくとも「非思量」的事態とは、無関係な議論になるでしょう。
すなわち、そのような存在論は不可避的かつ根本的に「無常」「無我」を誤解するのです。
たとえば、「無常」を「何もかもが絶えず変化(=差異化)する」ということとして理解(「刹那滅」的理解)するなら、「変化」という認識(概念化)が必然的に同一性を要請してしまい(「同じ」何ものかについてしか、「変化」は言えない)、「無常」でなくなってしまいます(もし「刹那滅するもの」自体が刹那滅すると言うなら、今度は刹那滅が刹那滅して、何も刹那滅しなくなる)。
したがって、問題は「変化」の認識なのではありません。その認識を成立させる言語化・概念化という行為を批判することなのです。
言語化・概念化は、まずは同一性の設定ですが、この行為は必然的に、言語化・概念化された当のものとそれ以外との差異性を発生させます。つまり、同一性の設定が、同時に差異性を惹起するのです。
差異性の認識は、差異性の言語化・概念化のことですから、それはすなわち「差異」としての同一性の設定ということになります。
これに対して、まさにそこにおいて最初の言語化・概念化が起こる、それ自体は非言語的・概念外的・前自意識的な事態こそ、「無常」「無我」、さらに言うなら「非思量」と呼ぶべき事態でしょうが、この事態そのものは決して認識できない(言語化できない)わけで、「同一」でも「差異」でもありません。言語に可能なのはせいぜいその事態を「指し示す」ことくらいです。
このとき、その指し示しは、「同一」と「差異」を構成する言語行為への、言語による絶えざる批判によってなされるほかありません。つまり、「非思量」的事態とは、言語による言語への批判可能性として現成しているのです。
にもかかわらず、近代科学や上座部の存在論のごとき要素分割主義は、概念化された「要素」の「同一」と「差異」の組み合わせでその「認識」を構成しているわけですから、少なくとも「非思量」的事態とは、無関係な議論になるでしょう。
すなわち、そのような存在論は不可避的かつ根本的に「無常」「無我」を誤解するのです。
たとえば、「無常」を「何もかもが絶えず変化(=差異化)する」ということとして理解(「刹那滅」的理解)するなら、「変化」という認識(概念化)が必然的に同一性を要請してしまい(「同じ」何ものかについてしか、「変化」は言えない)、「無常」でなくなってしまいます(もし「刹那滅するもの」自体が刹那滅すると言うなら、今度は刹那滅が刹那滅して、何も刹那滅しなくなる)。
したがって、問題は「変化」の認識なのではありません。その認識を成立させる言語化・概念化という行為を批判することなのです。
どんだけ商売人だこと。
いつかそうなりたい。
ああなりたい。
こうやればこうなるはずだ。
いずれも凡庸だ。
今ココにはない未来という妄想。
努力好きで努力を認めてほしい人間にありがちな目の前のにんじん。
不全感をかかえた自己をどうにもできず欠損を満たそうとする。
にんじんで今をうめつくす。
しかし怠惰を正当化するよりは幾分ましか。どっちもどっちだな。
仏向上事
これって引用間違ってないか?
そういう意図で使っていい語句なのか?
いい加減自己正当化するために仏教を使うのはやめような。
バカらしいのう
とか平気で思うけどね
これ、イエスちゃん自身のことでしょ?
自分は不完全だけども、各種教祖様に対する敬虔な探求心(このへん超てきとー)があるから、
自分みたいな探求心がないと思われる人にことはサル扱いしてもへっちゃらな程度の完全性はあるといえる
と、そういうわけ?
そう気づかせてくれた先輩方に感謝いたします。
キリスト教文化はそのいい例です。
決して実証できない(それこそ史実だと決して言えない)神「エホバの神」が・・
①実存していたなら他の宗教文化は完全な誤解で出来上がったもの(インド教・仏教も含めて)となる。
②実存していなかったらユダヤ教文化・キリスト教文化は完全な誤解。それは単なる「誤解の文化」に過ぎなかった!!
③それは他の個々の宗教文化にも言える事。
④.依って総和で考えれば、真実たるべきどれか一つの宗教を除いては、全て誤解・思い込み・錯覚で出来上がった宗教文化でありそれが此の世の世界を作って来た。
⑤.ではこの世にたった一つの真実の宗教というものが存在していて、他は全て間違いだという事がありえるものか??
多分答えはNo!!だ。
たった一つの思考(宗教)のみが真実で他は全て嘘だ、などという事はありえない(私感です・・・これは大学で英文学クラスの通読講義で受けた【Marius, The Epicurean】という古書に書いて有った言葉で私は強く影響を受けました)。
⑥ところが個々の宗教は他との差異性を述べ立てて、自分こそ正しい(=正義)だと言い張る(そんな事ある訳ないだろ!!)。
よってこの世の文化・人間世界の営みはすべて誤解・錯覚・思い込みから出来上がってしまったものだ、とした方がスッキリする。
⑦.ところでこれは実証できない科学でも同じです。しかし実証したと言っても多々その実証が事実でなかったと後代の人が見つける。
⑧.よって人間が何千年かけて築き上げてきたものは、結局すべてとてつもない誤解の産物だ(The Fake World!!・・でも醜い肥溜めでなく、美しい美女という感覚だけどね!!)
⑨.と言う訳で、キリストの史実がど~とか、釈迦の史実がど~だとかは、私にとってはあまり関係ない。私は自灯明で自分が生きて行くのに有益な情報だけに共感していくしかない。
これが私の自己防御システムです。
だってこの世は、この世の文化は、全て誤解・思い込み・錯覚の産物なのだからね(自分の脳も含めてね…)。
ところで私のキリスト年代記うろ覚え・誤解は充分あります。でも(エホバの)神から離れた処にいる私にはどっちでも関係ありません、関心ありません。
結局古代ローマがキリスト教を国教に定めた時から、イエスキリストは実在であろうと空想であろうと、史実であろうと伝説であろうともはや関係ない。
キリストに取って代わったローマ法王が実在しているのですから、その時点で人間キリストは実質的にはもはや不要な人物として切り捨てられた(政治とはそういうものだ)。。。
伝説上の人物として人間性をとりあげられたのは釈迦にも共通する部分があるし、たぶんその他の宗教祖師たちも同じようなところがあるのでしょうか??。
他人じゃないよ。
釈尊を知りたい、神話でなく実際のイエスを知りたい。という気持ちはないのか?
「自分に役に立つ」を全ての基準に!!!
そんなに、誇れるような、自信満々の自分か?
お山の大将のおサルさん・・・
私は、道元和尚の「正法眼蔵」を解りたいと、高校3年から歩んできた。
解りたい・知りたいは、自分に不足を感じているからであり、その心が自分の打破になる。
「仏向上事」
いつも「自分中心」では、その未熟な自分のレベルで、全てがストップする。
と思う。
まあ、これも意見の相違だが・・・
現在日本で信頼できる新約聖書学者・田川建三の最近までの研究結果によれば、
イエスは西暦30年頃に殺され、
最初の「マルコの福音書」は西暦50年頃に書かれ、
イエスの死後約20年であり、
イエスを直接見たり聞いたりしていた人々が大勢生きていた。
イエスの一番弟子のペテロも生きていて、
使徒パウロから、アンテオキア教会において、ユダヤ教に後退して罵倒された。
その後、パウロは初期キリスト教会を出され、単独で伝道旅行に行くことになった。
マルコは、パウロと意見(信仰理解)が異なり、この旅行から分かれていった。
だから、「マルコ福音書」の信仰と、
使徒パウロの「ローマ人への手紙」の信仰とは、まったく違うでしょう。
先ずは、事実・史実・史料を基に、議論する必要があります。
多分、貴方は、そうゆう訓練がされていない。
だから、妄想を言う・・・
『キリストを描く<四福音書>は、<本人より何百年か後に>書かれて』
書く単語、無害程度にはよく間違うワチキじゃのう。おゆるしあれよ!!
「憑りつかれ」た果てに、うつ病にでもなったら、
「出家」したら治るんかなァ~????
それは演歌の世界に美を感じる事のようだ。
コウロギの音を日本人は右脳(即ち左耳)で聞くので感情が這入る。いい音だなと音楽性を感知する。秋の憂愁に涙する。しみじみ人生を感じる。
西洋人はコオロギのさえずりを左脳(即ち右耳)で聞くので、単なる雑音としてしか聞こえない。ただうるさいだけだ。
中国人も韓国人も西洋人型の耳らしい。
(日本人はポリネシアン系「五感」の働かせかたをしているそうである。)
眼もそうだ。
日本人は月を左目で知覚して右脳で「餅を突」いているウサギさんを想像して情緒にふける。砂漠を左目で見て(=右脳で絵を描いて)、その先にあるオアシスを映像化しウットリと砂漠の美に浸る事が出来る、月の砂漠はァ~とかの童謡を作ってウットリする。【絵文字】は日本人の世界だ。
これが西洋人(含む中国人・韓国人)だと、日本人ってバカじゃね~のかと不思議でたまらないらしい。彼らにとって、砂漠は「苦の乾いた肥溜め」以外の何物でもなく、月は巨大な石でしかない!!
日本人同士で「差異性だ」「同位性だ」と喧々囂々(けんけんごうごう)議論をしても、行きつく先は皆「演歌」で纏まってしまうのが日本人の世界だ。
異なるコメントに同一性を感じるのはなぜか?
間違いをゴシップの種になさいませんよ~に、ア~メン!!
