国家の第一は民主主義である。美しさとか品格はまやかしの国家論である。新聞に掲載されている論文を中心に批判する。
品格より民主そして自由
ミャンマーの民主化は劇的に進むか
スーチー女史演説集会、25万人の熱狂的支持
ヤンゴン市郊外の新ダゴン・セイカン区で開かれたアウンサンスーチー女史の演説集会。会場だけでなく、会場に続く沿道は、スーチー女史が党首を務める国民民主連盟(NLD)の赤いマークで埋め尽くされた。(3月21日ヤンゴン、赤津陽治撮影)
21日午後、アウンサンスーチー女史の演説集会が開かれるヤンゴン市郊外の新ダゴン・セイカン区は、スーチー女史が党首を務める国民民主連盟(NLD)の赤いシンボルマークで埋め尽くされていた。沿道には、スーチー女史を迎える、老若男女のたくさんの人びとが、NLDの鉢巻きをつけ、旗を持ち、並んだ。演説会場には、数時間前から支持者が集まり、炎天下のなか、スーチー女史の到着を待っていた。
午後5時ころ、アウンサンスーチー女史が会場に到着すると、聴衆の熱狂は最高潮に達した。NLD関係者によると、集まった聴衆は約25万人。聴衆は「アメー・スー! アメー・スー! (スーお母さん)」と叫び、ピンク色のブラウスに緑色のロンジー姿のアウンサンスーチー女史を歓喜して迎えた。
「これほどの多くの人びとが集まり、規律正しく行動できることを尊敬します」とスーチー女史が述べると、聴衆は「スーお母さんを愛しているからだ」と応える。
スーチー女史は、同選挙区から出馬しているミョーアウン医師(61歳)を紹介し、投票を訴える一方で、次のように語った。
「今回の補欠選挙は、私たちNLDが国会の外で国民のためにやろうとしてきたことを国会のなかでやろうと決断して、参加するものです。民主的政党は、国民の支持だけが頼りです。政府は国民がコントロールするものであり、政府が国民をコントロールするのではありません。よく見て、よく考えて、自身の投票権を行使してください。ひとりひとりが持つ一票は貴重なものです。誰も無理やり投票させることなどできません。たとえ圧力があったとしても、怖がらずに投票してください。この選挙で国民がどの政党を支持するかをはっきり示してください。私たちは、国民が平和で自由な暮らしを求めていることを理解しています。私たちは、国民のことをけっして忘れません。国民の皆さんも私たちのことを忘れないでください」。
アウンサンスーチー女史の演説は、30分ほどで終了した。聴衆は、「アメー・スー・チャンマー・チャンダバーゼー! (スーお母さんが健康で豊かでありますように! )」と連呼し、熱狂のなか、アウンサンスーチー女史を見送った。【ヤンゴン=赤津陽治】
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中国の民主主義革命は香港から
【香港=竹内誠一郎】25日投開票の香港行政長官選挙を前に、香港大学などが独自に民意を測る目的で初めて模擬投票を実施したところ、市民約20万人が参加して大きな反響を呼んでいる。
本番の選挙は、各業界を代表する選挙委員(定数1200人)による間接投票となる。一般市民も投票できる模擬選挙への関心は、中国政府が間接選挙を通じ自らの意向を反映させようとしていることへの香港市民の反発が背景にある。
模擬投票は23、24日に香港理工大など十数か所で行われたほか、インターネット投票も受け付けられた。24日に投票した男子大学生(22)は「数百人の推薦を得ただけの候補者は人口700万人の香港を代表できない」として選挙委員による間接選挙を認めない立場を強調。模擬投票では、「棄権」の意思表示である白票を投じたと話す。模擬投票の結果は24日夜遅くに発表されるが、白票が相当数に上るとみられている。
本番の選挙は、各業界を代表する選挙委員(定数1200人)による間接投票となる。一般市民も投票できる模擬選挙への関心は、中国政府が間接選挙を通じ自らの意向を反映させようとしていることへの香港市民の反発が背景にある。
模擬投票は23、24日に香港理工大など十数か所で行われたほか、インターネット投票も受け付けられた。24日に投票した男子大学生(22)は「数百人の推薦を得ただけの候補者は人口700万人の香港を代表できない」として選挙委員による間接選挙を認めない立場を強調。模擬投票では、「棄権」の意思表示である白票を投じたと話す。模擬投票の結果は24日夜遅くに発表されるが、白票が相当数に上るとみられている。
