goo blog サービス終了のお知らせ 

 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■ぞうきんになる(最後の晩餐) /板倉邦雄

2011年04月20日 | Weblog
2011/4/20放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。
今日は「ぞうきんになる」という題でお話ししましょう。

 汚いホコリまみれの弟子たちの足を洗ったイエス様のお話です。

 イエス様が雑巾のようになられたのです。まず雑巾になるということは捨てられることを意味していました。聖書の箇所にこう書いてあります。
 「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り」(ヨハネの福音書13章1節 口語訳聖書) と。

 「この世を去る」とはイエス様にとっては人々によって雑巾のように捨てられることでした。十字架の苦難と死がイエス様を待っていたのです。雑巾のように使い捨てられることが天の父なる神様のイエス様に対する心でした。 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」と旧訳聖書のイザヤ書53章の3節にある通りです。

 次に雑巾なるということは、愛する人の汚れをきよめることでした。こうも書いてあります。 「イエスは、・・・、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。 」(ヨハネの福音書13章1節 口語訳聖書)
 残されてゆく弟子たちへの愛が弟子たちの足を洗うという行動となっていったのです。イエス様の語ったことばを信じている弟子たちは、既にきよくされていたのです。イエス様の愛の犠牲は私たちの心をきよめ、清々しくしてくださいます。天の愛は穢れた私たちを洗いきよめてくださるのです。

 さて最後に、雑巾になるということは私たちへの謙遜と奉仕の模範の姿ではないでしょうか。イエス様のことばです。
 「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネの福音書13章14節)

 「主であり」とは神の子であるという意味です。神様であられるお方が腰をかがめ、跪(ひざまず)き、罪人たちの穢れた足を洗ってくださいました。もったいない有難い事です。ですから今度は私たちがお互いの穢れた足を洗ってあげる番です。汚い奴と言わずに、黙って雑巾になりたいものですね。

 聖書のことばです。
 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」 ピリピ人への手紙2章3節

  ( PBA制作「世の光」2011.4.20放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書
通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくは
PBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっ
そり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大
抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なし
でもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹
介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする