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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■父よ彼らをおゆるしください / 岩井基雄

2014年04月18日 | Weblog
2014/4/18放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日はイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられた日であり、キリスト教会では受難日と呼ばれています。

 エルサレム郊外のゴルゴダの丘の三本の十字架の内、中心の十字架にはイエス・キリストが、その両側には二人の犯罪人がかけられました。マタイの福音書27章44節によると、二人の犯罪人はどちらも最初イエス・キリストをあざけっていたのです。

 しかしルカの福音書23章によると、その内の一人は心を変え、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」(ルカ23章39節)とキリストをあざけり続けるもう一人の犯罪人にこう呼びかけています。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23章40、41節)

  そして彼はキリストにこう言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23章42節) 彼は十字架の上で自分の罪を認め、信仰を告白したのです。

 それは本当に幼く不十分な告白だったかもしれませんが、キリストは「あなたはきょう、わたしとともにパラダイス ---言い換えると天国--- にいます。」(ルカ23章43節)とお答えになりました。犯罪人が心を変えることができたのは、キリストの十字架の上で祈られた次のことばを聞いてからだったと考えられます。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 新約聖書 ルカの福音書23章34節

 イエス・キリストは自分を十字架につけた人々の赦しを祈られ、そしてこの犯罪人はそのキリストの祈りが自分のためであると受けとめ、自分の罪を告白し、赦しと救いを受け取ったのです。

 私たちはなかなか人を赦すことができませんね。それは自分自身も赦されなければならない存在だと認めていないからではないでしょうか。しかしこの犯罪人のように自分も赦されなければならない罪人であることを認め、そして赦されていくとき、私たちも他の人の罪を赦すことができる者へと変えられていくのです。

 あなたの罪の赦しのために救い主イエス・キリストは十字架にかかられました。あなたもこのイエス・キリストの祈りと罪の赦しを自分のものとして受け取りませんか?

  (PBA制作「世の光」2014.4.18放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■費用もかけずに / 福井 誠

2014年04月17日 | Weblog
2014/4/17放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「費用もかけずに」です。それでは第二サムエル記24章24節から読んでみましょう。

 しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。

 24章、サムエル記最後の章です。ダビデはここで人口調査をしています。国家が安定し繁栄するようになってダビデは何か自分の力を誇示する思いになったのでしょう。ダビデはイスラエルの戦力を数え始めました。国家の政策を考えようとする客観的な統計調査ではありませんでした。神はこれに激しい怒りを燃やします。イスラエルが神の選びの民、神の栄光を証しする民であるとしたら理解できることですね。ダビデも良心の咎めを感じて悔い改め、神の裁きに身を委ねました。

 サムエル記の最後の章はサムエル記に記されたダビデのあらゆる輝かしい業績は全く神に依存していることを教えています。どんな人間的な成功も勝利も神の祝福なくしてはありえないということです。それを忘れて人間がおごり、自分の力を誇り始めるときに神はこれを罰し低くされるのですね。

 さてダビデは神に罪を赦していただくためにいけにえを捧げています。それは自分の罪を赦すための身代わりの犠牲ですね。しかし同時に、「費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」  ダビデは自らも犠牲を払って神への従順と信頼を示そうとしました。

 今週は受難週です。思い浮かべるのはキリストの十字架ですね。十字架は私たちの罪の罰をイエスが身代わりになって受けてくださった、いわゆる罪の赦しのための犠牲であると語られます。私たちの罪の赦しのために犠牲が払われているのですね。私たちは赦されています。それは感謝なことです。しかしそれだけではなく犠牲に対して応答する心、私も何かを、という気持ちが大切ではないでしょうか。ダビデは「費用もかけずに、・・・全焼のいけにえをささげたくありません。」と考えました。十字架のイエスに応答する気持ちを持っていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2014.4.17放送でのお話より )

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■不当な苦しみを受けても / 板倉邦雄

2014年04月16日 | Weblog
2014/4/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「不当な苦しみを受けても」という題でお話ししましょう。まず聖書のことばをお読みします。

 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかた(※神)に、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」ペテロ第一の手紙 2章の21節から24節です。(口語訳聖書)

 ここには三つのことが強調されているのではないでしょうか。まず、キリストは罪を犯したことがなくその口には偽りがなかったのに不当な苦しみを受けられた、という点です。次に、キリストは不当な苦しみに対して仕返しをしなかったという点です。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをしなかったのです。第三に、キリストは正しいさばきをする神様に一切を委ねておられた信仰です。自分の手で復讐しないで神様の裁きの手に委ねたのです。