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ああ闇にくずれて酒にほてていく・1220句~1221句
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アンダグチャー太田
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アンダとは油のことだ、アンダグチャーとはあることないことを流暢にしゃべる人間のことをいう。太田氏は元琉大学長・沖縄県知事・参議院議員という沖縄ではトップクラスの人間である。そんな偉大な人物をアンダグチャー太田と呼ぶのは大変失礼なことではある。
太田氏はものすごい知識を持っている。多くの書物を読み、ものすごく勉強をしたと思う。琉球王朝時代から現代までの沖縄、日本、アメリカに精通している。豊富な知識には敬意を表する。
しかし、豊富な知識を自在にあやつり、琉球王朝時代の昔から現代までを流暢に理論展開するが、あまりにも流暢すぎて、言葉は繋がっても内容はつながっていない。
残念なことであるが、内容に深みのない太田氏のしゃべりはアンダグチであり、太田氏をアンダグチャーと呼ぶしかない。
「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いているし、『平和憲法の下に帰る』といった復帰のスローガンとは裏腹に肝心の日本国憲法自体が危機に瀕しているからです。自衛隊が合憲とされて海外に出動するなど、われわれに希望を抱かせたり第9条が台なしにされているどころか、格調高い憲法の前文の理念もいつしか忘却のかなたに押しやられているしまつです」
基地問題、構造的差別、祖国復帰、日本国憲法、自衛隊、第9条、憲法の前文と太田氏の口からは次々と重要な言葉が飛び出し、その言葉が太田氏の流暢なアンダグチによってスムーズにつながっていく。しかし・・・・・。
「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いて」の「構造的差別」という用語は最近よく見られる言葉である。以前はなかった。沖縄民族、アイヌ民族は日本政府に差別されていると考える民族差別問題に関心がある知念ウシさんのような人たちが、米軍基地が沖縄に集中しているのは沖縄差別であると主張したこから構造的差別の用語がつかわれるようになった。
沖縄差別の思想は、沖縄を差別しないために米軍基地を日本全国で平等に負担しろと主張する。いわゆる「県外移設」である。今まで沖縄の反基地運動は米軍基地の国外(アメリカ)への撤去を主張し続けてきた。祖国復帰運動の時も米軍基地の本土並みを主張していたのであり、本土に沖縄の基地を移転して、沖縄と本土の米軍基地を平等にしろという主張はなかった。
構造的差別論は差別をなくして負担を平等にするために「県外移設」の主張につながる考えである。日本への米軍駐留は認めていて、反戦平和運動の米軍基地を撤去の主張とは異なっている。構造的差別論は米軍基地の日本維持を主張するものであり、反戦・平和論を否定するものである。
沖縄に軍事基地があるから戦争に巻き込まれる。沖縄が戦争に巻き込まれないために米軍基地は撤去しろと主張してきた「命どぅ宝」をスローガンにしてきた沖縄の反戦平和運動を構造的差別論は否定していることを考えもしないで太田氏は「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いて」いるというのである。
構造的差別論は米軍基地を認める理論であるのに、「中央政府の構造的差別は頑として続いて」と述べた後に「平和憲法の下に帰る」という軍隊を持たない反戦平和の思想を述べるているのである。構造的差別論を語るなら平和憲法を語るわけにいかないし、平和憲法を語るなら構造的差別論は語れない。しかし、アンダグチャー太田氏は平気で二つをつじつまが合っているように話すのである。
平和憲法主義であった社会党はいまでは見るかげもなくなった。共産党も少数である。「われわれに希望を抱かせた第9条が台なしにされている」と太田氏はいうが、客観的にみれば第9条に希望を抱いたのは少数の人たちであり、自衛隊が海外に出て人道支援するのを多くの国民は支持し、自衛隊が世界への人道支援ができるということで多くの国民に夢を与えた。第9条よりも自衛隊の合憲のほうが国民に夢を与えたということだ。
