くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「獣の奏者Ⅳ 完結編」上橋菜穂子

2009-08-31 05:42:26 | ファンタジー
読了後しばらく、言葉が出ませんでした。
完結したはずの「獣の奏者」Ⅰ・Ⅱから、よくもこれだけの物語を掘り起こしたものです。
何を言ってもネタバレになってしまうような気がするし、この物語はたくさんの人にまっさらな気持ちで読んでほしいと思います。
Ⅲでもそうでしたが、この物語は、エリンのイアルへの思いを描いた作品ともいえます。二人の恋物語を直接書くのではなく、結婚して子供もいて、「家族」として「伴侶」としてどれだけ大切に思うのか。出会った頃の思い出がカットバックされながら描かれます。
もちろんイアルのエリンへの思いも。

「神速のイアル」が、Ⅲでは指物師に、Ⅳでは蒼鎧にと立場を変えるのですが、Ⅲのラストで、
「最前線を駆ける覚悟のない者に、武人は敬意を抱かぬからです」
と、闘蛇乗りになる宣言をしたイアルの言葉の底にある決意が、この巻では明らかになります。やっぱり、やっぱりイアルは素敵だっ、と声を大にして言いましょう。
ジェシを諭す場面も、最後に描かれる後の人生も、とても彼らしいのです。

この物語が描くのは、ひとつの時代の終焉です。それは、闘蛇乗りの時代であり、真王の象徴としての王獣の時代です。圧倒的な獣の力を使うのではない、新しい闘いの時代がやってくる。エリンはその終幕を生きるのです。
やがて、カレンタ・ロウの集落と同じように、王獣たちの物語は「伝説」になるのでしょう。

読み終わってもうひとつ考えたのは、初代の真王であるジェの思いです。
闘蛇と王獣の闘いから故国を失い、リョザの国を建てた彼女。文字を変化させ、意識的に特慈水を使って繁殖を制限し、自らの過ちを繰り返すことのないように祈った彼女。「カレンタ・ロウの記」や、彼らに残された伝説からうかがえるジェは、寂寥さえ感じさせます。
そして、「奏者」とは「操者」なのだということを考えました。「王獣使い」という言葉を嫌う上橋さんにとっては、不本意かもしれませんが。
それにしても近隣の書店にいまだに入荷していないのはどういうことでしょう!

「獣の奏者Ⅲ 探求編」上橋菜穂子

2009-08-30 06:41:43 | ファンタジー
知る、ということについて考えてみます。
子供のころには気がつかなかった母親の行動、その思い出の影に隠された真実を、エリンは知っていくのです。
闘蛇を操ることによって、国を守ろうとする大公。しかし、それよりも強大な力がなくてはならないことがわかったとき、エリンと真王との約束は壊れます。王獣を戦闘に使うこと。エリンは悩み、王獣の生態にはまだまだ隠された何かがあることを探りたいと考えます。
王獣を操ることができるのはエリンだけ。その事実から彼女は狙われることになるのです。
どうすれば王獣を動かせるのか。その秘密を求めている人々がいる。しかし、保護された王獣には繁殖の兆しがなく真王が求めるような無敵の軍団は作れないかもしれません。
真王もまた、自分の立っている場所が信じてきたようなものではないと知り、悩んでいます。

発売日に探しにいって、本屋を覗くこと十日、やっと買えた「獣の奏者Ⅲ」(講談社)。東京ではベストセラーリストにあがっていましたね。
わたしは上橋菜穂子さんの文章が大好きなので、続編が出ると聞いて以来、読むのを楽しみにしてきました。
満足です。少女だったエリンが母親になり、王獣や闘蛇の秘密を探る。家族のことや母の思い出。なんというか、精巧な織物を見る思いがします。
そうでなければ、やはりシンフォニーでしょうか。
Ⅲにはエリンが竪琴を弾く場面はありませんが、ロランという楽師が登場します。彼は異国の血を引き、それでも国を守るために生きているのです。音楽という術を使って。
わたしはロランの義父であるヨハルさんがすごく好きですね。上橋文学におじいさんて、めずらしくない? トロガイ師もラフラのアズノもおばあさんだったものね。
エリンを守ろうとしてけがをしながらも、ヨハルさんは闘蛇を操ります。
「……闘蛇の角を握れば」「黒鎧は、誰にも負けぬ」
しびれます……。
それから、闘蛇の村で亡き父の従姉妹に出会うシーンもじーんときました。
「あなたは、まだ口がまわらなかったもんだから、わたしのことをチャアチャアおばちゃんって呼んでたわ。ツラナっていうんだけどね、わたしの名は」

