立憲民主党は共産党にさらに決定的ダメージを与える

立憲民主党は共産党にさらに決定的ダメージを与える
 2017年10月25日のブログ「立憲民主党が共産党に決定的ダメージを与えた」で、共産党は9議席も減らして議席は半減した。立憲民主党の躍進の裏で、共産党の大敗退があったことを書き、
「枝野代表は立憲民主党は右でもない左でもない中道の政党であることを強調している。中道を強調しない限り保守票を得ることはできないからだ。党勢拡大のためには市民に立憲民主党が中道政党であるイメージを誇示していかなければならない。しかし、共産党と共闘すれば左系のイメージが強くなり、中道のイメージは消えていく。中道のイメージが消えてしまうことを恐れている枝野代表が中道のイメージを保つために共産党と距離を置く可能性は高い」
と述べて、枝野代表は共産党との共闘を避けると推測した。私が推測した通りであった。 

志位委員長は数日前に衆院選で共闘した立憲民主、共産、社民3党が首相指名を1人に絞るべきだとして、特別国会での首相指名を共産党は立憲の枝野幸男代表に投票すると言っていた。しかし、小池晃書記局長は30日の記者会見で、
「(立憲側と)話し合って決めると言ってきたが、現時点で話し合いができていない」
と説明し、特別国会での首相指名選挙で、同党は志位和夫委員長に投票すると発表した。 
 原因は枝野代表が共産党の提案に応じなかったからである。立憲民主党にとって共産党との共闘はマイナスになると枝野代表が考えていとも不思議ではない。
立憲民主党と共産党が共闘するということは両党の理念、政策を一致させなければならない。共産党は日米安保廃棄、全ての米軍基地撤去を理念としている。そんな共産党と理念を一致させれば立憲民主党は共産党化してしまう。共産党の野党共闘は野党を共産党化することが目的であるから、共闘すれば64議席の立憲民主党が12議席の共産党に飲み込まれることになる。国民からは立憲民主党が左翼であると言うイメージが強くなるだろう。
 共産党と共闘すれば、次の選挙では、
自民党と公明党のように、
「小選挙区は立憲民主党の××候補に、比例は共産党に」
と選挙共闘をしなければならなくなる。共産党とますます一心同体になるのである。
立憲民主党の党勢拡大のためには連合の支援が必要である。しかし、連合と共産党は犬猿の仲である。共産党と共闘すれば連合は立憲民主党を敬遠していく可能性がある。連合の支援を得るためには共産党とは距離を置いたほうがいい。それに中道であるから支持していた市民も共産党と共闘すれば離れていく可能性がある。
共産党と共闘しても立憲民主党のメリットはないのである。だから、枝野代表は共産党と距離を置き、共産党が野党共闘を推進するために首相指名に枝野代表に投票するという提案にも応じなかったのである。

立憲民主党が共産党の議席を半減させた。そして、国会での共産党との共闘に応じそうにない。立憲民主党の登場によって一番ダメージを負ったのは共産党である。

民進党の保守と左翼議員の分裂は蓮舫前民進党代表の共産党との共闘推進が原因であったが、立憲民主党が共産党の議席を半減させた上に共闘しないのなら、民進党の分裂で一番被害を受けたのは共産党である。

小池局長は「国民の負託に応える審議をするため足並みをそろえる」と述べ、国会対応では立憲などと連携する考えを改めて示したが、枝野代表は共産党との連携は避けるだろう。

希望の党と立憲民主党の誕生は共産党の目指していた野党共闘を破産させた。そして、共産党を衰退させた。
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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから①


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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから①
 1945年(昭和20年)8月14日に昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した。そして、8月15日に玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾をした。日本は降伏をし、戦争は終わった。
 兵士と住民を合わせて20万人が犠牲になった沖縄はすでに米軍に占領されていた。沖縄を本拠地にして日本上陸を計画していた時に日本は降伏したのである。
 玉音放送を聞いていた国民は落胆し悲しんだ。

玉音放送は最初のところしか聞いたことがなかった。玉音放送に興味がなかったから、全文を読んだこともない。
日本の運命を変えたのが玉音放送である。最近、原文ではなく口語訳を読んだ。玉音放送に云々するつもりはない。
玉音放送の口語訳を紹介する。

玉音放送

私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
 私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
 そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。
 ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
 なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。
 私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
 考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。
 私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
 ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
 あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。



 玉音放送を聞いた日本国民は、失望し、深く悲しんだ。皇居に向かってひざまずき深く頭を垂れた。

戦後の沖縄に生まれた私の周囲にはアメリカ兵が多く居た。彼らは私服であったから普通のアメリカ人であった。周囲に住んでいるのはみんな沖縄女性と同棲しているアメリカ人であった。アメリカ人には親しみを感じたし、彼らは周囲の沖縄人より自由で明るかった。
学校では戦前は軍国主義国家であったが戦後は民主主義国家になったと言う教育を受けていたし、リンカーン大統領の「人民の人民による人民のための政治」の言葉に深く感銘していたから、玉音放送にうなだれる写真に正直に言えば違和感があった。
自分の幸福を犠牲にしても天皇のために尽くすというのが天皇崇拝である。自分や国民の幸福のほうが天皇のために尽くすよりも大事であると思っていた私は天皇崇拝を受け入れることはできなかったし、写真のような人間にはなりたくなかった。

神風特攻隊にも反対だった。ベストセラー作家の百田尚樹氏が名護市の数久田体育館で公演したが、百田氏は沖縄戦が始まった時から神風特攻隊が沖縄の米軍に死を賭けて特攻していったことや戦艦大和が沖縄の米軍と戦うために向かったことを述べ、日本は決して沖縄を見捨てたのではなく、沖縄のために多くの日本兵が戦い、死んでいったことを強調していた。
百田氏の主張は「日本軍は沖縄住民を守らなかった」という左翼の主張に対する反論である。沖縄の地上戦でも日本軍は壮絶に戦い、全滅した。日本軍は住民を守らなかったのではなく全滅したために守ることができなかったのだ。
百田氏の指摘はその通りであるが、神風特攻隊を出撃すれば戦況を逆転し、沖縄を米軍の進攻から止めることができたかといえば、そうではなかつたことがはっきりしている。神風特攻隊は戦況を逆転させることはできなかったし、沖縄を守ることもできなかった。それは最初から分かっていた。
神風特攻隊とは神風に頼った出撃であり、神風が吹かなければ戦況を逆転することはできないと信じるくらいに米軍と日本軍の軍事力の戦力は大差があった。
日本軍のトップなら沖縄が米軍に占領されることは知っていたはずである。知りながら沖縄戦をやり、住民、日本兵の犠牲を20万人も出したのである。
日本軍は沖縄戦の次は本土決戦もやろうとしていた。本土決戦をすれば本土も沖縄戦のように兵士も住民も米軍に殲滅され、犠牲者が何百万何千万人も出ていただろう。それを知っていながら日本軍は本土決戦をやろうとしていたのである。

昭和天皇の玉音放送で戦争は終わった。本土決戦はなくなり、これ以上の日本国民の犠牲は出さなくて済んだ。
玉音放送で本土決戦は阻止されたが、私の疑問は沖縄戦が始まる前のフィリピンが陥落した時に日本が降伏すれば沖縄の犠牲は免れたはずであるが、なぜ日本はフィリピンが陥落した時に降伏をしないで沖縄戦をやったかということである。敗戦が確実であるならできるだけ早く降伏をして、犠牲を押さえるべきである。しかし、日本は降伏しなかった。そのために沖縄戦にになり20万人の兵士と住民が犠牲になった。

日清戦争や日露戦争の清国やロシアは徹底抗戦をしないで、本国が攻撃される前に降伏して、賠償金を払い、土地を日本に提供している。過去の戦争では敗戦が濃厚になると降伏をし、自国の被害を少なくする努力をしている。日本もフィリピンが陥落した時に降伏するべきであった。しかし、日本は敗戦が濃厚であるのに降伏をしないで戦争を続け沖縄戦の悲劇を生んだ。なぜ日本は沖縄戦が始まる前に降伏をしなかったのか。

