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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■急いでその木から降りてきなさい / 大嶋重徳

2013年11月19日 | Weblog
2013/11/19放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。

 ルカの福音書19章にはザアカイという人物が出てきます。このザアカイの住むエリコにイエス様が来られた時、ザアカイはいちじく桑の木に登っていました。そのザアカイにイエス様は、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。」(5節) そう言われました。この時ザアカイとイエス様の間にはいちじく桑の木の高さの距離がありました。

 実はこの個所を丁寧に読むと、ザアカイはイエス様を見ようとしただけでイエス様の近くに行ってイエス様に話しかけようとしてあるいはイエス様に救いを求めて、とは記されていません。もしザアカイが切羽詰ってイエス様にお出会いすることを求めていたなら、もっと早くから通りに出て待っていたら良かったのです。前の晩から部下に言って、青いビニールシートを敷いてザアカイさんの場所、場所取りをしておけば良かったのです。

 しかし取税人の頭にまで登り詰めた男であり、町ではだれも知らない人はいない金持ちであったザアカイでした。また自分を罪人呼ばわりする群衆を前にして「何だかんだ言ってもザアカイも神頼みか」などとは言われたくなかった。彼には曲りなりにも今まで築き上げてきた人生や財産がありました。彼は自分からイエス・キリストに声を掛けようとはしなかったのです。ザアカイが登ったいちじくの木、そこには自分からキリストに声を掛けることはしない距離がありました。自分から神を求めることはしない。ザアカイのプライドの木の高さがあったのです。イエス様はそこから降りて来なさい、と言われたのです。

 またこの時、ザアカイとエリコの町の人との間にもいちじくの木の高さのような距離がありました。最初は自分を馬鹿にする人々から自分を守るために作りあげてきた木の高さだったでしょう。しかし彼の人生は取税人の頭にまで登り詰めたとしても孤独でした。その人生はまるで高いプライドの木にしがみついているような人生であったのです。神なんていない。頼れるのは自分しかいない。・・・「ザアカイ、そこからあなたは降りて来なさい。」 イエス様の招きのことばでした。

 皆さんは今、どんな高さにまで登ってしまっているでしょうか。自分は正しい。そう周りの人を見下そうとして登っていく木の高さもあるでしょう。今朝イエス様は高く登りすぎた私たちの下に来ていてくださっています。「急いで降りてきなさい。」 その手を離し、イエス様のもとに降りていきたいと願われませんか? 

 ( PBA制作「世の光」2013.11.19放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■愛する者が病んでいます / 関根弘興

2013年11月18日 | Weblog
2013/11/18放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストがたびたび訪れたベタニヤいう村にはマルタとマリヤという姉妹が住んでいました。この姉妹にはラザロという兄弟がいたんですねえ。この家はイエス様をいつも歓迎し、そして良きことをもって尽くしてきたそんな家でした。その家に住むラザロが重病になってしまったんです。

 マルタとマリヤは兄弟ラザロの回復のために祈りをささげたでしょう。その時イエス様はベタニヤから一日ほどの道のりのある場所に滞在していました。マルタとマリヤはイエス様のもとに使いを送って、このように伝えたんです。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と。

 あなたならイエス様になんて伝えますか? 私なら「イエス様、大変です。ラザロが死にそうですから、早く来て治してください。一分、一秒も待てません。とにかく早く来て癒してください!」 こういうふうに伝えると思うですね。

 でもこのマルタとマリヤはイエス様に、こうしてください、ああしてください、早く来てください、とは言いませんでした。マルタとマリヤは、ただ今抱えているこの問題を正直に申し上げて、後はイエス様にお任せしますという態度を取ったのです。「イエス様。あなたはラザロを愛してくださっていますね。だからラザロのために最善のことをしてくださるに違いありません。自分たちが考えるよりもはるかに良いことをしてくださるに違いありません。」 そんな思いを込めて、「愛する者が病んでいます。」とイエス様に伝えたんです。

 詩篇の127篇の2節にはこんなことばが出てきます。
 「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

 眠っている間は私たちは何もする事ができませんね。でも眠ることができるからこそ疲れが取れるし健康が支えられていく訳です。これは私たちの大切な生き方を示すことばなんですね。

 私たちはあれこれと思い煩います。心配はまるで嵐のように襲ってきます。でも私達は自分ではどのようにすることもできない現実がたくさんあるわけです。だから私たちは正直に告白するんです。「主よあなたが愛しておられる者が病んでいます。疲れています。このような状態です。」と。私たちはイエス様が私たちを愛されているのですから、ただ「あなたの最善を期待し委ねていきます。」と告白していくんですね。これが私たちに与えられている生き方であり、私たち一人ひとりの人生なんです。

  (PBA制作「世の光」2013.11.18放送でのお話しより)

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  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 (自由ケ丘キリスト教会内)  東海福音放送協力会 へ
 

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■御霊なる主の働き / 羽鳥頼和

2013年11月16日 | Weblog
2013/11/16放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は聖書が教える「救い」についてお話しします。

 人は自分で自分を救うことはできません。聖書は、すべての人が生まれながらにして罪人(つみびと)であり、神に対して罪を犯しているので皆神の裁きを受けなければならない、そして誰もこの神様の裁きから逃れることはできない、と教えています。ただキリストだけが人を救うことができるのです。キリストはただ一つの救いの道である、と聖書は教えています。

 それはどのような道でしょう。今日は新約聖書のコリント人への手紙第二で教えられている救いの道をお話しします。救いの道の最初は人がキリストを知ることから始まります。コリント人への手紙第二の3章16節に「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれる」とあります。

 覆いとは人の心にかかっている覆いのことです。覆いがかかっているので、その人の思いは鈍くなってしまい、イエス・キリストによる救いが分からないのです。しかし人がイエス・キリストに関心を持ち、キリストを知ろうとするなら、キリストを知り、救いを受けることができるというのです。

 その救いとは罪が赦されて新しい永遠のいのちが与えられ、神様との親しい交わりの内に生きることができるようになることです。罪が赦されるので神の裁きを免れることができるのです。

 それだけではありません。コリント人への手紙第二 3章18節では、キリストによって与えれる救いについて更にこのように教えています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主(キリスト)の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主(キリスト)と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 御霊なる主によって新しい人となることができる。それも栄光あるキリストと同じようになれるのです。それは罪を赦され神の裁きを免れるだけでなく、キリストのようになって良いことを行い、自分だけでなく人々をも幸せにする者となることができるのです。

 神様の備えてくださったキリストによる救いは完璧です。あなたもこの救い主キリストに心を向けてください。キリストを信じることによって、あなたも神の素晴らしい恵みである救いを受けることができるのです。

 キリストを知るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」2013.11.16放送でのお話より )
 
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■「信仰」について / 岩井基雄

2013年11月15日 | Weblog
2013/11/15放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。今日はストレートに「信仰」についてです。

 日本では「鰯(いわし)の頭も信心から」とよく言われるように信心ということばを使うことが多く、その信仰の対象は様々なものがありますねえ。しかし聖書が語る信仰とは信じて仰ぐとあるように、基本的な意味は神や人などの人格ある存在に対する心からの信頼なのです。

 しかし聖書では人間は信仰の対象となりません。私たち人間は様々な問題や過ちや聖書が語る罪を抱えているからです。ですから信仰とは闇雲な盲信・信じこむことではなくて、本当に信頼できるお方を正しく信頼すること、それが聖書が語る信仰なのですね。

 聖書にはこのように書かれています。
 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 新約聖書 ヘブル人への手紙 11章1節

 聖書が語る神様に信頼して歩む人生は、目に見えるものに価値を置くありかたを捨てて、自分の願いも思いもすべてを御存知の神様にお任せし、その約束に心から信頼していく、そしてその目に見えない約束を心から確信していくことができる歩みだというのですねえ。

 ではなぜこの聖書が語る神様に私たちは信頼を置くことができるのでしょうか。それは聖書が語る神様がすべてのものを想像してくださったお方であり、その神様が私たちを永遠の愛で愛し、私たちを支配するためではなく私たちを苦しみから救い命を与えるために、私たちに関わってくださり、私たちが応答することを待っていてくださるからです。

 この神さまに信頼して歩むその歩みは、神様の豊かな愛を受け取ってそれに応えていくという信頼の歩み、そして神様からの豊かな祝福を確認し確信していくという歩みなのです。即ちこの聖書が語る信仰とは神様を見上げて信頼をもって約束を握り締めて目に見えるものではなく目に見えないものを確信しながら一歩いっぽ歩んでいく歩みなのですね。

 あなたもこの聖書が語る神様に心からの信頼を置き、みことばの約束を、祝福を、受け取っていくその人生を歩み出してみませんか?

 (PBA制作「世の光」2013.11.15放送でのお話しより)

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■その果ては、ひどいことになる / 福井 誠

2013年11月14日 | Weblog
2013/11/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「その果てはひどいことになる」です。それでは第二サムエル記2章26節から読んでみましょう。

 アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまでも剣が人を滅ぼしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵士たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」

 いよいよダビデはサウルの後継者となっていきます。しかしダビデが実際にイスラエル全体の王となるには随分と時間がかかり、多くの戦いがありました。サウルを支持する者たちがまだまだ力をもっていたからです。そういうわけでサウルの将軍アブネルもダビデの部下ヨアブによって攻撃されていました。そこでアブネルはダビデの将軍ヨアブに呼びかけて言います。「いつまでも剣が人を滅ぼしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。」

 アブネルはダビデが優勢であることをよく理解していたのでしょう。平和裏に物事を解決しようとし、無意味な争いを止める事を呼びかけました。しかしヨブはそれに応じなかったのです。実に人が憎しみを向け合うことほど不毛なことはありません。しかしそんな無意味なゲームに陥ってしまい相手を徹底的に打ちまかすまで退くことができない人間の現実があるように思います。

 先日モンゴルに出かけました時に面白い光景がありました。草原の中を車で突き抜けていくときに羊と山羊の群れに出会いました。人間であったなら道路の手前で立ちどまって車が過ぎ去るの待つところでしょう。しかし羊と山羊は止まって待つということができないのです。車を見るや否や、一斉に前に進んで道路を渡ってしまおうとします。車は止まらざるを得ませんでした。この子たちには止まるという頭が無いんだ、そう思わされておかしくもあったのですが、争いごとに陥った人間にも似ています。争いごとを止める、これ以上深めない、ということが人間にはできません。

 だからこそ神を信じ変えられて、不毛な争いを避ける賢い歩みをさせていただきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2013.11.14放送でのお話より )

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■エサウの歴史 / 板倉邦雄

2013年11月13日 | Weblog
2013/11/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「エサウの歴史」という題でお話ししましょう。

 エサウの歴史は彼が人間的には大変幸せな人であったことを物語っています。創世記の36章には、エサウと彼の子孫エドムの歴史が記されています。「エサウすなわちエドムの歴史は次の通りである。」との書き出して始まっています。

 なぜエサウの歴史が聖書の創世記36章に書きとめられたのでしょうか。エサウは父イサク家の双子の長男として生まれました。弟はヤコブですね。エサウはエドム民族の先祖となります。主なる神様はアブラハムの神イサクの神ヤコブの神だけではなくエサウにとっての神、すべての民族の神ではないでしょうか。

 それにしても弟ヤコブは自分で墓穴を掘るような人生の歴史でしたねえ。逃亡生活の20年、旅人のような放浪生活、子どもたちのトラブルによる転居、さんざんな辛苦を舐めました。

 しかし兄エサウは定住生活をして、荒野をさ迷うこともなく、飢饉でエジプトへ下ることもありませんでした。エサウの子孫たちはエドムの地で首長となったり王様として君臨しました。イスラエル人の王が治める以前、エドムの地で治めた王たちのリストが31節から記されていますねえ。ある意味で平和と安全とが譲りの財産だったのです。

 そうそう兄エサウは悪知恵な弟ヤコブを赦す度量も持っていましたし、弟が一族をひきつれてふるさとに帰って来ると、一緒に住むのは窮屈になるだろう、とおしげもなくエドムのセイルの山地に移動してしまいます。淡白な性格でした。

 けれども弟ヤコブと並べてみますと兄エサウの歴史には主なる神様との交わりや神様への祈りや飢え渇きが無いということでしょうか。

 弟ヤコブは波乱万丈な歴史でしたが、そこには天との不思議な交わりがありました。後悔や屈辱、裏切り、裏切られる傷だらけの生涯でしたが、そこには神様の憐れみ、赦し、助けを味わうことが許されたのです。

 兄エサウは地上での楽しみは味わいましたが、余りにも地上だけに終始し、天上に抜ける幸いと喜びは味わうことができなかったようですねえ。

(PBA制作「世の光」2013.11.13放送でのお話より )
 
