めじろと拳銃

冬になるとめじろが村にやってきて、がしゅまるの実や椿の蜜を食べる。
村の大通り沿いに空き屋敷があった。屋敷の中は雑草が茂っていた。屋敷の大通りに面している側に大きながじゅまるの木が植わっていて実を食べにやってきためじろが枝から枝へ飛び回っていた。私たちががじゅまるの下で遊んでいるとスペイン系のアメリカ青年とウチナーの彼女がやってきた。アメリカ青年は背が低くウチナーンチュと同じくらいであった。彼女は陽気で派手な格好をしていた。まだ十代のようであった。二人はがじゅまるを見上げてめじろを見ながら話し合った。彼女はめじろを指さしながら話した。するとアメリカ青年は内ポケットから小型の拳銃を出して、めじろに向けると一発撃った。しかし、めじろは何事もなかったように飛び回っている。彼女は笑いながらアメリカ青年をからかった。めじろに命中させることができなかったので「へたくそ」とでも言ったのだろう。二人の会話はざっくばらんで少年と少女の会話のようであった。
アメリカ青年はむきになってめじろに向かって数発撃った。ところがめじろは何事もなかったように平気で枝から枝へ飛び回っていた。彼女は大笑いした。アメリカ青年は弁解しながら拳銃をポケットに戻した。
彼女はアメリカ青年をからかい、アメリカ青年は弁解しながら去っていった。

「へたくそだなあ」
二人が去った後にヨシ坊が言った。飛び回っているめじろに命中させるのは非常に難しいことであるが、私たちは赤城圭一郎のファンで、抜き打ちの竜と呼ばれている拳銃の名手の映画を見ていた。竜は振り向きざまに拳銃を撃って、相手の拳銃を弾き飛ばした。竜はいつも敵の拳銃に命中させて拳銃を弾き飛ばして体に命中させることはしなかった。どんなに拳銃の名手でも竜のようなことはできるはずないが、小学生の私たちはできるものだと信じていた。だから、アメリカ青年がめじろを撃ち落とすことができなかったのをへたくそと思ったのだ。
このアメリカ青年は拳銃を撃つのが好きなようで、一号線を超えた場所に輸送管に沿って車道があったが、そこでカジノで使うチップを道路の反対側に立てて、チップに向けて撃っていた。
弾はチップに当たったり外れたりした。木の枝に自転車のチューブを細く切って取り付けたゴムカンという本土ではパンコと呼ぶ小石を飛ばすのを私たちは持っていたが、彼の拳銃の腕より私のほうが上だと思った。彼に勝負を挑みたかったが英語は話せないし、彼は私たちを無視して彼女とばかりいちゃついていたので勝負を挑むのを止めた。
勝負をしなかったのは心残りである。
拳銃を撃つのを見たのは彼が最初で最後だった。彼以外に拳銃を持ち歩いているアメリカ人はいなかった。
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新聞配達は犬との闘い

アメリカ人は大きい犬を飼っている家庭が多い。犬を鎖でつないでいればいいのだが、夜の間は鎖をはずして庭を自由に動き回れるようにする家庭が多かった。外人住宅の新聞配達は犬との闘いでもあった。
犬に襲われた時、絶対に犬に背中を見せて逃げてはいけない。犬は人間より早いからすぐに追いついて尻を噛む。外人住宅だけではなく村でも放し飼いの犬が多かったから、私たち子供は犬に襲われた時の防御のやり方を話し合っていた。防御方法は犬と向かい合い大声を出しながら手を振り回し後ずさりをしていくことだ。普通の犬なら吠えるだけて飛び掛かってはこない。

しかし、外人住宅の犬は大きい。手を振り回しても飛び掛かってくるかも知れない恐怖があった。私は手ではなく新聞紙を丸めて襲おうとする犬の鼻あたりを新聞紙で突きながら後ずさりした。この方法は効果的で、犬は新聞紙を噛もうとして私に飛び掛かることはなかった。
このやり方で犬に噛まれるのを防いできたが、ある家にとても大きい犬がいて、新聞紙でも防げそうになかった。普通は家の中に閉じ込めているのだが、時々庭に放っている時があった。犬はもしかすると私を襲う気はなくて、フレンドリーな気持ちで私に寄ってきたかもしれない。
しかし、でかい犬が吠えながら寄ってくるのはとても恐怖だった。新聞紙を振りかざしながら難を逃れていたが、いつかは新聞紙は通用しなくなって犬に襲われるかも知れないという恐怖があった。恐怖と闘いながら新聞配達をしていたが、そのうちに新聞配達が毎朝来るのを知っていながら、犬を野放しにしている主人に腹が立ってきた。なめられてたまるかという気もちが湧きあがり私は反撃に出ることにした。こぶし大の石を左手に持ち私は庭に入った。新聞を玄関のノブに挿み、玄関から離れている時に裏庭からでかい犬がやってきた。
私は右手に新聞紙を持ちゆっくりと後ずさりした。犬が接近してきた。私は新聞紙を犬の鼻あたりに向けた。犬が新聞紙に触れようとした瞬間に思いっきり石を投げた。石は犬の前足に当たり、犬がウオーンと哀れな声を発した。すると家族がなにごとが起こったのかと一斉に出てきた。私は家族が玄関から出る前に庭の外に出た。背後で主人や妻や子供がわーわー騒いでいるのが聞こえたが、私は振り向かないで次の家に向かった。
翌日から犬を庭に出すことはなくなった。
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砂辺松一先生のこと

砂辺松一先生は中学三年生の時の私のクラスの担任であった。砂辺先生と私たちは縁が深かった。というのも私たちが小学五年生の時に琉大を卒業したばかりの砂辺先生は私たちの担任になった。砂辺先生は小学校の先生だったのだ。ところが私たちが中学生になると砂辺先生は英語教師として中学の先生になった。
私たちが中学二年生になると数学の担任にもなった。あの頃は専門の教師が少なく、専門ではない教科も受け持っていたようだ。多くの先生は数学を担任するのを嫌がっていて、若い砂辺先生は数学の担任を押し付けられた。砂辺先生は数学を担当するようになったいきさつを私たちに話した後、本当は数学が一番の苦手な教科だと砂辺先生は素直に話した。今なら、数学の苦手な先生になぜ数学の担任にするのかとPTAが大騒ぎするだろうが、それが許される時代だった。

