大田氏の「次に戦争があれば真っ先に行くのは若者」の欺瞞

大田氏の「次に戦争があれば真っ先に行くのは若者」の欺瞞

 慰霊の日を前に真和志高校で四日、元県知事で沖縄国際平和研究所の大田昌秀理事長が講演をした。
 七十年前の沖縄戦当時、沖縄師範学校二年生だった大田氏は鉄血勤皇隊として戦場に動員された体験を高校生に語った。

「沖縄戦では二十一校の学校から、多くの生徒が動員された。それより幼い子供も弾薬運びなどをさせられたり、壕から追い出されたりなどして、一万人余りの十四歳未満の子どもが犠牲になった」と、将来のある若い人たちの命を奪った戦争の悲惨さを語った。
                  琉球新報
 そして、「沖縄戦の最大の教訓は「軍隊は住民を守らないことだ」と述べた。しかし、この大田氏の指摘は間違っている。沖縄戦では十万人近くの民間人が死んだが、それだけではなく十万人の日本兵も戦死した。ほとんどの日本兵は戦死して日本軍は壊滅した。
「軍隊は住民を守らない」ではない。「壊滅した軍隊は住民を守ることができない」である。どうして、死んだ日本兵が住民を守ることができるのだ。太田氏は日本軍が壊滅した事実を隠したうえで、「軍隊は住民を守らないことだ」と言ったのだ。太田氏は嘘つきである。

 大田氏は沖縄戦を体験したかもしれないが、沖縄戦の本当のことを理解していない。日本兵は米軍に追い詰められても死を覚悟で米兵に立ち向かっていった。そして、玉砕した。
 玉砕していった日本軍に対して「軍隊は住民を守らない」というのは日本軍を侮辱している。玉砕したために住民を守ることができなかったことを大田氏は理解していない。自分の視野の狭い個人的な戦争体験を沖縄戦全体のことでもあるように高校生に語る大田氏は本当の沖縄戦を伝えることはできない。
 
 大田氏は集団的自衛権の行使容認や憲法改正に触れ、「次に戦争があれば真っ先に攻撃されるのは基地のある沖縄。真っ先に戦場に出されるのは皆さんのような若者だ」と語った。これもまた大嘘である。
 「次に戦争があれば」というが、米軍はどこと戦争するのだろうか。米軍は過去にイラク、アフガンで戦争をし、沖縄から戦闘機や兵士が参加したが、沖縄は攻撃されなかった。なぜ攻撃をされなかったか。答えは簡単である。イラクやアフガンのタリバンに沖縄を攻撃する能力がなかったからである。
 一九五〇年代に朝鮮戦争があり、一九六〇年~一九七〇年代にはベトナム戦争があった。米軍は二つの戦争に参加したが沖縄は一度も攻撃されなかった。
 戦後七十年の間に米軍は多くの戦争をしたが、沖縄が攻撃されたことは一度もない。太田氏は歴史的な事実を無視しているのだ。「次に戦争があれば真っ先に攻撃されるのは基地のある沖縄」は過去の事実を無視した、根拠のない話である。つまり太田氏は大嘘をついているのだ。

 米軍が戦争をするには理由がある。朝鮮戦争とベトナム戦争の時は社会主義国である北朝鮮や北ベトナムが国境線を越えて侵略してきたので、国境線を回復させるために戦争をした。朝鮮戦争は米軍側が勝利したので、国境線は回復し、現在韓国と北朝鮮に分かれている。ベトナム戦争では米軍が敗北したので北ベトナムがベトナム全体を支配し社会主義国家となっている。

 アフガンはタリバンがニューヨーク貿易センターとペンタゴンをテロで破壊したのでタリバン政権を倒すためにアフガンに侵攻した。核爆弾所持の疑いがあるのにフセイン大統領が疑いを払しょくしなかったので、フセイン政権を倒すためにイラクに侵攻した。
 独裁政権を倒すだけでなくイラク・アフガンを民主主義国家にするのがが米国の目的であった。現在イラクとアフガンは民主主義国家になった。

 戦後七十年の間の米軍の行動を調べることはしないで、七十年前の個人体験だけにこだわった太田氏の話は嘘だらけである。

「(次に戦争があれば)、真っ先に戦場に出されるのは皆さんのような若者だ」
は非現実的であり妄想としかいいようがない。

 若者を兵士にしなければならない程の戦争を米軍・自衛隊はどの国とやるというのだ。

 北朝鮮ならあっという間にやっつけるだろう。米軍が駐留している韓国と戦争することはない。フイリピン、ベトナム、シンガポール、インドネシアなどの国々とは友好関係にあり戦争することあり得ない。

 戦争の可能性があるのは唯一中国である。太田氏はその中国に出かけ、「琉球前沿問題高端対話論壇(琉球問題ハイレベルフォーラム)」(主催・北京大学歴史学会など)という学術会議に参加した。そして、真和志高校の生徒に講演をしたように戦争の酷さ、愚かさを自分の体験を通じて話し、「日米による琉球へのオスプレイ強行配備や辺野古新基地建設のもくろみ、また、それらに立ち向かい、平和を求め、行動する琉球の心について熱く語られた」という。

 オスプレイ配備も辺野古移設も漢民族独裁中国への抑止であるのだが、抑止の対象である中国でオスプレイ配備や辺野古移設を非難するというのは滑稽な話である。中国の味方になった発言に中国は拍手喝采ではないのか。

 大田氏にとって中国は友好国であり戦争は絶対しない相手国であると考えているのだろう。

 とすると、若者が動員されるほどの大きな戦争が起こる可能性はないということになる。大田氏が中国を友好国と思っていることは集団的自衛権が拡大解釈されようが、平和憲法が改変されようが、日本が大きい戦争をすることはないということを示している。
 
 「次に戦争があれば」という仮定が成り立たないことを太田氏自身が実証したのが中国講演である。
 
 太田氏のような沖縄戦で思想が止まった人間は現実を惑わす厄介者でしかない。現在の沖縄に必要ない。
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「太田昌秀さんにかみつく」の添削をお願い

今度「かみつく」という季刊誌を出す決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。しかし、資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いします。

太田昌秀さんにかみつく1

  太田昌秀さんにかみつくための本を探す
 
無名の人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやい方法である。私は有名人になりたい無名な人間である。無名な私は有名人になりたいから有名人にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた。考えた末に最初にかみつくのを太田昌秀さんに決めた。なにしろ太田昌秀さんは元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では超がつくほどの有名な人だ。太田昌秀さんにかみついて、うまくいけば私は有名になれるだろう。こんな私の思いつきを、安直な考えだと笑う者がいるだろう。笑いたい者は笑えばいい。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。身の程知らずで悪かったな。万が一有名人になれたら最高じゃないか。えげつないやり方だと軽蔑する者もいるだろう。軽蔑するならけっこうけだらけ、ファックユーだぜ。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。

さて、かみつくにはどうすればいいか。
その方法は決まっている。太田昌秀さんの書いた本を買って読むことだ。そして、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
 さて、大田さんの書いた本はどんな本があるのだろうか。私はネットで大田さんの本を調べた。調べるとなんと大田さんの書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いていたのかと私は驚いた。

沖縄健児隊(共)、血であがなったもの、沖縄の民衆意識、現代の差別と偏見(共) 、近代沖縄の政治構造、伊波普猷―人と思想(共)、伊波普猷の思想とその時代、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、憲法改悪反対運動入門(共)、沖縄―戦争と平和、人間が人間でなくなるときジェノサイド、留魂の碑―鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、戦後日本も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・
ううん、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は困った。どの本がかみつきやすいのかは本の題名を見ただけではわからない。全部の本を読めばどの本がかみつきやすいか分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私にとって10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいない。私が買うのは一冊にしよう。三、四冊も買うと読むのが大変だからな。

「こんな沖縄に誰がした」と「こんな女に誰がした」

どの本を買うか。私は考えた。私は悩んだ。本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
 一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。ああ、わかった。日本の歌謡曲に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。「こんな女に誰がした」は歌の題名ではなく、歌詞だ。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なので私はスナックのカラオケで時々歌っている。

星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎

星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした

煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした

私が生まれる一年前の歌だ。ぐっとくる歌詞だねえ。それに7775777575と定型詩になっていて締りのある言葉の流れが最高だ。昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌って大ヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。とWEBに載っていた。
娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。私は感心したね。戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も娼婦の女のように身を落としたと大田さんは言いたいわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。かみつきがいがあるというものだ。
「こんな沖縄に誰がした」にかみつくことにした私は、嘉手納の水釜にあるネーブルカデナの宮脇書店に行って「こんな沖縄に誰がした」を買ってきた。私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本を買って以来である。あの頃の私は学習塾をやっていたが、学習塾を始めた時に、沖縄の生徒の学力のあまりの低さにたまげたものだ。学力の低い最大の原因は学校の先生が復習をしないことだった。一度教えたものは100%マスターするのが子供の義務あると学校の先生は決めつけていたのだろう。だから復習をしなかったというわけだ。学校の授業は教科書に敷いたレールを前へ前へとどんどん進んだ。だから、どんどん落ちこぼれが出た。人間は忘れる動物だからな。復習をして前に習ったところを思い出させてあげないと落ちこぼれる生徒が出るのは当たり前だのクロッカーだ。それを学校の先生たちは無視していた。
小学二年生の時に掛け算九九を覚えたとしても、三年生になると部分的に忘れてしまう生徒がかなりいる。だから二桁三桁の掛け算を教える前に掛け算九九の復習をやるべきである。ところが学校では復習をやらない。だから落ちこぼれる生徒がどんどん出てくる。学習塾で掛け算九九の復習をやるだけで成績がぐんぐん上がったものだ。子供の成績を上げるのは簡単だった。
学習塾をやって生徒の学力が低い原因は先生たちのいい加減な教え方が原因であるとわかってきたから、大浜方栄さんの「教師は学力低下の最大責任者」という主張に「そうだそうだ」と私は大いに賛成した。たから「教師は学力低下の最大責任者」の本を買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。

「こんな沖縄に誰がした」の表紙は全体が朱色だ。琉球王朝の色だな。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。
「こんな沖縄に誰がした」の題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。
私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き、一年中居間に居座っている電気炬燵にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。耳には昼ドラの声が聞こえる。テレビはあまり見ないが見ていなくてもテレビはつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じる。わびしさを感じないためにテレビは一日中かけっぱなしだ。
本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。ページをめくった。すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。

まえがき
「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
うわ、なんてことだ。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。
「それはないよ、太田さん」
私は思わずつぶやいていた。
「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にしたのなら娼婦に身を挺した「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ね合わせた本でなければならないはずだ。題名と本の内容はおおよそ一致するというのが常識ではないか。それが題名というものだ。表紙カバーにでかでかと「こんな沖縄に誰がした」と書いてあるのに本を開いた途端に「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と題名を否定するような書き出しになっている。なんじゃこりゃ。期待を裏切られた私は戸惑ってしまった。「こんな沖縄に誰がした」という題名と「こんな女に誰がした」を重ね合わせて興味を持ったために本を買った人もいるはずだ。それなのに「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」とは・・・これじゃあサギまがいだ。
大田さんは戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねて昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん

大陸から帰って来た女性はまだ家族にも会えていない。妹は飢えてはいないだろうか、お母さんに一目会いたい。必死に生きながら妹や母親の無事を願っている。敗戦が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性。
そんな女性は戦後の日本にたくさん居ただろう。
悲惨な戦後の真っただ中を生きている女性の心情を大田さんは「泣き言」と冷たく突き放した。大田さんは県知事になったお人だ。知事というものは県民の生活に関心を持ち、県民の生活を向上させていくのが使命だと私は思うのだが、戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田さんは貧しい県民のことを考える知事ではなかったかもしれない。と、まえがきの「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」を読んだ瞬間に私は直感したね。

菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの歌手に愛された。
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がカバーしている。なんと美輪明宏もカバー曲を出している。歌手たちの「星の流れに」への思い入れは強く、それぞれがオリジナルな歌い方をしていて、それぞれの歌が個性豊かで感動させる。
ユーチューブに掲載されている「星の流れに」のファンのコメントを紹介しよう。

菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。

戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ちを知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。

はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装¬束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを覚えております。

最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン

「星の流れに」ファンのコメントを読めば「星の流れに」が多くの人々に深く愛されていることがわかる。「星の流れに」を「こんな女に誰がした」もどきの泣き言と冷たく突き放す大田さんの気持ちが分からない。所詮大田さんは庶民の気持ちが分からない上の人間かもしれない。
大田さんは、
「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」
と述べているが、なにか白々しく感じる。大田さんの愛する沖縄とはどんな沖縄なのだろう。日本国憲法の理念と沖縄の現状が違うのを問題にしているが、日本国憲法の理念といっても憲法は文字に書かれたものであるし、憲法の解釈はひとつではない。それぞれの人間によって解釈が違う。いくつもの解釈がある。自民党と共産党、社民党では憲法の解釈が大きく違う。憲法の理念をひとつにすることは不可能だ。大田さんのいう憲法の理念はつきつめていけば大田さん個人の憲法理念である。憲法を調べては沖縄を見て憲法の文章と沖縄を照らし合わせる。また、憲法を調べては沖縄を見て憲法の文章と沖縄を照らし合わせる。こんな繰り返しで沖縄の現実を正確に見ることができるのだろうか。
世界情勢も国内情勢も変化し続けているのに60年以上も前に作られた憲法を理念にして憲法通りの世の中にしようとするのはおかしいではないか。憲法は神がつくったものではない。人間がつくったものだ。憲法にも欠点はある。欠点を見つければ訂正していくべきである。憲法は固定させるものではない。国民の手によって現実に沿って改定されていくべきものだ。
60,年以上も前につくった憲法を理念に置いて、その理念を実現するという考えは時代の変化に遅れた改革しかできない。現実に生きている私たちは私たちの理念をつくり上げ、私たちの理念を実現するために憲法を改定し、私たちの理念を実現するために現実を変えていくのが普通だ。ただ、日本は戦争に負け、天皇崇拝・富国強兵の帝国主義憲法から180度転換した民主主義の日本国憲法になったために国民のほうが憲法の理念に追いつけない状態が続いた歴史がある。しかし、憲法を絶対視して憲法の理念を実現すればいいと考えるのは世の中の変化を無視し、思想や理念の変化を無視し、現実に生きている人々のことを無視してしまう。現実に生きている人たちの幸せが一番大事な問題であって、憲法の理念に合っているかいないかが大事ではない。
戦前は天皇崇拝者だった大田さんは戦後になって憲法崇拝者に変わったようだ。大田さんにとって戦前は天皇が絶対的存在だったものが戦後は憲法が絶縦的な存在になったというわけだ。戦前の支配者や軍隊が自分たちの都合のいいように天皇制を解釈したように、大田さんは憲法を自分の都合のいいように解釈しているのだろう。

 昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と切り捨てる大田さんの精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私は本を読み進めていった。
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「大田昌秀さんにかみつく」の添削をお願い2

今度「かみつく」という季刊誌を出す決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。しかし、資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いします。

「大田昌秀さんにかみつく」の2



一週間後。一応「こんな沖縄に誰がした」を読み終わった。

 読後の感想は「まいったな」である。かみつくところを見つけるところがなくて困ったという意味で「まいったな」ではない。むしろ逆だ。かみつくところがあまりにも多すぎる。最初のページから最後までみんなかみつくことができそうだ。こんなにかみつきやすい本でいいのかと私は戸惑ってしまったし、かみつくところが多いと書く量が増えて難儀だ。それで「まいったな」と思ったわけである。
元琉球大学教授で、県知事になり、国会議員までなったお人だ。そんなお人が書いた本を私のような社会の底辺で生きてきた人間が簡単にかみつくことはできないだろうと思っていた。かみつくことができなくても無理やりかみつこうと思っていたのに、意外や意外である。いたるところ噛みつくことができるのだ。こんなでたらめなことをよくも書けたものだと妙な感心をしたくらいだ。本当にこのお人は県知事になった人物なのか。信じられないなあ。

私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい。
                         「こんな沖縄に誰がした」より

と、かっこいいことを述べているが、「星の流れに」から見える戦後の日本の悲惨な現実を見ることができないお人がさ、「沖縄の現状」を正しく見ることができるのだろうか。どうしても疑問が湧いてくるよ。大田さんは憲法という上から目線で沖縄を見ているが、上から目線では沖縄の足の裏までは見ることはできない。

 さて、かみつくとするか。この本を買った目的は有名人の大田昌秀さんにかみついて私が有名人になるのが目的だからな。噛みついて噛みついて噛みついてやろうではないか。

あ、そうだ。大田昌秀さんの略歴を記しておこう。WEBのウィキペティアから転載する。

1945年(昭和20年)- 沖縄師範学校本科2年時、学徒隊の鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に参戦
1946年(昭和21年)- 沖縄文教学校卒業
1948年(昭和23年)- 沖縄外国語学校本科卒業
1954年(昭和29年)- 早稲田大学教育学部英文学科卒業
1956年(昭和31年)- 米シラキューズ大学大学院修了(社会学専攻)、琉球大学財団に勤務。
1963年(昭和38年)- 東京大学新聞研究所にて研究
1968年(昭和43年)- 琉球大学法文学部教授就任
1978年(昭和53年)- フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任
1990年(平成2年)- 琉球大学辞職。11月18日の第6回沖縄県知事選挙に出馬、現職西銘順治を破り当選。石垣空港建設反対を公約にしていた。
1994年(平成6年)- 11月20日、任期満了に伴う第7回沖縄県知事選挙で当選(2期)。
1998年(平成10年)- 11月15日、任期満了に伴う第8回沖縄県知事選挙で稲嶺惠一に敗れ落選。
2001年(平成13年)- 7月29日、第19回参議院議員通常選挙(比例区・社会民主党)当選。
2007年(平成19年)- 7月29日、第21回参議院議員選挙に出馬せず政界を引退。
現在大田平和研究所主宰

大田氏の信じられない経済論=妄想経済論

 最初にかみつくところを117ページに決めた。117ページに書いてある題名は「基地返還前後の経済変動」だ。大田さんが経済変動の具体例にしているのがハンビータウンだ。ハンビータウンはハンビー飛行場の頃から私は知っている。ハンビー飛行場に駐機しているヘリコプターを見たことがあるし、貨物船が停泊していたのも那覇行きのバスの中から何度も見た。ハンビー飛行場がハンビータウンになってからも遊びや買い物に何回もいったことがある。ハンビータウンのことはよく知っているから、まずはここからかみつくことにしよう。

 大田さんは、ハンビータウンがヘリコプター基地だった頃の雇用は100人そこそこであったが、1981年に返還されてからは若者の街に変貌して、ヘリコプター基地だったころよりも経済発展し、雇用は数千人から一万人にも及んでいると述べている。うん、それはそうだろう。ヘリコプター基地だった頃はだだっ広いだけで、人の姿はみえなかった。たまにヘリコプターを見るくらいだった。返還されてハンビータウンになると次々と新しい建物が建ち、大きな商業街になった。大田さんのいう通りハンビータウンは急激に賑やかな街になり、めざましい経済発展をして雇用が増えたのはわかる。
大田さんは地元自治体に入る固定資産税は約257万円から1億9507万円に及んでいると述べている。以上の統計の事実を根拠にして大田氏は、ハンビータウンだけでなくすべての軍事基地が軍事基地であるよりも民間に開放されたほうが経済発展をするのだと主張している。
なるほど、そうだろうなあと言いたいところだが、そうはいかないよ大田さん。
大田さんはハンビータウンの経済発展イコール県の経済発展であると考えているが、ハンビータウンは小売店の街だ。ハンビータウンの経済発展をそう単純に県の経済発展であると判断できるものではない。北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながるのなら大いに喜ばしいことであるが、北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながらないということになれば県にとって喜ばしいこととはいえない。

 沖縄市の園田にモッズというライブハウスがあった。国道331号線沿いにあり、モッズでは民謡からジャズまで多くのミュージシャンがライブをし、沖縄では有名なライブハウスだった。しかし、モッズは新しい街ハンビータウンができると園田より集客力がいいハンビータウンに引っ越した。当然のことながらモッズの客は沖縄市から北谷町に流れた。北谷の客は増えたが沖縄市の客は減ったということになる。
 ハンビータウンの隣の美浜タウンにグッドウィルという新しいパソコン専門店ができた。すると沖縄市のコリンザの一階にあったパソコン専門店は閉店に追い込まれた。コリンザのパソコン店のほうがグッドウィルより数倍大きい店であったが、元々ぎりぎりの経営状態だったので、グッドウィルに北谷町や嘉手納町の客が流れたことが影響したために赤字経営に転落したのが原因だと考えられる。コリンザのパソコン店が閉店すれば美浜のパソコン店に客は流れる。パソコン関係のコリンザの客はゼロになる。
 モッズのように沖縄市から北谷町のハンビータウン・美浜に移転した店舗がいくつもあり、多くの客がハンビー・美浜に流れた。
 客がハンビー・美浜に流れたためにコリンザのパソコン店のように閉店した沖縄市や宜野湾市の店は多い。つまりハンビー・美浜のお客は他の市町村から流れた人たちであり、他の市場から客を奪うことによって北谷町のハンビー・美浜は繁盛した。沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店はハンビー・美浜に客を奪われたのだ。
 県全体から見ればハンビー・美浜の客は他の市町村から移動したのだからプラスマイナスゼロである。
 県知事だった大田さんがハンビータウンの経済発展をまるで県全体の経済発展だと錯覚して手放しで喜ぶとは信じられないことである。元県知事なら沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店からどれほどの客がハンビー・美浜の店に流れて売り上げが落ちたかを調査して、ハンビー・美浜が県全体に及ぼすメリットとデメリットについて分析するべきだ。そのような市場調査をしないで、ハンビータウンの経済成長を県全体の経済成長だと喜ぶ大田氏はめでたいお人である。

 沖縄市の南側にある泡瀬ゴルフ場跡には大型店舗のイオンモールができる。沖縄市の商店経営者たちはイオンモールが開店すると壊滅的な打撃を受けるだろうと心配している。しかし、大田さんなら返還された泡瀬ゴルフ場跡にイオンモールができて経済が発展すると手放しで喜ぶだろうな。

一方が繁栄すれば一方は廃れる。それがサービス業の経済法則だ。例えば、大型スーパーが繁栄することによって個人商店やスーパーは廃れた。コンビニエンスが繁盛することによって個人商店、書店、弁当屋、パーラーなどが廃れた。新しい商業地が繁栄している裏には古い商業地が廃れていくのが現実だ。そこにはプラスとマイナスの関係がある。ハンビー・美浜が栄えた分だけ他の商業地の売り上げは落ちたのであり、県経済の全体が成長したとは言えない。こんな簡単な経済法則さえ知らない大田さんが県知事だったのだ。ため息がでてしまう。

大田さんの妄想はまだ続く

現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、このハンビー飛行場の11倍の大きさにも関わらず、二〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。
                         「こんな沖縄に誰がした」より

普天間飛行場とハンビー・美浜は車で5、6分の距離である。大田さんは11倍も広い普天間飛行場跡にハンビー・美浜と同じような若者向けの商店街ができたら客はハンビー・美浜の11倍に増え繁盛すると考えている。普天間飛行場跡は繁盛するかもしれない。しかし、ハンビー・美浜の客は普天間飛行場跡に流れるに決まっている。ハンビー・美浜の客は激減し、沖縄市のように閉店する店が増え、ゴーストタウンになってしまうだろう。
米軍基地が全て返還され、跡地にハンビー・美浜のような小売店街ができたら、限られた客の奪い合いで多くの商店街はゴーストタウンになるだろう。沖縄経済の破綻である。
返還跡地にハンビー・美浜のような小売店街だけをつくったら沖縄経済が破綻する理由がもうひとつある。
普天間飛行場の軍用地料金は年間60億円である。軍用地料は日本政府から沖縄県内に入ってきて県内で流通するお金になる。そのお金が沖縄に入ってこないから県の収入は60億円のマイナスになる。一方ハンビー・美浜の小売店は本土から商品を仕入れる。商品が売れれば売れるほど商品の原価の分だけ本土にお金が出ていく。県内のお金を減らすのがハンビー・美浜の経済である。
 もし、すべての軍用地が返還され、軍用地返還跡にはハンビー・美浜のような小売店の商業街ができると仮定すると、県内に入ってくる米軍基地関係の3000億円の県内への流入は絶たれてしまい、そのかわり県外から商品を買う商店が増えるから、県外へお金が出ていくシステムが増えるようになる。県外からお金が入ってくるお金が減り、県外に出ていくお金が増えれば県全体のお金が減り続けることになる。そうなると県民のお金は減り続けるから、商品を買うお金が減り店の商品は売れなくなる。倒産する店がどんどん増えていく。経済が悪循環して県内の仕事は減り、失業者が増える。
復帰前は戦前の農業中心経済から基地経済になって人口は増え続けた。復帰後は基地経済に加えて政府からの高額交付金による公共工事によって経済が成長し人口が増えた。それに観光業やコールセンターなどやヘンチャー企業の成長が経済発展を助長した。しかし、米軍基地の撤去や海兵隊の減少は沖縄経済を下降させる。それに従って経済がマイナスに転じるだろう。
 そう、ならないためには県外からお金が入ってくる新しい企業が増えることである。コールセンターやベンチャー企業が増えているし、農産物の輸出に情熱を燃やす企業も現われている。しかし、企業が急激に増えるということはない。亀の歩みのように少しずつ増えていくしかない。沖縄の企業が新たに3000億円の収入を増やすには長い時間がかかる。米軍基地は中国の民主化に連動させてゆっくりと減少させて県経済に悪影響を与えないようにするのがいい。急激な基地経済の減少は沖縄経済に悪影響を与えて倒産が増えるだろう。

 普天間飛行場跡地の利用を考える専門家の中で大田さんのようにハンビー・美浜の複製街を普天間飛行場跡につくろうと考えている人はいない。今提案されているのは国が土地を買って大きな公園をつくることだ。国が土地を買い取ることで地主に大金が入ってくる。地主は普天間飛行場が返還されても土地が売れるから一安心というわけだ。しかし、普天間飛行場の基地経済に匹敵する経済効果案はまだ提案されていない。というより、案がないといったほうがいい。
泡瀬ゴルフ場跡にはイオンモールができる。七月には宜野湾市の西海岸に大店舗サンエーコンベンションシティー店が開店した。ドンキーも進出する予定だ。ハンビー・美浜、泡瀬ゴルフ場跡、宜野湾市西海岸、ズケラン部隊、普天間飛行場は車で十分もあれば行ける場所である。こんな場所にハンビー・美浜のように小売店街をつくれば供給過剰になる。倒産する店が増加してゴーストタウンになる場所も出てくるだろう。大田さんは、全ての米軍基地が返還されればすべての跡地にハンビー・美浜のような街ができて経済発展すると妄想しているのだ。おめでたいお人である。

大田さんの妄想はまだまだ続く

. 嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。しかし、2734人しか雇っていない。それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されている。
このように軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、雇用が10倍にふえるという試算がなされているが、それはあながち誇張ではない。
                  「こんな沖縄に誰がした」より