言葉・言語への批判が大切とかいいながら、
全然証明不可能な「史実」とかいう言葉を持ち出して、此れが真実なんだよとか言って他者を洗脳する、自分の思惑の方へ人を引き付けようとする、「真実」とかいう言葉に弱い人間に不真実を(真実だとウソをついて)平気でゴッシプ垂れ流す。
当然キリスト教に反対する当時のユダヤ教徒の策士がやりそうなことだ。そういう文章をバラまいておけば、2000年後に「俺は大発見をした、史実・真実を発見した!!」といって発見者たるべき自分を世に売りたいヤカラが現れる・・・。
こんな輩は世にはびこっていたし今もいる。
人間世界はかくのごとくできている。
史実の信ぴょう性など在りえない!!
どだい「神」を信じない人は(キリストを)「神の子」と信じる由縁はないのであって、キリストの「史実」がど~たらこ~たらなんて、全然関係ない事ではないか。 でも自分が信じない事を正当化するために「史実はァ~」とか言い出して他者を貶め、いたぶって嬉々としているなんて、みっともない無様な人間に成り下がっているではないか。。。
まあ、イエスの史実がどんなんでも、私にとっては(も)かなりどうでもいいけどね。
ナントカの福音書ではナントカの福音書ではって
人により時により言うことが違うっていうのは
リアルそのへんに満ちあふれているので
キリスト教に教えてもらわなくてもいいや
そしたら勉強し直せとおしかりを受けた。
近年の研究でイエスの実像(=史実)が明らかにされて来てと・・・、イエスは罪を犯した人間だと・・・・。
どうもその口ぶりからすると、
キリスト教会でまかり通っているキリストは本当は神の子ではない、(=神の子の資格がないと、=ユダヤ教の糾弾が正しかったと、十字架貼り付けは自業自得だと)書いて有る(書いてなくともそう意図している)しろものらしい。ひょっとしたらそれでイエスちゃんは日本基督教団を脱退したのかも??とか。
私個人的にはそんな勉強必要ありませんね!!私にとってはどちらでもいいことですし、一生懸命信仰している私の家族に暴露して敬虔な信者を傷つける必要は毛頭ありません。
新しい伝説を流布してキリスト教者を撲滅しようとする陰謀という見方もできます。中国共産党情報操作と同じ手法だよ・・・とかね。
34歳で死んでから後のイエスについては「物語」
4年間の史実が、キリスト教にとっての何だって話なの?
近づかないことですね。
頭もよく、しかも非常に熱心で、知識欲に凝り固まっているので、自分の言う事・信じる事が絶対的で、それのみが正義であると確信してしまって、自分以外の考え方は邪悪だとして他者を強く糾弾するにやぶさかでない・・・
そんな団体ないし個人を指します。
やむを得ざる、さる事情でキリスト教から離れました。
イエスちゃんから、このブログ上で、キリスト教を勉強しなおせと今更言われるとは思いも寄りませんでしたね、驚きです!!
申訳ありませんがご辞退させていただきます・・・。
もし史実云々に【敢えて】こだわるなら、私的には史実の信ぴょう性など在りえないという立場です・・・特に人物像探求においては・・・
そして史実の信ぴょう性を疑う以上、全ては「伝説だ=言い伝えだ」とした方がスッキリするというものです・・・私的には・・・。
自分を描いた歴史(=自分史)でもはなはだ史実の信ぴょう性を欠くものです。それは、人間の脳は、這入って来る情報を取捨選択して自分に都合の良い有益情報だけを編集して大脳に送り記憶として蓄えるものであり、よって思い込みと錯覚のオンパレード(=サンスカーラ満開)!!!・・・そこから出た言葉に史実(ありのままの姿)など期待出来ないという事です。
釈迦を描く仏典やキリストを描く四福音書は、本人より何百年か後に書かれて、作者は直弟子でもなく、直弟子の弟子でもない人が書いて、決定的な証拠など実証・提出出来る筈は無く、法廷が真実の史実(=証拠)であると保証出来る筈もなく・・、彼らがせいぜい出来る事は「~~のようだ」と言う【新しい伝説】を語れるに過ぎません。
後世の人はそういう伝説から自分に役に立つ新情報を汲み上げて行けばよいのだ・・が私の立ち位置です。
話は横にそれるのですが・・・
共産党統制下の中国の大学(院)では、歴史学科は政治学部の下に属していて、
歴史(史実)は時の為政者が自分たちの都合のいいように政策的見地から創りあげるものであり、都合の悪い真実は客観的事実そのものであっても窮鼠(きゅうそ)し抹殺するのが常識であるとされているようです。それが孫氏の兵法による情報戦だからです。史実とは勝者が作るものがたり(=Fake)にすぎません。
また、為政者グループと離れた個人が真実の史実を語り得るという事も発生しないであろうという事は、脳は思い込みと錯覚で出来上がっている・・・世の中は左様に出来ているのだという認識をする時に、史実史実!!といって史実にこだわるのは自分の人生にとって得策では無いというのが私の【史実】観です。
私にとっては(極端から極端に振れる)白黒はっきりさせる「正義」は不要なのです。
「自称・使徒のパウロの信仰」とは、異なる!
新約聖書は、「既に著作されていた書物の集合体」であり、
「200年もの長期間の会議」で議論したが、結論がでなかった。
大体は、西暦400年頃に、決まりかけていたのだが。
例えば、「ヨハネ黙示録」を入れるかどうかで、反対が多くて、決着がでなかった。
だから大分後に、わざわざローマ法王が、「これにするぞ」と最終決定を出した。
つまり、新約聖書は、「人間が、会議の議論で」選定し、決めたのです。
だから、玉石混交で、多種多様な信仰を含んでいるから、
「聖書のみを主張する」プロテスタントでは、どれが重要か聖書解釈が異なってきて「400以上の宗派に分裂」している。
他方、文書「聖書」から超越しているカトリックは、一つでまとまっている。
カトリックは、教会の伝統が一番であり、聖書は教会が生み出したものとして、教会の下にある。
まあ、ローマ法王の信仰解釈で決まる。
これに逆らう者は、異端であり、追放である。
ここで、言いたいことは、
「現実の新約聖書」は、多種多様な信仰を含み、
膨大な文書史料なのであり、
だから、新約聖書学という学問の対象になっているのです。
膨大な研究によって、
歴史上のイエスご自身の信仰も明らかになってくるのです。
今では「人間イエスという考えがタブーでなくなった」ので、
この100年間の確実な研究成果の蓄積があるのです。
その研究成果は、素人でも理解できる形で、今では提供されている。
もしもキリスト教について議論するなら、
キリスト教を知るために、
先ずは、それらを勉強する事です。
神は罪を犯さない、
神は罪を犯せない。
これは論理的な大原則!!
キリストも(生まれつきからの)神の子(息子、嫡子、神そのもの、三位一体)ならば罪を犯すことはありえない。
従ってバプテスマのヨハネのもとで洗礼を受けたのは(自から犯した)罪の懺悔の為という意味ではない。
これは論理上の道筋からでた大原則だ。
でも遺産はキリストが罪を犯したのをくいて洗礼での浄めを求めたと想定している。「はァ~~?????」となる。
ユダヤ教が待ち望んでいた救い主【真のメシア】たるべき資質がないから(ユダヤ教宗教界にとっては)、キリストが自分自身で、そうであるかもと【思った】だけでも不敬罪に値する。
であれば、キリストがハッキリそういったかどうか問題ではなく、ユダヤ人(反対派)がそういう気配を感じたかどうかがポイントに成って仕舞う。十字架での断罪まで行ってしまう。冤罪かもしれないけど既成事実となってまかり通る。
真実があるとすれば、四福音書だけ見て
この問題の答えはでない。旧約聖書・その外伝、さらにはユダヤ教教理等も研究範囲にいれるべきでは???
福音書の言葉は例外なんですね。
私なんか、イエスちゃんの言ってることの意味がわかんねえよw
一般論は不可!
『史実と伝説の間を明らかにすることは不可能』
イエスの場合は、福音書が、4つもあるから、それらの比較で
いいところまで復元できます。
先ずは、やってみてから意見をお願いします。
ちなみに、キリスト教は知らないでしょう。
私の場合は、1973年から調べています。
その理由はキリストがエホバの神を冒涜して自分こそが神から遣わされた(ユダヤ人が待ち望んでいた)救い主だと言ったからだ・・・という筋書きでキリストの十字架ストーリー(つまり仏教で言えば仏典)が構成されている。キリストが実際に言ったかどうかではなく、十字架上に断罪されたのは、伝説か史実かに関係なく、そういう物語が既成事実化されてしまったからであろう。
全ての宗教創始者にはそういう虚構が積み重なっている様である(多分釈迦も例外ではない、史実と伝説の間を明らかにすることは不可能であろう)。
徐々に、「キリスト」にされ、最後は「神」にまで祭り上げられた。
新約聖書は、複数の文書の集合体である。
西暦50年頃の「使徒パウロの手紙」では、
イエスは、死後に、つまり34歳で殺された以後に、
「神」によって「キリスト」にされたとある。
この段階では、「神」と「キリスト」はべつものだった。
西暦60年頃の「マルコ福音書」では、
30歳で洗礼を受けた時に、聖霊が天からイエスに降りてきて、キリスト=神の子にされた。
更に、後の
西暦80年頃の「マタイ福音書」「ルカ福音書」では、
イエスは0歳で、聖霊で妊娠し、キリストになった。
またまた、後の
西暦100年頃の「ヨハネ福音書」では、
最初から、天地創造の時点で、イエスはキリストであった事にされた。
そして、初めて「神」と呼びかけるまでになった。
ここで、初めて、「イエス=キリスト=神自身」が成立した。
要は、後から制作された・新約聖書の文書ほど、
イエスがキリストにされる年齢が若くなり、
著作順で一番新しいヨハネ福音書では、天地創造時点でキリストであり、「神」そのまでに祭り上げられている。
しかし、私は、「歴史上のイエス自身の神信仰」にしか、関心がない。
もしも神が存在するならば、
(神御自身は、人間の目には直接見えないので)
歴史上のイエス自身の生き方の中に100%示されている
と思っている。
だからこそ、歴史上のイエスの探求が重要となる。
後世の作り話には一切関心はない。誕生物語などの。
当時出家と言えば、バラモン教僧侶が元祖なはず。バラモンはカースト制によって世襲制が引かれていた・・・。
ややややや!!!