まだ本当に小さい頃の記憶。エリンが母のもとにいたときの記憶です。彼女は、あれから三十年も経って、そのときには見えなかった出来事の背後の真実に気づいていくのです。

それにしても。
この人物紹介、何故かエリンの「夫」という記述が省かれています。あのひとに間違いないと思いつつ、確証がないのは辛いものですね。
少女時代を描くⅠ・Ⅱに比べて、しっとりしているような感じを受けました。
ロランの歌からジョウンさんのことを思い出し、そして……という場面が印象的でした。
イアルの手記も、考えさせられます。

「手習いパンダ」

2009-08-29 05:22:38 | 工業・家庭
こういうテーマで文化祭とか模擬店やるとおもしろいのでは?
「手習いパンダ」(飛鳥新社)。ぬいぐるみだのブックカバーだの、ぜーんぶパンダをモチーフにした作品が載っています。型紙なしで作れるものもあるよー。
わたしはステンシルが好きなのです。消しゴムはんこも。パンダも大好き。写真集も二冊持ってます。(片方は写真のわきに「論語」が引用してある不思議な本ですが)
まだこの目でパンダを見たことがないのが残念……。
白と黒でこんなにかわいらしい作品が作れるのですよー。とくに、フェルトの素材で作ったものがキュート。見ているだけで楽しいです。
わたしは、くまだまりさんのデザインした作品が好きですねー。アイピローとか筆入れとか。こいけひろみさんやこまけいこさんのもかわいい。
こんなにたくさんの品物ができるんだ、と驚きます。すてきなコンセプト。ぜひとも全国のパンダ好きの皆さんの目に留まりますように。

「エ/ン/ジ/ン」中島京子

2009-08-28 05:46:23 | 文芸・エンターテイメント
「宇宙猿人ゴリ」のテーマソング……。思い出せません。「スペクトルマン」はわかるのになー。夫に部分的に歌ってもらって、何となく記憶にあるようなないような……。
中島京子「エ/ン/ジ/ン」(角川書店)。ジャケ読みです。
冒頭を読んで、よもやこういう展開になろうとは。エンジンとは厭世的な人。ミライの父親はそんな人だったそうです。顔も名前も知らない父親。
母親はいつか彼のことを話すと約束したのに、長い間の断絶から戻ってみればアルツハイマーで、何も語ってくれません。
自分が誕生したことについて、少しでも知りたい。そう考えた彼女は、母が昔主宰していた「トリウムキンダーガルテン」の子供たちに連絡をとろうとします。祖父が園長だった「つぐみ幼稚園」の敷地内で、ほんの一年間活動したその幼稚園の同窓会をしよう、と。
その会合にたった一人現れて、ミライの父親探しを引き受けることになった葛見隆一。葛見が「エンジン」を探す渦中、手掛かりとして出会った小説家の「わたし」。ミライの友人。「エンジン」こと「かきざきあつし」を知る人物たち。
彼らの視点から見た「かきざきあつし」の人生が語られ、「わたし」はそれを聞きとります。彼女のこれまでの人生で、「かきざきあつし」を物語る人物とのクロスオーバーが幾度か繰り返されてきました。小説家としての興味や、葛見の誘いにより、最後には「R・Kakizaki」なる人物に会うために彼らに同行することになります。
この物語に、「エンジン」こと「かきざきあつし」は、最後まで姿を見せません。言わば、証言のドラマなのです。
そして、対比する二つの存在がいくつも描かれます。
学生運動の間は、真面目で同情的な目で見られていたのに、あさま山荘事件をきっかけに残虐なグループだと思われる学生たち。
個性的な「トリウムキンダーガルテン」と規律的「つぐみ幼稚園」。指導者である倉橋礼子と塩川篤子。
また、同じように女性運動に参画しながら、礼子の活動に否定的なヨガ教師。
「宇宙猿人ゴリ」はこれらを象徴する物語として登場します。地球を破壊して環境汚染をすすめる人間たちを、その汚染物質で培養した公害怪獣によって退治し、自分の王国を作ろうとするのです。パラドキシカルで、だれにも理解されず、孤独と憎しみを抱えるゴリ。
自己矛盾があり葛藤があります。
そして、根底にあるのは自分の生を消してしまった父と、記憶の中からなにものかを消し去ってしまった母。
何が真実なのか。何が正しいのか。
おそらくどちらも。「信じてきたものは正しかったが、過ちとしていたものも正義だった」(THE BOOM)。ということなのでしょうか。
「ゴリ」として生きていたあつしは姿を消し、そのあとを追うように来人が反戦運動に加わっていきます。
母に反発し、決してなかよくはなれないだろうと感じていた思春期のミライ。それは来人とあつしの関係とも共通します。もう戻らない肉親のあとを追うように、ミライは庭の植物を料るのでしょうか。母との蜜月の時期を懐かしみながら。
個人的には、ひょこひょこおじさんこと下斗米(しもとめ)さんが気になりました。

