美術の先生って、大別すると「芸術家タイプ」と「デザイナータイプ」になると思うのです。
この本の太田先生はクリエーターかな。子供のものの見方を育てていく、それは感性を磨くことなのではないでしょうか。
山本美芽「りんごは赤じゃない 正しいプライドの育て方」(新潮社)。美術教師・太田恵美子の教育について描かれたルポルタージュです。
中学に入学した一年生に、太田先生は「先入観がいかに間違ったものであるか」を自覚させます。草、月、太陽、星。誰もが同じ「形」に書いてしまう。つまり、記号を書いているわけです。その中から本当の形、「記号が中に封印されてしまった本質」に気づかせなくてはならない。
本当の草の形をスケッチし、発泡スチロールで野菜のレプリカを作る。生徒たちはその作業を通して、ものの本当の色や形を観察し、再現しようとするのです。そう、「りんごは赤じゃない」。
この学習に続けて、太田先生は「調査研究」という作業を繰り返し行います。テーマは、「環境問題」「全天候型・携帯便利な二十一世紀の夢の自転車」「自分が目標とする偉人」など、発達段階に応じて用意されます。
統一テーマとしては、「ネイチャードリームビジョン」、「ワールドドリームビジョン」、「ヒューマンドリームビジョン」と続きます。
その学習を通して、「私自身の生活・進路・生き方に」その課題を「どう生かすのか」。
図書室で資料を探す時間は5分。あとは自分の「選んだ」テーマについてひたすら調べる。地域の図書館に足を運んだりインターネットで調べてきたり、ときにはインタビューや質問紙による調査をする子も。
スケッチブックに細かく記入された調査結果は、最終的には作品として結実します。
すばらしい。ぐいぐい引き付けられて一気に読みました。ただし……第十章まで。
すみません、わたしの個人的な感想として、十一章と十二章はなくてもいいんじゃないかと思うのですよ。このあたりでせっかくのカリスマ性を壊している気がします。
いや、このカリスマ性も、太田先生が努力して培ったものだということはわかりますよ。でも、職員室内での理解が得られないということをこれほど書く必要はないのではないでしょうか。筆者の山本さんは取材のためにこの中学校に二年も通っているのですよね。その間に、管理職やほかの教員との接点がなかったはずはないと思います。(取材許可も必要ですしね)
それなのに、太田先生に対してほとんどの教員は協力的ではないということが書かれていたら、同僚として嫌な感じがすると思うの。それともそう書かずにはいられないほど、太田先生の立場は悪かったのですか?
評価のことについても。数字だけで評価できるものではない、ということはよくわかります。「いい子ね」という太田先生のことばがけもひとつの「評価」です。
ただ、テスト不要論に関して気になるのです。そりゃ、美術をペーパーテストで評価することは難しいです。でも、評価対象はテストだけではないことを、中学校に勤めたことのある山本さんなら知っているはずだと思うのですが。
「ペーパーテストのかわりに全校生徒五百人以上、全員の作品とスケッチブックを、自分の目で見ていくのだ」
「こうした評価方法をするには、テストをおこなって点数を順番に並べるよりも、数十倍の時間が必要になる」
こういう書き方に、疑問を感じるのです。作品に目を通して評価することを、ほかの教員が怠っているように聞こえるのは気のせいでしょうか。
でも、テストだけで作品を見ることもなく「評価」することはないはずだと思うのです。最近は、美術のテストを行わない学校も増えましたね。
疑問が残る場面をもう一つ。太田先生の息子さんが教師になりたいと考えたとき、「絶対にやめてほしい」と懇願し、教員免許をとることすら許さなかったということなのですが。
もしも生徒が、「太田先生みたいな先生になりたい!」と発表したとしたら、どうなるの? 応援してはくれないのですか?