「憲法9条に匹敵するほど重要とみなされる第8章の『地方自治』も有名無実化しています。かつて一独立国家を成していた歴史背景もあって、沖縄ほど自治を求め地域主権の確立を熱烈に志向した地方自治体は全国でもそう多くはない。にもかかわらず、敗戦後67年たった現在も帝国憲法下となんら変わることなく中央集権制度が幅を利かせています。そのため戦後民主主義をを虚妄とする見方も後を絶たないのです」
琉球王朝が薩摩藩に支配されたのが1609年である。その時から沖縄は独立国ではなくなった。今から400年前である。
1609年3月、薩摩の大名であった島津家が3000人の兵で琉球王国に攻め入った。琉球王国の王、尚寧王は軍隊を動員して、抵抗するが、豊富な戦いの経験をもち、しかも鉄砲を使う薩摩軍に歯が立たず、4月には首里城を明け渡した。琉球王国は戦争で島津の軍隊に敗北したのである。敗北したということは琉球王国は薩摩藩に支配され、薩摩藩の領土になることを意味する。
薩摩藩の実質的な領土になった琉球王朝であったが、政治上の実権はないものの独立王国の形は残した。理由は中国と貿易している琉球王朝の利益を薩摩藩が得るためであった。尚寧王は捕虜となり薩摩へと連行された。江戸に行き徳川家康と秀忠に謁見した。2年後に尚寧王は琉球へ戻されるが、薩摩藩に忠誠を誓う起請文を書かされた。薩摩藩は琉球王朝の存続は認めながらも実質的に支配下に置いた。薩摩藩の支配下に置かれることを拒んだ謝名親方は処刑された。
琉球王府は、年貢9000石、芭蕉布3000反、琉球上布6000反、琉球下布10000反、むしろ3800枚、牛皮200枚を薩摩藩に収めなければならなかった。中国との貿易も薩摩藩の監視のもとで行った。
琉球王朝は、1609年から1868年の明治になる約260年間は薩摩藩の支配下におかれ、なにをするにも薩摩藩の許可が必要だった。琉球王朝は独立国とは程遠い国であった。
現代に通じるような沖縄が一独立国家であった歴史背景はない。沖縄が、「自治を求め地域主権の確立を熱烈に志向した」ことは過去の歴史にはない。
中央集権に対する自治を求めた地域主権の思想は太田氏も述べているように民主主義を根拠にしている。琉球王朝は武士階級が農民階級を支配する身分制度のある国家であった。琉球王朝に民主主義思想があったはずはないし、沖縄が地域主権を求める運動をやったことはない。
戦後の沖縄では主席公選を要求する運動はあった。
戦前の帝国憲法下では知事は中央政府が派遣した。戦後は地方の首長は地方の選挙で決める。戦後は地方自治が一歩進んだ。戦後は少しずつ地方に権限が移っていった。太田氏の「敗戦後67年もたった現在も帝国憲法下となんら変わることなく中央集権制度が幅を利かせている」と太田氏は述べているが、太田氏は戦後の地方自治の変化を見ていいない。
普天間基地の辺野古への移設は県知事が許可しないとできない。日本政府とアメリカ政府が苦労して作り上げたシナリオであっても県知事がイエスと言わなければ実現できないのは地方自治の権限が強くなったことの証拠だ。
中央集権が幅を利かしているのなら、辺野古移設のことで県に交付金を500億円も多くあげたり、首相をはじめ多くの大臣が沖縄詣でをするはずがない。
「戦後民主主義を虚妄とする見方が後を絶たない」と思うのは太田氏の間違いである。戦後民主主義は少しずつ発展をしている。
独立主義と民主主義は異質なものだ。身分制度国家であった琉球王朝は薩摩藩に支配されるまでは独立していた。リビア、アフガン、イラクが独裁国家である時も独立していた。独立国家だからといって民主主義国家であるとは言えない。沖縄が独立したからといって民主主義国家になるというものではない。独裁国家になるかも知れない。沖縄独立論は希望を抱かせるような思想ではない。
日本は民主主義国家である。沖縄は日本の法の下にある。独立国家ではない現在の沖縄は民主主義国家のもとにある。沖縄には日本の法が適用されているのだから沖縄は民主主義社会である。米軍基地やアメリカ軍人の犯罪は日本とアメリカの国際的な国家間の問題であり、国内の民主主義制度とは別の問題である。
民主主義は永続的に民主化の改革をつづける。