「アルプスの少女ハイジ」

2009-08-27 05:13:05 | YA・児童書
「アルプスの少女ハイジフェア」をやっていたので、いろいろ買ってしまいました。娘が来年着るTシャツとか(笑)。エンディングテーマの部分がデザインされていてすごくかわいいんだー。自分に合うサイズがなくて残念でした……。
「ハイジ」といえば、学生時代の友人との会話を思い出します。
友「夏休み、何やってるのー?」
わたし「ん? 自動車学校に通ったり『ハイジ』の再放送見たりしてるー」
友「ふーん、で、今どのへんまでいってるの?」
わたし「うん、ハイジが山へ帰ってきてねー」
友人は絶句し、そして笑いだしました。
「自動車学校の教程を聞いたんだよー!」
ははは。ごめん。

子供のころから繰り返して読んだハイジの本。なんと文章は辻真先、出版は朝日ソノラマです。さすがにもうどこにいったかわからなくなりましたが。
この本を読んで、わたしが幼心に思ったことは、「クララが立つ部分のエピソードが、テレビと違う!」
今、手元にないので確認できませんが、原作では、クララに対する嫉妬から、ペーターは車椅子をわざと落として壊すのです。テレビではそんなシーンがないですよね。
不思議に思ったわたしは、ほかの「ハイジ」の本を読んでみました。(もう少し年長になってからだと思うのですが)
そしたら。
このシーン、かなりテーマと関わる大事な場所なんじゃないの? 根底にキリスト教思想が流れていることも、やっと理解できました。(もしかして辻さんも書いていたのかも。でも余り意識していませんでした)
だから、「ハイジ」はわたしが比べ読みしたはじめの本ではないかと思うのです。多分、翻訳は村岡花子。
スピリではない人が書いた、「それからのハイジ」も読んだなあ。テレビではあんなにおいしそうだった山羊の乳から作ったチーズが、「くさい」と言われて、ハイジが女学校で仲間はずれになるシーンが忘れられません。

「推理日記」Ⅶ 佐野洋

2009-08-26 05:23:48 | 書評・ブックガイド
県図書館で借りてきました。佐野洋「推理日記」文庫Ⅵと、単行本Ⅶ(講談社)。
「六冊めまでは文庫になってたんだー」と読み始めてですね、とあることに気づきました。それは、同じ記事が収録されている、ということ(笑)。
そう、文庫Ⅵは、単行本のⅦとⅧの内容が入っているのです。うおぉー。どうなのこれはお得なの?

