元沖縄県知事太田昌秀氏批判 17





「こんな沖縄に誰がした」太田昌秀著

五 沖縄の自立と軍事基地ー沖縄の諸問題と解決

基地返還前後の経済変動 1

沖縄では、南部は那覇市から南側をいう。中部は浦添あたりから恩納村あたりまで、北部は名護市辺りから北側をいう。
那覇市から南側には山が少なく平野が広がっていて畑に適している。それに那覇市には港と空港と県庁があり一番便利であり、南部は経済が発展する要素が集中していて、沖縄の経済は那覇市を中心に発展した。

沖縄の米軍地図を見れば南部には基地がないことがわかる。太田氏は中南部のもっとも便利な場所を基地に取られているというが、もっとも便利な場所は平野が広がる南部であり、米軍基地はない。浦添市から那覇市、そして那覇市から南部は住宅密集地であり、東京都と同じ人口密度である。太田氏は失業問題の解決が困難であるのは中南部のもっとも便利な場所を基地に取られているせいにしているが中南部のもっとも便利な場所のほとんどに基地はない。
普天間飛行場や嘉手納飛行場は便利な場所にあるといえる。

太田氏は、「米軍基地は中南部にある」そして「朝から晩まで実弾を使って演習ばかりしている」と述べて南部で演習をしているようにイメージさせているが、南部にはアメリカ軍基地はほとんどないから、演習はやっていない。
演習をやっているのはキャンプハンセンであり、演習のほとんどは北部の方でやっている。キャンプハンセンと北部訓練場は山岳地帯であり、街をつくるのにも、畑をやるにも適さない。太田氏は海兵隊は「演習ばかりやっているので雇用の場にはふさわしくない」というがキャンプハンセンや訓練場は山岳地帯であり、開放されたとしても、「雇用の場」にはふさわしくない。

太田氏は軍用地が返されれば約十倍の雇用が確保できると断言しているが、その理論にはとんでもない問題がある。
     つづく
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元沖縄県知事太田昌秀氏批判 16



「こんな沖縄に誰がした」大田昌秀著

五 沖縄の自立と軍事基地―――沖縄の諸問題と解決の方法

深刻な雇用問題

驚くべき事実が分かった。復帰前までは沖縄の失業率はなんと0・6%だったというのだ。アメリカ軍が統治していた時代の方が失業率は極端に低かったのはなぜだろうか。そして、なにが原因で復帰後は失業率が高くなっていったのか、その原因を知るのは必要である。復帰前と復帰後の歴史を比較調査するべきである。復帰前はアメリカ流の経済システムであり、復帰後は日本流の経済システムである。一体何が違うのだろうか。

太田氏は1990年から1998年まで沖縄県知事をやっている。復帰から20年も経過していない。その時の失業率は何%だったのかを明らかにしないで、太田氏は2010年度の失業率を取り上げている。沖縄の失業率は0・6%から40年弱で8%へと上昇している。この上昇は異常である。アメリカ統治時代の沖縄の経済システムと復帰後の経済システムにどんな違いがあったのか。沖縄県知事であるならば興味を持つのが当然であるが、8年間も沖縄県知事をやった太田氏は関心がないようだ。

太田氏は沖縄の自立を強調しながら、日本政府の支援を仰ぎ、「特別調整費」の名目で50億円を援助してもらっている。この50億円は沖縄の自立に全然関係ないお金だ。「失業問題」を解決するには経済の発展が一番効果があり、次に本土でもばりばり働ける若者を教育で作り出すことが大事だ。そのような経済発展をすることによって失業者を減らしていく政策こそが真剣に取り組まなければならないのに、「平時に置いて10代の若者たちが仕事がないための暴走行為によって事故死するという事態は、行政の責任者として到底看過できるものではないから」という理由で日本政府から50億円を引き出して使った。沖縄の自立や若者の失業を50億円を使って解決したのだろうか。恐らくなんの効果もなかったのではないか。

太田氏は仕事がないために若者は暴走すると認識しているようだが、この認識はどのような情報・統計から得た認識なのだろうか。太田氏は暴走現場や暴走する若者たちについて調べたことがあるのだろうか。
若者はスリルを味わうために暴走する。スピードを上げるために、高い金を投資して車体やエンジンを改造する。だから暴走するためには高いお金が必要である。暴走族の多くは働いて金を貯めて、暴走するために金を使うのだ。暴走するためのガソリン代もバカにならない。失業すれば金がないから、暴走することもできない。だから、太田氏のいう、失業したから暴走するという理屈は間違っている。暴走する若者の死と失業問題とは関連性はないのだ。県知事の単純な思い込みで50億円も使うなんて考えられない。

太田氏は沖縄戦で125人の中から37人しか残らなかった体験が若者の暴走による事故死に同情しているが、太田氏は沖縄戦という特殊な状況で多くの友人をうしなったのであり、それは太田氏の特別な体験であり、平時における若者たちの暴走による事故死とは原因が全然違う。自分のトラウマのために知事という地位を利用し国民の血税を50億円も使うなんて許されない行為である。

太田氏は沖縄の自立と経済問題という切実な問題を提起しながら、この問題とは違う内容に進み、結局は沖縄の自立と経済問題の解決についてはなにも提起していない。
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元沖縄県知事太田昌秀氏批判 14

「こんな沖縄に誰がした」大田昌秀著

五 沖縄の自立と軍事基地―――沖縄の諸問題と解決の方向

安保条約と地位協定 111ページより

太田氏は、安保条約にも地位協定にも基地を沖縄に置くとはどこにも書いていないのに、日本全体の75%のアメリカ軍基地が沖縄に集中している理由を学者や軍事専門家に聞いても誰も答えることができなかったとか、小の虫、大の虫論で教授をやっつけたりしているが、それに意義があるのか疑問だ。
沖縄の問題を研究もしていない教授をやっつけてなんになるのだろう。太田氏は「沖縄の問題を自らの問題に引きつけて考えようとしないわけだ」というが、太田氏だって世界中の地域的な問題を自らの問題として考えてはいないだろう。

大田氏は「あなたの住んでいる・・・・・・・・お考えですか」と言って教授をやりこめているが、もし教授が以前から太田氏を知っていたら、太田氏はぐうも出ないほどの反撃を食らっていたかもしれない。なぜならこの会話のやりとりで太田氏自身のとんでもない矛盾を露呈させているのだ。

太田氏は、沖縄という「小の虫」が日本という「大の虫」の平和と安全を守るために犠牲になっていると述べている。ということは沖縄のアメリカ軍基地は日本の平和と安全を守っていると太田氏は認めているわけだ。
しかし、太田氏は「沖縄に基地があるから戦争が始まったら沖縄が真っ先に攻撃される」と主張している。最近もそういうことを発言したことが新聞に書かれていた。太田氏は「沖縄に基地があるから戦争が始まったら沖縄が真っ先に攻撃される」ことを理由に危険なアメリカ軍基地撤去を主張している。つまり、基地は安全を守るものではなく戦争を招くものだと太田氏は主張している。そうであれば、沖縄のアメリカ軍基地は本土の平和と安全を守るものではないということになる。

「小の虫」、「大の虫」論では沖縄のアメリカ軍基地は日本の安全と平和を守っていることを認め、他方で、沖縄にアメリカ軍基地があるから戦争に巻き込まれると180度逆のことを述べている。矛盾していることを発言する太田氏は二枚舌である。
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元沖縄県知事太田昌秀氏批判 13




「こんな沖縄に誰がした」大田昌秀著

四 憲法第九条の成立過程て天皇制存続の経緯――沖縄の「分離」との関係で

沖縄の分離・占領は、日米両政府の合作 71ぺーじ


A、アメリカの沖縄軍事基地の日本からの分離における天災
アメリカ政府が沖縄戦の開始と同時に対日本本土作戦として、地理的条件から軍事基地を強化した。
B、アメリカの沖縄軍事基地の日本からの分離における人災
太平洋戦争がはじまって間もない頃から米国政府内部で周到に計画されていた。

太田氏は、沖縄の日本からの分離のあり方を天災論と人災論に分けて、沖縄の分離は天災ではなく人災であると述べている。Aの天災論の場合は、アメリカ政府はアメリカ軍が南方から攻撃して次第に北上して沖縄に上陸するまで、沖縄を日本本土への攻撃基地とすることを考えていなかったということになる。しかし、戦争は戦略を立ててから行動するものであり、沖縄に上陸するまで沖縄に基地をつくることをアメリカ政府が考えていなかったということはありえない。
アメリカ政府は日本との戦争が始まったときに日本に勝つための戦略を練ったはずである。日本が降伏しなければ最終的には本土上陸までアメリカ政府は考えたであろう。
  


太平洋戦争時代の飛行機の飛行航続距離を考えると、戦闘機や爆撃機による日本本土への攻撃基地とするのは沖縄が一番条件がいいと考えるのは軍事専門家が地図を見ればすぐに分かることだ。アメリカ軍事専門家が沖縄戦が始まってから沖縄を本土攻撃の基地にしようと考えないはずがない。太田氏のいう「天災」はあり得ないことである。
それにしても、太田氏のいうような理由で「天災」と「人災」に分ける必要はあるのだろうか。「太平洋戦争がはじまって間もない頃から米国政府内部で周到に計画されていた」としても沖縄の軍事基地強化は日本本土への攻撃のためであり、「天災」であっても「人災」であっても沖縄の軍事基地強化の理由は同じである。

「自国領土の一部たる沖縄を異国の軍隊に分離支配せしめ」と太田氏は沖縄を日本の一部であることを強調し、沖縄を分離した日本政府を非難している。しかし、太田氏は明治政府が廃藩置県をして沖縄を日本に組み入れられたときには琉球王朝の側に立ち、沖縄が日本の体制に組み入れられることに異を唱え、沖縄の独立性を強調した。
大田氏には一貫したポリシーが見受けられない。

軍事戦略の面から考えれば、アメリカにとって直接日本本国を攻めるのは多くの犠牲を出すから日本本国を攻撃するための基地を造り爆撃機や戦闘機で本土を徹底的に叩く必要がある。アメリカは奄美大島から沖縄、台湾まで基地候補に挙げた結果、沖縄が最適と考えたのだ。そのような戦略は太平洋戦争が始まると同時に計画を練るのは当然である。沖縄の軍事基地化は特別な計画とはいえない。
ところが太田氏はアメリカ政府によって最初から「周到に計画されていた」ことを主張することによって沖縄の軍事基地化をアメリカが自己目的化しているような印象を与えている。

もし、日本が降伏しなかった場合は、爆撃機で九州を叩いたあとに九州に上陸して、沖縄の基地を九州に移す戦略も練っていたはずである。日本が最後まで降伏をしなかった場合はアメリカ軍は東京まで進撃していたはずである。その時には沖縄のアメリカ軍基地よりも本土のアメリカ軍基地を強化していたはずである。日本が最後まで降伏しなかった場合は、アメリカ軍が沖縄に多くの基地を残したとは考えられない。
日本の政権を握っていた日本軍は本土決戦も覚悟していた。天皇陛下の玉音放送がなければ本土決戦をしていたはずである。それにソ連は北側から攻撃をしてきていたし、もし、日本の降伏がもっと遅れていた場合は、北海道はソ連に占領されて、日本はドイツのように二分されていただろう。日本が降伏した後に占領した北方領土をロシアが占領をし続けていることから、北海道がソ連に占領されただろうということは簡単に予想できる。
もし日本がドイツのように二分割されていたら、沖縄は別の歴史を辿っていただろう。