なぜ、太平洋戦争が起こったのか、なぜ、日本は太平洋戦争に負けたのかの原因を説明する論文は非常に多いが、なぜ、沖縄戦になる前に日本は降伏しなかったのかを説明する論文はない。私には不思議である。

私は中学、高校生の頃は映画が好きで、よく映画を見た。戦争映画も多く見た。神風特攻隊が敵艦に突撃する時に、「天皇陛下バンザーイ」と叫んでいる映画を見たし、二二六事件の映画も見た。戦争を美化する映画もあったし批判する映画もあった。字幕がスムーズに読めるようになると米国やフランスなどの戦争映画も多く見た。外国の戦争映画には神風特攻隊や日本軍の玉砕を美化するような映画はなかった。美化するのは日本映画だけだった。外国の映画を見ていくと日本軍が降伏を拒否して玉砕したのは本当に正しい選択だったのか疑問を持つようになった。

日本軍の玉砕
1943年(昭和18年)
5月12日 米軍、アッツ島上陸(5月25日、日本軍全滅し「玉砕」の語の使用始まる)
1944年。
11月21日 米軍、マキン島・タラワ島上陸(11月23日 日本軍玉砕)。
2月6日 クェゼリン島の日本軍玉砕。
6月15日 米軍、サイパン上陸(サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住 日本人1万人死亡)
8月2日 テニアン島の日本軍玉砕。(テニアンの戦い)
8月11日 グアム島の日本軍玉砕。(グアムの戦い)
1945年(昭和20年)
3月26日 硫黄島日本軍玉砕    

なぜ日本軍は降伏をしないで玉砕をしたのか。日清、日露戦争の時は玉砕の思想はなかったから玉砕はしていない。しかし、太平洋戦争では降伏はしないで玉砕をしている。日本軍が玉砕をした原因を調べてみると、日清、日露戦争の時の捕虜問題と武士道が関係していた。

日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、
「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ」と「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令を出した。

1905年(明治38年)には井上哲次郎が『武士道叢書』を発表した。『武士道叢書』は戦国時代の戦陣訓や葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」等を収めたうえで、日清日露戦争で勝利したのは日本古来の武士道によるとし、天皇への唯一無二の忠誠を唱え、忠義や滅私奉公、国家のためには死をも厭わぬものとして武士道を解釈した。これはのちに昭和17年に『武士道全書』へと継承され、太平洋戦争における「皇道的武士道」へ影響を与えた。
戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約であるジュネーヴ条約に日本も加盟していたが、捕虜の待遇に関する条約(全97条)に日本は加入をしなかった。理由として、「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と述べた。
降伏をしないということは玉砕するということである。
太平洋戦争における日本兵の降伏拒否や自決は、東条英機の戦陣訓示の「生きて虜囚の辱を受けず」によるものと言われているが、玉砕の思想は『戦陣訓』以前からあったのである。
日本軍が玉砕したのは、日清、日露戦争の捕虜が残虐な扱いを受けたことに対する反発と武士道の教えが影響していた。しかし、武士道は兵士を武士とした日本軍内の問題である。民間人は武士ではないから武士道とは関係がない。しかし、沖縄戦では兵士ではない10万人近くの民間人が犠牲になった。沖縄戦が始まる前に、
3月10日 東京大空襲
3月12日 名古屋大空襲
3月14日 大阪大空襲
3月16日 神戸空襲
3月25日 名古屋大空襲
があり、何十万と言う民間人が犠牲になった。東京大空襲では一夜にして10万人の市民が犠牲になった。国民の犠牲を止めるには降伏するしかない。しかし、日本は降伏しなかった。
 形勢を逆転する可能性はなく、国民の犠牲が増えていったのに日本は降伏しなかったのである。それは日本が軍国主義国家であったからである。軍国主義国家ではなく、民主主義国家であれば国民を犠牲にするのを止めるために降伏していたはずである。沖縄戦もなかったはずである。

 玉砕思想を持っていた軍部は本土決戦をやる積もりでいた。軍部は日本国民全体で米軍を迎え撃ち、最後の一人まで戦う覚悟でいた。政権は軍部が握っていたし、国民も本土決戦を覚悟し、米軍と戦う積りでいたから、本土決戦になるのは確実であった。しかし、本土決戦にはならなかった。
本土決戦を止めたのが昭和天皇の玉音放送である。

日本は戦前の憲法が大日本帝国憲法というように帝国主義国家であった。しかし、四民平等・法治主義を掲げていたから民主化への道も辿っていた。
大正デモクラシーが民主化の象徴である。
政治と軍事は分業化され、政治は政治家が行い。国の法律、予算を決めていた。次第に民主化に進んでいたのに民主化への道が軍によって一気に閉ざされた。その始まりが5・15事件の犬養毅首相暗殺である。
5・15事件をきっかけに日本は軍国主義へまい進していく。日本が軍国主義国家であったから沖縄戦が起こり、10万人近くの住民が犠牲になったのである。
なぜ、軍国主義国家だったから沖縄戦になったかは次に説明する。
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沖縄差別の原因は沖縄にある②-2


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沖縄差別の原因は沖縄にある②-2
 沖縄差別でよく問題にされるのが下宿や借家には「朝鮮人お断り」や「琉球人お断り」と書かれて、沖縄出身者が下宿や借家を借りることができなかったことである。借家だけでなく、仕事でも『職工入用。但し朝鮮人と琉球人お断り』と断られるケースがあった。それを沖縄差別として問題にしている。だが、「琉球人お断り」は借家の主や雇用者がやったことであり大阪の社会で起こったものである。大阪の沖縄差別は大阪社会で起こったことであり国が差別したのではない。
 ところが左系の識者や政治家は沖縄差別を国がやったように主張するのである。国が沖縄差別をしたのではない。生活の場所で「琉球人お断り」のような差別が起こったのである。

「職工入用。但し琉球人お断り」の張り紙が出された理由。
1 仕事を突然辞めた。
2 直ぐに不貞腐れダラダラする性格で忍耐力も向上心も無い。
3 他府県出身者と交流せず、終業後 公園に沖縄男女が集まり泡盛を飲み原住民語で歌い 集団を形成する。
4 他人の持ち物を勝手に使つた。
5 時間や契約を遵守(法律・道徳・習慣を守る)する意思が薄弱である。
6 酒に溺れ欠勤が多く月給より日当を求た。
掲げてあるのが事実だととすれば沖縄出身者が嫌われ差別されたことは仕方のないことである。

 貸家で断られた理由
1 敬語を知らなかった。
2 一軒家を借りて下宿屋をはじめると、そこに沖縄人が殺到した。
3 がらが悪い。
4 仕事が無いときには部屋の中で角力をして,家は地震みたいに揺れた。
5 冬は軒下の板をはいで焚き物にしたりした。
6 数人の他府県人の住宅街に引越して来た時は他府県人は沖縄人を馬鹿にして軽蔑するが、芋づるを引くように県人の仲間が漠々多くなって勢力が加わり、おまけに隣人の迷惑などお構ひなしに業苦無人の振舞をやり出すので、後には他県人の方が恐れをなして引越した。

 貸家の持ち主にとってルールを守らない迷惑な客には貸したくない。当然のことである。沖縄出身者がルールを守らなくて迷惑かけたから「琉球人お断り」の張り紙を出したのである。
 経営者や家主にとっては生活が懸かっている。経営が成り立たない者は断るしかない。それを単純に沖縄差別というのは間違いである。沖縄差別は経営者や家主がやったが、彼らの生存を沖縄出身者が脅かしたから沖縄差別をしたのである。彼らにとって当然のことであった。
 貸家に住みたいのなら貸家のルールを守るべきであるし、仕事をしたいなら経営者の注意を肝に銘じるべきである。「郷に入れば郷に従う」である。郷に従うことができなかった沖縄出身者だから差別されたのである。ルールを守らない沖縄出身者は仕事もなく住むところもない。それなら故郷の沖縄に帰るしかないが、彼らは沖縄に帰るわけにもいかなかった。故郷沖縄はソテツ地獄であった。彼らは沖縄で生活することができなかったから大阪に来たのだ。大阪に仕事も住む所もないからといって沖縄に帰るわけにはいかなかった。
一軒家を借りて下宿屋をはじめると、沖縄出身者が借りるとそこに沖縄人が殺到したというが、仕事もなく住む家もない同郷の沖縄出身者が借家人を頼って集まってきたのである。
 家を借りることができなければ知り合いの借家に泊る。それができなければ路上や空き地に寝るしかない。仕事がなくお金がつきれば知り合いから借り、それができなければ盗むしかない。大阪では沖縄出身者による犯罪も多かった。

 沖縄のソテツ地獄から逃れるために大阪に来た沖縄出身者は沖縄に帰れないから厳しい大阪で生きていくしかなかった。
 住む家がない沖縄出身者が見つけたのが大正区の誰も住んでいない湿地帯だった。埋め立てた湿地帯に材木工場が捨てた材木の切れ端などを利用して雨風をしのぐバラック住宅を建てた。その場所を 沖縄出身者は「クブングワァー(くぼ地)」と呼んでいた。近隣大阪の人たちは「沖縄スラム」と呼んでいた。沖縄出身者の小屋は普通の人が住めるような家ではなかった。

 映りが悪く分かり難いが、家は小さく、一人住まいのおんぼろ家のようである。こんな粗末な家に沖縄出身者は住んでいたのである。



大正12年(1923年)関東大震災で被災した沖縄県出身労働者救済のため 沖縄県出身で゙大学卒の神山政良牧師は京浜地方を訪れたが、その時の情況を神山政良牧師はこう述べている。
「鶴見とか川崎に労働者達が住んでいる話は知っていたが 彼らの居る所を探したが誰も知らない。色々説明を聞き『ああ琉球人の集落ですか』と 場所を教えてくれたのだが、行ってみてびっくしたよ。小さなところで しかも 裏に住まって 昼から蛇皮線をやっているんだ。あれは 誤解をうけるのは無理ないと思ったね」(沖縄現代史への証言より)
 昭和のソテツ地獄の沖縄から大阪に移り住んだ沖縄出身者にとっては大正区の掘立小屋に住むしかなかった。それでもソテツ地獄の沖縄よりは住みやすかったのである。

 神山牧師は沖縄出身でありながら大学を卒業している。沖縄出身でも多くの人が大学に進学していたし、教員や軍人や民間企業に就職して活躍していた。
同じ沖縄出身でありながら神山牧師は大正区に住んでいる沖縄出身者には差別をされても仕様がないと思っている。沖縄には中上流層と下層の社会があった。中上流層の人たちは教育を受け本土の文化に溶け込んで差別されることはなかった。しかし、下層の人たちは教養がなく本土の文化に溶けこめる能力に欠けていた。それは彼らの責任ではない。政府や県の教育の責任である。彼らは教育を受けることができなかったから教養がなかったし、共通語も話すことができなかった。そして、大阪の文化や規律を知ることもなかった。共通語を教えられなかったから共通語を話せなかった。そのために大阪の人とのコミュニケーションができなかったのである。神山牧師のように教育を受け共通語が自由に話せる沖縄出身者は本土人とコミュニケーションができたから差別されることはなかった。

 下層の沖縄出身者でもすぐに大阪に溶け込んだ人は差別されることなく仕事をやり普通の生活を送ったはずである。沖縄出身者のすべてが差別を受けたわけではなかった。
 沖縄出身者が大阪で一軒家を借りて下宿屋をはじめるとそこに沖縄人が殺到したというが、沖縄出身者が一軒家を借りて下宿屋の商売をすることもあったのである。その人は大阪に溶け込み商売をすることができた。彼のように大阪に溶け込んだ沖縄出身者は多かった。しかし、大阪に溶け込めない沖縄出身者も多かった。溶け込めないで宿を借りることができない彼らが沖縄出身者の下宿屋に殺到したのである。


 沖縄のソテツ地獄が多くの大阪移住者を生み出した。そして。仕事や貸家で「琉球人お断り」の張り紙を出されるほどの沖縄差別を受けた。沖縄出身者が差別を受けたのは大阪の仕事や生活のルールを破ったのが原因であるが、それは大阪と沖縄の文化、習慣、生活の違いから生じたものであった。彼らの多くは沖縄の下層農民であった。
 沖縄の農民は琉球王国時代、地割制度に支配されて生活をしていた。地割制度は他の村との交流を禁じ、私有財産も禁じていた。王府への上納は村全体の負担であった。
 畑は私有ではなく割り当てであり、山は共有であった。いわゆる原始共産社会が琉球王国時代の農民社会であった。
 家は共同でつくり、生活に必要な物も共同でつくった。食料も譲り合いであった。村内では物々交換もお金による売買もなかった。売買をするのではなく譲り合い助け合う生活であった。村といっても区くらいの小さい集落であった。
 明治政府になり、沖縄は琉球王府の支配から明治政府による中央集権国家の統治下に置かれ、地割制度は廃止されて、私有財産制度が適用されるが、沖縄の地方では地割制度時代の考えや習慣が根強く残っていた。

○沖縄人は意味不明で言葉では無く音だけを発するが 音は音であって言葉では無いので誰にも理解されない。

 沖縄では共通語教育は徹底されていなかったので多くの農民は共通語を話すことができなかった。そして、文盲であった。
 私の父は大正生まれで、小学校を出て、軍隊にも行ったが共通語は話せなかった。母はなんとか話すことができた。
 共通語が話せなくて文盲の沖縄県民が大阪に移住すれば、大阪の生活になじむことができないで孤立するのは当然である。孤立しても原始共産社会で生活してきた農民には孤立から脱却する方法を知らない、大阪社会になじむことができなかった県民が多かっただろう。
 
○沖縄人は時間を守らない。

 沖縄の人間が時間を守らないというのは有名である。子供の頃に先生から何度も聞かされたことである。私たちは、時間を守るように教育された。
 本土は昔から時間厳守であったかという疑問が湧いてきて調べたことがある。すると明治の初期の頃は時間にはルーズであったという事実が分かった。
 江戸時代は十二支を基準にした時間であり一日は二十四時間ではなく十二の刻であった。そして、分とか秒という時間概念はなかった。だから、江戸時代は時間にルーズだったのである。
 明治になり西洋の時間、分、秒の概念が取り入れられ、政府が時間厳守を導入した。そして、会社経営で時間厳守が徹底されるようになり、紡績工場など多くの会社が設立されようになって時間厳守の概念が定着していったのである。
 沖縄は七割が農民であった。農業には会社のような時間厳守の概念はなかった。時間を正確に守るという概念が沖縄の農民にはなかったのである。農民は太陽の向きと腹時計によって生活をする。だから、朝九時出勤といっても、だいたい九時くらいに出勤すればいいと考え、時間厳守の必要を理解しなかった沖縄出身者がいたのだろう。
 時間厳守は農業から近代の工業化への発展の中で生まれたものである。近代化が発達していた大阪は時間厳守の社会であったが、近代化が遅れていた沖縄は時間厳守の社会ではなかった。そのギャップがあったのである。