 それは誇張ではない。誇張をはるかに超えた妄想だ。
嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができると妄想をすることがなぜできるのだろうか。とても不思議である。大田さんは嘉手納基地について述べる前に成田空港の旅客数と那覇空港の旅客数を調査比較しただろうか。もし、嘉手納空港が成田空港のような民間空港になると想定したら、成田空港と那覇空港の旅客数について調査するのは常識である。
成田空港の年間旅客数は約二八〇六万人(二〇一一年)である。それに比べて、那覇空港の平成二一年度の旅客数は一四〇六二万人である。那覇空港の旅客数は成田空港の約半分である。
大田さんは、嘉手納飛行場は成田空港の二倍の広さがあるから、嘉手納飛行場が返還されれば成田空港の二倍の旅客が嘉手納飛行場を利用すると想定している。実に那覇空港の四倍の旅客数だ。どうして、嘉手納飛行場が成田空港の二倍だから旅客数も二倍になるというのだ。こんなことは絶対に起こらないことである。
沖縄県の観光業界は観光客を増やすためにあの手この手を使って苦労している。飛行場の広さを二倍にすれば観光客も二倍になるのなら、どんどん飛行場を拡張すればいい。しかし、こんな簡単に観光客や旅客数が増えるわけがない。
もし、嘉手納飛行場が民間空港になったら、那覇空港と旅客の奪い合いになり、それぞれの空港の旅客数は半分ずつになり、二つの空港が莫大な赤字経営をすることになる。
 県知事体験者ならば沖縄県の経済発展を真剣に追及するはずであるが、大田さんは経済破綻をさせてしまう経済論を展開している。不思議な人である。
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「大田昌秀さんにかみつく」の添削をお願い3

今度「かみつく」という季刊誌を出す決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。しかし、資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いします。

「大田昌秀さんにかみつく」の3


大田さんはどうして見え見えの嘘をつく

 大田さんの経済論はあまりにもひどい経済論であるが、歴史観もひどい。大田さんは「こんな沖縄に誰がした」で「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」などと仰っている。私は沖縄の歴史をあまり知らない。そんな私でも尚巴志が三山を統一したのは知っている。三山を統一したということは武力で制圧したことである。話し合いで三山を統一したなんて話は聞いたことがない。私は歴史を調べるために「ジュニア版 琉球・沖縄史」を買った。大人用の歴史書となると字が小さくなり内容が詳しく字数の量が多い。読むのに大変だ。だから、字が大きく字数の少ないジュニア版を買った。家に帰って、テレビをつけっぱなしの居間でコーヒーを飲みながら歴史を調べてみた。

1187年頃 舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年 尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年 尚巴志、北山を滅ぼす
1429年 尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年 八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年 尚元王、奄美大島を征服。
1609年 薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。

1453年五代王・尚金福がなくなると後継争いは激しくなった。争いとは口喧嘩ではない。武力による争いであり、戦争である。後継争いの戦火で首里城は焼け、後継争いをした二人も死んだ。護佐丸・阿痲和利の乱もある。金丸が尚円になったときも武力によるクーデターだったと言われている。王位継承争いの解決方法は話し合いではなく武力争いであった。
武寧を滅ぼす、北山を滅ぼす、南山を滅ぼすというのは武力で滅ぼすということだ。つまり琉球王朝は軍隊を持ち、戦争をしていたということであり、太田さんのいう「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」という歴史的な事実はどこにもない。それがまっかな嘘であるということが中学・高校生用の歴史本でわかる。元大学教授であった大田さんが中学程度の歴史を知らないのだ。信じられないことである。
琉球王朝は八重山や奄美大島も武力で制圧して、植民地にしている。「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」というのは間違っている。むしろ暴力で解決したというのが正しい。
琉球人が乱暴であり、中国に嫌われたことを「ジュニア版 琉球・沖縄史」には書いてある。

琉球は明国への朝貢がゆるされると、毎年、中国へ行って貿易をおこなうようになりました、しかし、そうほうの間に何の問題もなく、平穏に朝貢貿易がつづけられていたのではありませんでした。琉球人の中には、不法行為によって厳しく処罰される者もおり、信頼を損なう事件も起こっていました。
 1475年には中国皇帝から尚円王に対し、「琉球使者の中に、殺人、放火によって強盗を働いた者がいる。犯人をつかまえて処罰せよ」と命令がありペナルティーとして「今後、中国への朝貢は2年に1貢とする」ことが言い渡された。琉球王府は、この事件に琉球人がかかわっていないことを報告し、従来通り1年1貢にもどすように嘆願を繰り返したが、1時期は1年1貢にもどったことがあったが、1年1貢は許されなかった。理由は使節にしたがってやってきた琉球人が、違法な取引をしたり、不法滞在で地元住民とのあいだでトラブルをおこしたりしていたからである。
                   「ジュニア版 琉球・沖縄史」より

琉球人が暴力を用いずに話し合いで解決したというのは嘘である。中国で暴力をふるってトラブルを起こしていた事実が歴史にちゃんと残っている。
学者である太田さんがなぜこんなみえみえの嘘をつくのか不思議でならない。

大田さんは沖縄の貧困には目を向けない

 再び「星の流れに」に話を戻す。沖縄の歴史を調べて驚くべき沖縄の貧困の事実を知ったからだ。

18世紀にはいると、台風や干ばつなど異常気象があいつぎ、困窮した農村はそのたびに飢きんと疫病にみまわれ、多くの餓死者をだしていました。
 農村がこのような自然環境の変化に大きく左右されたのは過重な税負担と、地方役人による不当な取り立てが原因でした。その為、予測される災害にすら対応がままならず、まったくの無防備な状態で災害にみまわれるありさまでした。
 こうした社会にはそれを回復させる余力など残っておらず、大量の餓死者をだしていったのです。その上飢きんにみまわれた年でも、農民の租税免除はその場限りで、ほとんどの農村が翌年にはようしゃなく年貢を取り立てられました。
 農村はますます貧しくなり、借金のかたに土地を質入れしたり、身売りしたりする農民があとを絶ちませんでした。
 身売りとは、年貢をおさめるために借り入れた米やお金を返せなくなった農民が、貸主のもとで一定年限、下男下女としてつとめることです。これによって家族が崩壊することを家内倒れといい、これと連動して、上納の責任単位である与(組)がくずれてしまう与倒れの現象も起こりました。身売り農民のひきうけもとは、地元の有力者か間切りや村役人などの特権階層でした。農村はしだいに、ウェーキと呼ばれる富農層と、ヒンスーと呼ばれる貧農層とに二極分解していきました。
                     「ジュニア版琉球・沖縄史」

薩摩藩に支配されていた琉球王府は、

年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚

以上の品々を薩摩藩に毎年献納しなければならなかった。その負担は琉球王府が負うのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。薩摩藩への莫大な献納を負わされるのは農民である。薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。
吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。

しかし、驚いたことに、沖縄の貧困は琉球王朝時代で終わらなかった。四民平等になったはずの明治から昭和の戦争直前まで沖縄の農民の貧困は変わらなかったのである。
その歴史的事実が中・高校生用の本に載っている。中・高校生用の本にだよ。「ジュニア版 琉球・沖縄史」から引用する。

 当時の沖縄の人口は約60万人ほどで、その7割が農民でした。しかも、多くは零細農家で、サトウキビを主作物とする農家をいとなんでいました。
 廃藩置県後、沖縄では換金作物としてサトウキビを栽培する農家が増え、サツマイモ畑や水田までもキビ畑にかえていました。砂糖生産中心のこの生活形態は、自然環境や経済変動の影響をうけやすく、ことあれば、すぐさま食糧不足と経済危機にみまわれるという弱さを持っていました。それが最悪の形であらわれたのが、大正末期から昭和初期にかけておこったソテツ地獄でした。
 沖縄の輸出品は、砂糖のほかに、泡盛・パナマ帽子・畳表・鰹節・漆器などがありましたが、その8割を砂糖が占めていたので、国際的な糖価の暴落は県経済に深刻な影響を与えました。国税の滞納額も、1921(大正10)年以後は40%台を推移し、銀行などの金融機関にも大きな打撃を与えました。それにおいうちをかけるように、台風や旱ばつがおそい、農村は文字どおりソテツを食べて、飢えをしのばなければならない状態にまでおいつめられていきました。
 多額の借金をかかえ、生活がどうにも立ちゆかない農家では、最後の手段として身売りが公然とおこなわれました。男性は漁業に従事する糸満へ、女性は遊女として辻の遊郭へ売られました。また、海外移住や本土へ出稼ぎとして沖縄を出ていく人びともふえていきました。
                     「ジュニア版 琉球・沖縄史」

 昭和の名曲「星の流れに」は、戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、敗戦後の荒廃した日本で生き抜くために身を落とした女性の歌であることを説明した。しかし、沖縄では戦争に翻弄される以前から「星の流れに」のような娼婦に身を落とす女性が多かった。戦前の沖縄では、身売りされるのは女性だけでなく男性も多くいた。いわゆる女性の辻売りと男性の糸満売りである。

 子供の頃、母親から聞いた話だが、戦前は男の子供が駄々をこねて泣くと、「糸満に売り飛ばすぞ」と脅したそうである。すると子供は泣くのをぴたりとやめた。糸満の漁師に売られた子供は漁師として徹底的に鍛えられる。泳げない子供でも縄で縛って海に放り込んだそうだ。溺れて死にそうになってもなかなか引き上げない。もし、訓練中に死んだとしても事故として片づけられる。糸満に売られたら殺されても文句が言えないということである。まさに子供にとって死ぬかもしれない過酷な運命に放り投げられるのが糸満売りであった。
 辻売りや糸満売りは琉球王朝時代の話ではない。戦前の話なのだ。私の家の前に三〇〇坪ほどの空き地があり、その空き地を借りて畑をやっていたじいさんがいたが、彼は与那国出身で、糸満売りで沖縄にやってきたと話していた。
 戦前までは辻売りや糸満売りが公然と行われていたが、その原因は沖縄の貧しさであった。大正末期から昭和にかけて沖縄ではソテツ地獄があった。昭和時代になってまで沖縄はソテツ地獄と呼ばれる飢餓があったのである。
明治以後は人身売買は法律で禁じられていたが沖縄では公然と人身売買が行われていたという。

