くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「少年の日の思い出」ヘッセ

2015-01-25 10:49:10 | 外国文学
 ヘルマン・ヘッセ、高橋健二訳「少年の日の思い出」。
 東京書籍国語教科書中学一年版です。教材として扱うのは三回めですが、読めば読むほど深みが感じられる作品ですよね。
 教科書展示会で他社の教材も読みましたが、ちょっと驚いたことに、同じ高橋健二さんの訳でも、表現が違うところが何カ所かあるんですよ。
 東京書籍は、全部「チョウ」で統一してあるのです。が、A社は数カ所「チョウチョ」になってる。「僕」と「ぼく」、「粉々」と「こなごな」のような表記も違います。
 まあ、たいしたことではないんですが。でも、与えるイメージは違いますよね。
 さて、今回読んでみて、「僕」にとって「チョウ=宝」である比喩が全体に散りばめられていることに、改めて気づかされました。もう自明のことなんでしょうけど、比喩として書かれる部分は全部チョウかエーミールを表現しています。
 わたしは後半から少年の気持ちを想像していって、最後に前半の伏線を読む授業をしているのですが、ほかのチョウではなくワモンキシタバを手にとっているところからも、クジャクヤママユを彷彿としたのではないかと感じました。
 ところで、図書室の蔵書に「おもしろ国語学習法」()という本を発見。パラパラめくっていたら、「少年の日の思い出」についてふれてあったのです。そこには、「ふうさんが」と……。
 ふうさんって、何者? なんか緊張感に欠けるんだけど、と一瞬考えてしまったわたし……。もともとは「クジャクヤママユ」ではなく「ふうさん蛾」だったってことですよね。

 ……ここまで、昨年書いてすっかり忘れていました。
 今年も一年生を担当しているので、同じようにやっていますが、生徒によって少しずつ提示の仕方は違うなと感じています。
 わたしは短篇小説は書かれていない部分をどう読みとらせるかを教えなければならないと思っているので、「僕」の家族構成とかエーミールの家を訪ねるときの気持ちとか考える時間をとります。
 コムラサキを見せにいくとき、エーミールから羨ましいと思われたいと読む子もいます。
 今年感心したのは、「僕」の話を背後で聞き続けている「私」の存在を読み取った子ですね。わたしは後半から授業をすすめるので、なおさら気づきにくいところです。
 短篇は細かいところからバックボーンを読み取らせなくてはならないのですが、わたし自身なかなか精読できずに終わってしまうこともあります。この作品は、読み重ねるほどに新しい発見があって、おもしろいと思います。