くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「かってまま」諸田玲子

2010-07-31 06:04:26 | 時代小説
諸田玲子さんの本、初挑戦です。「かってまま」(文藝春秋)。わたしの読んだのは単行本ですが、文庫の装丁がすごくよくて、興味をもったのがきっかけです。
おそらく諸田さんは、作中に出てくる「お染久松色読販(うきなのよみうり)」を発想の起点にしているのでしょう。役者の七変化は、各短編が七つであることに対応しています。
おさいという女の人生を縦軸に、その時々に関わった周辺の人々を描く連作です。
おさいのさいは、「賽子のさい、采配のさい、宰領のさい、決裁のさい、幸先のさい」で、母は旗本の娘・奈美江、父は正行寺の僧・願哲です。養父母に育てられたおさいは、放浪しながらも持ち前の才覚で周囲によい影響を与えて、静かに姿を消します。
わたしが好きなのは、思い合った幼なじみでありながらすれ違ってきた女掏摸のおせきと利平親分の物語「とうへんぼく」。それから、亭主との関わりを見つめ直すおらくが主人公の「かってまま」、そして、鬼門の喜兵衛の娘である『みょう』と、仇討ちを決意した願哲の思いを描く「みょうちき」です。
この三作はおさいの娘時代の話にあたり、苦難の道を歩きながら成長していく姿が描かれます。このあたりを読んでいると、おさいの人生に重なるようにして、奈美江と願哲のその後が浮かびあがるのです。
願哲はなぜ佐渡に送られ、島抜けをしてまで戻ってきたのか。冒頭で登場した奈美江が、どういう生き方をすることになったのか。
お嬢さんとしての、鷹揚でときに人の神経に障るような言動を見せた奈美江。縁談が決まりながらも願哲の子を宿し、父の計らいで出産。養父母に預けて嫁いだものの、思いを消しがたく火事に乗じて出奔。立ちいかなくなった二人が頼ったのは、願哲の兄・喜兵衛だったが……。
やがて願哲と引き裂かれた奈美江は、名を変えて盗賊の引き込み役になり、首領の娘を産みます。これが、みょうです。おさいは、自分の妹にあたるみょうを連れて逃げようとしますが、ある理由から姿を消されてしまい、その後苦界に身を沈めた妹を救うために引き手茶屋を営みます。
そして、おさいは待っていたのです。ある人物が訪ねてくるのを。
奈美江が遺した珊瑚の簪が、各話をつなぐ糸になっていることが効果的でした。
おさいは、世話になった人たちの縁をつないでいきますが、自分自身は恋とは無縁の場所で生きていたように思います。時々に情を感じる人はいたのでしょうが。(「けれん」の鶴屋南北のように)
おさいと関わる人々は、ほんの短い間ながらも忘れられない出会いをしたと思ったのではないでしょうか。南北はその思い出を「土手のお六」として描き、再会を期待します。そして、片腕を失ったある人物も、おさいに会いにくるのです。
仇討ち。おさいの選んだ道。なにもかも捨てて姿を消す潔さを生きてきたおさい。最後に、ただ一人だけともに生きていく道連れがいることが示されます。二人で穏やかな暮らしを送ることが、おさいのしあわせなのでしょうね。

「おふくろの夜回り」三浦哲郎

2010-07-30 05:43:51 | エッセイ・ルポルタージュ
三浦さんの随筆が数年ぶりに出版! 仙台、行ってみるものですね。とある本屋さんで平積みしていて、小躍りしました。奥付によると六月に発売したらしいのですが、先月は見つけられなかったのだということでしょうか。まあいいや。無事に入手し、すぐ読みました。「おふくろの夜回り」(文藝春秋)です。
やっぱり、わたしにとって三浦さんの文章は特別です。するするっと入ってくる。言葉の奥にある世界もなじみ深く、ほとんどは再読だったのですが、一つひとつが慕わしい作品でした。
三浦さんが喀血して、もう二十年近い日々が経つのですね。学生時代に作品と巡り会って、それこそ貪るように読んだものです。このところ新作の発表もほとんどなく、芥川賞の選考委員も辞めてしまわれたので、「おしまいのページで」に原稿を寄せていたと知って、驚くとともにたいへんうれしかった。
中には、「モザイク」シリーズに連なるような掌編もあり、家族に関わる文章もあり、三浦文学を愛する者にとっては納得の一冊かと思います。
わたしにとって印象深いのは、やっぱり喀血のくだりを描いた「車椅子のマフィア」でしょうか。ホテルのボーイさんに、マフィアのボスが銃撃にあったようだったと告げられる部分、とても映像的です。多分、雑誌で読んで、先に収録された随筆集でも読んでいるのですが、やっぱり喀血が三浦さんの分岐点になっているような気がするので、はずせません。
表題の「おふくろの夜回り」も、慕わしい一編です。お母さんを描く作品は多いですが、様々な苦難にあってきたことを知る読者には、しみじみとした優しさを感じさせます。
北国に育ったお母さん、いつの間にか夜具の中に入り込んでいるしぶとい夜気を逃がすために、家族の寝所をまわって布団の上を、ほた、ほた、と叩くのです。
この音の優しい響きが、作品全体にあふれているように思いました。
それにしても、「春は夜汽車の窓から」で車酔いがひどいことを嘆いていたお嬢さん、山形に嫁いでらっしゃるのですね。ふとした消息の文も、作品になじんだ身にはうれしいものです。