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しあわせが向こうにあるとさ踊ろうよ・1218句~1219句
日本初の
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国歌起立しない教師が少なすぎる
橋下市長に「教師生命かけ反対」…国歌起立せず
大阪市教委は21日、市立小計298校で同日行われた卒業式で、大領小(住吉区)の女性教諭(55)が国歌斉唱時に起立しなかったと発表した。
市教委は、起立斉唱を求める校長の職務命令に違反したとして処分を検討する。市立学校の卒業式で起立しなかった教員は、中学校を含め今春3人目。
発表では、女性教諭は校長から事前に職務命令を受けた際、「橋下徹市長による急激な改革で教育の破壊が進んでおり、反対の意思を示すため教師生命をかけて座る」と述べたという。
大阪府内ではこのほか、高槻、茨木、豊中各市の小中学校の卒業式でも教諭各1人が起立しなかったことも判明した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大領小(住吉区)の女性教諭(55)は教師生命をかけて国歌斉唱時に起立しなかったという。女性教諭は橋下市長の教育改革に反対している。教師生命をかけて橋下市長の教育改革に反対行動を取るということなのか。であるならば教師を辞するべきである。
それにしても国歌斉唱時に起立しなかった教師は少ない。起立しなかったからといって即懲戒免職にることは100%ない。それなのに起立しなかった教師は5人にも満たない。「血の雨が降る」などと豪語していたわりには勇気がなさすぎる。橋下市長が府知事の時に市民集会に殴り込んだ日教組の教師たちが大声でヤジを飛ばし、堂々と橋下府知事を非難した。橋下府知事の圧力なんてへとも思わない勢いだった。
それなのに橋下市長に反旗を翻したのは5人足らず。少なすぎる。所詮は待遇がいいから教師の職を選んだ連中だ。信念が強いわけではない。これが教師の正体だ。
これからは橋下市長の方針に従って学力向上に精を出してほしい。その方が教師としての生きがいは大きくなる。
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沖縄人も植民地支配者だった
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「・・・・第2次世界大戦でそれへの『解放者』と称する日本がやってきますが、その支配もひどく、それに対する『解放者』と称してアメリカがまたやってきます。・・・・・」
日本軍はグアムを解放するためにやってきたのではない。最初からグアムを植民地にする目的でやってきた。日本は南方の島々を植民地にしてさとう畑を広げ、製糖産業を発展させるつもりでいた。だから昔からさとうきびを生産していた沖縄の人たちを大量に南方の島々に移住させた。
また、多くの沖縄人が兵隊として南方に出征した。私の父も南方に出征した。ウシさんは日本がグアムにやってきたと述べている。ウシさんの頭の中ではグアムにやってきた日本人の中に沖縄人は含んでいないだろう。しかし、南方に兵隊として出征した沖縄人は沖縄兵ではない。日本兵だ。
グアムの日本兵の中には沖縄人もいた。沖縄人も日本兵としてグアム、サイパンなどの南方の島々を植民地にした。原住民を支配しひどく扱った。反抗する原住民は殺した。
日本軍が支配した南方の島々に沖縄の人々は移住してなんの苦も無く広い畑を所有してさとうきびを生産した。原住民からみれば沖縄の人々は日本人であり、支配者であった。
ウシさんは沖縄は日本に差別されていると主張しているが、グアムやサイパンなどの南方の原住民からみれば沖縄人は日本人であり支配者であった。沖縄人が南方の人たちを差別したことは容易に想像できる。しかし、ウシさんは沖縄人が南方の人たちを差別したこということには気づいていない。それに日本がグアムなどの南方に侵略したのは製糖産業やその他の産業を開発して莫大な富を得る目的があったということをウシさんは認識しているのだろうか。
植民地にする目的は莫大な富を得るのが目的であり、富を得ることができなければ植民地にはしない。