逆に日本がもっと早く降伏していたときにも状況は違う。例えばフィリピンが陥落した時に日本が降伏をすれば、アメリカ軍が沖縄に軍事基地を造る可能性は低かった。日本政府が早めに降伏すれば10万人以上の日本兵が沖縄にやってくることはなかったし、沖縄戦もなかった。アメリカ軍も少数の兵士が沖縄に上陸しただけだっただろう。

太田氏は、アメリカ政府による沖縄の分離・占領が日本政府の独立と引き換えに、日本政府が安易に了承したと非難しているが、敗戦国である日本にとって仕方のない選択ではなかったのか。沖縄の分離を日米両政府の「合作」だというのは強引なこじつけであり、沖縄の分離を日米政府の合作と決めつけ日本政府を非難するのはおかしい。

戦後沖縄を「いびつな歴史」と決め付けるのは納得できない。戦後の沖縄の人々は戦前に比べて一段と自由になった。誰でも知恵があり懸命に働けば儲けることができ、市場も繁盛した。
「貧乏人でも大学に行けるようになった。みんな一生懸命頑張って大学へ行け」と話していた若い先生もいた。その先生は自費で私たちを琉球大学の学園祭につれていったくれた。1958年のことである。

戦前と戦後の沖縄を経験した太田氏なら戦後の沖縄の生活レベルが向上したことは知っているだろう。沖縄の発展には大学は欠かせないといってアメリカ民生府が創設した琉球大学の学長までなった太田氏なのだからアメリカ統治の功罪を知っているはずだ。アメリカ統治の罪だけを述べるのではなく、功罪を明らかにするのが戦前戦後を生きてきた知識人の責務ではないのか。

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元沖縄県知事太田昌秀氏批判 12


「こんな沖縄に誰がした」大田昌秀著

三 昭和天皇と沖縄・・・「天皇メッセージ」の波紋への批判


1、 若き日の昭和天皇はイギリスに留学している。若い頃にイギリスで過ごした天皇は民主主義を理解していたのではないか。
2、 昭和天皇は「天皇機関説」を認めていた。天皇機関説とは、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。簡単に言えば、政治の内容は政府が決め、天皇はそれを容認するということである。
3、 昭和天皇は玉音放送をして太平洋戦争を終わらした。玉音放送がなければ戦争はまだ終わらないでアメリカ軍の九州上陸もあっただろう。アメリカに敗北するということは敗戦国の長である天皇が処刑される可能性は高いわけで、玉音放送をした天皇は死を覚悟したはずである。少なくとも天皇という地位が剥奪される可能性は高く、天皇自身も剥奪されると思っていたはずである。
4、 皇太子(現平成天皇)は民間人と結婚した。孫(現皇太子)も民間人と結婚した。これは昭和天皇の暗黙のメッセージである。
5、 靖国神社に戦犯者が奉られたときから天皇は靖国神社を参拝していない。

以上のことから考えると、昭和天皇は、軍国主義を嫌い、民主主義を理解していて、天皇は政治に直接かかわるべきではないと考えていたと思う。
しかし、太田氏は「天皇メッセージ」なるものを持ち出して、天皇が沖縄の日本からの分離、基地化を天皇自ら進んでアメリカに申し出たというのである。
太田氏は戦後でも天皇には政治的な影響力があり、実際には「天皇メーッセージ」がアメリカの対沖縄政策の決定と結びつける証拠はないにもかかわらず、直接的であれ間接的であれ、沖縄の分離、基地化に少なからずも昭和天皇が影響を与えたのではないかと思い込んでいる。

天皇は「天皇機関説」を認めているし、天皇は政治に口出しするものでないと考えているのに、マッカーサーに沖縄政策について口出しするはずがない。

一方、アメリカ人であるマッカーサーは天皇不要論者であり、天皇そのものの存在を排除しようとしていた人物である。もし天皇が政治に口出ししたらマッカーサーが不快になるだけであっただろう。

天皇は政治に口出しするはずはないし、マッカーサーは天皇の要求は受け付けなかったであろう。

太田氏はもうひとつ大事なことを見逃している。アメリカは軍隊をシビリアンコントールしている国である。沖縄についての政治決定は軍人であるマッカーサーではなくアメリカ政府が決定する。
マッカーサーは朝鮮戦争で38度線に戻るように政府から命令されたのを無視して北朝鮮軍を攻撃したために職を解かれている。そのくらいアメリカはシビリアンコントロールが徹底されていて、軍が政治に口出しするのを嫌っている。

太平洋戦争を終結させたのは昭和天皇である。天皇が戦争を終わらせる決意をしたのはこれ以上日本国民の命が失われるのに耐え切れなかったからである。そんな昭和天皇が自分の地位を守るために「マッカーサーの意向に沿う提案」をするという姑息なことをするはずがない。

昭和天皇が自分の地位を守るために、マッカーサーに尻尾を振るようなことをしたと予想している太田氏の見識を疑う。












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元沖縄県知事太田昌秀批判 11


「こんな沖縄に誰がした」大田昌秀著
アジア諸国に対する怨恨の種まきの地として p34

明治政府は最初に朝鮮半島を植民地にした。最初の戦争はロシアとやっている。次に清と戦争をしている。明治政府が目指したのは大陸進出であり、沖縄を軍事基地化はしていない。
沖縄に日本軍が増強したのは、アメリカ軍が日本本土を攻撃する足がかりを沖縄において、沖縄上陸を目指したからだ。仮定の話だが、もしアメリカ軍が沖縄を飛び越えて九州上陸を目指していたなら、日本は沖縄に大量の日本軍を置かなかったはずだ。
明治政府が沖縄を軍事基地化したという認識は間違っている。

アメリカ軍が南方からフィリピン、台湾へと進軍し、日本国の最南端である沖縄を日本本土攻撃のための基地にしようという目的で上陸したから沖縄戦は起こったことであり、「明治政府が沖縄を軍事化した」からではない。アメリカ軍が沖縄上陸をしなければ沖縄戦の悲劇は起こっていなかった。