「素数ゼミの謎」吉村仁

2010-07-28 22:29:21 | 自然科学
前日「中学生の勉強法」という本をぱらぱらめくっていたら、この本のことが紹介されていたのです。アメリカには、13年、17年ごとに羽化して大発生するセミがいる。どうしてこのようなスパンなのか。この数字が素数であることと関係があるのではないか。
そんな話を聞いたら、気になるじゃあないですか。
図書館の児童書コーナーに返却されているのを発見。借りてきました。
吉村仁「素数ゼミの謎」(文藝春秋)。石森愛彦さんの絵がついて、無茶苦茶わかりやすい! おもしろく読みました。
吉村さんは科学者とは「念には念を入れて、ぜんぶのことをたしかめなくてはならない仕事」だと書かれています。なるほどー。だから、考察も様々な部分から攻めていくのですね。
もともと科学論文を書き直したものだとかで、構成もはっきりしています。
まず、三つの謎。「なぜこんなに長年かけて成虫になるのか?」「なぜこんなにいっぺんに同じ場所で大発生するのか?」「なぜ13年と17年なのか?」。
これを解くために彼が根拠にしたのは、「よりたくさんの子孫を残す」という進化の理論。骨子を一言でいってみれば、13と17は、交雑の危機を脱することができる素数であるということです。交雑とは近いけれども少し違った仲間どうしの間で子孫子供を残すこと。すると、遺伝形態が変わってきて、子供が成虫になったときには全く仲間がいない可能性もあります。と、すると、この成虫は子孫を残せないことになりますから、絶滅につながることになるのです。
最大公倍数が大きいほど、ほかの成長周期の仲間と巡り会うことが少ないので、交雑の可能性は引くなり、かろうじて生き延びることができる、というのが吉村先生の主張です。
だから、このセミはある特定の地域で13年(17年)ごとに発生を繰り返すことになります。発生の地域は狭いので、一つの部屋の中に四百匹もセミがいるような状況になるのだとか。
残念ながら、今年はアメリカのどの地域でも素数ゼミは発生しないようですね。でも、来年は結構広い範囲で13年周期の素数ゼミが発生するそうですよ。

このセミと日本のミンミンゼミを比較するページもありましたが、ずいぶん違いますね。そして、かなりうるさいそうです。
わたしは普段セミの鳴き声には慣れてしまって、ほとんど意識していないのですが、でも、そんなにたくさん現れたらやっぱり困惑するでしょうね。17年前というと、わたしはまだ社会人になったばかり。あっという間だったような気もしないでもないですが、ゆっくり振り返るととても長い時間です。
素数ゼミ。この不思議なセミの謎に迫ってみませんか?

