くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「坊っちゃん」夏目漱石

2018-03-13 20:24:46 | 近代文学
 教科書版です。11章のうち1章のみが掲載。
 清水義範が教員実習にいったとき、この教材を担当してテーマが「清への愛」であることに愕然としたエピソードを読んだことがあります。
 グループで問題づくりをする課題をしているのです。全体を読むわけてはないのだから、細部を考えさせたいのですが、自分だったら思いつかないようなものが生徒からは出てくるわけです
「清の強いところはなんですか」(答え「想像」!)
「親父がしないことはなんですか」(答え「えこひいき」……)
 ちなみに「悪太郎と呼ばれてどうされますか」という問題の答えは「爪はじき」だというので、意味を尋ねてみると「おはじき……?」。
 「ごましおのびん」の意味は分からない子が多いとは予想していましたが、ううむ。
 ただ、明治の文章が今でもすらすら読めるだけでもものすごい力強いですよね。
 
 そういえば、坊っちゃんは左利きのようです。ナイフで右手の親指を切りつけますからね。
 ドラマで二宮くんが演じたとき、本来左利きの彼が箸を右で持って食事をしていましたが。

 坊っちゃんは幼少のころ、人参畑の上で相撲をとったり、井戸を埋めて水をせき止めたりさんざんいたずらしますが、松山の学校でうどんや団子のことでからかわれたり、バッタのことで怒ったりします。自分がされるのは嫌ってことでしょうか。
 あ、食べるものについて描いてあるのも特徴かも。清からきんつばや紅梅焼きを買ってもらい、別れ際にも「越後の笹あめ」の話をしています。
 下宿の食事より松山の方がうまいとも言っています。
 そういえば、「命よりだいじな栗」とも言っている。
 わたしは漱石作品は「坊っちゃん」「こころ」「夢十夜」しか読んでないのです。
 でも、東北大学の漱石文庫に行ってみたいのです。地下鉄開通したことだし、行ってみようかな。

「新潮日本文学アルバム 斎藤茂吉」

2015-08-22 13:04:51 | 近代文学
 新潮日本文学アルバムといえば、わたしが高校生のころから図書館には定番といわれるシリーズ。わたしも川端の無表情で犬を抱っこする写真を始め、文士のみなさんの素顔をたびたびこの本から見せていただきました。
 しかし、こんなに一冊を熟読したのは初めてです! そのくらい魅力に溢れているのです!
 
 茂吉本を読むようになって、まず最初に茂太さんの「回想の父茂吉 母輝子」を読んでおいてよかったなぁ、と思いました。
 嵐山光三郎の「文人悪食」もこの本を種にしていますし、茂太さんが父の留学した地を巡った写真が、こちらの文学アルバムに紹介されています。
 年表で見てきたことが厚みをもつというか。これまで断片的に捉えてきたことがぴったり収まったというか。
 なぜ茂吉は斎藤病院の跡取りとして上京したのか。
 わたしはずっと、成績が優秀だったためだと思っていたのですが、実は血縁もあった。茂吉の母と斎藤紀一の父はいとこで、茂吉はこの方から凧絵を習っていたそうです。
 また、近くの和尚さんも茂吉を後継者にと、習字や学問の手ほどきをしてくれたとか。
 少年時代の茂吉はすっきりとした顔立ちで、結構どこのクラスにいても違和感のない感じがします。
 漱石も映っている集合写真もありました!(英語を教わったようです)
 伊藤左千夫や島木赤彦、土屋文明……たくさんの文士が登場します。
 若い頃から文壇の中心にいた人なのだなと感じました。

 衝撃を受けたのは、昭和二十六年の文学勲章伝達式の写真です。光田健輔、柳田国男、西川正治、武者小路実篤、初代中村吉右衛門。
 著名文学者が三人叙勲していることにも驚きましたが、光田健輔がこの年に受けていたとは……。(ハンセン病関係の本を読むとよく出てきます)
 わたしにとって、茂吉は「ひげ」のイメージが強いのですが、この本を見ているとひげがない時期もよくあることに驚きます。
 とてもおもしろい一冊でした。

