恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

お手紙ありがとうございます。

2016年10月20日 | 日記
「悟り」が何なのか教えて下さるという、ご親切なお手紙ありがとうございます。久方ぶりにこの種のお手紙を拝読いたしました。

 貴台のお話では、誰かの本を読み、書いてある通り修行したら「預流果」を得られたとのこと、謹んでお慶び申し上げます。

 さて、御説によると、脳が色々と余計なことを考えて「世界」や「自己」の存在を錯覚するので、特定の方法(主としてある種の瞑想)によって、その錯覚と錯覚する主体をありのままに観察できれば、錯覚はことごとく解消される。そうなったときが「悟り」であって、そのときのありのままに観察する主体こそが「本当の自分」だ、というアイデアのようです。

 私は出家して以来、このテの話を、上座部から大乗まで様々なデザインで、それこそ耳にタコどころか、顔中にタコができるほど繰り返し聞かされて、心底から辟易しきっています。大変申し訳ありませんが、私は、「悟り」と「本当の自分」が出てくる言説には、もはや全く興味も関心もないのです。面白いとも役に立つとも思いません。ただの駄法螺にしか聞こえず、自分には端的に不要なのです。

 以前にも書いたので、長々繰り返しませんが、それまで「悟った」ことがない人に、ある日特異な何事かが起ったとしても、それが「悟り」だとわかるはずがありません。すると、だれか別の「悟った」人に「君は悟ったよ」と「認定」しもらうしか、自分の「悟り」を証明できますまい(貴台の場合は他人の書物を証拠としているようですが)。

 すると、事情は先に「悟った」人も同様ですから、その証明は次々に遡り続け、結局、釈尊まで至ります。

 ところが、当の釈尊は「悟り」が何なのか、自分の口で語っていません(それを明言する文献が無い)。となれば、物は言いよう、考えようで、あとは支持者の分布と多寡の問題にすぎず、「悟り」の内容は結局、ポジショニングによるでしょう。

「本当の自分」も同じ。「本当」を判断する「正しい」根拠は一切ありません。せいぜい「とりあえず今は、これを『本当』にしておこう」程度のことです。

「観察する主体」にしても、それがあるなら、「観察する主体」を観察することが可能ですから、ことは無限遡及になります。どこで「本当の自分」を打ち止めにするかは、完全な恣意でしょう。

 少なくとも私には、今やそんなことはもうどうでもよいのです。

 私は、坐禅という身体技法を使って、言語機能と自意識を低減させることによって、「自己/世界」というがごとき、通常の二元的認識パラダイムを解除できることを知りました。わかったのは、そこまでです。それ以上の話は、所詮お伽噺にしかなりません。

 現在の私の、日常生活における坐禅の位置づけは、およそ以下のようなものです。

「二元パラダイム」解除によって「自己」「世界」を初期化して、いわば「非思量」の現場を開いて一切を「問い」として露わにし、その土台からあらためて「自己」と「世界」を仮設する。その過程で、「自己」と「世界」は、<それはいかにあるべきか>という「問題」として構成されていく。この「問題」に、時の条件に応じて適宜選択された方法でアプローチし、できる限り明瞭に言語化する。

 かくして「問題」が取り組むべき「テーマ」にまで構成されたなら、まずは好悪・善悪・虚実・正誤のような価値判断を一切差し控えて、「テーマ」をめぐる諸存在の関係性を認識した上で、それに取り組む具体的な工夫をする。実際にやってみれば中々上手くいかないこの行為を、それでも繰り返して改善しながら習慣にできれば、「悟り」も「本当の自分」もまるで必要がない。意味もありません。

 以上、所感です。あしからず、御免ください。
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315 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-10-20 00:47:23
その方は、「嘘の自分」も、演出されたいのでしょうか。
Unknown (南京ハゼ)
2016-10-20 01:29:41
いろいろな考え方を思うと共に、青空に絹雲が映えとてもさわやかな風が吹くかのような感じが致します。
季節の変わり目、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 02:10:39
もちつもたれつな物語り。

お終い。
」遺産、御手コメありがとう御座います (Unknown)
2016-10-20 02:55:45
富士山の樹海の様な、迷路となっている
道元山を生涯かけてさ迷い歩き、やっと見つけた私の眼の前は広々とした平野が広がって、その向こうにはアルプスの山々がある事に気が付いた。もう人生も短い。自分が「道元」山(やま)のおサルであった事に気が付いた。別名「道元井戸の中のカワズ」であった事も知った。

世界はあんなに広かったのに・・・、
沢山の人がただただ道元山の樹海の中でさ迷ったまま死んでしまった、が・・・

でも彼らの名誉にかけて私は言う・・・
彼らは名誉ある戦死者である。栄光ある真理の探究者である。生涯を課す価値のある人生を全うしたのだ!!と・・・・


さる道元オタク自戒の言!!
(遺産曰くの【妄想】です。悪しからずご免ください!!)。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 04:05:29
「正義」の定義;
己の信ずることを正義と確信し「お手紙」します人。
そして他者の事を妄想だ、迷言だと断罪する人。

「妄想」の定義;
正義の獅子たる自分の言う事に従わないで、「悪しからず、ご免下さい」と言う人。

うわッ、つまり南師は「妄想」者って事になってるんだね!!
Unknown (Unknown)
2016-10-20 04:29:19
(゚∀゚)アヒャ~~、南さんって「妄想の人」か~。

わしゃ~、「恍惚の人」じゃぜ!!

どっちもどっち、もちつもたれつかなァ~!!!
以後よろしゅう御免下さい!!
Unknown (Unknown)
2016-10-20 05:23:48
ですよね!
Unknown (Unknown)
2016-10-20 06:02:33
道元山の樹海もまた、空なり!
長生きしてください (独学の者)
2016-10-20 06:20:50
相当うざい手紙が来たのでしょうか。嫌味ったらしい文章、最高に好きです。こんなふうな仏教者は、南さんだけなので長生きしてほしいです。

悟りすましたような話を聞くと、暴れたくなります。ですが、仏教2500年のなかで悟りすました話のほうが圧倒的に求められたいたフシもあり…。

南さんのお話は、通じる人が絶望的に少ないですよね?それでも言い続ける希望(?)って何でしょうか。

 私は南さんにムカつくと同時に、うまく言えないけど、同時代の仏教者に南さんがいて本当に救われました。
有難うございました。
Unknown (尾花)
2016-10-20 06:47:37
手紙の前文に「私はなぜ『悟り』を語りたいのか」を書いていただければ、読み手の負担が減り、より親切なものになるのではないかと思われました。

また手紙を書いている方も、『悟り』に関連させて「自分自身が何を望んでいるのか」を自覚できるかもしれません。

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