「薔薇を拒む」近藤史恵

2010-07-27 19:35:17 | ミステリ・サスペンス・ホラー
これぞ近藤史恵の王道! すばらしい、もう興奮して寝てなんかいられません。隔たれた山荘、謎めいた美少女、妖艶な婦人、過去をもつ少年たち、愛犬、復讐、これでもかこれでもかと、近藤ワールド炸裂です。
「薔薇を拒む」(講談社)。ラストの着地が見事です。「この薔薇は、ぼくに与えられたものではない。」もうこれしかない。
終盤で、えっ、それが犯人? ちょっと待ってよー、と思いもしましたが、続く真相には納得です。
オープニングの「救えなかった人たちの美しい面影」がまた効いている。
幼いころ、両親を事故で亡くした博人は、施設の所長から耳寄りの話を聞かされます。ある屋敷に住み込みで働けば、将来大学の費用を全て出してもらえる。
同じように雇われた樋野という少年とともに、博人はその屋敷(光林家)に向かいます。最寄駅から車で一時間ほどかかる屋敷に着いたとき、樋野は牢獄のようだとつぶやきます。
東京で大きな会社を経営している光林の、妻と娘がここで静養しているのでした。博人は娘の小夜に好感をもち、屋敷で働けることに幸せを感じます。
しかし、どうして自分と樋野は光林に選ばれたのでしょう。樋野の父親は連続殺人犯、博人も同じ施設の女の子を殺した疑いをもたれた過去がありました。年頃の娘をもつ親としては、最も近づけたくないタイプであるはずです。(これは後にある刑事も指摘します)
屋敷を取り仕切る中瀬、家庭教師のコウさん、お手伝いの登美さん、通いの弥生さん。人手も充分あるはずなのに。
そんなとき、中瀬が湖に浮かんだボートから死体で発見されます。
小夜の亡くなった姉夕日、別の施設で被害にあった少年の噂、様々な憶測が飛び交うなか、博人は樋野と小夜が恋に落ちたことを知るのです……。
終盤、読者は小夜の身におきた悲劇を知ります。そして、博人の選択を。ただの「鹿」ではない彼らしい道ではありますが、「春琴抄」のような味わいを醸し出していますよね。
けれど、もう「博人」はどこにもいないのだな、と思いました。彼は「光林薫」としての人生を選んだのです。小夜に現実を知らせないためには、彼の周囲の人間にも同じように呼ばれなくてはならないし、自分の声すらももう忘れたというくらい、薫としての生活に慣れている。
この作品、近藤さんにとっては「ゴシックロマン」だそうです。自分の好きな世界観を描いてくれる作家がいるのって、幸せなことだなと思いました。装丁も美しい。語り手の気持ちに溶け込んで、しみじみと読みました。

「おうちでつくるほっこり雑貨。」まめこ

2010-07-26 05:59:42 | 工業・家庭
ガムテープを衝動買いしました。三本も。だってガムテープバッグを作ってみたかったんだもん。
まめこさんの「おうちでつくるほっこり雑貨。」(宝島社)を読んだら、非常に興味をそそられて、本を買ったその足で、ホームセンターに行き、次の日5時には家を出ないといけないというのに、いつまでもいつまでも作り続けてしまいました。
でも、わたしのように不器用な奴は、最初から大技に挑戦するべきではなかったのでした。曲がるの曲がらないのって、型にした本の縁からずれているし。まめこさんは表の方が難しいといっていたのに、難しいじゃん裏地! こんな場合で表がうまくいくとは思えません。案の定、本にぴっちりくっついて抜けやしません。くぬぅ、いつかやり直したいと思います。
まめこさん、自分のことを謙遜して描かれていますが、どの作品も丁寧に作られているではありませんか。
ビーズ、レース編み、指編み、フェルトのモビール、木の箸やスプーン、消しゴムはんこ、ワイヤー細工、布ぞうり、ニードルフェルトなどなど、魅力的な小物が目白押しです。起業教育のアイディアを出すときに、この本に巡り会いたかったなあ。
手芸の本って結構高いではないですか。初心者が気軽に挑戦できて、うまくいったら量産システムを組める作品は貴重です。しかも、一定分野に偏ってないので、応用がきく。ちなみに、初期段階で出た商品はというと、竹を切っただけのペン立て(コストがかからない)とストラップがとても多くて考え直すグループが多発しました~。
この本ではプロ作家の方々が講師をつとめられているので、入門編が終わったら、次へのチャレンジも可能です。まめこさんが応用して使った作品も紹介されていて、入り口が広いように感じました。型紙デザインもおもしろい。たんぽぽのはんこ、いいなあ。
まんがでの説明もあるので、わかりやすいと思います。

