翁長知事を待っているのは地獄


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

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翁長知事を待っているのは地獄

 沖縄県知事選に立候補した翁長氏は辺野古移設反対を公約にして国外移設の革新と県外移設の保守の支持を得たのであった。
普天間飛行場の国外移設は日米安保廃棄を目指した革新の主張であるが、県外移設は日米安保を容認する保守の主張である。国外移設と県外移設は融合することはできない。国外移設と県外移設は辺野古移設反対は共通するが普天間飛行場の移設では相容れることがことができない対立関係にある。だから国外移設と県外移設は水と油であり融合することはできないのだ。翁長氏は県知事に当選するために融合しない水(国外移設)と油(県外移設)を融合したように見せかけたのだった。

知事選前の普天間飛行場の移設先についての県民世論である。

国外移設・・・38・8%
 県外移設・・・38・4
 辺野古移設・・17・8
 辺野古以外の県内・・・5%

自民党県連に所属していた翁長氏は保守であることを自認し、日米安保を容認して県外移設をずっと主張し続けてきた。仲井真知事が辺野古移設を容認した時に、「仲井真知事は県外移設から辺野古移設にぶれたが私は県外移設からぶれない」と言い、ぶれない政治家を強調した。しかし、県外移設に賛成している県民は38・4%である。過半数に達していない。県外移設だけを主張したのでは県知事選挙で当選する可能性は低い。それに対立候補は自民党推薦の仲井真知事である。当選するには国外移設に賛成している革新系の県民を取り込まなければならなかった。革新支持者を巻き込むために考え出したのが「アイデンティティー論」であった。

「沖縄が一つになって日米政府と対峙しなければならない。そのためには県民同士がイデオロギーで対立しないで腹六分=最大公約数のアイデンティティーで沖縄をひとつにする」ことを翁長氏は強調した。ひとつにするとは県外移設の保守系と国外移設の革新系が手を組むということである。アイデンティティー論で県外移設と国外移設を一つにする方法が辺野古移設反対であった。県外移設は辺野古移設に反対である。国外移設も辺野古移設に反対である。県外移設と国外移設には辺野古移設反対という共通性がある。翁長氏はその共通性を利用してアイデンティティー論を持ち出し、県外移設の保守と国外移設の革新を辺野古移設反対という一つの部屋に押し込めたのである。
イデオロギーの塊である共産党や社民党などの革新がイデオロギーを腹六分にすることはできないはずである。翁長氏のアイデンティティー論に同意し、翁長支持に回ったが、それには革新の深刻な内部事情があった。選挙での敗北が続いたことである。
革新は県知事選で敗北し、宜野湾市長選、石垣市長選、那覇市長選と名護市長選以外は自民党に敗北していた。

県知事
1998年に大田昌秀氏が稲嶺惠一に敗北していらい16年間革新は知事選に勝利したことがなかった。

 石垣市
2010年に4期16年続いた革新の大浜長照市長を破って自民党の中山義隆が当選した。2014年3月2日の市長選は中山現市長と大浜長照前市長の闘いになったが中山市長が圧勝した。

宜野湾市
2010年の市長選は市長に就任した安里猛が心臓疾患の療養を理由に2011年12月28日に任期途中で辞職したことに伴い行われた選挙であったが、自民党の新人佐喜真淳氏と元市長の伊波洋一氏の一騎打ちになった。伊波氏は二期目の時に県知事選に出馬するために宜野湾市長を辞職したのであり、落選したのではなかった。宜野湾市は革新が強く、伊波氏の辞職による市長選では革新の安里猛氏が当選した。県知事選に負けたが、革新のエースである伊波氏が宜野湾市長選に負ける要素はなかった。伊波氏が圧勝するだろうと思われていた。しかし、伊波氏は新人の佐喜眞氏に負けたのである。

那覇市
2012年11月11日 の那覇市長選は自民党県連の翁長雄志氏と革新の村山純氏の一騎打ちであったが5万票差をつけて翁長氏が圧勝した。

名護市長選では革新の稲嶺進氏が勝ったが、知事選、石垣市長選、宜野湾市長選、那覇市長選と自民党が勝ち続け、革新の勢いは弱体化していた。革新は知事立候補として高良鉄美琉球大学教授に絞っていたが、高良氏を知事選の立候補にするのをためらっていた。高良氏は知名度が低いし、勢いが衰えている革新が高良氏を当選させるのは困難であると考えていたからだ。依然のように革新が強い勢力を維持していたなら、高良氏を当選させることができたが、石垣市長選、宜野湾市長選、那覇市長選で敗北したように革新の勢力は昔ほどの勢いはなく、知事選で高良氏を当選させることは困難であった。
革新は落選確実の高良氏を立候補にするより、当選可能な翁長氏を支持して政治的な影響力を維持することを選んだ。だから革新は、知事候補について、「埋め立て承認を撤回との基本姿勢を崩さなければ、他の政策は候補者の考えを尊重する」という姿勢に変わった。政局に影響力を持ちたい革新と県知事選勝利したい翁長氏の利害が合致したのが辺野古移設反対を公約することであった。
翁長陣営と革新は辺野古移設反対で同じあっても、普天間飛行場の移設については、翁長氏は県外移設であり、革新は国外移設、閉鎖・撤去であった。保守の翁長陣営と革新とは元々は対立関係にあるから主張をひとつにまとめることは不可能であった。水と油の関係であるから、一緒に選挙運動はしなかった。翁長陣営と革新陣営は別々の選挙事務所を持ち、別々の選挙運動をするという奇妙な選挙運動を展開した。そして、両陣営は辺野古移設反対を主張しながらも、翁長陣営は県外移設を主張し、革新陣営は閉鎖・撤去を主張した。

国外移設、閉鎖・撤去・・・米軍基地の日本からの撤去・・・安保廃棄
県外移設・・・・・・・・・米軍の国内駐留容認・・・・・・安保容認

国外移設を主張するのは日米安保廃棄を目指しているのであり、国内移設を認めることはできない。反対に県外移設を主張するのは中国や北朝鮮の抑止力として米軍の存在を認めているから日米安保を容認していて国外移設、閉鎖・撤去を認めることはできない。県外移設と国外移設の根本的な問題は日米安保に賛成か反対かの問題であり、水の油の関係であるから手を組むことはあり得ないことであった。しかし、水と油の翁長氏と革新はお互いの欲望のために手を組んだのである。

日米安保廃棄と日米安保容認は相容れることができない。しかし、最大公約数である辺野古基地建設反対は共通している。共通を翁長氏はアイデンティティー論でとして選挙公約にしたのである。
翁長候補の選挙公約はアイデンティティー論で考え出した辺野古基地建設反対である。普天間飛行場の解決方法は封じ込めた。なぜなら、普天間飛行場の移設問題になるとアイデンティティーから外れてイデオロギーの問題になってしまい革新との対立が生じてくるからである。だから普天間飛行場の移設問題に触れてはいけなかったのである。アイデンティティー論で革新の支持を取り付けた翁長氏を沖縄二紙は好意的に報道した。翁長候補のアイデンティティー論は正式に選挙戦が始まる前はうまくいっていた。


知事選挙が始まると翁長氏の言葉が二転三転するようになった。選挙選の初めのころはオール沖縄の建白書の実現を強調し、辺野古移設反対を繰り返していた。県外移設は口にしなかった。
 だが。辺野古移設反対だけを主張するのはすぐに行き詰る。辺野古問題の元は普天飛行場問題の解決方法であり、普天間飛行場はどうするのだという質問が出たからだ。翁長氏は世界一危険な普天間飛行場は世界からの圧力で閉鎖せざるを得なくなるから、自然消滅するというような発言をするようになった。しかし、そのような説明はすぐに行き詰る。自然消滅論は記者の疑問に答えるのに不十分であった。
。自然消滅論を言えなくなった翁長氏は自然消滅論の代わりに封印していた県外移設を再び言うようになった。県外移設は保守層の支持を得るためにも主張する必要があった。辺野古移設反対だけを主張すると、革新の主張する国外移設、閉鎖・撤去に巻き込まれ、翁長氏が革新と一心同体になったのではないかと保守層が危惧する恐れがあったからである。保守層の支持を得るためには県外移設を口にする必要があった。
しかし、県外移設だけを言えば革新票が逃げるかも知れない。だから、翁長氏は県外移設に国外移設を加えて「県外移設、国外移設」を言うようになったのである。

「けさ、糸満市摩文仁の魂魄の塔に手を合わせた。政治は平和が原点だと心から思った。国土の0・6%の面積の沖縄に米軍基地を押し付ける理不尽さは絶対に許せない。『建白書』にある通り普天間飛行場は国外・県外に移設、県内移設反対。辺野古新基地はありとあらゆる手段を尽くして造らせない。オスプレイ配備を撤回させる。知事選でしっかりと県民の意思を示そう。沖縄の子や孫が故郷に誇りと自信と志を持ってアジアや世界に雄飛していけるような将来を実現できるよう、必ず当選したい。力を貸してください」(翁長発言)

建白書には県外移設の文言も国外移設の文言もない。閉鎖・撤去の文言があるだけである。建白書には県外移設、国外移設はないのに建白書にあると平気で嘘をつくのが翁長氏であった。
保守・革新の票を得るために翁長氏は、建白書の実現・辺野古移設反対から始まり、普天間飛行場の自然消滅、県外移設、県外・国外移設と、わずか一か月足らずの選挙戦で翁長氏は4回も主張が変わったのである。翁長氏はぶれないことを売りにしているが、実はぶれっぱなしなのが翁長氏であるのだ。
県知事になるためには保守の票も欲しい、革新の票も欲しいと、保守の政治理念を捨て、ただひたすら票獲得のために奔走したのが翁長氏であった。

 翁長氏の本音は県外移設でも国外移設のどっちでもよかったと言える。もっとつきつめて言えば、翁長氏の本音の本音は普天間飛行場の固定化でも辺野古移設でも県外移設でも国外移設でもよかったのだ。つまり、普天間飛行場なんかどうでもよかったのだ。翁長候補の本音の本音は県知事になることであった。県知事になるために保守と革新の集票方法してアイデンティティー論を考えだし、選挙戦の後半では県外移設・国外移設を口にしたのである。
オスプレイ配備反対、東京行動、アイデンティティー論、県外移設・国外移設は県知事になるための翁長氏の方便であった。翁長氏には政治理念はない。ただひたすら沖縄政界の頂点である県知事になりたいだけであった。
 そして、念願通り県知事になった。

 めでたく翁長氏は知事になったが、翁長知事を待っているのは地獄である。
 翁長知事の要求通りに辺野古移設を阻止した時、再び普天間飛行場の問題に戻る。そうすると県外移設を主張する翁長知事と国外移設、閉鎖・撤去を主張する革新は対立する。対立するだけではない。県外移設も国外移設も閉鎖・撤去も実現不可能であるから普天間飛行場は固定化する。
 革新は再び普天区飛行場の国外移設や閉鎖・撤去を主張して盛り上がっていくだろうが、普天間飛行場の固定化に多くの県民は白けるだろうし、翁長知事の主張する県外移設が困難であることを県民は知り、翁長知事支持は激減するだろう。
 辺野古移設が粛々と進めば、翁長知事は辺野古移設阻止の選挙公約を果たすことができないことになる。そうなれば県民の支持を失うだろう。選挙公約が実現できなかったら、待っているのは辞職である。

 翁長知事を待っているのはどっちにしろ地獄だけである。

知事になった翁長氏は再び県外移設を主張するようになる。建白書に書いてある「閉鎖・撤去」を翁長知事が口にしたことはない。国外移設も言わなくなった。

知事になった翁長氏はあらゆる手段を使って辺野古建設を阻止すると宣言し、仲井真知事が承認した辺野古埋め立て申請の瑕疵を見つけるために第三者委員会を立ち上げたり、進入禁止のフロートを設置するために海底に設置したトンブロックの一部がサンゴを圧し潰したのを理由に作業の中止を指示したりして強硬な態度を取るようになった。

「辺野古に新基地を造らせないことを県政運営の柱にし、普天間飛行場の県外移設を求めていく。法律的な瑕疵(かし)の有無を検証する第三者委員会の報告をふまえ、埋め立て承認の取り消し、または撤回について検討する」(沖縄県 翁長雄志知事)

第三者委員会は翁長知事の私的諮問委員会である。翁長知事にアドバイスをするだけであり政治的な権限はなにもない。第三者委員会が埋め立て申請の瑕疵を指摘したとしても、それが本当に瑕疵であるかどうかを客観的に証明することはできないのだ。だから、第三者委員会の指摘を根拠に埋め立て許可を取り消すことはできるはずがない。瑕疵を見つけた時に最初にやらなければならないのは、瑕疵がないと判断した仲井真知事時代に埋め立て申請を審査した土木兼建築課のメンバーに瑕疵があることを認めさせることである。もし、瑕疵があることを認めたら翁長知事はメンバーを処罰しなければならないだろう。もし、メンバーが瑕疵を認めなかったら、どちらの言い分が正しいかを審査する新たな第三者委員会を設置する必要がある。
新たな第三者委員会が瑕疵があったと判断した場合は、埋め立て申請を許可したのは仲井真前知事であるから仲井真前知事に許可を取り下げるように要求しなければならないだろう。法律に詳しくないのでよくはわからないが、前知事が許可したものを勝手に翁長知事が取り消すことはできないと思う。なんらかの法的な手続きと仲井真前知事の了承が必要だろう。仲井真知事に瑕疵があつたと認めさせるには時間がかかるだろうし、仲井真知事が了承しなければ裁判をする必要もあるだろう。結論に達するまで2、3年は必要である。その頃には埋め立てがかなり進んでいる。たとえ、翁長知事が政府に埋め立て申請を取り消しに至るまでは数年はかかるだろう。
第三者委員会が瑕疵を見つければ、即埋め立て申請承認の取り消しができると考えるのは間違いである。取り消しまでは長い法的手続きが必要なのだ。
そして、瑕疵を理由に埋め立て申請を取り消したとしても、国は訴訟を起こすだろう。裁判に勝つのは至難である。裁判に勝ったとしても辺野古埋め立て費用を弁償しなければならない。辺野古埋め立てを瑕疵を理由に中止させるのは不可能である。
瑕疵あったとしても取り消しまで長い年月がかかるが、県土木建築課が埋め立て申請書を審査し、環境アセスは閲覧して一般公開もしたのだ。瑕疵を見つけることはできないだろう。

翁長雄志知事はトンブロックのサンゴ破壊を理由に沖縄防衛局に海底作業の停止を指示した。それに対して防衛局は行政不服審査法に基づき審査請求を出したが、林芳正農相は裁決が出るまでの間、指示の効力を一時的に停止すると決定した。翁長知事の作業を中止させる目的はあっけなく頓挫した。
翁長知事は「国が申し立てをし、同じ国が審査するという対応は、審査が公平公正に行われたのか理解できず、残念だ」と述べた。国の決定に不服であれば第三者に判断を仰ぐべきであるし、方法はある。地方自治体は国の措置に不服がある場合、措置から30日以内ならば国地方係争処理委員会に審査請求ができるのだ。林芳正農相の決定に不服であれは審査請求をするべきであった。しかし、翁長知事は見送った。
県幹部は「臨時制限区域での独自調査が最も重要なので、その作業を優先させる」と述べ、審査請求見送りの理由を説明したが、同じ国が審査すると国に有利な裁決になると翁長知事は言っている。県のほうが正しくても国は防衛局の主張を受け入れるだろうと翁長知事は予想しているのである。であるならば独自調査をしても無駄である。
それにすべてのトンブロックを四方面から移した写真をすでに防衛局が県に送ってある。その写真を調査すればサンゴの被害状況は把握できる。防衛局が送った写真に疑問点があれば防衛局に問い合わせて新たな写真を送ってもらえればいい。ところが翁長知事は防衛局の送った写真については言及しなかった。防衛局が送った写真には一言も触れないで、まるで防衛局がトンブロックの実態を隠しているような印象を県民に与えたのである。そして、県が調査することにこだわった。翁長知事は都合の悪いことを隠すのである。
名護市の辺野古飛行場建設予定地である近隣の久志三区(辺野古・豊原・久志)が辺野古移設に賛成し、政府と振興策の実現に向けた協議会を設置する事実を隠して、県民は辺野古移設に反対であると言ってるのも同じケースである。

隠すのは都合の悪い事実だけではない。都合の悪い主張も隠す。
4月5日(月)に翁長知事は菅官房長官と会談をした。会談は翁長知事の圧勝といっても過言ではなかった。会談で普天間飛行場問題について翁長知事は次のように述べた。
「自ら奪っておいてですね、県民に大変な苦しみを今日まで与えて、今や世界一危険だから、普天間危険だから大変だという話になって、その危険性の除去のために沖縄が負担しろ、と。お前たち代替案は持っているのか、日本の安全保障はどう考えているんだ、と。沖縄県のことも考えているのか、というこういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落ではないかと思っております」。
翁長知事は普天間飛行場の負担を沖縄に押し付け、辺野古移設の代替案も沖縄に要求するのは日本の国の政治の堕落であると言い切った。しかし、菅官房長官は辺野古移設は唯一の方法だと言ったのであり、翁長知事や県に辺野古移設の代替案を出せと言ったことはない。それなのに翁長知事は政府が代替案を出せと要求したと言い、安倍政府は堕落しているとまで言ったのである。すごい嘘の発言である。安倍政権に批判的な県民は拍手喝采であっただろう。
翁長知事は政府が代替案を出せと言ったと嘘をついたが、翁長知事の発言には重要な隠しがあった。翁長知事は辺野古移設の代替案として県外移設をずっと主張してきた。菅官房長官に会ったのだから、真っ先に辺野古移設の代替案として県外移設を主張するべきであった。ところが翁長知事の発言の中には一言も県外移設の文言がなかった。仲井真知事が県外移設の公約から辺野古移設容認に変更したことを非難し、自分が県外移設を貫き通したことをぶれない政治家として誇っていたのが翁長知事だった。そうであれば菅官房長官に県外移設の主張を最優先にするべきであったのに会談では一言も県外移設を口にしなかったのである。翁長知事は自分で県外移設を反故にしたのである。翁長知事が辺野古移設に反対であるなら代替案を持っているのかと質問する立場にあるのは菅官房長官であったはずである。菅官房長官の質問に対して代替案は県外移設であると翁長知事が答えるべきであったのに翁長知事は県外移設を言わないで、「県に代替案を要求するのはひどい」と政府を非難したのである。考えられない翁長知事の言動であった。
4月5日(月)の菅官房長官と翁長知事会談ではっきりしたのは県外移設は辺野古移設の代替案にはならないことを翁長知事自身が認めたことであった。そして、辺野古移設の代替案を翁長知事は持っていないことであった。

菅官房長と安倍首相と会った翁長知事は県外移設を一言も言わなかったから、県外移設は不可能であることを翁長知事自身が認めて、その後は二度と県外移設を口にすることはないだろうと思ったが、そうではなかった。
玉城デニー衆院議員(生活)が22、23両日、ワシントンを訪れて米議会関係者と会い、翁長雄志知事の「書簡」を手渡したが、その書簡には県外移設を辺野古移設の代替案として書いてあった。
「戦後70年間、沖縄は多くの基地を負担し、日米の安全保障に貢献してきました。しかしながら人口増加と経済成長を続ける中で、米軍基地は沖縄発展の阻害要因となっており、今後も国土面積のわずか0・6%の沖縄に米軍専用施設の74%を集中させ続けることは不可能な状態です。
このまま辺野古の埋め立てを強行するようであれば、県民の怒りは日米両政府、在沖米軍へ矛先が向かうことになります。
沖縄県としては日本の安全保障は日本国民全体で考えるべきであることから、普天間飛行場の辺野古移設に反対し、県外移設することを求めております」
4月5日の菅官房長官と会談、4月17日の安倍首相との会談では県外移設を代替案として出さなかったのに玉城デニー氏に託した書簡には辺野古移設の代替案として県外移設を主張しているのである。玉城デニー氏が米議会関係者に書簡を渡したのが22日であるから安倍首相と会談を行った5日後である。書簡を書いたのは安倍首相と会談した日の直後だっただろう。安倍首相には代替案を県に要求するのは理不尽だと怒り、米議会関係者には辺野古移設の代替案は県が移設だと言う。翁長知事は相手によって主張を使い分ける二枚舌である。

嘘で固まっているのが翁長知事である。

○ 建白書には閉鎖・撤去と書いているのに建白書は県外移設と書いてあると嘘をついている。
○ 県外移設=日米安保容認、国外移設=日米安保廃棄である。相いれない二つの主張を一緒にした。
○ 普天間飛行場は世界の非難により自然消滅するとあり得ないことを述べた。
○ 選挙中に県外移設、国外移設を主張した。選挙が終わると県外移設だけを主張するようになった。
○ 法的になんの権限もない諮問委員会を設置して埋め立て申請の瑕疵を探させた。
○ 侵入区域内に入った過激派の取り締まりを過剰警備であると海保に警備の緩くするように要求した。
○ 岩礁破砕許可とは関係のない進入禁止用のトンブロックが一部のサンゴを圧し潰しただけで作業停止を指示した。
○ 菅官房長官、安倍首相には辺野古移設の代替案に県外移設を提示しないで、県に代替案を要求するのは日本の政治の堕落だと言いながら、下の根も乾かないうちに米議会関係者には県外移設を代替案にした。

 翁長知事は二枚舌三枚舌いや七枚舌の政治家である。その場その場をうまくこなして県民の支持を我が物にするのが翁長知事のやり方である。翁長知事はあらゆる手段を使って辺野古移設を阻止すると宣言して血眼になっているが、相手は県民ではなく政府である。県民を七枚舌で騙すことはできるが、政府を騙すことはできない。知事は政府を相手に法の世界で闘わなければならない。法の前では嘘は敗北する。翁長知事の敗北は予約済みである。

翁長知事が当選した後の2015年4月の世論調査である。

普天間飛行場の返還に向けた望ましい解決方法は
無条件の閉鎖、撤去・・・32・4%
国外への移設・・・25・6%、
県外への移設・・・18・3%
名護市辺野古の新基地建設・・・18・7%

なんと県外移設は辺野古移設よりも低くなっている。世論調査を見れば県外移設が民意であるとは言えない。翁長知事は書簡に「(沖縄県としては)普天間飛行場の辺野古移設に反対し、県外移設することを求めております」と述べているが、もう県外移設は辺野古移設よりも県民の支持は低下している。県外移設が民意であるとは言えないのだ。

翁長知事は七枚舌の嘘つき政治家である。
七枚舌の政治家を待っているのは地獄である。
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キャラウェイ「沖縄の自治は神話」講演全文

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キャラウェイ「沖縄の自治は神話」講演全文
やっとのことでキャラウェイ高等弁務官の「沖縄の自治は神話」講演の全文を掲載することができた。
沖縄大学地域研究所特別研究員宮田 裕氏のブログに掲載しているのを一年以上前に見つけ、全文をコピーしてあったが、コピーを見つけることができなくて困っていた。宮田 裕氏のブログも分からなかったが、やっと探すことができた。
全文を読めば「沖縄の自治は神話」が流布している内容と全然違うことが分かる。
キャラウェイ氏のいう自治が高度な内容であることも分かる。
革新系は全然理解できなかっただろう(現在も同じ)が、保守の多くの人間も理解できなかったと思う。
講演は金門クラブという米国の民主主義を理解している人たちへの講演であり、一般人を対象にした講演ではなかった。だから、全文を知っているのは金門クラブ員と沖縄二紙の記者に限られていた。沖縄二紙の記事は講演の一部を切り取って非難したものであった。