今回、気になったのは木谷恭介氏でしょうか……。彼は大衆作家という存在が認められないという不満をもっているようです。それで佐野さんが彼の著作を読んで、シリーズ小説について意見を述べる。このシリーズ探偵・宮之原警部は別にいなくともいいのではないか、と。
「読者あるいはファンのために、宮之原警部を登場させているということのようだ。だが、と私は敢えて言いたい。」
「その宮之原ファンはどういう読者なのだろうか。本当に小説が好きな人たちなのだろうか」
佐野さんの頭に浮かぶのは「水戸黄門」ファンの知人たちです。
「誇張して言えば、私は、小説を書く上で、水戸黄門のドラマは敵だ」
そんな佐野さんの意見を聞いて、木谷氏は言うわけですよ。
「草の根読者」を大切にしたい、と。
彼の主張によると、熊本の人たちは芝居を見るときに加藤清正が出てこないと不満がったため、筋に関係なく加藤清正を通行させたんだとか。
だから、水戸黄門的なドラマは必要だし、自分はそういう「お話」を求める読者のために書く。暇つぶし多いに結構。自分の小説の水戸黄門的存在が宮之原なので、今後も出し続ける、というような要旨。
それって、どうなのですか。じゃあ、批評の意味がないじゃない、とわたしなぞは思うのですが。
「大衆作家」として批評されたいのではなかったっけ? 批評されると「大衆作家」としての側面をあげて、だから自分はこれでいいのだっていうのはどうなのか、と。
で、少し考えたのです。「大衆作家」って、ほかにどんな作家を指すの?
わたしはこの人の本を読んだことはないのですが……。トラベルミステリー系列だと、うーん、吉村達也とか西村京太郎は、そのくくりに入ります?
ワイドドラマ原作者はどうですか。あ、でも夏木静子は違うような……和久峻三とか。
木谷氏は、「ノベルズ作家」とも言っていますね。すると茅田砂胡もそうなの? 岡嶋二人は?
アマゾンのブックレビューを検索してみましたが、発見できません……。
以前に木谷氏が同様の嘆きをしているという記事を何かで見たことがあるような記憶があるのですが。なんだったろう。もしかしてわたし、昔単行本Ⅶを読んだのでしょうか。まったくわかりません。
時間たりなくて、結局文庫版は読み終わりませんでした。
浅黄斑氏の本と、本岡類氏の「9人の仕事人」を読んでみたいな。乃南アサが結構とりあげられますね。「登場人物をどう呼ぶか」というテーマに関してのお手紙文のところで、自分の本名があるロックスターと同じであると明かします。気になったのでもう少し調べてみました。
正解は、「矢沢」です。

「小説道場」③ 中島梓

2009-08-25 05:51:59 | 書評・ブックガイド
ふうぅっ、県図書館で借りてきました。中島梓「小説道場」③④(光風社出版)。地元には①②しかなくて、県図書館には③④しかなかった。でもって、ほかの四冊とともに、三日で読んで返却しなくてはならない。なぜなら、研修が四日間だから……。その後仙台に来るチャンスは当分なし。
しかし、読み切れるのか自分! 二日めで、読み終わったのは「青春相談室」のみ。明日返せるのか本当か、と自分にツッコミつつ……。
がんばりました。③。連載が五十回を越えて、円熟を迎えたことがわかります。毎回、似たようなことを言われているような気がするのに、なぜいちいち読み飛ばさずに読んでしまうのか……。そして、栗本さんの毒気のようなものにあてられているような気もするのに、小休止したあとにまた手をのばすのか。ふーっ。とにかく、すごい吸引力だと思います。
小説に関する基本的な事項は、もう①②でほとんど言ってしまっているのだと思うのですよ。で、この巻で栗本さんが繰り返し言うのは、「JUNE」(的な小説)とはどういうものなのか。
また、随所にあらわれる小説観にうなずかされます。
「すべてのキャラの目で同時に世界を見ることができるようになったら」
「最後の最後まで現実を見つめる勇気か。(略)でもこの二人はそれじゃちっとも成長してないじゃないか!」
「そのあいまいな、もどかしい情感というのがまたこの平安朝の小説のリアリティになっていたのではないかと思うのだ。だが現代に生きている私たちが読むからには、同じ情感はもう持ちえないのは当然である」
うーん、考えさせられます。でも、この巻の後半で、「皆さん、本当のJUNEとは何かなんてことを考えるのはやめませんか」とアジテートしたいと言ったり、そうかと思えばやはりこだわってみたり……。ただ、栗本さんが言う「JUNE」のキーワードは「孤独」なのかな、という印象はもちました。
この巻、たつみや章こと秋月こお氏の大活躍がきわだっていますが、本文によると、「道場はじまって以来のスケベー」なんだそうで、「ぼくの・稲荷山戦記」が講談社児童文学新人賞をとったときは、「なお、たつみやの本領とする超ハードシーンはおそらくカット……して投稿したものと思う、はははは」と書いてあるのですが。
あの話で、ハードシーン……誰と誰との間で?
さらに、彼女が「児童文学」(=童話)であることについての考察もありました。
ごめんなさい、やはり性急に④は読めそうにない。また今度、と思って返却しました。