「文豪の素顔」

2015-08-01 05:43:30 | 近代文学
 「文豪の素顔 写真で見る人間相関図」(エクスナレッジ)。監修高橋敏夫・田村景子。
 表紙カバーの漱石がかっこよくて借りてしまいました。香日ゆらさんの影響はすごい。(「大正四つ葉セレナーデ」も「夏目漱石読んじゃえば?」も読みました)
 漱石も子規も載っています。一葉から周五郎まで31人。
 芥川の振り返った顔がまた男前なんです。太宰はいつもあごに手をかけている感じ。川端は中学生の頃から眼力がある!
 写真で見ていくうちに、有島の「或る女」のモデルだった佐々城信子が気になってきます。かつて国木田独歩の奥さんだったのですねぇ。独歩のページにも写真があるんです。この二枚、結構印象が違う。
 朔太郎が白秋に送った手紙の一節が抜き出してあったのも印象的でした。「私の恋人が二人できました。室生照道(犀星)氏と北原隆吉(白秋)氏です」
 うーん、白秋本人にそういう手紙を出したのですね? 犀星と仲良しなのは知っていましたが……。
 文豪たちも、インパクトがあるのは作品だけではないんですね。

「龍平の未来」河野悦子

2013-12-02 21:25:39 | 近代文学
 「この日何の日カレンダー」を作ろうと思いまして、誕生花や出来事をまとめています。その日にちなんだ本も紹介するということで、12月1日の本は「龍平の未来」() 。
 この日は、世界エイズデー。血友病の薬害エイズを公表した河野龍平さん、十九歳のフォトストーリーです。
 河野さんといえば、みんなの党所属の議員さんで、現在もご活躍ですね。緑赤十字による薬害エイズ訴訟は記憶に新しいところですが、こうやって実際に本を読むのと、ニュースとして目にするのは、わたしにとってはだいぶ意味が違うように思います。
 話題になった本です。続編のように次の本が出版されたことも知っています。でも、手にとって読んだことはなかった。
 先日読んだ国境なき医師団日本の本で、現在アフリカではエイズの治療薬が開発されているが、それを毎日継続するのが難しいのだと書かれていました。しかも、二日ほどうっかり飲み忘れてしまうと、もう二度と効かないのだそうです!
 この本に描かれる河野さんは、普通の十九歳の青年です。小学生の頃に告知され、悩み、傷つき、でも周囲の理解もあって、自分のことを開示しようとしている。予備校の仲間に打ち明ける場面もありました。
 加えて、お母さんの苦悩が伝わってきます。医師たちを信じて薬を使い続けてきたのに。
 旦那さんとはこの問題の立ち位置で意見が合わず、離婚を選択したそうです。
 最近、献血でエイズが発症したニュースも報道されましたね。
 マイクに向けて自分の主張を話す写真を選んでコピーしたのですが、今回、12月1日はお休みでした……。
 ということで、カレンダーは今日、2日からのデビューとなります。日本人記者がはじめて宇宙に滞在した日とのことで、日本人初の女性宇宙飛行士向井千秋さんのことを描いた「君についていこう」(講談社)から、万起男さんが出発を見送るシーンを紹介しています。
 この本もおもしろい。わたしは小川洋子さんがラジオで語ったのを聞いて借りたんですが、時間がたりなくて半分しか読めなかったのです。(文庫本だと分冊されていますが、その上巻分です)
 他の月もちらほらと作っていますが、年末年始は発表の機会がないんですよね。宮部さんの誕生日とかクリスマス関連とか箱根駅伝とかあるに。(でも作りますよ、もちろん……)