 私の父は農民であった。日が昇る前に起きて、シンベーナービという大きい鍋で豚の餌をつくり、ヤギに餌をやり、みんなと一緒に食事をした後に畑に出かけた。その間、家のボンボン時計を見ることは一度もなかった。
 昼の食事時間には帰ってきて食事をした後数十分昼寝をした。それから畑に出かけ、夕方には帰って来た。
 夏は夜が明けるのが早く、日が暮れるのは遅い。逆に冬は夜が明けるのは遅く、日が暮れるのは早いから、夏は早く畑に行き遅く帰り、冬は遅く畑に行き早く帰った。農民は大自然の変化に合わせて仕事をしたし、それが農業に合ったやり方であった。会社の仕事のように働く時間を固定していないのが農業である。だから、近代化が発達した大阪での時間厳守の生活に合わせることができない沖縄出身者が居たとしても不思議ではない。私の父は時間厳守の大阪では落ちこぼれていただろう。
「(沖縄人は)朝9時と決めても、朝9時に来ない。労働時間に拘束されることや 時間単位で管理される事もコイツラは理解出来る頭が無く薄弱である」
この沖縄人批判は私の父にぴたりと当てはまる。父が大阪に行っていたら「頭が無く薄弱である」と軽蔑されていただろう。

○沖縄人は私的所有(自身の物と他人の物の区別が出来ずに 借りた物を返さず惚け通すと自分の物になる思っている。
 原始共産社会の農民には私的所有の意識が発達していなかった。私的所有が発達した大阪人と発達していなかった沖縄人とのギャップがあったのである。
 戦後生まれの私たち沖縄人も私的所有意識は本土の東京ほどは発達していなかった。東京の早稲田大学出身の鈴木氏を悩ませた沖縄の私たちが居た。
 
私が学生の時、早稲田大学を卒業してから、国語の教員免許を取る目的で琉大に入学した鈴木氏は、私たち沖縄の学生は借りたお金や本を返さないことに困ったし、なぜ返さないのか理由がわからないで悩んだのである。私たちの間ではそれが常識であった。私たちは少額のお金なら、借りても返さなかった。学生だからそのくらいはいいじゃないかと思っていたが、鈴木氏は借りたお金は少額でも返すべきであると言った。鈴木氏と私たちとの違いは私たち沖縄人の私的所有意識が鈴木氏のようには発達していなかったからであると言える。私は今でも私的所有意識は発達していないようである。

戦後の米民政府統治時代に軍作業員の間では「センカ」が流行していた。「センカ」とは漢字で戦果と書くが、戦争は終わっていたので戦果というものは本当はなかった。軍作業員のいう「センカ」というのは米軍の物を盗むことであった。
食糧だけでなくあらゆるものを盗んだ。私が四歳の時に家を作ったが、柱や壁の板は「センカ」で得たものであった。柱はトゥーバイホウと呼んでいる材木であった。家をつくったのは隣近所の大人たちであり、大工はいなかった。台所や物置小屋の屋根はトタンであったが、そのトタンも米軍からの「センカ」したものであった。
「センカ」とは米軍から盗むことであったが盗みが沖縄人の軍作業員にとっては当たり前のことであり罪悪感は全然なかった。
「沖縄人は私的所有と他人の所有の区別が出来ない」
という指摘があるが、「他人の所有」を取ることは盗むことであり犯罪であるという意識が軍作業員には低かったのである。その意識は極貧と原始共産社会によって私的所有意識が発達していなかったことが原因であるかんがえることができる。
会社で働いて給料をもらい、給料で物を買う。その行為の積み重ねで私的所有の意識は発達していくのである。経済が近代化し、お金による売買が私的所有意識を高める。お金による売買がほとんどない原始共産社会では私的所有意識はとても低いのである。だから他人の私的所有物を取ることは罪であるという自覚がない。だから、他人の物を取ってはいけないという意識が低い。
「センカ」でMPに逮捕されても、取り調べをするのは琉球警察であり、MPは逮捕者を琉球警察に渡した。罪としては軽かったので、「センカ」がなくなることはなかった。

○沖縄人の労働者が酒に溺れ欠勤が多く月給より日当を求めるから沖縄人の信用が無い。

 ソテツ地獄の沖縄で収入もなくその日暮らしをしていた無教養な人たちも大阪に移住した。そんな人たちの中には酒を飲むのが最高に幸せで、酒におぼれていった人もいただろう。だから、日当を要求し、お金がある間は酒の生活をやり、お金が無くなれば働いてお金を得る。お金を得たら酒の生活をする。そんな人は沖縄人だけでなく、他県人にも居たと思う。

○他府県出身者と交流せず、終業後 公園に沖縄男女が集まり泡盛を飲み原住民語で歌い 阿呆集団を形成する。

私は一年半前から民謡教室に通っている。通っているほとんどの人は60代から70代の人たちであり、三線を習うのは初めてである。年配であっても三線が引きながら歌うようになれるのが琉球民謡である。
私は30代になってから、サックスと尺八を始めたが、二つの楽器より三線のほうがずっとやりやすい。サックスと尺八なら彼らが習得するのは無理である。
三線は練習すれば誰でも弾きながら琉球民謡を歌うことができる。意外であるがギターなどに比べて三線を弾きながら歌うのは簡単である。
琉球民謡には他県の民謡とは違う特徴がある。琉球民謡は男の女のデュエット曲が非常に多い。そして、歌いやすい。
琉球民謡の歌詞は琉歌と同じで8886と歌詞が短い。短い歌詞を男女が交互に歌うのが琉球民謡である。
三線があればみんなが楽しく歌うことができるのが琉球民謡の特徴である。いわゆる、今のカラオケか沖縄には昔からあったということである。
本土の民謡は歌い手と聴衆に別れていて、高度な技術で演奏し歌うが、琉球民謡はみんなで高度な技術がなくてもいい。みんなで楽しく歌うのが琉球民謡である。
歌い手と聴衆に別れているのは琉球古典である。それに八重山民謡も琉球古典と同じで歌い手と聴衆に別れている。
民謡教室の先生がいうには、琉球民謡は四畳半で楽に歌うものであるが八重山民謡はオペラのように多くの人に聞かせるものであり、喉の鍛え方が違うと言う。

沖縄出身者の男女が公園などに集まって三線を弾きながら歌うのは、沖縄出身者にとって至極当然のことであった。
沖縄は昔から「モウアシビー」が盛んであった。「モウアシビー」を共通語でいうと「毛遊び」である。毛とは芝生などの草であり、「モウアシビー」とは芝生などが生えている村の広場に若い男女が集まって酒を飲み、歌を歌い、踊ることである。
大阪の公園などでやる「モウアシビー」は大阪人に嫌われたが、「モウアシビー」は沖縄の人たちの心をつなぐものであった。
神山政良牧師は、昼から三線を弾いているのを聞いて、大阪人に誤解されるのは無理ないと批判しているが、大阪人は軽蔑していたとしても沖縄人はそうではなかっただろう。
仕事を終われば彼の周囲に集まり、酒を飲み、歌い踊ったに違いない。ストレスを解消して明日も元気で働くエネルギーを蓄えただろう。
大阪に移住した沖縄人は大阪で差別されながらも沖縄に帰ることができできなかった。行き場のない沖縄人が頑張ることができたのは沖縄人同士が肩を抱き合う「モウアシビー」精神であったに違いない。それが沖縄人の逞しさでもある。その逞しさが大正区の沖縄村をつくり、大阪で生き抜いたのである。

大阪だけでなく、ハワイやブラジルなど世界に移住した沖縄出身者の心をつないだのが三線であり、琉球民謡であり、「モウアシビー」精神であった。ハワイに移住した沖縄出身者は3000丁の三線を持っていたという。彼らはハワイでも集まり「モーアシビー」で沖縄民謡を歌い、踊ったのである。
「世界のウチナーンチュ大会」が四年に一度開催されるようになったが、これも三線、琉球民謡、モーアシビーが大きな影響を与えたのである。