 「星の流れに」の女性の貧困は日本の敗戦が原因であるが、沖縄の場合は敗戦以前に貧困問題があった。
大田さんは、昔の琉球は平和主義であり「命どぅ宝」を合い言葉に他者と有効的共生の生き方をして沖縄は豊かであったような印象を与えているが、とんでもないことである。豊かであったのは少数の士族階級の人間たちであり、多くの農民は貧困生活を強いられていた。
明治以降も同じであった。明治時代になり表面上は四民平等になったが実際は富む士族階級と貧しき農民階級の関係は続いていた。明治政府は人材不足であり沖縄に派遣できる人材は少なく沖縄県の政治は統治能力のある沖縄の士族層に任せた。そのためにほとんどの役人は士族出身者が占め、財産のある士族層が経済界も支配していた。沖縄の内実は琉球王朝時代と大差はなかった。
戦前の沖縄の産業は寄留商人と呼ばれる本土出身者と政府の手厚い保護でえた不動産や資金をもとに、貿易・金融・開墾・鉱業開発・新聞社などを経営した尚家が支配していて、人口の70%以上を占めていた小作農民は貧困生活を強いられていた。沖縄社会の70%を占める農民の生活を無視しては沖縄を語ったことにはならない。ところが大田さんは農民を無視して沖縄を語るのである。
沖縄の長い歴史の中で農民や庶民が人間らしい人権や自由を得たのは戦後である。戦前は士族階層と本土の寄留商人が政治と経済を牛耳っていて、農民は差別され、貧困にあえいでいた。土地のない農民は小作人となり低賃金で本土資本の製糖工場のさとうきび畑で働かされていた。戦後になり、米民政府によって寄留商人は沖縄から排除された。士族階層の特権は剥奪され、土地は小作人に分け与えられた。そして、商売が誰でも自由にやれるようになった。平和通り商店街の発展が戦後の沖縄を象徴している。戦後の沖縄ではアメリカ通りと呼ばれていた商店街が至るところにあり一坪くらいの小さな店がいっぱい並んで活況を呈していた。少ない資金でも商売ができるのが平和通りやアメリカ通りであった。店を営んでいたのはウチナー女性たちであった。女性が自由に商売できるようになったのも戦後である。
米民政府は琉球銀行を設立して商売や起業を一般の人でもやりやすくした。外国資本の参入も自由にしたので外国の資本が沖縄に流入した。それをやったのは沖縄の政治家ではなく米民政府であった。戦後の沖縄経済が活発になっていったのは米民政府がアメリカ流の市場開放政策を行ったからである。
アメリカは沖縄を統治し続けたが、アメリカは中国などの社会主義国家の拡大を抑止する軍事目的で沖縄を統治したのであり、沖縄を搾取するためではなかった。そもそも世界一の経済大国であるアメリカが貧乏な沖縄を搾取するはずがない。米民政府はアメリカ流政治を沖縄に適用して沖縄社会内の差別を徹底してなくし市民が自由に活動できるようにした。米民政府は薩摩藩のように沖縄を搾取することもなく、琉球王府のように農民を搾取することもなく、多くの沖縄人を軍作業員して雇用し、アメリカ兵やその家族は沖縄の店で買い物をして多額の金を沖縄に落とした。米民政府は市場を自由にし、沖縄の産業を育成して沖縄経済を活性化させていった。
戦前の沖縄社会と戦後の沖縄社会を比較すれば戦後の沖縄社会は自由であり経済は何倍も発展していて庶民の生活も向上していることが分かる。

大田さんは琉球王朝時代、戦前、戦後の市民レベルでの人権、自由、経済、生活を言及していない。大田さんは支配者同士の駆け引きを問題にしていて、沖縄が身分制度のある封建社会であるのかそれとも民主主義社会であるかを問題にしていない。
江戸幕府時代に日米修好通商条約をアメリカと結んだように外交問題は日本国内が封建社会であるか民主主義社会であるかは関係がない。大田さんの追及している米軍と沖縄、日本政府と沖縄の問題は日米修好通商条約と似た外交問題であり、沖縄社会の人々の自由、平等、生活には関係がない。大田さんは沖縄が他国から干渉されない独立国であるなら沖縄の民は幸せになれるという考えであるようだが、それはとんでもない錯覚である。沖縄が独立していた琉球王朝時代は士族階級の支配する不平等社会であった。農民は不自由で貧しい生活を強いられた。戦後、アメリカが沖縄を統治することによって琉球王朝時代から延々と続いていた士族階級の支配から解放されたのである。本当の四民平等は戦後の米民政府によって実現したといえる。もし、アメリカが統治しなかったら戦前の不平等社会が戦後も続いていただろう。
安保条約や基地問題が沖縄問題の中核ではない。沖縄の人たちの生活のありようが沖縄問題の中核である。大田さんの「こんな沖縄に誰がした」は沖縄の貧困、労働、失業、福祉、人権、学力など沖縄の深刻な問題をなおざりにし、中核から外れた問題だけに終始している。「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」がそれを象徴している。
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宜野湾振興は基地が阻害しているという嘘

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奄美大島の人口推移をみると。
昭和 25年 21万6110人
平成 22年 7万0400人

米軍基地のある宜野湾市の人口増加は6万3688人
昭和35年(1960年) 2万9,501人
平成24年(2012年) 9万3、189人
米軍基地のない糸満市の人口増加は2万5630人
昭和35年 (1960年) 3万3,580人
平成24年 (2012年) 5万9、210人
米軍基地のない石垣市の人口増加は1万0314人
昭和35年(1960年)  3万8481人
平成24年 (2012年) 4万8795人

宜野湾振興は基地が阻害しているという考えが
沖縄の識者や政治家の多くをしめている。
この考えに反論する人は誰もいない。
だから、宜野湾振興は基地が阻害しているというのが正当な理論として定着している。
本当にそうだろうか。
まず、奄美大島の戦後の人口推移をみてほしい。
奄美大島には米軍基地がない。
農業が盛んでさとうきびが主産業である。
奄美大島は戦前の沖縄と同じ産業形態である。
その奄美大島は人口が三分の一に減っている。
戦後は電化製品など生活が向上したために生活費が戦前に比べてぐんとあがった。
戦前は21万人が生活できた奄美大島だったが
戦後は7万人しか生活をすることができなくなったということである。
やんばるや離島などの農業中心の地域は奄美大島と同じ運命をたどっている。
宜野湾市の戦後の人口増加は6万3688人である。
3倍に人口が増えている。
普天間飛行場など多くの土地が軍用地に取られた宜野湾市はなんの特徴もない地域である。
平野もないし栄えている港もない。
経済が発展する要素がほとんどない。
それなのに人口が3倍にも増えたのである。
糸満市は漁港があり、
昔から漁で栄えた地域であり、
南部の中心地であり、
那覇市にも近いから経済が発展する要素は宜野湾市よりも数倍ある。
しかし、糸満市の人口増加は2万5630人であり
宜野湾市の6万3688人の半分以下である。
石垣市も宜野湾市よりも人口が増加する要素は高い。
しかし、石垣市の人口増加は1万0314人であり宜野湾市の六分の一である。
糸満市も石垣市も経済発展の環境は好条件であり
目覚ましく経済は発展しているほうである。
しかし、宜野湾市に比べると経済発展に大差がある。
宜野湾市と糸満市、石垣市の違いは米軍基地があるかないかである。
宜野湾市は普天間飛行場がど真ん中にあったから
普天間飛行場を取り巻くようにして街が発展してきた。
宜野湾市には畑や田んぼはないし、
工業地帯もなければ糸満市のような漁港もない。
あるのは住宅と商店である。
宜野湾市は軍用地を除外して計算した人口密度では世界一であるそうだ。

宜野湾市の驚異的な経済発展は米軍基地があったからである。
宜野湾振興は基地が阻害しているというは真っ赤な嘘である。
「市の中央部には普天間飛行場、
北側にはキャンプ瑞慶覧があり、
市民の時間的、経済的損失は計り知れない」
と松川宜野湾服市長は指摘しているが、
彼のいう経済的損失とはなんだろう。
軍用地を返還したほうが宜野湾市の経済は発展するというのだろうか。
普天間飛行場だけで60億円の軍用地料がある。
普天間飛行場を返還すれば60億円以上の経済を生み出せるというのだろうか。
「経済損失は計り知れない」といいながら、
返還跡地になにをつくれば経済が発展するのかをまだ誰も提案することができない。
公園や福祉関係の事業などを提案したりしているが、
そのようなもので経済発展することはない。
IT関係事業や工業関係の事業をする場所はすでにうるま市の埋め立て地にあり、
まだ30%しか使用されていない。
普天間飛行場跡に企業を誘致するのは他地域とダブってしまうからできない。
いきつくところは住宅と商店街である。
しかし、ハンビー・美浜、泡瀬ゴルフ場跡のイオンモール、
宜野湾西海岸のサンエーコンベンションシティー、ドンキー
などがあるなかで普天間飛行場跡に商店街をつくっても繁栄する可能性は低い。