 要するにここで、キリストは神様を仰ぎ信じて不当な苦痛を耐え忍ばました、と言ってるのです。

 では一体何のために罪のないキリストが不当な苦しみを耐え忍ばれたのでしょうか。それはまず、更に私たちが罪に死に、義に生きるために十字架にかかって私たちの罪をご自分の身に負われた、その傷によって私たちは癒された、という24節のことばにあります。私たちの罪による傷が癒され、私たちが罪に死に、義に生きるためでした。

 もう一つは21節にありました。キリストはあなたがたのために苦しみを受け御足の後に従うようにと模範を残されたのです。キリストの受難の目的と意味が分かって参りました。キリストは不当な苦しみを受けても神様を仰いで、その苦痛を耐え忍ばれた目的です。

 それは私たちが罪によって人生で受けた様々な傷を癒すためです。私たちは人を傷つけ、人から傷つけられて生きてゆくのではないでしょうか。また私たちはキリストの傷口に信仰によって触れて癒されました。ですから、今度は不当な苦しみを受けた時、キリストに倣い、神様を仰ぎ苦痛を耐え忍びたいのです。

(PBA制作「世の光」2014.4.16放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■エマオの途上で / 大嶋重徳

2014年04月15日 | Weblog
2014/4/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 今週はイースタースペシャルです。今週をキリスト教会では受難週と言い、キリストの十字架の苦難を覚え、イースターに備える週となっています。

 ルカ福音書24章には、イエス・キリストの十字架の死を目の当たりにしてエルサレムから離れて行こうとした二人の弟子が出てきます。一人はクレオパという弟子で、旅の行き先のエマオはクリオパの実家のあるところでした。

 何年前になるでしょうか、イエス様が自分の前に現れた時、この人こそ救い主だと家を飛び出し、付いて行きました。しかし数年後クレオパたちが目にしたものは、見るも無残な十字架刑を受けた自分たちの信じてきた人の姿でした。17節 「二人は暗い顔つき」とあります。十字架のことを思い起こすと暗い思いが心を占めたのです。

 まさに十字架は暗い場所でした。人々の怒号が飛び交い、「十字架から降りて自分を救い私達も救え!」という声がありました。人間の自分勝手な醜さや神を神としない人間の罪に満ちていました。そしてイエス様が十字架で死なれたその時、十字架の場所は暗闇が周りを包みました。

 彼らはその十字架の光景を思い浮かべると、暗い顔つきとなったのです。なぜなら彼らの顔の暗さはそのまま彼らの罪の暗さでした。彼らもまたイエス様の十字架を前にして弟子たちは信じることができずに逃げてしまった罪がそのままその光景に含まれていたからです。

 しかしイエス・キリストは、そんな人間の暗さのために、自分勝手な罪のために、十字架にかかって死なれたのです。人間の罪があらわになり、その暗闇を明らかにしない限り人間の暗い現実に光は差し込みません。イエス・キリストは十字架にかかり、私たちの罪の暗さに光をもたらされました。

 この受難週、私たちは自分の内側に ある暗さをきちんと見つめましょう。この暗さをきちんと見つめない限り、十字架の輝きは意味を持ちません。そして、十字架の闇の向こうに復活の光が見えて来るのを待ち望みたいと思います。

 ( PBA制作「世の光」2014.4.15放送でのお話しより )

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■受難と十字架 / 関根弘興

2014年04月14日 | Weblog
2014/4/14放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。

 十字架、あなたはこのことばを聞いて何を想像しますか? それはもともとは史上最悪の死刑の道具でした。両手両足を釘で打ち付けられ、激痛と飢えと渇きの中で死ぬまで放置されるんです。その十字架にイエス様は磔(はりつけ)にされ処刑されていきました。

 なぜイエス様は十字架につけられたのでしょう。イエス様は当時の宗教家たちの心のあり方や偽善的な生き方を指摘しました。またイエス様は「わたしと父とは一つです」(ヨハネ 10章30節)と言われ、「父なる神様と自分は一つである」、こう言ったもんですから、ユダヤの当局者たちは、神への冒瀆だ!、と捉えたのです。こんな男は生かしておく訳にはいかない、死刑だ!、となった訳ですねえ。 