大阪の沖縄人差別の大きな原因は沖縄の経済が近代化していなかったことである。琉球王国時代の区割り制度によって、沖縄の農民は他の村との交流が許されず、小さな村でお金による売買がない、原始共産社会状態の生活をしていた。明治時代になっても農業従事者が七割の沖縄では経済も文化も近代化するのが遅かった。そのままゆっくりと沖縄の近代化が進んでいけばよかったのだが、日本は経済不況になり、それが沖縄経済にも影響して砂糖がうれなくなり、ソテツ地獄と呼ばれた経済不況に陥った。
沖縄で生きていくことができなくなった教養のない貧しい人たちが食を求めて大阪に移住したのが沖縄差別の原因だったのである。
沖縄のソテツ地獄という不幸が大阪では沖縄差別という不幸を生んだのである。

大阪の沖縄差別は国による差別ではなかった。実社会で起こった差別であった。国は沖縄でも学校を建設して共通語を教え沖縄の人々の教養を高める政策を実施した。もし、沖縄県民全体に国の教育が行き渡り、共通語が自由に使え、近代文化をマスターしていたら大阪の沖縄差別は生まれなかっただろう。国は沖縄差別をしたのではなく沖縄差別をなくす努力をしたのである。しかし、政策が浸透する前にソテツ地獄の影響で大阪で沖縄差別が生じた。

現在の沖縄県民は教育が行きわたり共通語を使うし教養もある。だから、本土に移住した沖縄県民が戦前の大阪で起こったような沖縄差別を受けることはない。沖縄差別がなくなったのは差別を受ける原因が解消したからである。


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朝日新聞の「野党一本化なら」仮定の愚かさ

朝日新聞の「野党一本化なら」仮定の愚かさ

朝日新聞は、今回の衆院選は、政権批判票の受け皿となる野党が分散したのが大きな特徴てあり、それが原因で自民党が大勝したと報じている。
自民党が大勝したのは複数の野党候補(野党系無所属を含む)が競合した「野党分裂型」226選挙区のうち、約8割の183選挙区で与党候補が勝利をおさめたからだと述べた朝日は、各野党候補の得票を単純合算した試算を出した。すると、3割超の63選挙区で勝敗が逆転した。そのことを根拠にして野党の分散は与党側に有利に働いたと朝日は述べている。

朝日は与党対野党にこだわっている。野党政党の理念や政策の違いや保守系、左系の区別はしていない。
朝日は、野党が分散した最大の原因は、民進党の分裂だと言い、民進の前原誠司代表が衆院選前に小池百合子・東京都知事率いる希望の党への合流を表明。民進で立候補を予定していた人は希望、立憲民主党、無所属に3分裂したと述べている。しかし、朝日は分裂した事実を報じるだけで、分裂した原因を説明していない。
民進の前原代表が衆院選前に希望の党への合流を表明したのは、民進党の共産党との共闘を嫌ったからである。共産党との共闘を避けると同時に共産党と共闘をしようとしているリベラル派を排除する目的があって希望の党への合流を前原代表は目指したのである。
小池代表が憲法改正、安保法案賛成ではない民進党議員は排除すると宣言した時から、民進党は保守と左翼のリベラル派に分裂した。だから、希望の党と立憲民主党が共闘するのはあり得ないことである。二つの党の選挙共闘は最初からなかった。そして、希望の党と共産党や社民党との共闘の可能性も最初からなかった。

民進党の3分裂は野党一本化の崩壊の始まりであった。
維新の党に続き希望の党が誕生したことによって野党が保守政党と左系政党にはっきりと別れた。だから野党統一はなくなったのである。民進党の3分裂の原因を認識すれば朝日の「野党一本化」を仮定することはできない。そうであるのに「野党一本化」を仮定した朝日は愚かである。

民進党が保守と左翼が混在し、野党であるがゆえに保守の安倍政権批判に徹することで民進党は次第に左系化していき、左翼のリヘラル派が民進党の主導権を握っていった。そして、共産党との共闘を実現させたのである。
共産党、民進党、社民党の左翼三党の共闘をマスコミは野党共闘と呼んできたが、民進党が保守系の希望の党、左系の立憲民主党に分裂することによって、共産党、立憲民主党、社民党の左翼三党の共闘を野党共闘と呼ぶことはできなくなった。三党以外に希望の党と維新の党が存在するからだ。
野党が保守と左翼に分裂することによってこれからの朝日は与党対野党の対立構図を設定して、野党=反与党の記事を書くことが難しくなるだろう。

朝日は反自民であり、安倍政権批判に徹しているが、朝日の記事に便乗して安倍政権を批判してきたのが民進党、共産党、社民党の野党三党であった。加計学園問題では朝日と野党三党のコンビで安倍政権を窮地に追いやった。しかし、希望の党の誕生によって朝日と野党三党のコンビは崩れた。これからは加計学園のような仕掛けは難しくなっていくだろう。

野党が保守政党希望の党、維新の党と左系政党共産党、立憲民主党、社民党に別れたことで朝日は与党対野党の対立構図を設定することが難しくなっていくだろう。共産党は、希望の党は自民党の補完勢力だと決めつけている。共産党が自民党の補完勢力であると決めつけている希望の党と共闘することはない。今まで野党共闘を率先してきた共産党が野党の一本化はできなくなっていく。共産党と共闘するのを嫌った民進党議員が集まった希望の党であるから共産党との共闘は希望の党でお断りであるが、共産党も希望の党との共闘はお断りである。
全ての野党が共闘することはこれからはあり得ないことである。

朝日は今度の衆議院選挙で「野党一本化」の仮定をしたが、一本化ができないのに無理に一本化したのであり、朝日の一本化の仮定は最初から成り立たないものであり、なんの意味もない。
一本化の仮定によって3割超の63選挙区で勝敗が逆転の試算が出たといっても、それは非現実的な試算であり、虚しい試算である。野党が一本化することはあり得ないことであり「野党が一本化していたなら」は成り立たない仮定である。

立憲民主党の長妻代表代行は
「多くの選挙区で(与野党)一騎打ちになっていなかった。今後、野党共闘の道と、圧倒的に強い野党で政権をうかがう二つの方法がある。これから議論したい」
と述べたが、野党共闘の道は閉ざされた。今後は保守野党の共闘と左系野党の共闘の二つに分かれた共闘が展開されていくだろう。
立憲民主党の玉木氏は自民党の圧勝について「野党が割れたことに尽きる」と野党候補の乱立が主要因だとの認識を強調したが、その指摘は間違っている。自民党が圧勝したのは野党に自民党に勝る政策をアピールした政党がなかったからである。
政策で自民党と真っ向から闘える政党が登場しない限り、自民党の圧勝は続くだろう。立憲民主党が政権を握りたいなら保守系政党と左系政党の勢力を客観的に視るべきである。

保守系政党
自民党、希望の党、維新の会 
342議席
    公明党+なら371議席
左系政党
共産党、社民党、立憲民主党
          65議席
左系政党が共闘してもわずか65議席である。政権ははるかに遠い。左系政党の立憲民主党が政権を握るのは遥かかなたの夢である。
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立憲民主党が共産党に決定的ダメージを与えた

立憲民主党が共産党に決定的ダメージを与えた
 マスコミは希望の党の敗北を問題にし、小池代表や前原代表の責任追及で賑わっている。維新の会が3議席減って11議席なったことで松井代表の責任を追及する記事もある。しかし、21議席から12議席へと半減し、存亡の危機に陥っている共産党についてはマスコミは無言である。

 衆議院選挙で、共産党、立憲民主党、社民党の三党共闘に一番熱心に主導してきたのは共産党であった。三党の立候補者がダブるのを避けて、立憲民主党の候補者が出た小選挙区では共産党の立候補を全て下ろした。しかし、それが共産党にとって裏目に出てしまった。
社民党は2議席を確保して現状維持であったが、共産党は9議席も減らして議席は半減した。立憲民主党の躍進の裏で、共産党の大敗退があったのである。三党共闘は共産党にとって大きなマイナス効果しかなかった。マスコミは希望の党の7議席減の責任をとって小池氏は代表辞任するべきだと報じている。であるならば9議席を失って議席を半減させた原因である三党共闘を推進した志位委員長と小池代表が責任を取るべきことも報じるべきである。
 しかし、マスコミは共産党の大敗北を取り上げないし、志位委員長の辞任も要求しない。不思議てある。

