くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「泣き童子」宮部みゆき

2013-06-30 20:58:57 | 時代小説
 「三島屋変調百物語」の新刊です! 「泣き童子」(文藝春秋)。
 この表題作、重かった……。異人(マレビト)ものですよね。拾い子を育てることになったが声を出さない。ある男を見て火のついたように泣き出す。差配さんに預けた日、その家に悲劇があり、例の男が関わっていたことがわかる。
 生まれかわりのあたりなんて、「六部殺し」そのものです。でも、「こんな夜だったな」と言われるより怖い。自分の罪を突きつけられるというか。他の家族がわからなくとも、おもんと父親にはわかる。
 しでかした罪が、逃れられないものとして戻ってくる。その恐ろしさ。宮部さん、容赦ないよな、と思いました。
 その厳しさは「魂取りの池」も同じ。驕った娘の性根を叩き潰してくれます。
 今回はなんとなく反実仮想のような作品が多いようにも感じました。まず、「くりから御殿」は東日本大震災の被災を下敷きにしているように思います。山津波で家族と幼なじみを失った子どもが、大人になってもその苦しみを抱え続けている。一人生き延びた自分をつらく感じている。でも、きっと幼なじみたちはそんな彼を案じているはず。そして、その子どもたちのことを誰かに語り聞かせられるのは、生き残った彼しかいないのだ、という温かさ。
 「まぐる笛」は、例年以上に暑かった去年を彷彿とさせますが、発表時期を考えると一昨年の夏でしょうか。暑さの続く時期に現れる怪異、まぐる。人食の恐ろしいけだものです。「苛政は虎よりも」という言葉を思い出します。
 「節季顔」は、おちかにとっては敵と感じていた存在が、別の人から見るといい部分も見られるという物語でした。その行動は確かに誰かの救いになるかもしれない。伯父が亡くなったのもそのせいかもしれないけれど、そうでなければもっと悲劇的な末路をたどったのかもと思えるし。
 いったい百物語にいつたどりつくのかと思っていたんですが、今回結構すすみましたね。「小雪舞う日の怪談語り」で一気に四話いきましたし。
 宮部さんがインタビューで、おちかを嫁に出そうかと思っているとおっしゃるので、今回どきどきしながら読んだんですが、特にそういう場面はなく……。でも、やっぱり青野先生のことですよね?
 気になります。 

「アサギをよぶ声」森川成美

2013-06-28 21:10:30 | YA・児童書
 出張の帰りに仙台三越のヤマトヤで購入。当然、エマさんの絵に引かれたのですが、翌日堀米薫さんのブログを見たら紹介されていて感激です。
 森川成美「アサギをよぶ声」(偕成社)。舞台は古代の村。縄文時代でしょうか。母と二人暮らしのアサギは、周囲から浮いたようにして生活しています。十二歳になると、男屋、女屋にそれぞれ行くことになるのですが、アサギは結婚の準備をするよりも戦士としての修業をしたいのです。
 山道ですれ違った戦士のハヤに声をかけたことがきっかけで弓を引く練習をすることになったアサギ。そうするうちに、これまで誰も教えてくれなかった父親のことが断片的に耳に入ってくるようになります。
 戦に加わらなかったのは、誰かを助けていたから。川を渡って親族たちは村から出ていったけど、身ごもっていた妻は逃げることができなかった。村に住む他の身内とも縁を切って、生まれた子どもと住むことにしたこと。父が疎まれたのは、周囲からは裏切りのような行為に見えたから。
 アサギの修業ぶりが素敵なんです。まずはハヤに提示されて鹿の角を探しますが、やがては石切場のものに変わっていく。矢羽根は水鳥。労せずして弓を引けるようにもなり、どんどんステップアップしていきます。
 その中でハヤがアサギに教えてくれたのは、モノノミカタというもの。物事をよく観察すればおのずとわかることがある。暗い森でもコケの生え方は違うから、どちらに歩いていけばいいか手がかりになる。でも、わからない人には伝わらない。
 ハヤは男屋で少年たちにも弓を教えていますが、彼らにはこのことは話していないようです。
 決着がついて、ハヤはアサギに亡くなった父親のことを語ります。そのとき、アサギにも自分と同じように聞こえる声があることに気づく。ハヤは、この得難い才能を知って、これからどう行動するのでしょう。
 物語は、これから始まる一大叙事詩を起想させて終末を迎えますが、いやー、これは続くでしょう。もっと読みたいもの。イブキとかタケとか魅力的な男の子たちもこれからどうなるか。それにあの猿。気になりますよね。ぜひあと五冊は書いていただきたいです。