 彼らはユダヤの地方を管轄していたローマ総督ピラトのもとに行き、死刑の許可を求めたんです。当時ユダヤはローマに支配されていましたから、死刑の執行の権利が与えられていませんでした。でも例外があったんです。それは自分たちの宗教的な理由がある場合は自分たちで死刑が認められていました。ですから彼らはわざわざピラトのもとに連れていかなくても、イエスは神を冒瀆(ぼうとく)した!、と言って石打ちの刑にすることもできたはずです。しかし彼らはピラトのもとに行って処刑するように願ったんです。つまり、イエスは宗教的な罪だけではない、ローマ政府が死刑にすべき罪を犯したのだ、と言い張った訳です。

 しかしピラトは、ローマの法律に照らし合わせてもイエス様に何の罪も見つけることができませんでした(参照 ルカ 23章4節、ヨハネ 19章4節)。しかし人々は、「十字架につけろ! 十字架につけろ!」(マタイ 27章22節、23節参照)と叫び続けたんですねえ。結局ピラトはイエス様を十字架刑に引き渡してしまいました。

 イエス様が十字架につけられた場所はゴルゴタという場所でした(マタイ 27章33節参照)。日本語に訳すと「どくろ」という大変ぶきみな名前ですね。ここでイエス様は両手両足に釘を打ち付けられて処刑されたんです。罪がない方が十字架につけられる。これがイエス様の十字架だった訳ですね。でもそこに十字架の深ーい意味があるんです。

 聖書は罪のない人間など一人もいない(参照 詩篇 53篇1節3節、ローマ3章12節23節)、と言います。そして「罪から来る報酬は死です」(ローマ6章23節)と教えています。でも聖書は、その一人ひとりの罪を肩がわりするために罪のないイエス様が来てくださり身代わりとなって十字架についてくださったのだ、と教えているんです。あなたの罪のために十字架についてくださったイエス様の中に、自分のいのちさえ惜しむことのない大きな大きな愛を見ることができるんですね(参照 ヨハネ3章16節、1ヨハネ 4章10節)。

 (PBA制作「世の光」2014.4.14放送でのお話しより)

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世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの東海地方での放送に協力してくださるキリスト教会・キリスト者の皆様の献金は、

郵便貯金 12470-8050581
郵便振替 00890-3-111071  東海福音放送協力会 まで

  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 (自由ケ丘キリスト教会内)  東海福音放送協力会 へ
 

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■神の幕屋 / 羽鳥頼和

2014年04月12日 | Weblog
2014/4/12放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日は、イスラエルの民が神様を礼拝する所である幕屋についてお話しします。幕屋は荒野を旅するイスラエルの民が荒野でも神様を礼拝することができるように神様が設計し作らせたものです。

 旧約聖書の出エジプト記36章には、職人たちが神様の設計通りに幕屋を作ったことが記されています。幕屋について神様は命じられました。
 
 「アカシヤの木で高さ4.5メートル、幅が50センチの板を作る。この板を組み合わせて幕屋を作るのである。幕屋の北側と南側には20枚ずつ、そして西側には6枚を立てる。それぞれの板の下に2個ずつ台座を銀で作る。それから西側の両隅を合わせる板を2枚作る。北側と南側に立てる20枚の板をまとめるための5本の横木をアカシヤで作る。これらのすべての板と横木に金を被せる。これらの上に亜麻布の垂れ幕をかける。垂れ幕は青色、紫色、緋色の縒糸(よりいと)で織って、神様に仕えるケルビムの刺繍をする。」

 神様はこのように幕屋の構造を細かく決め、材料の寸法や材質そして飾りまで細かく指示されました。幕屋は荒野で神様を礼拝する所です。幕屋は後に神殿となり、今では教会となっています。

 教会も神様が設計されたものです。そして教会はもはや建物ではなく、イエス・キリストを信じる者の集まりとして神様は教会を設計されています。新約聖書のエペソ人への手紙にはキリスト教会について教えられています。イエス様を信じる人はイエス様を土台としている神殿となるのです。イエスと共に一人ひとりが幕屋の板のように組み合わされて全体が成長して聖なる神殿となり、神様の御住まいとなるのです。

 キリストの教会はキリストの体とも言われています。ですから教会は人の身体のように成長するのです。キリスト教会は神様が与えてくださる最もよい共同体です。あなたもこの素晴らしいキリスト教会にいらっしゃいませんか? 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」2014.4.12放送でのお話より )
 
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■他の人から過ちを指摘されるとき / 岩井基雄

2014年04月11日 | Weblog
2014/4/11放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。新聞やテレビで社会の中の偽りや欺瞞が明らかにされていますね。神様は侮れる方ではなく、どんなに上手に隠された事柄も明らかにされることがあるのです。ですから私たちは自分の問題や過ちが明らかにされる時が来ることを考えておかなければなりません。そして明らかにされたとき、それをどのように受けとめ、認め、神様と人の前に悔い改めていくのか、が問われているのです。

 「信仰の人」と呼ばれたアブラハムでさえも、偽りや欺瞞の誘惑から逃れられませんでした。神様を恐れることのない異邦の社会では、人妻であっても美しい女性は夫を殺害してでもその国の王が召し抱えることがあったことを恐れたのか、アブラハムはゲラルの王アビメレクに対して自分の妻サラを妹であると偽ってしまいました。

 かつて彼は同様の過ちをエジプトでも犯しています。その時もアブラハムは神と人との前に悔い改めたはずだったにもかかわらず、偽りによって妻を危険にさらすという罪を繰り返してしまったのです。神様の前に真実に歩もうとしたアビメレクは不思議にも神様からのメッセージを受けてアブラハムの偽りを見抜き、彼の罪を次のように激しく追求しました。

 「あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」 旧約聖書 創世記20章9節

 私たちは神と人との前に真実と誠実を尽くすことが求られています。しかし神様を正しく知るアブラハムのような者でさえ偽りやごまかしの罪に陥り、それを他の人から、時には神様を知らない人から告発されることがあるのです。

 しかも言い訳をするアブラハムに対してアビメレクは誠実を尽くし、銀貨千枚を彼に与えました。何という寛大な心でしょうか。

 そこでアブラハムは神に祈ったと聖書は続いています。この時アブラハムが何を祈ったかは記されていませんが、その後のゲラルの地における神様の祝福を思うとき、アブラハム自身が自らの罪を認め、神様の前に悔い改めたことが考えられます。

 神様の憐れみは私たちの思いをはるかに超えます。どんな過ちの指摘や告発も謙虚に受けとめ、その背後にある悔い改めへの神様の招きを受け入れていきませんか?

  (PBA制作「世の光」2014.4.11放送でのお話しより)

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■育て上げてくださる / 福井 誠

2014年04月10日 | Weblog
2014/4/10放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「育て上げてくださる」です。それでは第二サムエル記23章5節から読んでみましょう。
 「まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。

 これはダビデの最後のことばと呼ばれるものの一つです。そこにはダビデが神をどのように仰いだかがよく表わされていますね。皆さんは神様をどのように考えていますか? いや、神様が実際に存在するとすればどのように体験していますか? それが重要ですね。

 まずダビデは「ヤコブの神」と呼びました。それは創世記を読むとよく分りますが、憐れの神をイメージして語っていることばです。神は虫けらのようなヤコブに実によくしてくださいました。

 またダビデは神を「イスラエルの岩」と呼びました。つまり信頼を裏切ることのない確かなよりどころとして神をイメージしていました。それは次々と襲う試練の中でダビデを守り続け勝利に導かれた経験に基づくものですねえ。

 更にダビデは言います。
 「まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。

 神は「育て上げてくださる」と言う。身体的にも精神的にもということではありません。救いと願いを育て上げてくださるというのです。
 考えてみれば奥の深いことばです。たしかに願いもいろいろです。幼稚で自己中心な自分の欲求を満たすためだけの願いから、自分だけではない皆のことを考えた願いまで様々なものがありますねえ。家族のことを考える願い、会社のこと考える願い、自分を捨て去った私利私欲を超えた願いもあるものです。

 もし願うことが未熟であればそれを成長させてくださる。自分にとっても他人にとっても本当に必要なことを願うように私たちの願いを成熟させてくださる、神様はそういうお方だ、と言うのです。

 救いもいろいろです。ご利益的な救いから人に仕え、人を助けるものとなる救いもあります。大切なのは神様は私たちの願いを聞いてくださる便利屋ではないことです。私たちの身勝手な願いを聞きながらそれを成長させてくださる親なる神がおられるということです。

 この神様を信じてあなたも人間としての成熟の道を歩ませていただきませんか?