 立憲民主党の大躍進による共産党のダメージは選挙だけで終わりそうにない。立憲民主党はこれからも共産党にダメージを与えていきそうである。
立憲民主党の枝野幸男代表は24日の両院議員総会で
「永田町の数合わせにコミットしていると誤解されれば、期待はあっという間にどこかに行ってしまう」
と言い、
「考え方がわれわれとほぼ共通する議員が外側にいることも分かっている」
「理念、政策が一致しているなら、個人として加わってもらうのは歓迎すべきことだ」
と述べている。
 枝野代表は小池代表と同じように「理念、政策が一致」していることを最優先すると宣言したのだ。そして、支持者に勢力の拡大を目的にしていることをイメージさせるような連携はしないと述べている。枝野代表の宣言は民進党や無所属の前民進党議員に向けられただけでなく、共産党にも向けられている。
 共産党とも「理念、政策が一致」しない限り共闘はしないと枝野代表は宣言したのに等しい。

 立憲民主党と共産党が共闘するということは両党の理念、政策を一致させなければならない。共産党は日米安保廃棄、全ての米軍基地撤去を理念としている。そんな共産党と理念を一致させることができるだろうか。一致させれば立憲民主党の共産党化になってしまう。64議席の立憲民主党が12議席の共産党に飲み込まれることになる。立憲民主党が共産党の理念と一致させるはずがない。
 共産党と共闘すれば、次の選挙では、
自民党と公明党のように、
「小選挙区は立憲民主党の××候補に、比例は共産党に」
と選挙共闘をしなければならなくなる。共産党と一心同体になるのである。そんなことになったら立憲民主党の党勢拡大は困難である。
 枝野代表は立憲民主党は右でもない左でもない中道の政党であることを強調している。中道を強調しない限り保守票を得ることはできないからだ。党勢拡大のためには市民に立憲民主党が中道政党であるイメージを誇示していかなければならない。しかし、共産党と共闘すれば左系のイメージが強くなり、中道のイメージは消えていく。中道のイメージが消えてしまうことを恐れている枝野代表が中道のイメージを保つために共産党と距離を置く可能性は高い。

 共産党、立憲民主党、社民党の三党共闘を積極的に進め、そのために9議席も失った共産党である。その上、立憲民主党と国会で共闘することができなければ共産党にとって踏んだり蹴ったりである。
 
 蓮舫前代表の共産党との共闘方針に反発した民進党員が離党したことが原因で民進党が分裂した。民進党が分裂したのは共産党との共闘が問題であった。
 共産党との共闘を嫌った細野議員は民進党を離党して若狭氏と共同で小池都知事を代表とする希望の党を設立した。共産党との共闘を嫌った前原代表は希望の党への入党を計画した。それは同時に民進党のリベラル派排除につながった。

 立憲民主党は希望の党から排除されたリベラル派を中心とした政党である。共産党との共闘を推進したのはリベラル派であったから立憲民主党が共産党と共闘するのが自然の流れと思っていたが、どうもそうではないようである。
 立憲民主党の党勢拡大のためには連合の支援が必要である。しかし、連合と共産党は犬猿の仲である。共産党と共闘すれば連合は敬遠していく可能性がある。連合の支援を得るためには共産党とは距離を置いたほうがいい。それに共産党と共闘しても党勢拡大にはつながらないだろう。
 枝野代表が共産党との距離を置く可能性は高い。

○希望の党はどうなっていくのでしょうか
○民進参院総会「前原氏辞めろ」大荒れ
○維新の松井氏に代表辞任論 
○立民・希望・無所属・民進・・・ どうなる?野党の連携
と、希望の党、民進党、立憲民主党、野党連携の話題が紙面を賑わしている。共産党は話題の外にある。
 
 立憲民主党が共産党の議席を半減させた。今度の衆議院選挙で立憲民主党の登場によって一番ダメージを負ったのは共産党である。その事実からマスコミは目を逸らしている。
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保守政党は保守票を奪い合う。左翼政党は左翼票を奪い合う。それが基本だ。

保守政党は保守票を奪い合う。左翼政党は左翼票を奪い合う。それが基本だ。

衆議院選の各党の獲得議席数である。

自民党 281議席 9減
公明党 29議席 6減 
希望の党 50議席 7減
日本維新の会11議席 3減
立憲民主党は54議席 38増
共産党12議席 9減
社民党 2議席  0
無所属26議席 9減 

立憲民主党以外の政党は全て議席を減らしている。減った議席が立憲民主党に流れたと考えられる。
自民党と共産党が9議席減ともっとも多い。しかし、考えなければならないのは減少比率である。290議席から9議席減らした自民党の減少率は3%であるが、12議席から9議席減らした共産党の減少率は43%で半減に近い。減少率が3%の自民党は立憲民主党の影響をほとんど受けていないといえるが、共産党は違う。議席が半減したのだから大きな打撃を受けている。
 立憲民主党と共産党は選挙共闘したのだから、協力して二党の議席を増やしたはずであるが、事実は違った。立憲民主党だけの議席が増え共産党の議席は大きく減少したのである。共産党の半減は共産党の多くの票が立憲民主党に流れからだと予想できる。保守の日本維新の会も議席を減らしているが3議席である。維新の会よりも左翼の共産党の方が票は立憲民主党に流れているのだ。
 なぜ、選挙共闘をやった共産党の票が立憲民主党に流れたのか。考えられることは二つの政党は左翼であり、共産党に投票していた左翼支持者が同じ左翼政党の立憲民主党に票を入れたからであろう。左翼の共産党の票を左翼の立憲民主党が奪ったのである。それは驚くことではない。あり得ることである。
 次の選挙でも選挙共闘をやり、立憲民主党の立候補する選挙区には共産党の立候補者を出さないようにすれば共産党の票は立憲民主党に奪われるし、立憲民主党の立候補者が増えれば増えるほど共産党の当選者は減っていくだろう。いや、12議席というのは共産党の固定支持の票かもしれない。これ以上は減らないかもしれないが、増えることもないだろう。そして、左翼票には限界があるから立憲民主党の議席が増えることもないだろう。
 共産党が議席を増やすには立憲民主党の票を奪うしかないし、立憲民主党の議席を増やすには共産党の票を奪うしかない。どちらの議席が増えたとしても二つの政党の合計議席数は同じだろう。
左翼の政党が保守政党である自民党の票を奪うのは困難である。

 沖縄では自民党県連のリーダーであった翁長雄志氏が、知事選挙に勝つために共産党と共闘した。翁長氏は左翼と保守の支持で県知事に当選した。前回と今回の衆議院選挙では共産党の赤嶺政賢候補が保守と左翼の支持で小選挙区で当選した。沖縄では保守と左翼が共闘するという特殊なケースが生まれた。そして、左翼が保守の支持も得る状態が生まれて、今まで比例でのみ当選していた共産党議員が小選挙区で当選したのである。共産党は沖縄だけが小選挙区で当選している。他の11人は比例で当選した。

 保守政党である希望の党は立憲民主党や共産党の左翼票を奪うのではなく同じ保守の自民党の票を奪わなければ議員を増やすことはできない。そして、政権党になれない。
自民党の票を奪うには自民党のいいところを取り入れる必要がある。取り入れた上で自民党より国民に支持される優れた政策をつくりだすべきである。
経済復興に成功した安倍首相のアベノミクス政策は認めるべきである。アベノミクスで日本の経済は復活し、就職は売り手市場になり、株価は20000円代に復活した。自民党が圧勝する可能性が高くなったので株は史上初の15連騰した。15連騰は高度成長期の1960年の最長記録を約57年ぶりに更新した。
アベノミクスで経済が復活し、就職状況が改善したことは株が15連騰したと同時に与党の自民党・公明党が三分の二の議席を獲得したことにつながったのである。
自民党の票を奪うには安倍政権の政策を認めた上で、それ以上の政策を掲げることである。
共産党や立憲民主党のように安倍政権非難一方では自民党の票を奪うことはできない。そして、自民党の票を奪う政策を掲げることができなければ政権党にはなれない。共産党と立憲民主党が共闘しても政権党になるのは無理である。