キャラウェイ高等弁務官講演全文
(1963年3月5日:ハーバービュークラブ)
 昨年の6月22日私は、金門クラブ会員の諸君に「現実を直視して」という題でお話しした。その時、私は世界情勢や琉球の情勢をよく把握し、かつ直視するばかりでなく、琉球住民の間でこれまで信じられている多くの神話を払拭するため、諸君の才能や説得力を活用されるよう諸君に要望したのである。今晩もその時お見かけした同じ顔ぶれが多く見えているが、ある意味では同じ男女ではないのである。

 金門クラブは、長足の進歩を遂げてきたのである。諸君はもはや琉球における指導者の地位の幾つかを引き受けてくれと頼まれる日が来るのを待ちわびる必要はないのである。諸君は諸君に投げかけられた指導権を把握しつつあるのである。

 今晩は昨年のテーマから一歩進んで、現在依然として神話が現実を覆っている分野、すなわち、自治と誤称されいろいろな表現であいまいにされている分野について、少しばかり話し合いたいと思う。

 私には琉球において自治とは何を意味し、また何を包含し、あるいは何を暗示しているかについて全般的に理解されていないように見受けられるのである。諸君はこれまでにインドスタンの5人の盲人に1頭の象を吟味させ、象とはどのようなものであるかを言い表せる話を聞いたり、あるいは読んだりしたことが多分あると思う。象のしっぽを偶然つかんだ盲人は「象とは網のようなものである」といい、もう1人は象の太い足にふれて「象とは木のようなものであるといった。3番目の盲人は、たまたま象の腹のところへ歩いて行って突き当り、「象とは壁のようなものである」といった。そして4番目、5番目の盲人もおのおの自分が得た印象を伝えたということである。

 私は「自治」に対しても何かこれと同様の考え方があるのではないかと観察しているものである。つまり、だれでも自己の経験の範囲内でそれを理解しているのである。

 定義によれば「自治」とは、自治政府を意味しているのである。この定義を論理的に結論づければ、琉球列島における自治論者は、外部からいかなる抑制を一切受けない自治政府の樹立に尽力していることになるのである。これはとりもなおさず独立国家を主張していることを意味するのである。

 しかし、彼らは果たして独立国家を主張しているのであろうか。もし、ある人間が新聞で読むものや住民の代弁者だと自称する人々の言葉をそのまま信じるならば、自治の真の意味は著しく誤解されるであろう。あるいは、この用語が故意に人を惑わす意図のもとに使われているのである。

 政治とは実際的な問題を処理していくことであって空想的な計画を作ったり、圧力団体がスローガンを叫ぶことではないのである。政治というものは可能なものを行う芸術であり、琉球において可能なことは、自治とはかなりかけ離れたものである。なぜならば、琉球列島においては、ある段階の政府から他の段階の政府に対して行われる責任の委任が存在するだけである。

 もし私たちが事実を直視するならば、琉球においても、また行政上一区分を構成するいかなる地域においても自治政府はあり得ないという結論に到達するに違いないのである。

 対日平和条約第3条で規定されているように、米国民政府の下で自治政府があり得ないと同様、1州、1省あるいは1県の場合でもそれは不可能である。

 現在の時点で自治政府は架空のものであり、実在しないのである。そして、琉球の住民である諸君の自由意思で再び独立国家となる決定を下さない限り、将来においても自治は存在しないであろう。

琉球列島の最終責任を実際に有するものとして、私は、それ相当の責任を持つとか、または持たないとか、行動する能力を示すとか、または示さないとかという完全な行動の自由について話すのではなく、政治的現実に限定して話を進めたいと思う。

琉球政府に対し、「いつ如何なる状況の下に、もっと多くの機能を委任できるかを決定するために、琉球列島における政治的諸機能を継続的に検討していく」のが米国の政策である。このような検討は、現在も継続して行われているのである。

諸機能の移管に当たって私としては、「自治」を要求する声よりも、むしろその実績によって裏付けられた「責任」と「能力」の度合いに考慮を払わざるを得ないのである。

大統領行政命令には、国防長官はその権限を行使するに当たって「効果的でかつ責任ある琉球人による政府の促進を助長しなければならない」と規定しているのである。これを簡単に言えば、琉球政府がさらに「責任」ある、かつ「効果的」なものになるにつれて諸機能が同政府に委任されるということである。

如何なる場合に責任ある政府といえるであろうか。私の答えは

1.単に実質のない装飾的な政府の特権ではなく、委任された義務と職分を受領する場合

2.政府が全住民の福祉向上を図るために真に努力する場合

3.政府が真に政府自体およびその各職員を住民の公僕として考える場合

4.適正な政治を行い、経済および社会の発展を助長し、一般生活水準を向上させるため政府に合法的に帰属するあらゆる必要な施策を進んで講ずる場合

 如何なる場合に効果的な政府といえるだろうか。私の答えは、納税者の最小限の負担で政治の安定並びに住民の福祉で最大の効果を上げながら合法的な機能を効率的に行使する場合において、効果的な政府といえると思うのである。

琉球政府はその行為および決済に対する責任を喜んで受け、政府の機能を十分行使する能力があることを実証することによって、一層大幅な責任を得ることができるし、また、現に得つつあるのである。

機能の移譲は要求されているのが責任ではなく、権力だけであるということが明白に実証される場合はあり得ないことである。また、機能を移譲することによって特殊な利益団体が納税者の負担で利益を享受し、あるいは一般住民を無視して社会のある特権層が利益を享受ことになるということが記録によって明らかに示される場合も権限の委譲はあり得ないのである。


 琉球政府の立法府や行政府のこれまでとった措置について客観的に検討すれば、何人たりともこの政府がある場合においては責任を果たし、効率的であったが、また一方では無責任で効果的でなかったと結論付けざるを得ないのである。効果的でかつ責任ある措置によって特色づけられている分野においては、ほとんど自動的により大きな責任を得たのであり、また今後とも継続して責任をえられるであろう。

琉球政府は提供された権力を躊躇なく取り入れたが、これまで幾度となく同政府に委任された責任を受諾しなかったのである。その1、2の例をあげて話してみたいと思う。


1.琉球政府は失業保険制度が制定されたとき、その資金の管理者にされたのである。しかし、同資金は琉球政府のものではないのである。その資金は被雇用者や雇用者が納入した者であり、それから利益を受ける労働者に所属するものである。琉球政府は単に、その資金を労働者のために保管しているのに過ぎないのである。しかし、同資金を労働者の利益以外の目的のために流用しようとしたことが、これまでに幾度となくあったのである。同資金の保全にとっての脅威は、やっと最低必要な保護策が立法されるまで続いたのである。

2.琉球政府は、労働争議の一部である小さな暴力になるかもしれない行為と、争議の一部ではなく、実際に刑事上の行為である暴力行為とを区別することをこれまで一貫して拒否してきたのである。政府は労働争議中のすべての行為を、争議の一部とみなす傾向があったのである。庫の主張は、法律的見地から支持することはできないのである。これは、その平和と安隠を保つため社会に対して責任を持つ当局によって、全社会を相手として犯された欺瞞行為である。そして、これは琉球政府の方で責任を取ることを拒否することになるのである。

3.西原地区における二つの競合する製糖工場の問題は、責任回避の一例である。道をへだてて二つの製糖工場を設立し、同じ農民からサトウキビの奪い合いをさせることに経済的な妥当性がないことは知られていたのである。それにもかかわらず、琉球政府は二つの製糖工場を許可したのである。この措置には、その地域の住民への、ひいては琉球経済全般に対する影響についての考慮がなされていなかったのである。今日、農民も工場側もこの問題および少なくともこれと性質を同じくするもう一つの問題に対して、無謀にも無責任であった琉球政府も、砂糖産業を合理化することを狂気のように試みており、その反面それと同時に他地域からの競争に対処するため、より大型の、したがってさらに小数の製糖工場にする決裁を避けようとしているのである。

4.多年にわたって琉球の銀行は、ほとんど完全な許可証を受けて運営を許されてきたのである。私は自由という言葉よりむしろ許可証という言葉を用いる。というのはここでもまた、私たちは、銀行と政府による信用機関の甚だしい濫用を見出すからである。この分野における不正行為の一例として、理事たちは彼らが経営している営利会社に無担保貸し付けを行うことが認められていたのである。これらの資金は、銀行に彼らの貯金を任せた大小多数の預金者の預金から出たのである。このような行為は他国ではほとんどどこでも重罪となるのである。琉球政府は、これに対して措置を取ることを拒否し、その代り弱々しくもその責任を回避して、米国民政府にそれを転嫁しようとしたのである。

私は琉球政府の行政部門がその責任を果たし得なかったか、または効果的でなかった状態の例は他にもあるが、その中からほんの二、三の例を述べたにすぎないのである。同時に行政府は、その住民によって寄せられた信頼に応えるために、必要なすべての責任と行動の自由を持っていたのである。

琉球立法院も同様にその責任に応じた活動をすることができなかった場合がある。歴史をさかのぼるまでもなく1962年の議会に適切な例がある。

1.医療法案は病院、診療所および助産院が一般大衆保護のための最低基準に適っているか、いないかを確かめるために必要な年次監査を規定しなかったのである。法律違反に対する刑が専門的水準を維持する上に全く不十分であり、また、不法営業を除去したり、厳重に防止することもできなかったのであろう。

2.立法院は、その労働者災害保障保険法案の草案の中で労働者が被った業務上障害のため、雇用者が当然も持つべき負担額を納税者に負わせるように法案を書き表して、納税者の税金の不当な使用を許可しようとしたのである。

 立法院は、行政府と同様、琉球住民の利益のため必要とされているすべての法律を制定する権限を委任されているのである。立法院がそれをなし得なかったことに対して、高等弁務官が立法院に十分な権限を委任しなかったり、その行動に対する責任を与えなかったとして、高等弁務官のせいにして逃れることはできないのである。

 司法部門は、その義務と責任の性質上、責任を引き受け、それを遂行するのに最も優れた記録を持っているのである。したがって司法府はおそらくもっとも広範囲の責任を持っているのである。しかし、ここにも法律上迅速な裁判をなす場合、それをよほど遅らせたり、法曹人の職業的水準が望まれているよりも低いのを黙認している例があるのである。

◎偽りの「住民の願望」を見極めよ

これらのことからどういう結論が得られるのであろうか。私はなぜ誤りと失敗について、長々とこのような話をしているのであろうか。私が意図したことは、架空の理論の核心を深く探求し、それが何であるかを見極めるように私たちを導くことであった。

 今日、琉球には選択と行動の自由がある。諸君の政府は琉球の社会の要求を満たすための、すべての必要な権限を委任されているのである。

 この社会の政治的、経済的あるいは社会的分野は、いずれもいちいち手を引いて教えられている段階にあるのではないのである。また、政治的に隷属の身分にあるのでもなければ、自身で誤りを犯すことを許されてもいないのである。

 「自治」やすべての拘束を受けない完全な自由や責任、または実証された能力を伴わない支配権力を要求する叫びは、偽りの「住民の願望」である。それは意識的になされようと、また気まぐれになされようと、無能力や無責任、並びにそれに対して権限を与えた社会に対する不忠実を隠すかくれ蓑である。

そうでなければ、それは社会の他の人々を利用して私腹を肥やしている特定の利益および特殊の利権のためのものである。それが何であるかを見分けてもらいたい。そして、それを拒絶してもらいたい。それは、事実、下働き政治屋といかさま経済人に残された最後の架空の理論である。(終わり)

(出所:南方同胞援護会『沖縄問題基本資料集』昭和43年11月)
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キャラウェイが保守にも革新にも嫌われた理由

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キャラウェイが保守にも革新にも嫌われた理由

キャラウェイ弁務官の「沖縄の自治は神話」の演説は県民の「自治権拡大」の熱望に冷水を浴びせ、同日夕刊で立法院野党各党は猛反発したと沖縄紙は報道している。革新政治家たちは
「沖縄が植民地であることを弁務官自身が裏づけた民主主義の否定」(安里積千代社大党委員長)、
「弁務官は法なりの独裁支配、植民地支配」(岸本利実社会党政審会長)、「沖縄県民の解放の盛り上がりに弁務官が直接統治による弾圧に出ることを示す」(古堅実吉人民党書記長)
と、キャラウェイ弁務官は民主主義を否定し独裁支配、植民地支配をしていると非難した。
 それでは彼らの主張する民主主義、自治権とはどんなものであったか。それが分かる二つの事件がある。
ひとつはサンマ裁判であり、もうひとつは教公二法阻止闘争である。
 サンマ裁判はキヤラウェイ弁務官の次のワトソン弁務官に起こり、教公二法阻止闘争は1967年に起こった。キャラウェイ弁務官以後に起こったことであるが、自治権拡大運動が民主主義運動とはかけ離れたものであることがはっきりと分かる事件である。

サンマ裁判
 日本から切り離された沖縄を米民政府は独立国に近い存在であると考えていた。日本も外国だとしていたから「日本から輸入される鮮魚は『外国製品』だ」ということで布令を出して、20%もの輸入関税(物品税)をかけた。
 ところがサンマは物品税の品目に書かれていなかった。それに気づいた琉球政府は物品税の品目に加えて税を徴収したが、過去の分も徴収しようとした。それに輸入業者は反発した。物品税品目に書かれていなかった過去の分は徴収する権利はないと輸入業者は訴訟を起こした。一審判決で琉球の裁判官は輸入業者の主張を認めて輸入業者が勝訴した。
しかし、過去の物品税は払わなくてもいいという琉球裁判所の判決を否定したワトソン高等弁務官は米国民政府裁判所へ裁判を移送したのである。
サンマ裁判問題を革新側から見た文章を紹介する。
 
アメリカ高等弁務官のなした裁判移送命令の撤回に関する件(第五決議)沖縄のアメリカ高等弁務官が、琉球上訴裁判所に繋属中に友利隆彪から提訴された当選無効事件並びにサンマ事件と呼ばれる物品税加納金還付請求事件を、アメリカ民政府裁判所へ移送せよ、と命じたのは、沖縄県民の司法自治を否定し、且つ、基本的人権を奪うものである。
日本の代表的な大衆魚といえば、やっぱりサンマ。漢字で「秋刀魚」と書くように、秋ともなれば安くてうまいサンマを食べたくなるものですが、そうは問屋が卸さない・・・いや問屋も怒りを爆発させたのが飛び地の現実、異民族支配というもの。
脂がのった美味しいサンマが獲れるのは北日本の沿岸だ。そこで沖縄では本土から運ばれたサンマを売っているのだが、沖縄がアメリカに統治されていた頃、つまりアメリカの飛び地みたいだった時代、アメリカは「日本から輸入される鮮魚は『外国製品』だ」ということで布令を出し、20%もの輸入関税(物品税)をかけてしまった。

アメリカの都合で沖縄を占領し続けておいて、サンマのような庶民の魚にまで輸入関税をかけるとはヒドイ話だが、そもそもアメリカ側が出した物品税の布令の中には「サンマ」という項目がなかったから不当徴収だと、サンマ輸入業者が物品税を徴税していた琉球政府を相手取って起こしたのがサンマ裁判だった。

琉球政府の裁判所(中央巡回裁判所)は輸入業者の訴えを認めて、サンマに課税していた約4万6000ドルの物品税を払い戻すよう命じる判決を下し、琉球政府もこれを了承。「これからはサンマが安く食べられる!」と沖縄住民が喜んだのもつかの間、米国民政府は突然布令を改正して物品税の項目にサンマを加え、なおかつ布令改正前に遡及してそれまでに納付された物品税も適法と見なすことにしてしまった。アメリカ統治時代の沖縄で、植民地で言えば総督に当たる最高権力者が高等弁務官で、総督府に相当する政府が米国民政府。さらにその下で沖縄住民による自治政府のような存在だったのが琉球政府で、そのトップは主席であった。

沖縄人の裁判官(琉球政府の裁判所)が下した判決は敗訴したわけだが、怒ったワトソン高等弁務官は「琉球の裁判所には任せておけない」と、66年6月に米国民政府裁判所への移送、つまりアメリカ側の裁判所でアメリカ人の裁判官が裁くように命令した。
「飛地の秋刀魚」より
 沖縄の自治権の拡大を望む者たちには、ワトソン弁務官が米国民政府裁判所へ移送したことは、琉球側の裁判所の判決が気に食わないと、高等弁務官が強権を発動してアメリカ側の裁判所に案件を移す。それは沖縄の司法権や自治権の侵害、さらには沖縄住民の基本的人権に対する侵害だと考えたのである。

 革新派にとってサンマ裁判の判決が民主主義的に正しい判決であったかどうかは問題ではなかった。琉球裁判所の判決を弁務官の判断で米国民政府裁判所へ移送したことが問題であった。「アメリカ側の裁判所が裁いたら、アメリカに都合の良い判決が下されるに違いない」というのが革新派の考えであった。
 沖縄住民による抗議の嵐に対して、ワトソン高等弁務官は「布令無効判決を容認すれば米国の琉球における義務を放棄することになる」「沖縄の民主主義は20年だが、私は50年以上民主主義を経験している」と、沖縄の民主主義は未熟であると発言したのである。
革新派がワトソン弁務官が米国民政府裁判所へ移送したことを沖縄の司法権や自治権の侵害、さらには沖縄住民の基本的人権に対する侵害だと主張したことに対してワトソン弁務官は琉球裁判所の判決が民主主義か否かを問題にしたのである。

サンマ事件の根本的な問題は物品税である。「アメリカの都合で沖縄を占領し続けておいて、サンマのような庶民の魚にまで輸入関税をかけるとはヒドイ話だ」と輸入関税をかけるのはアメリカの都合でありサンマを安く食べられないのはひどいことだと非難している。しかし、物品税は米民政府ではなく琉球政府の収入になる。アメリカが金銭的に得することではない。
なぜ米民政府は物品税をかけたか。理由は琉球の産業を保護するためである。外国からの安い輸入品が琉球列島に出回ると島内で生産した物が売れなくなる。島内企業は破産してしまう。だから、島内産業を保護するためには物品税が必要だったのである。独立した国家が自国の産業を保護するために輸入品に関税をかけるのは常識である。
ところが琉球政府時代の沖縄では関税をかけるのは常識ではなかった。
革新派が求めている自治権拡大は民主主義社会を目指したものではなかった。琉球のことは琉球が決めるという独立論だったのである。独立と民主主義は違う。独立国には軍事独裁国家があるし、中国のような共産党独裁国家もある。
自治権拡大=民主主義と勘違いしていたのが革新派の政治家、運動家、識者であった。

サンマ裁判は1966年12月に米国民裁判所で判決が下された。
アメリカ人の裁判官は、サンマに対する課税は「物品税の課税項目は一例を挙げたものに過ぎず、『サンマ』という項目がなくても課税は有効」だと払い戻し請求を退けた。
「そもそもアメリカ側が出した物品税の布令の中には『サンマ』という項目がなかった」からサンマに物品税をかけるなという考えは物品税を理解していない証拠である。
物品税は琉球列島の産業を保護するのが目的である。本土から安い商品が流入すれば琉球の産業のほとんどは廃業に追い込まれるだろうし、新しい産業も生まれない。事実復帰した後は物品税がなくなり本土の安い商品が出回り、沖縄の製造業の多くはつぶれた。
 味噌醤油会社赤マルソウの創立に尽力したのが米民政府職員のサムエル・C・オグレスビー氏であった。赤マルソウ創立のために彼はボイラー、発電機、ポンプなどを米軍から払い下げるのに尽力した。
1951年に本土と自由貿易が始まった時、本土からの大量輸入で味噌醤油産業が大ピンチになった。そのピンチを救うために米民政府は1953年に「醤油の輸入全面禁止措置」の布令を出した。琉球の産業育成に心血を注いだことが理解できよう。自由貿易をモットーにしている米民政府だから輸入禁止は一時的であった。しかし、物品税を高くすることで沖縄の味噌醤油産業を保護した。
物品税は琉球の産業を保護育成するために必要だった。物品税は輸入品すべてに平等に適用するのが基本である。もし、物品税をかける品目とかけない品目を琉球政府の判断やるようになれば不徳な輸入業者が業者が政治家に賄賂を贈って物品税を免除もする工作をしただろう。
民主主義国家であるなら物品税をすべての有乳品にかけるのを基本とするのは当然のことである。そのことさえ政治家も裁判官も知らなかったのである。
当時の沖縄は民主主義も自治も知らなかったのである。

沖縄側が求めている自治権拡大は民主主義社会を目指したものではなかったことが分かるのが教公二法阻止闘争である。

教公二法阻止闘争
教公二法とは「地方教育区公務員法」と「教育公務員特例法」のことで、これらの法案は地方公務員の法的立場を明らかにし、身分を保証するものであった。ところが、教職員に対する勤務評定、政治活動の制限、争議行為の禁止などがふくまれていたため、教職員会をはじめ多くの民主団体はこれを復帰運動つぶしだとして法案に反対した。

教員による教公二法阻止闘争の原因は、教員の政治活動の制限と争議行為の禁止が原因であった。
私が高校生の頃は、革新系の立候補者は学校内に入り、職員室の前で教師たちと握手をしていた。日頃は生徒に対して威張っている教師も革新立候補には何度もお辞儀をしていたことが不思議な光景に感じられた。
復帰前の教員は政治活動も争議行為も認められていたのである。

教公二法は本土ではすでに教育公務員特例法として法令化されていた。沖縄の場合は公立学校教職員の身分は琉球政府公務員または教育区公務員であった。琉球政府公務員については、1953年に制定された琉球政府公務員法によって身分保障がなされたいた。
それを当時の保守政党である民主党は日本流の法律に改定しようとしたのである。それが「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」の二法案であった。
しかし、教公二法には、本土の教育公務員特例法のように教職員の政治活動の制限や勤務評定の導入が盛られていたため、沖縄教職員会が反対し、阻止闘争を行ったのである。本土復帰運動の中心的存在であり、本土の法律の元に帰る運動していた沖縄教職員会であったのに政治活動制限が本土並みになるのは反対したのである。


立法院で過半数を握る民主党(自民党系)が教公二法を可決しようとした時、教員は10割年休をとって立法院に結集した。
1967年2月24日、民主党が教公二法を強行採決しようとした時、教職員は警護している警察管をごぼう抜きにして立法院に突入して議会を蹴散らし、実力で教公二法の議決を阻止したのである。
革新側から見れば大衆運動の勝利、民主主義の勝利ということになる。
その時の様子を県公文書に記録されている教公二法闘争に関する米側の対応に関する資料がある。資料の一部をタイムスか新報に掲載した。記事を紹介する。