太田氏はアジア諸国に脅威や怨恨の種を蒔いたのと沖縄の軍事基地化を関連づけているが、沖縄は軍事基地化はされていなかったし、アジアへの侵略は軍国主義がもたらしたものであり、アジア侵略について重要な問題の日本の帝国主義・軍国主義である。軍国主義は国内においては国民の自由を奪い、人権運動家や共産主義者を迫害した。戦争だけを問題にするのには疑問である。

アメリカ軍はイラクのフセイン独裁国家を倒した。そして、アメリカや国連のバックアップでイラクは民主主義国家に生まれ変わろうとしている。アフガニスタンでもアメリカ軍はイスラム原理主義のタリバン支配から人々を開放した。そして、民主主義国家に生まれ変わらせようとしている。

太田氏には独裁国家体制のもとで自由を奪われ、迫害されている人々の苦しみを救いたいという気持ちが全然ない。アメリカ軍は確かに「他国の何ら罪もない老幼婦女子を殺戮した」だろう。しかし、アメリカ軍は好んで「他国の何ら罪もない老幼婦女子を殺戮した」のではない。アメリカの目的は独裁国家を倒して民主主義国家をつくるのが目的であり、そのためのイラク戦争であり、アフガン戦争であったのだ。

アメリカ軍基地で働いている人たちに向かって「人殺しの手伝いしている」という中傷はひどいものである。

太田氏は、戦争だけを非難し、独裁国家、軍事独裁国家の体制が市民の自由を奪い、弾圧・迫害している

ことは問題にしない。アメリカが行う戦争だけを単純に非難するだけである。
太田氏は「沖縄の人々にとって心に深い傷を負ってしまう」というが、そんなことはない。それは太田氏のひとりよがりである。

アメリカ軍は民主主義国家になったイラクから軍隊を引き上げる。アフガンから引き上げるためにアフガンの民主主義化を進めている。チュニジア、エジプトで起きた市民革命を歓迎し応援しているのはアメリカである。

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元沖縄県知事太田昌秀批判 10


裁判権の有様に見る国家権力の思惑
1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、津田に対する死刑を求め、司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、津田を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。

このように明治政府は法治主義と司法権の独立を保障する近代国家をめざしていた。いわゆる、全国をひとつの法で統一する方向に政治を進めたのだ。

廃藩置県というのは近代国家を目指して、独立した法支配をしている藩を廃して県を置いて日本をひとつの法体制にするということである。
明治政府から琉球藩への命令書は、事件が琉球藩同士であろうが他府県人との間であろうが全て内務省出張所に訴えろとしている。琉球藩の民を他の県民と区別することなく日本国民として裁くということであり、国民は平等に扱うことを表している。
ところが太田氏は廃藩置県をしたのに憲法上の基本的人権を認めないのだと明治政府の命令書を説明している。そして、命令書は「法の下での平等」を保障しなくて、他府県とは差別して処遇したと命令書のないようを逆に理解している。
命令書からは、日本国民であるならどこの県の人間であろうと同じ裁判所で裁くということであって、法の下の平等をうたっているのであって、琉球王府のほうが全国統一の法にしたがうのを嫌っているのだ。

太田氏は日本政府のやり方を植民地政策であると理解しているが、明治政府は沖縄を日本国のひとつとして認めているのであって、沖縄を植民地としてあつかってはいない。太田氏の解釈はおかしい。

琉球王府は王府が薩摩支配時代のように沖縄を支配しようとして、それを許さない明治政府と対立しているのであり、太田市が明治政府を非難するということは、太田氏は琉球王府の立場に立っているからであり、琉球王府は独立国であると思っているから明治政府の政策が「植民地政策」に見えるのだ。


しかし、太田氏が「憲法上の基本的人権を認めない」とか「方の下での平等を保障せず」と書いているのにはあきれる。
その時代は憲法はまだないし、基本的人権というのもないのだ。
太田氏の時代錯誤はあまりにもはなはだしい。

琉球藩の池城親方は、琉球藩は他府県とは違うと主張している。池城親方は太田氏の理解とは逆の主張をしているのだ。琉球藩が裁判をするということは琉球王朝のやり方で裁判をするということである。琉球王朝は王が法であり絶対権力者ある。琉球王朝は法治国家ではないし、身分差別がある社会であり、武士には甘く農民には厳しい差別裁判をする。それは明治政府の目指していた法治国家とは違う体制である。
近代国家を目指し、法治国家を目指している明治政府が琉球藩に裁判権を与えるはずがながなかった。

ところが太田氏は琉球藩に裁判権を与えなかったことに反発している。琉球藩は琉球王国のままの体制であり、身分制度がある社会である。明治政府は江戸幕府を倒し、武士の特権を廃して四民平等の国家である。太田氏は四民平等の国家より王制国家である琉球藩を支持しているのだ。つまり、太田市は民主主義を否定しているのだ。

太田氏は「裁判権の所在をめぐる日本政府と琉球藩との以上のような対応を見ていると、戦後のアメリカ軍政も、明治政府の対琉球政策を踏襲したのではないか、という気さえする。」と述べている。

アメリカ軍政府が沖縄を統治していたときと、明治政府の琉球藩に対する対応の仕方は同じではない。全然違う。明治政府の場合は琉球藩を沖縄県にして日本の一部にしようとしたのであり、琉球藩の独立性をいっさい認めなかった。だから日本の法律を適用した。
しかし、アメリカ軍政府が統治していたときは、沖縄はアメリカの一部ではなく、半独立国として位置づけた。
だから裁判権は、沖縄人同士の争いとアメリカ人に対して犯罪を犯した沖縄人は琉球政府の裁判所が裁いた。そして、アメリカ人同士と沖縄人に対して犯罪を犯したアメリカ人はアメリカ軍が裁いた。
琉球藩が要求した沖縄人同士の事件は琉球藩で裁かせてくれという要求を明治政府は認めなかったがアメリカ軍は認めたのだ。