普通問題が解けない場合はその問題をうまく避けてごまかすものだが砂辺先生は違っていた。ある日、数学の授業をしている途中で応用問題を解けないと砂辺先生は素直に私たちに話した。その時、誰一人として砂辺先生を非難する生徒はいなかった。それどころかクラスの全員が一丸となって難問に挑んだ。成績優秀な生徒は黒板の前に出て、ああでもないこうでもないと砂辺先生と一緒に考え討論した。勉強が全然できない生徒までもが真剣に黒板に集中した。あの授業は最高の授業だった。

小学校の時の砂辺先生は話をよく脱線して、色々な体験談を話した。戦争体験談や戦前の思い出など多くのことを話した。

そのひとつに教育勅語の話があった。戦前は天皇崇拝の教育をしていたのに戦後になると180度転換して民主主義の教育をしていると若き砂辺先生は戦前からの先生を批判した。そして、戦前の教育は教育勅語を丸暗記させたと言うと、
教育勅語を私たちの前に披露した。




「朕 惟 フニ我カ皇 祖皇 宗 國 ヲ肇 ムルコト宏 遠 ニ ヲ樹ツルコト深 厚 ナリ
チンオモうにワがコウソコウソウクニをハジむることコウエンにトクをタつることシンコウなり

我カ臣 民 克ク忠  ニ克ク孝 ニ億 兆  心  ヲ一 ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
ワがシンミンヨくチュウにヨくコウにオクチョウココロをイツにしてヨヨソのビをナせるは

此レ我カ國 體 ノ精 華ニシテ教  育 ノ淵 源 亦 實 ニ此 ニ存 ス
コれワがコクタイのセイカにしてキョウイクのエンゲンマタジツにココにソンす

爾  臣 民 父母ニ孝 ニ兄 弟 ニ友 ニ夫 婦相 和シ朋 友 相 信 シ恭  儉 己 レヲ持シ
ナンジシンミンフボにコウにケイテイにユウにフウフアイワしホウユウアイシンじキョウケンオノれをジし

博 愛 衆  ニ及 ホシ學 ヲ修 メ業  ヲ習 ヒ以 テ智能 ヲ啓 發 シ 器ヲ成  就 シ
ハクアイシュウにオヨボしガクをオサめギョウをナラいモッてチノウをケイハツしトクキをジョウジュし

進  テ公 益 ヲ廣 メ世 務ヲ開 キ常 ニ國 憲 ヲ重  シ國 法 ニ遵  ヒ
ススンでコウエキをヒロめセイムをヒラきツネにコクケンをオモンじコクホウにシタガい

一 旦 緩 急  アレハ義勇 公 ニ奉 シ以 テ天 壤  無窮  ノ皇 運 ヲ扶翼 スヘシ
イッタンカンキュウあればギユウコウにホウじモッてテンジョウムキュウのコウウンをフヨクすべし

是 ノ如 キハ獨 リ朕 カ忠  良  ノ臣 民 タルノミナラス
カクのゴトきはヒトりチンがチュウリョウのシンミンたるのみならず

又 以 テ爾  祖先 ノ遺風 ヲ顯 彰  スルニ足ラン
マタモッてナンジソセンのイフウをケンショウするにタらん

斯ノ道 ハ實 ニ我カ皇 祖皇 宗 ノ遺訓 ニシテ子孫 臣 民 ノ倶 ニ遵  守 スヘキ所
コのミチはジツにワがコウソコウソウのイクンにしてシソンシンミンのトモにジュンシュすべきトコロ

之 ヲ古今 ニ通 シテ謬  ラス之 ヲ中  外 ニ施  シテ悖 ラス
コレをココンにツウじてアヤマらずコレをチュウガイにホドコしてモトらず

朕 爾  臣 民 ト倶 ニ拳 々 服 膺 シテ咸 其  ヲ一 ニセンコトヲ庶 幾 フ
チンナンジシンミンとトモにケンケンフクヨウしてミナソノトクをイツにせんことをコイネガう」

参考:現代口語訳
 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。

 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。

 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。




砂辺先生は教育勅語の説明をしたが、私はさっぱり理解できなかった。

戦前の教育である丸暗記教育、今でいう洗脳教育を砂辺先生は嫌っていたのだろう。だから、私たちの前で私たちにはさっぱり意味の分からない教育勅語を披露し、戦前の教育を非難した。小学五年生の私には砂辺先生の言おうとしていることが理解できなかったが、大学生になった頃に砂辺先生の言おうとしていることが理解できるようになった。

戦後生まれの人たちは皇民化教育と聞いたら天皇陛下の偉大さの説明をする授業だと思うだろう。そうではない。教育勅語を丸暗記させるような洗脳授業が皇民化教育だったのだ。だから本土から遠く離れ大和文化の影響が小さい沖縄でも短期間で天皇崇拝の若者たちが生まれた。「天皇陛下のために戦い、天皇陛下のために死ぬ」という天皇崇拝の洗脳授業をやったのが沖縄の教員たちである。

砂辺先生の話から脱線するが、沖教祖や沖縄のマスコミは集団自決は日本軍が命令したから起こったのだと主張しているが、本当は違うのではないかと思う。慶良間の集団自決は赤松隊長が命令したのではないという証言者が現れている。座間味の場合は集団自決を命令したといわれている梅沢元隊長は健在であり、彼は集団自決をするために爆弾をくれといってきた村の代表たちを自決はするなと怒って帰したと証言している。
日本軍が自決を命じた証拠はないのだ。
一方、戦前の皇民化教育や米軍に捕まったら女は暴行されて殺される。男は残忍なころされかたをするという噂があったから自決をしたと証言する人は多い。いや、ほとんどの人たちがそのようにいう。そして、自分たちが洗脳されていた証拠として「海ゆかば」を歌う。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

海で(戦いに)ゆくなら、水に漬かる屍ともなろう。
山野を(戦いに)ゆくなら、草の生える屍ともなろう。
天皇のおそばにこの命を投げ出してもけして後悔はしない。

自決するかしないかを大きく左右するのは本人の心である。日本軍が手りゅう弾を二個渡し、一個は米軍に投げ、一個は自決に仕えと言っても、自決する気がなかった人もたくさんいたわけで、そのような人たちは自決をしていない。統計的には自殺をしなかった人のほうが多いだろう。自決しようとして生き残った人のほとんどは皇民化教育を受けた性で自決をしようとしたと証言している。皇民化教育をやったのは沖縄の先生たちである。

