♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■闇の中に立つ光として/大嶋重徳

2019年12月19日 | Weblog
2019/12/12放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。クリスマスおめでとうございます。

 華やかに見えるクリスマスには実は影があるのです。闇が立ち込めているといってもよいでしょう。クリスマスは一年の中でも自分で死を選ぶ人が多くなる時期でもあります。しかしクリスマスを私たちが暗闇の中で過ごさないのには理由があります。それはクリスマス・イルミネーションのおかげではありません。暗闇の中で「わたしは世の光です」(ヨハネの福音書8章12節)と言われたキリストが私たちのそばにいてくれるからです。その時に私たちは光の中に立つことができます。やがて光が差し込んでくるのではありません。すでにあなたは光の中を生きているのです。

 光の中に立つとはどういうことなのでしょうか。

 クリスマスの夜、羊飼いたちは荒野で野宿をしながら羊の番をしていました。「 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 」(ルカの福音書2章9節 )とあります。この光に彼らは最初恐れたのです。神の光の中に立つならば、まるで自分の抱えている闇の部分まで何か照らされるような、何か見透かされているような思いがするのかもしれません。しかしその光はやさしい光でした。あなたがたのための救い主の誕生を知らせる光だったのです。人間の隠しながら抱えている闇をも照らす光でした。そしてその光が夜空いっぱいに広がりました。御使いとともに天の軍勢が現れて神を賛美したのです。「 いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。 」(ルカの福音書2章14節 ) まさに羊飼いが見ている世界のすべてを光が照らしたのです。羊飼いの方を光が照らしたでしょう。圧倒的な経験を彼らはしたのです。

 その後、御使いが天に帰った後、この光の中で立たされた羊飼いたちは闇の中で光を見つけに行きます。そして羊飼いは見出します。飼い葉桶に寝ている赤ちゃんの姿を見つけるのです。それを目にした羊飼いは光の中での出来事をヨセフとマリアの貧しい夫婦に伝えました。クリスマスの知らせを最初に人々に伝えたのは羊飼いでした。光を浴びたとき、光の中に立ったとき、彼らはその光を伝える輝く存在となったのです。

 あなたもこの光の中に立つときに、羊飼いのように光輝く存在となります。あなたが光となるのです。あなたが誰かの光のような存在となることができる。それはキリストの誕生を知らせる光があなたを包み、その光があなたの内にとどまるからです。

    ( PBA制作「世の光」2019.12.12放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■わたしは世の光です / 福井 誠

2019年12月18日 | Weblog
2019/12/11放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです。今日も聖書を開いてまいりましょう。ヨハネの福音書8章12節から「わたしは世の光です」と題してメッセージをお伝えいたします。

 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 

  今年もクリスマスが近づいてきましたね。クリスマスはイエス・キリストの誕生日である。だから喜ばしいというものですが、キリストはどんな方であるか、それを知ればますますその喜ばしさを実感できることでしょう。そこで今日は、イエスが語られた一つのことばに注目したいのです。イエスは「わたしは世の光である」と語られました。その語られた状況を少し御説明したいと思います。

 イエスはこのことばを、ある姦淫の現場で捕まえられた女性の裁判の後で語りましたね。それはイスラエルでは極刑に値する罪を犯した女性を、イスラエルの掟通りに石打ちの刑に処するかどうかを判断するものでした。イエスを囲んだ指導者は、「イエスよ、あなたは憐れみ深い人だと言うが、その評判通りにイスラエルの掟を侵してまでもこの女性を赦す甘い裁判をするのか。それとも、イスラエルの掟の通りに処刑を命じてこの女性を見捨てる辛い裁判をするのか、どちらか?、と迫ったわけです。しかしそれは真面目に法律を議論するものではなくて、この惨めな女性を利用してイエスをことばの罠にはめて、教師として失脚させようと企むものでした。なんとも、そのように人をもて遊ぶような社会には希望がないものですね。

 しかしイエスは訴える者に対して、「あなたがたの内、罪のない者がまず石を投げなさい。」と、人をもて遊ぶ自らの人間性を振り返るように迫り、反省を促し、さらにこの女性には、「誰も罪に定める人はいない。」と、新しい人生を歩みように励ましたのです。実にイエスの良心に希望を感じるところですね。まさに「わたしは世の光です。」とイエスが語られたことばに納得するところです。