1967年2月24日、前述のメンバーが民政官室で次のような話し合いを持った。

警察本部長=今朝3時に本部や名護あたりからも動員した警察官は5時30分に到着しました。彼らは朝食も昼食もとらず、休暇はおろか
用を足す時間も与えられていません。立法院ビルの正面と裏に最大で1万3千人のデモ隊がいました。デモ隊は次から次へと新しいグループを動員して波状攻撃で警官隊に襲いか.かりました。警官隊は今朝5時30分から食事もとらずに立法院ビルを警護しています。そしてついに11時10分には、空腹と疲れからデモ隊に圧倒されてしまいました。
民政官=警官隊が武力を行使しないのはどうしてですか。
警察局長=もし警官隊が武力に訴えれば、デモ隊も同じことをします。多勢に無勢で、われわれにはむしろ不利になるでしょう。
民政官=そうなれば、逮捕のために持ち場を離れなくてはならなくなり、逆に警備を弱体化させます。

 警官の警護は突破され、教公二法は成立されなかつたのである。


1967年3月2日付国務省情報調査局発国務長官宛メモ
「沖縄における政治的対立

 高等弁務官は対立は沖縄人同士のものであるという理由で、民主党が支配している琉球政府からの米軍の直接介入の要請を断っていた。そして米側の治安部隊に対しては、法と秩序が完全に崩壊し、米軍基地の機能を脅かさない限り介入しないように命令していた。

1967年3月3日
アンガー高等弁務官と民主党代表
団との会談録

星克議員=私達は法案を通すために警察の力を借りなければなりませんでした。しかし、頼りにしていた警察は、先週、惨めなほどに崩れてしまいました。これは深刻な問題です。
松岡政保主席=現状を分析すると民主党政権はぐらついています。立法院の状況も同じです。例をあげると、琉球政府の教育局は教育行政に関してもはや指導力はありません。教育に関して教職員会です。
高等弁務官=どんなことがあってもこれら二法案を可決するというあなた方が立てた目標に賛同します。民主党のためでなく、沖縄における民主主義の存続がかかっています。これは根本的な問題です。民主主義や多数決のルールに従うのか、それとも暴徒のルールに従うかです。教師の政治活動や子供への影響の問題も需要なことですが、より深刻なのは、果たしてこの島で民主主義が生き残れるかということです。
  「USCAR文書」
 しかし、アンガー高等弁務官の願いは虚しく、二法案は与野党の協議の末に11月30日に正式に廃案になる。
 教員の集団が警察を蹴散らし立法院議会を破壊したのである。琉球の議会制民主主義が「暴徒のルール」に敗北したのである。
 その後から現在まで教職員・公務員の沖縄政治への影響はずっと続くのである。


サンマ裁判から分かることは、琉球の政治家や裁判官に自治能力がないことである。自治能力があれば物品税は積極的に導入していただろう。しかし、沖縄の政治家は物品税は米民政府が強要したから仕方なく従っているというものであった。
 革新政治家は米民政府による統治に反感を持っていた。だから、米民政府の布令の内容には関係なく、布令を出すことを植民地支配だと決めつけていたのである。

 教公二法阻止闘争で分かることは革新政党や教員・公務員が教員の政治活動を認めていたことである。
 崩壊したソ連は一部の共産党と官僚公務員が支配していた社会だった。中国は共産党一党支配国家であるが、習近平主席はじめ中国の政治家は全員公務員あがりである。公務員あがりの政治家と公務員が支配しているのが中国である。
 教公二法阻止闘争でわかることは、中国のような公務員と政治家の一部が政治の実権をにぎる旧ソ連や中国と同じ社会主義国家を革新派が目指していることである。
 革新が米政民政府統治を植民地支配だと決めつけるのは民主主義に基づくものではなく反米主義の社会主義に基づくものであった。

 キャラウェイ弁務官が革新派に嫌われたのは当然であったが、自治能力のない保守の政治家にも嫌われた。その象徴的な出来事が金融業界の大摘発である。
 経済が発展するには企業投資が必要であり、投資をするためには銀行はなくてはならない存在である。だから、米民政府は琉球銀行を創立し、他の金融業の発展にもバックアップした。しかし、戦前の沖縄は金融業は発展しなかった。企業は尚氏のような資産家が設立した。金融業の体験がない沖縄では銀行を設立しても運営法を知らないために健全な運営をしなかった。わゆる情実運営といわれる親近者を優先に融資をしたのである。そして賄賂が横行した。戦後の沖縄の金融界は最初から腐敗体質であった。

 金融界の健全化を狙ったキャラウェイ弁務官は強権を発動して金融業界の刷新を図った。
 まず普通銀行や相互銀行の検査を行い不正を摘発し、各銀行首脳を退陣に追い込んだ。
農林漁業中央金庫や琉球農業協同組合連合会などの協同組織金融機関や保険会社にも検査が行われ、容赦ない摘発を行った。
琉球銀行の株主総会には、キャラウェイ本人が筆頭株主(米国民政府が51%の株を所有)として出席し、その席上で経営陣の責任を追及し、経営陣の総辞職を行わせたのである。
 キャラウェイ弁務官の金融界の徹底した正常化は、しかし、革新系は弁務官の独裁と非難し、古い体質の保守系は利権を奪われたために反発したのである。

 キャラウェイ弁務官が目指したのは金融界の腐敗を徹底して排除し、金融界を健全化することであった。それが本当の経済発展につながるし、沖縄の経済的自立の原動力になるのである。残念ながら、それを沖縄の政治家は理解していなかった。
 沖縄への援助金額を決定するのは米国の上院や下院である。沖縄専門の小委員会は米民政府の要求する援助金額を厳しくチェックした上で決める。沖縄への援助額を増やすには小委員会を納得させなければならないのだ。キャラウェイ弁務官は沖縄の援助を増やすために金融界の浄化をやったと言われている。
 事実、キャラウェイ弁務官の時に米国の援助は増えた。そして、沖縄の経済も目覚ましく発展した。しかし、当時の沖縄では保守の中でもキャラウェイ弁務官の金融の健全化や経済発展を歓迎する者は少数派であった。
 キャラウェイ弁務官の強硬な改革に親米派であった保守派も反発する者が増えていった。親米路線をとっていた与党・沖縄自由民主党では党内抗争が激化していった。西銘順治那覇市長ら党内反主流派は脱党し、民政クラブ→沖縄自由党を結成して沖縄自民党は分裂するに至った。
親米派は政治的な抗争が激化し、親米派からは日本復帰派に路線変更するものも多く現れるなど、親米派は徐々に弱体化していった。一方、日本復帰派は逆に影響力を増大させ、沖縄の日本復帰運動も日増しに強まっていった。

キャラウェイ弁務官が革新にも保守にも嫌われた原因は弁務官の地位を利用した沖縄の自治=独立を目指した強引なアメリカ流民主化にあった。

  つづく
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辺野古移設賛成は10%増えていた

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辺野古移設賛成は10%増えていた

社説[「辺野古」世論調査] 政権の姿勢に反発鮮明

沖縄タイムス 4月21日(火)5時30分配信

 名護市辺野古の新基地建設に突き進む安倍政権への県民の反発の大きさが浮き彫りになった。
 沖縄タイムスと琉球放送は18、19の両日、戦後70年に関する世論調査を実施し、基地問題に対する県民の意識を探った。
 米軍普天間飛行場返還問題に対する安倍政権の姿勢については72%が「評価しない」と答え、「評価する」の22%を大きく上回った。
 これまでの安倍政権の沖縄に対する対応からすれば、多くの県民が不信感を抱くのは当然だ。
社説[「辺野古」世論調査] 政権の姿勢に反発鮮明


辺野古移設反対を掲げて当選した翁長雄志知事に、首相や菅義偉官房長官が、約4カ月も会談に応じないなど露骨な「冷遇」が続いた。
 国は県の中止要請にもかかわらず、海底ボーリング調査を続行した。翁長知事が、沖縄防衛局に移設作業の停止を指示したのに対し、農相が執行停止措置を取るなど強硬姿勢が際立った。
 一方、翁長知事の姿勢については約72%が「評価する」と答えた。多くの県民の支持を受けていることが数字に表れた。
 安倍首相との会談で翁長知事は「絶対に辺野古に新基地は造らせない」と公約実現に不退転の決意を示した。
 住民の土地が米軍に強制接収され基地が造られた歴史的経緯などを述べ、沖縄側に普天間の代替案を求めることに対し「こんなに理不尽なことはない」と訴えた。首相を前に、ウチナーンチュの思いを代弁したことなどでさらに求心力を強めている。

 「 それしても伊佐浜土地闘争を扱う時はいつも「島ぐるみ闘争」が伊佐浜の銃とブルドーザーで強制接収されたのをきっかけに土地闘争が発展したことを書いて、「島ぐるみ闘争」が衰退したことは書かない。「島ぐるみ闘争」はあることをきっかけに衰退したのである。そのきっかけをつくったのが辺野古であった。
 辺野古は「島ぐるみ闘争」の最中に条件付きで米軍の土地接収を受け入れた。「土地取上げは 死刑の宣告」だと伊佐浜では徹底抗戦をやったのに辺野古では逆に土地接収を受け入れたのである。どんなに反対しても伊佐浜のように強制接収されるのなら、条件をつけて受け入れをするというのが辺野古民の考えだった。
 辺野古民の出した条件は、
Ⅰ 農耕地はできるだけ使用しない。
2 演習による山林利用の制限。
3 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
4 米軍の余剰電力および水道の利用
5 損害の適正保障
6 扶養地の黙認耕作を許可する。
の6項目であった。要求がすべて受け入れら他のではないが、米軍と辺野古区は友好関係になり、キャンプシュワブが建設された。
 すると、辺野古の経済は空前の活況になる。五年間で辺野古の人口は4倍になり、多くの青年男女が、建設工事、PX(売店)、クラブ、メスホール(食堂)の職員として従事するようになり、彼らの給料は民間会社や地方公務員よりも高く、いわゆる軍作業の人気が高まっていった。
 水道の整備は米民政府の援助で行われた。辺野古の土地造成工事も米民政府が陣頭指揮をとって協力した。辺野古の驚異的な発展の噂はまたたく間に県内に広がり、経済発展を望んで米軍基地を受け入れる村がどんどん増えていった。そのために土地闘争は衰退していった。
 基地経済が沖縄を貧困から救うということが分かった時から、沖縄は米軍を受け入れるようになっていったのである」
 戦前の貧困を体験した沖縄の人たちにとって戦後の基地経済による繁栄は天国であった。
 沖縄二紙は基地経済を軍用地料や軍雇用員だけのように報道するが、経済発展欠かせない琉球銀行の設立、社会の発展に必要な琉球大学の設立は米民政府の尽力である。琉球政府、立法院、裁判所の三権分立を指導したのも米民政府である。そして、製糖工場、パイン工場、拓南製鉄など多くの企業の設立に尽力し、自由主義貿易を掲げ世界へ投資をよびかけたのも米民政府である。
 米軍の払下げ品で小さな電力会社がいくつもでき家庭に電気が供給された。家もつくれた。食品もあふれた。米軍の払下げ品は沖縄の生活を潤した。
 私の母は50歳を過ぎてから米兵士の家庭のメイドをしたが、英語を知らない年配の母でも米兵の家庭は歓迎し、フレンドリーに接してくれた。
 米軍は沖縄の人たちに多くの仕事を与え、復帰前の失業率1%未満であった。
 母のこと以外は沖縄二紙が過去に報道したことである。沖縄二紙は自分で報道をしていながら社説ではこの事実を隠ぺいするのである。
ただひたすら米軍を非難するのが沖縄二紙であり革新の識者と政治家である。

 沖縄二紙がひんぽん乗せる沖縄戦体験者の談話でも、戦後の沖縄が平和であったこと、豊かな生活が送れたことを話し、この平和がいつまでも続くことを願っているという人は多い。
    
 普天間飛行場の辺野古移設については「反対」が約65%で、「賛成」の約28%を大きく上回った。辺野古移設への県民の反対が、揺るぎないものであることをあらためて示している。
社説[「辺野古」世論調査] 政権の姿勢に反発鮮明
 
去年の県知事選数か月前の「普天間飛行場の移設先はどこが良いとおもうか」の世論調査である。


 国外・県外の合計は77・2%である。今回の世論調査では辺野古移設反対が65%で賛成が28%である。二つの世論調査を比べると辺野古移設反対は12%減っていて、辺野古移設賛成は10%増えている。
 移設反対の翁長氏が仲井真氏に10万票の大差をつけて知事になり、辺野古移設はあらゆる手段で阻止すると宣言し、安倍首相に対しては「絶対に辺野古に新基地は造らせない」と断言した。県民の翁長知事の評価はあがったと沖縄のマスコミは報道した。翁長知事は押せ押せモードあり、辺野古基地建設のムードは最大に盛り上がっている。であれば知事選前より辺野古移設反対派が増えるのが当然である。ところが実際は辺野古移設反対はなんと12%も減っているのである。
 タイムスは、実際は辺野古移設反対は12%も減っているという事実を隠ぺいしているのである。
 

さらに、普天間返還問題の望ましい解決方法を聞くと「辺野古への新基地建設」と答えた人は、約19%にとどまった。辺野古移設に賛成と答えた人でも、それが消極的な選択であることが、調査から読み取れる。
  社説[「辺野古」世論調査] 政権の姿勢に反発鮮明
辺野古移設賛成が10%も増えたことにタイムス記者がうろたえた様子が目に浮かぶ。翁長知事が当選した後、辺野古基地建設反対運動は盛り上がった。タイムスも反対運動の盛り上げ報道に徹した。だから、辺野古移設賛成は減っているはずだった。ところが世論調査をしてみるとなんと予想に反して10%も増えていたのである。
うろたえた記者はなんとしても辺野古移設賛成を減らしたいために変な質問を加えたのである。しかし、それでも19%あり、知事選前の辺野古移設賛成より1・2%増えていた。
前の世論調査では、県外移設、国外説、辺野古移設と普天間飛行場の移設先の世論調査をしているが、今回は辺野古移設に賛成か反対かの世論調査をしている。国外移設は閉鎖・撤去の文言するときもあったが、今まではずっと移設先の選択の世論調査であったが、今回は辺野古移設に賛成か反対の二者択一の世論調査である。
 なぜこのような世論調査に変わったのか。理由は翁長市長が県外移設を引っ込めたことにあるだろう。翁長知事は菅官房長官との会談で、
「自ら奪っておいてですね、県民に大変な苦しみを今日まで与えて、今や世界一危険だから、普天間危険だから大変だという話になって、その危険性の除去のために沖縄が負担しろ、と。お前たち代替案は持っているのか、日本の安全保障はどう考えているんだ、と。沖縄県のことも考えているのか、というこういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落ではないかと思っております」
と述べた。会談前の翁長知事は県外移設を主張し続けてきた。だから、菅官房長との会談では県外移設を訴えると予想していたが、翁長知事は県外移設を訴えるのではなくて、沖縄の辺野古移設の代替案を出せというのが日本の国の堕落と言ったのである。裏を返せば翁長知事には代替案はないということであり、今まで主張し続けてきた県外移設は辺野古移設の代替案にはなれないことを翁長知事自身が認めたのである。
 翁長知事は辺野古移設の代替案を模索することを破棄した。代替案は政府が考えるべきだと菅官房長官にいったのである。代替案を考えないのは日本の政治の堕落であるとこれ以上にない厳しい発言をしたのである。
 翁長知事を応援しているタイムスは翁長知事が自ら破棄した県外移設を世論調査することができなくなったのである。

 政府は辺野古移設が唯一の解決策だと言っている。だから、政府に辺野古移設の代替案はあるはずもないし、これから探す考えもない。その政府に翁長知事は代替案を出せと言った。これでは代替案はないのと同じである。
 翁長知事は辺野古基地建設はあらゆる手段を使って阻止すると宣言している。もし、辺野古移設を阻止することができた場合は普天間飛行場は固定化する。翁長知事は普天間飛行場の固定化を目指していると言っても過言ではない。
 
 
 日米両政府が、共同声明に辺野古移設推進を再確認する文言を盛り込めば、それは沖縄の世論に背を向けることにほかならない。
  社説[「辺野古」世論調査] 政権の姿勢に反発鮮明
 今度のタイムスの世論調査で、辺野古移設反対は減り、賛成が増えたことが判明した。沖縄二紙が全力を上げて辺野古移設反対キャンペーンをしたにも拘わらずだ。
 埋め立て工事が進んでいくと、大浦湾や辺野古の海の自然が破壊されるというキャンペーンが嘘であることがばれていき、辺野古移設反対は減っていくだろう。
 辺野古移設反対運動は弱まることはあっても高まることはない。

純真に自然を愛する市民を騙すために沖縄二紙が仕組んだプロパガンダ二人

キャサリン・ミュージック
 キャサリン・ミュージックさんは名護市辺野古沖の大浦湾を訪れ、ハマサンゴやアオサンゴの群集するポイントに潜り、視察した。「まだ大丈夫。美しい」と笑みを浮かべ「世界中で(美しい海が)失われている。辺野古の海は絶対に守る。私は諦めない」と話した。

キャサリン・ミュージック=1948年生まれ。海洋生物学者。世界中の海をフィールドにし、1980年代に石垣島新空港建設計画があった白保でサンゴの保護活動に関わり、その後­沖縄に述べ11年生活し、現在はハワイ在住。

 キャサリンさんはこれまでプエルトリコの海やグレートバリアリーフ(オーストラリア)など世界各地の海に潜り、サンゴ礁の調査をしてきた。米軍普天間飛行場の移設に伴う辺野古海域の埋め立てについては「恐ろしい行為。ばかなこと」と批判している。
「辺野古の海には千種を超える魚がいる。サンゴも400種以上が生きている。新種もまだいるはずだ。こんなにも美しく、貴重な海は世界中どこにも残っていない」
と指摘し、
「軍事基地ではなく、海洋公園にするべきだ。世界中の人に辺野古の海の美しさを知ってもらいたい。そうすればきっと、ばかな行為(新基地建設)は止められる」と語り、「カリブ海など世界中でサンゴ礁が失われている。温暖化や赤土汚染、酸性化など理由はさまざまだが、(基地建設で)わざと殺すのは信じられない」と大浦湾の世界的な価値を強調した。
 「大浦湾は山と川があり、マングローブの生物など、全てを備えたエコシステムだ。軍事基地より海洋公園にした方が雇用や教育の面でも効果がある」と指摘し、「破壊か調和か、沖縄の人には選ぶことができる。スコットランドと同じで、沖縄には民主主義が生きている」と語った。

キャサリンさんは「(基地建設で)わざと殺すのは信じられない」と米軍基地建設が自然破壊すると発言しているが、本当に米軍基地は自然を破壊するのだろうか。防衛局は環境アセスの書類を県に提出し、県が検討した結果目立ての許可をしたのである。辺野古飛行場建設で自然を破壊することはあり得ない。しかし、キャサリンさんは自然破壊をするという。キャサリンさんの学者としての見識を疑わなければならない。
 キャサリンさんは、「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん(山がはげれば海もはげる。海がはげれば沖縄もはげる)」としまくとぅばで語ったという。その通りである。山からの栄養を含んだ水が海に流れ出て、その養分が海の植物や動物を育てる。山の自然を保つということは海の自然を豊かにするということである。大浦湾の周囲は山である。山の自然が大浦湾の自然を豊かにしているのは事実である。
キャサリンさんの言う通りであるが、しかし、「山ぬはぎねー、海んはぎん」にはひとつ大事なことが抜けている。川である。山の水は川を伝って海に流れ込む。だから、山の自然が保たれたとしても川が汚染された場合は山からの水は汚れてしまい。汚れた水が海に流れ込んでしまう。川が汚れていると海も汚れてしまうのだ。
川を汚染する正体は川沿いにある工場や住宅や畑である。工場や住宅や畑から汚染水が流れ出て、川を汚し海を汚すのである。山は自然のままであっても川が汚染されていると海は汚染されてしまう。

大浦湾は沖縄本島の東側にあり、名護湾は西側にあるが、二つの湾は同じ山から水は流れている。それなのに大浦湾は自然が豊かでジュゴンが食する藻が生えている。しかし、名護湾は大浦湾ほどには自然が豊かでないからジュゴンの藻は育ってないしジュゴンもやってこない。昔は名護湾にもジュゴンが来たことはある。その頃は名護湾も汚染されていなかったのだろう。しかし、今はそうではなくなった。
名護湾も大浦湾も同じ山から水が流れている。しかし、名護湾と大浦湾の大きな違いがある。名護湾は北部最大の名護市街地になっていて、川は赤土や生活排水などで汚染されている。しかし、大浦湾の周囲は人口が少ない。だから大浦湾の自然は豊かである。キャサリンさんの「山ぬはぎねー、海んはぎん」は川の汚染を考慮していない中途半端な理屈である。名護湾や羽地内海にそそぐ川の汚染を防げば大浦湾と同じように名護湾や羽地内海にもジュゴンはやってくるだろう。
 キャサリンさんが海洋生物学者であるならば大浦湾と名護湾を比較するべきである。そして、大浦湾と名護湾の違いを指摘し、名護湾の自然も豊かにするように指導するべきである。キャサリンさんは大浦湾だけを観察するのではなく北部全体を見て、適切なアドバイスをしてほしいものだ。
             
 キャサリンさんは「大浦湾は山と川があり、マングローブの生物など、全てを備えたエコシステムだ。軍事基地より海洋公園にした方が雇用や教育の面でも効果がある」と指摘しているが、その指摘には疑問がある。
 大浦湾には二見川、大浦川、汀間川、美謝川がある。二見川は上流にダムがあり、雨が降らないときはほとんど流れていない。雨が降ると溜まった生活排水を海に流し込む。キャサリンさんが言う通り、大浦川には沖縄で一番大きいマングローブ林がある。マングローブが植わっている場所は上流から赤土が流れてきて堆積している場所である。
 大浦川の川沿いは住宅とウコン畑が続いている。ウコン畑の溝は川につながっている。雨が降らない時は山の水が大浦湾に流れ出るが雨が降ると生活排水や畑の赤土が大浦湾に流れ出る。二見川、大浦川、汀間川の河口は赤土の混ざった砂である。白い色ではなく茶色にくすんだ色の砂である。大浦川を汚染している川である。
 三つの川は住宅や畑沿いを流れて赤土や生活排水を大浦湾にながしているが美謝川は違う。美謝川はキャンプシュワブ内を流れていて、住宅や畑からの排水が流入することはない。山の水がそのまま大浦湾に流れ込んでいるのが美謝川である。実はジュゴンの食する藻が繁茂している場所は美謝川河口である。大きな藻が生えているのも美謝川の近くにある。民間地を流れている三つの川の河口にジュゴンの藻が繁茂しているという記事はまだ一度も載ったことがない。もし、軍事基地を撤去し美謝川沿いが住宅や畑になったらが美謝川も他の三つの川と同じように汚染されてジユゴンの藻は生えないかもしれない。実は大浦湾は透明度が低い。理由は汚染されているからだ。キャンプシュワブが民間地になれば大浦湾の汚染がもっと進み、キャサリンさんのいうエコシステムは破壊される可能性が高い。
 大浦湾は東側にあり高い山に囲まれている。早く日が暮れる。夕日も見れない。沖縄の観光ホテルやリゾート地が西海岸に多いのは日が暮れるのは遅いし美しい夕日が見れるからである。大浦湾を海洋公園にしても訪れる人は少ないだろう。莫大な維持費に無駄な税金を使うだけである。

