くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「古典の裏」杉村瞳

2020-01-07 19:03:52 | 古典
 古典の裏話には詳しくなくては。
 でも。考えてなかった着眼がかなりあり、勉強になりました!
 杉村瞳「古典の裏」(笠間書院)。
 「仁和寺にある法師」は、なぜ道を聞かなかったのか。
 偉いお坊さんが、庶民でも当たり前に知っていることを知らなかった。石清水八幡宮を「拝む」より「参詣してきた、と周囲に自慢すること」が目的だったのではないか。山に行くのを我慢したと、わざわざ言うところがあざとい。
 なるほど!
 滑稽の中に潜む人間像が、伝わってきますね。

 「竹取」で繰り返される「三」という字に着目。
 この時代、「三」は神聖で特別とされた数なのだそうです。三寸、三ヶ月、三室戸斎
部の母、三日間。わざと重ねてある!
 また、かぐや姫の驚くべき能力(帝の前で消えてしまう、など)は話題にしていましたが、それは周囲の人が「魔法にかけられていたから」!
 天人がかぐや姫の気持ちを全く理解できずに、不老不死の薬を飲めば気分の悪さ(翁らと別れる悲しさ)が回復すると考えるというのも、納得できます。
 イヤー、楽しい。
 繰り返し読みたい一冊です。

「平安女子の楽しい!生活」川村裕子

2018-08-29 05:59:27 | 古典
 千年前の女子も、ガーリーだったことが伝わってくる一冊。川村裕子「平安女子の楽しい!生活」(岩波ジュニア新書)。
 古典常識を学びたい人にもってこい。「インテリア&ファッション」「ラブ」「ライフ」の側面から平安時代の生活を紹介してくれます。
 この標題からもわかるように、できるだけ現代の中学生に親しみがもてるようなポップな表現が使われています。
 「蜻蛉日記」の説明は「王朝ブログ」! さらに、口語訳も「シャンプーして、メイクして、ふんわりいい匂いがする着物を着た時の気持ち。そういう時は、誰も見ていない所でも、心のなかはわくわく気分!」(「枕草子」「心ときめきするもの」)という感じで、どきどきマーカーラインが入っています。
 特に服装とか調度品、文のやりとりなど、わかりやすい表現で、読んでいると楽しいんです。
 「忘らるる身をば思はず誓いてし……」の二つの解釈の話もおもしろく読みました。
 ①心配なの……。私のことを忘れちゃったんだから、あなたの命、きっとなくなっちゃうわよ。(脅迫オトメ説)
 ②心配なの……。あなたの命がなくなると思うと私、本当に本当に心配なの。(純情オトメ説)
 わたしは①だと思ってましたー。
 今回は岩波ジュニア新書をまとめて配架しました。中学生には豊かな知識に触れるいいシリーズだと思います。

「江戸小咄」駒田信二

2018-01-28 13:19:42 | 古典
 古本屋さん、少なくなりましたね。わたしも新古書店はかなり利用していますが、昔ながらの古本屋さんも好きなんです。
 検診の帰りに駅ビルで古書フェアをしていたので寄ってきました。
 買ったのは、都筑道夫「猫の舌に釘を打て」、三浦哲郎・晶子「林檎とパイプ」、そして、この「江戸小咄」(岩波書店)です。
 駒田さんの中国伝奇小話がおもしろかったので、全集「古典を読む」から抜き出して買ってしまいました。
 江戸時代の小咄には、同工異曲のものもあり、そういうものは連続して載せてあります。
 中国の小咄からの翻案や、後世の落語に通じていく変遷の様子が伝わってきます。
 