「家族の勝手でしょ!」その2

2010-07-25 05:21:58 | 工業・家庭
なんだかまだ書きたりないような気がするので、続けます。
この前、「幼稚園ではキャラ弁作ったりしてるの?」と聞かれました……。
「作りませんよー、お父さんと同じおかずです」
と答えました。キャラもののかまぼこを入れることはありますが。ふりかけご飯、フライ、卵焼き、プチトマト、ゆで野菜、チーズ(かまぼこ)、たまーにフルーツというところが定番メニュー。
でも、その後、お母さん方の話題に耳を傾けていると、「○○さんちは朝5時に起きてキャラ弁作ってるらしいよ」「幼稚園に下の子を通わせるころって、やっぱりキャラ弁作らないといけないのかしら」「あんなの流行らせた人を恨みたい」という台詞が聞こえてきたので、作ってる方も多いのでしょうね。
「家庭の勝手でしょ!」には、キャラ弁を作って写真をブログにアップするのが趣味、でありながら、そのほかの食事は時間がなくて簡単に、という例も出てきます。
弁当にスポットを当てている項もあるのですが、幼稚園の方針で「嫌いなものは入れない」ことになっているため、もう冷凍食品が中心。ああ、わたしもそういう弁当を作っていたなあ。今は冷食買うと怒られるので使ってませんが。
でも、身の回りに便利なものがあふれている昨今、わざわざ時間をかけてものを作る、ということは廃れているというか、かなり日常的に簡略化していますよね。これは食事だけでなく、様々な技術に関してもいえる。
ものづくりをして売るという企画をしたときも、「百円ショップに行ったほうがいいようなものになってないか、よく考えて」とよく言われました。手づくりの価値、大切にしたいものがありますよね。
この前、新聞四コマの「ちびまる子ちゃん」を読んだら、冷し中華の具を巡って、卵は砂糖を入れる入れない、トマトをつけるつけないの注文を家族一人ひとりが言い出した結果、お母さん、次は「そうめんにしよう」とつぶやきます。
これって、現代の食卓が反映されているのではないでしょうか。本来、このまんがの舞台にあたる昭和五十年代なら、お母さんの作ったものに注文をつけて、自分の好きなものだけを食べたがるようなことはないように思います。作ったものをみんなで食べる。
でも、自分好みの味を押し通すのは、家族の味を消していくことにつながるのでは。
他にもいろいろいろいろ考えたのですが、とにかく写真が圧巻です。「いつもの食卓」には理想と現実の間に隔たりがあることや、比喩として子供が置き去りにされている食卓がかなり多いのだと感じました。
「家族の勝手でしょ!」にはお勝手で身勝手に振る舞う人たちが、リアルに姿を現しています。岩村さんの調査に異を唱える人もかなり多いことが文章から感じられますが、これは決して説教のための本ではありません。食事は個人の体を作るものですから、手をかけてみるべきではありますが。
社会が、文化が壊れていく、それに歯止めをかけることはもうできないのか。そういう側面をもっていると思います。
データのかげにあるものを丹念に読みとっての作業、お疲れさまです。社会調査がこんなにおもしろく読めるのは、稀有なことではないでしょうか。

「家族の勝手でしょ!」岩村暢子

2010-07-24 04:56:41 | 工業・家庭
先日。知り合ったばかりのお母さんがこんなことを言っていました。
「給食を残して叱るようなことはしないでほしい。今食べられなくとも大人になったら食べるかもしれないでしょ。納豆が食べられるからえらいとか、食べられないから駄目だとかじゃない」
んー、給食を残しても怒りはしませんが(体調が悪いかどうかは聞いてみます)、好き嫌いが人生を狭めるような気はします。
というより、あることを「しない・できない」の比喩として出てきた言葉なので、食事のことに関してだけではなくもっと広く捉えるべきなんでしょう。
そうすると、やっぱりこの本も、食卓以上のこととして読む部分が多い気がします。
岩村暢子「家族の勝手でしょ!」(新潮社)。わたしの年代だと、ついドリフの影響で音階つきで読んでしまうタイトルなのですが……。副題は「写真274枚から見る食卓の喜劇」。
岩村さんの本を続けて読んでいますが、やっぱり何かしら気になるものがあるのです。わたしはこういう食生活ではありませんが、自分にもそういう要素があることはわかる。だから読むのかも知れません。例えば、昔ながらの生活に頑固なほどこだわる義両親に読ませたら途中で怒り心頭に達しそうで怖いですし、これが「当然」であると感じる人にはけなされていると感じてやはり嫌な顔をされそうです。
とすると、この本の読者層は? わたしのように「自分はそうではない」と考える人でしょうか。でも、一緒に生活している人が厳しくなければ、すぐ崩れそうなんですけど。
食卓の写真を一週間撮り続けることによって見えるものは、かつての日本では「当たり前」だった家族の在り方が変化しているという事実。躾をする、一緒に食事をとる、栄養バランスを考える。現代の子供たちは、箸もきちんと使えません、という事実に、すみませんわたしも実は使えませんというのは情けないですが。
でも、わたしはかなり親から直すように言われましたが、ここに登場する写真には、スプーンやエジソン箸を使ってしまう。それを親は諦めている、というのが世の中変わってきているのかもと思いました。
うーん、諦めるというより、はじめから努力しない感じかな。「そのうちできるようになる」と楽観している人が多い気が。
でも、本当に、「そのうちできるようになる」のでしょうか。学校や社会的体験を通しての成長を期待するなら、各家庭の教育力が落ちている段階で期待できないですし、単に年齢を重ねればできるものでもないと思います。
わたしも好き嫌いの多い子供でしたが……。今はかなり食べられるようになりました、たしかに。でもそれは、「出していただいたものはきちんと食べる」と考えていたことが大きい。中華料理さんでアルバイトしていたとき、賄いに出た食事で、おいしさを知り、自分で作るようになったからです。
嫌いなものを避ける生き方は、思考の範囲も狭めるのでは。子供のうちにある程度の味を知っておく方がいいと思います。