保守政党は保守支持の票を奪い合う。左翼政党は左翼支持の票を奪い合う。そして、圧倒的に多いのは保守支持票である。保守政党は政権党になれるが左翼政党は政権党にはなれない。旧民主党のように保守と左翼が混在する政党が政権を握ることはあるが、そんな政権はすぐに内部崩壊する。左翼と保守が混在する政党はつくるべきではない。小池代表と前原代表の判断は正しかった。
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自民・希望・維新で三分の二議席突破、二大政党への道が開いた

自民・希望・維新で三分の二議席突破、二大政党への道が開いた

衆議院選の各党の獲得議席数である。

自民党 282議席
公明党 29議席 
希望の党 48議席
日本維新の会10議席
立憲民主党は54議席
共産党12議席
社民党 1議席
無所属23議席

衆議院選挙でマスコミは自民党が絶対過半数の260議席を超えたことと、公明党と合わせると三分の二議席を超えたこと、そして、立憲民主党が躍進して野党第一党になり、希望の党が衰退したことに注目している。
 しかし、今回の衆議院選で最も注目するべきものは保守と左翼が混在していた民進党が希望の党と立憲民主党に分裂したことによって、保守政党と左翼政党に二分したことだ。

保守政党・・・自民党、希望の党、維新の会
左翼政党・・・共産党、社民党、立憲民主党
※公明党は創価学会が支援している宗教政党だから純粋な保守政党とはいえない。

 保守政党の合計議席数は340議席で軽く三分の二議席を超えている。
左翼政党の合計は67議席である。
 保守対左翼は340対67であり、保守が圧倒している。政権側にくっつく公明党も保守政党が圧倒しているから保守側になるだろう。すると保守政党は公明党を加えて369議席になる。左翼政党より300議席も多い。
 369議席を保守政党は維持し、保守政党同士で369議席を奪い合えばいい。そして、保守政党による二大政党時代を築けばいい。

 希望の党の議席が57議席から9議席減らして47議席に失速したことよりも、保守政党が47議席増えたことを注目するべきである。
 立憲民主党は15議席から54議席に躍進したが、たった54議席である。清家河東になるにはほど遠い議席である。
枝野代表は立憲民主党は右でもない左でもない中道の政党であることを強調した。
「政治は数ではない。いかにみなさんの声に寄り添うことができるかだ。その原点に返った政治を進めていきたい」
「皆さんが主役の本当の民主主義の第1歩を、一緒に踏み出していただけませんか。私にはあなたの力が必要です」
と枝野代表は共謀罪反対、憲法改正反対、安保法案反対、共産党との共闘の政治的な発言を控えて、民主主義を強調する演説をするようになった。これでは国民は立憲民主党が民主政党であるというイメージを持ってしまう。民主主義政党であると勘違いして立憲民主党に投票した国民は多いだろう。
 民主主義ではないのに国民の支持を得るために民主主義を強調するのが左翼の共産党であるし社民党である。社民党は社会民主党と民主主義を名乗っている。しかし、民主主義ではない社会主義の左翼である。共産党や社民党が民主主義政党ではなく左翼政党であるのは年月が経てば経つほど国民は知るようになり支持をしなくなる。

 立憲民主党の本性が表面化するのは国会が始まってからである。本性を国民が分かるようになれば次第に立憲民主党支持は減っていくだろう。社民党のように。

 希望の党が9議席減らしたことから小池代表の責任を追及し、希望の党の衰退、分解を予測するマスコミは多いが共産党が希望の党と同じように9議席減らして、21議席から半分の12議席なったことを問題にするマスコミはない。小池代表よりも志位委員長のほうが責任は大きい。しかし、誰も志位委員長の責任を追及しないのである。変である。まあそれがマスコミであるのかもしれない。

 共産党の議席激減の原因は立憲民主党にある。共産党は立憲民主党との共闘を優先して立憲民主党が立候補した選挙区には候補者を出さなかった。共産党は小選挙区で当選する候補者はほとんど居ない。沖縄一区の赤嶺候補が小選挙区で当選したが、彼以外はみんな比例当選である。
ところが立憲民主党が立候補した選挙区には候補者を出さなかったので、比例票も立憲民主党に流れたのである。そのために共産党の比例当選は半減したのである。共産党の当選者が半減したのは立憲民主党との共闘を優先させたのが原因だったのだ

立憲民主党は共産党に恩ができたのである。これからの共産党は立憲民主党への共闘の要求をますます強めていくだろう。共産党に恩のある枝野代表は共産党の要求を断ることができない。共産党の要求を飲まなくてはならない状況になった。立憲民主党と共産党の共闘はますます強くなるだろう。

 枝野代表が右でもない左でもない「民主主義」を強調し、中道の政治をやろうとしても、共産党と共闘する立憲民主党の左傾化は避けることができない。旧社会党より左傾化していくだろう。
共産党は社会主義国家を目指した左翼政党であることは周知のことであるから、日本の政党は共産党と共闘することを避けていた。旧社会党も共産党との共闘を避けていた非共産党政党であった。自民党は旧社会党と共闘したが共産党と共闘したことは一度もない。
旧社会党でさえ共産党との共闘は避けていたのに立憲民主党は共産党と共闘したのである。立憲民主党は旧社会党より左の傾向が強いということである。

 15議席から54議席へと飛躍したから、これからも立憲民主党の議席がどんどん伸びて政権党になると予測する人が居るかも知れないが、それはあり得ないことである。共産党と共闘した立憲民主党がたどるのは社民党と同じ衰退の道である。

 希望の党も前途多難である。小池代表は東京都政に専念しなければならない。希望の党は民進党から入党した議員がほとんどを占めるが、民進党のリーダーは無所属で立候補したから希望の党には有能なリーダーが居ない。
 前原代表は民進党の代表を辞めて希望の党に参加するだろうが、彼だけではリーダー不足である。リーダー格である無所属の前民進党議員の中の保守政治家を希望の党に加入できるか否かはこれからの希望の党の将来を左右する。

 希望の党がしっかりすれば、将来は自民党から希望の党へ移る議員も出てくるだろう。

 東京都議選のように自民党支持が激減した代わりに都民ファート支持が激増したように、国会でも希望の党が都民ファーストのようになれる政党になってほしい。二大政党を目指した保守政治家が希望の党に入党していけば二大政党が実現するだろう。
 これから紆余曲折を辿るだろうが、希望の党の成長にしか二大政党の可能性は生まれない。
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政党も労働団体も保守と左翼に分かれた。今回の選挙の大きな成果である

政党も労働団体も保守と左翼に分かれた。今回の選挙の大きな成果である
朝日新聞が連合の「またさき状態」を報じた。


日本最大の労働組合の中央組織である連合には、企業ごとの労組が集まった産業別組織(産別)が49あるが、民進が希望と立憲民主党、無所属に3分裂した今回衆院選では、各産別の組織内候補の立候補先によってどの党、候補者を支援するか対応が割れている。

 旧同盟系の自動車総連などは希望の候補者の、旧総評系の自治労や運輸労連、私鉄総連は立憲の候補者の支援に力を入れる。組織内候補が2党に分かれた情報労連は、地域ブロックごとに投票先を変えることを余儀なくされている。

