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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■十戒 -自由への励まし 63 / 大嶋重徳

2018年07月19日 | Weblog
2018/6/14放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 十戒第六戒に「殺してはならない。」(出エジプト記20章13節 新改訳2017)とあります。私たちの身の回りに起きている貧困や中絶、自死などを考えるとき、第六戒は、私は殺人をしていないから大丈夫、今のところ関係が無い、とは言うことをさせません。私たちが目を伏せているけれども、現実にすぐそばにある実際的で深刻な社会の闇へと第六戒は目を向けさせようとします。

 クリスチャンこそ第六戒「殺してはならない」という戒めの持つ意味を誰よりもよく知っている者です。なぜなら人は神様の前では罪人であって正しくきよい神の目からは死に値する者であったからです。

 しかし神様から、あなたはわたしのもの、と呼ばれ、すべてのクリスチャンは死にゆく者が十字架の上で死なれたキリストと共に死んで、キリストと共に生き返って、神の愛によって生かされていることを信じるようになったのです。

 さらに物騒な言い方をしますが、クリスチャンは自らが殺人者であることの自覚を持っています。なぜならばイエス・キリストは私の罪のゆえに死なれたという事実を認めた者だからです。つまりクリスチャンになるとき、イエス・キリストを十字架にかけて殺すことになったのは自分の罪のためだと受け入れたのです。つまり私の罪がイエス・キリストを殺した、と告白する人がクリスチャンなのです。

 クリスチャンとは殺すこと生かされることに非常に敏感な存在です。神の子の命を失わせてまで生かされていることを神様が望まれたのだからです。だからこそ、クリスチャンとなった今、誰かのいのちが損なわれようとしているのを目にしたとき、どこかの場所で平和が失われそうになるのを目にしたとき、その生命と平和を守る人生に積極的に関わることを選ぶ者となっていくのです。

 つまり、私たちが耳にすますときに、日々神から「殺してはならない。生きよ。」という声が聞こえて来るのです。「今日を生きていきなさい。」と言われることを聞きながら生きるのです。たとえ私たちが自分の人生に生きることを疲れたとしても、第六戒の神の声は今日を生きる力を与えてくれるのです。

 あなたにもこの「生きよ。今日を生きなさい。」という神様の声が聞こえて来るでしょうか。

   ( PBA制作「世の光」2018.6.14放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■口には蜜のように甘い / 福井 誠

2018年07月18日 | Weblog
2018/6/13放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「口には蜜のように甘い」です。 黙示録10章9節から読んでみましょう。
  私はその御使いのところに行き、「私にその小さな巻物を下さい」と言った。すると彼は言った。「それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
(新改訳2017)

 黙示録は難しい書であるかのように見えますが、旧約聖書にある様々なエピソードをもじって書かれていることに気づくと、その意味が分りやすくなりますねえ。例えば、この箇所も旧約聖書に何か同じようなエピソードがあるなあ人と気づかれた方は居ませんか?そうです。エレミヤ書に同じようなことばがありますねえ。

 預言者エレミヤが活躍したのは古代イスラエルの南ユダ王国が滅びる紀元前6世紀頃です。その時代エレミヤは神のことばを語ることを禁じられたり投獄されたりして、厳しい迫害を受けました。しかし、それでも神様はエレミヤにご自分のことばを語り続けるようにと求めたのです。それはまさにエレミヤにとっては腹に苦い経験でした。しかし他方で神のことばの確かさはエレミヤの心を励まし、力づけておりましたから、神のことばを味わうことはエレミヤにとって蜜のような甘さを味わう経験でもあったんですね。

 この箇所はそのようなエレミヤの時代と経験を終末時代に生きるキリスト者に思い起こさしようとしている所なのです。

 しばしばキリスト者にとって福音を語ることは嘲りを受け、反対を受け、腹に苦みを感じる経験であったりしますね。しかし他方で神のことばの確かさはキリスト者に喜びと楽しみを与えるのです。ヨハネは、今や終末の時代、再臨の主が近づいておられる時代である。そうであればこそ、たとえ苦い経験となろうとも主の永遠の祝福を語る素晴らしい味わいの聖書のことばを語り続けられなければならない、と語っています。