今のところ普天間飛行場の移転にメドがついていないから、
現市長のように「経済損失は計り知れない」などといって、
補助金を多くとるのに利用できる。
それは宜野湾市が得することだからそれでいいかもしれないが、
普天間飛行場やズケラン部隊の返還が現実になると
宜野湾市の経済が衰退する可能性は高い。

返還跡地の利用で唯一有効であるのはカジノであるが
宜野湾市の中心にカジノをつくるのは無理だろう。
カジノならキンザ跡地が適している。
普天間飛行場跡地の有効利用の提案はまだない。
恐らくないだろう。経済効果はゼロに近い住宅と公園、
福祉関係事業の建物が建つのではないだろうか。

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沖縄教販で11日発売決定


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復帰前にはアメリカ的自由があった

澤地久枝さんは嫌な人間だな。
「アメリカにとって沖縄は第2次大戦の戦利品」であると決めつけている。
じゃあ、私はアメリカの戦利品のひとつなのかと言い返したくもなる。
でもね、あなたは全然想像できないと思うが、
アメリカの戦利品であった沖縄は自由だったよ。
活気にあふれていた。
嘘だと思うだろうが、本当だよ。

戦後の沖縄でよく言われていた「センカをあげる」
という意味を澤地さんは知っているか。
私の子供の頃は大人の口から
「センカをあげる」と言う言葉が飛び交ったものだ。
漢字で書くと「戦果をあげる」だ。
辞典では「戦闘・戦争において上げた成果戦果」と説明している。
戦争に勝ったほうが負けたほうから戦利品を取るということだ。
子供の頃、
大人たちはよく「センカを上げた」という話をしていたが、
戦争をしていないのに「戦果をあげる」とはどういうことなのか
子供の私は意味がわからなかった。

実は「戦果をあげる」とは米軍事基地から盗むということである。
盗みは万引き程度のスケールの小さいものではなかった。
私の家は「戦果」であげた材木でつくったと聞いたことがある。
木材から台所用品、
タバコ、
かんづめなど
米軍基地にあるあらゆるものを「戦果」といって沖縄の人間たちは盗みまくった。
「戦果アギヤー」と呼ばれた
暴力員はひと財産を築いたそうだ。
多くの人間が「戦果」で大もうけした。
なぜそんな大それたことができたかは、
沖縄警察の手抜きがあったからだろう。

沖縄のマスコミは
米軍人の沖縄人への犯罪を米軍が裁いて無罪にするのを大きく取り上げて、
米軍の植民地支配だと非難するが、
沖縄人が加害者だったら相手がアメリカ人であろうと沖縄の警察が取り調べ、
アメリカ人が加害者だった場合はアメリカ軍が取り調べるという事実をほとんど報道しない。
例えば沖縄男性がアメリカ女性を暴行した時は
沖縄の警察が逮捕して取り調べ沖縄の裁判所に起訴する。
70台以上の車を燃やしたコザ騒動も沖縄警察が捜査し逮捕した、。
車を燃やされたアメリカ兵の暴動を鎮めるために
米民政府が焼かれた車を保障したという報道も
沖縄のマスコミほとんどやらない。

軍事基地内で沖縄人が盗みを働いた場合も
逮捕し起訴するのは沖縄の警察や検察であり、
判決を下すのは沖縄の裁判所であった。
沖縄の警察は「戦果」の分け前をもらって
「戦果」犯罪者には容赦をしていた。
戦果」専門の暴力団は沖縄の警察官を買収したことを告白している。
とにかく、
軍作業員の誰もかれもが「戦果」をあげた時代だった。
澤地さんがいう
「アメリカの戦利品」の沖縄人たちはアメリカから戦利品を奪っていた。
日常生活では逆のことが起こっていた。
というより、
沖縄はアメリカの戦利品ではなかった。
そもそも戦利品という発想は軍国主義社会を生きた人間の発想だ。
人間を物扱いする思考回路の澤地さんだから「戦利品」などというのだ。
アメリカのほうが沖縄人を人間扱いしたね。

アメリカが沖縄を軍事基地化したのは社会主義圏との対立が原因であり、
300万人もの死者を出した朝鮮戦争があったからだ。
だから、アメリカが軍事優先であったことは否めない。
しかし、アメリカ軍が沖縄人を差別弾圧したというのは嘘だ。
土地の強制収容は社会主義国家との対立というのっぴきならない理由があった。
緊迫したアジア情勢に鈍感な人間や
共産党、社会党などの中国や北朝鮮と親しい関係にある団体が
対米追従とか軍事植民地と騒いだだけだ。
(社会主義者や共産主義者は沖縄にたくさんいる)


アメリカ軍からの払い下げで小さな電力会社をつくったり、
広場でブロック工場をつくったり、
セメントで水瓶をつくったり、
戦後の沖縄はアメリカの指導で、
今でいうベンチャー企業がどんどん増えていった。
ゴヤのゲート通りはインド人や中近東からやってきた人間たちが洋服店などをやっていた。
フィリピンバーはいたるところにあった。

米民政府は
本土からの輸入品には高い関税をかけて沖縄の製造業を保護したから
沖縄の産業が活発になった。
私の同級生の父親はラーメン製造業をはじめた。
国場組は中近東に進出するほどに成長した。

しかし、
本土復帰すると本土の企業に太刀打ちできないで
多くの地元企業は倒産していった。
その代わりに麻薬のような公共事業がどんどん増えていった。
国場組は楽な公共工事に目移りして、
厳しい自由競争の中近東の市場から楽な県内の公共工事に移ったのだろう。
国場組は中近東から引き揚げた。
沖縄のアメリカ的自由は失われ、
日本流の息の詰まる秩序が蔓延し、
自民党の派閥政治による献金と利権争いの沖縄社会になった。
復帰前は酒やタバコはどの商店でも自由に売ることができたが、
復帰すると酒免許が必要になった。
酒組合は酒の利権を維持するために自民党に献金した。
酒の免許は最初の頃は300万円以上もした。
コンビニをやっている時に、
100メートル離れている商店から酒の権利を
私は150万円で買ったことがある。

オスプレイなどの基地問題がマスコミを賑わしている。
基地問題のほとんどは事件や事故である。
事件や事故は事件・事故であって私たちの生活に直接は関係していない。
ところが連日マスコミが騒ぐものだから
私たちの生活を事件・事故が直接脅かしているように錯覚させている。
事件・事故は直接私たちの生活を脅かしていないし、
事件・事故が解決しようがしまいが
私たちの生活が向上するわけではない。

基地の事件・事故問題に積極的に関わっているのは
公務員や教職員組織であるが、
彼らは復帰前は復帰運動に積極的だった。
米民政府施政権下では教師や公務員は給料がやすかった。
復帰すれば給料が本土並みの高給になることは100%確実だった。
だから、彼らは復帰運動に情熱を注いだのだ。
復帰後は、
予定通りに給料は本土並みになり
悠々自適な生活を送るようになった。
これ以上の生活向上を望む必要はないから、
彼らは生活向上の闘いとはかけ離れた
基地の騒音・事件・事故に
反戦平和のキャッチフレーズを掲げて反基地運動を盛り上げているのである。
彼らは生徒の学力向上に興味がないし、
沖縄の生活向上や経済発展にも興味がない。

辺野古移設をやめて県外移設をするなら、
最低20年は普天間基地は現状のままである。
彼らは20年以上も現状維持で平気なのだ。
彼らは県外移設するとあと何年かかるかを絶対に口にしない。
誰かが口にすると彼らは怒って、
年数の問題ではないなどと言うだろう。
辺野古移設5年、
県外移設20年以上は揺るがない事実である。
事実を踏まえて
どうするかを真剣に考えるべきであるのに、
彼らは考えない。
中流生活を送りながら、
彼らは反基地運動を楽しんでいるのである。
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プロ市民の巧妙な投稿

「沖縄に内なる民主主義はあるか」を当分の間は、狼魔人日記の江崎さんがネット販売をしてくれることになりました。申し込みはメールでできます。

ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

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私は自由、人権、民主主義を沖縄や日本の社会からは学んではいない。
教科書とアメリカ映画やフランス映画から学んでいる。
西武劇のカーボーイと日本の武士は違う。
カーボーイは労働者であり武士は支配階級である。
西部劇に登場する保安官は国が雇っているのではなく
町の市民が雇っている。
だから、保安官は町の市民のために働く。
町長も保安官も町の市民が選び、給料は市民の税金で支払う。
これも民主主義の基本である。
教科書では三権分立や議院内閣制について勉強した。
日本の民主主義の基本だ。
民主主義には絶対的に必要な思想がある。それは法治主義だ。

私は「沖縄に内なる民主主義はあるか」の
「琉球処分はなにをしたか」で法治主義について述べた。
明治政府は帝国憲法を制定し、
政府は法律を明文化した。
明文化するということは特定の人の勝手で法律を変えることはできない。
国民は身分の関係なく同じ法律で等しく裁かれるというのが法治主義だ。
民主主義になくてはならないのが法治主義である。
法律は国民の選挙で選ばれた国会議員がつくる。
そして、
国会で制定した法律を国全体に平等に施行する。
これが間接民主主義の原則だ。このことはほとんどの人が知っていることだ。
ところが沖縄の大衆運動は民主主義をはき違える。