 ところで、「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん(山がはげれば海もはげる。海がはげれば沖縄もはげる)」は辺野古飛行場の埋め立てとは関係のない理論である。なぜなら、辺野古埋め立ては海のほうであり山はなにも変わらないからだ。「山ぬはぎねー、海んはぎん」は嘉手納飛行場以南の北谷、宜野湾、浦添、那覇市の人口密集地にはてはまる理論である。北谷町から那覇市にかけては緑の山はほとんどない。草木を切り倒し住宅や工場をつくったからだ。そのために山ははげたのである。それが原因して海岸の多くのサンゴは死滅していった。藻なども少なくなり魚は激減していった。「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん」である。
 サンゴを再生させようとサンゴの苗を植える活動をしているが、サンゴの再生に必要なのは苗を植えることではない。山を元に戻すことはできないかも知れないが、川の汚染をなくし、海を浄化することである。サンゴは一つのサンゴから何十万もの種を放出する。種は海流に乗りあらゆる所に落ちる。海が浄化しサンゴが育つ環境をつくれば自然にサンゴは増える。
 川をきれいにすることがサンゴや海の動植物が増える最大の方法である。

 辺野古飛行場は辺野古崎の沿岸部分を埋め立てる。山は関係がない。「山ぬはぎねー、海んはぎん」の指摘は的外れである。それに辺野古崎の沿岸部だけを埋めるだけであるから大浦湾の被害は微少である。
皮肉なことであるが、キャンプシュワブがあったから大浦湾の自然は保たれている。キャンプシュワブが民間地であったなら大浦湾は他の民間地域と同じように汚染されていただろう。海洋学者キャサリン・ミュージックさんの指摘は的外れである。

大城忠
もっともらしく「埋め立ては産業破壊」などという人物が現れた。大城忠氏である

沖縄で生産されるもずくの6割~7割は辺野古以南の宜野座・金武・うるま市・南城市の海域で生産収穫されています。特に勝連、知念は主生産地で地域活性の重要産業となっています。もずくの生産量は自然環境(波浪・日照量・水温・潮流等)に大きく左右されるだけでなく、陸からの生活排水や都市開発、農業生産の管理によっても影響を受けます。それは、もずくもサンゴと同じ透明で綺麗なイノーの海でしか生育しないからです。
もし、辺野古基地建設が強行され、埋立てが進めば大量の土砂は、10月頃のミーニン(新北風)により拡散し、宜野座・金武・うるま市・沖縄市・北中城・知念・奥武島まで南下します。もずく養殖に不可欠なもずく母藻の育苗やもずく網への種付、沖出し後の芽出しに、大きな影響を及ぼし不作の原因となります。
年々、沖縄の海の環境は悪化し続ける現状で、さらなる埋立工事はもずくやアーサだけでなく他の水産物(魚類や貝、エビ等)にも影響があると思います。
               「大城忠」
大城忠氏(57)は もずくを販売しているイトサン(糸満市)会社の社長である、過去に糸満市沖の埋め立てでモズクが不作となった経験を踏まえ、「辺野古が埋め立てられればモズク産業は破壊する。沖縄の自立はストップする」と述べている。モズクが不作になる原因は辺野古基地建設が強行され、埋立てが進めば大量の土砂が大浦湾に流れ出てしまい、土砂は10月頃のミーニン(新北風)により拡散し、南下するからだという。大城忠氏は多くの埋め立て地を見てきたはずである。どのようにして埋め立てが行われるかも知っていて当然である。
 大城忠氏は「過去に糸満市沖の埋め立てでモズクが不作となった」というがモズクが不作になった原因を述べていない。私は糸満市に15年近く住んでいた。埋め立ても見てきた。糸満の埋め立てで土砂が外海に流れ出た話は一度も聞いたことはないし、なかった。埋め立て地の海岸は魚が多く絶好の釣り場だった。土砂が流れ出なかったから絶好の釣り場になったのだ。糸満でもずくを栽培しているという話は聞いたことがなかったが、栽培していたとしてももずくが不作になった原因は予想できる。
 糸満市の埋立地は広大である。海で自然を育む場所は海岸近くの浅瀬であるが、豊見城市か糸満市の広大な浅瀬はほとんど埋め立てられた。そして、山のほうは住宅が増えていった。キャサリンさんのいう「山ぬはぎねー、海んはぎん」が糸満市では現実となったのである。
 大城忠氏のいう通り埋め立てによってもずくが不作になったことは事実であると思うが、原因は埋め立てで土砂が海に流れたことではなかった。海岸の広大な浅瀬は埋められ山ははげていったからである。
 辺野古飛行場の埋め立ては辺野古崎沿岸だけである。大浦湾の海岸のほとんどは埋め立てらることはない。山もそのままである。糸満市の埋め立てとは全然違う。もずく養殖について詳しいのなら糸満市の埋め立てと辺野古飛行場の埋め立ての違いを知っているだろうし、辺野古の埋め立てがもずく養殖に被害を及ぼさないことも知っているはずだ。もし、本当にもずく養殖に被害を及ぼすのならもずくを養殖している業者たちが大反対するはずだ。

辺野古は海底ボーリング調査を6月末までに終え、夏から埋め立て工事が始まるが、すぐに土砂で埋めるのではない。防衛局は埋め立て本体工事の最初の手続きとして業者との契約を結んだが、最初に始める工事は傾斜堤護岸約320メートル、二重締切護岸約550メートル、ケーソン2工区で計430メートルの計1300メートルを整備する。埋め立てる前に埋め立て区域の外周の壁をつくるのである。今回は全体約4900メートルのうち約27%を占めるという。外周の壁をつくって埋め立て地からは土砂どころか海水も漏れない状態にしてから土砂を埋めるのである。つまり、埋立地から大浦湾には土砂は出ない。大城氏が糸満市の埋め立てを見てきたのならそのことは既に知っているはずである。大城氏は知っていながら埋立地の土砂が大浦湾に流れ出ると言うのである。彼は嘘をついている。嘘ついていることを彼自身は知っている。なぜ見え見えの嘘をいうのか。
 答えは大城さんのブログを見れば分かる。

安倍総理大臣は、4月から1千7百億円の国民の血税を投入し、本土大手建設会社を使い辺野古、大浦湾を埋立てを軍国主義のごとく強行に進めています。
沖縄の宝の海の一つ、辺野古、大浦湾の自然豊かな海は、次の世代に受け渡さななければならないものです 
そして、その海をより豊穣にしてくれる山原の森や川も保全しなければならない、とても貴重な生態系です。
 人も、命の種を自分の子や孫を通じて受け継がれていくのと同じように、豊かな沖縄の自然も次の世代に残すことが、今を生きる私達県民の義務であると思います。
さらに、県民一丸となって辺野古、大浦湾の埋め立てを阻止する事は、海人の生きる糧(かて)や術(すべ)を守るだけでなく、沖縄の真の宝の物である沖縄の精神性や人間性(アイデンティティー)に対して大きな自信と誇りを取り戻し、やがて沖縄の自立と平和国家へと繋がります。
        大城忠「海人ブログ」より
安倍首相を軍国主義呼ばわりしている。「次の世代に残す」。「県民一丸となって」。「沖縄の精神性や人間性(アイデンティティー)」等々、大城さんの使う言葉は革新と同じである。つまり、大城さんは革新活動家であるのだ。革新活動家であるがゆえに自分の専門知識をひけらかしながら、辺野古埋め立てが自然破壊をするような真っ赤な嘘をつき、なにも知らない市民を騙して辺野古移設反対運動に巻き込んでいこうとしているのである。

キャサリン・ミュージックさんも大城忠さんも純真に自然を愛する市民を騙すために沖縄二紙が仕組んだプロパガンダである。
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「沖縄の自治は神話」は沖縄二紙と革新識者・政治家のでっち上げ」

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 「沖縄の自治は神話」は沖縄二紙と革新識者・政治家のでっち上げ」 
官房長官が「粛々」という言葉を何回も使われるんですよね。僕からすると問答無用という姿勢が大変埋め立て工事に関して、感じられて、その突き進む姿というのはサンフランシスコ講和条約で米軍の軍政下に置かれた沖縄、そしてその時の最高の権力者がキャラウェー高等弁務官だったが、その弁務官が沖縄の自治は神話であると言った。
 私たちの自治権獲得運動に対して、そのような言葉でキャラウェー高等弁務官がおっしゃって、なかなか物事は進みませんでしたけど、いま官房長官が「粛々と」という言葉をしょっちゅう全国放送で出て参りますと、なんとなくキャラウェー高等弁務官の姿が思い出されて、重なり合わすような、そんな感じがしまして、私たちのこの70年間は何だったのかなというようなことを率直に思っております。
   「翁長知事」
 
 1月5日の菅官房長官との会談で、キャラウェイ高等弁務官が言った「沖縄の自治は神話」を例に出して、官房長官が「粛々」という言葉を何回も使うことに対して、。翁長知事はキャラウェイ高等弁務官のように問答無用という高圧的な姿勢であると批判した。

キャラウェイはどんな高等弁務官だったのか。詳しく検討する。

「自治は神話」演説 1963年3月6日朝刊

 「自治は神話である」―。1963年3月5日、キャラウェイ高等弁務官は那覇市内・ハーバービュークラブの「金門クラブ3月月例会」に招かれ演説。翌6日の琉球新報朝刊は1面で演説内容を次のように記す。
 「自治とは現代では神話であり存在しない。琉球が再び独立国にならないかぎり不可能」「琉球政府への権限委譲は行政命令にも規定し、努力も払われているが現在の琉球政府の状態ではまだまだ」
 演説は県民の「自治権拡大」の熱望に冷水を浴びせ、同日夕刊で立法院野党各党は猛反発した。
「沖縄が植民地であることを弁務官自身が裏づけた民主主義の否定」(安里積千代社大党委員長)、「弁務官は法なりの独裁支配、植民地支配」(岸本利実社会党政審会長)、「沖縄県民の解放の盛り上がりに弁務官が直接統治による弾圧に出ることを示す」(古堅実吉人民党書記長)。
 キャラウェイ弁務官は1961年2月に沖縄着任。64年7月退任までの3年半、絶対権力者として君臨し、“キャラウェイ旋風”の異名を残した。
 「琉球新報」2009年月6日
 琉球新報の記事からはキャラウェイ弁務官は民主主義を理解しない独裁者のようである。しかし、民主主義を理解していないのは琉球新報のほうである。沖縄の新聞や政治家に嫌われたキャラウェイ弁務官はどのような人物であったか。
 
キャラウェイ氏は1905年12月23日、アーカンソー州ジョーンズボロで生まれた。父はサディアス。母はハッティ。三人兄弟の一人であり、兄弟の名はフォレストとロバートで、後にフォレストはポールと同じくアメリカ陸軍将官となった。
注目すべきは、両親はともにアーカンソー州選出のアメリカ合衆国上院議員を務めたことである。両親とも政治家であったのである。母は女性で初めて選挙により選出された上院議員でもあった。
キャラウェイ氏はジョージタウン大学を卒業し、1933年弁護士の資格を取得した。軍を退役した彼は、1965年から1968年の間アーカンソー州のハーバー・スプリングスで弁護士を開業し、その後ワシントンD.C.のベンジャミン・フランクリン大学で教鞭を執った。彼はメリーランド州で晩年を送ったとされる。
 政治家の家で育ち、弁護士にもなったキャラウェイ氏がアメリカ民主主義を熟知していたことは容易に想像できる。大学で教鞭を執ったということは理論家でもあったのだ。
 
○1938年から1942年、陸軍士官学校で法律を教えた。
○1942年から1944年、アメリカ合衆国旧陸軍省の参謀幕僚を務め、第二次世界大戦中のCBI(中国・ビルマ・インド)戦線で、陸軍参謀長アルバート・C・ウェデマイヤー大将の補佐として仕えた。
○1945年から1946年は中国・重慶で軍事連絡部の将官として指揮した。
○1947年。国防大学の教官。
○1950年にはイタリア・トリエステの部署に配置された。
○当時のアメリカ合衆国副大統領リチャード・ニクソンと同行し、アジアの国々へ外交任務を行った。
○1955年8月から1956年4月。韓国で第7歩兵師団の指揮を執った。
○1957年から1958年までは在日米軍本部で参謀幕僚を務めた。
○1961年2月~64年7月。沖縄米民政府の高等弁務官を務める。

 経歴を見れば、キャラウェイ氏が優秀な法律家であり、しかもアジア情勢に精通していたことが分かる。
 政治家の家に育ち、弁護士資格を持っているキャラウェイ氏が沖縄を植民地だと考え、民主主義を否定する政治をやるだろうか。アメリカの民主主義に精通していたキャラウェイ氏が植民地政治をやるのはあり得ないことである。

「沖縄が植民地であることを弁務官自身が裏づけた民主主義の否定」(安里積千代社大党委員長)、
「弁務官は法なりの独裁支配、植民地支配」(岸本利実社会党政審会長)、「沖縄県民の解放の盛り上がりに弁務官が直接統治による弾圧に出ることを示す」(古堅実吉人民党書記長)

 キャラウェイ氏を批判しているのは社大党、社会党、人民党=共産党の社会主義政治家たちである。沖縄二紙と社会主義系政党がつくりあげた独裁者キャラウェイであり、それが今でも流布している。

 「沖縄の自治は神話である」は1963年3月5日、那覇市内のハーバービュークラブの「金門クラブ3月月例会」に招かれて演説したものである。
琉球新報朝刊は1面で演説内容を次のように記している。

「自治とは現代では神話であり存在しない。琉球が再び独立国にならないかぎり不可能」「琉球政府への権限委譲は行政命令にも規定し、努力も払われているが現在の琉球政府の状態ではまだまだ」
演説は県民の「自治権拡大」の熱望に冷水を浴びせ、同日夕刊で立法院野党各党は猛反発した。
    「琉球新報」
以前、演説の全文を手に入れてUSBに保存してあったが、残念なことに見つけることができない。
琉球新報の記事には「自治とは現代では神話であり存在しない」と述べた後に、「琉球が再び独立国にならないかぎり不可能」と述べている。つまり琉球が独立国になれば自治は可能であると述べている。キャラウェイ弁務官が沖縄の自治そのものを否定したのではないことが分かる。それにキャラウェイ弁務官は権限を委譲しないとは言っていない。権限移譲の努力はしているが「現在の琉球政府の状態ではまだまだ」自治能力がないから権限移譲はしないと述べているのだ。

キャラウェイ氏の趣味は銃の収集のみであったが、彼は有名な仕事中毒者であったという。彼の仕事中毒が、絶対権力者として誤解され、「キャラウェイ旋風」の異名を残したのだろう。
仕事に熱心であったために歯に衣を着せぬ発言をして沖縄の政治家やマスコミなどに反発されたのだ。

実は琉球の独立を望んでいたのはキャラウェイ弁務官のほうだった。
北朝鮮、中国の台頭があり、社会主義国家がアジアで浸透する可能性は高かった。それを危惧していたのがキャラウェイ弁務官だった。沖縄はアジアの扇の要の位置にあり、中国、北朝鮮の拡大を抑止するためには沖縄の米軍基地は重要である。日本を信用していないキャラウェイ氏は沖縄を日本に復帰させるのではなく、米軍が常駐できる状況をつくることであった。だからといって沖縄を植民地にすることではない。
キャラウェイ弁務官は日本を信用していなかった。だから日本復帰に反対していた。彼は沖縄が日本復帰すれば、権威主義者による支配や沖縄住民に対する差別が行われると考えていた。独裁者キャラウェイのイメージが流布されているから、多くの人はキャラウェイ弁務官が日本復帰に反対する理由が沖縄が差別されるからだというのは意外に思うのではないだろうか。しかし、キャラウェイ弁務官は政治家の家庭で育ち弁護士でもあった。アメリカ民主主義の塊であるキャラウェイ弁務官は差別を嫌っていたのであり、独裁支配、植民地支配は否定するものであった。
キャラウェイ弁務官が望んだのは沖縄は独立し民主主義国家になると同時に米国と友好関係を強くし、米軍を常駐させることだったのだ。

キャラウェイ弁務官は、沖縄の自治とは米国の州のような自治ではなく独立であると演説で述べている。自治=独立であると考えたのがキャラウェイ弁務官だった。しかし、沖縄にはまだ自治能力はない。自治能力のない沖縄に自治権を拡大してもマイナスになると考えていた。正直者のキャラウェイ弁務官であったから「沖縄の自治権を強く欲する住民は、彼ら自身で政治を行う能力は無い」と発言したのである。その発言に自治、独立の達成は厳しいものであることを知らない政府職員の多くは彼の解任を要求した。

 沖縄の歴史で沖縄の独立を真剣に取り組んだのは唯一キャラウェイ弁務官であったと思う。

 当時の琉球政府に民主主義思想、自治権思想がなく、キャラウェイ弁務官のほうにあったことが分かるエピソードがある。

●戦後のアメリカ統治時代と土地所有
 大東島は戦後、アメリカの占領が始まるまでは、企業が島をまるごと所有する状態だったため、通常の行政制度の適用を受けなかった。
 そのため、大東島諸島は行政区分としては島尻郡に属していたが、島ごとが社有地であるために、そこに生活する農民や「仲間」は形式上は社有地に仮住まいしているようなものだった。そのため、戸籍人口は一人もいないという特異な状況だった。
 南大東島の開拓を始めた玉置半右衛門が開拓団を募集した際「30箇年の政府貸下げ期間経過後は、各耕作者に開墾した土地の所有権を与える」ことを口約束したといわれ、開拓団の人々はそれを励みに大木生い茂る亜熱帯の原生林を
切り拓いていった。

●農地の解放

 しかし、玉置半右衛門病没後、南大東島が東洋製糖へ譲渡されてしまったことにより、耕作者に土地の所有権が認められない状態が戦後まで続いた。
 戦後、アメリカの沖縄占領によって本土家の人々は「外国」の南大東島に滞在する形になった。これにより、八丈島系・本土系住民と沖縄系住民が対等の関係になったのだ。
 それどころか、本土籍の人たちは外人登録をし、在住証明をもらって生活し、選挙権もなかった時もあったという。
 また、大東島に村制が適用され「南大東村」「北大東村」の2村が誕生したのも1946(昭和21)年、アメリカの統治下でのことだ。

●土地問題と土地裁判

 そして、アメリカによる沖縄統治の最高責任者である高等弁務官のキャラウェーは、沖縄人の自治を認めなかったにもかかわらず、大東島では農作業に従事していた人々に土地所有権を認めた。
 これにより、沖縄で「忌み嫌われた」キャラウェーは、南大東島の沖縄人にとっては、「神様」のように評価されることになった。歴史の皮肉だ。
 もちろん簡単に土地所有が認められたわけではない。戦前までの実質的な統治者であった日本製糖会社は、島の土地所有権を主張していた。
 南大東村民の中に自分達の土地を守ろうという機運が高まりはじめ、1959(昭和34)年6月21日、「土地所有権獲得期成金」が結成された。
 そして国、琉球政府、民政府への陳情をくり返し、運動は1963(昭和38)年まで続けられた。
 南大東村民の要請をうけて高等弁務官は米琉合同土地諮問委員会に命じた結果、やっと土地の所有が認められたのだ。
「旅のフィールドノートから」
 南大東村民に土地所有権を認めたのも「自治は神話である」と言ったのも同じキャラウェイ氏である。沖縄人の自治を認めなかったにもかかわらず、大東島では農作業に従事していた人々に土地所有権を認めた」とキャラウェイが二重人格のように思うのはキャラウェイ氏を理解していないからだ。キォラウェイ氏を理解する人物もいた。
 

1945年(昭和20年)終戦。この島も終戦までは戦争に翻弄され、空襲や激しい艦砲射撃を受ける。製糖工場が焼かれたことと、自給自足が必要となったことで、入植以来行われてきた製糖業も中断せざるをえなかった。
そして終戦後の1946年(昭和21年)、1会社による経営という類い稀な社会制度から、ようやく村制が施行され「南大東村」が誕生した。これまですべて経営する会社に頼ってきた学校教育や医療、交通制度は政府や村に委ねられることになった。新しい村づくりが始まり、村議会や婦人会、青年会も発足。郵便局や警察署も次々に設置された。大日本製糖は本土に引き揚げ、大東糖業社が設立される。

新しい村が作られていく中で、島民の気掛かりはやはり土地のことだった。村制が敷かれたとはいえ、土地は相変わらず大日本製糖の所有だった。入植当時の半右衛門の口約束など大日本製糖には通用せず、両者は裁判で争うことになる。長きにわたり解決しなかったこの土地問題は、なんと当時沖縄を為政していた一人のアメリカ人によって解決された。1961年(昭和36年)、南大東島に視察に来たキャラウェイ高等弁務官に、島民達が半右衛門の口約束から始まったこの島の土地問題を直訴したのだ。その後も裁判は続くが、1964年(昭和39年)7月30日、キャラウェイ高等弁務官の英断により島民の願いが叶えられる。島民の請求した農地や土地が無償で譲渡されることになったのだ。入植から64年、南大東村にとってこの日は歴史的な日になった。

ようやく島民たちに土地が無償譲渡され、円満解決となったがその後何年もたって、「半右衛門の口約束はなかった」という事実が漏れ出てきた。一番最初の入植者たちに言われたとされる「30年で土地無償譲渡」は、実際には誰も聞いた事もなく、皆が噂のように伝え聞いたというような曖昧なものだったのだ。
鳥島での土地無償譲渡は果たされなかったが、口約束は確かにあった。でも南大東島のそれは、鳥島を踏まえての半右衛門との黙契、暗黙の了解もしくは希望的観測にすぎなかった。しかし既に行われた土地無償譲渡がくつがえる訳もなく現在に至っている。
しかし入植者たちの労苦や辛酸はまぎれもない事実だ。口約束があろうとなかろうと、その開拓者たちの苦労に見合った報酬がなされるのはごく当然のことであり、キャラウェイ高等弁務官もそう考えての判断だろう、という見方もある。 開拓者精神のいきづいたアメリカならではの考え方なのかもしれない。
私ももちろん、それで良かったと思う。今でも船で揺られて南北大東島に向かうとその絶海ぶりが実感できる。距離というのは人の気持ちをも離すものだと、この島の歴史を見るたびに思う。離島中の離島ゆえの苦しみは今後も絶えることはないのかもしれない。私はできるだけたくさんの人に、この島の存在を知ってほしいと思う。そしてこの島の人達がこれからも幸せに暮らしていけることを、切に願ってやまない。
「Tabi.azarashi.com」
 「開拓者たちの苦労に見合った報酬がなされるのはごく当然のことであり、キャラウェイ高等弁務官もそう考えての判断だろう、という見方もある。 開拓者精神のいきづいたアメリカならではの考え方なのかもしれない」と述べているが、その通りだと思う。いわゆるアメリカ魂である。「働かぬ者食うべからず」「働いたものには相応の報酬」である。
 