「ぼくとあいつのラストラン」佐々木ひとみ

2013-06-27 05:09:08 | YA・児童書
 スカイエマさんが挿絵を書いている本、まずは読みやすい児童書から、ということで、佐々木ひとみ「ぼくとあいつのラストラン」(ポプラ社)です。
 あらすじを読むと展開は自ずと知れてしまうんですが……。
「大すきなジイちゃんが死んでしまった……。そのお葬式の日、あいつがぼくのまえにあらわれた。ボサボサ頭に、白いシャツ、カーキ色のズボン。ニヤニヤわらって、こういうんだ。『おい、走ろうぜ』ー」
 でも、ジイちゃんが隣の家の方であること、お父さんは実の親同然に慕っていること、病気のこととかバアちゃんとのやりとりとか、細部に工夫があっておもしろく読みました。特に、隣に行くとき本来なら道路まで出るのに、急ぐからと畑を突っ切って行くところにリアリティを感じてしまうわたしです。そりゃ、わたしの実家から畑を通ると、一キロ先の分校に半分くらいの距離で行けるからなんですが。(親が通った分校です。今はなくなってしまいましたが、小さい頃はよく遊びました)
 ジイちゃんは若い頃から足が速くて、地域の駅伝チームの指導までしていた。バアちゃんはいいところの娘だったのに、反対を押し切って嫁にきた。結婚記念日に、ジイちゃんはプレゼントを隠していて、それをみつけるようにいう。みつければバアちゃんの勝ち。みつからないときは、頭を下げて教えてもらう、というのも仲がよくていいな。
 著者は仙台在住なんだそうです。
「どんなにか走りたかったべなぁ」なんて台詞もあって、地元をイメージしているのかもと思いました。「だべ」圏は広いですけどね。「小宿」という習慣とか「種馬所」という地名もなんかいいよね。
 主人公の武(タケ)の足が、挿絵ではものすごく細くてつい他の絵と比べてみたくなったんですが、ラストの見開きが素晴らしく効果的です。
 表紙カバー、表裏は同じ場所を時間を変えて描いているのですね。青い空、木洩れ日の中を走る二人の少年。夕闇の中、昼間の喧騒が嘘のようにひっそりとして、カンナの花が揺れている。
 もうその時刻になると、何もかもが明らかになっていますよね。ヒサオとユウコのことも。そういう、「絵で語る」ようなところが、エマさんの魅力なんだと思います。
 