 中学生の受ける模試には短い古典が出題されることが多いので、「醒睡笑」など読んでみたかったのです。
 この本に紹介される小咄も、当然ながら歴史的仮名遣いで書かれています。
 短いし、展開がはっきりしているから、結構読みやすいのですが、今では使わない表現や当時は常識だったことが分からなくて伝わらないこともあります。たいていは駒田さんが説明してくださるのですが。
 中国笑話との関わり、武士、儒者、殿様、泥棒、医者をテーマごとに分けて紹介されています。
 「矛盾」や「助長」のような故事成語などもありました。
 「小町の百夜通い」をモチーフにした小咄。
 公家のお姫さまに懸想した男が、「今宵より百夜通ふて、夜ごとに通ふたしるし、車の棍にきずつけよ。百夜過なばかならず逢ん」と言われて九十九日め、腰元があらわれて、
「お姫様のおつしやりまする、『お通ひなされて九十九夜、一夜ばかりはまけにしてあげませうほどに、わたくしにつれまして、お寝間へすぐに参れ』との事」
 しかし、言われた男はしりごみします。
「ナゼそのやうにおつしやります」
「アイ、わたくしは日雇でござります」
 明和期に描かれた「鹿の子餅」からの出典。まけてくれるつもりのお姫さまも、日雇いを使って百夜通わせる男も、なんだか人間くさいですよね。
 艶笑譚も結構多いのです。
 しかし、類似の物語を並べるためにはかなりの本を読まなくてはなりませんよね。駒田さんの博覧強記ぶりに驚きます。
 適切なガイドで古典を読むのは楽しいですね。

「お江戸の都市伝説」

2013-10-22 21:14:18 | 古典
 出版は五年前です。時間があるときに読もうと思って鞄に入れたまま、それごとしまい込んでいました。見つけてからもつれづれに、あちらこちら読んだもので、どこかを繰り返して読んでいたり。
 「お江戸の都市伝説」(PHP文庫)。江戸期にまとめられた怪談や説話から取り出した物語をジャンル分けして紹介しています。「耳袋」や「諸国百物語」「稲生物怪録」といったところですね。
 わたしはそういう系統の話が大好きな小学生でしたが、当時読んだような本は最近刊行されていませんよね。それこそ「都市伝説」や「実録怪談」は多いですが。
 この本に紹介されている「宗丹狐」は、千利休の孫に化けて茶会に出席した(もちろんお茶をたてるのです)そうです。風流ですね。それから、空から降ってきた男の話がインパクトありすぎでした。足袋だけはいていたそうです。京都の武家の息子なのだといい、愛宕山で出会った老僧のあとを着いていったはずだと話します。彼の足袋は、確かに京で作られたもの。天狗の仕業だろうと噂されたそうですが、奉行所の役人は扱いに困って罪人を入れる「溜」に落としたのだとか。
 ほかにも「飴買い幽霊」や「雪女」「河童の相撲」の話もあります。いまどきだとこういう話はうけないんでしょうか。娘は帯を見て、
「狐の嫁入りって、怖いの? しゃべる猫は?」
 と不思議そうなんですが、まあ、あんまり刺激的ではないかもしれませんよね。
 ただ、やっぱり割り切れない不思議な感じが、こういう物語からは立ち上がるのです。そう、「あやし」といえばいいのでしょうか。
 このところ、図書委員会で壁新聞づくりをしているのですが、学年の読書家にインタビューしようと企画したら、
「都市伝説しか読んでないみたいですけど、それじゃダメですよね?」
 という学年があって、人選には苦労しました。怖い話を好きだという人は、一定数いますよね。ただ、最近は血なまぐさい傾向が強いようにも思うのです。ちょっとしんみりするものが残ることが必要ではないでしょうか。