(PBA制作「世の光」2014.4.10放送でのお話より )

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■神を恐れる人 / 板倉邦雄

2014年04月09日 | Weblog
2014/4/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神を恐れる人」という題でお話ししましょう。

 「神を恐れる人」とはどのような人を言うのでしょうか? 今日はヨセフのことばからその事を考えたいのです。

 さてヨセフは牢にいる兄弟たちに言いました。「私は神様を恐れる人間だ。もしお前たちが潔白ならそれを証明する機会を与えてやろう。一人だけここに残れば後の者は穀物を持って帰ってよい。但し末の弟を連れて来るのだ。お前たちが正直かどうか確かめなければならないかな。」(創世記42章15-20節参照)

 彼らは言われる通りにすることにしました。兄たちは互いに言いました。「昔ヨセフにひどいことをしたからなあ。こんなことになったのも罰(ばち)が当たったんだよ。あいつが必死に助けを求めたのに、俺たちはまるで知らん顔をしていたからなあ。」(創世記42章21-22節参照)

 「神を恐れる人」とは自分の手で復習や仕返しをしないで自ら自分の罪や過ちを気づかせることのできる人ではないでしょうか。

 ヨセフは兄達のやりとりを聞いていました。兄たちが昔の悪事を思い出し心から悔いているのを知った時、そこに居ることができませんでした。部屋を出て一人きりになる場所を探し、そこで泣きました。ひとしきり泣くとまた戻り、長男のシメオンを選んで、みんなの見ている前で縛り上げました。それから召使いたちに一同の袋に穀物をいっぱい詰めさせ、支払った代金を袋の口の所にこっそりと戻しておくように指示したのです。(創世記42章23-25節参照)

 「神を恐れる人」とは陰では涙し、憐れみと同情とに溢れている人ではないでしょうか。

 「私は神を恐れる人間だ。」(創世記42章18節参照)

 このヨセフのことばの意味する所は、何でしょう。ヨセフの17歳から始まった苦難の生涯から出てきたことばでしょう。苦難の日々の中で神様の恵みと憐れみの手を見い出すことができたからでしょう。神様の憐れみなくして今日の私はないと確信していたからです。一切の出来事の背後に深い神様の目的と計画が隠されていることをヨセフは経験してきました。ですから「私は神を恐れる人間だ。」と言い得たのです。
 聖書のことばです。

 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」 箴言29章25節

(PBA制作「世の光」2014.4.9放送でのお話より )

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■エマオの途上で / 大嶋重徳

2014年04月08日 | Weblog
2014/4/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。今月はキリスト教会にとって大切なイースターを迎えます。イースターとはイエス・キリストの復活を祝う日です。

 ルカ福音書24章には、イエス・キリストの復活された日、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤは明け方早く、キリストの身体に香油を塗るために墓に行った記事が出て参ります。驚くことに墓の中にはイエス様の身体はなく、まばゆいばかりの衣を着た人が「イエス・キリストはここにはおられません。よみがえられたのです。」(6節参照)と言うのを彼女たちは聞きます。驚いた彼女たちは弟子たちの所に帰って報告しました。

 しかし11節、「使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」とあります。死んだ人が生き返るなんて戯言(たわごと)だと思う。これは普通の反応かと思います。歴史的にはイエス・キリストの復活は弟子たちの思い込みから生まれた創作だとも主張されてきました。

 しかし、もしキリストの復活が本当に戯言であるのだとしたら、クリスチャンたちはその後何度も起こった迫害の中で命がけでイエス・キリストを伝道するということをしたりはしなかったでしょう。むしろ戯言だと馬鹿にされるような作り話の復活を語り伝えていくことに人生をかけていくクリスチャンなど起こされなかったと思います。

 事実このあと24章には二人の弟子が復活を信じられず、キリストの弟子であることをやめ、地元のエマオに戻って行こうとしました。しかし彼らは本当に復活されたイエス・キリストと出会ったのです。

 復活とは、ことばを言い換えると、主は今生きておられるということです。あの墓の中には居ない。死んだ神ではない。生きておられる神、この神と出会ったからこそ弟子たちの中にも生きた信仰が生まれました。

 今日ラジオをお聴きの皆さんもこのイースターを迎える4月、教会に行ってみてくださいませんか。そこには今もなおイエス・キリストに出会った生きたクリスチャンたちがあなたを迎えてくださるはずですから。

 ( PBA制作「世の光」2014.4.8放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  

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