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■今日、泊まることにしてあるから / 大嶋重徳

2013年11月12日 | Weblog
2013/11/12放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカの福音書19章には町の人に罪人と呼ばれているザアカイという人が出てきます。イエス様はそのザアカイにこう言われました。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(5節)

 このことばは、「わたしはあなたの家に泊まりたい。ずっと前からそうするつもりだった。」 そんな強い熱心な意味を持ったことばです。

 この日、ザアカイにとってはイエス・キリストという存在はたまたまエリコを通り過ぎるだけの人であったかもしれません。何だか話題になっている有名な人が来るなあ、と言うぐらいの気持ちであったでしょう。

 しかしイエス様にとってエリコに住むザアカイは通り過ぎる存在ではなかったのです。「今わたしはあなたと出会わなければならない。あなたと一緒にいたい。」 この町で孤独に生きているザアカイに、「あなたと一緒に過ごしたい」と願う声がかけられたんです。

 イエス様はこの時、ザアカイだけを見つめていました。もしここでイエス様がザアカイの家に泊まればイエス様に対する周りの評判は確実に落ちます。この当時、食事を一緒にしてはならない罪人リストがあるのですが、そこにザアカイのしていた税金を取り立てる取税人という仕事がありました。

 そんなザアカイの所に行くイエス様の姿を見て、町の人はつぶやいたのです。「なあんだイエス様は立派な人だと思ってたけどもがっかりだね。」

 しかし誰が何と言おうがイエス様には関係がなかったのです。自分は周りからどう思われるだろうか、・・・周囲の目を恐れたりはしなかったのです。

 ひきこもりの経験がある、ある学生はこう言いました。「僕の親はいつも周りの目を気にしていました。家を出られずに引きこもっている僕を恥ずかしいからと、人から自分のことを隠し続けた。でもイエス様は違ったんです。」

 ハルトマンという人はこう言いました。「私たちは多くの人に出会っているが、本当の意味で出会った人が何人いるだろうか。真に出会うとは、相手を愛の目で、価値のある大切な存在として見つめる出会いである。逆に、真に私を見つめてくれる人が何人いるだろうか。私たちは表面と表面で触れ合うだけで寂しく別れてしまうのである。」

 今日ラジオを聴きになっているあなたにイエス様は、「わたしはあなたの家に泊まることにしているよ。」そうおっしゃいます。

 どうぞこのイエス様と過ごす一日をゆっくりと安心して過ごしていただきたいと思います。

 ( PBA制作「世の光」2013.11.12放送でのお話しより )

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■ベタニヤのマルタとマリヤ / 関根弘興

2013年11月11日 | Weblog
2013/11/11放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 新約聖書の福音書を読みますと、イエス様がベタニヤという村に住むマルタとマリヤという姉妹の家にたびたび訪れたことが書かれています。この姉妹にはラザロという兄弟もいました。ルカの福音書10章を読むと、イエス様がベタニアに行かれた時の事が記されています。

 イエス様がその家に行かれますと、お姉さんのマルタは喜んで家に迎え入れ、さっそくもてなしの準備を始めました。しかし妹のマリヤはどうでしょう。イエス様が語ることばにずっと耳を傾けて聴き入っているではありませんか。お姉さんのマルタはイエス様をもてなすために準備でてんてこ舞いになっているのに、妹はのんびりとイエス様の話を聞いてるわけですねえ。お姉さんのマルタは気分が落ち着きません。そこで何とゲストとしてこられたイエス様に向かってこう言うんです。「イエス様、私だけがもてなしのためにこんなに働いてるのに何とも思わないんですか? 私の手伝いをするように妹に何かおっしゃってください!」 こう言うんですねえ。

 私はこの光景を読む度におかしくなってしまいます。普通ゲストにこんなことは言いませんね。でもこんな話ができるっていうことは、マルタがイエス様にこんなふうに率直に言えるということは、イエス様とマルタとマリヤというこの姉妹、とても親しく何でも話せる間柄だったのでしょうね。

 そこでイエス様はマルタにこう言われました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ 10章41節、42節)

 もちろんお姉さんのもてなすという行為も大切ですけれど、ここではイエス様は「わたし(イエス)自身から聴く」ということの大切さを教えられたんですね。マルタとマリヤの姉妹、この家、ベタニヤのこの家はイエス様にとって数少ない休める場所であったようでした。

 聖書の中にこんなことばが書かれています。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ 1章11節) このように書かれています。

 でもこのベタニヤの家はそんなイエス様にとって落ち着くことのできるホッとすることのできる家であったに違いありません。イエス様がご自分の国に来られたってことは、あなたの今いる場所に来られたということでもあると思いませんか? あなたはこのイエス様をどのようにお迎えしていますか? あなたの心の中にイエス様をお迎えする場所を備えていますか?