 連合内では当初、希望への合流を支持する声が主流だった。共産党と距離を置く前原氏の姿勢が従来方針と通じ合い、神津氏自身が民進と希望の合流構想に関与した経緯もあった。しかし、報道各社の衆院選情勢調査で希望の伸び悩みと立憲の躍進ぶりが伝えられるなか、選挙後の対応が難しくなっている。
希望と立憲の議席差は、それぞれを推す産別の発言力にも影響を与えかねない。現場では激しい選挙運動が展開されており、「組合員の気持ちを考えたら、選挙が終わってノーサイドとはいかない」(産別労組幹部)との声も出ている。連合幹部の一人は「先がまったく見えない。極めて悩ましい」とこぼす。
       「朝日新聞デジタル」
 立憲民主党の枝野代表は「右でもなく左でもなく」を強調して立憲民主党が中道政党であることを強調している。そして、共産党との共闘については黙っている。枝野代表の演説を聞けば立憲民主党が中道の政党というイメージであるが、立憲民主党が中道であるないかは選挙が終わり国会が始まらなければ国民は分からない。
 共産党と共闘する政党がどうして中道であるのか。そんなことはあり得ない。共産党と共闘する枝野代表らリベラル派が主張してきたのは憲法改正反対、安保法制反対など共産党の主張と共通するものが多い。共通するから共闘するのである。
 
 労連は希望の党支持と立憲民主党支持に分裂したが、希望の党支持の自動車労連の中から立憲民主党を支持労組がいたり、私鉄労連から希望の党を支持している労組もある。現状は悩ましい分裂状態であるが、国会が始まれば次第に整理されていくだろう。

 注目するべきは立憲民主党を支持している自治労では希望の党を支持する労組がいないことである。自治労は立憲民主党支持でまとまっている。
 自治労は連合では立憲民主党支持で統一しているが、自治労自体は立憲民主党支持と共産党支持そして社民党支持に分裂している。この分裂は旧社会党時代に遡る。旧社会党支持の自治労は旧社会党が解散すると民進党に参加したリベラル派支持派と社民党支持派別れた。

 共産党、社民党そして立憲民主党は自治労が支持している政党である。三党の共闘は分裂した自治労がまとまるから自治労としては歓迎しているかもしれない。

 労連の「またさき状態」は民間労働団体と公務員団体との利害対立がもたらすものであり、民間労働と公務員の違いを明確にするきっかけになるだろう。労働団体も二つに分かれて、
希望の党支持=民間労働団体
共産党・社民党・立憲民主党支持=公務員団体
となればいい。
 希望の党と立憲民主党の誕生は労連の「またさき状態」を生み、それは労働団体の整理につながるかもしれない。
 希望の党の誕生によって保守政党と左翼政党がはっきりと分かれたこと、そして政党支持によって保守労働団体と左翼労働団体も明確に分かれた。このことが今回の衆議院選挙の大きな成果である。
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一番注目するべきは自民党・希望の党・維新の会で三分の二以上の議席を獲得するか否かである

一番注目するべきは自民党・希望の党・維新の会で三分の二以上の議席を獲得するか否かである
 読売新聞の調査では比例選投票先は自民が33%、立憲民主17%、13%である。
 終盤に入り、立憲民主の勢いが増し、野党の第一党には希望の党ではなく立憲民主党ではないかと予想をしている。マスコミは希望の党と立憲民主を話題にしているが日本政治全体から見れば大した問題ではない。

 注目するべきは、公明党を抜いた、自民党・希望の党・維新の会の保守三党で三分の二以上の議席を獲得するか否かである。
 公明党は創価学会と言う宗教団体の政党であり、保守政党ではない。自民党と共闘する前は革新政党の一翼を担っていた。自民党の味方であるようにみせながら自民党の足を引っ張る政党でもある。特に憲法改正においては自民党とは反対の立場にある。

 公明党を抜いた自民、希望、維新の保守三政党が三分の二以上の議席を獲得すれば、憲法改正への道が大きく開かれる。また、安保法制や北朝鮮問題なども安倍政権のやりたいことができる。
 
 三分の二議席を保守三党で占めることができれば、もし、自民党の失政が続いて国民の支持を失った時には東京都議選で自民党の票が都民ファーストに流れたように希望の党、維新の会に票が流れるだろう。そうなれば希望、維新二政党の連携で与党になれる。保守三党で三分の二以上の議席を獲得するということは自民党か希望の党・維新の会のどちらかが政権党になることになるのである。

 読売の調査では、18~29歳の層は自民党支持が49%を占めている。30~40歳でも自民党支持が他党を10ポイント以上も引き離している。
 希望の党、維新の党も若い世代に支持される政策を出し、自民党と競えば常に保守三党が三分の二を占めることができるだろう。そうなれば共産党、社民党、立憲民主党は常に三分の一以下の少数野党になる。そうなれば左翼三政党が政権を握ることは不可能であることを国民が認識するだろう。ますます左翼三党への支持は減っていくだろう。
保守三党が三分の二を占めるようになれば、選挙では常に自民党かそうでなければ希望の党+維新の会が過半数の議席を獲得して、政権を握ることができる。これが二大政党時代の始まりである。

自民党が若い人たちに支持されているということは将来的にも支持が拡大するということである。
 若い世代は保守的というより、現実的といったほうが適切である。アベノミクス効果を素直に肯定し、北朝鮮危機を直視している。憲法九条が日本を守っているのではなく、自衛隊と米軍が守っているという事実を現実として認識しているのである。

 自民党、希望の党、維新の会が若い世代の支持を中心に、三分の二以上のの議席を獲得するかどうかが今度の衆議院選挙で一番注目するべきことである。
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連合も保守と左翼が混在する民進党状態である

連合も保守と左翼が混在する民進党状態である
 民進党が保守の希望の党と左翼の立憲民主に分裂することによって、連合内部も希望の党を支援する右派と立憲民主党を支援する左派に別れた。 右派は旧同盟系のUAゼンセン、自動車総連、電力労連など日本の主要産業の労組が中心である。
UAゼンセンは、繊維・衣料、医薬・化粧品、化学・エネルギー、窯業・建材、食品、流通、印刷、レジャー・サービス、福祉・医療産業、派遣業・業務請負業など、国民生活に関連する産業の労働者が結集して組織した産業別労働組合 である。連合の右派は民間企業の労働組合である。
 左派は旧総評系である。総評は、自治労、日教組、国労(旧国鉄)など官公労系が中心で、当時の日本社会党を支持していた。左派は公務員の労働組合といえる。
 同盟系が民間会社に労働者で税金を納める側であるが、総評系は税金を給料として受け取る公務員の労働組織である。公務員の生活は社会の景気不景気に左右されない。安定した中流生活を保障されている。保障されている代わりに、民間労働組合のように労働条件改善の要求やストをすることが禁じられている。
 共産党の支持団体も自治労、日教組である。自治労は労働者の生活を豊かにすることを目的に活動はしない。日米安保反対や憲法改正反対、自衛隊は憲法違反であるなどの政治問題を中心に活動をする。

 民進党が希望の党と立憲民主党に分裂したので、連合内が右派と左派が混在していることが明らかになった。
 立憲民主党を支援する左派は自治労、日教組であり、共産党を支援している団体と同じである。民進党の左派が共産党との共闘を進めたのもうなずけるだろう。
 共産党系と総評系に分裂していた自治労、日教組が共産党と民進党が共闘することによって合体することができ大きい組織となり、勢力が増す。その勢いで民進党を左派が支配できるようになる。共産党と民進党の共闘は自治労、日教組が裏で工作していたかもしれない。
 民進党の左派が結集する立憲民主党は共産党と共闘する。自治労、日教組が歓迎することである。

 民進党が希望の党と立憲民主党に分裂したように連合も分裂したほうがいい。そして、共産党と立憲民主党を支援している日教組、自治労がひとつになり、共産党と立憲民主党の共闘を支援すればいい。
 
 政党も労働団体も保守と左翼に別れたほうがいい。保守と左翼の混在は日本政治にはマイナスである。
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