ではバラモン僧侶はどうやって子孫を作ったのだろうか???
妻帯許可制??又は愛人制??、又は
僧籍・俗籍自由に出たり入ったりして
俗籍中に種馬稼業に専念して、バラモン人の頭数を維持したのか??
どだいバラモンなんて、カースト制のトップにあぐらをかいていて、下層民とは交流断絶していた筈だから、幾らでも内々秘密で子作りも出来ちゃいそうだしね。
そこへいくと、釈迦一党の出家屋さんの場合は妻帯禁止で、(多分)足抜け禁止の厳しい掟??って、
これは当時の宗教界、例外事項の特記すべき異色中の出来事って事だったのかな??
その人自身の投影である。
イエスが当時の分別盛りの30歳に家族を捨てて、
「罪の赦しに至る洗礼」をユダヤ教革命家ヨハネから受けたという事は、
イエスが自分の罪を自覚して、誤魔化さない人物であった事を示している。
これは初期キリスト教団にとって非常に都合の悪い事であった。
だから、後から造られた新約聖書では、インチキ理由つけをしている。
同様にイエスが自分を、
「キリスト=メシア=救世主=油塗られた者」と
考えていたかどうかは、新約聖書学の世界では、
大問題になっている。
歴史上のイエスは「貴方はそうと言う」で止めている。
先ずは、歴史的史料で考えるべきである。
そのためには、先ずは、調べなければならない。ハイ。
商売しちゃおう(笑)とか?!ガラじゃないことはしない事にしてます。
ブログとか?めんどくさい、マメじゃないし。
坐る労働者、正味これだけ。
(苦と戦う・・・)それが「生きる」ということ、そのものなのである・・・。
(瞑想によって)強い心をもてば、苦は消えてしまう=苦を苦と思わなくなる。
若い時の数々の難局を切り抜けてくれば、やがて老年期(熟年期)には穏やかな晩年を過ごせる。苦は向こうからいつしか去って行ってしまう。
これも又、「生きる」と言う事、そのものである。
かくして晩年期の釈迦は「この世は美しく、人生は甘美だ」といった。
道元師は「眼は横に在り、鼻は縦にある」と言った。
瑩山禅師は「腹が減ったら喰らい、眠くなったら寝る、日々是好日」といった。
此れも又、「生きる」ということ、そのものなのである!!!
楽しいですね。
以下参考書として
「ブッタが考えたこと」角川ソフィア
「仏教誕生」 講談社学術文庫
宮元啓一 著
即ち「苦」とは弱い心が生み出す妄想なり・・・という解釈で良い訳だよね。
生苦・病苦・老苦・死苦・・・みんなこれ弱い心の妄想だって事だよね。だから釈迦が瞑想修行して弱い心を克服して強い心になったから苦が消えてなくなった・・・
これが論理の道筋でありますね。
釈迦が老苦・死苦に憑りつかれてノイローゼ気味だったとか、うつ病状態だったから出家した、と話を盛るのは必要十分条件を構成していませんよね。
アッ!!私、「老い」を楽しんでおりますよ。
若い時の艱難辛苦を乗り越えて、いまは解放された自由の境地、ですですです!!!
なぜなら「不肖わたくしはァ!!、病苦・死苦に憑りつかれていないのでありまする!!・・・(病を友に出来る、死は自由への解放・栄えある卒業式、生きている今十分やり抜いたから悔いはない・・・人生バンザイ、自分を褒めるめてやれるよ「I am OK!!」そんな感じ・・・)。
では、なぜ私がイエスちゃんの言葉尻に引っかかっているかと言えば・・・、
イエスちゃん曰く;
①.釈尊は「老苦・死苦」の苦に【憑りつかれていた】ので出家して救いを求めた・・・」(=若年性うつ病??まあそうです!!)
と言うのと並行して、
②.「釈尊の出家前の段階」の「苦」と同じ「苦」に嵌っている人にのみ仏教が必要・・・と言い切ってしまっているので、(コメ者注、『同じ種類を同じ程度に』、という感じがある??)、
③.結論として言えば、
これってようするに、「仏教者になる人は、病苦・死苦の妄想に嵌っているうつ病の人」だと言うのと同じニュアンスに受け取らざるを得ないので・・・、
④.なんかこれって違うんじゃあないか??・・・と思うからですね。(単なる言葉の運用法の問題なのでしょうが・・・・)。
⑤.イエス・キリストの場合、神のご宣託がイエスに下った。ユダヤ人が待ち望んでいた「世の救い主」が自分である、と言ったのでユダヤ人の反発を買った。
だからキリストは病苦・死苦に苛まれていた訳ではないし、うつ病ではない。ただただ強い使命感からの行動&言語だったといえる。
釈迦とキリストを併記して、共にノイローゼのうつ病患者だったみたいな(イエスちゃん風の)表現法は異様に感じる。
とまあそんなところでしょうか。。。。
(まあ実際はどうでもいいんですけど)
それ以前のお話は全て作り話である。
だから、マタイ福音書の誕生物語と
ルカ福音書の誕生物語が全く異なっているのです。
マタイとルカの信仰が異なっているから、
当然、「誕生物語」が異なってしまう。
ただ、イエスの父が、早くから亡くなっており、イエスが長男であり、母や兄弟を養うべき中心だったのは事実。
しかし、イエスはその家族を捨てて、出ていった。
家族は、イエスが気が狂ったと思った。
(マルコ福音書)
だから、最初に著作されたマルコ福音書には、誕生物語がない。
まだ造られていない時代だったのか?
なお、イエスは、34歳頃に、殺害された。
ユダヤ教では、実際に悪の行為を行った場合に罪であった。
しかし、イエスという人物では、異常であった。
単に、こころの中で他人の妻に欲情しただけで、
実際に行っていなくても、姦淫の罪を犯したことになった。
これでは誰でも苦しくて生きていられなくなる。
とうとう、イエスは、壮年の30歳頃に堪えられなくなり、
家族(母・兄弟姉妹)を捨てて、
(父が亡くなっていたのでイエスは大黒柱だった)
ユダヤ教革命家ヨハネの下に行き、
ヨルダン川で「罪の赦しに至る洗礼」を受けて、
砂漠の荒野の「ユダヤ教団」に入団した。(男子ばっかりの修道院みたいなもの)
この洗礼とは、「浸水礼」であり、
全身を川に「沈めて、一度死んで」、
そこから再び「新しく生き返る儀式」であった。
だから、現在でもバプテスマ系の教会では、教会の中央に、バス=湯船が据えられており、
洗礼の場合は、冬でも「全身を水に沈めて」行う。
私の場合は、プロテスタントの日本基督教団だから、
象徴的に「頭に水滴を垂らし」て、「滴礼」で洗礼を授かったが。
1983年の復活節であった。
釈迦はお母さんの脇の下から生まれてきて、生まれてすぐ7歩あるいて「天上天下唯我独尊」と言ったとかと書いているのもやはり仏典でしょうから・・・
とにかく釈迦は多感で聡明な青年として育ったようで、北門から出遊したときは、すでに世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、(自分もその様に成りたいと)出家の意志を持つようになった、と書かれていますから、
病苦・死苦の恐怖に憑りつかれてノイローゼになっていたとするのは無理があるという考え方は成り立つと思います。
しかもそれから(多分)10年位待って、29歳で嫡子を得たので、過ってからの念願(=夢)だった出家の道を実行に移した。出家してすぐ出逢った3人の沙門も皆釈迦の優れた資質を見て取って自分の後継者としたいと思った程だけど、釈迦は自分の追求している悟りとは方向性が異なる事を知っており、そして5年(?)だかの難行・苦行にさえ十分耐え抜いているのですから・・・>、
これは、老苦・死苦でノイローゼ(=うつ病)の人が出来る技ではないだろうと思われますが・・・どうでしょう??
百姓はダメなのか?
うわああああああ
そのものが出た
文字列で
イエスのママはシンママじゃないんだっけ
大工の夫がいたんだっけ
でも、パパってその後どうなったの?
自己否定としてはたらくところにある。
いってみれば、自己は、自己最大の味方であり、同時に、最大の敵でもある。
自己はこうしてつねに自己と戦う。
それはなんぴとにとっても避けられず、
逃れることができない。
生まれてきたものは、すべてそれを
ア・プリオリに自己の内にもっている。
逆に、そのようにもっているということが、そのものを動かし、生かしている。
安易で、放縦な、自己肯定・自己満足・
自己安住などというものは、実はどこにもありえ得ず、それらは蜃気楼や空中の楼閣に似て、たとえ存在するとしても、
現実には、死に果ててミイラと化した屍にすぎぬ。
つねに苦はある。苦にぶつかる。一切は
苦である。すなわち、自己が外へ、あるいは内へと向かいつつ、究極的には自己
に集中して、その自己に背き、矛盾し、
自己否定に陥らざるを得ないところにこそ、自己は模索し、努力し、精進を怠らない、それが「生きる」ということ、
そのものなのである。
一国の皇太子という在家者にとっての最高の地位と名誉だけでなく、妻子に至るまでのすべてを捨てて出家します。
後ほど、ブッダは
その際受けた「「「恐怖」」」を
次のように語りました。
「愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、
他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している
―――自分のことを看過して。
じつはわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、
他人が死んだのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、
―――このことは自分にはふさわしくないであろう、
と思って。
わたしがこのように考察したとき、生存時における生存の意気はまったく消えうせてしまった。
(中村元著・春秋社刊・「原始仏教の思想Ⅰ」)」
「オレが言ったから、とか、誰かが言ったから、とか、そんなもん信じてんじゃねえぞ」
ってとこかなあ。
まあそれも、ほんとにそんなこと言ったかどうか知らないけどね。
…あれ?そうすると、「仏教内」つーもんを想定するって、難しくない?