コザ騒動で沖縄人がアメリカ人の何十台もの自動車を燃やしたが、捜査から検挙、裁判まで琉球政府の警察と裁判所が取り扱った。アメリカ軍は一切介入しなかったと当時の検事が証言している。

明治政府の時代とアメリカ軍統治時代は背景も内容も違うのに明治政府とアメリカ軍を同一視する大田氏はおかしい。

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元沖縄県知事太田氏批判

こんな沖縄に誰がした
1、 沖縄軍事基地強化の端緒―明治維新と沖縄

日本軍分遣隊の派遣と琉球王府側の抵抗

これは1875年(明治8年)に明治政府が琉球藩に分遣隊を設置した時の琉球藩と明治政府のやりとりを問題にしている。太田氏は1875年(明治8年)の日本の政治状況がどのようなものであり、明治政府はどこに向かって動いていたのかを考慮にいれていない。
大日本帝国憲法が発布されたのは1889年(明治22年)である。1875年(明治8年)は日本が江戸時代の封建社会から近代国家としての中央集権国家を目指している途中であった。

明治政府の動向を参考にしながら、太田氏の理論を批判していく。
明治維新から明治7年までの歴史を記録した。

慶応3年10月14日1867年11月9日大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。
新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。
明治元年3月14日(1868年4月6日)、五箇条の御誓文の発布。
同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。

明治2年3月(1869年4月)、議事体裁取調所による調査を経て、新たに公議所が設置された。

明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。

明治4年(1871年)には士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民もひとしく公務に就任できることとした。

明治5年(1872年)には徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。

1874年(明治7年)、前年のいわゆる明治六年の政変(征韓論の争議)に敗れて下野した副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平等が連署して、民撰議院設立建白書を左院に提出した。
薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。
この建白書では、官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張された。これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。
このころには各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。

以上が明治政府のおおまかなながれである。
明治政府はすでに、廃藩置県、氏族の特権の廃止、徴兵制度の採用をしていたのだ。明治政府が目指しているのは近代的な中央集権国家であった。全国の藩を廃して県にする方針である明治政府は琉球が王府として存続すること認めていなかった。だから。琉球王府が王府として主張することが認められるはずはなかったのだ。

大田氏は、明治政府による分遣隊の沖縄駐留について「明治政府も薩摩が琉球の反乱を懸念して武器の保有を厳しく取り締まったのと同様に琉球藩内の安全を守るという口実で、逆に沖縄の人々を鎮撫するために軍隊を沖縄に常駐せしめようと図った」と理解している。しかし、明治政府が琉球の反乱を恐れていたとは考えにくい。明治政府は幕末から戦争の連続であったし、不平士族による反乱は頻発したがことごとく制圧している。明治政府が琉球王府を武力で制圧するのは赤子の手をひねるより簡単であった。武器の保有を厳しく取り締まったのは1876年(明治9年)に「廃刀令」を出し、全国で武器の所有を厳しく取り締まったのであり、琉球王府だけに要求したものではない。

太田氏は「半世紀もの長期にわたって国王として在位した尚真王が(在位1477~1526年)現行の日本国憲法を先取りする形で、琉球国内の一切の武器を廃棄して平和国家を志向した歴史的伝統があったからだ」となんと日本で戦国時代が始まった時代の頃の大昔の琉球王朝を例に出してきた。
琉球も三山が統一されるまでは戦争をしていた。それに八重山、宮古は琉球王朝が武力で制圧した。そして、奄美大島も武力で支配している。戦争がなくなったのは沖縄本島を中心にした島々をほぼ制圧したからである。琉球王朝に中国や九州を武力制圧する力がなかったからそれ以上の戦争をしなかったのだ。
太田氏は「琉球国内の一切の武器を廃棄し」たと述べているが、琉球王朝の武士以外の武器を廃棄したのであって琉球王朝が武器を廃棄したのではない。
平和が長く続いたのは琉球王朝だけではない。徳川幕府が支配した時代も長い間戦争もなく平和であったのだ。結果的に平和であったのを平和主義だと決め付けるのは間違っている。1609年に島津が琉球に侵攻した時は琉球王朝は島津軍と戦争をしいる。だから太田氏のいう「琉球国内の一切の武器を廃棄」したというのは事実ではない。琉球王朝が平和主義だったというのはまやかしだ。

明治政府と琉球王朝の対立は、琉球王朝は琉球王朝をなんとか存続しようとし、明治政府は廃藩置県を進めようとしている立場の違いから起こっていることである。
大田氏が琉球王朝の主張に賛成し、明治政府のやり方に反対するということは、太田氏は琉球王朝による沖縄の支配を認めるということである。つまり大田氏は武士の支配を認め身分制度を認めるということだ。

松田処分官は「琉球藩王家の体制、すなわち琉球の国体に関する事柄については、王家及び家臣が慎重に衆議をつくすため多少の日を費やするのも分かるが、分営設置の件は、王家が一々可否を論ずべき問題ではなく、王府は、ただひたすらに命令を遵守しさえすればよいにもかかわらず家臣たちがいたずらに時日を空費するのは、はなはだ不条理」と突き放している。廃藩置県をした明治政府にとって琉球王朝はすでに政治に必要のない存在だったのだ。その現実を受け入れることができない琉球王朝とのやり取りが展開されているだけだ。

太田氏は琉球王朝が善で明治政府が悪であるのことく書いているが、これは古い封建社会の支配者である琉球王朝と近代国家を目指している明治政府との対立の構図であり、封建国家である琉球王朝が崩壊していく過程として考えるべきだ。