集団自決をやる心をつくったのは皇民化の洗脳教育をした沖縄の先生たちである。慶良間の集団自決に日本軍は関与していないどころか集団自決はするなと梅沢元隊長は村民代表を追い返したのだ。沖縄の先生たちは自分たちの罪を隠すために集団自決は日本軍の命令であったと主張し、集団自決は日本軍の性であることを教科書に掲載させようと懸命になっている。しかし、集団自決をやらせたのは日本軍ではなく沖縄の先生たちであるのは明確になった。

砂辺先生は、黒人も白人も黄色人の体の中に流れているのは同じ赤い血であると教えた。戦前、砂辺先生の家には下働きしている朝鮮人がいたが、朝鮮人の子どもと喧嘩した時、自分が悪かったのに、朝鮮人の子どもが彼の親にこっぴどく叱られるのを見てとても済まない気持ちになったといい、沖縄にも差別があったことを教えた。
砂辺先生は教えるというよりも自分のストレートな気持ちを話しただけだったかもしれない。授業から脱線した砂辺先生の話は面白かったし私の心に強烈に残っていて、私の思想に大きな影響を与えている。
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二グロ ニガー ニガストゥ


中学三年生の時の英語の先生は砂辺松一先生だった。砂辺先生は英語がペラペラだった。読谷村にはアメリカ人が多く住んでいたので、砂辺先生は時々アメリカ人を連れてきて英語の発音練習をさせた。

ある日若いアメリカ人を連れてきた。名前はジョンとしておこう。ジョンは白人で20歳そこそこの青年だった。金髪で青い目をしていた。身長は170センチくらいで高くなかった。ジーパンをつけラフな服装だった。ジョンは大勢の生徒の前に立つのは初めてのようで落ち着かなかった。私たちを見ては恥ずかしそうに下を向いたりしていた。

授業は英語の比較級の勉強だった。Tall高い tallerより高い tallest最高に高いの勉強だ。砂辺先生は単語の意味を説明し、比較級の意味と発音の仕方を説明をした後に、ジョンに比較級の発音をさせた。私たちはジョンの発音を聞きながら発音練習をした。2,3の単語を練習した後に、砂辺先生は、「ニグロ」の発音練習をさせた。砂辺先生は「ニグロ」は黒人のことであるが「ニガー」は黒人を差別する言葉であるとのことだった。砂辺先生はアメリカの実際の生活では比較級といっても単なる比較級としてだけ使われているのではなく、「ニガー」のように実際には差別の言葉として比較級が使われている場合もあると説明した。

砂辺先生はジョンに「ニグロ」の比較級、最上級の発音を私たちに教えるように話した。するとジョンは驚いた顔をした。そして、砂辺先生に訴えるようなしぐさで話した。ジョンはニガーは黒人差別の言葉であり、声に出したくないというようなことを砂辺先生に言ったと思う。そのことを承知の上で発音練習をさせようとしていた砂辺先生はジョンに発音するように説得した。嫌がっていたジョンだったが砂辺先生の説得に負けてニグロの比較級最上級の発音を私たちに教えることを承知した。
ジョンが「ニグロ」と言うと私たちは「ニグロ」と言った。砂辺先生とジョンの話し合いでジョンが「ニガー」を口にしたくないということが分かった私たちはおもしろがって、ジョンが弱々しく「ニガー」と言った後に、いつもより大きい声で「ニガー」と発音した。すると若いアメリカ人の顔がみるみるうちに真っ赤になった。若いアメリカ人は下を向いたり横を向いたり砂辺先生を向いたりと落ち着きを失っていた。砂辺先生が冷静な声で二言三言いうと、ジョンは観念したように発音練習を続けた。
私は、私たちが「ニガー」と大声を出しただけで若いアメリカ人の顔が真っ赤になっていったのを今でも覚えている。
ジョンは数回ほど私たちに発音を教えてくれた。ジョンはシャイなアメリカ青年だった。

ジョンとはこれっきりだったが、私はジョンを思わぬことで新聞で見ることになる。あれから5,6年たった頃、ジョンが脱走兵として夕刊紙に顔写真つきで載っていたのだ。ジョンはベトナム戦争反対を訴えて軍隊から脱走したとのことだった。その後のジョンについては知らない。

注 にぐろの最上級はWEBで見つけることができなかったのでカタカナ表記にした。


訂正
「「NIGGER」を比較級の用例というのは初耳で、何か変な気がします。単純な名詞だと思います。この先生の勘違いではないでしょうか」北谷孝さん。

私の勘違いだと思います。砂辺先生がニグロは黒人のことだが、ニガーは黒人を蔑視する言葉であると説明しのをはっきりと覚えていますが、それが比較級の勉強であったかどうかははっはりしません。私が勝手にそう思い込んでいる可能性が高いです。

若いアメリカ人がニガーと言うのは勘弁してくれと砂辺先生に頼んでいる様子や砂辺先生が真剣な表情で表情でジョンを説得し、ジョンが仕方なさそうに砂辺先生の説得に応じている様子は覚えています。
そして、私たちが大きな声で「ニガー」と言った時に若いアメリカ人が顔を真っ赤にしてとても困っていた様子は今でも覚えています。
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アメリカ少年がぐるぐる回った理由


大湾は学校の行き帰りに古堅の外人住宅モーガンマナーの中を通った。別の道路もあるのだが、毎日同じ道を通るのはおもしろくないから時々モーガンマナーの中を通った。モーガンマナーに入るとアメリカ人が歩いているわけで、アメリカ人とすれ違う。
グループの時は、グループの中の誰かが、アメリカ少年へ、「ファイトミー」と言った。アメリカ少年へ「ファイトミー」をいうことは他の少年に勇気を見せる行為であった。一人がいうと他の少年も調子に乗って「ファイトミー」といった。私たちは喧嘩をする気はないし、アメリカ少年も聞きなれた言葉なので無視した。私たちの「ファイトミー」は「ヤー」と同じくらいの挨拶代りの言葉だった。「ファイトミー」の意味も知らないでアメリカ少年にいう生徒もいたくらいだ。一人の時は本当に喧嘩になってしまうと怖いから言わなかった。
これもアメリカ人が隣りに住んでいたから出てくる話である。