「願かけネコの日」那須田淳

2013-06-26 05:17:55 | YA・児童書
 スカイエマさんのブログを読んだら、楽しそうな本がたくさん紹介されていました。うわー、「プリティが多すぎる」の雑誌掲載時の挿絵はエマさんだっけんですね! 「はぶらし」も、あの装丁よりはカットが美麗です。
 というわけで、当分スカイエマさんフェアを個人的に開催します。第一弾は、「願かけネコの日」(学研)。那須田淳さんもかなり好きな作家なんですが、この本が出ていることに一年半も気づきませんでした……。
 突然、三途の川の渡しに立っていたコースケ。どうやら崖から落ちて死んだらしいと、現れたネコから聞かされます。そのネコは作務衣を着て、二足歩行。その実体は、賽の河原に住む脱衣婆なんですって。だから、愛称は「だっちゃん」。
 渡し舟に乗らなかったのは、コースケが死の直前に神社で願かけをしたから。宗像三女神の社に、作法を守ってした願かけだから、その願いを叶えられるかどうか見守りたいとおっしゃる。
「願かけというのは、わたしはこれこれこういう願いを持っています。それが、かなうようこれから一生懸命努力しますから、どうぞ見ていてくださいませと、神さまに誓うことよ」
 女神さまたちは、コースケがどう頑張るのかを見届けたいから、死ぬのを次の満月まで伸ばすようにいってくれたのだそうです。
 そんなわけで現世に戻ってきたコースケですが、ネコの姿をしただっちゃんも一緒にやってきたので、三つの願いを達成させる努力をしないわけにはいきません。有名な「鎌倉ステーキ」を食べること、テニスの県大会で団体ベスト8に入ること、女子テニス部の綾乃ちゃんと仲良くなること……。
 当然ですが、そううまくいくはずがありません。子ども一人で高級レストランには入れないし、テニスはチームでいちばん下手(のっそりしている大西くんにも負けます)、綾乃ちゃんは男子のエース(怪我をして出場不可)と仲がいいみたい。
 だっちゃんはその様子を見て奮起します。テニスの特訓をしてみようというんですね。ダブルスを組むことになった大西くんも引きずって賽の河原での練習が始まります。なんとだっちゃんは可愛らしい女子選手の格好で登場。どうやら生前は、名のあるプレイヤーだったらしく……。
 だっちゃんの心の動きがとても愛しいのです。
 こんぶちゃんのお母さんと対戦したのが心に残っているんですね。
 タイトルの「願かけネコの日」というのは、だっちゃんが変化することを示しているんでしょうか。
 もちろんコースケ自身も大分変わりましたけどね。
 口絵からラストまで、エマさんのイラストが象徴している感じがいいですね。

「わからん薬学事始」2 まはら三桃

2013-06-25 04:37:57 | YA・児童書
 表紙カバーは熊と牛です。ふふふ。
 まはら三桃「わからん薬学事始」(講談社)、二巻を読みました。嵐先輩が無事大学合格! しかし、入学金が払えない?
 食事当番を二百円で代わったり、アルバイトを目一杯入れても、とても払い切れるほどではありません。そこで草多がいいアイデアを提案します。北海道のおじさん(嵐がいうにはとてもケチ)の牧場で胆石の牛をみつけよう。薬材の声が聞こえる草多なら、ゴオウを探し出せるはず。(ゴオウというのは、牛の胆石からつくる漢方薬。千頭に一頭くらいしか発病しないので、希少なんだそうです)
 いさんで北の大地を踏んだものの、すんなりいくはずもなく……。
 でも、ここで嵐の心配事が消えたようなので、いいか。
 今回は真赤と真白のわだかまりについても解決しています。草多も、Xクラスでの授業に慣れてきました。なんといっても、子どもの頃から砂時計を見慣れていたから時間感覚が優れているというあたり、おもしろいと思いました。
 ただ、草多をライバルとみなす大塔秀有が妙な動きを見せたところで、以下次巻ってのは残念ですよね。
 バター飴をお土産にわざわざ訪ねていったのに、そりゃないだろう秀有、とも思いましたよ。
 草多の父親に関する話題も次で出る? でも、あんまり先だとわたし内容を忘れてしまうよ……。
 実際、一巻で竜骨が話すきっかけになったのは誰だっけ? 盗まれたんだっけ? とどんどん記憶が曖昧になっていく。歳のせいでしょうか。万能薬たる「気休め丸」を飲めば改善しますかね?
 