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革新政治に捻じ曲げられた「命どぅ宝」 3


太田氏の琉球の歴史ついての説明が事実とは違うということを歴史専門家は説明しています。
「目からウロコの琉球・沖縄史」はネットで沖縄の歴史について広い範囲で解説しているサイトです。掲載者のペンネームはとらひこといい、「目からウロコの琉球・沖縄史」は人気を得て、本にもなりました。上里 隆史はテレビ出演したり講演したりで有名人になりました。
興味がある人は下の「目からウロコの琉球・沖縄史」をクリックしたらブログに行きます。
目からウロコの琉球・沖縄史

2007年11月14日 (水)のサイトに太田氏の説明が史実ではないことを証明しているので引用しました。
武器のない国琉球?(1)
琉球といえば、「武器のない国」としてイメージされる場合が多いと思います。平和を希求する尚真王が武器を捨て世界にさきがけて“非武装国家宣言”をしたとか、ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いたというエピソードも、これらを根拠づけるものとしてよく引き合いに出されます。

しかし歴史を詳しく調べていくと、事実は全くちがうことがわかります。まず尚真王は武器も廃棄していないし、“非武装国家宣言”も出していません。刀狩りの根拠とされた「百浦添欄干之銘」(1509年)という史料にはこう書かれています。

「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」

刀狩り説は、これを「武器をかき集めて倉庫に積み封印した」と解釈していました。しかしこの文を現代風に訳すると、何と「(尚真王は)刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない(他国より金と軍備を持っている)」という意味になるのです。尚真王は武器を捨てるどころか、軍備を強化しているのです。

実際に1500年の王府軍による八重山征服戦争では軍艦100隻と3000人の兵が動員され、1609年の薩摩島津軍の侵攻に対しては、琉球は4000人の軍隊で迎え撃ち、最新兵器の大砲でいったんは島津軍を阻止しています。

尚真王が軍備を廃止した事実はなく、この時期にそれまでの按司のよせ集めだった軍団から、王府指揮下の統一的な「琉球王国軍」が完成したというのが真実なのです。再度強調しますと、琉球は刀狩りやそれに関連するような政策は一切とっていません。

古琉球の歌謡集『おもろさうし』には数々の戦争をうたったオモロ(神歌)が収録されています。そのなかでは、琉球王国の軍隊のことを「しよりおやいくさ(首里親軍)」と呼んでいます。聞得大君に関するオモロを集めた巻では、全41首のうち、実に4分の1にあたる11首が戦争に関するオモロです。

古琉球時代では武装した神女(ノロ)が霊的なパワー(セヂといいます)を兵士たちに与え、戦争にのぞんでいた様子をうかがうことができます。沖縄には「イナグヤ戦ヌサチバイ(女は戦のさきがけ)」という言葉も残っています。当時は霊的なパワーも実際の戦闘力と同じように考えられていたので、兵士たちが戦う前には、両軍の神女たちがお互いの霊力をぶつけ合う合戦が行われていたようです(映画スターウォーズの“フォース”で戦う感じでしょうか)。

当時の琉球の人々はこの霊力(セヂ)の存在を本気で信じていたようです。島津軍が琉球侵攻の準備を着々と進めていた時期、琉球に渡航した中国の使者は、王府の高官たちに「日本が攻めてきそうだ。ちゃんと備えているのか」とたずねたところ、高官たちは「大丈夫です。我々には琉球の神がついております!」と自信満々に答えて使者を呆れさせたことがありました。

琉球の高官たちは、強力なフォースを持つ聞得大君をはじめとした神女たちが電撃ビームで島津軍の兵士たちを次々と倒していく光景を想像していたかのかもしれませんね。実際には戦国乱世をくぐりぬけてきた島津軍には全く通用しませんでしたが…

武器のない国琉球?(2)
それでは近世(江戸時代)の琉球はナポレオンが聞いたように「武器のない国」だったのでしょうか。答えは「ノー」です。

たしかに薩摩に征服されてからは、かつてのように琉球王府が自在に動かせるような軍隊はなくなったようです。そのかわり琉球の防衛は、幕藩制国家のなかの薩摩藩が担当することになりました(「琉球押えの役」といいます)。

薩摩藩は琉球に軍隊を常駐させることはありませんでしたが、有事の際には薩摩からただちに武装した兵士たちが派遣されました。つまり琉球は近世日本の安全保障の傘に入っていたのです。琉球は薩摩藩の支配下に入っていたので、当たり前といえば当たり前です。

また琉球の貿易船が出港する際には、薩摩藩から貸与された鉄砲や大砲を装備して海賊の襲撃に備えていました。琉球国内では鉄砲以外の武器の個人所有は禁止されていませんでした。その証拠に、戦前には士族の所蔵していた武器の展覧会が開かれたこともあります。

それに注意しなくてはいけない点がひとつ。近世の琉球はたしかに大きな戦争もなく「平和」な状況が何百年も続きましたが、それは琉球だけにかぎったことではありません。江戸時代の日本は「天下泰平」といわれた、かつてないほど平和だった時代。もともと軍人であった武士も、戦いより学問や礼儀を重んじる官僚となっていきます。さらに周辺諸国でも大きな戦争はなく、それ以前の時代では考えられないほど東アジア世界全体が「平和社会」となっていた時代だったのです。琉球だけが平和だったのではありません。

さらにナポレオンが聞いた話は、琉球を訪れた欧米人バジル・ホールの体験談であって、彼は琉球社会のほんの一部分を見て判断していたにすぎません。ホールはさらに「琉球には貨幣もない」とまで言い切っています(もちろんそんなことはありません)。

琉球の「武器のない国」というイメージはどのように作られ、広がっていったのでしょうか。それは琉球を訪れた欧米人の体験談が、19世紀アメリカの平和主義運動のなかで利用されていった経緯があります。好戦的なアメリカ社会に対し、平和郷のモデルとして自称琉球人のリリアン・チンなる架空の人物が批判するという書簡がアメリカ平和団体によって出版され、「琉球=平和郷」というイメージが作られました。このアメリカ平和主義運動で生まれた琉球平和イメージ、史料の解釈の読み違いから出た非武装説に加え、さらに戦後の日本で流行した「非武装中立論」や「絶対平和主義」が強く影響して、今日の「武器のない国琉球」のイメージが形作られていったのです。

