goo blog サービス終了のお知らせ 

 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■時が満ち、神の国が近くなったマルコ⑥/岩井基雄

2016年03月18日 | Weblog
2016/3/18放送


 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 月の第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。前回はイエス・キリストが40日間の断食の後に受けたサタンからの誘惑のすべてに神のことばを通して勝利したことを学びましたね。
 私たちも様々な誘惑を受けることがあるのですが、それに対する勝利の秘訣は神のことばである聖書にあるのですね。

 さて、誘惑に勝利されたイエス・キリストは次のように人々に語り始められました。聖書にはこう記されています。
 「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
  『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』

  新約聖書マルコの福音書1章14節、15節

 バプテスマのヨハネは当時の王の罪をも明確に指摘したために捕えられてしまいます。しかし、そのように社会の闇が深まる中にあってイエス・キリストはご自分が育ったガリラヤに行かれ、ヨハネに代わって人々に罪の悔い改めを説くと共に神様の恵みの福音、神様の愛と救いを語り始められました。

 主イエスが語られた「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージには、時が満ちること、それは神様の約束の成就を示し、すなわち旧約聖書から預言されてきた救い主メシヤの到来が意味されています。そしてイエス・キリストがこの地上に来られることを通して神の国すなわち神様のご支配そのものがこの地上に来られ、私たちに近づいたことが表わされているのです。

 イエス・キリストがこの地上に来てくださって人々や私たちに神のもとに帰る救いの道を示してくださったことは大いなる恵みと祝福の道であり、神ご自身が私たちの所に来てくださり神様の平安と祝福を用意して私たちを待っていてくださるということをも意味しているのです。

 イエス・キリストはあなたに本当の生命と輝き、平安と慰めを与えるためにこの地に来てくださいました。あなたも自らの罪を認め、心からイエス・キリストを信頼し、希望への人生を歩み始めませんか?

 聖書のことば
 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
      新約聖書ルカの福音書19章10節

(PBA制作「世の光」2016.3.18放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■あなたの救いが来る/福井 誠

2016年03月17日 | Weblog
2016/3/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あなたの救いが来る」です。それではイザヤ書62章11節から読んでみましょう。
 「『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。』

 何もかもすべてがだめになった、と思う時に人は一体どのようにして望みを抱くことができるものでしょうねえ。だめになった者はだめ、と心を簡単に切り換えられて行ける人は居ないものでしょう。もう自分は終わりだ、そう思うのではないでしょうか。

 けれども、そこで何か思いがけず新しい動きが起こり始めたなら、人はきっとうなだれた首を持ち上げるのではないでしょうか。聖書は、どんなどん底であっても必ず新しい動き、新しい波が起こる、と語りかけて来る不思議な書物ですね。というのも聖書はその最初に、聖書が語る神様は天地創造の神様だ、と語っているのです。神が闇の中で「光よあれ。」と語れば光が生じる。「大空があれ」と言えば大空ができる。何もない所に神が命じられると何かが起こる。神様のことばには力があり、神様が動けば何事かが起こるのだ、と言うわけですね。

 そんな神様を知っているならば、どんな時にも希望を失ってはいけませんね。私たちはへこみ易く打たれ弱いものです。しかしそんなに凹んでいないで、そんなに打たれ弱くしょげていないで、天地創造の神様を見上げてご覧なさい。天地創造の神様の救いを待ち望みなさい、と言うわけですね。

 『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。

 もう既にあなたに対する報いは用意されている。もう備えられている。なすべきは、ただ当たり前に日々を歩んで行くことです。穀物が水と太陽の光を得て刻々と静かに成長していくように、置かれた場にあって背伸びもせず潜みもせず、ただひたすら主の恵みと愛を感謝して受けとめて、主を信頼しつつ、なすべきことをしなさい、と言うのです。

 ぜひ、このように語りかけてあなたの人生に希望を満たしてくださる神様がいることを、聖書を読み、また教会に通って、知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2016.3.17放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■十の言葉(第六戒)/板倉邦雄

2016年03月16日 | Weblog
2016/3/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「十の言葉」第六戒をお話ししましょう。
 では第6戒は何でしょうか?
 「あなたは殺してはならない。」(出エジプト記 20章13節 口語訳聖書)

