いつも政治的な駆け引き




 「中国の船が入ってきたら沈めてしまえ」という衝撃的な言葉を最初に持ってくるのは、中国のあくどい行為を和らげるための技術的な表現だ。「中国の船が入ってきたら沈めてしまえ」と言った生徒が本当にいたかどうか疑問である。もし居たとしても中国漁船の巡視船への体当たりを見ればそう思う中学性がいてもおかしくない。中国漁船の巡視船への衝突はひどい行為だった。

 「中国漁船の巡視船への体当たり」とは言わないで、中国漁船衝突事件と単なる事故のイメージを与えるような書き方は中国に悪いイメージを持たさないような表現工夫がされている。
中国漁船は日本の領海を守る巡視船に衝突したのである。中国漁船の行為は日本をあざ笑っている行為であり、許せるものではない。

 社会科教師の上原邦夫氏は、「衝突事件で中国が悪かったのは事実かも知れない。しかし、『だから尖閣の守りを固めるのは当然』のような話をするのはおかしい」と述べている。中国漁船団は衝突事件が起きる前は、尖閣諸島の領海で日本の漁船を追い出して我が物顔で漁をしていた。中国は尖閣諸島は中国の領土だと主張している。東南アジアの海の支配を広げる戦略が中国にはある。軍艦を改造した巡視船を尖閣諸島の領海に接近する行為を繰り返している。中国の戦艦や潜水艦が八重山近海を頻繁に通っているなどを考慮すれば、政府が尖閣の守りを固めるのは当然だ。いや、今まで尖閣の領海の監視を怠っていたことが間違いだ。

 本来なら、日本の領海を守るために南西諸島に自衛隊配備をしているべきであった。そうすれば中国漁船の尖閣諸島領域の占拠はなかっただろうし、巡視船への衝突もなかっただろう。
 領土を軍隊が守るのは全ての国がやっている。やらないのがおかしい。復帰前はアメリカ軍が尖閣諸島は守っていた。だから、中国漁船が尖閣諸島の領海に侵入することはなかった。
 復帰後に日本が尖閣諸島の領土・領海を守ることを怠ったから尖閣諸島の領海が中国漁船に占拠されたのだ。

 平和教育は戦跡がなければできないというのがおかしい。沖縄の教師による平和教育は沖縄戦だけを材料にしている。戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦など多くの戦争があり、アジアだけでも1000万人近くの人が犠牲になっている。平和教育は沖縄戦だけを材料にしなくてもできる。

 戦争が起こる原因も時代によって違う。特に第二次大戦とそれ以後の社会主義国家と資本主義国家の対立による戦争は戦争の原因が違う。
 上原邦夫教諭は戦争の原因を「武力での解決は『やり返す』という負の連鎖を生む。行き着く先は戦争だ」と述べている。上原邦夫教諭はそんな戦争が日露戦争、日清戦争、太平洋戦争だというのだろうか。もし、日露戦争、日清戦争、太平洋戦争を「武力での解決は『やり返す』という負の連鎖を生む。行き着く先は戦争だ」で説明しているのなら、上原邦夫氏の説明は幼稚であり事実でもない。「武力での解決は『やり返す』という負の連鎖を生む。行き着く先は戦争だ」で過去の戦争を説明するのなら上原邦夫氏は教師の資格がない。
 日本が帝国主義を名乗り、植民地を大陸に求めて起こったのが日露、日清戦争であり、太平洋戦争までは植民地の獲得が原因として戦争が起こったのだ。

 「国の主張がぶつかったとき、平和的な解決方法として何が一番いいのか考えさせ、教えなければならない」と上原邦夫氏は述べているが、「国の主張がぶつかったとき、平和的な解決方法として何が一番いいのか」を教えるのなら歴史的事実を無視しないで教えてほしいものだ。圧倒的に武力が勝る中国は武力でチベットを支配した。抵抗する人々を武力で弾圧しているからチベットは戦争状態ではない。そんな平和もある。
 武力に勝る中国はベトナムやフィリピンの領海を支配した。フィリピンはアメリカと軍事演習をしたり、軍事力を強化しながら中国と交渉をしている。
 平和的な解決にも軍事力は必要であり、軍事力があるからといって戦争をするわけではない。