「山月記」続き

2013-09-06 05:13:39 | 近代文学
 わたしは李徴の告白を、懺悔だとは思いません。いや、誰もそんなこと言ってはいないんですが。
 虎になりきってしまう前に、妻子のことを頼むべきだが、詩を優先してしまう自分に気づいていることを李徴は語ります。だから、虎になってしまったのだと。このあたりからも、わたしは李徴という男が内面的に変化したとは思えないのですよ。
 なんてことを言ってますが、分科会では校種が違うことや実際に授業で教えたことがないので、きちんとまとめられなかったんですけどね。でも、意外と袁慘という人物設定は大きいと思いますよ。
 普通、虎に向かって「その声は、我が友、李徴子ではないか?」なんて言えません。李徴にとっては「最も親しい友」(ここ、視点が変化してますよね)ですが、袁慘にはほかにも友達はいるでしょうし。
 高校の先生は「山月記」をどう教えているのかという話題も出ましたが、「一行目からわからないと言われて、辞書を何度も引かせて説明した。最後は結構理解できてきて、自分がなるとしたらウサギかな、とか盛り上がった」とおっしゃった方が。
 いやいやいや、それは理解してないのでは?
 「人間は誰でも猛獣使い」とあるけど、君のはどんな猛獣? という質問もありました。話のネタとしてはありかもしれませんが、やっぱりそれも違うと思う。教師がストライクゾーンに投げられなければ、生徒は正確に打ち返せないのではないかな。ごめんなさい、えらそうで。わたしも李徴と似たようなところがあるのは重々承知です。
 今回、公開授業ではないもう一時間の授業(これは三年生の現代文「舞姫」)も見せていただいたんですが、これがすっごくおもしろくて、おかげで前の時間のことはふっとんでしまったのですよー。表面に現れない事件や醜聞を切り取って、時代背景を反映させながら解釈していく。見学者がいるのに、生徒は夢中になって話し合うんです。黒板もほとんど使わないのに、わかる。自分ならクビになったあとドイツに残るか、それとも帰国するか。豊太郎のもとに母の手紙とその死を知らせる手紙が同時に届くその意味は何か。あぁ、続きが気になってならない! 先生、わたしは高校時代豊太郎はひどい奴だとしか思わなかったんですが、この授業ではどんな着地点なんですか? 
 分科会は図書館でやったのですが、十年前に訪れたときとは大分変わっていました。書架の並びとか展示とか。配列も。新しい本が増えていて、わたしが在学中に借りたものは「シューベルト歌曲集」くらいしか見つかりません。パソコン管理になったので、カードも抜いてあったなあ。
 恩師先生の授業の声が昔と変わらず、校舎も変わったところもあればそうでないところもあり、ノスタルジックな気分で職場に終了報告の電話を入れたところ、授業参観のみで申し込んだのに、と言われ……。
 名簿を見直したら、確かにそう書いてあって愕然。本当に注意力散漫なわたしですみません。
 とりあえず、「舞姫」読み直してみます。

「山月記」中島敦

2013-09-05 21:11:48 | 近代文学
 母校の公開授業を見に行きました。予習しようかと出発前に探したんですけたど、なんと本校図書室、中島敦の本がありません!
 指導案を見る前に添付資料で読んだのですが、なんと麗しい文章! 涙が出そうです。これはやっぱり、男の人の声で淡々と(でも場面が見えるように)朗読していただきたい。
 授業では、李徴が自分の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のために虎になったのだと語る部分を取り上げたのですが、高校でもクリティカルリーディングを取り入れようとしているのか、「自分と比較して読む」ために「共通点や相違点」をあげて小集団で話し合う活動をしていました。
 うーん、かなり初期段階から自分に引きつけて読んでいれば別ですが、あんまり虎になるような男と比べてみたりしないんじゃないかな? 自分の中に潜む葛藤、己を「珠」ではないとあやぶむ心と、「珠」であると信じたい心とを重ね合わせることならできるような気はしますが。
 生徒の発表では、部活の試合中に自分の中の猛獣が現れるとか、自分には自尊心はないので、他人とも平等に接するとか、自尊心が邪魔をするなら棄ててしまえばいいにとか、すっとんきょうな(ごめんなさい)意見が出てました。中でも「刻苦をいとう怠惰」をあげて、苦手教科の勉強を後回しにするとか……そういう意見に唖然とさせられました。
 現役高校生に、この小説は遠いのでしょうか。李徴が怠け者のように聞こえるのは、気のせいですか? 李徴のいう「刻苦をいとう」は、師や詩友を作らない(批評を受け入れず、自分に自惚れる行動)では? 
 言葉というのは、文脈によると思うので、表面の意味だけではないと思うのです。授業の中で、「李徴のようにびくびくしている」という発言もあったのですが、えー、李徴は「虎になり果てた」とか「それに気が付いた」とか言いながらなおもえらそうな男ですよ。「臆病」に引っ張られているのでは? 大体そんな男が虎になんかなるもんですか。
 これは、「変身のわたし」の物語です。異形のものになる。つまり、人でなくなる。冒頭に「発狂」とまで書いてありますよ。
 一年かけて、李徴は人間である自分を失っています。虎から人に戻るチャンスはなかったのでしょうか。
 極端にいえば、李徴はずっと同じですよね。虎になって考えが変わったかというとそうでもない。葛藤はあるけれど、改めて詩友を作る気になるとは思えません。だって、「おれよりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ」なんて平気で言っていますから。
 先生はこういう詩人と自分を比べて、彼らは努力を惜しまずに詩作し、才能が乏しくても気にしないものだということに、李徴は虎になってようやく気づいたのだと言ってましたが、虎になっても自分の方がそんな詩人たちよりも才能あるのに、と思わずにはいられない歪みを感じるんですけど。大体再士官した李徴は「昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝」すのも嫌だったのですよね……。
 李徴が比較的冷静に吐露できるのは、相手が唯一の友袁慘(字が見つからないので代用)だからです。他の人に泣き言は言わないでしょう。袁慘も、李徴に才能のきらめきを見ながら「どこか欠ける」とその詩を評している。
 (続きます)