 この戒めはまず、私たち自らのいのちを大事に保つことを求めていますね。私たちは神様のイメージをもって造られ、この世に誕生しました。人のいのちは自分の所有でも親の所有でも国家の所有でもありません。主なる神様の所有です。命を与えるのも神様であり、命を取り去るのも神様です。私たちが勝手に神様のイメージを自らの手で破壊したりしてはならないのです。

 次に、他の人々のいのちを保つための努力が求められています。日本国の憲法は基本的人権が守られるように定められています。どんな人も人として最低の生活と命と安全と平和が保証されています。自分たちの血を流さないのは当然なのですが、他の人々や他国の人々の血を流さない努力をして参りました。この70年間、私たちの国が平和で安全な国と評価されてきたのはこの第六戒を守る努力をしてきたからです。

 第三に、自分の利益のために人を顧みないこと(の禁止)もこの戒めは含んでいるでしょう。有毒な廃液を垂れ流す企業主、労働者を酷使して過労死や病気にさせる経営者、そういう人たちはみな人殺しではないでしょうか。

 またこの「殺してはならない」は人を怒ったり人を憎んではならないことを教えているのです。神様は私たちが人を殺す動機にまでメスを入れてくださいました。
 聖書はこう言っています。
 「すべて兄弟を憎む者は人殺しである。」
 ヨハネの第一の手紙3章15節 (口語訳聖書)

 憎しみの心ほど私たちを苦しめるものはありません。私たちはこの怒りと憎しみの心で何人の人を抹殺したことでしょうか。人を愛し赦すことができたらどんなに心は安らぐことでしょう。しかし私にはできません。ところが私たちの救い主イエス・キリストはできたのです。自分を十字架につけた人々のためにこう祈りました。
 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」  ルカの福音書23章34節 (口語訳聖書)

 このお方を信じる以外に人を赦すことはできないのです
 
 (PBA制作「世の光」2016.3.16放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■生き返ったラザロ/原田憲夫

2016年03月15日 | Weblog
2016/3/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。
 今日はキリストの弟子ラザロを紹介します。

 ある時、ラザロが瀕死の病気にかかりました。家族の者たちはキリストに、すぐ来て欲しい、と使いを送りますが、キリストは「この病は死に至るものではない」と言ってなお二日ばかりその場所を動きませんでした。しかしその間にラザロは死に、キリストが到着した時には既に四日が経ち、墓の中のラザロの遺体は腐敗し始めていました。家族の者たちはキリストに、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ 11章21節)と言って泣き崩れました。身近な人の死はどんなにか大きな悲しみでしょう。死はその瞬間、それまでの温もりを遥か彼方、人の手の届かない遠くへ追いやってしまいます。全ての希望の灯火が一瞬に消え、とめどもなく涙が溢れてきます。
 ラザロの墓の前でキリストも涙を流されました。しかしその次の瞬間、キリストは大きな墓石を取り除けさせ、天を仰いで祈り、大声でこう言ったのです。
 「ラザロよ。出て来なさい。」(ヨハネ 11章43節) 死人に呼びかけたのです。すると驚いたことに、手足を布で巻かれ、顔も覆いで包まれたままラザロが墓から出てきたではありませんか。死んでいたラザロが生き返ったのです。キリストの声に触れた瞬間、死から生へと呼び戻されたのです。

 キリストは以前こう言っていました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ 11章25節) キリストの内には永遠のいのちが宿っているのです。ですからキリストを信じる者にはこの命が与えられるのです。まっ暗闇の中に置き去りにされていたラザロ。キリストはその絶望のただ中で、彼の心に触れたのです。

 私たちの人生には突然悲しみが、暗闇が襲って来ることがあります。とめどもなく涙が溢れる時があります。自分ではどうすることもできず、まるで生きた屍のように心が萎え、光を失くしてしまうことがあるのです。

 あなたはいかがですか? キリストは言われます。「さあ、出てきなさい。わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じなさい。」
 キリストは今日、あなたを暗闇から光へ、死から命へと招いているんです。このキリストの声を聞くために、あなたも一度、キリスト教会を訪ねてみてください。

  ( PBA制作「世の光」2016.3.15放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■満たされて生きる/関根弘興