アムロは自転車屋の子どもだった。彼は大湾に住んでいたので時々モーガンマナーの中を通る時があった。彼が中学三年生の時の話だ。「ファイトミー」をいうのは小学生の時で中学生になると「ファイトミー」はいわない。アメリカ少年とすれ違う時は「ヤー」とか「グッドアフタヌーン」というくらいだ。
ある日、学校帰りにモーガンマナーの中を歩いていると、アメリカ少年がアムロに話しかけてきた。アムロは英語が全然ダメだったから、アメリカ少年の話は全然分からなかった。「ソーリー、I cannot speek inglish」さえも言えないアムロは「分からん」と言った。それも英語の調子で「ワカラーン」と言った。
するとアメリカ少年はアムロのまわりをぐるぐる歩き回った。アムロはアメリカ少年が自分の周りをぐるぐる歩いたものだから、頭が混乱し怖くなって逃げた。
この話はつくり話ではない本当にあった話だ。アムロはなぜアメリカ少年が自分の周りを歩いたのか英語の先生である砂辺先生に聞いた。砂辺先生はその理由がわかった。アムロが「ワカラーン」と言ったのをアメリカ少年は「walk around」
に聞こえたのだ。
砂辺先生は授業でアムロの体験談を私たちに話した。英語の発音と似ているのが多い沖縄の方言では、「ワッタームン」(私の物)を「what time」と勘違いしたことや、「nine three」を「ナーヒン トゥリ」(もっと取れ)に勘違いした話はあったが、共通語の「わからん」が英語の「歩き回れ」に勘違いされたというのはあの時に聞いただけである。
アメリカ人と隣り合わせに住んでいたから出てきた話である。
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車に跳ね飛ばされ米軍病院に運ばれた話


小学一年生の時、交通事故に会って死に損ねたことがある。
私の家の側は三叉路になっていて、ちょっとした広場になっていた。子供たちは三叉路でよく遊んだ。隣りのカズねえさんは中学生だったが私たち子供とよく遊んでくれた。
ある日、カズねえさんは三叉路に生えたアダンの葉で風車を作って私たちにあげた。アダンの葉は肉厚で細長く鋭いとげが生えている。ナイフでアダンの葉の棘を切り払い、葉を長方形に同じ大きさに切り取り、四枚の葉を織って風車をつくる。竹の枝を風車の中心に差し込んで風車を固定し、竹の筒に枝を入れたら風車の完成である。私たちは風車を持って走り回った。

私はもっと大きい風車がほしくなった。一号線の向こう側の畑の側には大きいアダンの木が植わっていて、私が大きいアダンの葉を取ってきたら大きい風車を作ってあげるとカズねえさんが約束したものだから私は一人でアダンの葉を取りにいった。
50年以上も前のことだから車は少なかった。私は左を見た。車はなかった。左を見るとバスが走ってきた。私はバスが通り過ぎるのを今か今かと待っていて、バスが通り過ぎた瞬間に車道を横切った。私の記憶はここまでだった。私は反対車線から走ってきたタクシーに跳ね飛ばされたらしい。

闇の中で私の名前を呼ぶ声がして、目を開けると、目の前に金髪のおばさんが立っていて私の顔を凝視していた。私はびっくりして起きようとしたが体が動かなかった。私の側に母が居てしきりに私の名前を呼んでいた。首を曲げると泣いている母の姿が見えた。

私の口の中を調べていた金髪のおばさんは手招きしてインド人の白衣の若い女性を呼び、私の口の中を見せながら話した。インド人の女性は私の顔に口のあたりだけが開いている紙か布をかぶせて、私の口の中を縫った。私はタクシーに跳ね飛ばされたが、幸いにも口の中を8針縫う傷を負っただけだった。

私が運ばれたのが宜野湾市の志真志にあるカマボコ型の陸軍病院だった。
私の子どもの頃は、事故で怪我人が出た時や急病人が出た時に駆けつけてくれる救急車といえば米軍の救急車であった。私が高校時代に書いた戯曲を読んでみると、いつも駆けつけるのが沖縄の救急車ではなく米軍の救急車であることに悔しがるセリフがあった。
米軍の世話になっている事実に反発する一方、人命を大事にしない沖縄の政治に不信感を抱いていたのだろう。
戦前育ちの政治家たちは人命第一の思想がなかったかもしれない。人命第一の思想があればたとえ財政が貧しくても救急車を準備していたはずである。


今でも沖縄の人命・人権第一の思想は薄いと思う。

普天間飛行場は世界一危険であると言ったのは宜野湾市の前市長であり、今では県民の多くがそのように思っている。今度はオスプレイが配備されることになった。普天間飛行場の危険性はますま高まる。
多くの県民がオスプレイを配備するアメリカを人権無視であると非難している。
ところが、アメリカの人権無視を非難している人たちは普天間第二小学校を移転しよういう発言をしない。オスプレイが配備されれば普天間飛行場に隣接している普天間第二小学校の騒音被害はますますひどくなり、墜落の危険も高まる。普天間第二小学校の子どもたちの被害はもっとひどくなるのは目に見えている。それなら、アメリカを非難するだけではなく、普天間第二小学校の生徒をできるだけ安全な場所で勉強させるのを考えるのが当然である。
以前に移転しようとしていた外人住宅外は現在は使っていない。すべての外人住宅が空き家であり取り壊すことになっている。普天間第二小学校を移転できる場所は何年も前からある。しかし、誰も普天間第二小学校の移転を口にしない。
普天間飛行場の危険性が高まることを知っていれば、普天間第二小学校の移転を考えるのは当然だ。それを考えないのはおかしい。絶対におかしい。アメリカの人権無視を主張する人たちの頭はおかしい。

普天間第二小学校の移転を考えない人たちにアメリカを人権無視だと非難する資格はない。米軍は普天間第二小学校の移転場所を返還してもいいと昔から言っている。普天間第二小学校の子どもたちを何十年も危険状態のままにしているのは米軍ではなく沖縄の政治である。

もう一度言う。普天間第二小学校の移転を考えない人たちにアメリカを人権無視だと非難する資格はない。

普天間第二小学校の一日も早い移転を望む。
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鬼軍曹のやさしさ


私は水釜と嘉手納町の東はずれにある屋良の二十軒ほどの外人住宅に新聞配達をしていた。外人住宅は嘉手納飛行場が一望できるので観光客に人気のある嘉手納道の駅の近くにあった。今も外人住宅は残っているが周りに住宅が多くなり目立たなくなっている。

50年前は外人住宅が嘉手納町の東端でありその先に家はなかった。嘉手納ロータリーから自転車を飛ばし、屋良の入り口を超えると左側に外人住宅が見えた。車道を左に曲がると50メートルほどのなだらかな坂を下り、左側に駆け上がると鬼軍曹の家があった。本当は鬼軍曹ではない。鷲鼻で目が鋭く、挨拶する時ににこりともしないので映画に登場する鬼軍曹に見えたから私は彼を鬼軍曹だと思っただけだ。
彼は威圧感があり、集金をする時には緊張したものだ。

ある日、私が鬼軍曹の家に新聞を配達しようとしたらドアが開き鬼軍曹が現れた。ドキっとして動きが止まった私に、彼は「ウェイト」と言って、奥に消えた。私がドアの前で待っていると、彼は茶色と黒の縞模様の服を持ってきた。生地が柔らかくて暖かそうな服だった。彼は私にその服をあげたいがどうかと言った。私は即座に、「ノーサンキュー」といった。私は物をもらうのが嫌いで即座にことわる断る癖があった。多分私の深層心理には貧乏コンプレックスがあり、物をもらうことを屈辱に思うところがあった。私は「ノーサンキュー」と言った直後に彼の善意を踏みにじったことを後悔した。もし、彼が、微笑みながら、もう一度もらわないかと言ったら、私は、「サンキュー」とお礼を言って服をもらったと思う。しかし、鬼軍曹は、私が、「ノーサンキュー」と言ったので、「そうか」とがっかりして奥に戻っていった。気まずい思いをしながら私は次の住宅に新聞配達に向かった。

私は鬼軍曹がやさしい人間であることを知った。彼のやさしさに応えることができなかったことを私はちょっぴり後悔した。ただ、これで彼と気まずい関係になったかと言えばそうではない。鬼軍曹がやさしい人間だと分かったので、私は大きい声で「グッドモーニング」と挨拶したし、彼も私に微笑むようになった。でも、二度と私に服をあげようとはしなかった。


タイムスの「基地で働く」シリーズは嘉手納基地のサニテーション(保健衛生)で働いていた瑞慶山良春さんの話を掲載していた。

「泡瀬や高原などに田んぼがあった。そこで蚊を駆除するため、手製の噴霧器でディーゼルオイルをまくんだ。そうすると田んぼの水に油膜が張るでしょ。ボウフラは呼吸できなくて5分くらいで死ぬ。でも農家はせっかく大切にしている田んぼに影響が出るかもしれないから、恨めしそうな目でじっとこっちを見た。文句こそ口に出さないけど、米軍には逆らえないからね。農家がかわいそうで、自分も板挟みになって困った」

私の同級生でメイシュンという少年がいた。彼は頭が悪く、今でいう知的障害の少年だった。彼は赤ちゃんの時に脳膜炎にかかったせいで頭が悪くなったという噂だった。

蚊は脳膜炎やマラリアの病原菌を持っていて、戦時中には多くの人がマラリアにかかって死んだ。沖縄を占領した米軍はマラリアを根絶させるために徹底した蚊の駆除をやった。ブォーという音を出しながら白煙を吹く車が定期的に村の道を走り回った。白煙は蚊を退治する薬だった。
学校では、蚊に刺されるとマラリアや脳膜炎になるから刺されないようにと先生方は注意した。

瑞慶山さんはお金のために軍雇用員になった典型的なウチナーンチュだ。瑞慶山さんは沖縄からマラリアや脳膜炎の病気をなくす重要な役目を担っていたのにその自覚はなかったようだ。お金のために軍の仕事をしているから米軍のいうことに逆らえないという意識だけで、保健衛生をしていたのは残念である。
戦後の沖縄は不衛生で栄養失調者も多かった。蚊やハエを撲滅する仕事は非常に重要だった。アメリカ軍は沖縄から疫病をなくすために衛星活動に力を注いだ。
下水道設備がないから家庭の水は垂れ流し、いたる所に水たまりがあった。噴霧器を背負った衛生士は村中をまわり、下水や水たまりに薬を撒いて、蚊を撲滅した。
そのおかげでマラリアは激減し、日本脳炎にかかる人間もいなくなった。
瑞慶山さんの仕事は沖縄の人々に大きく貢献した仕事だった。

田んぼにはおたまじゃくしや鮒が棲んでいる。おたまじゃくしや鮒はぼうふらを餌にしているので田んぼにディーゼルオイルを撒く必要はあったのだろうか。田んぼは広い、田んぼの表面を全部覆うには大量のディーゼルオイルが必要である。それに田んぼの水は流れているから、ディーゼルオイルの効果があったかどうか疑問である。手製の噴霧器では田んぼ全体を覆うほどに撒くことはできなかったはずだ。せいぜい田んぼのあぜ道を歩きながら撒いたくらいであろう。田んぼに悪い影響を与えたとは思えない。
どうしてマラリアを根絶するためには必要なことであると農家の人に理解を求めなかったのだろう。瑞慶山さんの欠点だな。


「沖縄の人を見下しているような人もいるにはいた。家のトイレを借りようとしたら、米兵の奥さんに『とんでもない』と断られたり、それでもほとんどの人は優しくてね。差別する人はするし、しない人はしないのはどこの民族も同じ、米軍そのものには反感もあったけど、一人一人の米兵には親近感を持った」

瑞慶山さんが米兵に感じたことがウチナーンチュが一般的に感じたことだと思う。ただ「差別」だったのかそれとも「嫌われた」のかを瑞慶山さんは区別することができなかったと思う。瑞慶山さんは「どこの民族も同じ」とアメリカを単一民族であると思っているがアメリカは多民族であり、私たち沖縄人が持っているような民族意識はアメリカ人にはない。黒人蔑視や黄色人蔑視をする白系アメリカ人はいる。黄色人である沖縄人を差別したり嫌ったりするアメリカ人がいたことは確かであるがそれは少数のアメリカ人であり、アメリカ人による沖縄人への差別とは違う。黄色人種差別といったほうが適切である。

隣りのアメリカ兵は普通の人間だったのである。
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アメリカ兵がとなりにいた頃の話