 このクリスマスの日、人生の難題に光を与えるために来られたキリストを、さらに深く知っていただきたいと思います。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.12.11放送でのお話より )

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■人の光キリスト / 板倉邦雄

2019年12月17日 | Weblog
2019/12/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「人の光キリスト」という題でお話しします。

 でははじめにヨハネの福音書1章4節と5節を読みます。
 「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
  光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。


 さて、この世界は光と闇とが行き交う所です。光である太陽が行き、次に闇である夜が来るのです。両者の営みが一日の中にあり、月日が流れ、幾年生ける者が生存しています。

 さて、今日の聖書のことばは、この世界の営みを念頭に置きながら、私たち人間の倫理・道徳の世界、信仰的あるいは宗教的世界のことを描いています。

 「この方」とは二千年前にこの世に誕生されたイエス・キリストのことです。このお方には神のいのちが溢れていました。イエス様ご自身がこう言われました。「わたしはよみがえりであり、命である。」(ヨハネの福音書11章25節 口語訳 ) また「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネの福音書14章6節 口語訳)

 このいのちの源イエス・キリストこそ私たち人間にとって人生の道の光、真理の光、そしていのちの光ではないでしょうか。イエス・キリストのことばは神のことばです。神のことばは「私の足のともしび 私の道の光」(詩篇119篇105 節)となります。

 この人生という、一寸先は闇という、この私たちの人生の足元を照らし守ってくださる光です。そして私たちの人生の道を導く光です。

 イエス様はこう言われました。
わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネの福音書8章12節)

 光には全てのいのちを育む力がありますねえ。イエス・キリストのいのちの光は私たちの心の闇を取り除き、温かい心を注いでくださるのです。
 「 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)

 暗い部屋を明るくするのに箒(ほうき)で暗闇を外へ掃き出そうとする愚かな人はいません。電気を点けるか、戸やカーテンを開けばいいのです。人の光イエス・キリストを私たちの心の中に迎え入れるとき、私たちの心は明るくなるのです。そして生きる勇気が与えられます。

 キリストのことばです。
 「(あなたがたは)世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」 ヨハネの福音書16章33節

  (PBA制作「世の光」2019.12.10放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■世の光である救い主、キリスト /  岩井基雄

2019年12月16日 | Weblog
2019/12/9放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。クリスマス特集の第一週は、「世の光である救い主」について学んでみましょう。

 この「世の光」はラジオ番組のタイトルですが、それは救い主イエス・キリストがこの世を照らす光であることから来ています。キリストの十二弟子の一人ヨハネは、イエスを「ことば」という表現で記し、世の光であるキリストを紹介しています。
 お読みします。

  「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
    この方は、初めに神とともにおられた。
    すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
    この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
    光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

                新約聖書 ヨハネの福音書 1章1節から5節

 ここでヨハネは、キリストは最初から存在され、すべてのものを創造された神ご自身であることを力強く証ししています。ヨハネはキリストと共に約3年を過ごしましたが、その生活の中で、このイエスこそ神であり神の御子であることを確信したのです。
 「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
    光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 と記した通り、キリストの光によって彼自身、罪深さを示され、まことの光によっていのちへと導かれたのです。
 また死に打ち勝ったキリストの勝利の復活をも目撃しました。そして内側から変えられていったのです。

 ヨハネは十二弟子の中で一番長く生かされました。彼はキリストと共に歩む人生の祝福を覚え、何よりもこのキリストが創造主であり、救い主であり、いのちであり、人の光であること、そして闇の世をも自分をも照らし、いのちの光、救いの光を与える勝利の主であることを力強く証ししたのです。

 また彼はキリストのことばをも記しています。
 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。
           新約聖書 ヨハネの福音書8章12節

 世の光であるキリストは、あなたの心も人生も本当の輝きを得るようにと、この地上に来てくださいました。このクリスマスは、あなたも世の光であるキリストと共に光の中を歩むためにあるのです。

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■高価買取 / 水谷 潔

2019年12月14日 | Weblog
2019/11/2放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 水谷 潔です。