 「狼魔人日記」の江崎さんから聞いた話であるが、本土はGHQによって徹底した農地改革が行われたが、沖縄は農地改革が行われなかったということである。

農地改革

  農地改革とは、1947年にGHQの指導の下で日本政府が行った農地の所有制度の改革の事である。「1945年12月9日、GHQの最高司令官マッカー サーは日本政府に『農地改革に関する覚書』を送り、『数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する』ことを指示した。こ れ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を 作成、同法は1946年10月に成立した」。
 この法律に基づき、不在地主の小作地のすべてと在村地主の小作地のうち広面積(北海道では4町歩、都府県では1町歩超)の小作地が政府によって強制的に安 値で買い上げられ、小作人に売却された。その結果、農地に占める小作地の割合は46%から10%に減少し、地主制度は完全に崩壊した。

 キャラウェイ氏が行ったのはGHQの農地改革と同じである。南大東島は農民の所有権を得たが、他は農地改革が実践されないで大地主が残った。
 読谷村には戦前製糖工場があり、嘉手納弾薬庫内には大規模なさとうきび畑を所有していて、小作人たちが従事していた。戦後は小作人に所有されることはなく製糖工場の経営者の所有となった。
 嘉手納町を過ぎ、比謝川の右手にゴルフ場がある。そのゴルフ場の土地の所有者が本土の人間であるらしい。土地の製糖会社の経営者の関係者だろう。弾薬庫内にも年間嘉20億円の軍用地料をもらっているということを新聞で見たことがある。
 
 南大東島の農民は琉球政府にも訴えていたし裁判もしていた。ところが自治権拡大を要求していた政治家たちは南大東島の「自治権」には手を差し伸べなかったのである。彼らは自分たちの権力の拡大を要求していたのであり、民主主義を根拠にした自治権拡大ではなかったのである。だからキャラウェイ高等弁務官は彼らに自治権を簡単には与えなかった。

高等弁務官はどんな人物だったのか、歴代の高等弁務官のプロフィールを紹介する。弁務官は国務省が任命した。アメリカ合衆国国務省は、アメリカ合衆国政府において外交政策を実施する行政機関であり、他国の外務省に相当する。国務省は、国務長官が統括する。シビリアンコカーントロールが徹底している米国では弁務官は国務省が任命していた。米軍が任命したのではなかった。

初代高等弁務官
ジェームス・E・ムーア陸軍中将
1957年7月-58年4月

【プロフィール】
1902年、マサチューセッツ生まれ。ノルマンディ上陸作戦には第九軍参謀長、第二軍参謀長、ハワイ南部地区司令官、第十歩兵師団長として歴戦し、民政副長官として2年務めた後、初代琉球政府高等弁務官に就任する。

二代高等弁務官
ドナルド・P・ブース中将
1958年5月-61年2月

【プロフィール】
1902年ニューヨーク州アルバニア市生まれ。第二次世界大戦中はペルシャ湾司令部、終結前には司令官を務め、45年、首都ワシントンの陸軍長官特別補佐官、陸軍次官室付け特別補佐官、同行政担当を歴任。そして統合参謀本部の統合兵站計画部部長代理、陸軍参謀本部付け企画担当参謀次長を務めた後、ドイツの米第七軍司令部、第四歩兵師団に勤務する。その後、ワシントン国防長官室、米第二八歩兵師団長、米第九歩兵師団司令官を経て、54年ペンタゴンの米陸軍参謀部人事担当参謀次長を務める。

第三代高等弁務官
ポール・W・キャラウェイ中将
1961年2月-64年7月
【プロフィール】
1905年アンカーソー州ジョンスボロー生まれ。
陸軍省参謀本部、中国戦線の米軍部隊の計画部長などを務めた後、同部隊の副参謀長、軍事司令官に就任。戦後、ワシントンD・Cの陸軍本部では作戦担当の参謀次長室計画部部長、韓国在留の米第七歩兵師団の軍事司令官、東京の在日国連軍並びに米極東軍総司令部の参謀長補佐等を歴任し、58年、ワシントンD・Cに戻り米統合参謀本部と統合戦略調整委員会の陸軍側委員を務める。

第四代高等弁務官
アルバート・ワトソン二世中将
1964年8月-66年10月

【プロフィール】
1909年イリノイ州マウントバーノン生まれ。
第二十四軍団及び第六軍に配属され各地で勤務する。韓国で第十軍砲兵隊司令官、第三師団砲兵隊司令官を勤め、陸軍の行政関係、ドイツのミュンヘンに第二十四師団砲兵隊司令官、第三師団長を務める。61年にはベルリン駐留米陸軍指導官兼総司令官となる。


第五代高等弁務官
フェルディナンド・T・アンガー中将
1966年11月-69年1月

【プロフィール】
1913年ペンシルバニア州ピッツバーグ市生まれ。
31年にウェストポイント米陸軍士官学校を卒業後、陸軍三方統帥大学に学ぶ。第2次世界大戦中は砲兵将校としてヨーロッパ戦線に従軍し、朝鮮戦争時に米第一砲兵軍隊長を務めたほか、フランス、ドイツでの海外勤務経験を経て少将に昇進。誠実で温厚な人柄と評価されていたが、対内的には復帰運動、対外的には軍備増強の必要性が高まり、米国防長官によって更迭された。


第六代高等弁務官
ジェームス・B・ランパート中将
1969年-72年5月

【プロフィール】
1914年ワシントンD・C生まれ。
バージニア州陸軍工兵学校などで勤務後、フィージー諸島、ソロモン諸島航空部隊を経て第2次世界大戦中はルソン島攻撃、マニラ解放軍に参加。フィリピン第9軍団工兵隊の技術将校となる。戦争中、仙台、札幌に勤務し、ワシントンでマンハッタン計画(原爆製造計画)や米軍部特殊兵器計画の策定を手がけるなど、原子力の軍事利用と密接な関係を持つ。中将昇進とともに国防総省の副国防次官補になった。

高等弁務官は経験豊富な司令官経験者が多かった。沖縄の政治家や新聞は弁務官が民主主義を知らないゴリゴリの軍人のようにイメージさせるが、そうではなかった。なかでもキャラウェイ弁務官は政治家の家庭で育ち、弁護士資格もあった。彼はアメリカ民主主義を熟知する人物であった。
 だが、そうであるがゆえに仕事中毒者であった彼の厳しい改革は革新政治家だけでなく保守派の政治家にも嫌われたのである。

    つづく
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辺野古移設問題を隠ぺいするタイムス社説

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辺野古移設問題を隠ぺいするタイムス社説

 2010年
3月8日 沖縄基地問題検討委員会で、社民が国外や県外移設、国民新がシュワブ陸上と嘉手納基地統合などの移設案を提案
3月26日 北沢俊美防衛相が仲井間知事との会談で「現行案は極めてゼロに近い」と明言
4月9日 鳩山首相が移設先として鹿児島県徳之島を明言。

 「できるなら国外。最低でも県外」を公約した鳩山首相は県外移設先の候補地を一か所も探すことができなかった。徳之島との事前交渉はなく、一方的に徳之島を候補地にあげた。すると、
4月18日 徳之島で「米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会」に1万5000人が参加した。(徳之島人口の6割、沖縄本島なら70万人以上に匹敵する)

4月20日 徳之島3町長が平野博文官房長官との会談を拒否

徳之島の強烈な反対運動に徳之島案はあっけなく頓挫した。鳩山首相は県外移設を諦めるしかなかった。

 県外移設が不可能であることを知らしめたのが徳之島移設の頓挫だった。
      
5月4日 鳩山首相は初来県し県内移設を明言した。
5月10日 米軍普天間飛行場をめぐる関係閣僚会議で現行案を修正する形での移設案を確認した。
5月23日 鳩山首相が再来県し、名護市辺野古への移設を明言した。
5月28日 日米両政府が辺野古崎地区とこれに隣接する水域を移設先とする共同声明発表した。
6月4日 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。

2010年6月4日で辺野古移設の政治決着がついたと判断するのが常識である。

だが、翁長知事も沖縄タイムスもこの事実を無視している。

翁長氏は、政府が前知事の埋め立て承認を唯一のよりどころとして移設作業を強行していることに「県外移設の公約をかなぐり捨てた承認」だと正当性に疑問を呈した。
 タイムス社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
 菅官房長官は、仲井真知事が埋め立て承認をしたから粛々と埋め立て作業をすると繰り返し述べた。仲井真知事の埋め立て承認を唯一のよりどころにしているという翁長知事の指摘は的を得ている。また、仲井真知事は県外移設のほうが早いなどと言い、県外移設を主張していたことは否定しようがない。それなのに埋め立て承認をしたのは「公約をかなぐり捨て」と言われても仕方のないことである。
 
 しかし、鳩山首相時代に県外移設が不可能であることがはっきりした、辺野古移設が最終的に決着したのは自民党政府時代ではなく、民主党政府時代である。その事実を翁長知事とタイムスは隠蔽している。

 最初は県、名護市、辺野古区民は辺野古移設に反対していた。政府は地元の要求を受け入れながら会談を重ね、、お互いに妥協をして、県知事、前名護市長、辺野古区民が辺野古のV字型滑走路飛行場建設に賛成した。その時点で辺野古移設は政治的に決着したのである。
 政治決着から五年も経過した今になって県知事や名護市長が辺野古移設反対を主張したからといって建設を中止できるわけがない。

 政府が仲井真知事から埋め立て承認を得たから埋め立て作業をするという説明は県民に誤解を与えるからまずいと思う。この説明はまるで埋め立てを承認するかしないかは仲井真知事の政治判断であったような印象を県民に与える。翁長知事は「県外移設に反対していたのに埋め立てを承認した」と指摘して、仲井真知事の裏切り行為を非難し、仲井真知事が埋め立て承認をしたのは仲井真知事の政治判断あったような印象を与えている。
 仲井真知事が埋め立てを承認したのは政治判断からではない。防衛局が提出した埋め立て申請は県土木建築課が公有水面埋め立て法に則って審査した結果、瑕疵がないと判断したからである。埋め立てを承認したのは本当は県土木建築課であって仲井真知事ではない。仲井真知事は形式的に承認手続きをやっただけだ。そこのところを政府はちゃんと説明していない。

「普天間飛行場の移設は唯一辺野古しかない」を繰り返す政府に対して、翁長知事は、「辺野古基地ができない場合本当に普天間は固定化されるのか」と政府に質問している。翁長知事の質問はもっもらしく、正しいのは翁長知事である錯覚を県民に与える。そのような質問をされるのは政府の説明がちゃんとしていないからだ。
 政府は、
「鳩山首相時代に県外移設と国外移設は非常に困難であることが判明した。徳之島の場合は米軍基地徳之島移設断固反対集会に島民の6割が集まった。
県外移設も国外移設もが不可能だと知った鳩山首相は再び辺野古移設に戻った。
2010年6月4日、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。その時に辺野古移設が最終的に決まった。
仲井真知事が埋め立て承認をしたのは県土木建築課が防衛局の埋め立て申請に瑕疵がないと判断したからであり、仲井真知事の政治判断は一切関係がない」
と主張してほしいものである。
 短くすると、
「県外国外移設がてきないことを認識した民主党政権が辺野古移設に再び戻り、その時に県、名護市、辺野古区、米政府が賛成した。そして、公有水面埋立法に則って仲井真知事は辺野古埋め立てを承認した。だから、政府は埋め立て作業に着手した」
となる。
 県民に誤解を与えない答弁を政府はもっと考えるべきである。

 米太平洋軍司令部戦略計画・政策部長のマイケル・ダナ少将は17日、米上院歳出委員会の公聴会で、「代替施設ができない限り、普天間から移ることはない」と述べ、同飛行場の返還は代替施設の建設完成が条件になるとの認識を改めて示した。
鳩山元首相は最近のコメントで「県外移設は不可能ある。国外移設をしたほうがいい」と述べている。.


 翁長知事は知事選に立候補した時からずっと普天間飛行場の県外移設を主張していた。翁長知事の普天間飛行場の唯一の解決は県外移設であったが、菅官房長官との会談では県外移設を一言も言わなかった。
しかし、知事選の時には仲井真知事が県外移設から辺野古移設に公約を転換したのを非難し、自分はぶれないで県外移設を主張し続けていると県民に訴えた。ぶれない翁長は県民に好感を与え、知事選圧勝につながった。
 それなのに菅官房長官との会談では県外移設に口封じをしているのである。口封じどころか、
「自ら土地を奪っておきながら、老朽化したから、世界一危険だから沖縄が負担しろ、嫌なら代替案を出せというこんな理不尽なことはないと思う」
と居直っている。翁長知事は東京行動の時も知事選挙選の時も県外移設を代替案として主張していた。知事になっても県外移設を主張していた。公明党も県外移設を公約にしていた。
 知事選の公約は辺野古移設反対であったが、翁長知事の普天間飛行場の解決方法は県外移設であった。「県外移設はぶれていない」と豪語した。ところが菅官房長官との会談からは県外移設は口にしないで、逆に「嫌なら代替案を出せというこんな理不尽なことはない」と辺野古移設の代替案を出せというのがひどい仕打ちであると政府を非難したのである。
 あんなに県外移設を主張して県知事になったというのに、県外移設の主張は引っ込めて、政府が代替案を県に要求することが理不尽であると翁長知事は言ってのけたである。逆に言えば県外移設は辺野古移設案の代替案にならないことを翁長知事が暗に認めたことになる。そして、翁長知事には代替案がないことを自白したのである。
代替案として県外移設に自信があるなら菅官房長官や安倍首相に県外移設を堂々と主張したはずである。しかし、翁長知事は県外移設を一言も主張しなかった。県外移設が不可能であることは翁長知事も認識している。菅官房長官や安倍首相には県外移設は通用しないことを知っているのだ。だから、県外移設を主張してきたことを隠したのである。
 県外移設は県民の支持を得ることはできても現実的に実現不可能であるから政府には通用しない。それを知っている翁長知事は「嫌なら代替案を出せというこんな理不尽なことはない」と居直ったのである。翁長知事は県外移設を県民に約束してきた。翁長知事を信頼した県民は県外移設ができると信じてきた。翁長知事の居直りは県外移設を信じた県民への裏切りである。

 翁長知事は沖縄の米軍基地について「戦後、銃剣とブルドーザーで強制接収された」と、歴史的経緯や不平等性を訴え、「土地を奪っておきながら、老朽化したとか、世界一危険だからとか、嫌なら代替案を出せというのは、こんな理不尽なことはない」と強く反発した。戦後一貫して日米安保の過重な負担を押し付けられたウチナーンチュの思いを、明快な言葉で表現した。
  タイムス社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
 何千回と目にする「戦後、銃剣とブルドーザーで強制接収された」である。「銃剣とブルドーザー」を語るときに出るのが伊佐浜と伊江島である。
3月11日 伊佐浜土地闘争(1955年)
 1955(昭和30)年3月11日、米軍は宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜の住民に土地を接収すると通告してきました。それに対して、伊佐浜区の住民と各地からかけつけた支援者は座り込みで反対しました。
 この日から遡ること2年前、米軍は1953(昭和28)年4月3日に琉球列島米国民政府布令第109号「土地収用令」を公布し、同年4月11日に真和志村(現那覇市)の銘苅と安謝の一部、ついで天久と読谷村渡具知、同年12月には小禄村具志で土地接収を強行しました。 

 
 伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前から「チャタンターブックヮ」(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていました。戦時中も米軍の土地接収からもまぬがれ、戦後もかつてのように稲が植えられていました。
 米軍は1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告しましたが、翌年1955年3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させ、約3万坪の土地を接収しました。また3月14日には、伊江島の真謝でも約300人の武装兵が島に上陸し、家から住民を追い出した後、13戸の家屋をブルドーザーで破壊して焼き払い、10万8千坪の土地が米軍に接収されました。
 その状況に対し、琉球政府立法院でも住民の生命と財産を守る基本的な立場から米側に対して軍用地収容取り止めの請願を再三行いました。
「土地収用家屋立退き指令撤回要求決議案」第5回臨時第5号 1955年3月4日 PDF(324KB)
 同年7月11日、米軍はさらに伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32戸136名の住民が住む家を失いました。
 この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
     「沖縄県公文書」
 社会主義国家ソ連の拡大、中国や北朝鮮の社会主義国家化、そして、朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)などアジアは社会主義が拡大していったた。拡大を防ぐために米政府は沖縄の米軍基地を強化する決心をしたのである。
 土地接収はアジア情勢と深く関係していることを認識するべきである。
 読谷村では楚辺と渡久地が全体強制撤去されたが、伊佐浜のような反対運動はなかった。米軍は代替地を確保して、楚辺や渡久地の人たちは新しい場所へ移った。渡久地は私が住んでいた比謝の隣に引っ越してきたから覚えている。原野であった土地をブルドーザーで平地にして道路はまっすぐのをつくった。強制撤去ではあったが銃剣とブルドーザーで無慈悲に追い出すというものではなかった。

伊佐浜の場合は「土地取上げは 死刑の宣告」と米軍の立ち退き通告を拒否したので米軍は強制的に接収したのである。沖縄は戦争に負けた。それなのに伊佐浜は激しく抵抗したのである。圧倒的な米軍を相手に普通の沖縄の人たちなら伊佐浜のような抵抗ができるはずはなかった。徹底抗戦したのはバックに共産党が存在していて、伊佐浜の土地闘争を裏で指揮していたからである。中心人物は共産党員の国場幸太郎という国場組の社長と同姓同名の人物であった。彼は米軍に逮捕され、拷問を受けて共産党員の名前を自白する。それが原因で、仲間を米軍に売ったと瀬長亀次郎に非難され人民党=共産党から除名される。
 
強制土地接収は伊佐浜や伊江島以外にもあったが、徹底して抵抗したのが伊佐浜と伊江島であった。他の場所は激しい抵抗はなかった。

 それしても伊佐浜土地闘争を扱う時はいつも「島ぐるみ闘争」が伊佐浜の銃とブルドーザーで強制接収されたのをきっかけに土地闘争が発展したことを書くで、「島ぐるみ闘争」が衰退したことは書かない。「島ぐるみ闘争」はあることをきっかけに衰退したのである。そのきっかけをつくったのが辺野古であった。
 辺野古は「島ぐるみ闘争」の最中に条件付きで米軍の土地接収を受け入れた。「土地取上げは 死刑の宣告」だと伊佐浜では徹底抗戦をやったのに辺野古では逆に土地接収を受け入れたのである。どんなに反対しても伊佐浜のように強制接収されるのなら、条件をつけて受け入れをするというのが辺野古民の考えだった。
 辺野古民の出した条件は、
Ⅰ 農耕地はできるだけ使用しない。
2 演習による山林利用の制限。
3 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
4 米軍の余剰電力および水道の利用
5 損害の適正保障
6 扶養地の黙認耕作を許可する。
の6項目であった。要求がすべて受け入れら他のではないが、米軍と辺野古区は友好関係になり、キャンプシュワブが建設された。
 すると、辺野古の経済は空前の活況になる。五年間で辺野古の人口は4倍になり、多くの青年男女が、建設工事、PX(売店)、クラブ、メスホール(食堂)の職員として従事するようになり、彼らの給料は民間会社や地方公務員よりも高く、いわゆる軍作業の人気が高まっていった。
 水道の整備は米民政府の援助で行われた。辺野古の土地造成工事も米民政府が陣頭指揮をとって協力した。辺野古の驚異的な発展の噂はまたたく間に県内に広がり、経済発展を望んで米軍基地を受け入れる村がどんどん増えていった。そのために土地闘争は衰退していった。
 基地経済が沖縄を貧困から救うということが分かった時から、沖縄は米軍を受け入れるようになっていったのである。
 米軍基地にひたすら反対し続けたのが沖縄二紙、共産党などの革新政党であった。沖縄の歴史を革新や沖縄二紙は沖縄の人々が米軍基地を歓迎した歴史的事実を隠蔽している。
 
 安倍首相が「辺野古への移転が唯一の解決策である」と従来の考えを繰り返したことについても翁長氏は異論を展開。「安倍首相は、固定観念に縛られず、まずは辺野古への移設作業を中止することを決断してほしい」と求めた。
強力な政治のリーダーシップがあれば政策の変更は可能である。選択肢のない政策などあり得ない。これこそ翁長氏が5日の菅義偉官房長官との会談でも指摘した「政治の堕落」である。
  タイムス社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
 日本は独裁国家ではない。議会制民主主義国家である。辺野古移設は政府が努力と妥協と経済援助の交渉を積み重ねて地元の承諾を得て初めて可能になったのである。もし、政府の提案に地元が反対していたら辺野古移設は実現しなかった。
県外移設は不可能であったが辺野古移設が可能になった原因には日本全国にはない辺野古の特別な好条件があったからである。
第一の好条件は辺野古飛行場建設地は米軍基地であるキャンプシュワブ内であったことである。辺野古なら飛行場建設をするための新たな土地接収する必要がなかった。沖縄でも本土でも米軍基地をつくるために新しい土地を接収するのは困難である。復帰前であったが昆布や喜瀬武原など新たな土地を接収しようとしたが革新や地元の住民の強い反対運動のために土地接収することができなかった。復帰後ならなおさら困難である。本土でも米軍基地のために新たな土地を接収することは困難であるだろう。米軍基地内であるから米軍飛行場建設が可能である。
第二の好条件は周囲は海囲まれていることである。たとえ事故が起きても人災はない。住民の住む場所から一キロも離れているから騒音被害も低い。
第三の工事要件はV字滑走路にすることによって人家の上空を飛ばないことである。

このような好条件があったから地元も受け入れたのである。辺野古のような好条件の場所は県内にも県外にもない。

 タイムスは「強力な政治のリーダーシップがあれば政策の変更は可能である。選択肢のない政策などあり得ない」と述べているがそれは間違いである。
 徳之島では6割の人口が受け入れ反対の集会に集まったのである。強力な政治のリーダーシップがあっても徳之島の人々が受け入れることはあり得ない。徳之島の人々が受け入れに賛成しない限り徳之島に移設するのは不可能である。ところがタイムスは強力な政治のリーダーシップあれば受け入れさせることができるというのである。つまり民意を政治力でひっくり返せると言っているのである。それは独裁政治思想である。議会制民主主義国家の日本では強力な政治のリーテダーシップがあってもできないものがある。
 そもそも、辺野古移設反対は民意だから辺野古移設はできないと翁長知事もタイムスも主張している。その主張は他の県でも受け入れに反対が民意であれば移設をすることはできないと主張していることになる。つまり、「強力な政治のリーダーシップ」があっても地元が反対すれば移設はできないとタイムスは主張しているのだ。沖縄の場合は民意が優先し、他県は強力な政治のリーダーが優先するというタイムスの理屈は矛盾している。