嘉手納町の水釜の外人住宅に新聞を配達していた頃の話である。水釜の外人住宅街はかなり広く、私はUの字のように外人住宅を回って新聞を配達していた。最後の頃になると太陽は東の住宅の上から覗き、陽射しがまぶしくなった。
私がドアの側の窓際に新聞を挟んで庭から出ようとすると、呼び止められた。振り向くと開いたドアから女性が私をみながら微笑んでいた。アメリカ人と言えば白人をイメージするだろうが、白人でもない黒人でもないアメリカ人は結構多い、私を呼び止めた女性はスペイン人の膚を白っぽくしたような女性で小柄な人だった。

彼女は私に中学生であるかと聞いた。私がそうだというと、彼女は、私は中学の先生だと言った。私は彼女が学校の先生だといったことに驚いた。なにしろ、彼女は化粧をしていて青のアイラインを入れていたのだ。服も華やかなワンピースだった。彼女が先生なら私たちは心が落ち着かず勉強どころでなかったはずである。
彼女の夫も出てきたが、彼も中学の先生だといった。夫はジーパンを履き遊びに行くような服装だったが、それが彼の仕事着だった。ラフで自由な服装の人が学校の先生であるのに私は驚いた。

私は長男だったので、母は私にはしつけが厳しかった。沖縄方言の敬語をしつこく教えられた。「食べる」の方言は「カムン」である。「食べれ」は「カメー」である。母がカメーの敬語はなんというかと聞いたので私は「カミミソーレー」と言った。母は大笑いした。「カミミソーレー」は日本語に直訳すると「食べてください」であるが、日本語でも「食べてください」は丁寧語であって敬語ではないように方言でも同じである。「カメー」の敬語は「ウサガミソーリ」であると母は教えた。日本語でいえば「召し上がりください」になる。
母は敬語や大人に対するマナーを教えたが、私は右の耳から左の耳へ流していた。

大人でもダメな人間はいる。ダメな人間を尊敬することはできない。だから、大人だからと言って尊敬できない人間には敬語を使わなくてもいいというのが私の考えだった。

そんな私がアメリカ人と接して一番感じたのは彼らが大人と子供の上下関係を感じさせないことであった。大人でも私には友だち目線で話した。沖縄の世界では大人と子供では上下関係があるし、先輩後輩でも上下関係があって、会話する時にはこの上下関係が強制される。私は上下関係を強要されるのが嫌いだった。

アメリカ人と接するときに、彼らには沖縄の大人が持っている威圧感がなかった。それは平等というよりアメリカ人の自由さを感じた。アメリカ新聞を配達しながら、私はアメリカ人の持っているフリーさを皮膚で感じた。
50年前の話である。


昨日の沖縄タイムスの「基地で働く」はタイピスト宮城公子さんの話の第二弾を掲載していた。

基地から横流しする女性の話であった。復帰前はPX流れといって基地から多くの商品が基地から流れ出て県内で販売されていた。タバコ、チョコレート、缶詰、お菓子等々。特にタバコとチョコレートは多くの商店にあった。首里の琉球銀行の斜め向かいに老夫婦が営む小さな商店があり、その商店ではPX流れのタバコを置いてあり、私は時々ウィンストンを買った。

復帰前はアメリカ人の犯罪はアメリカ軍が摘発し裁判をしたが、沖縄人の犯罪は沖縄の警察が摘発し、裁判をした。だから、PX流れの商品を扱っている沖縄の商店をアメリカ軍は摘発することができなかったのだろう。沖縄の警察は積極的に取り締まる気がなかったようで、PX流れの商品を扱う商店が多かった。
復帰して、日本警察がPX流れの商品を扱う商店を積極的に取り締まるようになって商店は激減していった。日本専売公社の圧力があったのだろう。

宮城公子さんの話は、1970年半ばの横流しの常習犯の女性の話である。
「その頃は横流しが横行していた。ウチナーンチュの女性が米兵にお金をあげて、基地内の品物を預けていた。下っ端の米兵は給料も安いから、簡単だったと思うよ」
「私は彼女たちを守りたかった。やめたいと思うことがあっても、子供や生活のために働く私たちと同じで、彼女たちも苦労していたんだから」
「彼女たちは50~60代。若いころに米兵と結婚して一緒に米国へ行った後、米兵と離れ離れになり、現地に取り残されたり、家があると思っていったらトレーラーだったという人もいた」
「彼女たちはライスボウル(おにぎり)を作って売り歩いて、わずかなお金を貯めてやっとの思いで帰ってきたと聞いた」

宮城さんの今度の話でも、アメリカ人は沖縄女性を無一文で家から追い出すような薄情で冷たい人間たちである印象を与えている。アメリカの習慣に合わないで離婚した話は何度もきいた。離婚してもアメリカにとどまった女性は多い。アメリカでは女性の人権は守られているのだから、無一文で家から追い出すケースは少なかっただろう。金がなければ沖縄の親族が送金するだろうから、おにぎりを売って旅費を稼ぐなんて考えられない。こんなケースは滅多にない。

1970年半ばで50~60歳というと、終戦の1945年には20~30歳だった女性である。戦後すぐにアメリカ兵と結婚した女性ということになる。

復帰当時の失業率は1%未満であったし、1970年半ばなら本気で仕事を探そうと思えばさがすことができたと思う。PXの横流しは誰でもできるというものではない。彼女たちのようにIDカードがなければならないし、私が聞いたケースは米兵と結婚している沖縄女性が夫を利用して買い入れて横流しをしていることであった。
PXからの横流しの仕事は特定の人間しかできないし、儲けは大きかった。横流しの仕事はうまみの大きい商売であり、貧乏人が仕方なくやる商売ではなかった。少々の危険を犯してもやりたくなる闇商売であったのだ。

「私は子どもが4人いて、この子たちのためにと思って働いていたけれど、生活があるのは彼女たちも同じだった。当時は、みんな生きるために、そうしないといけなかったんだろうね。葛藤の中、定年まで働いたんだよ」

復帰前は軍雇用員の給料は公務員よりもよくて、中流以上の生活が保障されていた。生きるために働いたというより他の人たちより文化的な生活をするために働いたようなものだ。私の家の後ろの父親
は軍で働いていた。収入がいいから最初にセメント瓦の家をつくった。軍雇用員の家は裕福だった。まずしい農家の息子の私は軍雇用員の子供がうらやましかった。彼らは親からこずかいをもらえたから。

