「三島屋変調百物語」の新刊です! 「泣き童子」(文藝春秋)。
この表題作、重かった……。異人(マレビト)ものですよね。拾い子を育てることになったが声を出さない。ある男を見て火のついたように泣き出す。差配さんに預けた日、その家に悲劇があり、例の男が関わっていたことがわかる。
生まれかわりのあたりなんて、「六部殺し」そのものです。でも、「こんな夜だったな」と言われるより怖い。自分の罪を突きつけられるというか。他の家族がわからなくとも、おもんと父親にはわかる。
しでかした罪が、逃れられないものとして戻ってくる。その恐ろしさ。宮部さん、容赦ないよな、と思いました。
その厳しさは「魂取りの池」も同じ。驕った娘の性根を叩き潰してくれます。
今回はなんとなく反実仮想のような作品が多いようにも感じました。まず、「くりから御殿」は東日本大震災の被災を下敷きにしているように思います。山津波で家族と幼なじみを失った子どもが、大人になってもその苦しみを抱え続けている。一人生き延びた自分をつらく感じている。でも、きっと幼なじみたちはそんな彼を案じているはず。そして、その子どもたちのことを誰かに語り聞かせられるのは、生き残った彼しかいないのだ、という温かさ。
「まぐる笛」は、例年以上に暑かった去年を彷彿とさせますが、発表時期を考えると一昨年の夏でしょうか。暑さの続く時期に現れる怪異、まぐる。人食の恐ろしいけだものです。「苛政は虎よりも」という言葉を思い出します。
「節季顔」は、おちかにとっては敵と感じていた存在が、別の人から見るといい部分も見られるという物語でした。その行動は確かに誰かの救いになるかもしれない。伯父が亡くなったのもそのせいかもしれないけれど、そうでなければもっと悲劇的な末路をたどったのかもと思えるし。
いったい百物語にいつたどりつくのかと思っていたんですが、今回結構すすみましたね。「小雪舞う日の怪談語り」で一気に四話いきましたし。
宮部さんがインタビューで、おちかを嫁に出そうかと思っているとおっしゃるので、今回どきどきしながら読んだんですが、特にそういう場面はなく……。でも、やっぱり青野先生のことですよね?
気になります。
この表題作、重かった……。異人(マレビト)ものですよね。拾い子を育てることになったが声を出さない。ある男を見て火のついたように泣き出す。差配さんに預けた日、その家に悲劇があり、例の男が関わっていたことがわかる。
生まれかわりのあたりなんて、「六部殺し」そのものです。でも、「こんな夜だったな」と言われるより怖い。自分の罪を突きつけられるというか。他の家族がわからなくとも、おもんと父親にはわかる。
しでかした罪が、逃れられないものとして戻ってくる。その恐ろしさ。宮部さん、容赦ないよな、と思いました。
その厳しさは「魂取りの池」も同じ。驕った娘の性根を叩き潰してくれます。
今回はなんとなく反実仮想のような作品が多いようにも感じました。まず、「くりから御殿」は東日本大震災の被災を下敷きにしているように思います。山津波で家族と幼なじみを失った子どもが、大人になってもその苦しみを抱え続けている。一人生き延びた自分をつらく感じている。でも、きっと幼なじみたちはそんな彼を案じているはず。そして、その子どもたちのことを誰かに語り聞かせられるのは、生き残った彼しかいないのだ、という温かさ。
「まぐる笛」は、例年以上に暑かった去年を彷彿とさせますが、発表時期を考えると一昨年の夏でしょうか。暑さの続く時期に現れる怪異、まぐる。人食の恐ろしいけだものです。「苛政は虎よりも」という言葉を思い出します。
「節季顔」は、おちかにとっては敵と感じていた存在が、別の人から見るといい部分も見られるという物語でした。その行動は確かに誰かの救いになるかもしれない。伯父が亡くなったのもそのせいかもしれないけれど、そうでなければもっと悲劇的な末路をたどったのかもと思えるし。
いったい百物語にいつたどりつくのかと思っていたんですが、今回結構すすみましたね。「小雪舞う日の怪談語り」で一気に四話いきましたし。
宮部さんがインタビューで、おちかを嫁に出そうかと思っているとおっしゃるので、今回どきどきしながら読んだんですが、特にそういう場面はなく……。でも、やっぱり青野先生のことですよね?
気になります。