「学校経営と学校図書館、その展望」北克一ほか

2009-08-24 05:43:54 | 総記・図書館学
たまには専門書について。「学校経営と学校図書館、その展望 改訂版」(青弓社)北克一 編著、志村尚夫/天道佐津子。
司書教諭講習のテキストです。
わたし、実は資格持ってないんですよー。でも、四年前から講習に通って、今年でラストです(多分)。土日含めて四日間、通いました。
資格がなくても情熱で(笑)、活動することはできると思っていたのですが、免許のある人が転勤してくると担当から外されてしまうので、ずっと学校図書館に関わりたいと思うなら、資格をとるほかにないと思ったのがきっかけです。
で、いざ勉強を始めてみると、やはり自分の好きな分野を専門的に学ぶのは楽しいですね。今まで知識から抜け落ちていた部分も補えるし。
独学ではわからない部分があれこれ出てきて勉強になります。
この本は、これまで学んできた「学校図書館とメディアの構成」や「情報メディアの活用」と重なる部分もあり、図書館の活動アイディアまで載っていて、参考になりました。講習が終わったら古本屋に売るつもりだったけど、考え直してアンダーライン引きまくりです。
わたしは図書室を運営していく上で、「メディア」というものを余り考えていなかったのですね。ビデオテープやCDは別置したりリーフレットを集めたりはしていたけど、規模が小さかった。
選書にしても明確な基準はなかった。いわば「わたしがルールブック」状態です。よみもの中心で、カタログに載っているようなものは買ってないですねー。自分で「これは!」と思うようなものを配架したいのですよ。
図書室の空間配置やバリアフリーについて、学校での実践例など、「なるほどなー」の連続です。
ただ、書籍としては図書館活動をいくらかしてきた人向きだと思います。ただ資格だけほしいという人には辛いかも。
なんでもそうなのですが、専門用語をしっかり読み取れるバックグランドがないと、学習は難しい。ことばの後ろにある意味がわからないとね。
講習中、「SLA」(14ページ)の意味を尋ねた方がいたそうですが、先生は「シルバーライフアドバイザー」と答えてました……。(本当は「全国学校図書館協議会」です)
わたしがわからなかった用語は、「レフェラル」(専門的な機関に問い合わせて情報を入手したり、その機関を利用者に紹介すること)と「パスファインダー」(あることがらを調べるための手順・方法・情報源を一枚にまとめたもの)。
本をていねいに読んだり索引を使えば調べられるのですが、余りにも基本的な単語は省かれています。
でも、例えば「アニマシオン」は、世間一般に流通している言葉でしょうか。でもって、これの説明はおよそ五十ページ後に「読む力を引き出すために、創造的な遊びのかたちをとる『作戦』をもちいる読書教育法」。えーっ。それでわかるの!
で、先生がどんな説明をするのかなーと聞いていたら、「インターネットにたくさんの事例が出ていますね」。それはやはり、自主学習しろということですか……。(でも、説明されるより具体例を読んだ方がわかりやすいかも)
試験があるのですが、その課題のひとつは、「今後学習指導要領において教育をすすめる上で、学校図書館の機能をより効果的・有効的に展開するために、現状の課題とその改善策と方針について述べよ」。これも実際に図書館の仕事に携わっていないと書きにくい気がします。
わたしも課題について考えてみました。うちの図書室はオンライン化されており、コンピュータで貸出処理や検索ができます。でも、この本が求めているような各校でのネットワークによる情報交換はできていません。他校は今でもカード式の貸出です。わたしもずっとそうしてやってきたので、コンピュータによる蔵書管理はまだ覚えて半年になりません。便利ですけど。
予算がないのも悩みですねー。五年前の半分以下です。自分で買って読んだ本は、結構寄贈しています。でも、好きじゃないとやっぱりできない仕事かと思います。
さて、試験。書き終わってから、「そういえば、『学習センター』『情報センター』としての役割は書いたけど、『読書センター』としての側面を書かなかった」と気づきました。ははは……。なんでも、終わってから気づくものです。