そもそも琉球史の戦争をめぐる問題の核心は、武器があったかどうかという単純な話ではなく、琉球という国家が自らの政治的意志を達成するために、暴力(軍事力)を行使する組織的な集団を持っていたかどうかを探ることです。武器はあくまでもその組織(軍隊)が目的を達成するための道具にすぎません。これまで「軍隊とは何か、戦争とは何か」という問題が非常にあやふやなまま議論されてきたのではないでしょうか。

このような僕の意見に対して「事実そのものにこだわっていて物事の片面しか見ていない。この言説を生んだ沖縄の平和を求める心こそが大事なのだ」という批判がありましたが、僕はそうは思いません。沖縄の平和を求める心が大切なのは同意しますが、これまではそればかりを強調して、歴史の実態を見てこなかった(もしくは知りながら見ようとしなかった)のが問題だったと思います。つまり物事の片面しか見てこなかったのです。

医者が患者を治すため病気の実態を研究するように、平和を求めるのは何も「戦場」の悲惨さを訴えるだけではないと思います。病気の恐ろしさと健康を求める心を訴えることも大事でしょうが、病気(軍事・戦争)の実態を探ること、それを僕は大事にしたいし、“治療”にもつながるものだと思っています。 

参考文献:照屋善彦「『リリアン=チン書簡』再考」(『琉大史学』12号)


「武器のない国琉球?」で述べられていることは「目からウロコの琉球・沖縄」を掲載している上里氏だけの見解ではなく、参考文献があるようにむしろ歴史学者には一般的な見解であると理解できる。
太田氏の見解というのは歴史的根拠はあいまいで巷の噂話程度のものであるということである。学者であり、琉球大学の学長であった太田氏が歴史学者にとっては通説となっている琉球史を捻じ曲げているということは遺憾なことである。

琉球の歴史に伝統的な平和文化はなかったし、「命どぅ宝」の格言も太田氏のいう戦争を忌み嫌う理由から生まれてきたのではないことは明らかである。

太田氏は「命どぅ宝」は「物食ゆすどぅ我が主」とセットになって琉球王朝時代から伝えられてきたことを本当は知っているはずである。そして、「命どぅ宝」の昔から伝えられてきた本当の意味を戦後生まれの私でさえ知っているのだから太田氏は当然知っているはずである。知っていながら、「命どぅ宝」の本当の意味を捻じ曲げて反戦・平和の思想から生まれた言葉として説明するのは政治に利用する目的があるからである。

戦後生まれの私は小学生、中学生、高校生の時に先生から「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」についての説明を何度も聞いた。ある先生は「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は琉球の民の座右の銘であり、私たち沖縄に生まれた者は胸に深く刻み込むべきであるとまで言った。そのくらい「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は重たい格言であり有名な格言であった。

「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は琉球の民の生きるだけで精一杯であった貧困の中の生きるための処世術としての格言であると私は先生から聞いた。

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革新政治に捻じ曲げられた「命どぅ宝」 2


太田氏は、かつての琉球の人々は「命どぅ宝」を合言葉にして友好的共生を心掛けてきたと述べているが、かっての琉球にそのような時代があったかを検討してみる。

琉球王朝時代を大別すると薩摩藩に支配された琉球王朝時代とそれ以前の尚家が支配していた琉球王朝時代に大別される。
琉球は中山、南山、北山に分かれていたのを尚巴志王が三山を統一する。尚巴志王の年賦をウィキペティアから引用する。


尚 巴志王(しょう はしおう、1372年 - 1439年6月1日、在位1421年 - 1439年)は、尚思紹王の子で、琉球王国・第一尚氏王統第2代目の国王。初代琉球国王。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。

父・思紹、母・美里子の娘の長男として生まれる。父の思紹は、「鮫川大主(さめかわうふぬし)」ともいわれ、伊平屋島から馬天港へ渡ってきた。

21歳のとき、父の後を継いで南山の佐敷按司となる。

1406年、中山王武寧を攻撃して察度王朝を滅亡させ、首里(現在の那覇市)を首都とした。また父・尚思紹を中山王に即位させた。

1416年、北山国を討伐し、次男尚忠を北山監守として北部の抑えにした。

1421年、尚思紹の死去により中山王に即位。

1429年、南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。

在位中は首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城とした。あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。また那覇港の整備を進め、中国をはじめ日本、朝鮮、南方諸国等、海外諸国との交易を盛んに行い、琉球の繁栄の基礎をもたらした。

このように尚巴志は武力で三山を統一したのであり、太田氏のいうような話し合いで物事を決める時代ではなかった。尚巴志が三山を統一した以後はどうだっただろうか。

オヤケアカハチの乱は、1500年に琉球王国石垣島大浜(現在の石垣市大浜)の豪族・オヤケアカハチが蜂起した事件で、尚真王が派遣した征討軍3,000人の軍勢によって鎮圧、首謀者のオヤケアカハチは討ち取られた。


