グローバリズムでは、富める者は勝ち組で、貧しき者は負け組といわれます。しかし、それは儚いこの世を絶対視するからであり、人間の本来的な価値とは無縁に思えてなりません。
道元の法語を永平寺2世である孤雲懐奘が記した『正法眼藏随聞記』で述べられている言葉にこそ、真実味があります。この世では物質的なものが尊ばれますが、仏教徒にとっては、かえってそれが障害となってしまうのです。
「示して云はく……いまだ財寶を豊かにして佛法を行ずるとは聞かず、皆よき佛法者といふは、或は布衲衣(ふなえ)・常乞食(じょうこつじき)なり。禪門をよき宗といひ、禪儈を他に異なりとする初の興(おこ)りは、むかし敎院律院寺(きょういんりついんじ)に雜居(ぞうご)せし時にも、身を捨てて貧人なるをもってなり、宗門の家風先づこのことを存知すべし」
この年齢になると僕も、ついつい仏教の書物を紐解きたくなります。裕福ではなくても、それに目を奪われがちな我が身を恥じるのは、少しはまともな心が残っているからでしょう。
道元の法語を永平寺2世である孤雲懐奘が記した『正法眼藏随聞記』で述べられている言葉にこそ、真実味があります。この世では物質的なものが尊ばれますが、仏教徒にとっては、かえってそれが障害となってしまうのです。
「示して云はく……いまだ財寶を豊かにして佛法を行ずるとは聞かず、皆よき佛法者といふは、或は布衲衣(ふなえ)・常乞食(じょうこつじき)なり。禪門をよき宗といひ、禪儈を他に異なりとする初の興(おこ)りは、むかし敎院律院寺(きょういんりついんじ)に雜居(ぞうご)せし時にも、身を捨てて貧人なるをもってなり、宗門の家風先づこのことを存知すべし」
この年齢になると僕も、ついつい仏教の書物を紐解きたくなります。裕福ではなくても、それに目を奪われがちな我が身を恥じるのは、少しはまともな心が残っているからでしょう。