色々な分野で知識の集結がなされてきているということですかね。
判断材料・データが濃くなってきているのが昔と違うということですね。
それでも人間相変わらず愚かですとか、「バカの壁」を乗り越えるのは難しいとか言う事は出来ますけどね・・・・。
(ラテン・ギリシャ系の)原語では、
「実存(existence)」は《表にー立つ、ex-sistere》という意味で、
実体(substance)は《裏にー立つ、sub-stare》という意味だそうだ。
実体は、イデアール(=理想形のモノ??)な本質として、レアール(=誠実で本当の??)な現象の裏に潜んでいるが、それが表に出るてくると「実存」するという事になる。つまり実存は実体的存在の顕在化である・・・
が定義らしいけれど、釈迦がこんな事、口が裂けても講釈してなかったと思うよね・・・釈迦としては「我・魂みたいなアートマンは(探してみたけど)見出す事ができなかった」という表現法だったわけだけどね・・・。
ソクラテスとかプラトンとかもそうなの?
大昔の人でしょ?
でもそれで人間どうにかなったのかっていう
何が解明されたの?
延々やってきて「昔とは全然違」って
じゃあ今はどうなの?
偏差値××以上の◎◎大学(院)卒、とかいうのがよってたかって
豊洲市場とかナントカ原発の安全性とかやってるんでしょ
道元?
当時の頭脳集団の比叡山?で
「納得できねえよ、なんだこいつら」って思って
って話になってるんでしょ?
釈迦の時代に於いても同類で、カースト制トップのバラモン階級が知識(学問体系)を独占していた。釈迦としてはそういう学問体系内に自分を入れる事が必須であった(嫡子ではあるが世継ぎ誕生で
世襲義務が免除されたからね・・・)。
古代・中世期の西欧の封土制下では、貴族の次男坊・三男坊の生きる道は軍人(=騎士)となるか修道院での僧侶になるかの道しか自分を立てる方法が無かった。聖ヨハネ騎士団とかの僧籍騎士団(半分僧侶・半分軍人)が十字軍遠征を形ずけた。
(注;日本の僧兵もおんなじか??)。
いずれも自分がいくら頭がよくても科学者・研究者としてわが身を立てるとか、哲学者として、また~~学者として食って行く事も出来ない世の中であった訳だ。
昔の頭の良い知識を求める人は宗教の道しか当時は無かったという事だ。
それと現代社会は全然違う。仏教学が全てを解明してる!!という考え方は成立しない世の中になった訳だ。
「神様に特別につくられた存在であるところの人間」
から始まるんじゃないの?って気がする。
「オレ、この前思ったんだけどさあ…」
「あ、それ、なんかわかるー」
っていくのか
それ、ほんと「真理って言いたいだけ」じゃない?
真理じゃなくていいんじゃない?
「真理」って言っときたいだけじゃない?
よく通販で科学的に実証とかてあるじゃないですか。
あれは科学だったらみんなが納得するみたいな科学信仰前提なんでしょうけど苦笑してしまいます。
完全な教えであれば仏教内で完結するはずです。
それができないとなると不備がある教えともいえる。
西洋哲学を援用するとそれは仏教といえるのかという問題もでてきます。
ところで実存という言葉は仏教で使われる言葉なのでしょうかねえ。
腹式呼吸(丹田呼吸)して、呼吸に意識を集中していれば左脳言語野が鎮静化する、すると右脳による坐禅病が出るが、やり過ごす。
すると海馬が正解を引き出してくる。情報整理して有益な情報のみを大脳に送る。
丹田呼吸では肝が据わって来る。セロトニンも分泌されてくる。丹田呼吸で内臓・腸が刺激を受けると自然体の生き方となる。
(出典;武田鉄矢、今朝の三枚おろし「内臓が人間の心を作っている」「人間は脳ではなく腸に任せてのんべんだらり生きている(=リラックスして心が休まるのは内臓の機能である)」。
ここまで解っちゃうと、【坐禅が正師】は至極当然。自灯明で良い。
依って、西洋哲学書も探し回ってみると、
そちらの方に自分の疑問への答えのヒントが見つかる・・・
と言っていますからね、
真理追求のためには、仏教者は仏典の中だけに閉じこもってろ!!というのは疑問ですね。仏教はそんなに自信のない自閉的なものでは無いでしょうから・・・
情報は不変なように見えるだけだといいたかったのです。
わかりにくい表現でした。すいません。
ところで自分で書いてておもったんですが、科学思想を援用するのはいかがなもんかとおもいますよね。
仏教は仏教なわけだから説得力のなさを科学という権威で補強するのはいかがなもんでしょうか。
分ける思想と分けない思想を混在すると余計混乱しそうなきがします。
>歴史上の釈尊は「老と死」の苦に【憑りつかれ!!】ていた・・・ので29歳で出家し(=この世の全てを捨て)救いの道を求めた・・・
此処で疑問発生;
う~~む、釈迦は苦しくて苦しくてしょうがなかったの??
う~~む、釈迦って若年性うつ病??
でもそんなに若くて、いい暮らしをして、働く必要など無くて、社会的位置が高く、金持ちで金稼ぐ必要も知らず、毎日いいもの食べて遊んで暮らせて、美人に取り囲まれていた・・・そんな【若い】男がうつ病になり得るって??
どだい遺産の言う「歴史上!!」って言ったって真実の歴史??捏造の歴史??
そこで私感発生!!
釈迦は17とか19歳頃の四門出遊で初めて(少々オクテではあるが)、この世の不完全さ(日本仏教では過激的『苦!!』と訳出)を知り、この世の不条理さに目覚めた。
最後の出門でバラモンに出会い、そのバラモンの、悟った如くの悠然自若・崇高的態度に強烈に魅せられた。人間のありうべき別の道(=生き方)を見たからだ。
さて自分はどうすべきか???。
自分自身はどうありたいのか??
しかし釈迦王家を継がねばならぬただ一人の人間であったので、今そのバラモンに師事することは不可能だ。またクシャトリアである自分は(カースト制の頂点に立つ)バラモンへの転身は死刑をも覚悟せねばならない・・・
釈迦は29歳まで待った。それまでひたすら種馬稼業に専念した。ついに@29歳、世継ぎ誕生!!。
さあこれで出家する言い訳が出来た。いざ!!過っての理想を果たすべくこの城を出よう。さあ!!此れからは真理一筋の追求だ。此れが俺の目指す道だ。俺の死をも賭けたバラモン転進で、バラモン以上の成果をあげてみせるぞ!!!
かくして意気軒高、志高く苦行の道へと、いばらの苦行道へと、自らを突入していった・・・。
そう!!、志はあくまで高く、この世の不条理を解決すべしと、高邁な精神性への探求の旅へと・・・旅立っていったのであったのであった!!
>DNA遺伝情報は不変と言うが損傷をうけ自殺する細胞の振る舞いはどう説明するのだろう??・・・
ビールスとか異常な放射能・電磁波・化学物質などで損傷を受けた細胞(=異物化した細胞)が生き続けると、がん細胞になって行く。だからがん細胞を排除する為の自己防衛機能が細胞には備わっている。それが「自殺する細胞」の宿命なのでしょう(=種の保存の摂理)。さもないと人類はすべてフランケンシュタインへと進化してしまうから・・・。
自他不二を理想とする。
慈悲。
ばら?梅?コスモス?
「梅の香巻」っていうおかきがあるけど
あれ「梅干しの香」だよなあ完全に
とかいう品種もあるらしいよ。
バラも、どのバラでもよく香るってわけじゃないみたいだし
なまのジャスミンの匂いを知らないけど
ジャスミンティーの匂いとバスクリンのジャスミンの匂いは違うような気がする
梅の香りも、わからないんだよな
梅林で満開ぐらいのときに嗅いでみるんだけど、
「これが梅の香りかあー」と思うような匂いがしたことがない
睡蓮の匂いってほんとに「ウオーターリリー」ってなってる香料みたいな匂いなの?
この前、摘み立てのローズマリーの匂いをかいだら、香料のローズマリーとかなり違った。
別に仏教人じゃなくても…
そもそも意味とかいう発想をしだすモノがいないときからの続きでしょ?