政府が、1999年に当時の稲嶺恵一知事と岸本建男名護市長の受け入れ表明を受け、閣議決定がなされたと移設の正当性を主張していることについても翁長氏は反論
した。
 稲嶺知事は代替施設の軍民共用や15年使用期限、岸本市長も基地使用協定締結などを前提条件としていたが、その後、政府は県との協議もないまま閣議決定をほごにした。翁長氏は「前提条件がないことになり、受け入れたというのは間違いだ」と、政府の都合のいい解釈を断じた。
タイムス社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
 都合のいい解釈をしているのはタイムスの方である。辺野古移設が政治決着したのは1999年ではなく、民主党政権時代の2010年である。鳩山首相は「できるなら国外、最低でも県外」と公約したのに県外移設場所を探すことができなかった。県外移設を断念した鳩山首相は再び辺野古移設に戻った。辺野古移設問題の核心は2010年にあるのであって1999年にはない。
 都合のいい解釈をしているのはタイムスの方である。
    
 政府は、日米首脳会談で確実に沖縄の声を米側に伝えるべきだ。もし伝えずに両政府が首脳会談で辺野古推進を確認するようなことがあれば、「沖縄切り捨て」と見ざるを得ない。沖縄の声を無視して移設を強行することがあれば逆に日米関係にさまざまなマイナスが生じるだろう。
 翁長氏は菅氏や首相との会談で沖縄の声を代弁し、求心力をこれまで以上に高めている。辺野古移設問題は新たな段階に入ったといえる。
  社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
   沖縄タイムス 4月18日(土)5時30分配信
「辺野古基金」は1週間で寄付4600万円になったという。
同基金の共同代表に現在までに発表されている6氏に加えて、県出身報道カメラマンの石川文洋氏も就任するという。
「基金」の共同代表にはすでに、前嘉手納町長の宮城篤実氏、金秀グループの呉屋守将会長、かりゆしグループの平良朝敬CEO(最高経営責任者)、沖縄ハム総合食品の長浜徳松会長、元外務省主任分析官の佐藤優氏、俳優の故菅原文太さんの妻・文子さんが就任している。
 タイムスのいうように辺野古移設問題は新たな段階に入ったといえる。
 翁長知事の求心力はこれまで以上に高まっているかも知れない。しかし、一方では辺野古移設反対派の辺野古区民の会は解散し活動18年に終止符を打った。反対運動新たなスタートといっても解散は後退である。
 辺野古移設反対が盛り上がっているのか盛り下がっているのか微妙である。
 
 タイムスは新たな段階に入ったと述べているが、新たな段階に入ろうが入るまいが、辺野古埋め立てを阻止する方法はたった一つであり、それは変わらない。
辺野古埋め立てを阻止する方法はひとつ、政府に埋め立てを断念させることである。
 暴力で埋め立て作業を阻止する方法はないとは言えないが、抗議船数隻にカヌー隊は20隻にも達していない。たったそれだけでは海保を突破することはできない。暴力で埋め立て作業を阻止するのは不可能である。
 法的にも無理である。たとえ裁判闘争に持ち込んでも裁判で勝つことはできない。

 ボーリング調査が終わり、埋め立て予定地の周囲をケーソンで囲ったときに埋め立てを阻止することができないことを多くの県民は実感するだろう。辺野古移設反対に賛成の県民は減っていくだろう。
ケーソンが埋立地の周囲を囲っても移設反対を主張する翁長知事への県民の支持は減っていくだろう。

安倍政権と米政府はより親密な関係を築いている。集団的自衛権の行使、TPP、AIIB(アジアインフラ投資銀行)等々、日米政府にとって大きな問題が山積みである。辺野古問題は日米政府にとってそれほど重要な問題ではない。日本政府はなんとしても辺野古に移設したいだろうが、米政府は普天間飛行場が移設できなければそのまま普天間に居座ってもいいと思っている。
安倍首相は米の国会演説をするくらいに米政府と緊密さを増している。それなのに「沖縄の声を無視して移設を強行することがあれば逆に日米関係にさまざまなマイナスが生じるだろう」とタイムスは述べている。辺野古移設問題が日米政府に影響を与えると過信しているタイムスはおかしい。
タイムスの沖縄中心主義には呆れてしまう。時には世界地図を見た方がいい。タイムスは世界の中で沖縄がどんなに小さいかを認識するべきである。
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「臨時制限区域」は正しくは「進入禁止区域」である

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「臨時制限区域」は正しくは「進入禁止区域」である


「米国海兵隊施設」と書かれた大型フロートをオイルフェンスにくくり付ける関係者ら=17日午前9時30分、名護市大浦湾

 大型フロートをには「米国海兵隊施設」と書かれている。フロートは「米国海兵隊施設」を示すものであり、フロートは陸上の金網と同じである。
 フロートを超えるということは金網を超えることと同じ行為であり違法行為である。
フロート内は「米国海兵隊施設」であるから県は入ることができない。だから、フロート内の調査は米軍の許可がないとできない。県は調査ができるように米軍にフロート内に入る許可を申請している。

県水産課は「(破壊が)どのような内容だったのか県として知る必要がある」とし、既に外務省を通じて米側に求めている米軍臨時制限水域内での立ち入り調査を認めるよう、近日中に再度求めることを明らかにした。
                    「琉球新報」
 県が立ち入り調査をするために米側に要求しているのを書いてある記事であるが、この記事の中に妙な文言がある。「米軍臨時制限水域内」である。図では「臨時制限区域」と書いてある。今までは「フロート」と書いていたが、「フロート」と書くわけにはいかなくなった。というのは県がフロート内に自由に入ることができないことが判明したからだ、沖縄の新聞は県がサンゴを調査をするためにフロートに入るには米軍の許可が必要であることを記事にしなければならなくなった。フロートは単なるフロートではなく「米国海兵隊施設」を示すフロートであることが明らかになった。だから、フロートから「臨時制限区域」に変えたのである。
 「臨時制限区域」とは意味不明の言葉である。


 大型フロートには「「米国海兵隊施設」と書いてある。であれは「米軍臨時制限区」ではなく「米国海兵隊施設」と書くべきである。それにしても「臨時制限区域」は分かるようで分からない妙な文言である。
フロート内は元々「米国海兵隊施設」であったのだから、「臨時」という言葉は適切ではない。「制限」はなにを制限しているのか意味不明である。
 大型フロートに「米国海兵隊施設」と書いてあるのはフロート内は「米国海兵隊施設」であるから進入してはいけないと警告するためである。つまり、侵入禁止の印がフロートなのだ。だから、「臨時制限区域」ではなく「侵入禁止区域」と書くべきだ。


 「進入禁止区域」と書いた方がフロートの設置目的が理解しやすい。
なぜ沖縄二紙やマスコミは「侵入禁止区域」ではなく意味不明の「臨時制限区域」と書くか、それは記事を見れば分かる。

「出て行け 犯罪者」 海保がカヌー市民に暴言 辺野古新基地
 【辺野古問題取材班】米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設に向けた作業が進む大浦湾で15日、カヌーで抗議行動をする市民に対し、海上保安庁の特殊警備救難艇「あるたいる」に乗った職員が「(臨時制限区域内から)出て行け、犯罪者」と発言した。市民や関係者らは「普段から思っていることが口に出たものだ」などと怒りの声を上げた。

 カヌー隊は同日午後、15艇で辺野古沖の長島付近の同制限区域付近で抗議行動を展開した。海保のゴムボートとの間でにらみ合いが続く中、一人の海上保安官が「犯罪者」と発言すると、市民は一斉に反発した。
 抗議船の船長仲宗根和成さん(36)は「あるたいる」に近づき、説明を求めたが、別の海上保安官が抗議船に乗り込み、沖合まで移動させた。その後、市民は行動を続けたが、カヌー5艇が次々と拘束され、辺野古の浜で解放された。
 行動後、仲宗根さんは「抗議自体を犯罪扱いされたら人権を批判されるようなものだ。われわれは作業への抗議をしたいだけだ。強権的な発言は許されない」と話した。カヌーチーム「辺野古ぶるー」を率いる佐々木弘文さん(39)は「反対すれば犯罪者ということか。普段から思っていることが出た発言だ」と批判した。
 第11管区海上保安本部は取材に対し「制限区域内に入る前に『入ると犯罪になる』といつも通りの指導をした。『犯罪者、出て行け』という発言は確認されていない」と説明した。
    「琉球新報」2015年4月16日
新報は「職員が『(臨時制限区域内から)出て行け、犯罪者』と発言した」と書いている。職員が理不尽な発言をしているように思えるが、意味不明の「臨時制限区域内」ではなく「侵入禁止区域内」を使えば印象が違ってくる。「職員が『(進入禁止区域内から)出て行け、犯罪者』と発言した」となる。犯罪者というのはひどい言い方とはと思うが、侵入区域内に入るのは違法行為であるからフロートを越えた者は犯罪者である。ひどい発言ではあるが間違ってはいないことが分かる。
 意味不明の「臨時制限区域内」では違法行為であるかそれとも違法行為でないかがはっきりしない。はっきりさせないのが新報の狙いであるのだ。抗議船やカヌー隊の違法行為をぼかす目的で「臨時制限区域」を使っていることが分かる。
 
 海保はフロート内に入った違法行為の抗議船やカヌーを拘束してフロートの外に出している。海保が取り締まるか否かの基準はフロート内かフロート外かである。フロート内なら取り締まるしフロート外だったら取り締まらない。ただ、フロートに最接近してフロートに入る可能性がある場合は警告をする。それだけのことである。海保は当然のことをしているだけだ。

 「抗議船の船長仲宗根和成さん(36)は『あるたいる』に近づき、説明を求めた」とあるが、仲宗根船長はフロートを越えて「あるたいる」に近づいたのだろう。だから、拘束され沖合に移動させられたのだ。
 「カヌー5艇が次々と拘束され、辺野古の浜で解放された」と書いてあるがカヌーは進入禁止区域内に入ったから拘束されたのだ。

仲宗根氏は「抗議自体を犯罪扱いされたら人権を批判されるようなものだ。われわれは作業への抗議をしたいだけだ。強権的な発言は許されない」と話したというが、海保は抗議自体を犯罪扱いしていない。進入禁止区域内に入った者を取り締まっている。また、犯罪行為をさせないためにフロートに接近した者に警告をしている。それしーは当然である。
作業への抗議をしたいだけならフロートの外からやればいい。仲宗根氏は「抗議」を理由にフロート内に侵入するから悪いのである。

新報は抗議船やカヌー隊の違法行為を隠蔽するために進入禁止区域を示すフロートを単なるフロートと書き、最近は臨時制限区域と書いている。
辺野古埋め立て反対派、名護市議会議員、沖縄二紙、本土マスコミキャスターなどは進入禁止区域を「フロート」「臨時制限区域」などと、「進入禁止区域」ではないような表見をして、堂々と「進入禁止区域」に侵入している。彼らは辺野古の海を無法地帯にしている。
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サンゴ保護か血の惨劇か

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サンゴ保護か血の惨劇か

那覇空港第二滑走路埋立地の写真である。浮き具はオイルフェンスだけである。


辺野古飛行場埋立地の写真である。浮き具が二つある。スパット台船の周囲にあるのは那覇空港第二滑走路と同じオイルフェンスである。もう一つは進入禁止を示すフロートである。
 同じ空港建設の埋立地であるのに、辺野古埋め立て地のほうが那覇空港埋立地より浮き具がひとつ多いのには理由がある。



その理由は2004年の辺野古沖飛行場建設断念にある。
 政府はボーリング調査をしようとした。すると政府が予想していなかった飛行場建設反対派の激しい妨害が起こった。
 2004年にはオイルフェンスもフロートも設置していなかった。すると、反対派はボーリング調査用につくったやぐらを襲ったのである。
 そして、やぐらによじ登り、作業員を暴力で追い出し、占拠した。

反対派の暴力による妨害でボーリング調査は断念した。


 政府は辺野古沖ボーリング調査が妨害された経験から今回の辺野古崎沿岸のボーリング調査でも反対派の妨害行為があることを予測して、フロートを設置したのである。フロート設置はボーリング調査の妨害を防ぐためには仕方のないことであった。妨害行為のない那覇空港第二滑走路の埋立地にはフロートが設置されていないことでそのことが理解できる。

 政府の予想通り、辺野古埋め立て反対派はボーリング調査への激しい妨害をした。
 彼らは海保がいない時に、フロートを超えて、オイルフェンスをも超えて作業を妨害したことがあった。



 もし、フロートを設置しなかったらどうなっていたか。
 辺野古埋め立て反対派の船とカヌーはオイルフェンスを囲み、四方八方からオイルフェンスを超えてボーリング調査をしているスパット台船に乗り込もうとしただろう。海保とすさまじい肉弾戦が勃発したであろう。怪我人は続出し、重傷者も出たはずである。最悪の場合は死者が出た可能性もある。
 フロートを設置したことにより、海保はフロート内に侵入した辺野古埋め立て反対派がオイルフェンスを超える前に確保してフロート外に出すことができた。
 フロートはボーリング作業を守ると同時に反対派の安全を守る役目を果たしている。フロート設置は必要不可欠であった。
 とにもかくにも辺野古埋め立て反対派がボーリング調査を妨害しなければフロート設置をする必要はなかった。トンブロックを設置することもなかった。
サンコを守りたいならば、公的な立場にある翁長知事は反対派の違法行為をやめさせる努力をするべきであった。ところが翁長知事はフロート内に侵入した反対派を取り締まった海保を過剰防衛だと非難したのである。公的な立場にある翁長知事が違法行為をかばったのである。信じられないことであるが、それが沖縄の現状である。

 県知事であるなら反対派が違法行為をしないで法律を遵守した抗議運動をするように指導するべきである。、しかし、指導したとしても翁長知事はカヌー隊などの辺野古埋め立て反対派の違法行為をやめさせることはできなかっただろう。彼らには県知事の権威など全然通用しないからだ。
彼らは市民ではない。カヌー隊は共産党、中核派、革マル派の活動家たちで構成している。プロレタリア革命を目指している彼らに日本の法律は通用しない。

 中核派と革マル派は兄弟であり両派は共産党の子供と言える存在である。

1956年に社会主義国家だったハンガリーで労働者たちが権利を主張して立ち上がった。蜂起は全国に広がり、ハンガリー政府では押さえきれなくなった。すると、ソビエト軍がハンガリーに侵攻して労働者の蜂起を弾圧した。
労働者の味方であるはずのソ連がハンガリーの労働者を弾圧したことに疑問をもった日本共産党員の一部がスターリン批判をやった。彼らはソ連よりの日本共産党から脱退して革命的共産主義同盟を結成した。
しかし、革命的共産主義同盟は中核派と革マル派に分裂する。
兄弟の近親憎悪は強く、内ゲバが激しくなり中核派と革マル派は殺し合いをするようになる。なんと80人近くが内ゲバで殺されたのである。

共産党、中核派、革マル派は対立関係にあるが、他方三者は共産主義であり社会主義国家を目指している。資本主義を否定し、議会制民主主義を否定し、反米主義であり、日米安保廃棄を主張している。そのことでは共通している。
三者には違いがある。


中核派
 中核派のブログより

攻勢につぐ攻勢をかけて、プロレタリア革命の勝利と共産主義社会の創造へと大進撃していこう。この過程でプロレタリアートの巨万の軍勢をつくりだそう。

 いま辺野古現地において執拗にたたかわれている労働者・人民の闘いが反安保の巨大な火柱となって燃え広がることを、米日両権力者は、心底から恐れている。
いまこそわれわれは、辺野古現地での「海底ボーリング調査阻止・埋め立て阻止」の闘いを、全人民の総決起で反戦・反安保の巨大な闘いとして爆発させるのでなければならない。
 
 九月九日に、わが県学連の学生を先頭とするカヌー隊と海上行動隊は、ボーリング調査を阻止すべくいっせいに決起した。七月の闘争開始いらい最大規模の七十名にのぼる労働者・学生・市民の部隊は、次々とフロートを飛び越えスパット台船に進撃する。海上保安庁の高速艇による弾圧をはね返しフロート内を縦横無尽に駆けめぐる。
そして、ついに海上阻止団はスパット台船によじ登り、「ボーリング調査阻止!」の断固たる決意を日米両権力者どもにつきつけたのだ。
 
 わが革命的左翼を先頭にした辺野古の海・陸における闘いは、沖縄全県の労働者・学生・人民の圧倒的共感を呼び起こしている。
 
 すべての労働者・学生諸君! いまこそわれわれは、日共指導部による「反安保」なき「米軍基地の縮小・撤去」請願運動をのりこえ、海底ボーリング調査阻止・辺野古埋め立て阻止の闘いを反戦・反安保闘争として爆発させるべくたたかいぬこう。
九月二十日に辺野古現地でとりくまれようとしている第二弾の「県民大行動」の戦闘的高揚をかちとろう!

 中核派は革命一直線である。すべての運動が革命へ発展するものであると考えて運動をしている。

革マル派
革マル派のスローガンである。

帝国主義打倒!  
スターリン主義打倒!
万国の労働者団結せよ!
統一地方選に没入する日共を弾劾し反戦反安保の火柱を!

革マル派は二段階革命論者である。今は革命を起こす時期ではない。革命を起こすための準備段階である。労働運動や大衆運動を展開しながら革命のための同志を増やしていき、その延長線上に革命を起こす。


共産党
 共産党も革マル派と同じ二段階革命論者であるが、革マル派との違いは選挙を認めているかいないかである。社会主義革命は実力で国家を倒す暴力革命しかないというのが定説であった。共産党も暴力革命目指していて暴力革命派が多数を占めていた。暴力革命論の中心的な人物が沖縄出身の徳田球一であった。彼は参議院議員であったが、暴力革命を目指している理由でGHQによって公職の場から追放される。徳田球一は中国に亡命して、中国から暴力革命をしようとしたが失敗した。暴力革命の失敗と徳田球一の病死によって暴力革命派は衰退し、選挙を認める柔軟路線の宮本顕治氏の勢力が強くなった。宮本氏が共産党の委員長になる。

 革マル派は共産党が選挙を認めたことを嫌った。だから、
「統一地方選に没入する日共を弾劾し
反戦反安保の火柱を!」
のスローガンを掲げているのだ。
 共産党は暴力革命を捨てたのではない。選挙と暴力革命の両方から革命を実現しようとしている。


辺野古の海のカヌー隊は中核派、革マル派に共産党の暴力革命を目指す部分の三者の野合集団であると考えられる。
 彼らの目的は実力でボーリング調査を阻止することである。彼らは日本政府、米政府を認めていない。敵視している。だから日本の法律も認めていない。彼らにとって立ち入り制限を示すフロートは目取真氏がブログで書いているように法的な存在ではなく単なる障害物でしかない。障害物を超え、オイルフェンスも超えてボーリング調査を阻止するのが彼らの目的である。
 だから、翁長知事が彼らの違法行為を止めることはできない。革新つながりがあるから批判することもできない。むしろ、海保の取り締まりを過剰警備だと非難して彼らを擁護している。県知事たるものが暴力革命を目指している連中を擁護しているのである。

31日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先となる名護市辺野古で抗議活動中に警察官の職務を妨害したとして、自称同市為又(びいまた)の自営業、仲宗根和成容疑者(35)を沖縄県警は公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕したが、彼は「僕は、日米両政府が敵です」と発言している。
「僕は、日米両政府が敵です。海上保安庁ではありません。ただ、目の前のことを無視することはできないですから。現実問題、目の前のことを一日一日積み重ねて『お前らがやっていることはおかしいんだよ』っていうことを教えながら、最終的には、相手は日米両政府ですね。基地建設を止めてくれというのが一番の目標です」
 仲宗根氏は日米両政府を敵だと言っている。日米両政府は北朝鮮や中国のような独裁国家ではない。議会制民主主義国家である。国民の選挙で選ばれた人が国会、政府を運営しているのであり、政府は国民の代表者である。そんな日米両政府を敵視するということは仲宗根氏が議会制民主主義を認めていないからである。彼も暴力革命を目指している中核派や革マル派と同類の人物なのであろう。

実力行使で妨害する集団が存在する限り、侵入制限区域を設定して、フロートを設置し、海保が取り締まるのはどうしても必要である。
 フロートは埋め立て作業には必要ない。それは那覇第二滑走路埋立地を見れば分かる。フロートは本来必要ないのだが、日米政府を敵視して、埋め立てに反対している中核派、革マル派、共産党が船やカヌーでボーリング調査の妨害活動をする限り必要である。
 フロートを固定するためのトンブロック設置の原因は辺野古埋め立て反対派の妨害活動が原因である。サンゴ保護を訴えるなら反対派に臨時制限区域に侵入しないで、ボーリング調査を妨害しないことを要求するのが筋というものである。
 辺野古埋め立て反対派が法律を守り、作業を妨害しなければトンブロックを設置する必要はないからサンゴを傷つけることはない。サンゴ破壊で非難するべきはカヌー隊である。

 ところが翁長知事は臨時制限区域に侵入したスヌー隊を取り締まった海保に過剰警備だと非難したのである。法の遵守をモットーとするべき県知事が暴力革命を目指し、違法行為を平気でやっているカヌー隊を弁護したのである。暴力革命論者の中核派、革マル派、共産党の味方になっているのが翁長知事である。

 なぜ、政府は那覇第二滑走路埋立地の写真を見せて、
「本来はフロートを設置する必要はない。だからトンブロックを設置する必要もない。フロートを設置したのは臨時制限区域内に侵入してボーリング調査を妨害する連中がいるからであり、彼らが紳士的に臨時制限区域外で抗議をするのならフロートを設置する必要はないし、サンゴを傷つけることもなかった」と主張しないのだろうか。そして、彼らが暴力的にボーリン調査を妨害しないのならフロートをすぐに撤去する。翁長知事も協力してほしい。」と言わないのだろうか。
  
 臨時制限区域を設定し、フロートを設置しなければならなかっのは辺野古埋め立て反対派の妨害を防ぐためであり、埋め立て工事とは本来は関係のないことをもっと県民にアピールするべきである。フロート設置の理由を理解すれば、県民はマスコミ報道が矛盾していることが分かるだろうし、トンブロックの設置やサンゴの損傷にも理解するだろう。

辺野古サンゴ、破壊89群体許可外2015年4月11日
埋め立て予定区域(岩礁破砕許可区域)

 【東京】米軍普天間飛行場の辺野古移設計画をめぐり、沖縄防衛局が2月に実施した調査でサンゴの破壊が見つかっていた問題で、破壊された94群体のサンゴのうち9割超の89群体は県が岩礁破砕を許可した区域の外だったことが10日、分かった。
     「WEBニュース」
 臨時制限区域を示すフロートを設置するためのトンブロックであるから、埋め立て予定区域外に投下するのは当然である。埋め立て予定区域内にトンブロックを設置して、どうして遠く離れたフロートを固定することできるだろうか。妙案があれば教えてほしいものである。
 図で分かるように臨時制限区域のフロートを設置するためのトンブロックを埋め立て予定区域内に投下することは不可能である。

 第一に問題するべきはフロートの設置が必要かどうかである。フロートが必要なければトンブロックを設置する必要はないしサンゴを傷つけることもないからだ。しかし、フロートを設置しなければ辺野古埋め立て反対派がオイルフェンスを超えてボーリング調査現場に押し寄せて海保とすさまじい闘いが起こる。
もし、翁長知事がフロート設置に反対すれば血の惨劇が起きてもいいのかと追究すればいい。
翁長知事がフロートの必要を認めれば、フロートを固定するためのトンブロックの設置が必要であることも認めなければならない。そうするとサンゴ破壊をしないでトンブロックが設置できるかどうか翁長知事が答えなければならない。