気になることをちまちま書きましたけど、十章まではほんとうにおもしろく読んだので残念です。
あ、でも一読の価値はありだと思います! 太田先生の生徒に対する真摯な姿勢、学習習慣を身につけさせるための努力、心にしみますよ。
図書室活用のアイディアとしても、楽しめました。
この本の太田先生はクリエーターかな。子供のものの見方を育てていく、それは感性を磨くことなのではないでしょうか。
山本美芽「りんごは赤じゃない 正しいプライドの育て方」(新潮社)。美術教師・太田恵美子の教育について描かれたルポルタージュです。
中学に入学した一年生に、太田先生は「先入観がいかに間違ったものであるか」を自覚させます。草、月、太陽、星。誰もが同じ「形」に書いてしまう。つまり、記号を書いているわけです。その中から本当の形、「記号が中に封印されてしまった本質」に気づかせなくてはならない。
本当の草の形をスケッチし、発泡スチロールで野菜のレプリカを作る。生徒たちはその作業を通して、ものの本当の色や形を観察し、再現しようとするのです。そう、「りんごは赤じゃない」。
この学習に続けて、太田先生は「調査研究」という作業を繰り返し行います。テーマは、「環境問題」「全天候型・携帯便利な二十一世紀の夢の自転車」「自分が目標とする偉人」など、発達段階に応じて用意されます。
統一テーマとしては、「ネイチャードリームビジョン」、「ワールドドリームビジョン」、「ヒューマンドリームビジョン」と続きます。
その学習を通して、「私自身の生活・進路・生き方に」その課題を「どう生かすのか」。
図書室で資料を探す時間は5分。あとは自分の「選んだ」テーマについてひたすら調べる。地域の図書館に足を運んだりインターネットで調べてきたり、ときにはインタビューや質問紙による調査をする子も。
スケッチブックに細かく記入された調査結果は、最終的には作品として結実します。
すばらしい。ぐいぐい引き付けられて一気に読みました。ただし……第十章まで。
すみません、わたしの個人的な感想として、十一章と十二章はなくてもいいんじゃないかと思うのですよ。このあたりでせっかくのカリスマ性を壊している気がします。
いや、このカリスマ性も、太田先生が努力して培ったものだということはわかりますよ。でも、職員室内での理解が得られないということをこれほど書く必要はないのではないでしょうか。筆者の山本さんは取材のためにこの中学校に二年も通っているのですよね。その間に、管理職やほかの教員との接点がなかったはずはないと思います。(取材許可も必要ですしね)
それなのに、太田先生に対してほとんどの教員は協力的ではないということが書かれていたら、同僚として嫌な感じがすると思うの。それともそう書かずにはいられないほど、太田先生の立場は悪かったのですか?
評価のことについても。数字だけで評価できるものではない、ということはよくわかります。「いい子ね」という太田先生のことばがけもひとつの「評価」です。
ただ、テスト不要論に関して気になるのです。そりゃ、美術をペーパーテストで評価することは難しいです。でも、評価対象はテストだけではないことを、中学校に勤めたことのある山本さんなら知っているはずだと思うのですが。
「ペーパーテストのかわりに全校生徒五百人以上、全員の作品とスケッチブックを、自分の目で見ていくのだ」
「こうした評価方法をするには、テストをおこなって点数を順番に並べるよりも、数十倍の時間が必要になる」
こういう書き方に、疑問を感じるのです。作品に目を通して評価することを、ほかの教員が怠っているように聞こえるのは気のせいでしょうか。
でも、テストだけで作品を見ることもなく「評価」することはないはずだと思うのです。最近は、美術のテストを行わない学校も増えましたね。
疑問が残る場面をもう一つ。太田先生の息子さんが教師になりたいと考えたとき、「絶対にやめてほしい」と懇願し、教員免許をとることすら許さなかったということなのですが。
もしも生徒が、「太田先生みたいな先生になりたい!」と発表したとしたら、どうなるの? 応援してはくれないのですか?
気になることをちまちま書きましたけど、十章まではほんとうにおもしろく読んだので残念です。
あ、でも一読の価値はありだと思います! 太田先生の生徒に対する真摯な姿勢、学習習慣を身につけさせるための努力、心にしみますよ。
図書室活用のアイディアとしても、楽しめました。