1968年に、琉球政府の立法院で、
本土の国会ではすでに可決されていた教公二法を採決しようとしたとき、
立法院を取り巻いた教職員組合員たちは立法院突入を阻止しようとしたて
警察員を実力でゴボウ抜きにして、
立法院に突入し、
議員たちを散らし教公二法の採決を阻止した。
これは沖縄の大衆運動の視点から見れば民主主義の勝利ということになる。
しかし、米民政府は民主主義崩壊の危機だと嘆いている。
米民政府は沖縄の人たちの選挙で選ばれた議員に最高の権威があり、
立法院で法律を制定するのを民主主義だとと考えている。
しかし、
沖縄の大衆運動家たちは大衆運動の要求を実現することが
民主主義だと考えている。


タイムスに投稿している高木さんは、
オスプレイ配備反対の大会に参加することは、
単に反基地を唱えているのではなく、
本当に求めているのは民主主義だと述べている。
そうだろうか。
なぜ、反基地を訴えることが民主主義に関係があるのだろうか。
オスプレイ配備をはじめ基地問題は日本の国防問題である。
日本国全体に責任がある日本の政府が考え、
方針を決めるべき問題である。

日本民主主義国家である。
表現の自由が保障されている。
たとえ、国が決めたことでも反対の主張ができる。
もし、政府の方針に反対する運動が全国的に広がっていった場合は
政府の方針を変えることもできる。
それができるのは
日本が民主主義国家だからである。

国が決めたオスプレイ配備に反対する県民大会を
堂々と開催することができるのは日本が民主主義国家だからである。
中国のように独裁国家だったら開催はできない。
それどころか計画した人間たちは逮捕され刑務所行きだ。
日本が民主主義国家だから国の方針反対する県民大会を開催することができることを
私たちは理解するべきである。

高木さんは、
「小さな島のたった140万人の県民が、
日本政府や自由の国アメリカへ民主主義求めるのです。
すごいことではありませんか」」と述べている。
日本政府は1億人余の代表者である。
アメリカの政府は3億人余の人口の代表である。
計4億人の日米の代表者である日米政府が決めたことに
140万人の県民が決めたことを訴えることが
どうして民主主義を求めることになるのか。
高木さんは140万人県民と言うが、
まだ、正式に140万人県民の賛否投票をしていない。
それなのに140万人県民が基地反対していると
決めつけるのは間違っている。
県民大会を開催し、
1万人集まろうが3万人集まろうが
県民大会を開催したことで140万人県民が基地反対していると
決めつけることも間違っている。
賛否の投票もしていないのに140万人の県民が基地反対していると決めつけることは
民主主義に反する考えである。
米軍基地賛成の県民も多くいる。
高木さんが「140万人の県民」が基地反対していると決めつけるのは、
基地賛成の人々の存在を一切許さないという全体主義思想家であるからである。

オスプレイ反対の県民大会は
個人の主張を認める民主主義国家だからこそ開くことができる。
しかし、県民大会は国民に選ばれた人たちの集まりではない。
国防を左右する問題を数万人の個人の集合である県民大会は
国への要求を決めることはできるが、
議会制民主主義の日本では国防については
政府が決めるのであり県民大会で決める権利はない。

日本が民主主義国家だから
オスプレイ配置反対の県民大会を合法的に開くことはできるが、
日本が民主主義国家であるから
国民が選んでいない県民大会に集まった人々がオスプレイ配置反対を決めて、
それを実施することはできない。
オスプレイを沖縄に配備するというのは
民主主義のルールに従っている。
しかし、日本は民主主義国家であるから、
国民のほとんどが反対すれば中止させることができる。
オスプレイ問題はオスプレイに故障が多く危険であるから配備に反対している。
政府はオスプレイが安全だというアピールに必死である。
このように
民主主義ルールに従ってオスプレイ問題は進んでいる。

オスプレイ配備反対の県民大会には
民主主義を求めるような内容は全然ない。
オスプレイ配備反対の県民が集まるだけのことであり、
大衆運動である県民大会には政治的な拘束力はない。
それなのに
高木さんはオスプレイ反対の県民大会が本当に求めているのは民主主義だという。
オスプレイ配備反対・反基地を主張する人々が集まっただけで
なぜ民主主義を求めることになるのか。
内容がぜんぜん繋がらない。
おかしな理屈である。

皆さんは
この投稿は普通の人が書いたと思うだろう。
私はそうは思わない。
この投稿文は
反基地を訴えることが民主主義を訴えることであると述べているが、
反基地を訴えることは民主主義を訴えることとは関係がない。
この投稿文は民主主義者なら反基地を訴えるのが当然であるというふうに
民主主義という言葉に弱い市民を
反基地運動に巻き込むのを目的にしている投稿なのだ。

丁寧でとてもやさしい文章でありながら、
「民主主義」さえ基地反対運動の道具にする文章なのだ。
民主主義を軽視し侮辱している投稿である。
このような巧妙な文章が書けるのは
プロ市民と呼ばれている連中だ。
高木さんは恐らくプロ市民だろうな。

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大田氏は沖縄の貧困には目を向けない

 再び「星の流れに」に話を戻す。沖縄の歴史を調べて驚くべき沖縄の貧困の事実を見つけたからだ。

18世紀にはいると、台風や干ばつなど異常気象があいつぎ、
困窮した農村はそのたびに飢きんと疫病にみまわれ、
多くの餓死者をだしていました。
 農村がこのような自然環境の変化に大きく
左右されたのは過重な税負担と、
地方役人による不当な取り立てが原因でした。
その為、予測される災害にすら対応がままならず、
まったくの無防備な状態で災害にみまわれるありさまでした。

 こうした社会にはそれを回復させる余力など残っておらず、
大量の餓死者をだしていったのです。
その上飢きんにみまわれた年でも、
農民の租税免除はその場限りで
、ほとんどの農村が翌年にはようしゃなく年貢を取り立てられました。
 農村はますます貧しくなり、
借金のかたに土地を質入れしたり、
身売りしたりする農民があとを絶ちませんでした。

 身売りとは、年貢をおさめるために借り入れた米やお金を返せなくなった農民が、
貸主のもとで一定年限、下男下女としてつとめることです。
これによって家族が崩壊することを家内倒れといい、
これと連動して、上納の責任単位である与(組)が
くずれてしまう与倒れの現象も起こりました。
身売り農民のひきうけもとは、
地元の有力者か間切りや村役人などの特権階層でした。
農村はしだいに、
ウェーキと
呼ばれる富農層と、
ヒンスーと
呼ばれる貧農層とに
二極分解していきました。
                   「ジュニア版琉球・沖縄史」

年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚

 薩摩藩に支配された琉球王府は以上の品々を薩摩藩に献納しなければならなかった。
その負担は琉球王府が負うのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。
薩摩藩への莫大な献納を負わされるのは搾取される農民である。
薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。

吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。

しかし、驚いたことに、
沖縄の貧困は琉球王朝時代で終わらなかった。
四民平等になったはずの明治から昭和の戦争直後まで
沖縄の農民の貧困は変わらなかったのである。
その歴史的事実が専門書ではなく
中・高校生用の本に載っている。
中・高校生用の本にだよ。
沖縄の知識人ならみんな知っていて当然と思うが、
ほとんどの沖縄の知識人は沖縄の貧困問題を知らないようだ。
琉球処分は悪いことだと主張するし、
米軍基地があるから沖縄の経済は発展しないなどと
おっしゃるくらいだら。
「ジュニア版 琉球・沖縄史」から引用する。

 戦前の沖縄の人口は約60万人ほどで、
その7割が農民でした。
しかも、多くは零細農家で、
サトウキビを主作物とする農家をいとなんでいました。

 廃藩置県後、
沖縄では換金作物としてサトウキビを栽培する農家が増え、
サツマイモ畑や水田までもキビ畑にかえていました。
砂糖生産中心のこの生活形態は、
自然環境や経済変動の影響をうけやすく、
ことあれば、すぐさま食糧不足と経済危機にみまわれるという弱さを持っていました。
それが最悪の形であらわれたのが、
大正末期から昭和初期にかけておこった
ソテツ地獄でした。

 沖縄の輸出品は、
砂糖のほかに、泡盛・パナマ帽子・畳表・鰹節・漆器などがありましたが、
その8割を砂糖が占めていたので、
国際的な糖価の暴落は県経済に深刻な影響を与えました。
国税の滞納額も、
1921(大正10)年以後は40%台を推移し、
銀行などの金融機関にも大きな打撃を与えました。
それにおいうちをかけるように、
台風や旱ばつがおそい、
農村は文字どおりソテツを食べて、
飢えをしのばなければならない状態にまでおいつめられていきました。

 多額の借金をかかえ、
生活がどうにも立ちゆかない農家では、
最後の手段として身売りが公然とおこなわれました。
男性は漁業に従事する糸満へ、
女性は遊女として辻の遊郭へ売られました。
また、海外移住や本土へ出稼ぎとして
沖縄を出ていく人びともふえていきました。
                  「ジュニア版 琉球・沖縄史」