 城所さんは、「今は政治的な駆け引きのように見える」と感じているが、教科書問題はずっと政治的な駆け引きだった。今までは沖教祖の天下だったが、沖教祖と対立する自民党系の育鵬社が登場して、沖縄では初めて八重山のように沖教祖対自民党の構図ができた。
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呆れる八重山の民主主義論



 

 石垣市の教科書選択が、「非公開、無記名投票で教科書を決し、その後、情報公開も説明責任もされない」ことを見て、「八重山に民主主義はあるのか」と高校生城所愛美さんは批判したという。そのことを琉球新報は城所愛美さんに賛同し、彼女の主張を掲載している。

 教科書選択の普通の流れは

1、 調査員(数名の現場教員)による教科書の調査による順位付け。
2、 採択地区協議会において委員による、調査員の一番に順位付けした教科書を選定。
3、 市町村教育委員会による採択。
4、 県教育庁へ報告

となっている。
 石垣市では2の採択地区協議会で調査員による順位づけを無視して、公民は調査員が推薦しなかった育鵬社の教科書を選定し、そのことが問題になっている。そして、高校生城所愛美さんは石垣市の選定のやり方を民主主義に反すると批判している。
 しかし、調査員(数名の現場教員)が一番に順位付けした教科書を採択地区協議会が選定するのは民主的といえるだろうか。採択地区協議会が調査員が順位付けした教科書を選ぶということは、採択地区協議会はお飾りであり、教科書選定にはなにも関わっていないのと同じだ。数名の現場教師が教科書を選定する仕組みになっている今のやり方のほうが全然民主的ではない。

 与那原町教育長は、「調査員は各教科の専門家で、現場も知っている。説明を聞いた上で選定した」と述べている。もし、調査員が一番に順位付けした教科書を選択するのが前もって決まっているのならば、採択地区協議会と市町村教育委員会は単なるお飾りであり存在している意味がない。なぜ、採択地区協議会と市町村教育委員会があるのかを真剣に考えてほしいものだ。
 教育は子供が社会に出て行くために教えるものである。だから、現場教師だけに任せるのではなく、社会で責任ある立場の人間も教育に関わるべきである。だから、採択地区協議会と市町村教育委員会があるのだ。採択地区協議会の委員は市町村教育長や学識経験者、教職経験者で構成されている。現場教師よりも経験が豊富であり権威もある。それなのになぜ現場教師が教科書を選択する仕組みになっているのだ。採択地区協議会の委員に学識経験者、教職経験者を選んでも意味がない。教科書選定の実質的な決定権が採択地区協議会ではなく調査会にあるのは主客転倒している。

 調査員は専門の立場からそれぞれの教科書の特徴や問題点を報告書にまとめ、協議会の委員は報告書と教科書を読んだ上で多数決で教科書を選ぶというのが民主的なやり方だ。

 石垣市の教科書選定の手順は民主的とは言えないが、それよりも民主的でないのが今の教科書選定のやり方だ。八重山地区以外の5採択地区以外の市町村教育委員会は調査員の報告を尊重して教科書を採択したという。ということは数人の現場教師の調査員が一番に順位付けした教科書を選択したということだ。調査員が一番に順位付けした教科書を選択することが最初からきまっているのだから協議会の委員は誰ひとりとして教科書を読んでいないだろう。

 数人の現場教師が順位付けをして教科書選定の実権を握っていることが正しいとする市町村教育委員会やマスコミは狂っている。狂っているから狂っている自覚症状がなく、堂々と主張しいる。
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吹きすさぶ・・・アート俳句 六百六十九~六百七十一句

六百六十九句





六百七十句





六百七十一句




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