「唐代の詩」奥平卓

2013-08-03 10:28:23 | 古典
 漢文の講習を受けることになっていたので事前学習をしたのですが、なんとまぁ、本がないのです。
 論語音読の本は見かけますよ。故事成語も少し欲しかったんですが、図書館でも数えるくらいしかない。
 いちばん役に立ったのは、わたしが中学生のころにはもう出ていたような気がする、さ・え・ら書房の青い本です。このシリーズは読みやすいので結構好きなんですが、なんといっても古い。中国古典をじっくり読もうという人いないんですかね。
 講習シラバスをみると、李白、杜甫、王維、孟浩然といった名前が並んでいます。さらっと読むつもりだったのに、きちんとメモを取らないとこんがらがるんですよー。 
 中でも関心を持ったのは王維ですね。この方、「竹里館」の作者ですから、反射的に「パンダの足音」(川原泉)を思い浮かべてしまうんですが、腐敗した官僚制度に呆れて田舎に大きな荘園をもち、その四阿が「竹里館」なんですって。詩を読むと自分を隠者に例えたり、いとこを送っていく別れの歌を作ったり、なんとまあ、多才な人なのか。なんとなく人好きがする感じといいますか。
 先生がお話してくださったんですが、王維は孟浩然と親友で、さらには玄宗皇帝がお忍びで訪ねてくるほどの人物だったとか。わたしのメモにも「貴族社会の人気者」と書いてありますよ。
 わたしはどうもすじを追い求める癖があって、肝心の漢詩はさらっとしか読まないような(飛ばし読みもあり……)ところがあるんですが、講習で読んでもらって具体的なエピソードを聞くと本当に楽しいですね。どうしても中国古来の風習で研究者には自明のことでも、知らない人にはわからないことはある。
 例えば、別れには「柳」を詠み込むこと。柳の枝を折って円状にして旅立つ人に贈る。「環」は「還」に通じる。同音の字が共通した意味を象徴するということは、高島先生の本で知っていましたが、その背後にあるものを説明してもらうのはおもしろいですね。
 そのほかにも、隠者には会いにいっても会えないものだとか、「推敲」でなぜ「敲」の方がいいのかとか、黄鶴楼の伝説とか。
 で、わたしも長年のもやもやが解消しました。「春望」の最後、杜甫は冠を留めるピンができなくなると嘆きます。老いていく自分と変わらない自然を対比した歌と解説には書いてあるけど、そうなのかな? と思ってはいたのです。
 冠が留められないと官吏として正装できない(出仕できない)ということなのですね。
 もっといろいろ学びたいな、と思いました。
 

「おもしろ古典教室」上野誠

2011-12-17 06:12:43 | 古典
なぜ古典を学ぶのか。わたしは古典の文章を通して昔の人と「対話」するためと考えています。
古典が好きではないと言われることもよくありますが、小学生のときに現代語訳の古典シリーズが大好きだったわたしとしては、それはもったいないな、と。古い話といえども物語性は抜群ですし、共感できる部分もたくさんある。今とは価値観の違うこともおもしろいものです。
上野誠「おもしろ古典教室」(ちくまプリマー新書)です。古典のおもしろさを様々な例をあげながら説明します。なんとなく民俗学的(洗濯にまつわる古文の紹介とか)な感じもしましたが、ものの見方や考えがわかりやすく、親近感がわきます。
文章なのにすごくパワフル。もともとは中学生に古典入門の授業をやったものが基本になっているそうです。
この前、同期の友人と十年ぶりに再会したのですが、古典の話題で結構ずっとしゃべっていました。ちょうど「万葉・古今・新古今」のところをやっているということになって、やっぱり授業の際にはその時代の空気を感じさせたいよねーと語り合ってしまった。
「小町の話で三十分くらいつぶれてしまうの」と彼女は言っていて、現在の教科書に載ってもいない額田王の話をついしてしまうわたしも、気持ちはよくわかります。
そんなわたしが最もおすすめする古典は、教科書なら「徒然草」。一通り読んでおくと(まんがで可)、ユーモアでくるんだ兼好の無常感がよくわかるように思います。もちろん、この時代そのものが無常を感じさせることも大きいのですが、「平家」とか「方丈記」のカラーとは違う。まあ、もちろん変わっているから読み物としても評価できるんでしょうけど。
上野さんはそのことについてこうおっしゃる。
「『徒然草』は、死を自覚せよということをわたしたちに問いかけている」
「『あきらめる』ということは、『無常』を知るということだ」
なるほどー。簡単に「無常観」というけど、そのココロはあきらめが肝心なんですね。和語だとなんとなくわかる気がします。
うつりかわり、一定ではない世の中。それでも、人の考えを書いたものは残る。それに対して、わたしたちもいろいろなことを考えられる。わたしは古典、好きですね。

「枕草子リミックス」酒井順子

2011-04-06 05:26:01 | 古典
三年生最後のテストに、「枕草子」の書き出しを出題したら、書けない生徒が結構多くて、ちょっとがっかり。「机草子」っていう答もあったし。日本人として常識ではないのかと思うのですが、そうでもないのでせうか。
酒井純子「枕草子リミックス」(新潮文庫)、やっと手に取ることができました。読んでみたくて探していたのですが、見つからないものなんですよね。
清少納言に親近感を覚えた酒井さんが、「枕」を翻訳し現代のイメージに翻案したり仮想対談をしたりして紹介してくれます。
平安人である清少納言がカタカナ語をしゃべるなど楽しみながら書いたんだろうなーと思う場面満載ですが、多少酒井さん誤解しているのではと思うことも。
まず、学校教育では「春はあけぼの」しか教えないから、「枕草子」が雅やかな作品のように受け取られているのではないかというのですが。
現在、中一の教科書には、確かにこの部分しかとられていません。十年前は、中三で履修で「うつくしきもの」がプラスされていました。
でも、普通、「枕」は中学だけで学ぶものではないでしょう。高校生のとき、わたしは「除目に司えぬ人の家」をはじめ、ものづくしも数段習いましたよ。「除目」にあぶれたのは、清原家であり一喜一憂する家人は彼女の家族がモデルと聞きました。
それから、たとえ中一でも資料を使ってほかの段を紹介するものではないかと思うのです。「虫は」「鳥は」「ありがたきもの」あたりが多いかな。
わたしの周囲では、自作「ものづくし」をさせることが一般的。「いと寒き日に家に帰りきて、風呂に浸かりたれば、天にも昇る心地ぞする」なんてーことを書いてみるのです。
すごく読むのを楽しみにしていただけに、なんだか期待外れな部分も多く、違和感がありました。
それは多分、わたしが酒井さんのセンスについていけないから、なのです。
わたしも、「枕」が女子高生の肉筆回覧誌的に発生したのだろうという説には賛成。清少納言と同時代に生きていたら気が合うだろうという着眼にも納得できます。
しかし、酒井さんが口語訳に続けて書く「現代だったらこんな感じ」の例、これがどうも楽しめないのです。そうかなあ? とずっと困惑しながら読みました。
同じように「枕」を読んでも、受け取る側の感覚が違うとそれを発信するのにも差異が生じるのかな。
でも、とあることがきっかけでこの本の見方がちょっとだけ変わったのです。
それは、高校の古典の教科書を見たこと。結構、「枕草子」の扱いが大きい。
だったら、こういう本があると、統合的・発展的に捉えことができるのでは、と考えたのでした。
それから、面堂かずきのコミック版(NHKまんがで読む古典シリーズ・集英社)を読んでみたら、酒井さんの解説とおもしろいくらいマッチしていて、納得しきり。
ついでにかかし朝浩「暴れん坊少納言」(ワニブックス)も二巻まで買ってみました。(しかし、これのどこが「ツンデレ」なのかよくわからんです。暴れん坊なのはわかるのですが)定子が途中から妙にフツーっぽくなると思うのはわたしだけ?

実は、「枕草子リミックス」を読み始めてから、今日まで結構なタイムラグがあるのです。
というのも、教室で読んでいたので、地震後は読む時間がなく。
そして、わたしは転勤。本は図書室に入れてきました。
というわけで、全部読み終わってはいません。
いつかふたたび、手にする日がくるのか。
一年生担当になれば読むかも。