 最近はリサイクルショップが増えて、看板や広告で「高価買い取り」ということばをよく目にするようになりました。実は「高価買い取り」と目にするたびに私はある聖書の言葉を思い起こすんですねえ。それは「贖(あがな)い」ということばです。「贖い」とはあまり日常で使わないことばですが、聖書の中ではもともとお金を支払って何かを買い取ることを意味します。

 では何を買い取るのでしょう。宝石でしょうか、田畑や土地でしょうか? いいえ、買い取るのは人間です。古代世界では人間が売り買いされるという奴隷制度がありました。ですから聖書に出てくる贖いの多くは主に奴隷となってしまった家族や知人をお金を支払って買い戻すことを意味しました。
 しかし聖書に記されている贖いはそれだけではありません。実は聖書の中心は、神様が私たち人間を贖われた事、代価を支払って買い戻してくださった事にあります。

 聖書によれば私たち人間は、神様に愛され神様を愛し神様とともに生きる存在として造られました。しかし神様に背を向けて歩み始めた結果、私たちは罪の奴隷となってしまいました。死と恐れに支配され、喜び、希望、平安を失って歩まざるを得なくなりました。さらには神様に背を向けて歩む罪のために永遠に滅ぶべき者となってしまったのです。しかし神様はそんな私たちを愛し、大きな代価を支払って私たちを「買い取って」くださいました。私たちを買い戻し、もう一度神様のもとに引き寄せてくださったんです。そしてその買い取りのための代価が神様の独り子イエス・キリストのいのちだったのです。

 新約聖書テモテへの手紙第一の2章6節は言います。
 「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。

 イエス・キリストのいのちという代価が支払われ、私たち人間は買い取られているのです。支払われた代価は神様の独り子のいのちなのですから、まさに高価買い取りです。

 町や新聞・雑誌等で「高価買い取り」という言葉を目にしたら、どうか聖書の記す「贖い」を思い出してください。そして支払われた代価を覚えて、自分がどんなにかけがえのない高価な存在であるか確認していただければと願います。

(PBA制作「世の光」 2019.11.2放送でのお話より )
 
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■カイザルのものはカイザルに / 関根弘興

2019年12月13日 | Weblog
2019/11/1放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストの地上の生涯の最後の一週間のことは新約聖書の四つの福音書に詳しく書かれています。

 イエス様はエルサレムに入られると、まず神殿に行きました。そしてそこで不当な利益を得ていた両替人や商売人たちを追い出されたんです。イエス様は、「あなたがたは神殿を強盗の巣にしている。聖書に『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか」(参照 マタイの福音書21章13節、マルコの福音書11章17節、ルカの福音書19章46節 )と厳しく批判なさったんですね。

 またイエス様は、当時の宗教家たちが人々を見下し高慢になっている姿を見て、その偽善性を厳しく批判なさいました。ですから当時の宗教指導者たちはイエス様に激しい憤りを持っていました。

 そこで彼らはイエス様をことばの罠にかけようとしてやってきたんです。ことばの罠とはどのようなものだったかと言うと、それは、「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」(マタイ 22章17節 新改訳第三版)という二者択一の質問を持ってきたんですねえ。

 もしイエス様が「税金をカイザルに収めることは律法にかなっている」と言ったらどうでしょう。ユダヤの民はローマ帝国に支配され、税金を取られて大きな不満を持っていました。ですからイエス様が「カイザルに税金を納めなさい。」と言えば、民衆は「イエスよ、お前は我々を救う救い主だろ! カイザルに税金を納めるとは何事か! ローマ帝国の支配に服従するのか!」と反発して、イエス様への熱は冷めて、みな離れて行ってしまうでしょう。

 しかし、「税金をカイザルに収めることは律法にかなっていない。税金を納めるな。」と言ったらどうでしょう。これは納税を拒否するということになるので、即座にローマ政府への反逆罪としてみなされてしまいます。

 しかしイエス様は何とこう答えられたんですねえ。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ 22章21節 新改訳第三版)と。つまり、この世における義務は義務として果たしなさい。しかし私たちは神様によって造られ生かされているのだから、神様だけに返さなければならないものがある、と言われたんですね。

 それは一体何でしょう。それはまず神様への心からの礼拝であり、生かされている感謝や賛美を私たちは神様に返していくのです。神のものを神に返すという生き方は、人間の本来の生きる姿でもあるんですね。