徹底して議論すべきなのはフロート設置が必要かどうかである。フロートを設置した時と設置しなかった時ではどうなるかを検討しない限りトンブロック設置を根本的に検討することはできない。
翁長知事、革新、沖縄二紙は根本的な問題から逃げている。ところが政府も自民党県連もフロート設置の根本問題を追及しようとはしない。サンゴ破壊は軽微であり岩礁破壊ではないと弁解に必死である。これでは県民の印象は悪いし、支持を得ることはできないだろう。


 防衛局は取材に対し「サンゴ類の損傷や摩耗痕などの、何らかの影響が確認された94群体のうち、岩礁破砕などに係る許可の区域内のものは5群体だ」と回答し、大部分が岩礁破砕許可区域外だったことを明らかにした。許可区域外の外側には立ち入りを制限する臨時制限区域が設けられている。県は制限区域の外側を調査し、サンゴ破壊を1カ所だけ確認しており、今回判明した89群体の破壊は許可区域外で制限区域内の海域とみられる。
       「沖縄タイムス」
 「WEBニュース」も「沖縄タイムス」も臨時制限区域と述べながら、臨時制限区域を設置した原因については言及していない。辺野古埋め立て反対派がボーリング調査の妨害をしなければ那覇飛行場第二滑走路埋立地のように臨時制限区域を設置する必要はないことを絶対に報道しない。
 フロートを設置しなければ血の惨劇が起こる。政府や自民党県連はフロート設置はやむをえないことを県民に訴えるべきである。

 フロートを設置してもカヌー隊や革新議員やマスコミの船がフロートを超えて臨時制限区域にどんどん侵入している現実を県民に知らせるべきである。

 大型コンクリートブロックの投下によって、辺野古の海には、実際にどれほどの影響が及んでいるのか。海草藻場への影響はどうか、サンゴの損傷は国がいう程度なのか、生態系への影響は本当に軽微なのか。第三者がチェックできる仕組みが不可欠だ。
 それは環境アセスメントの趣旨である「情報公開」と「説明責任」にも合致する。
     「沖縄タイムス」
 沖縄タイムスよ。トンブロックがサンゴを損傷させているからトンブロックは設置するなと主張しているのか。トンブロックにしろキロブロックにしろ海底に設置すればサンゴを傷つけることは避けられない。もし、サンゴを傷つけないことを許さないのならブロックを設置することも許さないことになる。ブロックが設置できなければフロートを設置することはできない。
沖縄タイムスよ。お前の主張はフロートを設置するなということなのか。それをはっきりさせろ。

フロート設置は血の惨劇か自然保護かの二者択一の問題である。

沖縄タイムスよ。お前が望んでいることはフロートを撤去して、中核派、革マル派、共産党の活動家と海保が激しいバトルになり血の惨劇が起きることなのか。そうすれば新聞は売れるだろう。新聞が売れるためにお前は血の惨劇を欲しているのか。

沖縄タムスだけではない。琉球新報、本土マスコミも血の惨劇を欲している。卑しい連中だ。

どうして、「臨時進入制限区域」ではなく、進入を消して「臨時制限区域」と書いているのか。ここにもマスコミの卑しさを感じる。
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翁長知事が「県外移設」を言えなかった理由

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翁長知事が「県外移設」を言えなかった理由

2010.5.23 鳩山首相が再来県し、名護市辺野古への移設を明言
2010.5.27 全国知事会議で鳩山首相が訓練分散を要請
2010.5.28 日米両政府が辺野古崎地区とこれに隣接する水域を移設先とする共同声明発表
2010.6.4 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した


 政府が最初に辺野古移設を提案した時、辺野古区民、名護市長、名護市議会、県知事の4者が反対していた。県側の提案を政府が拒否したこともあった。お互いの要求と妥協を模索しながら合意に達したのだが、民主党政権に代わると、合意を無視した鳩山首相は県外移設を主張した。しかし、本土では普天間飛行場を受け入れる地域はなく鳩山首相の県外移設はとん挫した。再び辺野古移設に戻った。その時に初めて辺野古区民、名護市長、県知事、日本政府、米政府の5者が同意した。これで辺野古移設が決定したのである。
 その後は、県から埋め立て承認を得るために公有水面埋立法に則った書類作成の段階に入ったのである。


2011年12月28日
未明に沖縄防衛局が普天間基地移設事業に対する環境アセスメント評価書を沖縄県庁の守衛室に運び込んだ。1月4日、沖縄県は評価書の受理にあたって、速やかな情報開示と、市民の意見聴取の機会の提供を約束した。
2012年12月18日
 防衛局は県の疑問に答えた普天間環境影響評価書補正書を提出している。 
 沖縄防衛局は18日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた環境影響評価(アセスメント)を補正した評価書を県に提出した。アセスの手続きは事実上終わった。政府は今後、仲井真弘多知事に辺野古の埋め立て承認を申請する。県は文書に不備がないかを19日以降、確認した上で受理する。防衛局は補正した評価書の公告・縦覧を県や名護市、宜野座村、防衛局の各庁舎など5カ所で行うことで調整する。年内にも始まり、期間は1カ月。仲井真知事は衆院選直後で、新政権の発足前の補正評価書の提出について「想定外」と報道陣に述べた。
公告・縦覧終了前に埋め立て承認を申請することは可能だが、防衛省は「一般的には公告をした後となる」としている。
補正された評価書は、オスプレイを含む航空機騒音は、評価書にはなかったホバリングやエンジン調整音を加えた騒音予測調査により、辺野古漁港でうるささ指数(W値)が環境基準値を超える71・3となった。調査全15地点でW値が評価書の値から増加した。
国の特別天然記念物・ジュゴンについては、個体群存続可能性分析(PVA)による予測を実施、100年後の絶滅確率を算出した。「繁殖率や雌の初期個体数による絶滅リスクの差は比較的大きい結果となったが、事業実施前後の絶滅リスクに差は認められなかった」と結論付けた。
防衛省が確認しているジュゴン3頭の自然絶滅のリスクの大きさと比較し、事業による環境収容力の低下が与える絶滅リスクへの影響を過小に評価している。
県によると、防衛局は18日午後3時半ごろ、職員約20人が環境政策課と海岸防災課などに約20箱の補正評価書を運び込んだ。同4時ごろ、名護市と宜野座村にも補正評価書を届けた。
仲井真知事は県条例と法令に基づき、今年2月と3月に防衛局へ「環境保全は不可能」と結論付け計579件の不備を指摘する知事意見を提出した。補正で知事意見がどう反映されたかが焦点となる。

2013年3月22日
沖縄防衛局は辺野古沖米軍新基地建設のための「公有水面埋め立て申請書」を沖縄県に提出した。この日、名護漁協が辺野古埋め立て合意書を防衛省に提出したのを受けて、ただちに沖縄防衛局職員が名護市の県北部土木事務所を訪れ、「埋め立て申請書」を提出した。

2013年5月31日
沖縄防衛局は辺野古埋め立て申請の補正書を提出 
 沖縄防衛局は31日午前11時53分ごろ、県土木建築部海岸防災課に、米軍普天間飛行場代替施設建設事業に関する公有水面埋め立て承認申請書の補正書を提出した。
 提出を受け、仲井真弘多知事は同日、「内容を見てからだ。いよいよ本格的なチェックができる。ルールに従い(埋め立て承認申請に対し)判断したい」と述べた。同課と県土木建築部漁港漁場課は「補正が適正に行われていることが確認された場合は告示・縦覧に向けた手続きを、補正が不十分な場合は再補正を求める」との考えを示した。
 一方、沖縄防衛局の武田博史局長は「普天間飛行場の危険性除去は喫緊の課題で、固定化は絶対に避けなければいけない。本事業に厳しい声があることは承知するが、引き続き政府の考え方を説明し、沖縄の皆さまの理解を得る努力を誠心誠意行う」との談話を発表した。
 県は3月22日、沖縄防衛局が提出した同承認申請書に補正が必要な事項があるとして、4月12日に沖縄防衛局に対し補正を求めていた。期限は6月11日としていた。【琉球新報電子版】

 2011年12月28日から埋め立て申請の手続きは始まっていたのである。防衛局は県を納得させるために何度も補正書を提出した。

2013年12月27 日
仲井真弘多知事は27日午後3時すぎから、那覇市の知事公舎で記者会見し、政府が米軍­普天間飛行場の移設に向けて申請した名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認したことを正­式に発表した。


 
菅直人首相が日米合意の踏襲を明言した2010年6月4日に辺野古移設が最終的に決まった。それ以後は、辺野古移設を阻止するには日米両政府を設断念させる以外に方法はなかった。ところが翁長知事は自分が知事になれば辺野古移設を阻止できると公言した。辺野古移設反対を公約にした翁長知事が当選しても、日米両政府が断念しない限り辺野古移設を阻止することはできない。それなのに辺野古移設を阻止できると公言したのは翁長知事は県民を騙したのである。それだけではない。辺野古移設ができなければ普天間飛行場が固定化する。翁長知事は固定化ではなく県外移設ができると公言したがそれは嘘である。翁長知事は県民に嘘をついたのである。
県外移設が不可能であることは鳩山首相が実現できなかったことで明らかである。それなのに翁長知事が県外移設を前提に辺野古移設反対を公約にしたのは県民を騙したということになる。

県外移設が不可能な理由はひとつだけではない。
革新は閉鎖・撤去を主張している。県外移設には反対である。翁長知事も革新も辺野古移設に反対であるが普天間飛行場の危険性除去の方法は県外移設と撤去・閉鎖に分かれている。翁長知事の県外移設に革新は反対するだろう。そのことからも県外移設は不可能であることが分かる。

県外移設が不可能であることは実は琉球新報も認めている。

そこには、「抑止力」とは何か、なぜ海兵隊の拠点が沖縄でなければならないのかという、沖縄の記者がずっと問い続けてきた論点が抜け落ちている。民主党政権で防衛相を務めた森本敏氏は在任中の2012年、普天間の移設先について「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」と述べた。防衛省OBで元内閣官房副長官補の柳沢協二氏も「海兵隊は沖縄で抑止力にならない」と指摘するように、沖縄への基地集中は軍事的理由からではなく、他府県で引き取り手がないという政治的理由からであることを認め始めている。

「沖縄のことは沖縄県民が決める」。沖縄でなくてもいいはずが、辺野古という沖縄に押しつけられようとしている構図が明らかになるにつれ、県民の間には「沖縄だからいいでしょうという沖縄差別だ」という思いが表に出始めている。自分たちのことは自分たちで決めるという自己決定権が強く意識されている。それがゲート前の行動にも結びついている。翁長知事の誕生もその延長線上に位置付けられる。沖縄県外の国民はそこから目を背けることなく、そろそろ直視する時期に来ている。
(琉球新報・編集局 記者 滝本匠)
 森本敏氏が「政治的に県外移設ができない」と述べた。県外移設ができない理由はすばり受け入れる場所がないからである。そのことに対する琉球新報の反論が「沖縄差別」であるが、それは県外移設ができるという主張ではない。沖縄差別されているから県外移設ができないと述べているのである。反論ではなく県外移設ができない原因を述べているだけである。
 琉球新報は翁長知事の誕生の原因を述べているが、一方では県外移設ができないことを認めているのである。翁長知事が誕生しても「政治的に県外移設」ができない状況は変わらないのだ。

  

知事選前の普天間飛行場の移設先希望の県民世論である。
 県外と国外を合わせる76.4%である。辺野古移設反対は76.4%であるが、県外移設となると38.4%であり国外移設と半々になってしまう。県外移設が県民総意ではないし、国外移設が県民総意というものでもない。翁長知事を選んだ県民全員が県外移設希望というわけではないのだ。
 世論調査でも辺野古移設ができなかったら普天間飛行場が固定化してしまうことが明らかである。

 県民に問うべきは辺野古移設反対か否かではなく普天間飛行場の固定化を選ぶか辺野古移設を選ぶかの二者択一であった。ところが翁長知事は辺野古移設反対を公約にして、県外移設の翁長陣営と国外移設(閉鎖・撤去)の革新陣営が一緒になったのである。

4月5日に菅官房長官と翁長知事は会談した。そして、お互いの主張を述べた。新聞の見出しには「辺野古断念を要求」「知事『新基地出来ぬと確信』「キャラウェイ重なる」「知事、弁務官例え非難」「沖縄戦後の思いに、知事止まらぬ言葉」「菅氏、勢い押されぶぜん」等々、翁長知事が菅官房長官を圧倒した記事の内容である。ところが不思議なことに、菅官房長官は辺野古移設ができなかったら普天間飛行場が固定化することを強調したのだが、それに対して翁長知事は普天間飛行場の固定化を避ける方法としての県外移設を主張しなかった。
翁長知事は知事選の時からずっと県民に県外移設を主張してきた。翁長知事が県外移設をやるものだと県民は信じているだろう。翁長知事は当然菅官房長官に県外移設を要求するべきである。ところが5日の会談で翁長知事は県外移設を口に出していない。いや、口に出せなかったのだ。
「県外移設」はすでに破たんしていることを翁長知事は知っている。だから、県外移設を菅長官に要求するのを避けたのである。「県外移設」は県民の指示を得るための方便でしかないのだ。


4月5日の翁長知事は、
 「辺野古は建設できないとの確信を持つ。建設は絶対不可能だ。頓挫で起こる事態は全て政府の責任だ」「争点は(前知事による辺野古の埋め立てに関する)承認への審判だった。圧倒的な考えが示された」「『粛々』という言葉を何度も使う官房長官の姿が、米軍軍政下に『沖縄の自治は神話だ』と言った最高権力者キャラウェイ高等弁務官の姿と重なる。県民の怒りは増幅し、辺野古の新基地は絶対に建設することはできない」「基地建設のために土地を強制接収され、県民は大変な苦しみを今日まで与えられてきた。そして普天間飛行場は世界一危険になったから『危険性除去のために沖縄が負担しろ』と言う。(反対すると)『日本の安全保障はどう考えているんだ』と言う。こんな話が出ること自体、日本の政治の堕落ではないか」等々、普天間飛行場の固定化を主張する菅長官に対して直接反論をしないで沖縄の不幸を訴えるだけであった。

 
 琉球新報はキャラウェイ発言を一面トップで取り上げた。キャラウェイ弁務官は「沖縄の自治は神話だ」と発言したことで有名である。しかし、キャラウェイ氏は沖縄二紙や革新政治家がつくりあげた虚像である。

「キャラウェイと重なる」 知事、弁務官例え批判 菅官房長官と初会談 2015年4月6日

 翁長雄志沖縄県知事と菅義偉(よしひで)官房長官は5日、那覇市内のホテルで会談した。米軍普天間飛行場移設問題に関し、菅氏は「辺野古移設を断念することは普天間の固定化にもつながる。(仲井真弘多前知事に)承認いただいた関係法令に基づき、辺野古埋め立てを粛々と進めている」と説明した。翁長氏は「『粛々』という言葉を何度も使う官房長官の姿が、米軍軍政下に『沖縄の自治は神話だ』と言った最高権力者キャラウェイ高等弁務官の姿と重なる。県民の怒りは増幅し、辺野古の新基地は絶対に建設することはできない」と強く批判した。
「琉球新報」

朝日新聞も取り上げた。
翁長氏「菅氏とキャラウェイ氏が重なる」 沖縄で共感
朝日新聞デジタル 4月6日(月)21時20分配信
 「キャラウェイ高等弁務官が重なる」。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題をめぐる菅義偉官房長官(66)との5日の会談で翁長雄志知事(64)が発した一言が、沖縄の人々の共感を誘っている。キャラウェイ氏は米国支配下の沖縄で強権的な政策を進めた人物。発言が支持される背景には、批判を国に受け止めてほしいという沖縄の願いがありそうだ。
        「朝日新聞」

. キャラウェイ氏が「沖縄の自治は神話だ」の講演をしたのが「ホテル沖縄ハーバービュー 」であった。キャラウェイ氏は歴代の高等弁務官の中で一番有名であり一番嫌われた人物である。
1961年から3年半の間、沖縄を統治したキャラウエイ高等弁務官(故人)。彼の進めた離日政策は「キャラウエイ旋風」と呼ばれる大きな波紋を政治、経済両面に巻き起こした。
「キヤラウェイ旋風」は沖縄にパニックを起こした。中学生の私でも「キヤラウェイ旋風」のことは知っていたくらいである。

「自治は神話」演説 1963年3月6日琉球新報朝刊2009年3月6日
1963年3月5日、キャラウェイ高等弁務官は那覇市内・ハーバービュークラブの「金門クラブ3月月例会」に招かれ演説。翌6日の琉球新報朝刊は1面で演説内容を次のように記す。
「自治とは現代では神話であり存在しない。琉球が再び独立国にならないかぎり不可能」「琉球政府への権限委譲は行政命令にも規定し、努力も払われているが現在の琉球政府の状態ではまだまだ」
演説は県民の「自治権拡大」の熱望に冷水を浴びせ、同日夕刊で立法院野党各党は猛反発した。
「沖縄が植民地であることを弁務官自身が裏づけた民主主義の否定」(安里積千代社大党委員長)、「弁務官は法なりの独裁支配、植民地支配」(岸本利実社会党政審会長)、「沖縄県民の解放の盛り上がりに弁務官が直接統治による弾圧に出ることを示す」(古堅実吉人民党書記長)。
キャラウェイ弁務官は1961年2月に沖縄着任。64年7月退任までの3年半、絶対権力者として君臨し、“キャラウェイ旋風”の異名を残した。
本紙紙面から「本土集団就職を中止せよ 民政府通達」(63年6月27日朝刊)、「本土就職中止指示を撤回」(同28日夕刊)、「所得税引き下げストップ」(62年6月24日朝刊)、「公共建物の日の丸掲揚許可 祝祭日と正月」(61年6月24日朝刊)、「Aサインの新制度実施」(62年4月28日夕刊)など、豪腕ぶりがうかがえる。

 高等弁務官:米軍統治下の1957年から72年、6代にわたる沖縄統治の最高責任者。米国防長官が大統領の承認を得て現役軍人から選任。司法、立法、行政の全権を掌握し、琉球政府行政主席、一般職員の罷免、法令制定・改廃、立法法案の拒否、裁判権移送などの権限を行使した。
                      「琉球新報」

 キャラエイ氏の講演の原稿を読むと「自治は神話である」の趣旨が逆であることはが分かる。キヤラウェイ氏は沖縄の自治を否定したのではなく、むしろ自治を促進しようとした。キャラウェイ氏が「自治は神話である」で言いたかったのは、自治とはいわゆる国づくりであり、多くの困難がある。真剣に取り組まなければ自治は確率できない。ところが沖縄の政治家や経済人は自治のことを知らないし、本気で自治を築き上げようとはしない。自治を主張しても今のままでは神話でしかないとキャラウェイ氏は述べ、声だけの「自治論」を痛烈に批判したのが「自治は神話である」であった。
 キャラウェイ氏は弁護士資格を持っていて法律に詳しかった。キャラウェイ氏だけでなく、歴代の高等弁務官は全員弁護士資格を持っていた。軍事専門家が高等弁務官になったのではない。法律の専門家が高等弁務官になっていたのだ。

 「本土集団就職を中止せよ 民政府通達」は沖縄が独立するためには若い労働者は沖縄に住み、本土にはいかないほうがいいという単純な考えから本土就職を中止させた。キャラウェイ氏は弁護士出身だから、政治や経済には精通していなかった。貧しい沖縄は本土就職をしなければならなかったが、そのことをキャラウェイ氏は知らなかったのだ。自分の間違いを知ったキャラウェイ氏はすぐに撤回した。
公共施設、議員、公務員、教育等々は税金によって賄われる。ところが自治について精通していない沖縄の政治家たちは市民の支持を得るために税金を引き下げたのである。それでは自治が破たんする。だからキャラウェイ氏は「所得税引き下げストップ」を出したのである。「Aサインの新制度実施」は飲み屋の質の向上のためであった。
 戦後初めて製鉄工場をつくったのがキャラウェイ氏である。拓南製鉄がそれである。
 琉球銀行を設立したのは米民政府であったが、経営はずさんであり、賄賂が横行していた。キャラウェイ氏は銀行の腐敗を一掃した人物である。そして、琉球銀行の正常化の自らが行った。
 その事実過程が「キャラウエイ旋風/命令なかった」という題名で2000年4月17日に琉球新報に掲載された。

著者は不正告発を担った琉球政府金融検査部の部長だった外間完和さん(72)(公認会計士)=那覇市。「キャラウエイ旋風-琉球政府金融検査部長回顧録」(ひるぎ社)がその本。
この中で外間さんは63年から64年に起きた銀行や損保、生保など八社に上る金融機関の事件摘発の経過を詳述した。(1)告発や経営陣刷新、合併勧告などはすべて金融検査部の発案だった(2)個々の事件の処理方針はすべて弁務官あてに手紙で送ったが、文書による返事は一回もない。口頭で了承の返事をもらった。事前承認を得ていないものもある(3)金融検査官の勧告を無視する経営者が多かったため「高等弁務官の命令」と言って従わせた-というのがその要点だ。保管してきた覚書の豊富な引用が主張を裏付けている。
秘話も数多い。端緒となった三和相銀の不祥事は定例の銀行検査で発覚、金融検査部全員の協議の結果「経営陣の総退陣が必要」と結論が出た。この方針を「琉球政府首脳部で握りつぶされたら困る」ので高等弁務官と行政主席あてに同時に報告書を提出した。
占領史に詳しい宮城悦二郎さんは「個々の事件について弁務官の指示がなかったことは知られておらず、それが一挙に明るみに出た。一番の当事者だった外間さんの証言だから意味がある。ただ、キャラウエイは金融機関の情実融資などを嫌っており、彼に(粛正の)意思がなければできなかっただろう」と話す。
当時、外間さんの部下だった与座章健氏(元沖縄海邦銀行副頭取)は「当時、弁務官の命令"が実際にはないというのは、部下のわれわれもうすうす知っていた。ただ、金融機関は経営改善する必要があるというのは米民政府の一致した意見だった」と語る。
現在、金融再生委員会の委員を務める中地宏さん(日本公認会計士協会)は「当時の沖縄と現在の日本はよく似た要素がある。敢然として不正と闘った外間さんの足跡は感動的だ。米軍の指示でなく、自らやる、という点にウチナーンチュの誇りが表れている」と話している。
                         「琉球新報」
 琉球新報は銀行腐敗の一掃をウチナーンチュの手柄にしているがキャラウェイ氏の存在なくしては腐敗をなくすことはできなかった。
 
 1950年から亡くなる1966年まで米民政府経済局に勤務していたサムエル・C・オグレスビー氏は、沖縄の二大産業である製糖産業、パイン産業の基礎を築き、味噌醤油工場、食油工場、ビール工場、セメント工場、お菓子、鉄筋、合板など製造加工業の90%を直接間接に後援指導した。オグレスビー氏は「沖縄産業の恩人」と讃えられている。しかし、そのことを知っている県民は少ない。
 米軍が沖縄経済に貢献しているのは基地経済だけのように思われているが、それはとんでもない誤解である。沖縄の経済発展に尽力したのは米民政府であったのだ。