「東北怪談の旅」山田野理夫

2010-01-17 05:57:00 | 古典
不思議な話なのです。今まで聞いてきた説話ように整備されていない。妙に落ちが浮いているものもあれば、前半と後半が遊離しているのもある。語りとして伝えられるうちに、二つが混じりあってしまったものや、中途が省略されたものがあるのではないでしょうか。
山田野理夫「東北怪談の旅」(自由国民社)昭和49年発行です。古本屋で発見。東北各地に伝わる怪異を163話集めたもの。
どこかできいたような話も多いのですが……。まずひとつ、紹介いたしましょう。秋田に伝わる「オタカの首」です。
角館の寺に捨て子されたオタカは、京市という男の嫁になります。京市が商売に旅立つと、老婆がやってきて、仕事の邪魔をします。また明日来ると聞いて、困ったオタカは天井うらに隠れますが、みつけられてなんと食われてしまうのです。首だけが残ったため、老婆は戸棚にしまっていなくなります。
翌朝、旅から帰った京市は、オタカがいないので不審がりますが、戸棚をあけたらオタカの首が着物の袖にかぶりつきました。慌ててもう一方の袖で隠し、宿場に出ていきます。腹が減ったため旅籠に入れば、運ばれてきた膳をオタカも食べたがり、袖からゴロリと落ちるのです。ものすごい食欲なので驚く京市。空になった丼を首にかぶせ、帯でぐるぐる巻きにして膳に結びつけてしまいます。
旅籠を飛び出して逃げると首が追ってきます。京市は蓬と菖蒲の茂った原に隠れてやり過ごす、という話なのですが。
えーと、この話、端午の節句の謂れと似てますよね。追ってくるのが山姥じゃなくて妻の首だけど。それにあの老婆は何者なのですか。
こんな話もあります。
ある男はしみったれなので、妻をめとらず下女を雇うことにしました。家は養子をとるつもり。夜になると下女をひきいれます。自分には息子がいるので、その子を養子にしてほしい。そういってもなかなか承知しないので、業をにやして男を殺してしまう。すると台所にあった雑巾が下女の顔に吸い付いて、窒息させてしまうのです。「古ぞうきんはしつと深いといわれる」。えっ! 説明はそれだけ?
さらに、「インモラ」という話があるのですが、これは、尾花沢のあき寺にやってきた僧がなまけ者で、お経も短いと紹介したあと、僧が寝てからバタバタと大鳥が飛び回るということが書かれています。「これはインモラといって、経文をおこたる僧に出るのである。インモラはバタバタと音を立てるだけだ」
説明のないところが妙に落ち着きのなさを感じさせるのですが。
豪胆なのをひとつ。津軽の港町に材木の買い付けにきた男の一人が、旅籠代がもったいないと古屋敷に泊まります。破れ障子が風になり、その升の一つ一つに目が現れて、男をじっと見つめるのです。
男は騒ぎもせずに、一つずつ目を手にとって袋物に入れてしまい、それを江戸に帰ってから眼科医に売り払ったというのですよー。ひぇー。
昔話にある定形のようなものが崩されるので、すわりが悪い気がしてきます。肩透かしをくうというか。
いちばん驚いたのは、「コクリ婆」でしょうか。湯殿山の近くで道に迷った僧が、古寺を見つけて戸を叩くと老婆が出てくる。僧に、自分は罪深い女なので、成仏できないと語ります。
いや、おのれを罪深いと思われるのは成仏できる身だ、その罪を語れといわれて、老婆は寺の墓を掘りおこして死骸を食べていることを告白します。
おまえが噂にきくコクリ婆か。そうだ。
「その晩。コクリ婆は僧を殺して食ったので、まだいまでも成仏できずにいるそうだ」。
キョーレツ! なぜ「コクリ婆」と呼ばれるのかもよくわからないし、このぶっきらぼうで説話からは程遠いラスト!
でも、それだから気になるのかもしれません。出典はどこなのかしら。知りたいな。

「落窪物語」氷室冴子

2009-12-27 06:43:10 | 古典
こ、これが本当に氷室冴子の文章なの?
古典翻案のためなのか、全くいつもの勢いがない。期待してたのになあー。もっと「古典文学館」の枠を取っ払って、話を盛り上げてほしかったです。勝手な意見なんでしょうけど。
でも、ですよ。ここで氷室冴子を起用したのは、原文に忠実というよりも、「ざ・ちぇんじ!」(コバルト文庫。「とりかへばや物語」を翻案したコメディ)みたいな作品を、ということじゃないの?
「落窪物語」を氷室冴子で。いい選択だと思います。でもなんかもの足りないんだよー。講談社的にはこれが正解なの? 嵐山光三郎の「徒然草」のほうが自由度は高い気がします。
「落窪」をはじめて読んだのは小学校の図書室です。よく言われるように、平安を舞台にしたシンデレラストーリーなのですね。
中学生のときも何度か読み返し、田辺聖子の翻案「舞え舞え蝸牛」(だよね?)も読みました。子供心に好きな古典だったのです。
氷室さんにしても、まずは「クララ白書」の漫画版(みさきのあ)に出会い、当然のように「アグネス白書」に進み、「さようならアルルカン」だの「ジャパネスク」だの「シンデレラ迷宮」だの「ヤマトタケル」だのを読んだのです。もちろん「ライジング!」(漫画・藤田和子)も!
氷室さんはあとがきで、後半は割と自由に脚色したということを書いています。確かに中盤からおもしろくなってくる。でも、なんかくすぶるんですよ。
考えるに、平安ものだから仕方がないのかもしれないけど、落窪の姫がなんだかふがいなさすぎるのが原因ではないか、と。周りに流されて、よよと生きている。見初められても忍んでこられても、北の方に意地悪をされても、とにかく受け身。二条殿でやっと幸せをつかみ、夫が今までの仕返しとばかりに北の方に意地の悪いことをしかけても、なーんにも気づきません。
対して阿漕(姫の女房)はものすごく気のきく、活発な女として書かれています。三日餅の準備をしたり、姫を典薬の助から守ったり。
さらに、氷室さん本人も言ってますが、いちばん存在感があるのは北の方なのです。
この二人の前に、姫は全くかすんで見えます。いいのか?
で、夫である左近の少将も何だかひどいんですよ。いくら恨みがあっても、やりすぎだろ、と思うような復讐を敢行します。婿になると約束しておいて、従兄弟にあたる「面白の駒」を通わせたり参拝の邪魔をしたり、こんな奴が主上のお気に入りなわけ? と、困惑することしきりです。
昔はおもしろく読んだのになあ。やっぱり当時とは違う価値観になったのでしょうか。
ただ、氷室さんが物語の中で人物の混乱を避けるためか、阿漕が最初からその名前で登場するのは不満ですね。巻末に原文がありますが、この人ははじめ「後見」と呼ばれていたのです。姫が落窪の間におしこめられるときに、「ずるい」という意味の名前に変えられてしまった、というエピソードが、子供心に気になったので、こういうところはいかしてほしかった。この時代、名前は意味をもつのです。「落窪」というのも姫を蔑むことで一線を画し、優位を保とうということの現れですからね。何しろ元は身分の高い生まれでしょう。北の方一派は格下なので、継子いじめでもありますが、敢えてそうしたのではないかと思われます。