「羅生門・鼻」芥川龍之介

2013-08-24 21:01:07 | 近代文学
 夏の講習では、結構芥川に関する話題が多かったように思いました。このテキストでは、「鼻」と「芋粥」とを読んでくるように指定されていたので、一応読みはしたのですが、自分の読み取り能力の低さにがっかりしてしまいます。
 もともといわゆる「王朝もの」が好きでよく読んだはずなんですが……。自分が把握しているのはあらすじであり、文面を丁寧にすくいとるのは苦手なようです。
 まず、「芋粥」の狐について全くわからない。五位に権力を見せつけようとした利仁の策略(仕込み)かと思ったんですが、ラストでは芋粥のご相伴に預かっているし。だいたいこの「芋粥」がおいしそうじゃないんですけど。「山の芋を中に切り込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥」とのこと。お粥なのに、甘いってこと?
 でも、そのお粥を腹一杯食べたいというささやかな望みをもった男(五位)が、金持ちの婿(利仁)に誘われてはるばる敦賀まで連れて行かれ、目の前でものすごい大釜で粥を炊かれ、夢を失う物語です。利仁はすごく意地悪なんですが、途中で狐を捕まえて、自分たちの到着時間を敦賀に知らせろという。狐は奥方の夢に現れただけでなく、芋粥を煮ている場所にやってきておこぼれに預かります。
 狐なんて見てもわかんないんだから、最初から打ち合わせていたのだろうと思ったわたしはここで頭を抱えるわけです。
 ついでに、利仁一行が着くのは翌日のことなのですよね。この夜はどこに泊まったの? 野宿?
 まぁ、それは置いといて、先生によればこれはいじめの話であり、「鼻」の嘲笑と通じるのだとか。芥川の話はグレーゾーンというか、白黒つけるのではなく、非常に曖昧が残る。そういわれれば、「藪の中」なんて典型的ですね。
 「鼻」では内供が元に戻った鼻にほっとしています。これは本当に今後笑われなくなるのかという疑問が残るのです。そういえば、「地獄変」も、殿の思いを否定するほど邪な恋慕が際立っていました。
 別の先生から「手巾」についての話もありました。読めば読むほど混乱するとは言われましたが、わたしとしては「型」のいやらしさとか、同じ出来事でも捉えるときの立場で見方は変わることを表しているのだと思ったのですが、なんと、この主人公、新渡戸稲蔵をモデルにして、彼を揶揄しているんだてさ。
 そ、それが「主題」なんですか? 
 ちなみにこの新潮文庫版では、「武士道や婦道の批判を意図した」と書いてありました。反面、型による女性の美しさを彷彿とされることもある。
 うーん、わたしはこの奥さん苦手なタイプ。 
 ただ、こうやって読んでみると、芥川は主人公に寄り添わないタイプの物書きのような気がします。小説って、どうしても、主人公を受け入れながら読んでしまいませんか? 彼は突き放していますよね。冷徹な感じがします。