 聖書は単に心の慰めを与える読み物ではありません。それは私たちに永遠の救い、永遠の安息を与える素晴らしい祝福のことばに満ちています。 ぜひ聖書を読み続け、主のみことばの味わいの素晴らしさを知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2018.6.13放送でのお話より )

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■ひたすら祈りを / 板倉邦雄

2018年07月17日 | Weblog
2018/6/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「ひたすら祈りを」という題でお話ししましょう。

 人は祈る動物である、ということばを聞いたことがあります。私の父や母も朝夕に仏壇に向かって祈りを捧げているのを見ながら私は大きくなりました。

 さて、復活されたイエス様が天に挙げられる出来事を目撃し体験した弟子たちは、オリーブ山の山頂を下ってエルサレムの都へと帰ってきました。この11人の弟子たちはイエス様に従ってきた婦人たち、長男イエスを亡くした母マリヤ及びイエス様の兄弟や姉妹と共に心を合わせてひたすら祈りをしていました。特に自分のお腹を痛めた長男イエスを十字架刑という極刑で亡くした母マリアの悲しみの深さを誰が知ることができるでしょうか。ひたすら天の父なる神に祈る以外にはなかったでしょう。ひたすら祈るのは復活し昇天されたイエス様の命令だったからです。
 「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、・・・、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマ(洗礼)を授けられるであろう」。 (使徒の働き1章4-5節 口語訳聖書)

 父なる神様とイエス様から聖霊の洗礼を授られるのです。そのためにキリストを信じる人たちは心を合わせてひたすら祈るのでした。私たちの祈りは天の父なる神とイエス様を結ぶパイプのようなものではないでしょうか。私たちの心を合わせる祈りは私たちに豊かな聖霊が注がれるのです。聖霊は私たちがキリストの証人となるための力となり、私たちが慎み深く愛を持って生きていくために必要なものなのです。

 イエスのことばです。
 「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」」
      ルカの福音書11章11節から13節  (新改訳2017)

   (PBA制作「世の光」2018.6.12放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■砕かれ、へりくだった心で / 岩井基雄

2018年07月16日 | Weblog
2018/6/11放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第二週の月曜日は旧約聖書に登場するヨセフの人生について学んでいます。兄たちが自分の弟ベニヤミンと一緒にエジプトに戻ってきた姿を見たヨセフはごちそうで彼らを歓待しました。宴会の後、ヨセフは自分の使っている大切な銀の杯をベニヤミンの袋に入れるよう指示します。ヨセフには兄たちへの不信感がまだあったのでしょうか。幾度も兄たちの心を確かめるのです。しかし神様もまたわたしの心の奥にある思いに光を当て続けれくださることがありますね。それは私たちの心の変化を一番喜ばれるのも神様だからだとも言えるでしょうね。

 兄たちが去った後、ヨセフは彼らを追わせ、銀の杯を盗んだ者がいると追及します。兄たちは身の潔白を証明しようと銀の杯を持っていた者の死と全員が奴隷になることを言明しました。その矢先、杯はベニヤミンの袋から見つかります。兄たちは全員で引き返し、ヨセフの前に出ます。彼らは弟ベニヤミンを見捨てなかったのです。彼らは何をヨセフに語ったでしょうか。聖書はこう語っています。
 ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」 旧約聖書 創世記44章16節

 神とヨセフの前にへりくだり悔い改めたのはヨセフの兄ユダでした。ユダは兄弟の代表として自分たちの罪を認めたのです。実はヨセフをエジプトに売ることを提案したのもユダでした。彼は自分の罪と向き合い続けていたのでしょうか。しかし主はこのユダの子孫の中にダビデ王を生まれさせ、そして救い主キリストもこのユダ族から誕生するのです。神は人の心の深みに光を当て、その人の心の奥底を取り扱われます。そして自分の罪を素直に認める砕かれた心を神様は喜んでくださるのです。

 聖書のことば
 「 神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。
         旧約聖書 詩篇51篇17節 (新改訳2017)
 
   PBA制作「世の光」2018.6.11放送でのお話しより)

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PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■ヨハネの死とキリストの福音宣教 / 羽鳥頼和