2016年03月14日 | Weblog
2016/3/14放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今日も聖書のことばを紹介しましょう。新約聖書ペソ人への手紙3章19節
 「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 これはパウロがこの手紙の中に記した祈りの一部のことばです。人知を越えたキリストの愛、それは汲めども汲めども尽きることが無い程の愛、いつでもどこにいてもどんな状態でも一人ひとりに豊かに注がれている愛、そういう愛があるというんですねえ。そしてキリストの愛を味わい、この愛に安息し歩んで行くことができるようにと祈っているんです。

 しかしパウロは、このことばの後にとても大胆な祈りを記しています。それは、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」と祈っているんです。なんだかまるで一人一人が神様のようになれますように、と祈っているかのように誤解されてしまいそうな祈りですよねえ。こんな祈りをしたら当時のユダヤ人たちは、人が神のようになれるように祈るなんて神への冒涜だ!、そんな祈りをする者は死刑だ!、と怒って大騒ぎになるようなことばです。もちろんパウロは私たちが神様のようになれるようにと祈っている訳ではありません。「神ご自身の満ち満ちたさま」とは一体どういうことでしょう。

 神様は愛なる方です。義なる正しい方、聖なる方です。神様は真実な方です。その神様の品性に私たちが触れ続け、一人ひとりが変えられていきますように、とパウロは祈っているんですね。

 しかしパウロはそのために、一所懸命修行して修練して品性を磨かなければいけません、とは記していません。そしてそんな祈りは一言も祈っていないんです。パウロの祈りはあなたがどんな状況においてもキリストの人知を越えた深い愛を知り続けて行くができるように、と祈っているんですね。キリストの愛は広く、長く、高く、深いからです。このキリストの愛に触れ続けて行くときに、あなたの人生は確実に変わっていくんです。キリストの愛を知りながら生きていくということは、実は「神ご自身の満ち満ちたさまにまで・・・満たされ」ていくということに繋がっていくんですねえ。「神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされるように」というのは、私たちが神様のようになるというのではなくてキリストの愛を深く知り味わいながら、神様がもっておられる品性が私たちの実となっていく、そんな祈りのことばなんですね。

 (PBA制作「世の光」2016.3.14放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■キリストの再臨のときまでに/羽鳥頼和

2016年03月12日 | Weblog
2016/3/12放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日はパウロがテサロニケの教会の人々に書いた第二の手紙で語られているキリストの再臨についてお話します。

 パウロはまずテサロニケの教会のことで神に感謝をしています。それは教会の人々の信仰が目に見えて成長し、それだけでなく互いに愛しあうことができていたからです。そんなに素晴らしい教会でしたが大きな問題がありました。それは教会への迫害です。キリストが神であり、救い主であることを認めない人々が教会を迫害したのです。パウロは苦しんでいる人々に、「神は苦しめられているあなたがたに報いとして安息を与えてくださる。それはイエス・キリストが天から現れる時に起こる。」(参照 2テサロニケ 1章7節)と語りました。キリストはもう一度来られるのです。これがキリストの再臨です。

 パウロは更にキリストの再臨について、「その時、キリストは神を信じない人々やキリストの福音を信じない人々に報復されます。そのような人々は永遠の滅びの刑罰を受けるです。」(参照 2テサロニケ 1章8-9節)と教えました。キリストの再臨は教会にとって大きな希望でした。キリストによって教会の人々は苦しみから解放され、永遠に続く安らぎを得るのです。パウロはそのことを覚えて迫害に耐えるようにと教会の人々を励ましているのです。

 そしてパウロは教会の人々のために祈りました。「私たちはいつもあなたがたのために祈っています。どうか神があなたがたを神にふさわしいものとし、あなたがたが善を行うことができますように。」(参照 2テサロニケ 1章11節)

 キリストによって救われた者は、周りがどんなに悪くても良いことを行うのです。今の世も苦しみがあります。悪いことばかりのように思えるときがあります。しかしキリストが再臨される時、すべてのことが解決します。その事を信じて、救われた者はいつでも良いことを行うのです。ですから人は再臨の時までに、神を信じてキリストを救い主と信じなければなりません。そうでないと永遠の刑罰を受けることになるのです。