 昭和の名曲「星の流れに」は、
戦争に翻弄され、
満州から引き揚げてきて、
敗戦後の荒廃した日本で
生き抜くために身を落とした女性の歌であることを説明した。
しかし、沖縄では
戦争に翻弄される以前から
「星の流れに」のような娼婦に身を落とす女性が多かった。
戦前の沖縄では、身売りされるのは女性だけでなく男性も多くいた。
いわゆる女性の辻売りと
男性の糸満売りである。

 子供の頃、母親から聞いた話だが、
戦前は男の子供が駄々をこねて泣くと、
「糸満に売り飛ばすぞ」
と脅したそうだある。
すると子供は泣くのをぴたりとやめた。
糸満の漁師に売られた子供は漁師として鍛えられる。
泳げない子供でも縄で縛って海に放り込んだそうだ。
溺れて死にそうになってもなかなか引き上げない。
もし、訓練中に死んだとしても事故として片づけられる。
糸満に売られたら殺されても文句が言えないということである。
まさに子供にとって死ぬかもしれない過酷な運命に放り投げられるのが
糸満売りであった。

 辻売りや糸満売りは琉球王朝時代の話ではない。
戦前の話なのだ。
私の家の前に三〇〇坪ほどの空き地があり、
その空き地を借りて畑をやっていたじいさんがいたが、
彼は与那国出身で
糸満売りで沖縄にやってきたと話していた。

 戦前までは辻売りや糸満売りが公然と行われていたが、
その原因は沖縄の貧しさであった。
大正末期から昭和にかけて沖縄ではソテツ地獄があった。
昭和時代になってまで沖縄はソテツ地獄と呼ばれる飢餓があったのである。
明治以後は人身売買は法律で禁じられていたが
沖縄では公然と人身売買が行われていたという。

  「星の流れに」は日本の敗戦が原因であるが、
沖縄の場合は敗戦が貧困の原因ではなく
それ以前の沖縄の根本的な貧困問題があった。
最近、従軍慰安婦問題を取り上げて日本軍を非難しているが、
彼らは日本軍を非難するだけであり、
沖縄の貧困問題には触れない。
大田氏も同じように触れない。
大田氏は、昔の琉球は平和主義であり
「命どぅ宝」を合い言葉に他者と有効的共生の生き方をして沖縄は豊かであったような印象を与えているが、
とんでもないことである。
豊かであったのは少数の士族階級の人間たちであり、
多くの農民は貧困生活を強いられていた。

明治以降も同じであった。
明治時代になり表面上は四民平等になったが
実際は富む士族階級と貧しき農民階級の関係は続いていた。
明治政府は人材不足であり沖縄に派遣できる人材は少なく
沖縄県の政治は統治能力のある沖縄の士族層に任せた。
そのためにほとんどの役人は士族出身者が占め、
財産のある士族層が経済界も支配していた。
戦前の沖縄の産業は寄留商人と呼ばれる
本土出身者と政府の手厚い保護でえた
不動産や資金をもとに、
貿易・金融・開墾・鉱業開発・新聞社
などを経営した尚家が支配していた。
人口の70%以上を占めていた小作農民は
貧困生活を強いられていた。
沖縄を問題にすることは貧困生活を強いられていた70%の農民を
無視しては絶対にいけない。
ところが
大田氏は農民を無視しているのである。

沖縄の長い歴史の中で農民を含めた庶民が
人間らしい生活ができるようになったのは戦後である。
人間らしい人権や自由を得たのも戦後である。
戦前は士族階層と本土の寄留商人が政治と経済を牛耳っていた。
多くの農民は搾取され貧困にあえいでいた。
土地のない農民は小作人となり低賃金で
本土資本の製糖工場のさとうきび畑で働かされていた。

戦後になり、
アメリカ民政府によって寄留商人は沖縄から排除された。
士族階層の特権は剥奪され、
土地は小作人に分け与えられた。
そして、商売が誰でも自由にすることができた。
琉球銀行を設立して商売や起業を一般の人がやりやすくした。
外国資本の参入も自由にしたので外国の資本が沖縄に流入した。
それをやったのは沖縄の政治家ではなく米民政府であった。

戦後の沖縄経済が活発になっていったのは
アメリカ民政府による市場開放の政治を行ったからである。
沖縄の革新政党やマスコミなどが
問題にするのは米軍基地があるゆえの事件・事故である。
アメリカ兵が犯罪を犯した時には米軍が裁判を行い無罪にしたことである。
アメリカ兵が加害者の時は米軍が裁判をする。
沖縄人が加害者の場合は沖縄が裁判するというのが沖縄の裁判だった。
だから、沖縄人が米軍基地内で犯罪を犯しても裁くのは沖縄の裁判所であった。
「戦果」と呼ばれる基地内の物を盗むのは横行していた。
私は「センカ」という意味は米軍基地から物を盗むことであると思っていたほど、
「戦果」は日常的に行われていた。
特にPXからタバコやかんづめなどはものすごい量であり、
米軍の物を横流しして財産を築いた人は多かった。
なぜあれほどまでに戦果が横行したかと言えば
沖縄の警察の取り締まりが弱かったからである。
暴力団などは警察を買収して、
堂々と「戦果」をやっていた。
沖縄人がアメリカ女性を暴行したり殺したりしても
検挙して取り調べるのは沖縄の警察であり、
判決を下すのは沖縄の裁判所であった。
有名なコザ騒動も捜査して検挙したのも沖縄の警察である。
アメリカの圧力は一切なかったと当時の検察官は話している。

このような事実を明らかにしないで、
まるでアメリカ兵に関係した事件・事故は
アメリカ側がすべて裁いたような印象を与えるのはおかしい。
もっと客観的な見方をするべきである。

世界一の経済大国であるアメリカは沖縄を占領したが、
アメリカは沖縄を搾取するのではなく、
多額の金を沖縄に流し入れ、
市場を自由にし沖縄の産業を育成して沖縄経済を活性化させていった。
戦前の経済と戦後の経済を比較すれば
戦後の経済は
自由であり何倍も発展していて庶民の生活も向上していることが分かる。

しかし、大田氏は戦前と戦後の経済を比較しない。
琉球王朝時代、戦前、戦後の市民レベルでの人権、自由、生活状態を比較しない。
大田氏の「こんな沖縄にした」には沖縄の貧しき人々、虐げられた人々や庶民は登場しない。
沖縄の支配者たちが登場するだけである。
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大田元県知事はどうしてみえみえの嘘をつく

「こんな沖縄に誰がした」の5ページに
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」
と大田氏は述べている。
私は沖縄の歴史をあまり知らないが、
尚巴志が三山を統一したのは有名な話だ。
三山を統一したということは武力で制圧したことである。
私は中学・高校生用の沖縄歴史の本を買ってきて調べてみた。
昔の歴史を調べてみた。

1187年頃 舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年 尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年 尚巴志、北山を滅ぼす
1429年 尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年 八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年 尚元王、奄美大島を征服。
1609年 薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。

「ジュニア版 琉球・沖縄歴史」によると、
1453年五代王・尚金福がなくなると後継争いは激しくなったことがあったらしい。
争いとは口喧嘩ではない。武力による争いであり、戦争である。
後継争いの戦火で首里城は焼け、後継争いをした二人も死んだ。

護佐丸・阿痲和利の乱もある。
金丸が尚円になったときも武力によるクーデターと言われており、
王位継承争いの解決は話し合いではなく武力争いで解決したというのが歴史的事実だ。

武寧を滅ぼす、北山を滅ぼす、南山を滅ぼす
というのは武力で滅ぼすということだ。
つまり琉球王朝は軍隊で持ち、
戦争をしていたということであり、
太田氏のいう
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」
という歴史的な事実はどこにもないし、
それは嘘である。
琉球王朝は八重山や奄美大島も武力で制圧して、植民地にしている。
「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」という事実はない。
むしろ暴力で解決したというのが正しい。

薩摩藩の支配下になった琉球王朝は軍事力を剥奪され、
戦争をする能力は失われたのであり、
太田氏のいうように
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」
というのは歴史的な事実はない。
それに
「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」という歴史的な証拠もない。
それどころか琉球人が乱暴であり、中国に嫌われた事実の記録があるのだ。

琉球は明国への朝貢がゆるされると、
毎年、中国へ行って貿易をおこなうようになりました、
しかし、そうほうの間に何の問題もなく、
平穏に朝貢貿易がつづけられていたのではありませんでした。
琉球人の中には、不法行為によって厳しく処罰される者もおり、
信頼を損なう事件も起こっていました。
1475年には中国皇帝から尚円王に対し、
「琉球使者の中に、殺人、放火によって強盗を働いた者がいる。犯人をつかまえて処罰せよ」
と命令がありペナルティーとして
「今後、中国への朝貢は2年に1貢とする」
ことが言い渡された。
琉球王府は、この事件に琉球人がかかわっていないことを報告し、
従来通り1年1貢にもどすように嘆願を繰り返したが、
1時期は1年1貢にもどったことがあったが、
1年1貢は許されなかった。
理由は使節にしたがってやってきた琉球人が、
違法な取引をしたり、
不法滞在で地元住民とのあいだでトラブルをおこしたりしていたからである。

                      「ジュニア版 琉球・沖縄史」より

琉球人が暴力を用いずに話し合いで解決したというのは嘘である。
中国で暴力をふるってトラブルを起こしていた事実が歴史にちゃんと残っている。

学者である太田氏がなぜこんなみえみえの嘘をつくのか不思議でならない。
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