2018年07月14日 | Weblog
2018/6/9放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書のマルコの福音書6章で語られているバプテスマのヨハネが処刑された出来事とキリストの福音宣教の働きについてお話します。

 イエスの名が人々に知れ渡った時のこと、イエスの噂がユダヤの王であったヘロデの耳に入りました。イエスのことを聞いたヘロデ王は言いました。「私が首をはねたあのヨハネがよみがえったのだ。」

 そしてマルコの福音書はヨハネがどのようにヘロデによって処刑されたかを語っています。ヘロデの妻の策略によってヘロデはヨハネを処刑してしまったのです。

 ヨハネはヘロデが自分の兄弟の妻をめとっていることを咎めたために捕らえられていました。咎められたヘロデはヨハネは正しくて聖なるきよい人であることを認めていたので、彼を恐れて彼を守ろうとしていました。そして彼の教えを聞いて、悩みながらも、それでも喜んで聞いていたのでした。

 しかし、彼の妻はヨハネを恨み、自分の娘をそそのかしてヘロデにヨハネを処刑させたのでした。

 マルコの福音書はイエスの名が知れわたった時に、なぜバプテスマのヨハネの処刑のことを語ったのでしょう。ヨハネがヘロデに捕らえられた後に、イエスは神の福音を宣べ伝え始めました。そしてヨハネの死の後に、神の福音がユダヤに知れ渡ったのです。

 このバプテスマのヨハネの理不尽な処刑の出来事は、この後のキリストの十字架を暗示するものであると私は思います。ヨハネと同じように、いや彼に以上に正しく聖なるきよいお方であるイエスが祭司長たちの策略で十字架につけられて殺されるのです。キリストの十字架の死と復活の後、キリストの弟子たちによってキリストの福音が世界に伝えられていったのです。

 マルコはイエスが語った福音を要約してこのように教えています。
 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
         マルコの福音書1章15節

 神の国は近づいています。あなたも自分の罪を悔い改めて、キリストの福音を信じませんか?

 明日は日曜日です。神の福音を聞くために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.6.9放送でのお話より )
 
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■平和をつくる者は幸いです -2 / 関根弘興

2018年07月13日 | Weblog
2018/6/8放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書の福音書の中に、イエス・キリストがガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上で人々にお語りになった山上の説教と呼ばれているものがあります。その中でイエス様は、本当に幸いな人とはどのような人かということを教えてくださいました。今日は前回に引き続き7番目のことばを紹介しましょう。
 「 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイの福音書5章9節  新改訳2017)
 
 前回は平和を作ることの最初はまず神様とのあるべき良い関係を作ることからくる大きな安心を持つこと、それが大切だというお話をしました。そしてそれはイエス・キリストを信じ受け入れ生きることから始まっていきますよ、とお話しました。神様とのより良き関係の中に生かされ、そして私たちはお互いの間に平和を形づくっていく者とされていくことができたら何と幸いなことでしょう。

 新約聖書のローマ人への手紙12章18節にこう書かれています。
 「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。
 こう記されています。平和はまず自分に関わりのある人たちから始めてきましょう、という訳ですねえ。ただし、誤解しないでいただきたいのですが、平和を作るというのは無理して相手に合わせようとしたり、波風が立たないように何も言わずに黙っていたりすることではありません。時には相手を戒めることも必要です。自分にできないことは勇気を持って断ることも必要でしょう。また逆に、相手の意見に耳を傾け、忠告を素直に受け入れる忍耐や寛容さも必要です。また自分に関わりのある人に関して、相手の状態にかかわらず、ということも考えなければいけません。相手が自分にどんな態度を取ろうとも、自分は相手のために最善を願い、できることをしていくということです。

 ルカの福音書6章27節でイエス様はこう言われました。
 「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。」と。

 でもこれはちょっと難しいことですね。自分の力では無理って考えるかもしません。神様の助けがなければできません。だから祈るのです。人と人との間を裂くのは悪魔のわざです。でも人と人との良き関係を築くのは神様のわざです。ですから、平和を作るものは神の子どもと呼ばれていくんですね。

  (PBA制作「世の光」2018.6.8放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし 62 / 大嶋重徳