「ミラクル・ファミリー」柏葉幸子

2010-07-22 21:37:35 | YA・児童書
うん、やっぱり柏葉幸子はいい!
「ミラクル・ファミリー」(講談社文庫)です。読みました? なかなか書店で見かけず(田舎なので)、発見するなり買いましたよ。
この物語たちにも、いい意味で田舎が絡んできているように思います。
現実と夢とが交差するような不思議な物語。遠野のたぬき、きつねの村、めだかがいる川、山に住む大柄の女の人、ミミズクの図書館……。
舞台は現代ですから、小道具だてとか背景は新しくて、ちょっと笑ってしまったのは、息子の部屋にやってきたお父さんが「うる星やつら」を読んでいるところですね。きつねが女の子を好きになって、人間に化けてやってくる。あったあった!
わたしの好みは「ミミズク図書館」ですね。たぬきやきつねの子供たちが、人間になったときに困らないように本を読んでおく。その本は、人間の子供たちがじっくりと読んだものを貸しているのです。だから、貸してくれる子は特別中に入ってもいい。引っ越してきたばかりの男の子(話者にとっての父親)は、そこに自作のまんがを書いたノートを置いてきます。
何年も経って、彼が息子とスキー場にいると、なんとそこに息子そっくりの男の子が現れるのです!
この物語を、作者は娘の視点で描きます。かつて父親からミミズク図書館の話を聞いた女の子。ほのぼのとしたすてきな余韻があります。
最後の「宿敵」の話もおもしろいですよ。マングースちゃんの正体を知った娘が、父親は今でも「コブラちゃん」であると独白するあたりがなんともいえません。
単行本を図書館で発見しました。もう十年以上前の作品なんですね。全く古びていない。
こういう作品をまとめて読めるのは、うれしいことです。
普段は「ただのお父さん」としか認識されていなくても、なにやら物語が隠れているかも知れませんね。

「ちょっといい話」戸板康二

2010-07-21 05:27:01 | エッセイ・ルポルタージュ
念願の戸板康二「ちょっといい話」(文春文庫)を読みました。これも県図書館にて。中に生協のレシートがはさまっていて、これが02年。うーむ、久しぶりに借り出されたのでしょうか。
文人の話が多いので、わたしにはおもしろいです。サトウハチローが「上田敏訳の『海潮音』、永井荷風訳の『珊瑚集』を読んでいると、原作は、あんなにうめえこといっていないんじゃないかと思うね」と言ったとか。寺山修司が歌人で親しい人を聞かれて、「宮柊二さん/だって向こうもシュウジでしょ」とか。
こんなのもありました。北条秀司さんという方が、「(岡本)綺堂先生は、よほどウナギが好きだったらしい」という。その証拠を尋ねると、「半七が、のべつにウナギ屋に行く」。なーるほどー。
山岡鉄舟が清水の次郎長から、手紙の字が難しいといわれて書いたその後の手紙。「このあひだは、ありがたし。この品あげる。/六月二日  やまおか」。
虚子のエピソードも。彼を宗匠として久松伯爵邸で句会をしたときその場にいた「温厚な老人」が酒をついでくれます。虚子は松山藩士(あまり身分は高くない)だった自分の父親のことを思い出して、なんともいえない思いにひたりました。なぜなら。この老人、徳川慶喜だったのですって。
彼らしい台詞として、「選句は選者の創作です」というのも紹介されていました。北村薫がアンソロジーは選者を読むことであると語っていたことを思い出します。その人らしさが出るものですものね。(ということは選者の人柄が反映してしまうのですね……)
ほかにも、菊池寛「文才のある文学青年ほど、困ったものはない」や武者小路実篤「雑誌にたのまれたら書く。ことわるより書くほうが早い」も、時代を映しているように思います。
八千草薫の愛称はヒトミ。「二十四の瞳」を演じたとき、「ざんねんながら、二十四じゃないわ」 といったとのエピソードも。八千草さん、上品ですてきな女優さんですよね。
借り物なので本のページを折って読むわけにはいかず、もう一度さらっと読み返してしまいました。侍従長がタクシーで皇居まで行ってほしいと言ったところ、運転手さんに、「旦那、だいぶご機嫌ですね」と言われた話なども、おもしろいです。