PX商品の横流しの商売は儲ける闇の商売であり、罰金を払っても採算の取れる商売だったから続けたのだ。宮城公子さんは沖縄の人たちは生活のために仕方なく米軍に関わったように話しているが、本当は米軍は金のなる実であり、多くのウチナーンチュは金を求めて米軍に関わったというのが事実だ。

「私は4人の子どもたちには絶対、軍で働かさなかったの」で宮城さんの話は締めくくっている。読者に米軍への悪印象を持たすのを狙っている記事である。
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ハスラーミノル

ミノルさんがアメリカ人を相手にビリアードで連戦連勝しているという噂が比謝の子供たちの間に広まった。ミノルさんは私と同じ比謝に住んでいる人で役所に勤めていた。
ビリヤードは米軍と同じようにアメリカからやってきたゲームだ。アメリカ人が得意としているゲームにウチナー人のミノルさんが連戦連勝しているというのは痛快なことであり、私はミノルさんのビリヤードを見たくなった。私一人でビリヤード場に行くのは怖いので友人のシュウエイを誘った。

ビリヤード場は嘉手納ロータリーから西側にある新町通りにあった。ロータリーから新町通りを2,3百メートル進むと十字路があり、十字路を右に曲がると数十メートルのところにビリヤード場はあった。左に曲がると飲み屋街があったが、現在はサンエーがある。
ビリヤード場はセメント瓦屋根の平屋で、出入り口は木製のガラス戸で仕切られていた。中にはビリヤード台が三台並んでいる殺風景の店だった。ガラス戸から中を覗くと奥の台でミノルさんがアメリカ人とビリヤードをやっているのが見えた。私とシュウエイは恐る恐る中に入った。
一台目の台では沖縄の青年たちがビリヤードをやっていて、二台目の台は白人がビリヤードをやっていた。二人はミノルさんたちのビリヤードが気になるらしく、時々手を止めてミノルさんたちのビリヤードを見たりしていた。

ビリヤード場は張りつめた空気が流れていて、張りつめた空気に緊張した私とシュウエイは壁に沿いながらゆっくりと奥のほうに行った。私たちを見たミノルさんはにっこり笑い、「やあ、来たか」と言った。私とシュウエイは黙って頷いた。
白人の対戦相手はミノルさんに負けたので一ドル紙幣をミノルさんに渡した。次にミノルさんと対戦したのは黒人の青年だった。まだ少年の面影が残っていたので、多分十代の青年だったと思う。
大きな目をぎょろつかせ、怖いほど真剣だった。失敗すると「シツト」と言って太ももを叩いて悔しがった。ミノルさんは穏やかで、時々私たちに話しかけたりした。
黒人は怖く感じるほど真剣だったが、腕のほうはそれほどでもなく、ミノルさんに負けた。次は白人がミノルさんの相手をした。

アメリカ人がウチナーンチュに負けるのが悔しくて、絶対に倒してやろうとミノルさんに挑んだのか、それとも強い人間に挑戦して勝ちたいと思うからミノルさんに挑んだのか分からないが、アメリカ人は次々とミノルさんに挑んでいった。ミノルさんに負けたから暴力でミノルさんをやっつけるなんてありえないことだった。

五十年前のアメリカ兵がとなりにいた風景である。


沖縄タイムスで「基地で働く」シリーズを掲載している。昨日のタイムスにはタイピストの宮城公子さんの体験が掲載されていた。

「善意裏切られ」では、沖縄の女性と結婚の手続きに使う女性の履歴書を書いてほしいと米兵に頼まれて、善意でやってあげたのに、ある日米兵が、女性が帰った途端に履歴書を破った。女性は妊娠もしていてアメリカに行けると信じきっているのを裏切った米兵を見て、「沖縄の人を、そんな簡単に扱うのか」と反発して、履歴書を書いたのを止めたという。
結婚をする気がないのに沖縄女性とつきあったアメリカ兵は多かったと思う。なにしろ彼らは若いのだから。

しかし、この問題はアメリカ兵と沖縄女性の問題ではない。若い男女の問題だ。沖縄人でも妊娠した女性を裏切る男はいる。いや、日本にもいるし、中国にもヨーロッパにもいるだろう。
アメリカ兵の中には真剣に沖縄の女性と付き合い結婚する人間も多い。沖縄が気に入って退役後に沖縄に住んでいるアメリカ兵も多い。アメリカに渡るのを嫌がってアメリカ兵と別れた女性もいる。若いアメリカ兵を手の上で転がす沖縄女性もいた。アメリカに渡って幸せになった女性もいれば、アメリカの生活になじめないでノイローゼになって帰ってきた女性もいる。
アメリカ兵は色々だし、沖縄女性も色々だし、恋愛も色々だし、結婚も色々である。
私は幸せになった女性も不幸になった女性も知っている。読谷村ではアメリカ人と沖縄女性の老夫婦をよく見る。

宮城さんが体験した問題はアメリカ兵と沖縄女性の問題というより、若いアメリカ人と沖縄女性の問題であり、根本的には男と女の問題である。
宮城さんが、米兵が沖縄女性の履歴書を破ったのを見て、「沖縄の人を、そんな簡単に扱うのか」と思ったのなら、宮城さんの米兵を見る目が偏向している。その米兵以外は履歴書を破っていないし結婚もしたはずである。結婚した米兵のほうが多かっただろう。宮城さんがたった一人の裏切り行為をした米兵を米兵の本質のように思うのはおかしい。

宮城さんにもっと沖縄女性の幸せを願う気持ちがあったら、次からは女性の連絡先を聞いておいて、履歴書を破る米兵がいたらすぐに連絡するようにすればよかった。

宮城さんは頼まれたからやってあげて、嫌になったから止めた。沖縄女性のやさしさと深くは考えない性質が現れている。

ウチナーンチュを殺した米兵がMPの取り調べになにも答えず、指紋採取も写真も拒否し、牧師が諭しても駄目だったのに、トイレに行くために米兵が入れられている部屋の前を通る宮城さんを見て、「あの人だったら指紋を取らせる」と米兵が言ったという。「ほかにもいるのに何で私なの」と思いながら、宮城さんは恐々としながら殺人者の指紋を取ったことがあったという。米兵が宮城さんに心を許したのは宮城さんからにじみ出る沖縄の女性のやさしさを米兵は感じたからではないだろうか。

今回は結婚のための履歴書を破った米兵、ウチナーンチュを殺した米兵が登場した。「基地で働く」シリーズには悪い米兵しか登場しない(苦笑)。

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カットグラス?