2018年07月12日 | Weblog
2018/6/7放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 十戒の第六戒に「殺してはならない。」(出エジプト記20章13節 新改訳2017)とあります。「殺してはならない。」ほどすべての人が同意できる戒めはないと言われることがあります。確かに「殺してはならない。」に異議を唱える人は少ないでしょう。しかし事態はそんなに簡単なことではありません。

 病気が死へと進ませたとしか言いようが無い自死を選んだ家族を持つ人はどんな思いになるでしょうか。かつて自殺をした人は教会墓地に置葬られることがなかったという歴史をキリスト教会は持っています。

 また安楽死の判断もとても難しいです。高度に医療技術が進み、寝たきりが続き、むしろ死ぬことができない状況に陥ってしまうこともあります。命が確保できる最善の道を指し示すことが使命である医療者にとって尊厳死ということをどのように考えるかという課題も第六戒にはあります。

 母親の採血のみで出産前診断を受ける事ができるようになりました。ここには命の選別という判断がつきまとってきます。また日本は世界から中絶大国と呼ばれています。中絶に反対することも大切な事です。しかし、出産することで母体に危険が及ぶ出産の場合どのように考えればよいのでしょうか。強姦による望まない妊娠の場合の堕胎ならばありえるのでしょうか。

 更に貧困の課題が私たちの周りにはっきりとあります。ルターという人は次のように言いました。「もしあなたが着物を与えることができるのに裸でいる者を去らせるならば、そのようにしてあなたは彼を凍死させたのである。誰かが飢えて苦しんでいるのを見ながら彼に食べさせないのであれば、そのようにしてあなたは彼を餓死させたのである。それゆえに誰かが死刑判決を受けているのに、あるいは同じ困難にある人を見て救わなければ、そしてあなたがそれに対する手段と道を知っているならば、その時あなたは彼を殺したのである。なぜならあなたは彼の愛を奪い取り、幸福を奪い取ったからである。この愛と幸福によって彼は生きながらえたかもしれないのに。」

 このことばを前に私たちはどのように「殺してはならない。」ということばを考えればよいのでしょうか。第6戒は、私は殺人をしていないから大丈夫、今の所は関係が無い、ということをさせません。私たちはしばらく、十戒第6戒から学んでいきたいと思います。

   ( PBA制作「世の光」2018.6.7放送でのお話しより )

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■戸の外に立って叩いている / 福井 誠

2018年07月11日 | Weblog
2018/6/6放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「戸の外に立って叩いている」です。 黙示録3章20節から読んでみましょう。
 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(新改訳2017)

 19世紀後半のイギリスの画家でウィリアム・ホルムハントという人がいます。彼はこのヨハネの黙示録3章20節を題材とした有名な絵を描いています。イギリスのマンチェスター市立美術館にあるその絵は『世の光』と題され、キリストがランプを片手に持って家の外に立って扉を叩いているのです。しかしその戸には外ノブがありません。

 この絵が披露された時にある人が言ったそうです。「扉に取っ手を書くのをお忘れになりましたね。」 するとハントは、「忘れたのではありません。わざと取っ手を書かなかったのです。なぜなら、この扉は人の心を表しています。人の心は本人が内側から開けなければ誰も、たとえ神様でも、外側から開けることはできないのです。」と言ったそうですね。

 その絵をよく見てみると、扉を叩いているキリストの頭にはいばらの冠があり、もう一方の手には七つの教会の象徴である7面のランプがありますね。そしてキリストの足元と扉の間、そして扉の周りには雑草がはびこり、その心のドアがもう何年も開かれていなかったことを感じさせます。人間は神様のことを聞きながら、どうしても神様に心を開くことができないでいることがあるものですねえ。そろそろ洗礼を受けてクリスチャンとして人生をスタートさせようかというところまで来ていながら、その決心を先延ばしにし、何年も心の扉を閉じたままにしてきた方が少なくないかもしれませんね。しかし、心の扉を開いてイエス様を迎え入れない限り、イエス様と共に生きる信仰の歩みの素晴らしさは決して味わい知ることはできません。いつでもイエス様には、私たちと共に歩みその大いなる祝福を注ぐ準備ができています。ぜひ心を開いて信仰の歩みをスタートさせていきたいものですね。