ムリゲーっていうか。
それもいいね
―19話で可視化された6つ子の自意識には、それぞれの特徴が表れている。
「自意識の具現化・可視化」ってテーマは定番なのですが
例えば少年漫画だったら「念能力」や「スタンド能力」なんかになるのに、
この作品は、ただどちらかというと「自覚してコントロール出来なければネガティブ」という点と、どんな形であれ、自意識の形はキャラの味付けになる、という点を強調していますね。
この作品、見た目がそんなに変わらないし、複雑でもない単純なキャラ造形に対していかに「キャラクター」「差異化」を作っていくか、という手法を、惜しみなく視聴者に見せつけてくる感じありますね。―
和尚さん
おそ松くん読まれたのかなぁ。。
人体は代謝機能をもつ。
同化異化を繰り返すらしいのだがそれらは本当に同じなのだろうか。
コピーは原本と同じなのだろうか。違うのだろうか。
DNA遺伝情報は不変というが損傷をうけ自殺する細胞の振る舞いはどう説明するのだろう。
不変であるように維持しているのように見える。
デジタルデータは劣化しないと一般的に言われるが媒体自体を人為的に保存しなければならないという前提がある。
そもそもそれらを維持しコピーする作業員は誰なのだろう。
少なくとも私は関与していない。
同じかそうでないかと判断する主体は誰なのだろうか。
いつのまにか主体が隠蔽され除外されるのはなぜだろう。
>(『私』が実体で無い証拠としては)
自我の働きの部分を機能低下させれば、自己・自覚が働かず(例;瞑想での思考の停止作業、またはジル・ボルト・テーラーの左脳損傷体験)、
自分と外界との境界が無くなって(=「自分の壁」が破壊されたとジルボルトテーラーによって描写されている境地)、「梵我一如」の世界が展開して来る・・・。
よってこの事をもって、「私」が「実体」で無い事が証明される・・・
と遺産は言う訳ですが、
なぜこの事をもって「私」が実体でないという証明になるのかさっぱりわかりません。(私は「実体」でない=私は「架空の人物だ=私はこの世に存在しない幽霊だってこと???)。
Goo国語辞典「実体とは多様に変化してゆくものの根底にある持続的・自己同一的なもの、そのものの本当の姿、実質、正体」という言語世界で再説明をしてください。
乃至は、曹洞宗西光寺和尚の「この世に『存在』しているものには全て実体がある」という言及と絡めて、遺産のご意見を改めて伺いたいです。
新草『正法眼蔵』12巻で中断。予定は25巻。
只管打坐だが、
間違った只管打坐が多い。
だから、先ず「正師」を求めよ!
と教える。
それまでは『正法眼蔵』を「正師」とするしかない。
釈迦は「やれやれ!!」って言って苦笑いしてるのかもね・・・
頭の良い知識人風の仏教者って、ホント厄介な人種だよね。
とか力んでみても、
今この世、この瞬間に存在する「私」は、日常生活での言葉の利用者であって、
言葉(の虚構)を批判するって力んでもしょうがないからね。
勝手にやってくれって感じかな・・・
普通の人は、『私』『自分』が実体であろうと、その対立語である(らしい)現象であろうと、一切関係なく、今ここに存在して息をしてるんだからね。其れさえ分かっていれば理屈なんてどうでもいいんじゃない??
自分が知りたいのは、どうしたら此の難しい世の中で勇気を持って生き抜いていくか、って事だけだね。屁理屈はいらないよ。
>『私』『自己』は言語の定義上の「(永遠に存在する)『実体』などではない」・・・『私』『自己』は「現象」であって~~「動き」とか「働き」である・・・
どうも遺産の言葉の解釈法は(多分南師も同じ解釈系統なのかもしれないが??)
「実体」とは永遠に存在する普遍的で不変なモノ。
「現象」とは「動き」であって「働き」であって、それゆえ(不変たるべき)実体では無く、変化し続ける作用である(つまり現象とはエネルギーとか波動のようなものか???)。此れが「無常」という意味だ・・・・
だから「私」とか「自己」は実体で無い、現象にすぎない(=幽霊のような、実質には存在しないもの??)・・・(・・・が遺産解釈らしい??)
そこで私が訳わからなくなって、ネット検索で一般的に言う「実体」とは何だ?と再吟味して見た次第。
其処から見ると、遺産と違う、私とも
違う、多分南師とも違う、一般的な、実体の定義があると感じた故にコメにしてみた次第(・・・同一人の思考も無常しますので!!)。
曹洞宗西光寺和尚は(地球上の)『赤道』という単語を取り上げて、「赤道」という「赤い道」が実際に存在するわけではないから「赤道」は実体でない(=架空の概念だ)。実際に存在するものにはすべて「実体」があるのです、という説明の仕方であった。
不変とか無常とかの「変化」は「実体」の定義には関知せず、と言ってるようです。
『今』の私には此の方がスッキリ入ってきます(多少の疑問が残るが・・・)。
2016-10-14 03:52:15
と
「実体」とはなにか?? (Unknown)
2016-10-14 17:25:12
は同一人物ですか?
>・・・「色即是空」の事なのです・・
異論ありませんよ。
実体=substance、そのものの本当の姿、実質、正体。
多様に変化してゆくものの根底にある持続的・自己同一的なもの。例;南直哉師は刻々「無常」変化しているが南直哉師として「実体」がある。南直哉師は実体のない想像上・架空の人物では無い。
②.曹洞宗正木山西光寺和尚の講話「実体とはどういう性質のものか??」から抜粋;
実体のない物は「妄想」である・・実体の無いものなんてこの世に存在する筈ありませんからね・・・。
定義上「言葉の意味の実体」と「本質の意味の実体」とがある。
「言葉の意味の実体」とは;
名義だけしかない会社を「幽霊会社」とよぶ(実体がないからだ)。
禅の目的はただ一つ、宇宙の智慧である「真実の姿」つまり「宇宙の実体」を知ることにある。
「諸行無常」は変化を指しているので「言葉の意味の実体」となる。
「本質の意味の実体」とは;
「自我」の「本質の意味の実体」は「空」です。般若心経は、万物の実体(本質)も、自我の実体(本質)も、宇宙の実体(本質)も同じものであると説く。「色」は「概念」を指し、「空」はその「本質」つまり「実体」を指している。つまり概念も本質もその「実体」はまさに一体であるといっているのが「色即是空」の事なのです(この場合の「実体」は勿論「本質論」の意味です)。
「自己」の肉体は、父と母の肉体と連続しており切れ目はない。
精子の命・細胞・物質と、卵子の命・細胞・物質とが、合体・受精し、
一個の細胞となり、それが複製されて2個になり、
4,8,16,32,64、…と倍増していった。
他方、心・精神も、その父や母の心・精神と連続していて、切れ目がない。
父と母とに育てられ、いろいろ教わって成長する。
父や母の考え方が自然と教え込まれる。
父や母の頭脳の情報が、子供の頭脳に転写される。
歳を取ると感じるのは、父と同じように考え同じように行動していることが多い。
ここまでは父の考え、ここからは自分の考えと、区別、境界をつけることができない。
それが情報というものである。
つまり、「自己」個人というものは、肉体も心も「他己」のコピーが大部分であり、それに少しだけ新しい体験経験の情報を追加するに過ぎない。
この「実際は連続している世界」に、
「自己」と「他己」とに、境界をわざわざ刻むのは、
「言語」の作用である。
だから、この言語の虚構を、批判し続けなければならない。
その認識を成立させる言語化・概念化という行為を批判することなのです。』
今回は、本当に、単純、明晰、ストレートに、ご説明しています。これ以上はないような。
決して、所謂、訳の分からない・超論理の「禅問答」などではない。
所謂『私』『自己』は、現象であり、動きであり、働きであり、・・・
言語の定義上の「永久に存在する『実体』」などではない。
しかし、
人間は「言語」「概念」「情報」、
より具体的には「何億もの脳細胞群の活性と不活性の巨大な塊=情報の実形態」を使用して、
外部世界と自分の内部世界を認識しているから、
その結果、物理的・必然的にというか、
『私』『自己』で示すものを実体として虚構してしまう。
全ての「苦」は、『私』『自己』で示すものを実体として虚構することから、発生してくる。
最大のものは『私』の消滅、つまり『死』への不安や恐怖。
29歳のまだまだ若い釈尊は、それを自分の問題にした。
他のバラモン教徒は誰も問題にしないことを。
更に、『私』を虚構する事から、
『私』への名誉、つまり「愛名」
『私の物』への執着、「自分の子供」
お金が全てである、拝金主義
『私』が実体でない事は、
禅定で、「進化の最先端の大脳皮質」を活動低下に持ち込むことで、体験できる。
「自我の働きの部分」を機能低下させれば、自己・自覚が働かず、自分と外界と境界がなくなって、
「梵我一如」の世界が展開してくる。
「自分が世界全体だ、世界全体が自分だ」、
キリスト教では、
「神は我だ、我は神だ」となってしまう。
しかし、ここで、釈尊の仏教では、
これが「言語」批判の無限の展開となる。
中国の禅思想の歴史的展開そのものが「言語批判」の運動体である。
馬祖道一禅師の「即心是佛」が直ぐに自分によって「非心非佛」で否定されたように。
2016-10-14 03:52:15
>・・・?ちゃんの信じる自己同一性云々は諸行無常に反しているのだというのは何となくわかってきたよね。
現在のところ、諸行無常は「ヒト」の認識外の現象なので、同一性や差異性というように「ことば=認識手段のひとつ」で説明しようとしても徒労ですよ。 言葉で表現するならば、説明は出来かねますが「人間原理」が妥当でしょうね。
絶対矛盾的自己同一というのは、自己という現象に過ぎないけれども「自己」として確定しなくては「ヒトがヒト」として存在できないことにありますが、現象で在っても自己を自己と認めなければ、実に奇妙な存在になるでしょうね。
進化の過程におけるヒト以前の存在に戻れば、自己と形容しなくても存在できますが、今後は「ことば」との共存関係も異なるでしょうから、自己という存在が及ぼす関係性が如何に生起するのかわりませんね。
以上、とりあえずです。
アインシュタインはE=MC二乗とか言って、物質Mはエネルギー(現象)と同じだとしている。
物質は同一性と差異性がある「壁」を持ったものであり、
波動・エネルギーは「壁」のない(=同一性も差異性も定義できない)ものとしてよさそうだ。
人間は物質なわけであり、現象でもあるわけだ。
脳も物質でありその物質が意識・生命(=現象)をうみだすわけだ。
無常・無我が二面性を持つと考えられる妥当性が有る。
考えた方が
定義して
寝たら終わりだのう
おはよー
「空」と同一次元での「無常」や「無我」などは高次元レベルの概念で「壁」が無い(=同位性・差異性がない)。
しかし下位レベル(=下位次元)での
「無常」や「無我」には『壁』がある(=無常の壁、無我の壁がある=どこからが無常であり無我である、どこまでが無常であり無我であるかが規定できる)と考えた方が辻褄が合いそうな気がしてきた。
つまり下位次元の「無常」は『変化』の事を意味していて、同一性や差異性を許容する・・・、とか???