農家の息子は小遣いがもらえない。畑仕事を手伝っても、親に養われているのだから手伝うことは当然であって小遣いなんてもらうのがおこがましいというのが農家の親の考えだ。
小遣いは自分で稼ぐのが貧乏農家の子供の宿命だった。小学校の低学年の頃は戦争の残し物のくず鉄があちらこちらの土の中に埋まっていて、私たちはカシガー(あさ袋)を担いでくす鉄を探し回った。その金でお菓子を買ったり映画を見たりした。
しかし、小学校の高学年になる頃にはくず鉄はなくなった。

ある日、隣りのてっちゃんが小遣い稼ぎの話を持ってきた。外人住宅街のモーガンマナーに行けばお金が稼げるというのだ。モーガンマナーの庭が荒れている家に行き、「グラスカット」と言えば、庭の草を刈る仕事がもらえるという。そういう噂をてっちゃんは友人から聞いたというのだ。
本当に庭の草を刈ったらお金をくれるのだろうか。私は半信半疑ではあったが、お金がもらえる可能性があるのなら、まずはやってみることである。農家の息子にとって草刈りはお手の物だ。私とてっちゃんは鎌と砥石を持ってモーガンマナーに行った。

モーガンマナーに入ると草が生えている庭を探した。多くの庭は手入れされていて、草が生えている庭はなかなか見つからなかった。庭を覗きながらモーガンマナーの奥に入っていくと、草が茫々生えているわけではないが、少し荒れている庭を見つけた。
私とてっちゃんは玄関のドアを叩いた。すると金髪の女性が現れた。金髪の女性は二人の沖縄少年に微笑みながら、「ワットゥ」と言った。私とてっちゃんは鎌を振りかざしながら、「グラスカット?」と言った。金髪の女性は、「オオ、ヤー」と頷き、微笑みながら、「オーケー」と言った。

小学生のやる草刈りだからたかが知れている。大人のようにきれいにできるはずはない。それでも、金髪の女性は満足そうな顔をして私たちに25セントずつあげた。この時のうれしさといったらありはしない。
私とてっちゃんは時々モーガンマナーに行き、玄関のドアを叩くと、「グラスカット?」と言って草刈りの仕事をもらった。

アメリカ人はたとえ親子であっても、子供が草刈りなど家の仕事をしたら労働の報酬としてお金をあげるという噂が私たちの間では広まっていた。私は家の仕事どころか芋ほり、田植え、稲刈りに脱穀(父は脱穀機をあつかうのが下手で、私がやった)など重労働をしても一セントももらえなかった。アメリカの子供がうらやましかった。



沖縄人の卑屈な精神

最近新聞で米軍基地で働いた人間の体験談の記事が掲載されている。私は記事を読んで沖縄人の卑屈な精神を感じて心が暗くなる。

アメリカの少年と野球をしても沖縄側が勝つことは一度もなかった。なぜなら彼らは負けそうになると試合を放棄したと書いてある記事があった。
古堅中学校でもアメリカの少年チームと試合したことがあった。その頃の中学は軟式のボールを使っていたが、アメリカは硬式ボールを使っているということで硬式ボールで試合をした。キャッチャーがプロテクターを付けているのをはじめて見た私たちには新鮮であった。

彼らは野球チームだけでやってきていて、応援団は連れてこなかった。応援団は全員が古堅中学生であった。試合はかなり白熱し、古堅中学の選手がヒットを打つたびに大歓声が沸いた。
試合は負けたがアメリカの少年たちは正々堂々と試合をやった。彼らの真剣な表情から、彼らが負けそうになると試合を放棄するような人間にはみえなかった。アメリカのチームが負けそうになると試合を放棄するなんてありえないことである。その後も何度か試合をしたがアメリカチームが試合を放棄したことは一度もなかった。
「アメリカの少年と野球をしても沖縄側が勝つことは一度もなかった。なぜなら彼らは負けそうになると試合を放棄した」ということはありえないことである。しかし、沖縄人はそんなことを平気で口にする。アメリカ人を卑屈な人間に仕立てようとする話には沖縄の人間のアメリカコンプレックスを感じるし、卑屈な精神を感じる。

スクールバスの運転手が乗車している少年たちにいたずらをされ、次第にいたずらがエスカレートしていったことに対して沖縄人への差別だと話している記事があった。そんなことにさえ沖縄差別を主張するのに私はあきれてしまった。少年たちは皆いたずら好きだから運転手が沖縄人であろうとアメリカ人であろうといたずらをする。
いたずらがエスカレートしたのはアメリカコンプレックスの運転手が子供を叱ることができなかったことが原因だ。堂々と子供を叱れば子供たちはおとなしくなったはずである。もしアメリカ人の運転手なら子供たちを叱っておとなしくさせたはずである。アメリカ人の運転手でも気が弱くて子供たちを叱ることができなかったら子供たちのいたずらはエスカレートしたはずである。問題の解決になにも努力しないで差別の性にするのは沖縄人のひがみ根性である。
後にアメリカ人の監視人が乗ることになったと述べているように、アメリカ人も子供たちが運転手にいたずらするのは悪いことであり、いたずらをなくす対策をとっている。差別意識はアメリカになかった証拠である。

アメリカは多民族国家である。白人でもイギリス系、ヨーロッパ系など色々な民族が混ざっている。黒人、スペイン系、日系とアメリカは世界中の民族のるつぼなのだ。アメリカは白人と黒人だけがいると思ったら大間違いである。私はアメリカ新聞を4年間配達したがその時に多くの人種にあったし、彼らに沖縄人として差別されたことはない。アメリカ人より人種差別意識が強いのはむしろ沖縄人である。沖縄の方言ではフィリピン人はフィリピナー、台湾人はタイワナー、朝鮮人をチョウシナーと呼び、呼び方に差別はないが、子供の頃に大人たちが彼らを差別する話をしているのを何度も聞いた。

まだ古い因習が底辺にある沖縄には差別意識があり、この差別意識が逆にアメリカに差別されているという意識が生まれるのだ。
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