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■キリストの再臨の約束 / 板倉邦雄

2018年07月10日 | Weblog
2018/6/5放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「キリストの再臨の約束」という題でお話ししましょう。

 キリスト教には大事な歴史的事実があり、それらが大切な教えとなっています。まずイエスの処女降誕。次にイエスの苦難と十字架。そして第三にイエスの死からの復活と昇天、そして最後にイエスの再臨と審判です。

 さて、聖霊降臨の約束を言い終えたイエス様は、弟子たちの見ている前で天に挙げられ、雲に迎えられてその姿が見えなくなりました。イエス様が天に上って行かれるのを弟子たちが天を仰いで見つめていますと、何と白い衣を着た二人の人が彼らのそばに立っているではありませんか。彼らは言いました。「なぜ、天を仰いで立っているのですか? あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒1章9~11節参照)

 この「またおいでになる」、このことばこそイエス・キリストの再臨の約束なのです。この再臨の約束はイエス様自身が生前弟子たちに語っていましたね。人の子は父の栄光帯びて御使いたちと共にやがて来ようとしているのです。「その時には、各々の行いに応じて報いるであろう。」(マタイ16章27節参照) イエス様の再臨の目的は、私たち一人ひとりに対する審判と報酬のためなのです。

 またイエス様はこうも言われました。「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マルコ13章26節 口語訳聖書)「あなたがたの救いが近づいているのだから。」(ルカ21章28節 口語訳聖書) イエス様の再臨の目的はイエス様を信じる者にとって救いの時です。救いの時とは現実的にどういうことなのでしょうか。聖書によりますと、キリストの再臨の時、キリストを信じる私たちは死人の復活に与るからです。

 聖書のことばです。
 「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
   コリント人への手紙第一15章の22節と23節 (新改訳2017)

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■揺るがない心 / 岩井基雄

2018年07月09日 | Weblog
2018/6/4放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第一月曜日は詩篇から学んでいますが、今日は詩篇108篇の前半から「揺るがない心」と題してご一緒に考えてみましょう。日々様々なことに揺るがされやすい私たちですよねえ。様々な心配が心を占め、小さな事にさえ振り回されるようなとき、私たちはどのようなことに心を留めていけば良いのでしょうか。今日の詩篇にはそんな心へのヒントがあるのです。早速お読みします。

 「神よ。私の心は揺るぎません。私は歌い ほめ歌います。私の心の底も。・・・ あなたの恵みは大きく 天の上に及び あなたのまことは雲にまで及ぶからです。 神よ あなたが天で あなたの栄光が全地で あがめられますように。
      旧約聖書 詩篇108篇1節、4節と5節 (新改訳2017)

 この詩篇はイスラエルの王ダビデが歌ったものです。この詩篇は以前学んだ詩篇57篇の7節がベースにあると考えられています。それはダビデが先の王サウルにいのちを狙われ、逃げて洞窟に居た時に歌った詩篇です。そこには 「神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌い ほめ歌います。」とあります。いのちを狙われるような不安と逃げ惑う孤独の中にあっても、ダビデ王の心は揺り動かされない平安を神様から受け、そしてその心は神様への賛美と向かうです。

 この詩篇108篇で、「私は歌い ほめ歌います。私の心の底も。」と心の底からの賛美を神様に捧げるダビデの心は、なお揺るぎない平安と力を受け取っていくのです。神の民イスラエルはバビロンという国に捕囚として曳いていかれる屈辱を味わいました。それは彼らの罪のゆえだったのですが、それにもかかわらず神様は彼らを憐れみ、その捕囚の状態から解放し、約束の地へと戻って来ることができたのです。そのような中でこの詩篇108篇は神の民の心を支えたようです。苦難の中でこそ神を賛美し、心の底から神をほめたたえるとき、私たちの心は揺るがされない平安と力を受けるからです。あなたが今、どのような苦悩や死の陰を歩むようなことがあっても、神様に信頼し、神様に祈ると共に、感謝を捧げる歩みへと進み続けて行きませんか? 神はあなたと共におられるのです。

       PBA制作「世の光」2018.6.4放送でのお話しより)

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