琉球王朝時代に薩摩藩に支配された沖縄は薩摩藩に多くの生産物を収奪されていたから沖縄は薩摩藩の植民地だった。しかし、明治時代の沖縄県は他の県と同じ法律が適用されていた。中央政府に収奪されてもいなかった。むしろ沖縄は貧しいために政府からの援助を受けていたくらいだ。明治以降の沖縄は日本国の1部であって植民地ではなかった。
戦後、沖縄はアメリカ民政府の統治下に置かれたが、沖縄はアメリカに搾取はされなかった。むしろその逆で多くの富をアメリカは沖縄に提供した。琉球政府の主席はアメリカ民政府が任命していたが、アメリカは政治も経済も未熟である沖縄に民主主義社会つくり、経済発展を指導した。これは動かしがたい事実だ。
アメリカ軍が統治していたから植民地だったというのは短絡過ぎる理論である。戦前の日本は軍国主義国家だったのであり、沖縄の社会も軍国主義だった。民主主義思想は沖縄にはなかった。沖縄にあったのは軍国主義、共産主義、社会主義、封建主義であった。
戦後、沖縄に民主主義社会をつくったのはアメリカであって沖縄人ではない。アメリカ軍属の犯罪はアメリカ軍が裁判するという問題が沖縄の社会問題に発展するが、アメリカ軍属の事件・事故以外の普段の生活で沖縄人がアメリカに差別されているという問題はそんなにない。
アメリカは沖縄人を搾取していない。アメリカは沖縄人を奴隷扱いをしていない。日常生活でアメリカは沖縄を差別していない。
中国やソ連などの社会主義との対立という特殊な状況の中でアメリカ軍は沖縄に長期駐留している。特殊な状況を冷静に認識したうえで沖縄の問題を考えるべきである。
沖縄を差別とか植民地の問題として考えるのはどうかと思う。それより沖縄人も日本人もアメリカ人も同じ人間。問題は民主主義、社会主義、独裁主義などの政治の問題と考えた方がいい。
人口が140万人にも増えた沖縄は本土からの移住者も増えて、純粋な沖縄民族だけの集合団体をつくるなんて不可能だ。それに沖縄民族だから沖縄のためにいいことをするとはいえないし、沖縄民族ではないから沖縄に悪いことをするともいえない。
沖縄で生きている人間は沖縄人であろうが日本人であろうがアメリカ人であろうがどっちでもいいではないか。沖縄が民主主義社会になりみんながいい生活ができる島になればそれていいではないか。
ウシ、カマドゥ、カメという名前は昔の沖縄に多かった。そのなかでもウシは多いようだ。ウシとは家畜の牛のことである。昔は女性に人権はなく、女性は家畜並み扱われた。女性が奴隷のような扱われた時代の名前としてウシがある。ウシさんはそのことにまだ気づいていないようだ。
ウシさんは沖縄内部にある差別問題も見つめてほしいものだ。
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真夜中の痩せて我視る子猫かな・1216句~1217句
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自分勝手な戦争論
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「米軍の激しい攻撃を逃れ、サイパン島最北のマッピ岬に追い詰められた当時14歳の上原征夫さん(80)の家族5人は崖から海に身を投じました・・・」と戦争の体験談はアメリカ軍に追い詰められた話が多い。アメリカ軍に殺されたり、追い詰められて自殺したりした話を戦争体験者は語る。
上原征夫さんの戦争体験を聞いて中学一年生金城育香さんは「戦争の過酷さ知った」と感じる。
ほとんどの戦争体験者はアメリカ軍に攻撃されて被害を受けた時の話をする。アメリカ軍に攻撃される前の日本軍がアジアを攻めて植民地を拡大していた時の話はしない。上原征夫さんはサイパンでアメリカ軍の攻撃を受けた。サイパンは沖縄ではない。サイパンは日本ではない。サイパンの人間ではない上原征夫さんの家族がなぜサイパンに居たのか。
沖縄からサイパンに移住したから上原征夫さんの家族はサイパンに居た。上原征夫さんの家族はどうしてサイパンに移住できたのか。それは日本軍が武力でサイパンの原住民を制圧し、原住民の土地を奪って上原征夫さんの家族に提供したからである。日本軍は抵抗する原住民を虐殺し、生き残った原住民は奴隷にした。沖縄の人たちが南方に移民した背後には原住民の犠牲があった。日本軍の中には多くの沖縄出身者がいた。私の父も南方に出征したと聞く。
南方への慰問団が口にするのは南方で命を失った同胞の話だけ、原住民への懺悔の話は一切ない。