米民政府について調べれば調べるほど、沖縄の経済発展や民主化を進めてきたのが米民政府であることが判明してくる。祖国復帰運動や基地反対を掲げてきた革新は沖縄の経済発展に全然貢献していないし、民主化にも貢献していない。
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辺野古埋め立ての歴史を見れば誰が正しいかわかる

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辺野古埋め立ての歴史を見れば誰が正しいかわかる
1995年
9月4日米兵による暴行事件発生
1996年
3月22日 大田知事が橋本首相との会談で普天間基地の早期返還を要求。首相は「現
       状は厳しい」と発言
4月12日 橋本首相とモンデール駐日米国大使が普天間飛行場を5年から7年以内に
       返還すると発表
4月14日 普天間返還は移設条件付であることが判明
6月.26日 米軍が普天間移設3候補地(キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセン、
       嘉手納弾薬庫)を提案していたことが判明
9月17日 橋本首相来県、講演で撤去可能な海上基地建設検討を表明
11月16日 久間章生防衛庁長官が「キャンプ・シュワブ沖が有力」と言及

1997年
8月23日 橋本首相来県、講演で「普天間返還は海上基地建設が前提」と明言
11月5日 久間防衛庁長官来県、名護市と県に海上基地基本案を提示し、協力要請
12日21日 ヘリ基地建設の是非を問う名護市民投票(反対:16,254票,賛成:14,269票)
      で反対が賛成を約2300票上回る
12月24日 比嘉名護市長が橋本首相に海上基地受入を伝え、辞職すると表明。
       大田知事は海上基地の結論を出す前に翌年1月中旬以降の再会談を約束。

1998年
2月6日 大田知事、海上基地受入れ拒否を表明
2月8日 名護市長選で移設容認派が推進する岸本建男氏が1万6253票を獲得し当選
       玉城氏に1150票差。投票率は82.35%
5月15日 普天間飛行場の県外移設など要請で大田知事訪米
11月11日 小渕首相 海上基地見直し表明
11月15日 知事選で県内移設容認(15年使用期限付軍民共用)の稲嶺恵一氏が
       37万4833票を獲得し初当選。大田昌秀氏との表差3万7464表。
      投票率76.54%

1999年
8月21日 宜野湾市議会が県内移設要請決議
9月.24日 名護市辺野古区行政委員会、陸上・埋め立て案反対決議
9月.27日 名護市議会「北部地域への新空港早期建設に関する要請決議」否決
1015日 沖縄県議会「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」可決
11月19日 第13回沖縄政策協議会 稲嶺知事が「早期に移設候補地を表明したい」と
       発言。政府は北部振興策などの取組方針7項目を提示
11月22日 稲嶺知事、移設先は名護市の辺野古沿岸沖(キャンプ・シュワブ水域内)
       と発表
11月25日 稲嶺知事候補地決定を政府へ伝え、15年使用期限を要請
12年3日 稲嶺知事が岸本名護市長に移設受入要請
12月23日 名護市議会、徹夜審議で辺野古沿岸地域への移設促進決議
12月27日 「普天間」で岸本名護市長、条件付き受け入れ表明
12月28日 代替施設を「キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」と閣議決定


2000年
8月25日 普天間飛行場代替施設の基本計画を協議する「代替施設協議会」の初会合
       開催。国と県、移設先地元の名護、東、宜野座3市村で構成。第15回沖
       縄政策協議会も開かれ、21世紀プラン最終報告を決定
1月16日 第5回代替施設協議会。
①くい打ち桟橋(QIP)
②ポンツーン(海上浮体)       
③埋め立て―の3工法について協議。
岸本名護市長は使用期限と基地使用協定で「基本計画と同時並行的に進めてほしい」と要望。工法でも環境に配慮した必要最小限の工事・施設を要請
6月8日 第7回代替施設協議会、第6回北部振興、第4回移設先・周辺地域振興、第4回跡地対策準備協議会を開催。代替協では代替施設案として3工法8案を提示。岸本名護市長は「基地使用協定、使用期限、振興策は平行して進めるべき、それらの問題が進展がない状況では、早急に結論を出すつもりはない」と名言。
提示された工法の工期は6年から18.5年、建設費は1400億円から1兆円、年間維持管理費は7000万円から7億7000万円と試算
12月27日 第8回代替施設協議会、第8回北部振興、第5回移設先・周辺地域振興、第6回跡地対策準備協議会を開催。建設位置「リーフ上」で可能な限り側、北東側に建設することで合意。岸本名護市長は「軍民共用でできる限り縮小」との考えを表明

2002年
9月27日 稲嶺知事が県議会で15年使用期限の解決なくして着工はないとの立場を表明
11月17日 県知事選で稲嶺氏が大差で再選

2003年
4月8日 政府が辺野古沖で現地技術調査を開始
12月19日 第2回代替施設建設協で防衛施設庁が事業主体となることを正式に報告

4月7日 県がボーリング地質調査の公共用財産使用協議に同意

2004年8月13日
 米海兵隊ハワイ所属の大型輸送ヘリCH53Dが沖縄国際大学 の一号館本館に接触、墜落、炎上した。


2004.9月9日 防衛施設局、辺野古沖でボーリング調査開始

ボーリング調査は
反対派の妨害により断念する。
 政府は海上移設を断念する。

10月1日 小泉首相が在沖米軍基地の本土移転推進の意向を初表明

2005年
2月6日 政府が辺野古移設の見直しを検討していることが明らかに
2月15日 米連邦議会の海外基地見直し委員会が在沖基地視察で来沖。稲嶺知事が海兵隊の県外移設を要求
3月10日 小泉首相が辺野古移設の見直しを指示していたことが判明。海上移設を断念した小泉首相は、稲嶺知事の要求もあり、県外移設を目指し、調査を開始した。しかし、調査により県外移設は不可能であることが判明した。
馬毛島は鹿児島県にある無人島である。住民の住んでいる島から12キロメートル離れた場所に馬毛島はある。馬毛島は米軍空母艦載機の離着陸訓練の候補地になっていた。完成すれば嘉手納飛行場の戦闘機も馬毛島で離着陸訓練をやる予定であった。
「馬毛島」のある鹿児島県西之表市の市議会議員らが来県し、嘉手納飛行場を視察した。市議たちは嘉手納飛行場の戦闘機のごう音に驚いた。嘉手納飛行場を視察した市議たちを中心に馬毛島の離着陸訓練への反対運動が広がった。県や地元4市町の反対によって馬毛島の滑走路の建設は中止している。
12キロも離れている無人島の「馬毛島」で戦闘機の離着陸訓練する滑走路を造るこことでさえ反対するのが本土の住民である。沖縄のマスコミや米軍基地反対派の人たちは米軍基地被害の凄まじさや海兵隊員の恐ろしさを本土の人たちに発信し続けてきた。だから本土の住民は米海兵隊がやってくることに恐怖し拒否反応が起こる。
普天間飛行場用地の大きさは馬毛島の離着陸訓練用滑走路の比ではない。普天間飛行場移転となると馬毛島と違って海兵隊もやってくる。住民の住んでいる場所から12キロメートルも離れている馬毛島の離着陸訓練用滑走路建設にさえ反対するのだから、普天間飛行場の移設ならもっと激しい反対運動が起こるだろう。西之表市の市議会議員らの「馬毛島」の陸上着陸訓練滑走路建設への拒否反応をみれば、本土の住民が普天間飛行場を受け入れるのは不可能であることがわかる。

6月23日 小泉首相「自分の所へ来てくれるなという地域ばかりだ」と兵力の本土移転を困難視「総論賛成、各論反対」で県外移設を断念する。
9月27~30日 日米審議官級の非公式協議で、日本のキャンプ・シュワブ陸上案と米側の辺野古リーフ内縮小案(浅瀬案)で調整難航
10月1日 稲嶺知事が県選出国会議員らと意見交換し、普天間代替案のキャンプ・シュワブ陸上案と辺野古リーフ内縮小案(浅瀬案)に否定的な見解示す
10月13日 額賀福志郎自民党安保・基地再編合同調査会座長が小泉首相に「沿岸案」を提案
10月15~17日 米国務・国防省高官、県や県議会ら地元関係者に「普天間」の県内移設を条件に、嘉手納基地以南の基地を北部に集約する案を説明

10月26日 日米審議官協議で辺野古沿岸案基本合意
10月31日 稲嶺知事、北原防衛施設庁長官と会談、午後、沿岸部移設を拒否を表明
11月1日 那覇防衛施設局、辺野古沖調査の一時中止を発表
11月1日 辺野古、豊原、久志3区の区長が北原防衛庁長官と会談、沿岸案拒否を伝える
11月7日 宜野座村議会、沿岸案反対を可決
11月8日 額賀福志郎防衛庁長官が来県し稲嶺知事、岸本建男名護市長と会談。
11月9日 額賀防衛庁長官が記者会見、沿岸案の修正を否定
11月10日 政府、米軍再編中間報告の取り組み方針を閣議決定
11月16日 ブッシュ米大統領来日,小泉首相と会談.中間報告の合意内容の実施を要求
12月3日 麻生太郎外相とラムズフェルド米国防長官が会談。3月の最終取りまとめに
       向け作業内容確認
12月16日 県議会が沿岸案反対の意見書を全会一致で可決
1 2月21日 宜野湾市議会、沿岸案反対を賛成多数で決議
12月26日 自民党の山崎拓沖縄振興委員長が記者会見、沿岸案推進を言明

2006年
1月22日 名護市長で沿岸案に反対し、修正案に柔軟姿勢を示す島袋吉和氏が初当選
2月4日 岸本名護市長、沿岸案の協議に応じないとの姿勢を文書で表明
2月9日 島袋名護市長が上京。小池百合子沖縄担当相、山崎沖縄振興委員長らと会談。沿岸案反対伝える
2月23日 自民党県選出・出身国会議員が小泉純一郎首相に沿岸案修正を要請。首相は修正を拒否
3月9日 稲嶺知事が額賀防衛庁長官と会談。沿岸案拒否を伝える
3月9日 小泉首相と山崎氏らが会談。シュワブ沿岸部移設案修正を否定
3月17日 政府、沿岸案の滑走路の向き変更の検討明らかに
3月21日 小泉首相と額賀防衛庁長官が会談。首相が微修正を容認
3月5日 沿岸案をめぐり島袋名護市長と額賀防衛庁長官が協議
3月26日 島袋市長と額賀防衛庁長官が再協議
3月28日 小泉首相、額賀防衛庁長官、山崎自民党安全保障調査会長、守屋武昌防衛事務次官が会合。沿岸案を原則とする方針を確認
3月30日 額賀防衛庁長官と金武、恩納、宜野座、東の4町村長が会談
3月31日 名護、金武、恩納、宜野座、東の5市町村長が会合
4月4日 島袋市長、額賀防衛庁長官との再協議で上京
4月7日 島袋名護市町が滑走路2本案(V字形案)で政府と合意。宜野座村も政府と基本合意書締結
5月4日 稲嶺知事、キャンプ・シュワブ陸上部に暫定へリポート整備を求めることなどを盛り込んだ「米軍再編に関する県の考え方」を発表
5月30日 政府、県の反対を押し切り、米軍再編最終報告の実施に向けた方針を閣議決定。「合意案(V字形案)を基本」としたが具体的な内容は見送り。1999年の閣議決定廃止、新協議機関の設置も決定
8月18日 稲嶺知事と額賀長官、普天間移設の協議機関の早期設置に向け調整することで合意。知事は暫定ヘリポート案本格討議を要求
9月26日 安部内閣が発足。久間章生氏が防衛庁長官に就任
10月7日 稲嶺氏後継として知事選に出馬表明した仲井真弘多氏が政策発表「現行のV字形案では賛成できない」と表明。後に「普天間飛行場の3年内閉鎖状態の実現」を公約
10月30日 仲井真氏、「(移設先の)ベストは県外だが、県内移設もやむを得ない」とキャンプ・シュワブ沿岸部移設容認を示唆

11月19日 仲井真氏、県内移設反対の糸数慶子氏を退け、知事に初当選
11月28日 久間長官、「3年内閉鎖状態」について「事実上できない」と否定

2007年
.1月19日 第3回普天間移設措置協議会開催。名護市が約350メートル沖合いに移動する修正案提示。政府は2010年1月ごろの埋め立て工事開始を提示
2月5日 守屋武昌防衛事務次官が仲井真知事との会談で場周経路の見直しを柱とする普天間飛行場の危険性除去策を提示
4月24日 県は公共用財産使用協議書への同意書を那覇防衛施設局に交付
4月25日 仲井真知事、島袋名護市長らとともに防衛省で久間防衛相と会談。市、県が求める沖合移動は進展なし
8月7日 防衛施設局が県などに環境アセス方法書送付。県と名護市は受け取りを保留
8月14日 環境アセス方法書の公告縦覧

10月23日 仲井真知事は「環境アセス手続きの一つとして受け取らざるを得ない」とし、方法書の受け取り保留を解除

2008年
2月7日 第6回協議会で町村官房長官が「沖合い移動も念頭に置き、建設計画の問題などについても協議する」と表   
     明
2月14日 沖縄防衛局が追加修正資料の修正版を沖縄県に提出し、方法書を確定
3月14日 沖縄防衛局が方法書の追加修正資料の修正版を沖縄県に提出し、方法書を確定

2009年
1月20日 バラク・オバマ氏が第44代米大統領に就任
3月7日 麻生太郎首相が就任後初来県し、仲井真知事が沖合修正をあらためて要請

普天間代替施設、政府案より沖へ90m…政府が譲歩方針(読売新聞07.12.31)2010年
1月24日 名護市長選で稲嶺氏が初当選
2月24日 県議会が普天間の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書を全会一致で可決
3月8日 沖縄基地問題検討委員会で、社民が国外や県外移設、国民新がシュワブ陸上と嘉手納基地統合などの移設案を提案
3月26日 北沢俊美防衛相が仲井間知事との会談で「現行案は極めてゼロに近い」と明言
4月9日 鳩山首相が移設先として鹿児島県徳之島を明言。
     県外移設先の候補地は一か所も上げることができなかった鳩山首相であった。徳之島を候補地にあげたが、徳之島との事前交渉はなく、一方的に鳩山首相が決めたのである。
4月12日 鳩山首相がオバマ米大統領と非公式会談で沖縄の負担軽減に理解を求める
4月18日 徳之島で「米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会」に1万5000人が参加
4月20日 徳之島3町長が平野博文官房長官との会談を拒否
      徳之島の強烈な反対運動に徳之島案はあっけなく頓挫した。鳩山首相は県外移設を諦める。
      県外移設が不可能であることを知らしめたのが徳之島移設の頓挫だった。
      
4月25日 「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外を求める県民大会」で9万人が参   
      加
5月4日 鳩山首相が初来県し県内移設を明言
5月10日 米軍普天間飛行場をめぐる関係閣僚会議で現行案を修正する形での移設案を確認
5月16日 伊波宜野湾市長と稲嶺名護市長が県内移設反対で共同声明。普天間基地包囲行動に1万7000人が参加
5月23日 鳩山首相が再来県し、名護市辺野古への移設を明言
5月28日 日米両政府が辺野古崎地区とこれに隣接する水域を移設先とする共同声明発表
6月4日 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。

2010年6月4日で辺野古移設の政治決着がついたと判断するのが常識である。

 政治決着したとしても辺野古埋め立てがすぐにできるのではない。埋め立てには公有水面埋立法に則った計画書を作成して、県知事に申請して許可を取らなければならない。自然保護など公有水面法には厳しい条件がある。

 2013年3月22日
 沖縄防衛局は22日午後3時40分、米軍普天間飛行場の名護市辺野古沖への移設に向けた公有水面埋め立て承認申請書を名護市の県北部土木事務所に提出した。
申請書には埋め立て水域の漁業権を持つ名護漁業協同組合の同意書も添付した。県は週明けから申請書類を確認し、不備がなければ来週内に受理する。

12月18日
沖縄防衛局、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた環境影響評価を補正した評価書を県に提出。
12月27日
-沖縄県の仲井真弘多知事は27日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設に向け、政府が提出した沿岸の埋め立て申請を承認した。


2013.12.27 23:58
辺野古埋め立て承認 仲井真知事 「日本語能力」問うTBSキャスターに猛反論 .

沖縄県の仲井真弘多知事は27日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設に向け、同県名護市辺野古の埋め立て承認を表明した記者会見で、知事の「日本語能力」をネタに質問したTBSの金平茂紀キャスターに激しく反論した。主なやりとりは以下の通り。
金平氏「仲井真さんは、日本国民としての日本語能力を、常識的な日本語能力をお持ちの方だと思うからお聞きするのだが、公有水面の埋め立ての申請があった場所は県内か、県外か」
県土木建築部長「埋め立て申請のあった場所は当然県内でございます」
金平氏「県内に埋め立てをして、そこに移設をしようという、その承認を求めるところに今日公印を押されているんですね。交付されたということは、辺野古に、つまり県内移設を認めるということに同意されたというふうに、普通の一般的な日本語の能力を持っている県民の方が理解するというのは当たり前のことだと思いますよ。
それと、今、おっしゃってた県外移設を自分の公約としてこの間の参院選の時におっしゃいましたね。それを覆しているという思いはないというふうなことをおっしゃってましたが、どう考えたってですよ、どうやってその間に整合性を付けるのか。片方では県外移設については私は変えていないと言いながら、県内移設を進める方のもとに県知事が承認をされたんですよ。県知事っていうのはロボットじゃないですから、明らかに」
仲井真氏「今のご質問ですか。私に対する批判ですか。何を言いたいんですか。要するに。質問をしてください」
金平氏「その整合性について、どういうふうに説明をするのかということを申し上げたいんです」
仲井真氏「だから説明をずっとしているじゃありませんか。何をご質問されてんですか。要は。だから承認をしましたよ。これは法の手続きに従って承認をしたんです。それで、どこがどうだとおっしゃってるんですか。ご質問の趣旨が。
私もあなた同様に、日本語はあんた並みには持っているつもりですが、何ですか」
金平氏「えー、ですから申し上げてるんですが…」
仲井真氏「ですから、私も聞いとるんです。ちゃんと質問してください」
金平氏「整合性について、どういうふうに…」
仲井真氏「だから、どこがどう整合、不整合だと思っているんです。質問のご趣旨がよく分かりませんよ」
金平氏「埋め立てを承認するという立場と県外移設を進めるという立場が、この声明の中では併存しているんじゃないかということを申し上げている」
仲井真氏「当然でございますよ。だって、まず(日米)両政府が、辺野古に埋め立てしたいということはどうぞと。これ、どうぞっていうより、それは法律上の手続きとして承認致しますと、こういうことですよ。だけど、これいったい何年かかるって、あんた現実を今度は見てください。あなたも有名な方だとすれば。何年かかるか分からないのに、この基地がそのまま宜野湾の真ん中にあり続けるということに問題があると、県知事として前から申し上げているんです。危険だから。これは両政府も前からそう言ってんですから」
「だから、これは一方で早く、この危険を減らす、ゼロにするというのは、これは安倍晋三首相も菅義偉官房長官も共有していると言ってるじゃありませんか。だから、これはこれで手を打たないとダメなんですよ。だから、これは辺野古だとかなりの時間がかかるから、この間今政府は9・5年と言っているんですか、おそらくこれはかかると僕は予測をしています。そうすると、それよりももっと早く、どこかこの機能を停止させ、移すしかないじゃありませんか。これは並行して存在し得ると言っているんです。当然でしょ」

 金平氏「並行して…」

仲井真氏「どこが。当たり前じゃありませんか。だって、長年かかる。まだその5年ぐらい以内にもっと移せる場所を探せと言っているんですから。探してもらいたい。それで探しましょうと政府は言っているんですから。そのご質問は政府にもぜひやられたらいいですよ」
金平氏「先ほど(他のマスコミの)記者がおっしゃったように、この承認によって日米両政府が辺野古移設に向けて淡々と作業を進めていくのではないか」
仲井真氏「それはあなたに言われなくても政府の仕事ですよ。それで」
金平氏「県知事としての高度な政治判断というのはあるでしょう。これはただ申請があったから、そのまま適格かどうかを認めるというだけではなくて、県知事としての政治判断というのはあるでしょう」
仲井真氏「ですから、ぜひね、簡潔なちょっと質問の形式にしてくれませんか。今あなたと議論を僕はする気は毛頭ありません」
金平氏「する気がないのであれば、私が今申し上げたようなことに対して、県知事がおっしゃっているような答えが県民にもし理解が得られないとした場合は、県知事としての責任をどうお考えか」
仲井真氏「そういうことが質問に、もし何々であればどう責任を取りますかというのを、あなたに聞かれる理由は1つもありません。もうここに書いてある通りだから、今日はここだけをよく読んで、理解をしていただきたいと思うんです。もし、理解ができなければ、ではありません。あなたの方でまずこれ読んで、普天間基地の問題をよく理解していただきたいというのが私の切なる願いですよ」
金平氏「今この瞬間も…」
仲井真氏「ですから、もう終わりませんか。あなたとのこのお互いの議論のやり取り」
           「産経ニュース」
金平氏「県内に埋め立てをして、そこに移設をしようという、その承認を求めるところに今日公印を押されているんですね。交付されたということは、辺野古に、つまり県内移設を認めるということに同意されたというふうに、普通の一般的な日本語の能力を持っている県民の方が理解するというのは当たり前のことだと思いますよ。
それと、今、おっしゃってた県外移設を自分の公約としてこの間の参院選の時におっしゃいましたね。それを覆しているという思いはないというふうなことをおっしゃってましたが、どう考えたってですよ、どうやってその間に整合性を付けるのか。片方では県外移設については私は変えていないと言いながら、県内移設を進める方のもとに県知事が承認をされたんですよ。県知事っていうのはロボットじゃないですから、明らかに」
金平氏の政治と法の区別をする能力のないことがこの質問に集約されている。防衛局が提出した埋め立て申請は政治的なものではない。鳩山首相が名護市辺野古への移設を明言し、日米両政府が辺野古崎地区とこれに隣接する水域を移設先とする共同声明発表し、新首相の菅直人氏が日米合意の踏襲を明言したことにより辺野古移設が政治的には決まったのである。
政治決着があったから防衛局は埋め立て申請の資料作りに入り、3年後に埋め立て申請を県に提出したのである。埋め立て申請は公有水面埋立法に則ったものであり、政治ではなく法の遵守の問題である。承認するかしないかの判断には仲井真知事が辺野古埋め立てに賛成であろうがなかろうが関係がない。県外移設を公約としていても埋め立て申請に瑕疵がなければ承認しなければならない。もし、承認を拒否すれば政府は訴訟を起こすだろう。裁判で埋め立て申請に瑕疵がないと判断すれば政府が勝訴するのである。ところが政治音痴の金平氏は仲井間知事の政治判断で埋め立て申請の承認不承認を左右することができると思っているのだ。
 政治と法の関係を理解していないのが金平氏である。
 金平氏は辺野古の海で立ち入り制限のフロートを越えたことを全国放送で話した。違法行為を平気でやるのが金平氏である。
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