「青春相談室」三浦哲郎 その②

2009-08-23 08:30:22 | 哲学・人生相談
三浦さんの人生相談、解答編です。
まず、わたしが初読したときに最も心に残った相談を引用しましょう。(ごく一部省略しています)

「初めて好きになった人に誤解され悩んでいます」
Q
私は中学三年生になってから初めて男の人を好きになったのです。今どうしたらよいか困っています。
九月から社会科の時間に、積極的に授業をすすめていくという方針で、男子三人、女子三人が一グループで、グループ学習をするようになりました。リーダーは私の好きなA君で、私は副リーダーでした。内心すごく喜びもしました。
ところが、私たちのグループにT君もはいっていました。このT君は二年生のとき、母から「今の両親の子ではなく親せきの人の私生児だ」と聞かされました。今となってはそれがかえってアダとなってしまいました。
時間中、T君とよく口げんかをします。私は血の気が多いのか、すぐ頭に血がのぼり、
「なにさ、おめかけの子のくせに!」としゃべりそうになってしまったことがたびたびありました。それで、あまり話をしないようにしてきたのです。
ところが、先日、A君から「少し頭がいいからって、そんなにお高くとまらなくってもいいだろ。俺達と話もできないというのか」「ちがうのよ!」心の中で叫んでも、A君にはわからないのです。私は高まんちきで、わがままな子だと、A君に思われているのです。
今、先生にいってグループをかえてもらいましたが、A君からは相変わらず冷たい目でみられています。悲しくて泣きながら眠ってしまう日もあります。どうか私によきアドバイスをお願いします。
(愛知 T・N)

A
お手紙を読んで、あなたの心の動きに怒りをおぼえました。
たとえT君が本当に私生児だったとしても、私生児自身のどこが悪いのだ。T君自身はなにも知らずにこの世に生まれてきたのです。T君にはなんの責任もない。そして、あなた自身にもおなじ人間としてT君を軽蔑する権利がこれっぽっちもないのだ。
ところが、あなたはごうまんにもT君をさげすんでいる。たとえ口には出さないにしても、「なにさ、おめかけの子のくせに!」と、しゃべりそうになるということは、あなたの心なかにT君への強いさげすみがあるからだ。あなたは、不幸な環境にいる人を上から見くだそうとする、おなじ人間として憎むべき人種の一人だ。
そんなあなたのごうまんで恥ずべき心のうちが、知らず知らずのうちにあなたの態度にあらわれているのです。A君が怒りたくなる気持ちは、よくわかります。あなたのような女をみていると、誰だって気持ちがいらいらして怒りたくなるのだ。
あなたの身勝手さは、居心地が悪くなれば先生にたのんでさっさとグループをかえてもらうところにもあらわれています。そして、最も困ったことは、あなた自身、自分の心のみにくさにちっとも気がついていないことです。
猛反省をうながします。