左様に「無常」を複次的定義の枠内に収めると円満解決がはかれるのかと・・・
例えて言えば「茶碗」は高次元で言えば「空」で「現象」で「幻想・虚構」であるが、
下次元世界では「物体・物質」とか「実体」として茶碗が実存している…と定義する。
丁度地球の日常生活(下位次元・3次元社会)ではニュートン力学が実存しているという如しである。
釈迦は自分の人格を自ら「無」とした(=否定した)・・・、
「無常」「無我」の前では釈迦は存在すらしない・・・
そしてそれは私もあなたもだ!!!
?????
釈迦や道元さんという同一性自己から生起した事象は「修行無常」の哲理に反している、つまり釈迦・道元さんの言葉を「常」として捉える事は間違いである・・・
という事になってしまう??いやならない??う~~ん!!
でもまあ絶対矛盾的か、絶対矛盾的でないかよ~わからんけど、?ちゃんの信じる自己同一性云々は
諸行無常に反しているのだというのは
何となくわかってきたよね。
同一性という壁が存在している訳だからね。そこですでに無常で無くなるって事だからね。
「ありのままの世界」という同一性と「ありのままで無い世界」との差異性を強調する事になるから、
「無常」という世界とは相いれない概念が混入して来るよね(と思うよ)。
そこで「ちちんぷいぷいぷい」と矛盾解消できたらいいんだけどね(と思うよ)・・・。
と問われれば、
「ありのままの世界」での事象という答えしか言えないよね。
「ありのままの世界」が理解・受容できれば「苦」はなくなるとかね・・・
瞑想すれば「ありのままの世界」が現成するとかね・・・
いろいろ大変だよ!!
釈迦が「それは変化の事じゃ無いぞえ、おわかりかな皆の衆・・・」と言ったか言わなかったか?・・・は誰にも分らないけどね。。。
(何となれば、『壁』こそが同一性・差異性を規定・現成するものだからね・・・)、
養老さんやジル・ボルト・テーラーの如くに、
「どこからが『常』で、どこまでが『常』なのか分からなくなった。『常』という壁が壊れて、空(くう)のなかに流れ出し溶け込んだ感じだ・・・」と言う事が「無常」の定義なのかな??。
(ザクッと言うと「右脳」の機能って事だけどね。)
とすれば「無常」とは「空」の一表現法であって、人に何となくわかる様にイメージ化(=概念を指し示)したに過ぎず、「無常」というそれ自体の何物も存在しないという事である???
おわかりかな?、おわかりならないかな?
とにかくちちんぷいぷいちんぷんかんぷん・・だよね!!!
では「無常」とは何か??
言葉では言い表せない真理です!!!
言葉では言い表せないけど実存いたします・・・
言葉で言い表せない真理は真理か??
「無常」は真理か??
皆の衆、おわかりして共感・合意して
「無常」を「真理」認定するか??
禅問答!!頭の体操!!これも真理への探求か??
「どうじゃな、お分かりかな、皆の衆!!」の禅問答に、脳活性化かつ苦戦する水差し的自分を見出す。
どうも今回の記事の趣旨は、
「無常」とは「変化」の事ではないぞ、と南さんは言いたいらしい、多分多分多分・・・(おわかりかな、皆の衆??)
南さん的論法は、
「無常」の意味を(時々刻々変わっていく)「変化」だと定義するならば、「古い同一性」のものと、(瞬間的な)「新しい同一性」との間の「差異性」を認める事となる。
しかし「同一性」だの「差異性」とかは「常」について言える概念だから、「無常」という言葉とは自己撞着をおこす・・・
なんかそんなことを南さんは言いたいらしい???
おわかりかな、皆の衆!!!
なんか、いろいろ大変だねえ
そんな感じなのかも
釈迦は小国とはいえ王子様だから
馬小屋生まれで「母:シンママ」っていうイエスより
信憑性が高いのかしら
っていうのは、おおありよね。
おみくじで大吉を引き当てる科学的な方法
とかね。
さて。「真実の姿」なのかどうか知らんが。
とりあえず「海馬だ扁桃体だホルモンだ感情だ」と言ってみても
言ってるそれが「ただ今」自分の中のどれがどこで何やってるのか、自分でわかります?
「真実」ってなんのことですか?
「真実」って「文字列」のことですか?
とかいうとー
どっかのうりうりこぞうが「言語にできない真実なぞというお気楽な逃げがあーだこーだ」とかいう文字列にのってぷかぷかするのかなあ
このことはあなたの恋人についても言えるわけですが、彼女の「本質」というものがないのならもう恋をするのはやめよう、とはならないわけです。確かに彼女は日々変化し、年老いてやがて灰になります。彼女が空であることは間違いありませんが、空であることとリアルな存在であることは矛盾しません。年老いても彼女はあなたにとって彼女であることは間違いありません。それは言語化以前の問題です。
仏教では「一切皆空」を根本原理としているのですから、個物だけではなく「歩く」とか「働く」といったような言語によって規定される概念もまた「空」であるということになるはずです。
ところが説一切有部では、この「歩く」や「働く」という概念もそれ「独自に」存在すると主張するのです。つまり、「歩く」ということそのものの範型が形而上の領域に独自のものとして存在するというのです。また、「歩く人」という範型もそれだけで存在するということになりますと、「歩く人が歩く」または「歩く人が歩かない」という事態になってまずかろう、というのが龍樹の主張です。
「歩く」という概念も、「走る」、「前」、「後ろ」、「脚」、「進む」、「人間」というような無数の概念との相依関係の中で成立しているのであって、イデア的に存在するものではないというのが中論の趣旨であって、「去る者は去らない」というような神秘的な主張を龍樹はしているのではない、と中村元先生は言っています。
只管打座中、「無我」がじわ~っと染み出て来るみたいな事を言ってた人がいたよね。
「自分という壁」が破壊されて、どこからが自分で、何処までが自分なのかの区別がつかない、即ち「同一化」もなく「差異化」も無いのが「無我」って事なのかな??
茶碗で無い物どもを茶碗で無いと差異化する。
差異化が有って初めて最初の同一化された茶碗が現成する。
差異化が無い世界を「無常」「無我」「非思量」と呼び、「同一」でも無い、「差異」でも無い、認識でき無い、「無い無い無い」の世界の事象なのである。「常」は実存し無いのだから「無常」も実存し無い。同一化も差異化も成り立た無い。「常」を同一化して「無常」を差異化してはいけ無い。
だから「無常」も「無我」も「非思量」も・・・言語として捉えてはいけ無い。
言語で規定でき無いのだから、「非思量」とは、「無常」とは、「無我」とはと、言葉で存在させることはでき無いのだ・・・
おわかりかな、皆の衆!!!
(注;私見混交。。。おわかりかな!)
おかわりの異見募集中!!
真理とは時代時代の共感・合意に基ずく
一時の総和なのか
人がただ真理をどう定義するかだけの話に過ぎぬ・・・・
全ては無常無常無常なものである。
釈迦(と道元さん)の教えだけが『定』である???
うん百年、うん千年前の過去の知識に固執しない。
無常しない過去の知識に固執するのは釈迦の意図ではなかろう。。。。
脳科学言ってる人
最新の脳科学も10年経てば、50年経てば、100年経てば
その説どうなってるかわかんないよね
苦を知る事はそんなに偉いか??
一つの単語でさえもいっぱい意味が在って時代・環境・使う個人の気分によって多種多様なニュアンスを持つのに、
言葉で伝達される情報などは人それぞれの錯覚に過ぎないのに、
なぜ遺産は、言語は情報だから『不変』
などと言い出すのですか???
@10-12,01:52:43過去の遺産コメ
なぜか君の脳内は苦で満たされている。
そういうへんちょこりんな君を苦から解き放ってくれるのが釈迦の体験談である訳だ。
そう、今の君には苦は無いのだよと釈迦は教えたかったわけだ。自分の経験を通して・・
情報の窓口(受付け係)は「海馬」が取り仕切る。そこで情報をどこにどう伝えるか取捨選択編集をする。
「海馬」に密接して、感情を司る「扁桃体」があって、「海馬」は「扁桃体」の情動の影響をうける。斯くして快感となる情報を「大脳」に送る事に「海馬」は快感を覚える。
共感ホルモン「オキシトシン」分泌で共同体にうまく対処しようという摂理である。「楽観」が猿を人に進化させた原動力な訳である。
過去の楽しい思い出が人を次の一歩へと進める未来を開かせて来たのだ。
苦は実存しない。
苦は頭の中での虚構である。
苦が解らない人がいても当然である。
苦は頭の中での君の虚構であるからだ。
ただ、言葉が人間と動物を分けるみたいなはなしが出てたから
どんなふうに分けてんだろう?と思って。
変わらないっちゃ変わらないんじゃない?と思って。
言葉っていうのは「こういうもの」っていうのは人間がそう決めてるだけで。
他の動物が何をどうやってるかは、人間のフィルターを通してしかわからないんでしょ。
「言葉ってこういうもの」の「こういう」の部分は
時間や場所や相手やなんやらかんやらでたぶんいろいろになるんでしょ。
だってー
あたしー
「実存」てー
わかんないもーん
他の人を自業自得と断罪するのは差別用語となりますね!!