「キアズマ」近藤史恵

2013-06-24 05:13:40 | 文芸・エンターテイメント
 近藤さん、このシリーズとってもいきいきと書いてらっしゃいますよね。
 自転車ロードレースを描いた四作め「キアズマ」(新潮社)。チカは出てきませんが、赤城さんがちらっと登場します。
 舞台は大学。先年までフランスで過ごしてきた岸田正樹が主人公です。ツール・ド・フランスと関わるわけではなく、柔道をやっていたとか。でも、そこで手に入れたトモスというバイクを愛用していて、それが自転車競技にいきてくる。正樹の成長物語です。
 自転車部とトラブルになりそうになった正樹は、トモスで逃げ切ろうとしますが、競技用自転車のスピードに脅威を覚えます。事故に巻き込まれた主将の村上から、自分のかわりに自転車部に入ってほしいと頼まれて、困惑しながらも部室を訪ね、上級生の櫻井、隅田、堀田と出会う。
 まるっきりの初心者である正樹をからかおうとヒルクライムに誘う三人が驚くほどの力で坂を登りきった正樹は、自分の可能性を感じてどんどん自転車にのめり込むように……。
 自転車競技に力を発揮するサイドと平行して、正樹が遭遇した中学時代の事件が語られます。教師の体罰によって後遺症が残ってしまった友人の豊を、正樹は複雑な思いで訪ねているのです。あのとき、自分は豊を、助けることができなかったと後悔している。自分よりも優秀だった友人なのに。
 頑丈なのにわりとナイーヴな正樹は、櫻井の見るからにヤンキーな性格を苦手に感じますが、やがて彼の人懐っこさやエースとしてのプライド、喘息の持病を抱えながらプロを目指す姿勢に感銘をうけるようになります。
 夏の炎天下、次々にパワーを失っていく選手たちのなかでいのししのように(村上談)突き進む正樹は頼もしいですね。
 「キアズマ」というのは、細胞分裂の際に交錯するところなんだそうです。櫻井と出会い、彼の兄の「亡霊」を背負うことになったことを表しているのでしょうか。
 このレースで豊との関わりを見直した正樹の、今後の人々との関係が気になりますね。なんというか、どんどん人との距離感が変化していく。それが、正樹自身の成長の最も大きいところではないかと思うんですが。
 自転車レースのニュースをやっているとつい見てしまうように、なりますよね。
 

「気仙沼に消えた姉を追って」生島淳

2013-06-23 10:04:23 | エッセイ・ルポルタージュ
 なんといったらいいのか……。気持ちが、落ち着きません。わたしはどちらかというと冷淡なタイプだと思うんですが、この本に、揺さぶられて茫然としたような気持ちです。
 「気仙沼に消えた姉を追って」(文藝春秋)、先日まんが版を読んだので、実際に生島さんが書いた文章で読みたいと思い、借りてきました。
 大筋は知っていたので、まずはまんがに描かれていたプロローグ、第一章、第五章を読みました。高瀬さんはまんがを描くに当たって生島さんに取材したのでしょうね。こちらにはないこともあり(お兄さんたちのこととか)、反対に省略されていることもあります。
 そのなかで妙に印象深かったのは、生島さんのルーツを語る部分。おばあさんは結婚しないままに出産したのですが、相手はお寺の息子だった。その子どもが生島さんのお母さんです。生島さんのお父さんが病気で亡くなり、その葬儀で小学生だった彼が、「お坊さんになりたいな」といい、血は恐ろしいとぞっとしたというエピソード。
 お姉さんの葬儀を、遺体が見つからないまま行うことになり、殺伐とした気持ちが読経で落ち着いてきたという部分と重なってしまうのはわたしだけでしょうか。その先年に行われたお母さんの葬儀も、身内だけながらヒロシさんの司会でアットホームな感じだったといいますが。
 でも、この本は生島さんの自伝的なエピソードだけでは終わらないのです。まんがにも登場した同級生(面瀬中の櫻井先生だそうです)から気仙沼の様子を書いてほしいといわれ、被災した方々に話を聞きに行く、その様子が書かれています。
 まずは「金のさんま」という商品を作っていた水産加工会社。読んでいるうちに、震災直後の新聞でこの方のニュースを読んだと思い出しました。
 また、大島の中学校に勤める七宮先生。アメリカ軍との通訳をなさったそうです。
 生島さんの友人でもある、戸倉小学校の小松先生。そのお嬢さんの高校生として未来に想いを馳せる姿が、とてもよかった。
 戸倉小学校からは、震災から避難してきた方も多く、うちの子どもたちも仲良くしてもらいました。また、この娘の穂波さんは志津川中出身で妹さんもいるとのこと。当時の志津川中には知人もいて、なんだかわたしには他人事ではないように思ってしまうのです。
 気仙沼高校に進学したいけど、震災のあとは落ち着かないから、とわたしの母校に変更した生徒さんも多いと聞いています。
 だから、バレーボールで全国大会にいきたいと夢をもって、高田高校に進学した熊谷茜さんが、どうしても転校せざるをえなくなったエピソードには、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
 チームメイトたちのやさしさ。帰ることができない茜さんを家に連れいってくれ、イベントにきた大山選手に「この子、誕生日なんです」と声をかけてプレゼントをもらってくれる。こんなに素敵な仲間と、離れなければならない。
 本当に、高校生として震災を迎えた彼女たちの想いを考えると言葉が出ません。
 わたし自身も、あのとき誰かに何かできたんだろうか、とふと後悔のようなものを、感じました。
 