どうですか、厳しいでしょ。でもこれが三浦さんの考えなのです。ひじょうに彼らしい。
ほかにもいろいろあるのですが、手紙の中から相談者の現状をできるかぎり読みとろうとしていることに気づかされます。
ただ、少女たちの現実と三十男の三浦さんには乖離があるのですよね。例えば「交換日記」を始めたけれど、相手の男の子のことを好きでもないような気がしてきたからどうしたらよいのかといわれると、
「交換日記をしているからといって、あなたがどうして自分がS君のことを本当に好きかどうかについて思い悩むのか、そのわけが理解できなかったのです。」「交換日記というのは、『好きな人同士が自分の日記をみせ合うこと』」なのかと尋ね、そして結論は、
「日記とは自分自身との孤独な対話です。他人にみせたりするものではありません。ですから、交換日記には反対です。」
うーん、この子、日記の存在意義について知りたかったわけではないと思うよ……。
でも、青春期の少女の悩みは混沌としていて、手紙という形で気持ちを整理するだけでもだいぶ楽になるとは思いました。(そういえば、男子からの相談は例の一件だけですね)
「青春相談室」が、ほかの人生相談と違うのは、相談者の手紙の部分でしょうか。かなりページをさいているものもあります。普通ページの都合で短く編集してあるものなのです。なんていうか、悩みって普遍的なものでしょ。ひとりに答えながらみんなに発信する顔を持っているから、中心部だけで枝葉は取ってしまうことが多い。
もちろん文章に手は入っているのでしょうが、なるだけその人個人に応えようというイメージが伝わってきました。

「青春相談室」三浦哲郎 その①

2009-08-22 05:33:53 | 哲学・人生相談
ふふふ……。これを待っていたのです。三浦哲郎「青春相談室」(秋元書房)。十数年前に読んだのですがすごいインパクトがあって、忘れられませんでした。
だってこんな投書があるんだよ!
「十七歳の一尼僧です」
……尼僧? 幼い頃から我が子以上に可愛がってくれた「庵主様」に恩返しをしようと、中学校を卒業してから三年間修行することになって長野のお寺に来ている。尼寺なので女性と年配の男性しかいないのに、その中の「Sと関係ができてしまったのです」。
えッ! と思っていると、強引に唇を奪われたことがわかります。
Sは54歳。今までにも女の人と問題を起こしている。人手不足で解雇はできないらしい。
なにしろ四十年前の人生相談ですからねー。(小学館発行「ジュニア文芸」に創刊から終刊に連載。単行本発行は昭和46年)
恋愛や性に関する考え方はかなり変化したことがわかります。
でも、昔から悩みに関する相談って、恋愛・性・友達関係・家族・生き方についての悩みが多いですね。同じような悩みでも、解答者によって受ける印象は違います。わたしのベスト解答者は三浦さんと藤原正彦です。(「私の人生案内」) 三浦さんの答えについてはまた後で語るとして、こんなものすごいのもありますよー。とびとびに引きます。
「ぼくは十五歳の中三です。私立の男子校に行っているのですが、今年、高等部のA君と親しくなりました。A君はかみが長くて、ほりの深い美しい顔だちの美男子です。ところがA君は大の女ぎらいでした。それに男友だちもあまりおらず、人みしりらしく、いつも一人でした。」
誘われて家に遊びに行くと、女中さんしかいなくて、「きょうはだれもいないの?」と聞くと、
「いつもさ」との答え。そして、「ぼく」はA君と深い仲になってしまうのです!
全国の腐女子の皆さんが喜ぶようなこんな展開。
「泣くなよ、君がいい子でいればやさしくするから。君はかわいい、大好きだ、愛してるよ」
「ぼくは、君が一年にはいってきたときから好意を持っていた。ぼくはいつかうちあけようと思っていたけど、これ以上がまんしていたら君をだれかに取られてしまう」
「どんなことがあっても、君をはなさない。ぼくから逃げようとしないでくれ。君をだいじにするよ。大人になったら君は女になるんだ。そうして、ぼくたち結婚しよう」
ひぇ~、A君わたしを笑い死にさせる気?
ちなみにタイトルは、「男どうしの愛で、いつまでしあわせが続くか不安です」。
現在五十代かと思われますが……。
ほかにも、十六歳で二十九歳の婚約者がいて、普通の女の子として生活したいのに……というものも印象に残っています。
あ、三浦さんの解答について書くスペースがなくなってしまいました。また次回。