1458年には護佐丸・阿麻和利の乱 が起こっている。

 計らずも王位継承者となり首里にやってきた尚泰久(しょう・たいきゅう)は、早速首里城の再建にとりかかりました。財政を担当したのは尚泰久のブレーンである金丸(かなまる)でした。また、仏教の発展にも力を注ぎ、このころ万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘を作らせています。
 王国の再建に取り組む尚泰久の耳に、不穏な動きがあるとの情報が入ります。中城城(なかぐすくじょう)の城主護佐丸(ごさまる)が謀反を企てているというのです。情報をもたらしたのは勝連城主阿麻和利(あまわり)でした。これは琉球王国にとっても尚泰久にとっても大事件でした。
 というのも、護佐丸は父尚巴志が北山攻略の際に一軍を率いて共に戦った功労者であり、琉球王国の用心棒とも言うべき最高実力者だったのです。しかも座喜味城主であった護佐丸を、北部勢力の脅威から王国を守るためにわざわざ中城城に居城させたのは首里王府の意向でした。護佐丸は王府に忠誠を尽くす最も信頼できる忠臣の鏡だったのです。
 一方の阿麻和利は勝連城を拠点とする按司で、貿易によって勝連を繁栄させ日増しに勢力を伸ばしてきた首里王府が最も警戒する要注意人物です。実は護佐丸を防衛線である中城城に配置したのも、阿麻和利の脅威を意識してのことでした。その阿麻和利の情報を何故尚泰久が信じたのか?そこには複雑な事情がありました。
 度重なる政権交代によって首里王府の権力は次第に弱まり、地方按司への統率力は衰えてゆきました。そして、権力基盤の衰退は志魯・布里の乱で決定的となりました。その間に地方の按司は力を蓄え、ついには護佐丸や阿麻和利のように王府にとって無視できない存在にまで成長したのです。そこで首里王府はこれらの有力按司を抑えるために彼らと婚姻関係を結ぶことで解決を図りました。尚泰久の妻は護佐丸の娘であり、阿麻和利の妻は尚泰久の娘でした。つまり、尚泰久にとって護佐丸は義父、阿麻和利は娘婿になります。
 ですから、忠臣護佐丸は安心で阿麻和利は危険、という単純な構図ではなかったのです。首里王府にとってはどちらも勢力を拡大してきた警戒すべき相手だったのかもしれません。しかもこの情報を確かめるために遣わされた王府の密偵は、兵馬の訓練をする中城城の様子を目撃します。
 そして尚泰久は護佐丸を討伐する決断をします。王府軍を任されたのは誰あろう阿麻和利でした。阿麻和利は王府の大軍を率いて中城城に向かいました。謀反の疑いをかけられた護佐丸は真意を試されることになりました。はたして護佐丸は王府軍に立ち向かうことなく無抵抗で落城、一族と共に自刃しました。尚巴志と共に琉球統一を成し遂げ、最後まで首里王府に反旗を翻さなかった護佐丸は、今も忠臣として語り継がれています。
 王府の力を借りて見事宿敵護佐丸を亡き者にした阿麻和利の次のターゲットは首里でした。計画は阿麻和利の目論見どおり進んでいました。しかし、ここで一つの誤算が生まれます。もともと政略結婚で嫁いできた尚泰久の娘百度踏揚(ももとふみあがり)と付き人の大城賢雄(うふぐすくけんゆう)がこの策略に気付き、勝連城を抜け出したのです。行き先はもちろん父尚泰久のいる首里城です。
 これを知った阿麻和利は策略の発覚を悟り、急遽兵を率いて首里へと向かいます。一足先に首里に到着した百度踏揚たちの報告で王府はあわてて防衛の準備をし、阿麻和利軍に立ち向かいます。最初は防戦を強いられた王府軍でしたが、次第に劣勢を挽回しました。首里城を攻め落とすことをあきらめた阿麻和利は勝連城にもどり篭城します。
 首里王府は体制を立て直し、阿麻和利討伐軍を勝連城に向かわせます。軍を率いたのは大城賢雄でした。勝連城は勝連半島の根元に位置する小高い山の頂上にそびえる難攻不落の城でしたが、奇策を用いて大城賢雄が勝利し阿麻和利と勝連城は滅亡しました。1458年のことでした。
 こうして首里王府は琉球王国最大の危機を脱しました。王府を脅かす二大勢力を一気に排除することに成功したのです。これら一連の事件が偶然だったのか、あるいは首里王府の計略だったのか、その真相を知る者は誰もいません。
(ネットサイト「沖縄の世界遺産」から引用。)

薩摩支配以前の琉球は武力で覇を競い、武力で勝る者ものが国を制したのだ。このあと琉球王朝は武力で奄美も支配した。薩摩藩に支配される前の琉球王朝時代も武力で支配する社会であり、太田氏のいう「命どぅ宝」の精神とはほど遠い時代だったのである。


1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させ、琉球の石高12万石を加えられた。奄美群島は琉球と分離され、薩摩藩が直接支配した。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした中国との貿易が利益をもたらした。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされた。(ウィキペティアから引用)

薩摩に支配された後の琉球王朝は当然のことながら武器を持つことを禁じられ戦争をする能力を失う。琉球王朝が自ら平和主義になったわけではない。薩摩藩に上納したのは中国から輸入したものだけではない。琉球絣や陶器等の琉球の名産も上納した。琉球王朝が薩摩藩に支配されるようになると、琉球王朝と薩摩藩の二重の搾取により琉球の民はますます苦しい生活を強いられた。

以上のように、琉球王朝時代には薩摩藩支配の以前も以後も、太田氏のいう、「いかなる武器も持たず。戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに解決する伝統的な平和文化を培ってきた」ことはなかった。

封建時代は武力を用いた戦争で領土を奪い合いをする武力支配の時代であり、太田氏のいう平和主義であるはずがない。

このように、「命どぅ宝」の格言が平和主義の象徴として語られたことは琉球王朝時代から戦前までなかったことが明らかになった。

「命どぅ宝」が反戦・平和の格言として流布されるようになった発端は、1968年11月に嘉手納基地で発生したB52墜落事故をきっかけに結成された「命を守る県民共闘会議」のキャッチフレーズとして使われるようになったてからである。

はっきりとは覚えていないが、「命を守る県民共闘会議」による与儀公園の県民大会で瀬長亀次郎氏の演説で聞いた記憶がある。その時が、「命どぅ宝」が反戦平和のキャッチフレーズとして使われた最初であったと思う。若い私は反戦平和のキャッチフレーズとして「命どぅ宝」が使われたことに愕然した。

「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は私にとっては反戦・平和よりももっと深くて重い格言だったからである。
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