「世にも美しい日本語入門」安野光雅・藤原正彦

2013-06-22 19:16:58 | 言語
 昨年、安野光雅の作品をたくさん見る機会があって、その繊細さとユーモアに感激したんですが、図録を買わないでしまったことを今も後悔しているのです。
 「世にも美しい日本語入門」(ちくまプリマー新書)。安野さんが小学校の先生だった頃、教えを受けた藤原正彦さん。なんと松田哲夫さんも同じ小学校にいたそうで、三人が協力して作った本だということです。
 わたしは本を買うと、すぐさま読んでしまうかぼーっととっておくかということが多いんですが、この本は半年くらいかけて非常にちみちみと読みました。
 昼休みに図書室で、あっちを読んだりこっちを読んだり。何回か同じところを読み返したり。
 「好き」と「大好き」くらいしか知らない人は、「ケダモノの恋しかできそうにない」と藤原さんはおっしゃいます。日本語には細やかな心のひだを表す言葉がたくさんある。
 唱歌と童謡とか、文語文とか日本語のリズムとか、お二人は縦横無尽に語り合います。
 好きな詩を持ってきて、話したら相手も同じものが好きだったということも結構あったとか。
 始めの方に、藤原さんが大学で実践している「読書ゼミ」の話が出てきましたが、それをまとめた文庫本も持っているんです。でも、「武士道」から読もうと思ったけと、本を借りただけで一カ月過ぎてしまうわたしには難しいのかもしれません。
 で、そのゼミを受けている皆さんが、当時の教養について衝撃を受けている。特攻隊に出る人が、ニーチェや「万葉集」を読んでいる。戦争の悲惨さとか虐げられた女性像とかをイメージしてきたことががらりと変えられるのです。
 わたしも国語教師ですから、それなりに本を読んできてはいるんですけど、藤原さんが提示している本をほとんど読んでいません。「福翁自伝」がおもしろいと書いてありましたが、いつ読めるのだろう? 文庫本は車のトランクに入れたままなので、反省しきりです。
 意味が分からなくても積極的に文語文を読むべきだというお話は、わたしもそう思っていました。「冬景色」、五年生で習って、あまりの美しい言葉に泣きそうになりましたっけ。息子が五年生なんですが、今はそういう感じの歌は入っていないんでしょうか。
 ちょっと教科書を見せてもらおうと思ったら、学校で全員分を保管しているんですって。うーん、気になる。
 

「ランドセル俳人の五・七・五」小林凜

2013-06-20 21:43:54 | 詩歌
 これがそのもう一冊。小林凜「ランドセル俳人の五・七・五」(ブックマン社)。
 新聞の書評欄で見かけて気になったので、新幹線を降りてすぐ駅ビルで購入。「オルタ」を読んでしまったので、ここで買っておかないと出張中に読むものがない。
 そうしたら、この小林凜くんも不登校でお母さんとおばあさんが苦労したことがせつせつと書かれているんです。
 やっぱり、学校は「地獄」だというんです。同級生から心ないことを言われ、乱暴され、先生に訴えても相手のことをかばう。
「喧嘩両成敗です。他の先生も皆、こうやって指導してます。お母さん、目を覚ましてください!」
「俳句だけじゃ食べていけませんで」
 なんて言葉を投げかけられて、さぞショックだったことでしょう。お母さん自身も教職だそうなのでなおさら。わたしもそんなふうに傷つけてきた人がいたんだろうな、と胸が痛みます。
 やっぱり、幼少期から他の子よりも語彙がある子にとって、学校は生きにくいのかもしれません。特定の集団だと意見が偏ることがあるんですよね。でも、深く考えさせるには異なる意見が必要なんです。共通した「気分」だけで単語同然の言葉しか使わない状態では、成長が見込めない。
 小林くんは、俳句という手段で自分の位置を確定できるお子さんです。様々な語から削ぎ落として中心になる部分だけを残す。
  雪やなぎ祖母の胸にも散りにけり
  万華鏡小部屋に上がる花火なり
  尺取虫一尺二尺歩み行く
  影長し竹馬のぼくピエロかな
  いじめ受け土手の蒲公英一人つむ
 こういう句を書ける小学生、タダモノではありません。うちの息子には無理でしょう。
 不登校になりかけた彼に手を差し伸べてくれた支援学級の先生、理解してくれるお友達、英会話の先生、おばあさんと文通するカニングハム久子先生、そして朝日俳壇の選者の方々。出会うというのは運命的なものなのかもしれませんね。
 ちなみに、小林というのは一茶にちなんだ筆名だそうですよ。渋いっ。
 開いた時間をフルに使って、出張先を出る頃には読み終わりました。この句を使って、道徳か国語の授業をやってみたいな。