     (PBA制作「世の光」2019.11.1放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし129(最終回) 欲しがってはならない / 大嶋重徳

2019年12月12日 | Weblog
2019/10/31放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。第十戒は「 欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節、申命記5章21節 新改訳2017)です。
 
 第十の戒めはなぜ欲しがってはならないと戒めるのでしょうか。欲しがる私たちの心の深い所にあるものの一つは、私たちの妬みの感情でしょう。私たちは隣の家、隣の美しい妻、隣に住む人の財産を見ると、羨ましい・・・そういう感情に捕らえられ、自分と比較して惨めな思いになることがあります。

 イエス様はおっしゃいました。「何はともあれあなたがたは神の国を求めなさい。そうすればこれらのものはそれに加えて与えられます。」「野の百合を見なさい。空の鳥を見なさい。」と語られ、私たちの目を上に上げ、空の鳥が必要なものを神様に与えられていること、目を下に向けさせ、花が綺麗に咲いている様子を見るように語ります。この世界には神様が与え、神様が備え、神様に導かれながら生きる生き方がこんなにもあるではないか、と私たちに気づかせてくれるのです。妬ましいと思っていた誰かの才能も神様が造られたのです。神様の計画のために用いられるのだ、と知ったとき、妬みの感情は感謝の思いへと変えられていきます。自分は持っていないという不満も、自分の必要を知っておられる神様が私には必要ではないと思われるものを私に与えられたりはしないことをわきまえることができるようになります。むしろ互いの足りないところを補いあって、私たちは神様の計画を立てられていくのです。その時に、嫉妬の感情からも解放されていくのです。そして私自身の手にゆだねられているものも隣にいる誰かの手の上に乗っているものも、自分たちのものだと考えずに、神様に委ねられ神様から預かったものだと考えるのです。欲しがるべきものが神様と交わりなのだと知ったとき、自分を巡る嫉妬の感情からも少しずつ少しずつ解放されていくようになります。

 今日で十戒の学びを終えることとなります。十戒で130回近い学びをする事になるとは始めた時には思いもしませんでした。ご一緒に十戒から自由なる生き方を学ぶことができたことを心から感謝をしています。ぜひ十戒を大切にしながら日々を歩んでいただきたいと思います。

    ( PBA制作「世の光」2019.10.31放送でのお話しより )

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■「神はいない」と言う / 福井 誠

2019年12月11日 | Weblog
2019/10/30放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです。今日も聖書を開いてまいりましょう。詩篇14篇1節から「『神はいない』と言う」と題してメッセージをお伝えいたします。

  愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。 善を行う者はいない。 

 14篇の冒頭には「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている」とありますが、ここで「愚か者」と訳されたヘブル語はナバル。それは知能的な愚かさではなくて、意図的に神に心を閉ざし、逆らう者を意味していますね。「攻撃的なつむじ曲がり」という翻訳もあります。彼らの特徴は二つ。神の律法をあざけること。そして神の民を抑圧することです。彼らはパンを食らうように神を愛する者を食らう。つまり空腹な獣のように弱い者を食い物にする者たちです。

 いったいダビデはこの章をどのような状況で歌ったのでしょうか。アブシャロムが謀反を起こした時、あるいは聖書の記録にはない非常に追い詰められるような出来事があった時とも言われています。しかしながら注目したいのは、この詩篇は53篇とその内容がよく似ていることです。それは個人的な経験から書かれた詩篇14篇をあとで侵略や包囲の脅威などの国家的危機に合わせて改訂したものだと言われているものです。ダビデが旧約聖書の中でその意を汲みながら国家的な規模の救いを願う内容に改訂されたという訳ですね。

 ところが新約聖書では更にもっと違った読み方がなされています。パウロはローマ人の手紙3章で、この詩篇を引用して、愚か者をある特定の悪人や国家ではなくて全人類として解釈し引用しているのです。つまり初代のキリスト教徒はこの詩を、ダビデの個人的あるいは国家的な抑圧の状況ではなく、全人類の罪の状況を語るものとして読んだのですね。自分も含めてすべての人がこの愚か者に価して、そこから救われる必要がある、と読んだのです。謙虚に自分の罪深い現実を認めて、救い主である主イエスを受け入れていく者でありたいものです。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.10.30放送でのお話より )