「中国怪奇物語」駒田信二

2009-11-04 05:37:45 | 古典
説話的な話が好きなのです。短い中で不思議なことが起こる。でも毒々しいのは苦手。「あやし」を感じるようなさらりとしたものがいいのです。日本ものなら「宇治拾遺」とか「御伽草紙」ですね。中国のもおもしろい。で、「中国怪奇物語」(扶桑社)を読みました。やっぱり好きなのですね。するっと読めます。すごくおもしろかった!
三部構成で、一部は「幽霊編」です。テーマは冥婚。知っていて結ばれることもあるけど、そうでもない場合も。墓を暴いてみたら、骨にもならずに遺体があったりして、なんとなく「牡丹燈籠」を思い出させるものもありました。
中国からの影響は強いようです。三部の「朱都事の怪我」なんて「庄屋の婆」にそっくり。ただ前者は虎が役人に化けているのですが、後者は猫がおばあさんに化けている……というところがお国柄の違いですかね。
二部は「神仙編」です。数々の不思議で奇妙な物語が語られます。聞いたことのあるものも多いかも。梨を実らせる道士の話とか魚になってしまう役人とか。中でも「桃源郷」が懐かしい。高校生のころに古典で学習しましたよ。何となく訓読文のイメージが浮かびます。
筆者は駒田信二氏ですが、元本にはもっとたくさん収録されていたそうなので読んでみたいな。(この本は講談社文庫から82、83年に出版された「中国怪奇物語」三冊からの抄録です)
さて「小人の群れ」。何度も読んだ話ではありますが、最近も読んだぞ、と気づいて読み比べてみました。波津彬子「幻想綺帳」①です。言葉の選び方がおもしろい。
深夜にやってきた小さい男。机の上に上がってきて「蒼蝿がぶんぶんうなるような、かなり大きな声」で悪態をつきます。邪魔なので筆で弾き落としました。そのことを無礼と咎めだてする大勢の女たち(やっぱり小さい)がやってくるのですが。
「学問の蘊奥についてあんたと議論させようとなすったんだよ」と女たちはがなりたてますが、この部分、「学問の奥義を講釈させてあげようと思ったのです」と波津さんは書く。
大分タイプが違うので(どちらもキイキイ言ってますが)、試しに岡本綺堂の「中国怪奇小説集」(光文社時代小説文庫)を持ってきてみました。波津さんはこちらを参考にしてらっしゃるように感じました。
綺堂本と駒田本とを比べてみると、綺堂の方が書き込みが多いことに気づかされます。例えば「桃源郷」(「武陵桃林」)では人物の名前を書いています。駒田本は「漁師」「太守」だけ。
綺堂は原作に忠実に、駒田さんは読みやすさを考えて書いているように思います。
「和尚と将軍」あたりも波津さんの絵を思い浮かべながら読みました。
わたしはあと「竹青」も好きです。