無明も自業自得も自分自身の反省材料として、
自分自身のの向上に使う場合に限って光を放ちます
悪因悪果はあなた個人の自省の時に使う言葉です
猿が二匹います。
一匹はてきとーに楽観的で
他の猿が敵対して来てもてきとーにいなして
自分からも他の猿にてきとーに寄ってって
楽観的好奇心でてきとーに世界に散らばった
だからその猿は人間に進化した。
も一匹は、他の猿が気になる
相手の猿のやる事が癪に障る
そいつのやる事が気になって自分を悲観する
いいとこもってっちゃうキャツをみて嫉妬に狂う
だからこの猿は猿のまま留まって人にはなれなかった。
楽観的な考え方が世界を変える、人を変える。
人の進化の過程を捉えると、楽観的である事こそが脳を活性化し脳を発達させ生きるエネルギーを生み出す。
かくして楽観的な猿を人に進化させた。
これは今では脳科学の常識!!
犬が2匹います
1匹は、てきとーにごろごろして
人が寄ってきてもてきとーにごろごろして
自分からも人にてきとーに寄ってって
フレンドリーというほどの積極性も見せず
も1匹は、人が気になる
人のやることが気になる
も1匹のやることも気になる
かまって欲しげだけど、かまわれるのもちょっと…みたいな
で、いいとこ持ってくのは
てきとーな方なのよね
ていうか、気にしてるヤツがなんか嫉妬してるみたいになる
拗ねるっていうか
それは、人間のわたしが見てるからそう見えるだけなのかもしれない
で、まあ、そんな風に見てると、犬も人間も似たようなものだな、って思ったりする
偉そうかもしれないけど、批判に「偉さ」は、関係ないよね?
思い通りにはいかないわ。
成立する教えってこと。
釈迦の病状は今様で言うと重度のうつ病だったという事になるのですかね??
当時は適切な医者がいなかったので、この世を逃げ出して出家すれば死苦・老苦の恐怖から解放されると考えたのだけど、息子が生れるまでは逃げ出さずに必死に耐えていた・・・
でも修行の過程で死者が袈裟にくるまれてゴロゴロと野原に放置されている環境下で暮らす内に、だんだん肝が据わって来て、自力でうつ病から立ち直る方向性が見通せて来た(=自分で、ものの考え方・視野の転換が出来る様になった)。
これが人間釈迦のなまなましい実情であったとか????
古来の周りのみんなが信じているバラモン教では救われなかった。
息子が生まれ、子孫を残して義務を果たしたと考えて、
29歳の壮年において、救いの師を求めて放浪に出ていった。
多くの師について修行してマスターしたが、苦の解決にはならなかった。
仕方がないから自分ひとりでその道を切り開いた。
全てのきっかけは、自分の中に起こる「苦」の自覚です。
素朴な生活で満たされて生きている人に、無理に「苦」を植え付ける必要はありません。
先ず、「苦の自覚」から始まります。
四つの「法印」は、
一切皆苦
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静
他人を救うは、後から、結果として起こったことです。
「出家してこの死苦から逃れようとした」
つまりあれかな??
釈迦は死苦が怖くて怖くて仕方が無いから、せめて出家でもしたらその怖さが無くなると彼は思った、
って事??
「病人で無ければ薬は不要」。
イエスちゃんさん曰く、
「釈尊の出家前の段階の苦とおなじ苦にはまっている人が対象」。
つまり仏教に縋りつく人は「病人」で、自力回復を成し遂げた釈迦も悟り前はたいそうな(心の)重病人であった。
そういう論理になりますね。
酸いも甘いも噛み分けて
焦りや影は見出せず
我の欲するものを知り
死苦など恐れる事も無く
だだ飄々と余生を歩む
それを無明と言うとても
受けて立とうぞ伊達男
そういう男に私はなりたい
方法があり道があるって言うんだから、仏教者はもっと明るく考えたらいいではないか??
「死苦」なんて、てんで関係ねいな・・・
それを一般化して全世界の普遍用語としてしまうのは不遜というものでは無かろうか??
仏教だけが唯一無二の真理という訳ではあるまい。
「南の島で、先祖伝来の素朴な信仰に生きていて何も苦がない人」を、
仏教者は「無明なやから」として「苦」を洗脳したいのか??
それって余計なお世話じゃないの??
なら出家してこの世の全てを捨てなくてもいいじゃん、って思うよ。。。
という人は「驕り」じゃないの??
驕りも無明だよね。
他人を批判するほど君は偉いのか??
釈迦は「永遠に繰り返す輪廻転生における苦」のサイクルから、此の際一挙永劫に離脱してしまう為の方法論として、全ての全てを捨て切る出家の道を選択せざるを得なかった、そういう切羽詰まった心理状態にあったのだという事に尽きる(=完璧主義的思考)。
そういう思考をそのまま現在社会に当てはめる事は不可能にみえる。
大乗はそれでは成り立たない・・・
釈尊は、出家したからといって、人類が滅亡するわけはない、というのは前提だったように思う。
だって、それだけ人間の愚かさを承知されていたわけだろうから、早々自分(釈尊)の域には達せられない、ということも承知されていたはず。
例えば、野良猫みたいに、気づけばどこかで子供を作っている。
こういう人達は、
無明じゃないの?
>「言語(情報だから不変)の生み出す虚構」を実体と思い込む頭脳の性質に対して無知!
そういう南の島の人達は、
実体と思わない(思っていない)から、無知じゃないってこと?
つまり死苦から逃れるためには出家する(=世を捨てる)事が前提条件である、
と言う事でしょうか???
(だいたい、死苦って何なんですか?)
イエスちゃんがどこかで言った、瞑想修行で禅定を極めれば救い(悟り)にいたる(=死苦の克服)・・・の為の前提条件は・・・
家を捨て、家財を捨て、家族を捨て、親兄弟妻子恋人友達を捨て、職業を捨て、自ら金を稼ぐことを捨て、食事を作る事を捨て・・・ただただ出家するしか悟りは得られない????
イエスちゃんさんは今回そう断言し、
以前にも「釈尊の示した悟りの道は、もし全世界の人がそれに倣ったら、人類が一代で滅亡してしまう程のすさまじい教えであったのだ~~、釈尊にはこの世の存続など念頭になかったのだ(注、多少意訳)」とかとも言っていた訳ですが、
それだと『苦滅して人類滅ぶ!』・・・即ち、釈迦的出家(方法論)=一代で絶える世捨て人群=潜在的自己抹消心理が豊かな病いびとの群れ=私(釈尊)と同じ苦にはまっている人はこの世の全てを捨てよ症候群!
と言ってる事と何ら変わらない、理論的には。。。
これがイエスちゃんさんの意味と受け取ってよいでしょうか??????
で、イエスちゃんさんご自身の日常は充分釈迦の辿った清廉潔白厳粛なる出家の道の中に我が身をドップリ漬けていると言う事でよいのでしょうか?????
同じ気持ちでいたい、
あなたと私は同じでありたい、
という理想はあるが根源的に不可能。
愛する人、親子、恋人・・・等、自己にとって大切な人であっても、自己がある限り、他者の全てを理解し受け入れることは原始的に不可能である、ということか。
もっと易しく解説してください。
私は凡人です。
>(仏教は)「釈尊の出家前の段階」の「苦」と同じ苦にはまっている人だけが対象・・・
つまり、そういう人のみに仏教が必要だ)と言っているようですが・・・
そういう人は釈迦に倣えば解脱できるという事=釈迦に倣わなければ解脱出来ないという事・・・を言うわけでしょうか???
つまり釈迦と同じ苦を持ってる人が、
救われる為には、
釈迦の様に、家族を捨て、妻子を捨て、職業を捨て、家を捨て、資産を捨て、社会を捨て、共同体を捨て・・・・ただただいちずに出家出家出家オンリーの修行が必要である???
何故ならそうしないと執着を絶ち切れないから・・・
それで、そういう(心の)病気を持っていない人には仏教は必要ない???
こういう論理になるのでしょうか??
「無明」とは、
「言語(情報だから不変)の生み出す虚構」を実体と思い込む頭脳の性質に対して無知!
具体的には
「私」を、実体と考えて、
死んだらどうなるのだろうか?
輪廻転生するのか?
地獄に行くのか?
それとも、永遠に消滅するのか?