戦争は日本軍が南方を侵略した時から始まっている。多くの南方の原住民が日本軍の犠牲になった。戦争体験を語る人たちはアメリカ軍に攻撃されて悲惨な体験を話すが、原住民の犠牲の上に自分たちの移住があり、広大な畑を所有したことを話さない。
アメリカ軍は日本軍と日本人を攻撃したのであって南方の原住民を攻撃したのではない。アメリカ軍は植民地支配している日本軍と日本人を攻撃し、原住民を解放する戦争をやった。その事実を私たちは理解しなければならない。
戦争体験者は戦争の根本的な話はしない。いや、話をしないのではなく話ができない。彼らはなぜアメリカ軍が自分たちを攻撃したか原因を知らない。彼らが知っているのは戦争で受けた被害体験だけである。
戦争の悲惨さやむごさを彼らは語り、戦争は二度とやってはいけないと主張する。しかし、彼らは彼らの体験した戦争体験だけを話すだけ。ひたすら、アメリカ軍に追い詰められて悲惨な体験をした話を繰り返しすだけ。戦争がなぜ起こるかということは追及しない。戦後アジアで起こった朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦、フィリピンのテロについては問題意識を持たない。
アメリカ軍に攻撃された悲惨な戦争体験だけにこだわり、被害者の側にかたくなに留まっているだけでは戦争の本質を知ることはできない。
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「米軍の激しい攻撃を逃れ、サイパン島最北のマッピ岬に追い詰められた当時14歳の上原征夫さん(80)の家族5人は崖から海に身を投じました・・・」と戦争の体験談はアメリカ軍に追い詰められた話が多い。アメリカ軍に殺されたり、追い詰められて自殺したりした話を戦争体験者は語る。
上原征夫さんの戦争体験を聞いて中学一年生金城育香さんは「戦争の過酷さ知った」と感じる。
ほとんどの戦争体験者はアメリカ軍に攻撃されて被害を受けた時の話をする。アメリカ軍に攻撃される前の日本軍がアジアを攻めて植民地を拡大していた時の話はしない。上原征夫さんはサイパンでアメリカ軍の攻撃を受けた。サイパンは沖縄ではない。サイパンは日本ではない。サイパンの人間ではない上原征夫さんの家族がなぜサイパンに居たのか。
沖縄からサイパンに移住したから上原征夫さんの家族はサイパンに居た。上原征夫さんの家族はどうしてサイパンに移住できたのか。それは日本軍が武力でサイパンの原住民を制圧し、原住民の土地を奪って上原征夫さんの家族に提供したからである。日本軍は抵抗する原住民を虐殺し、生き残った原住民は奴隷にした。沖縄の人たちが南方に移民した背後には原住民の犠牲があった。日本軍の中には多くの沖縄出身者がいた。私の父も南方に出征したと聞く。
南方への慰問団が口にするのは南方で命を失った同胞の話だけ、原住民への懺悔の話は一切ない。
戦争は日本軍が南方を侵略した時から始まっている。多くの南方の原住民が日本軍の犠牲になった。戦争体験を語る人たちはアメリカ軍に攻撃されて悲惨な体験を話すが、原住民の犠牲の上に自分たちの移住があり、広大な畑を所有したことを話さない。
アメリカ軍は日本軍と日本人を攻撃したのであって南方の原住民を攻撃したのではない。アメリカ軍は植民地支配している日本軍と日本人を攻撃し、原住民を解放する戦争をやった。その事実を私たちは理解しなければならない。
戦争体験者は戦争の根本的な話はしない。いや、話をしないのではなく話ができない。彼らはなぜアメリカ軍が自分たちを攻撃したか原因を知らない。彼らが知っているのは戦争で受けた被害体験だけである。
戦争の悲惨さやむごさを彼らは語り、戦争は二度とやってはいけないと主張する。しかし、彼らは彼らの体験した戦争体験だけを話すだけ。ひたすら、アメリカ軍に追い詰められて悲惨な体験をした話を繰り返しすだけ。戦争がなぜ起こるかということは追及しない。戦後アジアで起こった朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦、フィリピンのテロについては問題意識を持たない。
アメリカ軍に攻撃された悲惨な戦争体験だけにこだわり、被害者の側にかたくなに留まっているだけでは戦争の本質を知ることはできない。
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