 イエス・キリストはあなたの友となり、人生の羊飼いとなるお方です。このイエス・キリストを心からお迎えしながら歩んで行きませんか?

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■ひしがれた心 / 羽鳥頼和

2013年11月09日 | Weblog
2013/11/9放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日は旧約聖書箴言18章14節の「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」ということばからお話ししたいと思います。

 「人の心は病苦をも忍ぶ。」と語られています。確かにそうだと思います。この聖書のことばを読んで私は乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さんのことを思い出しました。乙武さんは先天性四肢切断という障害のために生まれつき手足がありません。そんな乙武さんは著書『五体不満足』で「障害は不便です。しかし、不幸ではありません。」と語っています。乙武さんは明るく積極的に生きています。執筆後、結婚しお子さんも与えられました。スポーツライターとして働き、その後小学校の先生にもなりました。

 「人の心は病苦をも忍ぶ。」 強い心はその人の人生を素晴らしいものにします。しかしその事と共に聖書はこう言います。「ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」 ひしがれた心とはどんな心でしょう。「ひしがれる」とは「ひしゃげる、つぶれる」とか「押しつぶされる」という意味があります。そのような心とは絶望と失望に支配されてしまう状態です。

 ひしがれた心とは例えばこんな心ではないでしょうか。生きる目的意味を見失ってしまった心、愛を見失い孤独で寂しい心、悪いことに心を支配されその罪責感に押しつぶされてしまった心などではないでしょうか。

 私たちの心はひしがれた心になりやすいと思います。そして一旦そのような心になると絶望と失望の奈落の底に落ち込んでしまい、そこから這い上がることができないのです。

 どうすれば強い心持つことができるのでしょう。詩篇10篇17節に、「主よ、あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。」とあるように、神様が私たちの心を強くしてくださいます。神様に強くされた心はどんなことがあってもひしがれた心にはなりません。

 神様は私たちを愛し、イエス・キリストによって罪を赦し、生きる目的を教えてくださいます。神様は言われます。「雄々しくあれ。心を強くせよ。」(詩篇 27篇14節、31篇24節)


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■謙遜の恵み / 岩井基雄

2013年11月08日 | Weblog
2013/11/8放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 私たちはなかなか人に譲るということができませんね。謙遜の素晴らしさということを学んではいてもそれを実行することが本当に難しいからです。

 信仰の人アブラハムが自分の甥のロトと一緒に旅をしてベテルまで来た時、二人とも羊の群れや牛の群れ、天幕など多くのものを所有していたために、次第にその場所が彼らには狭くなり、争いが起こり始めました。そしてアブラハムはロトとの別れを決断し、自分が歳上であるにもかかわらず、歳下の甥であるロトに土地の選択権を譲ります。

 これは今の私たちの世界でもなかなかできないことですが、当時のユダヤの社会にあっては驚くべきことでした。信仰の父と呼ばれるアブラハムの心の謙った姿、真実な謙遜の姿がここにあると言えるでしょうね。

 しかもロトはその提案を拒まずに、潤って見栄えの良いヨルダンの低地を選びました。ロトの心の中には、自分は良い方を選んで当然であり、その権利があるというような高慢の心があったのでしょうか。

 しかし真の主権者である神様は選択を譲ったアブラハムに見える土地のすべてを与えると約束してくださいました。それはアブラハムの思いをはるかに超える神様の祝福の約束でした。

 聖書はこう語っています。

 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。
 「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」 創世記13章14節、15節

 一方、見栄えの良い地を選んだロトは、その地の罪の影響を受けていきます。私たちは目に見えるものや価値が高いと思われるものに心が奪われてしまいますね。

 しかし神様は私たちが何を見、何に価値を置くかをそれぞれの人生の中において問いかけてくださるのです。神様はアブラムの謙遜を喜ばれ、祝福の器として彼を用いていきます。彼の謙遜の原点には主の主権を認めた信仰がありました。人に譲ったり自分の愚かさを認めたりすることが難しい私たちですが、神様の前に謙り、神様の祝福を豊かに受けとっていきませんか?

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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