「私」とは「言語」を使うことで、常に、主語として立てられるものとして現れる。
龍樹菩薩は『中論』で、この言語批判を行った。
「去る者」は、去らない。
などと展開して、言語の矛盾を暴露した。
逆を言えば
言語が無知を作り出している
ってことかな。
に現在苦しんでいる人だけが対象です。
つまり、「釈尊の出家前の段階」の「苦」と同じ苦に、はまっている人です。
南の島で、先祖伝来の素朴な信仰に生きていて、
何も苦がない人には、必要ありません。
「病人」でなければ、「薬」は不要です。
だから、家族・妻子、社会を捨てて、「出家」して、この「死苦」から逃れようとした。
断食など死ぬ直前までの苦行もした。
しかし、その方法・道は間違いと気づき、御粥を食べて体力を回復して、
禅定・瞑想に入って、悟った。
そもそも永久不変なる「私」「自我」「自己」というものは、存在しない。
これは「言語」が造りだした「虚構」であると解った。
「私」が消滅するという恐怖「苦しみ」に対して、
「私」を永遠の天国に導いて、「苦しみ」の方を無くする、
のではなく、
「私」の方を「そもそも存在・実在しなかった、と解って」、自然と苦しみが消える、
を示した。
「私」「自己」「アートマン」…は実在しない。
「諸行は無常だから」、その結果、当然、必然、
「諸法は無我である」、
全ての存在は現象であり、実体などない。
「無明」「根本無知」とは、「言語」の事である。
永遠に生き続ける細胞というものが存在しそうだ。
ただ単に「人は死ぬものだ」という宿命に過ぎないということだ。
であるなら人は生きている間、如何に行くべきかが唯一問われることとなる。悔いない人生をおくれるのなら人は宿命たる死を受け入れ、後悔も無い!!
なるほど、これが壁でもあるのね。
>なぜ人は今の自分に固執するのか
畏怖心かなぁ。
しかし「生」は必ずしも「死」の概念が必要なわけではない(多分??)。
不老不死は生の一形態として概念的には成立するから。
左脳が働かなくなった時、右脳の意識世界が顕在化した。それは・・・、
「まるで自分が液体になった様で、世界と自分がいっしょくたになった様な感じ、自分という壁が壊れて、まるで自分が世界の中に流れ出たような感じで、どこからが自分で、どこまでが自分なのかわからなくなった・・・・」(コメ者注;なんか仏教の『空(くう)』ってこんな感じかな~ってみたいだよね!。)
養老孟司氏が自分の本に「自分の壁」と命名したのはきっとここから来ているのでしょう。そこで彼の知見は「(自分の壁を作って必死に)壁を守っている自分とは、守るほど重大なものなのか??
自分と言うのは現在位置の事であって、そこを歩み出せば又、違う自分になってしまう(=自己の無常性)。
(コメ者私感)。
であればなぜ人は今の自分に固執するのか(注;固執するのかとは=自分の言葉、思考に縋りつくのか、という意味も含む)。
死ぬって自分の都合どおりになるの?
そこから、本来の意味や価値が出てくるんじゃないのかな。
生死を、同一性と差異性の組合わせとしてることが誤解、といわれてるんだよね?
体がかつどうしてることと、人間として「生きる」は、意味が違うんじゃない?
つまり養老孟司氏のみ利口で、それ以外は「バカの人」と言ってるみたいで・・・
それで彼氏反省して、書き方を工夫したのか新しい本『自分の壁』では多くの人が「わかるわかる!!」と共感するそうだよね。
あッ、ソォ、それが何か???
って思ってしまう訳で、
「そうだからあれだ!!」を親切に説明して欲しいと思うんだよね・・・、生きた言葉を人に伝えたいんならね!!!
誰かが解説してくれるんでもいいけどね。
それと今回の記事およびコメント類がどう関係してるか???
頭の悪い私にはそれが解らず困っています。
どなたか説明してくださると助かりますが。。。。。
まじ?
「んなこたーない」って気がするけど。
言語にできないところで生きてる気がするけど。
だってわたしは、この身体がどうやって「生命」とよんでいるシステムを維持しているのかとか
ここに何か書き込むためにキーボード打ってるけど、どの筋肉をどう使ってとか、視線をどう巡らせてとか、
言葉にできないよ。
そんなことはないと思うよ。
私達って、何だかんだ言語でしか生きられないんだもん。
いかに、正法かってことかな。
正法の追究?
皆さま熱いですね。
「こだわるな」の意味が、ようやく理解できる。
唐代末からの、膨大な修行僧の集団が、
何にこだわってきたのか、
その一生をかけた、血と汗の努力の前で、考える必要がある、
と、考えています。
昔からも「鼠小僧」がいました。
どうも思考が混乱していますね。
「日本語の性質」「日本人の特質」ではなく、
その個人の頭の中の問題です。
その区別ができていない。当然です。
彼の仏教のお話はぜんぜんだめでした。
彼曰く、結論は「とらわれるな」でした。
要は、彼は「釈尊の仏教」が全然理解できていない!
そもそも、彼の専攻は仏教ではなく、「インド思想」であった。自分で言っていた。
それで洗脳されてから、「その色眼鏡で」仏教にも手を出した。
彼より、社内研究部門で「電子顕微鏡の開発を30年間続けてきた」その人の生き方・哲学に感銘を受けた。
現在、3人の中国人・「日本語学習の上級者」に、ひとりひとりに個別に、日本語を教えている。
上級だから、平安時代の日本語の状態・歴史から、説明しないとならなくなる。
(日本語使用法のルールを、「言語で」きちんと論理的に説明するためには)
日本語は「当然」厳密に表現しようとすれば、表現できる能力がある。
そして「多義」にもでき、「曖昧」にもできる。
科学の世界で、ノーベル賞を獲得するのも、日本人の頭脳・論理思考である。
幼児期から日本語で訓練されてきた賜物!
しかし、「この日本語で曖昧なままで、生きていく」のならば、
「釈尊の仏教」はまったく理解できない。
だから、「釈尊の仏教」は、日本人には理解できていないと考えます。
「道元和尚の仏法」が、日本人に理解できないのと同じ。
これは「道元和尚の仏法」が、瑩山禅師が理解できなかったのと同じです。
「日本達磨宗」は、日本で発明されたものです。
後に、比叡山などから弾圧を受けて、正統であることを証明してもらおうとして、弟子に「自分の心境・境地の書」を持たせて、それを提示して中国の宋代の「臨済禅宗」の印可状・免状を受けてきた。
つまり、一度も「面接も」受けずに、免許の安売り!
いんちき免許証・印可状である。
その免状の系譜を、後生大事に、瑩山禅師は大切にした。
つまり、道元和尚を解っていない。
この一つ一つの細胞は、「活性」と「非活性」の2つの状態の「どちらか」で「だけ」、存在する。
そして、これは「情報」であり、固定であり、「不変」であり、「永遠」を本質にする。
この頭脳が、「自己」にとっての外界を認識して、脳細胞の「活性」と「不活性」とに「写し取る」。
その「写し取った」情報を、「大脳皮質内」で、どんどん「情報変換」していく。
「知覚した情報」から「主観の情報」へと、「意味」と「価値」とをごてごてと付加して、デフォルメしていく。
だから「心頭滅却すれば、火も涼し」となってしまう。
「主観情報」が「感覚情報」を完全に否定し抑制し「火を存在しないもの」にまでできるようになる。
特殊な訓練をしないと、普通の人はこのようにはなれないが。
しかし、たとえ主観が「涼しい」といっても、「肉体」の方は「自然の法則」で動いているのだから、焼け死んでいく。この「主観が支配する状態の頭脳」を道連れにして焼け死んでいく。
「自己」の消滅に対する恐怖心・苦悩…つまり「死苦」
に憑りつかれた者は、
この蟻地獄からどうやって抜け出すことができるのか?
それは・・・
「自己」とは「自我意識」が造りだした「虚構」である事実・・・これに目覚める、体感する。
このことを釈尊は教え、
体感する方法を、禅定、思考作用の停止、
「自我意識の活動を極限まで低下させる」
小脳の活動「呼吸、心肺機能」だけにまでもっていく。
この世界では「言語活動は停止」し、「自我意識が停止」し、その結果、自己と世界との「境界」がなくなり、
「梵我一如」と見えてくる。
しかし、これでは「これを大我と認めて」錯覚して、結局は、
現実の「自己」の肯定に、成り下がってしまう事となる。
「大我」は「言語」が生み出した虚構であるから。
事態は逆であり、
「世界と自己とが、究極では、ひとつ」なのではなく、
「自己」とは、言語による「虚構」である、
この事実に踏みとどまり、
常に、「自己」に戻ろうとする力・源泉「言語」を、
常に、批判し続ける行為の中に居続けるしかない。
歴史上の「釈尊」の仏法とは、このことを示している。
だから、「密教」は、「非仏教」なのである。
「梵我一如」のヒンドゥー教そのものに後退したから。
そして、必然的に、「インド仏教」はヒンドゥー教に完全に飲み込まれ、消滅した。
イエスちゃんに問うたのは、如何に答えられるかにありました。
それぞれの単位における無限小や無限大という領域を考えればわかることですが、現代人の認識領域では遠く及びません。 私の考えは、認識にとらわれるなですね。
言語的認識は、定冠詞と不定冠詞に関することでは、「何処の誰だか知らないが、誰でもみんな知っている月光仮面のおじさん」という言葉を通用させる日本語を踏まえておくことでしょう。
至極納得してしまう愚人的大衆!!。
そこで孤高の賢人曰く;
「無常」と「常」は差異性を現す一対語だ。しかし絶対矛盾無し的自己同一性たるべき「常」は実存しないのだから、「無常」も実存しないのだ。
此の世には「常」もなく、また「無常」もないのだ。
ただ此の世にあるのは「空」だ、
「空」のエネルギーが充満してるのだ。
そこで愚民ハタと膝を打つ。
俺って「空」のエネルギーの中にいるんだってな~。さあ今日一日元気いっぱいがんばろ~ぜ!!
面白いコメント
いつもありがとう。
また来てね♪
「間違えている」場合もあるからね。
「なんでそこで『批判』?」て感じ。
生きていれば認識もするけど
認識するために生きてるわけでもなかろう、みたいな。