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■パウロの説教(その二)/ 板倉邦雄

2019年12月10日 | Weblog
2019/10/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 私たちは今、使徒の働き13章からパウロの説教を聞いているところです。今日はその2回目です。主題は「ダビデの子孫として生まれた救い主イエス」です。

 「兄弟たち。アブラハムの子孫の方々、並びに神を敬う人たちよ。救い主イエスが来られる前にヨハネが来て、イスラエルのすべての民に悔い改めのバプテスマ・洗礼を宣べ伝えました。そして救い主イエスへの道を整えました。救い主イエスのことばは私たちに送られたのです。しかしエルサレムに住む人々や指導者たちはイエスを救い主と認めず、十字架刑の判決を下したのです。何ら死に当たる理由が見い出させなかったのに、総督ピラトに強要してイエスを殺してしまいました。そして人々はイエスを木から降ろして墓に葬りました。これらのことはすべて旧約聖書の預言者のことばが実現するためだったのです。」

 パウロの今日の説教は、イエス・キリストの生涯を語ります。それは苦難と十字架の死という救い主イエスの生涯でした。パウロの説教は続きます。

 「しかし皆さん、主なる神はこのイエスを死人の中からよみがえらせたのです。私たちは神が先祖たちに対してなされた約束、死人の復活を宣べ伝えているのです。神はイエスをよみがえらせて、私たち子孫にこの復活の約束を果たしてくださいました。神がイエスを死人の中からよみがえらせてくださった事実は私たちイエスを信じる者が朽ち果てることがない者とされたことの保証です。」

 さて、今日のパウロの説教の中心は、救い主イエスの受難の十字架と復活でした。特にパウロは、サウルという名前の時、復活されたイエスとシリアのダマスコ門前で出会うという体験をしていました。自分の罪を背負ってくれたイエス様と、私を新しく造り変えてくださった復活のイエス様をすべての人に伝えたかったのです。

 パウロのことばです。
 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
       ローマ人への手紙4章25節
 
  (PBA制作「世の光」2019.10.29放送でのお話より )

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■命のビザをつないだ男 小辻節三(こつじ・せつぞう) / 岩井基雄

2019年12月09日 | Weblog
2019/10/28放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第4月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、先月は日本のシンドラーと呼ばれた杉原千畝(ちうね)について学びました。千畝は六千人を超えるユダヤ人たちにビザを発行したのですが、それは日本を通過する許可を与えるビザでした。そして日本に於いてユダヤ人救済のために働いたのが今日学ぶ小辻節三です。

 杉原千畝が書いたビザが有効なのはわずか10日間でした。ビザが切れるとユダヤ人たちは強制送還されてしまいます。ナチス・ドイツの手に戻されれば彼らに死が待っていることは明らかでした。彼らが日本に到着すること自体が非常に困難でした。しかし、様々な奇跡の連続や多くの方々の誠実な助けによって彼らは無事に日本に辿り着くのです。

 しかし日本に来たユダヤ人たちも更に入国を拒否される可能性もあり、期限の近づくビザを延長しつつ日本経由後のアメリカなどへの他国に渡る道や保証人を見つけることはより不可能に思われました。しかしその彼らの状況を聞き、奔走したのが京都の賀茂神社の神官の家に生まれ、キリスト教を信仰し、さらにヘブライ学者となった小辻節三でした。彼は日本に到着したユダヤ人たちのビザの延長を勝ち取り、出国先を見つけられるまで日本に滞在できるようにし、また彼らの日本経由後の道を開くため愛を持って奔走し続けたのです。そのため小辻自身、いのちの危険にさらされたこともありました。しかし、神の愛に生かされていた小辻は多くの犠牲を払ってユダヤ人たちに愛を届け続けたのです。

 もし日本に小辻がいなければ杉原千畝が発給したビザを握り締め日本に来たユダヤ人難民の境遇も大きく異なっていたに違いありません。小辻は真実な神様の愛によって彼らを愛し、助けるために誠実に歩み尽くしたのです。そして神ご自身が彼らを用いて道を開いてくださったのです。

 聖書のことば
 「私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
    新約聖書 ヨハネ第一の手紙 3章18節

 私たちもまた本物の愛を神から受け、行いと真実をもって人々に届けたいと思います。
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