「キケン」有川浩

2010-07-20 20:49:43 | 文芸・エンターテイメント
県大会間近で毎日6時まで部活してそのあとお祭りにむけて地域のお囃子練習に子供を連れていって、という生活を繰り返していました。で、お祭り当日が県大会って、笑えません。わたしにどうしろと。
でも、忙しくても本は読みます。書くことより優先して読んでいるため、更新が遅いかも。
この忙しいさなかにいるのがいいということなのかもしれませんね。楽しいのは仲間たちと活動している最中のこと、卒業したらその場所を次の世代に明け渡さなければならない。そんな一抹の寂しさから、なかなか学祭を訪れることができなかった元山くんが、奥さんに語る懐古録。有川浩「キケン」(新潮社)です。
結構表紙カバーが楽しそうで、出たときから読んでみたかったのですが、なかなか図書館に戻ってこなかった。まあ、やっと読めました。
男子の文化部って、こういう感じなのですかね。
自分も学生時代の友達との日々は非常に楽しかったので、この連帯感とか高揚感とかよくわかります。学祭も、模擬店はやったことないのですが(検便とかあって面倒くさいでしょ)、みんなで何かを達成しようとする一体感がおもしろい。
だから、「三倍にしろ!」はものすごく楽しかったし、元山が学祭にこだわるのも頷けます。
でも、「副部長・大神宏明の悲劇」は。
これ、「悲劇」? 「振られた」って何度もいってるけど、そうなの? 元山の奥さんすら「カマトト」扱いしてますが、唯子にとってこそ悲劇だったような気がしてなりません。そういう事件でただ別れる選択肢しかないのは、どうなの?
確かに唯子は誤解を受けるような行動をしたかも知れません。でも、実際襲われそうになったのだから、当人は恐怖ですよ。ハタチ過ぎているとかそういう問題じゃないから。そういう価値観の人もいると思います。
だから、こういう結果になってしまったことはひとまず仕方ないとしても、大神には二人の関係を修復する気持ちがなかったのだな、と残念な気がします。
それに、全体的に見て、大神の存在感は作者が思うほど大きくないような。キャラが立ってる上野と比べると、「大魔神」のイメージじゃない。他のエピソードと、第二話の印象が違うように感じます。もっと冷静でもいいような。
ま、要するに、わたしと有川さんとの性に関する捉え方が違うんでしょう。
ただ、元山の奥さんがお嬢様は「自分に都合のいい男を手練手管でモノにする」というのはやっぱりひっかかる。自分のものの見方に合わない唯子を評して「カマトト」といった半ページもたたないうちに、評価が反転していますよね。彼女の中では反駁しないテーゼなのかしら。
ラストの黒板の場面、感動しないわけではないのですが、うーん、十年経つのに母校の学祭に毎年現れる人というのは、珍しい(婉曲的表現)ような。しかも団体でしょ。さらに、毎年現れている集団がいるのに、ラーメン屋で当時の先輩と会えて光栄だと盛り上がるのは、矛盾してません? その代の人たち来てるでしょ。しかも「上野参上!」なんて書いてあって、そこに大神のツッコミがあるから、もう初日に来てるんだと思うのです。それとも彼らラーメン屋には顔出さないの?
元山がスープのレシピを完成させたからかと思ったら「その代のOB」としか言ってないし。
本人たちは非常に楽しそうなので、いいですけどね。あ、わたしは池谷が好きです。