草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

日本の国柄を無視した小林節の根無し草憲法論を嗤う!

2016年05月09日 | 政局

かつては集団的自衛権を合憲と考えていたとか、色々なことがいわれるが、憲法学者の小林節は最初からずっこけていたのである。最近になって馬脚を現しただけだ。それを見抜いていたのが同じ憲法学者の小森義峰であった。小林は戦後民主主義の落とし子なのである▼小林は『憲法守って国滅ぶ』のなかで、国民主権に異常にこだわっている。それは明らかに日本の伝統や歴史を無視した見方にほかならない。自然法の原理を強調するあまり、小林は国民の決定を絶対視し、日本の国柄を無視している。生きている者の多数決が絶対であり、天皇と国民が一体となって歩んできた民族の過去などどうでもいいのだ。平気で天皇の存在に疑問を提出したこともある。その程度の憲法学者でしかないのである。変節したのではなく、もともとが駄目であったのだ▼憲法改正の急先鋒に一時期なったのは、世論の動向がそちらに向かうと思ったからだろう。自民党を出た小沢一郎と相性が合うのは、数が全てだという考え方で一致しているからだろう。大衆迎合主義なのである。今度は参議院選挙の全国区に立候補することになった。裏で小沢が糸を引いてるのは容易に想像がつく。やってみればいいのである。日本国民がどれだけ政治的に聡明であるかを思い知らされるはずだ。今まで国民主権がプラスとして機能してきたのは、日本人が右往左往する大衆ではなく、民族としての知恵が働いたからなのだから。

 

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大学の権威を認め給付型奨学金にこだわるパヨクを嗤う!

2016年05月09日 | 思想家

未だに制度としての大学の権威を認めているのがパヨクだ。学歴偏重は過去のこととなりつつある。ネットが世界を一変させてしまったのである。給付型奨学金は現状を追認するだけだ。本当に優秀な若者であれば、教授の権威に従わなくてはならない今の大学に、不満を抱くはずだ▼外国の文献の翻訳に明け暮れているのは、江戸時代から続く日本の高等教育の姿なのである。これまでは教育の場が制度としての学校が中心であったために、異質な存在が許されなかった。多くの優れた人材が闇に葬られたのではないだろうか。東大を頂点とした知のヒーラルヒーは、近い将来に解体されるだろう▼理想的なのは労働をしながら、学ぶということである。パヨクはそのことを理解できないのだろうか。シモーヌ・ヴェユの「肉体労働に当然の尊厳をあたえ、また、知性を労働によって世界と接触させることによって、知性にその本来の目標を与えたいのである」(『自由と抑圧』石川湧訳)との主張は正しい。パヨクは自分たちの生き残りしか頭にはないようだ。もはや大学という制度ではなく、新たな学びの空間を、もっともっと拡充すべきなのである▼今の日本のサヨクは、サヨクと呼ぶにも値しない。パヨクで十分なのである。根底から世界が変わってきているのに、それに気が付かないからだ。肉体労働を蔑視する風潮を排し、肉体労働と知性労働との合体こそ目指すべきなのである。

 

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世の中のことがわからず庶民に馬鹿にされるパヨク文化人を嗤う!

2016年05月09日 | 俳句

今は流行らなくなってしまったが、ネットで批判の対象になっているパヨクの知識人は、それこそ花田清輝流に言わせてもらえば、典型的な「文化人」ということになるだろう。それは褒め言葉ではなく、馬鹿にした物言いなのである。花田が偉かったのは、戦後の一時期、それも進歩的な「文化人」を徹底的にけなしたからである▼「近ごろ、文化人にたいへん風あたりがつよくなったというような声をよくきくが、これはたいへんけっこうなことだと、わたしはかんがえる。文化人の活動が、いくらかでも社会的な力をもってくれば、風あたりのつよくなるのは、当然のことで、一般の社会人は、これまでも社会的な力をもってくれば、風あたりのつよくなるのは、当然のことで、一般の社会人は、これまでも、いつもそんな風あたりのつよいところで生きてきたのである。東洋には、『読書人』という階層があって、知識はあるが、さっぱり世の中のことはわからんというので、連綿として庶民からばかにされてきたが、読書人のやや近代化されたタイプにすぎなかったのだ」(『乱世をいかに生きるか』)▼そのものずばりではないだろうか。よくテレビに登場する憲法学者がお粗末なのは、世の中のことにまったく疎いからである。昨今はネットで誰れでもが意見を述べられる。庶民の方がはるかに賢いのである。花田は「要するに文化人とは、戦前派の異名である」と結論付けているが、観念論ここに極まれりということなのだろう。

 

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