「氷の海のガレオン/オルタ」木地雅映子

2013-06-19 21:13:43 | YA・児童書
 仙台に出張でした。去年単独の出張が一回しかなかったので、行く前から時刻表を調べてみたり……。きっと書店に寄るだろから、コンパクトに文庫を読もうと、前日図書室から読み始めた「氷の海のガレオン/オルタ」(ピュアフル文庫)を持っていったんですが、この本に加えて駅前で買った本がなんかシンクロしていて、考えてしまいました。
 この本、以前から興味はあったもののなかなか読めずにいたのです。なんとなくデカダンな感じがして。読むとそうでもないんですが、ある程度読者を選ぶとは思います。
 斉木杉子。六年生。名前が古臭いとか行動が変わっているとか言われて敬遠されています。同級生とはまるで言語が合わない。(話が合わないんではないですよ)
 語彙が少ない彼らは、杉子の言うことを考えることすらしません。言葉の数が少ないと、相手のことを理解できないのです。自分の知っていることしか、拾い上げることはできませんからね。
 クラス委員を押しつけられたり、仲間外れの女の子につきまとわれたり、気の合う先生を見つけて仲良くしていたら中傷されたり、兄が高校をやめてしまったり、両親が二人でいなくなったり、と杉子の周囲は慌ただしいのです。
 同じような行動をしているはずなのに、弟のスズキには友達もいるし学校ではもてているようです。(ただし、彼は全くうれしくなさそうですけどね)
 一部の中心的な女の子たちが「かれ」がほしいと話していることを、杉子は冷たい視線で眺めていますが、夢のなかには恋い焦がれる存在の男性が現れることもある。
 彼女にとって庭にあるナツメの木は大きな支えでもあります。雨の中で物思いにふけることも。あ、この木には名前がついていて、「ハロウ」というんですよ。
 世の中みんなが嫌なものというわけでもなく、家族とかハロウとか音楽の先生とか、杉子をわかってくれるものもあるのです。
 もう一編の「オルタ」が。
 小学一年生、隣の席の男の子に邪魔ばかりされて学校が嫌になり、母親もそれを認めるという物語です。
 オルタはスカートをめくられて、そこに消しゴムを入れられる。まためくられてそれを出す。やめるように言うと、自分の消しゴムがそこにあるのだから仕方ないといわれて愕然とします。
 ここにも、言語環境のすれ違いがありますよね。
 さらに、オルタはスペクトラム傾向があり、隣の席の貴大くんも同じような要因がありそうな気がする。お母さんはなんとか彼のことも救いたいと思っているようですが、担任の先生はプライバシーの問題だからと取り合ってくれません。
 最終的に母子は学校に行かないことを選択します。
 学校って、無力だよな、と思いました。自分にとって嫌なことを重ねられて、オルタはとてもつらかったのだと思います。担任が貴大くんのことをオルタよりも気にしていることもわかります。
 「オルタ追補、あるいは長めのあとがき」を読むとお母さん自身(構造的に木地さん本人ととれる書き方をしています)が学校というものに抵抗があるのだろうと感じさせる部分もあるのですが。
 「杉子」にしろ「オルタ」にしろ、普通の女の子の名前とは言えないと思います。ネーミングにはある種の特別性があると思うので、思春期渦中の女の子たちにはぐっとくるものも多いのではないでしょうか。