 キリストはいつ来られるか分りません。今日来られるかもしれないのです。キリストを神であり救い主であると信じましょう。

 明日は日曜日です。キリストを救い主と信じてお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.3.12放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■本物の神への信仰~神々と神~/岩井基雄

2016年03月11日 | Weblog
2016/3/11放送


 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 今日は旧約聖書の詩篇96篇から、「栄光を神にささげる人生」と題して、神様の前を歩む人生の幸いを共に考えてみましょう。

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の第二週の金曜日は旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んでいます。ヤコブの人生は波乱万丈に満ちた人生でした。私たちの人生にも様々な出来事が起こりますね。苦しみや悲しみを抱えることがあり、そして人生そのものが揺り動かされることだってあるのです。しかしその時にこそ揺り動かされない変わることのないものに目を留めることの大切さを思わされますね。

 夫ヤコブが自分の父ラバンの元を離れ故郷に帰ることになった時、妻の一人ラケルは父親が大事にしていたテラフィムを盗み出します。このテラフィムはラバンが「私の神々」と呼んでまじないや占いなどに用いた可能性があり、財産の相続の時に必要なものではないかと言われています。父ラバンの不誠実さを知っていたラケルは父が大事にしていたテラフィムを盗み出したのかもしれませんね。ラケルの心には旅立ちへの不安があり、何かに依存したかったのかもしれません。このテラフィムがなくなったことに気が付いたラバンは旅立ったヤコブたちの後を追って問い正します。ラケルはそのテラフィムをラクダの鞍の下に隠してその上に座り、父ラバンを偽りますが、それを知らないヤコブはラバンに、「あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。」(創世記 31章32節)と怒ります。聖書はこう記しています。
 「ラバンはヤコブの天幕と、レアの天幕と、さらにふたりのはしための天幕にもはいって見たが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕にはいった。ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、らくだの鞍の下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンが天幕を隅々まで捜し回っても見つからなかった。」旧約聖書 創世記 31章33節、34節
 このテラフィムは、この後、相続の時にも用いられることはありませんでした。ラケルは虚しい偶像を空想持ち出しそれを命がけで隠した事になります。私たちもラケルのように自分の不安や恐れまた願望に振り回され、結局は価値も意味のないものにも心を奪われ、振り回されてしまうことがあります。私たちの人生における様々な苦しみや悲しみの中で私たちは本当に信頼できるものに心を留めていく、その大切さを思わされます。どうぞ私たちも、まことの神様に信頼して歩みませんか? 

(PBA制作「世の光」2016.3.11放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■わたしを遣わされた/福井 誠

2016年03月10日 | Weblog
2016/3/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「わたしを遣わされた」です。それではイザヤ書61章1節、2節から読んでみましょう。

 「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ(るために)

 このことばは新約聖書にもでてきますね。そうです、イエス・キリストが公の宣教活動を開始された時、ナザレの会堂で朗読した箇所です。イザヤの預言はバビロン捕囚からの解放について語っていたものですが、イエスは「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ 4章21節)と宣言してご自分の時代に適用しました。しかしイエスの時代はイスラエルがまだローマ帝国の属国となっていた時代、政治的な抑圧の続いていた時代ですね。ということはイエスはこのことばを単なる政治的な抑圧からの解放という意味ではなくて、むしろ一人ひとりの人生の個人的な救いを意味して語ったのだということになります。

 考えてみれば人間というのは思うようにならない人生を生きているものです。何となく抑圧され押さえつけられたような人生、泥沼にはまり込んだような人生を生きていることがありますねえ。私たちには救いはないのか、このまま逆転勝利もなく人生は終わってしまうのか、そのように考えたことはないですか?

 そんな一人ひとりに、イエスはこのイザヤ書のことばを使いながら、「きょう、このみことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現した。貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒すために、わたしは遣わされた。捕らわれ人にはえ解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と我々の神の復讐の日を告げ知らせるためだ。」と。

 あまのじゃくにならず、素直にこのことばを受けとめる人は幸いではないでしょうか。イエスはあなたに、まだまだ可能性はある、わたしを信じなさい、解放と釈放と主の恵みの年が来たのだ、と言うのです。

 ぜひ聖書を読み続けて、このイエスの良き知らせの素晴らしさをあなたにも知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2016.3.10放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■十の言葉(第五戒)/板倉邦雄

2016年03月09日 | Weblog
2016/3/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「十の言葉」その第五戒をお話ししましょう。

 「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」(出エジプト記 20章12節 口語訳聖書)
 
 十戒の内、この第五戒だけが積極的な命令形になっています。しかし他の九つの戒めは全部「何々してはならない」という強い禁止命令です。ですから、新約聖書ではこの第五戒を「第一の戒め」と位置付けているのです。「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであって、約束を伴ったものです。」とエペソ人への手紙の6章(2節)にあります。

 親不幸だった私はクリスチャンになった時、ひとつの決意をしました。父と母が主なる神様を信じるなと言わない限り父母の言うことに従おう。この第五戒は、父や母だけではなく目上の人、同僚、部下の人、兄弟姉妹、そして子どもに対しても尊敬を払い、義務と責任を果たすことを求めているのです。聖書はこう言っているからです。
 「すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。」第一ペテロの2章の17節 (口語訳聖書)

 どうして私たちが父母を尊敬することを求めているのでしょうか。
 第一、神様は秩序の神であって混乱の神ではないということでしょう。秩序のある所に平和があります。どのような父や母でありましても、子どもたちが尊敬し従ってゆく家族は平和でしょう。混乱や争いはありません。しかし反抗する子どもや子どもに従う両親の家では混乱と争いが絶えないようですね。
 二つ目の理由は、この戒めを守るすべての人に長寿と幸福の約束が伴っているからです。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」(エペソ6章3節 口語訳聖書) 幸福な長寿こそ私たちがこの世の人生で求め続けている者ではないでしょうか。
 そして第三の理由は、父や母を尊敬することによって、目に見えない天の父なる神様の愛と真実が分かって来るのです。それと同時に父や母の自分に対する愛と真実が見えて来るのではないでしょうか。そして父や母への感謝の心が与えられてゆくのではないでしょうか。

 (PBA制作「世の光」2016.3.9放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■無駄にしたのか-弟子マリヤ/原田憲夫

2016年03月08日 | Weblog
2016/3/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。

 今日は高価な香油の壺を割ってイエス・キリストの頭に注いだベタニヤという村の女性を紹介します。この不思議な出来事はマルコの福音書14章に記されていますが、そこに居合わせたお弟子たちはこの女性の行為に憤慨し、こう言ったのです。
 「何のために香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら300デナリ以上に売れて貧しい人たち施しができたのに。なんて無駄なことをするんだ。」
 もっともな話だと思います。なぜならこの香油は当時1年近い賃金に匹敵するほど高価なものでした。ところがこの女性は1回で全部使ってしまった訳ですから。お弟子たちにすればこれだけ高価なものであれば、いつも先生の教えていたように売って困っている人を助かることができたじゃないか、と言うわけです。
 ところが意外にもキリストはこの女性がした行為を、立派なことです、美しい行為です、と称賛されたのです。そしてこう言われます。
 「困っている人たちはいつもあなたがたと一緒にいますから、これからも一所懸命助けてあげなさい。けれども私は一緒にはいられない。これから迎える十字架での死が待っています。この人は死体に香油を塗る埋葬の準備をしてくれたのです。」と言われるのです。
 この人がこれから起こるキリストの死を知っていたとは思いませんが、この人はキリストにお会いした瞬間、十字架への道に向かうキリストの心に触れたのです。香油の壺を割ってキリストの頭に注ぐという行為は、この人の最も大切にしていた心を捧げるという行為、信仰そのものでした。この人は、あなたは救い主です、と信じる心を言い表したのです。
 けれどもお弟子たちはいつもキリストの側近くにいながら、キリストの心から遠いところにいたのでした。
 本当の無駄とは何か。キリストがご自分を裏切るお弟子たちや自己中心的でキリストに背を向けて自分勝手に生きる私たちの罪のために十字架にかかって死なれるのです。それこそ最大の無駄ではないでしょうか。しかしそこに私たち罪人に対するキリストの最高の愛が現れているのです。いかがですか。この機会にあなたも一度キリストのことば、聖書を読んでみてください。

  ( PBA制作「世の光」2016.3.8放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする