唯一慰安婦だけは性奴隷ではなかった



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唯一慰安婦だけは性奴隷ではなかった
 韓国左翼が主張する「慰安婦は性奴隷である」を否定し性奴隷ではなかったことを証明する目的で書いている。慰安婦=性奴隷を論破するには明治以前の遊女が性奴隷であった歴史的事実について説明しなければならないと考えている。そして、遊女だけでなく江戸時代=封建社会には奴隷に近い人たちがいて、それが明治以後にも居たことを指摘する必要がある。
「慰安婦だけは性奴隷ではなかった」を証明するには江戸から明治の性奴隷であった遊女の解明が必要である。

チャンネル桜沖縄で金城テルさんと私がキャスターを務めた10月10日に私の「これだけは言いたい」コーナーで、江戸時代の芸妓や遊女は性奴隷であったことを話した。そして、性奴隷とは売買されたこと、報酬がないこと。職業選択の自由がないことであり、芸妓も遊女と同じ性奴隷であったことを話した。そして、沖縄では吉屋チルーは琉歌の天才として名をはせたが彼女もまた遊郭の性奴隷であり十八歳の時に売春を強要された。しかし、彼女は性奴隷になることを拒み自殺したことを話した。琉歌の天才チルーもまた性奴隷であり、自由になるには死ぬしかなかったのだ。
 チャンネル桜で沖縄は明治になっても少年は糸満売り」少女は「ジュリ売り」があったことを話した。韓国も沖縄のように売買があり、妓生のような性奴隷が居たことを話した。戦後の有名な民謡歌手糸数カメも八歳の時にジュリ売りされたことを話した。
するとチャンネル桜が終わった後に、なんと金城テルさんは糸数カメを知っていて彼女の演武も見たと言ったのだ。これには驚いた。それだけではなかった。テルさんは奄美大島にも辻があったというのである。また、テルさんが診療所で看護師見習いとして働いていた時に11歳くらいの少女が家事手伝いのために母親に連れてこられた。その時院長が父親にお金を渡すのを見たというのだ。父親は院長に何度もお辞儀をした後に少女を残して去っていった。少女の名前はイヌコといった。イヌコとは犬の子というイメージであるし、まさかイヌコではないだろうと思ってテルさんに聞いたがテルさんは少女の名前をイヌコであり、はっきり覚えていると言った。
テルさんは少女の名前を言った後に急に笑い出した。笑いながらイヌコのエピソードを話した。
ある日、ヘビースモーカーの院長がタバコを吸いたくなってイヌコに、「マッチ持ってきてくれ」といった。するとイヌコは風呂を沸かしていたかまどから燃えている薪を取り出し院長のところに持ってきたという。
マッチを持ってきてと言われたのにイヌコは燃えている薪を持ってきたのである。イヌコが薪を持ってきた情景を思い出してテルさんは笑った。テルさんの説明では大島の地方には「マッチ」に近い発音で「火」をさす方言があり、「マッチ」という共通語を知らないイヌコは院長が「マッチを持ってきて」を「火を持ってきて」と勘違いして燃えた薪を持ってきたのだろうとテルさんは言った。

イヌコは売られたのである。「売られた」という表現に反発する人は多いと思うが、減退の民主主義の視点から見ればイフコは「売られた」のである。お手伝いとして働くのはイヌコである。だから報酬はイヌコがもらうべきであるがイヌコの報酬は父親がもらった。親がイヌコを売ったという解釈ができる。
貧しい家のイヌコが手伝いとして診療所で働くことは家にとっては口減らしができるから助かる。口減らしだけでなくお金も入る。イヌコはイヌコで貧しい家よりもおいしい食事ができる。親にとってもイヌコにとってもありがたいことである。しかし、現代は働く人に報酬を払う。もし、イヌコのように診療所の家事手伝いをしたなら報酬はイヌコがもらうのが現代社会である。現代は11歳の子供がイヌコのように働くことは禁じている。義務教育があるからだ。現代は中学を卒業してから働くことになる。戦前の義務教育は小学校までだから小学校を卒業すればイヌコのように働くことはできた。現代は本人に報酬が払われるがイヌコの場合は親に払われた。それから見ればイヌコは親が院長に売ったことになる。イヌコの人権はない。

テルさんはイヌコの話をした後にテルさんが小学一年生の時に赤ちゃんをおんぶして通う少女が二人いたことも話した。赤ちゃんが彼女たちの弟妹であったなら私に話すことはなかっただろう。つまり赤ちゃんは彼女たちの弟妹ではなかった。二人はイヌコのように遠い村から子守としてやってきたのだ。
子守の話を聞いてすぐに頭に浮かんだのが「五木の子守歌」と「叱られて」だった。「五木の子守歌」は小路もの頃によく歌っていたが中学生の頃になると子守歌にしてはおかしいなと思いながら歌った。有名な子守歌として「シューベルトの子もり歌」がある。

ねむれねむれ 母の胸(むね)に
ねむれねむれ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽しゆめ

 子守歌とは赤ちゃんを心地よく眠らす歌と思っていた゜が五木の子守歌」は違っていた。違いに気づいたのは高校生の時である。私が衝撃を受けたのは四番であった。
四おどんがうっ死んだら   
道端ちゃいけろ   
通る人ごち 花あぎゅう
 私が死んだら墓ではなく道端にいけろというのである。そしたら、道を通る人が花を活けてくれるというのである。子守りなのだから自分の弟妹を子守りしていると思うのが普通である。それなのになぜ家族の墓ではなく道端にいけろというのか。理解できなかった。道端にいけろという理由を三番で歌っている。
三おどんがうっ死んだちゅうて   
誰が泣いてくりょか   
うらの松山 蝉が鳴く
私が死んだら松山の蝉だけが泣いてくれるというのである。我が子の死を悲しまない親はいない。子守の少女が死ねば親は悲しむはずだ。それなのに少女は親ではなく蝉が泣くというのである。考えられないことである。被害妄想の強い少女なのかもしれないと思ったこともある。貧しい農村の少女が裕福な家に子守として預けられた歴史があることを知って初めて子守の少女がその家の娘ではなく遠く離れた貧しい村の少女であることが分かった。そして、一番の歌の意味を理解した。
一おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと 
盆が早よ来るりゃ 早よもどる
私はお盆で子守りの仕事が切れる。お盆から先はこの家に私は居ない。親の所に帰れる。
 一日も早く親の待つ家に帰りたい少女の気持ちをうたったのが一番である。しかし、中高生の頃の私ではおどまの意味が分からないし、盆ぎりの意味も分からなかった。盆から先きゃおらんとの意味も分からなかった。
 「五木の子守歌」は貧しい農家の少女が裕福な家の子守となり、子守の孤独の気持ちをうたった歌であった。子守奉公に出された娘たちが、背中の赤ん坊をあやしながらわが身を嘆いて歌った子守唄なのである。「竹田の子守歌」も同じである。

 「叱られて」は1920年の作品である。「叱られて」も子守りの歌である。子守の歌であることが分かるのが二番である。
二叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと

一番の「この子は坊やを ねんねしな」で子守であることがわかる。二番で遠い村から来たことがわかる。
『叱られて』は作詞家清水かつらが21歳頃の作品である。幼い頃に母と生き別れた悲しみを、親元を離れ奉公へ出された子供の心境と重ね合わせた詩だと言われている。「口には出さねど 眼になみだ」は継母に遠慮して反抗することができなかった清水かつらが子守奉公に行く前に、「主人のいうことを聞きなさい。反抗してはいけない」と親にしつけられた子守と重ね合わせたのだろう。
「赤とんぼ」は子守りをされた子の歌である。一、三番でそのことがわかる。
一、夕焼、小焼の、あかとんぼ、
負われて見たのは、いつの日か。

子守におんぶされて赤とんぼを見たのはいつのことだろう。
三、十五で、姐(ねえ)やは、嫁にゆき、
お里の、たよりも、たえはてた。

 子守を終えて自分の里に帰った子守の姐やは十五歳で嫁に行った。嫁に行く前にはあった便りは来なくなった。

「姐や」は自分の姉ではなく、この家で子守奉公していた女中のことである。「お里のたより」は、子守をしていた姐やの故郷からこの家に送られてくる便り。

封建社会の時代は身分制度があり、身分差で裕福と貧困が決まっていた。子守り、女中は貧しい農家から身分のある裕福な家に奉公した。奉公した子守の苦しさ、孤独を歌ったのが五木の子守歌である。

おどま勧進勧進
あん人達ゃ よか衆
よかしゃよか帯 よか着物

「勧進」とは小作人のことである。あん人達とは地主層のこと。この歌では勧進を「物乞い」「乞食」という意味で用いられている。歌の意味は「私は乞食のようなものだ。(それにくらべて)あの人たちは良か衆(お金持ち、旦那衆)で、良い帯を締めて立派な着物を着ている」となる。
小作人たちは田畑はもちろん、家屋敷から農具に至るまで地主階層から借り受けて生計を立てなくてはならなかった。娘たちも10歳になると、地主の家や他村へ子守奉公に出された。五木の子守唄はこの悲哀を歌ったものである。

文化、政治、経済は明治時代になって近代化が進んでいったが、一方で江戸時代のシステムも根強く続いた。子守、女中奉公のシステムは明治以降も続いた。そして、遊郭のシステムは江戸時代のままだった。貧しい村の少女を買い、遊郭で芸、教養を教え、18歳になるとお客の相手をさせた。
村で少女を買う男を女衒と言った。遊女の居る家を妓楼と言い、主人を楼主といった。遊郭は政府によって場所が決められた。遊郭の収益は莫大であり一流企業と同じ売り上げがあり政府に払う税金も莫大であった。 
遊郭は次第に三つに分業化していく。芸に優れた芸妓は踊りや歌などで身分の高い客や金持ちの相手をした。高度な芸を身に着けることができたのはわずかである。芸妓は教養もあり、スポンサーは高額を払って見受けし、妾にするだけでなく妻にするスポンサーも多かった。
明治時代には芸妓の時代と言われた。八歳の頃から芸だけでなく、身分の高い人と接客するための教育も教育された。だから、芸妓は美貌で社交上手な女性として多くの元勲に愛され、正妻となった者も少なくなかった。グーグルで調べて驚いた。なんと明治時代の有名な政治家が芸妓を妻にしていた。

伊藤博文 - 稲荷町の遊郭・小梅(伊藤梅子)
原敬 - 新橋の遊郭・浅子
新橋の下級芸者の出で美貌でもなく無教養であったが人扱いがうまく、妾を経て正妻となった。
板垣退助 - 新橋・小清(板垣清子)
新橋金春通りの人気芸者だったが板 垣に身受けされ妻として入籍。
犬養毅 - 犬養千代子 … 元芸妓と言われている。。
山県有朋 - 日本橋「吉田屋」大和(吉田貞子)。
陸奥宗光 - 新橋「柏屋」小鈴(小兼とも。陸奥亮子)
木戸孝允 - 京都三本木・幾松(木戸松子)
井上馨 - 新橋・新井武子 … 中井弘の元妻。
桂太郎 - 新橋「近江屋」お鯉 (芸妓)
妾だが正妻病身を理由に実質的な妻として振る舞った。
芸妓は芸に優れていただけでなく、才女でもあった。だから、多くの明治の政治家か妻にしたのである。
芸妓ほど優れてはいないが踊りや歌を披露したのが芸者である。芸者は踊りや歌だけでなく性の相手もした。
芸をしないで売春だけをしたのが娼婦である。

江戸時代では城下町ができ、町人経済が発展していった。金持ちではない町人を相手の娼婦が増えていっただろう。遊郭は分業化していった。

明治33年(1900年)10月2日に発布され明治政府が制定した娼妓取締規則は「娼妓」と書いてあるように芸妓は対象ではなかった。娼婦が対象の法律であった。だから、18歳以上を条件にしたのである。娼妓取締規則が施行されてからは規則を守る業者と守らない業者が入り交ざっていっただろう。沖縄では「ジュリ売り」が戦前まであった。

慰安婦問題を追及する時、明治以前の歴史を知ることは重要である。
慰安婦は海外の日本軍が慰安所をつくり、娼妓取締規則という日本の法律を遵守させる目的の娼婦である。法律を遵守させたのが憲兵である。
断言できるのは民間には性奴隷にさせられた娼婦が多かったかもしれないが、唯一慰安婦だけは性奴隷ではなかったことである。

     つづく
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超破格な天才少女歌手東亜紀

超破格な天才少女歌手東亜紀

ユーチューブが登場して一番うれしいことは天才少女歌手に出会えたことである。
ああ、これが本物の天才なんだ。
ジャッキーエバンコを見た時にそう感じた。
7、8年前のことである。
それからは毎日ユーチューブでエバンコを見た。
エバンコはトランプの大統領就任式の時に国家を歌った。
米国では有名な歌手となった。

クラシックは好きではない。オペラ歌手の発声は嫌いである。
エバンコはオペラ歌手とは違う素直な発声で歌う。
だから、聞くことができる。だから素晴らしい。

エバンコの次に見つけたのがメリット国吉だ。
なんと彼女の祖父は読谷出身だ。
祖父はブラジルから帰国して読谷に住んでいる。
メリッサは家族で日本に移住してきた。
在日ブラジル人の色々なイベントに出演して歌っている。

天才少女歌手を探しているわけではない。
エバンコとメリッサは偶然見つけた。
それに天才少女歌手と呼ばれていても、それだけで興味が沸くものでもない。
二人は私にとって天才少女歌手であるということだ。
彼女たちを見つけた時はすごく感動し、ユーチューブで追っかけた。
今でも時々、エバンコとメリッサはユーチューブで見ている。

ジャッキーエバンコ ユーチューブ


メリッサ国吉ユーチューブ



なんと天才少女歌手が日本にも居た。

長女は東京に住んでいたが結婚することに千葉県に移った。
千葉で頭に浮かぶのが日本一川幅が大きい利根川である。そして、子供の頃に聞いた三波春夫の「大利根無情」である。
「落ちぶれ果てても平手は武士じゃ・・・・」のセリフが印象的で記憶に残る。
ユーチューブで「大利根無情」で聞こうと思い、開くと歌っている歌手の中で東亜樹という小学生が居た。
小学生が「大利根無情」を歌うのか・・・・・。興味がわいてきて聞いてみた。
驚いた。歌唱力がすごい。子供が大人の歌を上手に歌っているとか、うまいということではない。
そんな域をはるかに超えている。

もうひとつ驚いたことがある。日本の歌なら一度聞いただけで覚えるし、外国のうたでも数回聞けば
覚えると長天才的な覚える能力である。
東亜樹は12歳現在でレパートリーは1000曲という。
1000曲の中には多くの外国の歌が入っている。日本語で歌うのではない。
その国の言葉で歌うのだ。英語、ラテン語、韓国語、フランス語、イタリア語・・・・・・。
「100万本のバラ」をロシア語て歌ったのには驚いた。
最初は演歌が好きで歌っていると思っていたが、そうではないようだ。
彼女は四歳の頃にはすでに施設で老人相手に歌っていた。老人たちのリクエストに
応じて歌ったから。演歌や昔の歌が中心になったのだ。

エバンコとメリッサはテレビで有名になった。しかし、東亜樹は違う。
施設の老人たちにボランティアで歌い。彼女の歌を聞きたい老人たちがどんどん増え、
老人相手のにコンサートをやることによって有名になった。今はひっぱりだこである。
コンサートはワンマンショーであり、彼女は1時間以上一人で歌う。
東亜樹は12歳、小学6年生の少女である。信じられないことである。

東亜樹をユーチューブで見ていると止めることかできない。数時間見てしまう。
一昨日は夜の2時半まで 見てしまった。
これからは見る時間は減っていくと思うし、減らしていかないと・・・・・。

東亜樹ユーチューブ
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天皇の御影を焼いた動画」展示の「表現の不自由展・その後」への国税補助中止は当然



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「天皇の御影を焼いた動画」展示の「表現の不自由展・その後」への国税補助中止は当然
KyodoNews
https://www.youtube.com/watch?v=UaNExoYABEI

KyodoNews

2019/10/08 に公開
愛知県の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画展「表現の不自由展・その後」が8日午後、約2カ月ぶりに再開された。展示中止を求める名古屋市の河村たかし市長は8日午前、会場を視察。午後には会場で座り込みの抗議をした。



名古屋で行われた「あいちトリエンナーレ」(8月1日~10月14日)での「表現の不自由展・その後」をめぐって日本の芸術、国の進路が一つの分岐点にきているのではないかとの危機感を感じているという白川昌生氏の意見が沖縄タイムス紙に載った。白川氏が危機感を感じたのは河村たかし名古屋市長が不自由展の作品は「多くの日本人の心を傷つけるものだ」として展示の即時中止を要求したことと、美術館、県にメール、電話、ファクスによる攻撃が行われ、ガソリンを撒(ま)くぞという脅迫が送りつけられることで、大村秀章愛知県知事は展覧会の中止を決め、8月4日から会場は閉鎖されてしまったことである。
 抗議の対象となったのが「平和の少女像」と、大浦信行さんの「遠近を抱えて」の2点であったが、白川氏は、前者を「慰安婦像」と呼び、後者は「天皇の御影を焼いた作品」であるとするのは「誤解」であると述べ、誤解が広まっていると指摘している。
 少女像は韓国の少女慰安婦像と寸分違わない。韓国では「少女慰安婦像」、名古屋の展示会では「平和の少女像」と同じ像を場所によって変えることは欺瞞である。
マスメディアは少女慰安婦像は写真や映像を何度も報道するが、「天皇の御影を焼いた作品」の写真はほとんど報道しない。それにNHKのニュースではありえないことが起こった。


上がNHK「ニュース シブ5時」で報道された時
の写真である。左の写真も同じデモである。「陛下への侮辱を許すのか」「天皇陛下の御真影を燃やすな」のプラカード見える。このプラカードが映らないようにするのは難しいはずである。


とろがNHKは河村市長のプラカードの「陛下への侮辱を」を映していないし、「天皇陛下の御真影を燃やすな」も映していない。二つのプラカードを完全カットしたNHKニュースである。マスコミは「天皇の御影を焼いた作品」については報道しない。
白川氏はタイムスで「天皇の御影を焼いた作品」であるとするのは「誤解」であると述べている。河村市長のデモ隊は嘘のプラカードつまり「誤解」なのかどうか。動画の写真を見ればわかる。ブログ「正しい歴史認識には写真が掲載されている。
昭和天皇の顔の城野心をガスバーナーで焼いている。


 白い馬に乗った昭和天皇の写真を焼いている。


燃えた写真を靴が踏んづけている。


天皇陛下の写真をガスバーナーで焼き、灰になった写真を靴で踏んづけるという動画である。こんな動画を芸術というのはおかしい。でも芸術だと主張するのは自由である。日本は表現の自由な国だ。しかし、こんな昭和天皇を侮辱しているだけの、芸術性のない動画を国民の税金で展示するというのはおかしい。税金を使うべきではない。この動画は芸術作品というより天皇侮辱作品である。

白川氏は社会、政治、生活とは関係を持たない純粋な美を求めるような芸術表現を否定し、社会に生きて感じる喜び、苦悩、矛盾、予感などを表現するのが芸術であると述べ、芸術が批判的精神を持つことを現政権は認めようとしないと批判するが、昭和天皇の御影を焼いた動画には白川氏の主張する喜びも苦悩も矛盾も予感もない。白川氏の芸術論でも芸術とは言えないものである。
それでも芸術だと主張して発表するのはいい。しかし、今回の問題は国民の税金を「天皇の御影を焼いた作品」の展示に使っていいかどうかの問題である。税金を使わない民間の資金で展示するなら問題ない。芸術表現は自由だから。しかし、国民の税金を使うということになると違う。税金を使う展示会と民間資金による展示会は区別するべきである。ところが白川氏は税金であろうが民間資金であろうが表現の自由を根拠にして「天皇の御影を焼いた作品」を表現するべきだというのである。
「表現の自由は表現のみならず、それと不可分の、見る・知る権利とも繋がり、民主主義体制の中ではそれは基本的人権ともつながるものなのである」と述べて、大日本帝国へ回帰したい右翼政治家には、国民に人権はいらないと発言する議員もいるのが現状であると、なんと大日本帝国主義まで持ち出していく。そして、河村たかし名古屋市長が不自由展の作品は「多くの日本人の心を傷つけるものだ」として展示の即時中止を要求したことや、美術館、県にメール、電話、ファクスによる抗議を攻撃だと決めつける。抗議をした人たちを右翼呼ばわりする。白川氏にとって「表現の不自由展・その後」批判者=右翼なのだ。

白川氏は安倍政権を右翼政権、帝国主義などと非難し、国の補助カットは「現政権にとって不都合と判断されたものは、『見させない』『聞かせない』『言わさせない』『やらせない』という文化統制的な縛りでやって行くぞ」、という意思表示だと批判しているが、中止を決めたのは愛知県知事であり、中止した理由は抗議が殺到したからであった。安倍政権は展示会の中止については全然関係がない。補助金カットの原因は展示会を中止するほどの抗議を受け、実際に中止をした、その責任は愛知県側にあるのに白川氏は安倍政権の責任だと非難する。

現在の日本は代議制の議会制民主主義国家であり、国民が選んだ議員によって国は運営されている。現政権は国民の支持によって成り立っている。国民の代理として政治を行っているのが安倍政権である。安倍政権の支持率は過半数を超えている。安倍政権か右翼政権であるならば国民は右翼であるということであり、安倍政権が帝国主義というならば国民は帝国主義ということである、そんなことはあり得ない。安倍政権は民主政権である。民主政権を右翼、帝国主義呼ばわりする白川氏は客観的に安倍政権を見る能力がないということである。ゆがんだ民主主義に凝りかたまっているのが白石氏である。

夕刊フジは、
「昭和天皇の写真を焼き、足で踏みつけるような映像作品の公開への税金投入をどう思いますか」の世論調査をした。
(投票、約66590票)
〇賛成3%
〇反対94%
〇どちらでもない3%
世論調査では税金投入反対が94%である。動画の写真を見れば国民の民意も世論調査と同じになるだろう。
 民主主義に逆行しているのは国民が反対する「少女慰安婦像」「「天皇の御影を焼いた動画」の展示を国民の税金でやろうとしたことである。国民の税金を「表現の自由」「民主主主義」の名のもとに自分勝手に使うのを主張しているのが白石氏氏である。
 
白川氏は最後に「敗戦後に作られた民主主義の崩壊に向かっているのではないかという危機感を感じざるを得ない」と述べている。
民主主義を構築していくのは国会で決める法律である。法律を破ることができない行政の安倍政権が民主主義を破壊することはできない。そもそも国民主権・議会制民主主義日本は民主主義を発展させていくのであり崩壊する方向には進まない。戦後70年がそれを実証した。
表現の不自由展・その後」への国の補助金がストップしたくらいで民主主義崩壊を危惧するというのは笑える。白石氏は妄想の世界に入り込んでしまっているみたいだ。まあ芸術家にはありがちなことではあるが・・・。「天皇の御影を焼いた動画」を展示した「表現の不自由展・その後」への国税補助中止は当然である。
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韓国の法を徴用工問題に適用することはできない そのことを指摘しない日本の識者たち

韓国の法を徴用工問題に適用することはできない そのことを指摘しない日本の識者たち
 昨年10月に韓国の大法院(最高裁)は日本企業に対して、元徴用工たちへの賠償金支払いを命じたいわゆる「徴用工判決」に対して多くの識者が意見を述べてきた。
 徴用工裁判は、1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。韓国の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だという政府側の主張と元徴用工の「個人請求権」までを完全否定することはできない。元徴用工が裁判を起こして、自身の請求権を主張するというのは当然の権利であるという主張に分かれている。
 徴用工問題は日本で起こったことである。裁判は日本するべきであって韓国での裁判は無効であると主張する識者は居なかった。
 徴用工が奴隷のように扱われたと主張している現場は日本国内である。であるならば徴用工は日本の裁判に訴えるべきである。慰安婦問題のように。
 ところが徴用工問題は韓国の裁判で行われた。韓国の法律は韓国の国会で決める。韓国の法率は韓国内に適用するものであり、外国には適用できない。日本で韓国人が殺人を犯したからと言って韓国の裁判が裁くことはできない。逆も同じである。元徴用工たちは日本で訴訟を起こし、日本で裁判をするべきであった。日本で裁判をするべきと元徴用工に提言したなら、元徴用工は「日本で裁判をしたら日本企業の味方をして賠償金を取ることはできない。だから韓国でやる」と言っただろう。つまり日本で裁判をすれば賠償金は取れないが韓国で裁判をすれば賠償金をとれるという確信があったから韓国で裁判をしたのだ。
 日本、韓国という国家と国家の関係から見れば法は中立でもなければ平等でもない。日本は日本のエゴ、韓国は韓国のエゴの国家である。それぞれエゴ国家である。

 日本で起こった徴用工問題であるのに韓国で裁判すれば、日本側の徴用工の主張への反論ができない。元徴用工は奴隷のように扱われたと主張しているが、徴用工は奴隷のようではなかったという多くの証言が日本にはある。。
明治政府は四民平等・法治主義の国家づくりから始まった。それは奴隷の否定である。遊女は奴隷であるとイギリスの弁護士に指摘された明治政府はむ「娼妓取締規則」の法律をつくり、遊女を奴隷から解放する努力をした。アジアで初めて四民平等を掲げ、奴隷を否定したのが日本である。
日本で裁判をすれば元徴用工の嘘がばれただろう。日本の裁判では徴用工が勝てる可能性はなかった。韓国の裁判だから勝てたのである。

 韓国の法は日本に適用することはできない。この重要なことをないがしろにして意見を述べているのが日本の識者である。

日本で起こった事件を韓国の裁判で裁くということは韓国のエゴを日本に強制することであり、法の平等の精神を破るものである。韓国は日本で裁判をするかでなければ国際司法裁判所に提訴するべきであった。

元徴用工裁判問題は1965年の日韓請求権協定か個人請求権かの問題ではない。法の平等の問題である。法の平等の精神に従うなら裁判は国際司法裁判所で行うべきである。韓国での裁判に矛盾を感じていない日本の識者たちである。それが日本の深刻な問題である。
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香港デモ 学生記者が撮影した銃撃映像

香港デモ 学生記者が撮影した銃撃映像


銃撃映像

10月 1日午後4時10分ごろ、香港郊外荃湾(せんわん)地区。武装した機動隊と若者らの間で激しい衝突が起きていた。「ズーン」と機動隊員が実弾を放った。少年がその場であおむけに倒れ込み、左胸付近から血が流れた。
香港城市大の学内メディア「城市放送局」に所属する林卓賢さん(21)=経営学部3年=は、現場で取材していた。恐怖で体がすくみながら、夢中で一部始終をカメラに収めた。「銃声の瞬間、何の弾か分からなかった。でも、少年の胸から血が流れているのに気づき、(実弾だと)確信した」
倒れ込んだ少年を、別の若者が介抱しようと近づいた。その瞬間、機動隊員がこの若者を組み伏せ、拘束した。林さんはとっさに思った。「銃撃の瞬間に加えて、この後、警察が救護措置など適切な対応をするのかどうかが重要だ」。目の前で倒れ込む少年が心配だったが「これが私の役割だ」と自分に言い聞かせ、カメラを回した。
「助けてて。胸が痛い」とうめく少年。しかし機動隊員たちは少年に目もくれない。林さんが撮影した映像を見る限り、銃撃から5分が経過した時点でも救護措置は行われていなかった。林さんは「実弾で胸を撃っているにもかかわらず、極めて非人道的だ」と警察の対応を非難する。少年はその後、救急車で病院に搬送されて緊急手術を受け、一命は取り留めた。
銃撃の瞬間を撮影できていたのは、香港城市大と香港大の学生メディアだけだった。

 映像は、白い棒状のもので挑む少年に対し、機動隊員が数十センチとみられる至近距離から左胸に発砲する様子を克明にとらえている。警察当局は「警察官は襲われて生命の危機に直面し、武器を使用して制止するほかなかった。適切で合法だった」と説明している。だが映像を見る限り、少年に対し狙いを定めて銃撃しているように見える。過剰防衛と批判されてもやむを得ないだろう。銃弾は少年の心臓をわずか3センチ外れ、左肺の内部で破裂していたという。あとわずかでも位置がずれていれば、少年は命を落としていただろう。

映像という動かぬ証拠を突きつけられ、警察は守勢に立たされている。林さんは言う。「もし香港城市大と香港大の学生メディアがあの場にいなかったら、誰も何が起きたかを知ることはできなかった。私たちはとても重要な役割を果たしたと自負しています」
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慰安婦だけは性奴隷ではなかった
 韓国左翼が主張する「慰安婦は性奴隷である」を否定し性奴隷ではなかったことを証明する目的で書いている。慰安婦=性奴隷を論破するには遊女が性奴隷であった歴史的事実について説明しなければならないと考えている。そして、遊女だけでなく江戸時代=封建社会には奴隷に近い人たちがいて、それが明治以後にも居たことを指摘する必要がある。
「慰安婦だけは性奴隷ではなかった」を証明するには江戸から明治の性奴隷であった遊女の解明が必要である。

チャンネル桜沖縄で金城テルさん私がキャスターを務めた10月10日に私の「これだけは言いたい」コーナーで、江戸時代の舞妓や遊女は性奴隷であったことを話した。そして、性奴隷とは売買されたこと、選択の自由がないことであるとであり、それは舞子も遊女と同じ性奴隷であったことを話した。そして、沖縄で吉屋チルーは琉歌の天才として名をはせたが彼女もまた遊郭の性奴隷であり十八歳の時に売春を強要された。しかし、彼女は性奴隷になることを拒み自殺したことを話した。琉歌の天才チルーもまた性奴隷であり、自由になるには死ぬしかなかったのだ。
 沖縄では明治になっても少年は糸満売り」少女は「ジュリ売り」があったことを話した。韓国も沖縄のように売買があり、妓生のような性奴隷が居たことを話した。戦後の有名な民謡歌手糸数カメも八歳の時にジュリ売りされたことを話した。
するとチャンネル桜が終わった後に、なんと金城テルさんは糸数カメを知っていて彼女の演武も見たと言ったのだ。これには驚いた。それだけではなかった。テルさんは奄美大島にも辻があったというのである。また、テルさんが診療所で看護師見習いとして働いていた時に11歳くらいの少女が家事手伝いのために母親に連れてこられた。その時院長が母親にお金を渡すのを見たというのだ。母親は院長に何度もお辞儀をした後に少女を残して去っていった。少女の名前はイヌコといった。イヌコとは犬の子というイメージであるし、まさかイヌコではないだろうと思ってテルさんに聞いたがテルさんは少女の名前をイヌコであり、はっきり覚えていると言った。
テルさんは少女の名前を言った後に急に笑い出した。笑いながらイヌコのエピソードを話した。
ある日、ヘビースモーカーの院長がタバコを吸いたくなってイヌコに、「マッチ持ってきてくれ」といった。するとイヌコは風呂の水を沸かしていたかまどから燃えている薪を取り出し院長のところに持ってきたという。
マッチを持ってきてと言われたのにイヌコは燃えている薪を持ってきたのである。イヌコが薪を持ってきた情景を思い出してテルさんは笑った。テルさんの説明では大島の地方には「マッチ」に近い発音で「火」をさす方言があり、「マッチ」という共通語を知らないイヌコは院長が「火を持ってこい」と勘違いして燃えた薪を持ってきたのだろうとテルさんは言った。

イネコは売られたのである。「売られた」という表現に反発する人は多いと思う。お手伝いとして働くのはイヌコである。だから報酬はイヌコがもらうべきであるがイヌコの報酬は母親がもらった。親がイヌコを売ったという解釈ができる。
貧しい家のイヌコが手伝いとして診療所で働くことは家にとっては口減らしができるから助かる。口減らしだけでなくお金も入る。イヌコはイヌコで貧しい家よりもおいしい食事ができる。親にとってもイヌコにとってもありがたいことである。しかし、現代は働く人に報酬を払う。もし、イヌコのように診療所の家事手伝いをしたなら報酬はイヌコがもらうのが現代社会である。現代は11歳の子供がイヌコのように働くことは禁じている。義務教育があるからだ。現代は中学を卒業してから働くことになる。戦前の義務教育は小学校までだから小学校を卒業すればイヌコのように働くことはできた。現代は本人に報酬が払われるがイヌコの場合は親に払われた。それから見ればイヌコは親が院長に売ったことになる。イヌコの人権はない。

テルそんはイヌコの話をした後にテルさんが小学一年生の時に赤ちゃんをおんぶして通う少女が二人いたことも話した。赤ちゃんが彼女たちの弟妹であったなら私に話すことはなかっただろう。つまり赤ちゃんは彼女たちの弟妹ではなかった。二人はイヌコのように遠い村から子守としてやってきたのだ。
子守の話を聞いてすぐに頭に浮かんだのが「五木の子守歌」と「叱られて」だった。「五木の子守歌」はよく歌っていたが昔は子守歌にしてはおかしいなと思いながら歌った。有名な子守歌として「シューベルトの子もり歌」がある。

ねむれねむれ 母の胸(むね)に
ねむれねむれ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽しゆめ

 子守歌とは赤ちゃんを心地よく眠らす歌と思っていたが五木の子守歌」は違っていた。違いに気づいたのは高校生の時である。私が衝撃を受けたのは四番であった。
四おどんがうっ死んだら   
道端ちゃいけろ   
通る人ごち 花あぎゅう
 私が死んだら墓ではなく道端にいけろというのである。そしたら、道を通る人が花を活けてくれるというのである。子守りなのだから自分の弟妹を子守りしていると思うのが普通である。それなのになぜ家族の墓ではなく道端にいけろというのか。理解できなかった。道端にいけろという理由を三番で歌っている。
三おどんがうっ死んだちゅうて   
誰が泣いてくりょか   
うらの松山 蝉が鳴く
私が死んだら松山の蝉だけが泣いてくれるというのである。我が子の死を悲しまない親はいない。子守の少女が死ねば親は悲しむはずだ。それなのに少女は親ではなく蝉が泣くというのである。考えられないことである。被害妄想の強い少女なのかもしれないと思ったこともある。貧しい農村の少女が裕福な家に子守として預けられた歴史があることを知って初めて子守の少女がその家の娘ではなく遠く離れた貧しい村の少女であることが分かった。そして、一番の歌の意味を理解した。
一おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと 
盆が早よ来るりゃ 早よもどる
私はお盆で子守りの仕事が切れる。お盆から先はこの家に私は居ない。親の所に帰れる。
 一日も早く親の待つ家に帰りたい少女の気持ちをうたったのが一番である。しかし、中高生の頃の私ではおどまの意味が分からないし、盆ぎりの意味も分からなかった。盆から先きゃおらんとの意味も分からなかった。
 「五木の子守歌」は貧しい農家の少女が裕福な家の子守となり、子守の孤独の気持ちをうたった歌であった。子守奉公に出された娘たちが、背中の赤ん坊をあやしながらわが身を嘆いて歌った子守唄なのである。「竹田の子守歌」も同じである。

 「叱られて」は1920年の作品である。「叱られて」も子守りの歌である。子守の歌であることが分かるのが二番である。
二叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと

一番の「この子は坊やを ねんねしな」で子守であることがわかる。二番で遠い村から来たことがわかる。
『叱られて』は作詞家清水かつらが21歳頃の作品である。幼い頃に母と生き別れた悲しみを、親元を離れ奉公へ出された子供の心境と重ね合わせた詩だと言われている。「口には出さねど 眼になみだ」は継母に遠慮して反抗することができなかった清水かつらが親に主人のいうことを聞きなさい。反抗してはいけないとしつけられた子守と重ね合わせたのだろう。
「赤とんぼ」は子守りをされた子の歌である。一、三番でそのことがわかる。
一、夕焼、小焼の、あかとんぼ、
負われて見たのは、いつの日か。

子守におんぶされて赤とんぼを見たのはいつのことだろう。
三、十五で、姐(ねえ)やは、嫁にゆき、
お里の、たよりも、たえはてた。

 子守を終えて自分の里に帰った子守の姐やは十五歳で嫁に行った。嫁に行く前にはあった便りは来なくなった。

「姐や」は自分の姉ではなく、この家で子守奉公していた女中のことである。「お里のたより」は、子守をしていた姐やの故郷からこの家に送られてくる便り。

封建社会の江戸時代には遊女、お手伝い・女中・子守しか働く場所はなかった。他にも女性が働く場所があっただろうと思うかもしれないが、そうではなかった。女性が舞台で芸を披露して収入を得ることさえ禁じられていた。歌舞伎では女を男が演じる。女を演じる役者を女形(おやま)という。女方が登場したのは女性が舞台に立つのを禁じられたからである。
歌舞伎を最初に始めたのは出雲阿国(いずもの おくに、元亀3年?(1572年) - 没年不詳)である。彼女は
阿国は派手な男装をして踊ったという。身形(みなり)や言動の風変わりな人、アウトロー的な人などを「かぶきもの」と呼び、おくにの踊りを歌舞伎と呼んだ。歌舞伎はどんどん発展するが江戸幕府は派手な踊りを禁じ、女性が舞台に立つことも禁じた。歌舞伎は江戸時代に発展したが女性が舞台に立つことは禁じられていたので男が女を演じるようになった。江戸時代には女性が表の舞台に立つことを禁じられたのだ。そのために昔から続いていた遊郭で武士や商人などの金持ちにだけ芸を披露した。遊郭以外で芸を披露することはできなかった。女性が女優として舞台に立つことができたのは明治になってからである。
明治政府の近代化政策によって、女性が舞台に立つことができるようになった。演劇はヨーロッパの戯曲を共通語に翻訳して、共通語で演じる新劇が登場した。有名な女優が松井須磨子である。
松井須磨子が演じた劇
『ハムレット』(オフヰリア)
『人形の家』(ノラ)
『復活』(カチューシャ)
『サロメ』(サロメ)
『カルメン』(カルメン)
松井須磨子が歌った歌謡
『カチューシャの唄』
『ゴンドラの唄』
『今度生まれたら』
松井須磨子が歌った『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』は戦後も歌われ続けた。私もラジオなどでよく聞いた。
明治時代になって近代化が進んでいったが江戸時代の経済システムも根強く続いた。吉原遊郭のシステムは江戸時代のままだった。村で少女を買う男を女衒と言った。遊女の居る家を妓楼と言い、主人を楼主といった。遊郭は政府によって場所が決められた。遊郭の収益は莫大であり一流企業と同じ売り上げがあった。 
全国511箇所の遊廓において貸座敷を営業する者は1万1154人、娼妓は5万56人、遊客の総数は1か年に2278万4790人。その揚代は7223万5400円であった。
遊郭を順調に運営するために多くの男も必要であった。江戸時代にはすでに遊郭は会社化されていたのだ。遊女の安全は男衆が徹底して守った。何百年もかけて作り上げた遊郭のシステムが簡単に崩壊するはずはなかった。
遊郭は次第に芸と性に分業化していく。つまり芸に優れた芸妓は踊りや歌などを中心に披露した。しかし、高度な芸を身に着けることができたのはわずかである。芸妓は教養もあり、スポンサーは高額を払って見受けし、妾にするだけでなく妻にするスポンサーも多かった。
明治時代には芸妓の時代と言われた。八歳の頃から芸だけでなく、身分の高い人と接客するための教育も受けた。だから、芸妓は美貌で社交上手な女性として多くの元勲に愛され、正妻となった者も少なくなかった。グーグルで調べて驚いた。なんと明治時代の有名な政治家が芸妓を妻にしていた。

伊藤博文 - 稲荷町の遊郭・小梅(伊藤梅子)
原敬 - 新橋の遊郭・浅子
新橋の下級芸者の出で美貌でもなく無教養であったが人扱いがうまく、妾を経て正妻となった。
板垣退助 - 新橋・小清(板垣清子)
新橋金春通りの人気芸者だったが板 垣に身受けされ妻として入籍。
犬養毅 - 犬養千代子 … 元芸妓と言われている。。
山県有朋 - 日本橋「吉田屋」大和(吉田貞子)。
陸奥宗光 - 新橋「柏屋」小鈴(小兼とも。陸奥亮子)
木戸孝允 - 京都三本木・幾松(木戸松子)
井上馨 - 新橋・新井武子 … 中井弘の元妻。
桂太郎 - 新橋「近江屋」お鯉 (芸妓)
妾だが正妻病身を理由に実質的な妻として振る舞った。
 芸妓は芸に優れていただけでなく、才女でもあった。だから、多くの明治の政治家か妻にしたのである。

江戸時代が町人経済が発展していくにつれて客層は広がり、芸妓の舞や歌を楽しむ大金持ち、その下のランクの町人は遊女の相手となった。芸よりも性の相手を求める客も増え、そのような客を相手にする芸のない女性も増えた。遊郭は分業化していったのである。
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1010空襲と琉球民謡「時代の流れ」



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1010空襲と琉球民謡「時代の流れ」
1010空襲があったが沖縄は復興し明るくなった 民謡「時代の流れ」
私とテルさんがチャンネル桜の日は10月10日だった。米軍が那覇市を空襲した日だった。
那覇市は九割も焼け野原させられた。毎年沖縄の新聞もテレビも10月10日に大きく取り上げるのが那覇空襲集である。那覇空襲について話したが、それだけだとマスメディアと同じである。戦後の沖縄が復興したが、それだけではない。戦前より自由に開放された。そのことを歌にしたのが琉球民謡「時代の流れ」である。





 多くのマスメディアは戦争のひどさを訴えて終わる。しかし、私たちはここからが始まりだった。
「焼け野が原の那覇市を見た人たちは戦後の沖縄の人たちは暗く貧しい生活を送っていただろう予想するだろう。戦後は「米軍の植民地」であったと左翼はいうから左翼の話を信じた人は沖縄の人々が暗く貧しい生活を送っていたと信じているだろうと話し、
「それは事実ではない」
と言い、戦後の経済は復興し戦前の数倍もよくなった。戦後の沖縄は明るく自由になったと言った。その事実を知ってもらうために、沖縄の戦後を象徴する民謡「時代の流れ」を紹介した。
私はウチナー口の詞を共通語に翻訳しながら内容を説明していった。

時代の流れ
一、唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世 ひるまさ変わたるこの沖縄
とーぬゆーからやまとぅぬゆー やまとぅぬゆーから [アメリカ]ゆー ひるまさかわたるくぬうちなー
○唐の世から大和の世、大和の世からアメリカの世、 不思議に変わってきたこの沖縄
二、昔 銭の計算んや一貫二貫どさびたしが今や計算まで変わて
むかせー じんぬさんみんや いっかんにかんどぅさびたしが なまやさんみんまでぃかわてぃ
〇昔のお金の計算は一貫二貫であったが、今は計算まで変わってしまった。
三、昔の那覇の行ち戻いん 歩つちる我たや行ちゃびたしが 今や居ちょて行ち戻い 昔の面影むるねらん
んかしぬ なーふぁぬ'いちむどぅいん'あっちるわったーや'いちゃびたしが なまや'いちょーてぃ'いちむどぅい んかしぬ'うむかじ むるねーらん
○昔の那覇の行き来は歩いて我々は行き来したが、今は座ったまま(バス)で行き来する。昔の面影はまったく無い。
四、昔年老と若さしや着物の模様しど分かさびたる今や差し分ちきららん 親子 むるっ子 ちゆとんちゅ
んかし とぅしゅいとぅわかさしや ちんぬ'あやっしどぅわかさびたる なまやさしわかちきらん 'うやっくわ むるっくわ ちゅとぅしんちゅ
○昔は年寄りと若いのは着物の模様で分別できたが 今は区別できない 親子も皆んな同い年だ。
五、昔女のたしなみや、髪の長さしでえびたる 今や昔とうち変て 生いとる髪んうしちみやい パーマネントしけえちじゅらち まーん変わらん鳩の巣
んかしうぃなぐぬたしなみや からじぬ ながさっすぃ でーびたる なまや んかしとぅ'うちかわてぃ みーとぅーるからじん 'うしつぃみやい パーマネントっし けーつぃじらち まーんかわらん ほーとぅぬすぃー
○昔は女のたしなみは髪のる長さであったが、今は昔とすっかり変わって生えている髪をばっさり切ってパーマネントにして神を縮らせている。鳩の巣とちっとも変わらない。
六、あど高靴小やけえくまい ウンブイコーブイ歩つちゆしや すっとん変わらん風吹ち鳥
'あどぅだかぐつぐわーやけーくまい 'うんぶいこーぶい 'あっちゅすぃや すっとぅんかわらん かじふちどぅい
○かかとの高い靴(ハイヒール)を履いて、よたよたよろよろ歩くのは強風の時に富んでいる鳥とまったく変わらない。
七、タイトスカートけえ着やい ちんしやとがらち尻まぐらち まーん変わらん七面鳥
タイトスカートけーちやい ちんしーやとぅがらち つぃびまぐらち まーんかわらんしちめんちょー
○タイトスカートを着て、膝を曲げてとがらし、尻を右左に揺らして歩くのは七面鳥とちっとも変わらない。
八、何時まで心や十七、八、眼の子の達の合点さん 自然とまぐりて行ちゃびんで
'いちまでぃくくるやじゅうしちはち みーぬっくわぬたーぬがってぃんさん しじんとぅまぐりてぃ'いちゃびーんでー
○いつまでも心は十七、八だが、 眼のある子たちが納得しない 自然にまかせて生きていこう。

 パーマ、ハイヒール、タイトスカートの女性を皮肉っているが滑稽さがあり雰囲気は明るい。自由で平等になった沖縄を感じさせる琉球民謡である。戦後の沖縄は左翼のいう軍事植民地ではなく、自由で明るい沖縄だったのだ。
 このことを知ってほしくて時代の流れの詞を説明した。
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香港を第二のハンガリーにしてはならない

香港を第二のハンガリーにしてはならない
 見たい番組がなかったので、チャンネルを変えていたがNHKの画面になった時止めた。番組はすでに始まっていた。教室の高校生が映り、ナレーターか「ハンガリーの犠牲者のために2分間の黙とうを捧げた・・・・」と話していた。私は「ハンガリーの犠牲者」と聞いた途端にそれがなんのことか分かったし、番組に興味を持った。
時代は1956年、場所は東ドイツの高校だった。高校生が教師に許可なく理由も説明しないで授業中に2分間の黙とうをしたことが問題になり、黙とうの目的、主導者ば誰かを厳しく問い詰められていった。番組は冷戦下の東ドイツで起きた高校生19人の2分間の黙とうとその後を追ったものだった。
ネットで調べると、そのことが映画化されていた。NHKは映画化を知って番組を作ったのだろう。
映画は『僕たちは希望という名の列車に乗った』である。この映画はまだ東ベルリンと西ベルリンを分ける壁ができる前のことである。ベルリンの壁ができたのは1961年であったらしい。それまでは東西ベルリンは自由に行き来できた。1956年には壁はなかったのだ。私は初めて知った。


ベルリンの壁がなかった1956年に東ドイツのスターリンシュタット(現在のアイゼンヒュッテンシュタット)の高校に通うテオとクルトが、西ベルリンに行って映画を見た。映画の合間のニュースで二人はハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当たりにした。
クラスの中心的な存在であるふたりは、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を実行し た。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは社会主義国家への反逆と見なされる行為だった。
やがて当局が調査に乗り出し、人民教育相から直々に一週間以内に首謀者を告げるよう宣告された。もし、首謀者を告げなければ彼らは高校を退学させられ大学進学の道が断たれる。生徒たちは人生そのものに関わる重大な選択を迫られたのである。大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、それとも信念を貫いて大学進学を諦め、労働者として生きる道を選ぶのか・・・・。彼らは過酷な選択を迫られた。
人生のすべてを懸けて下した彼らの決断は黙秘することだった、 脅しにも負けず大人たちに抗う彼らであったが、クラスのみんなを犠牲にすることに耐えきれず、リーダーの一人は自分がリーダーであると白状する。白状した彼は東ドイツでは一生虐げられた生活をしなければならない。彼は両親と別れて一人で西ドイツに亡命する。NHKではその後の彼らが大学に進学し、エリートの道を歩んだことも描いていた。
 
ハンガリー動乱は60年以上も前のことであり、しかもハンガリーだから知っている人はほとんどいないのではないだろうか。私は学生運動に参加し、しかも革マルだったからハンガリー動乱のことを知っている。ハンガリー動乱は革マルを誕生させたという歴史もある。

ハンガリー動乱
 ハンガリー動乱は、1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起のことである。ハンガリー事件、ハンガリー暴動、ハンガリー革命ともいう。
第二次大戦直後にハンガリーでは国民選挙が行われた。独立小農業者党が大勝しハンガリー第二共和国が成立した。ティルディ・ゾルターンが大統領となった。しかし1947年にソ連軍を後盾とする共産党がクーデターをおこし、ヨシフ・スターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握った。それは共産党による代議制民主主義の破壊である。

共産党独裁のハンガリーの経済は悪化し。1952年には7割まで労働者の給料が急速に落ち込んだ。労働者の不満は工場の自主管理と労働組合の結成の自由の要求という形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れた。また、農民たちも政府の強制的な集団化によって悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。共産党独裁国家では農地も工場もすべて国の所有である。
ハンガリーの国内問題を見直そうとする動きが学生やジャーナリストの間に広がった。スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出されたが、これに反発した市民は集会禁止令にも関わらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。そして、民主主義を求める労働者、市民とソ連軍の戦いになった。
武力に勝るソ連軍によって労働者、市民の蜂起は鎮圧され、およそ1200人が処刑され、20万人が難民となって亡命した。

テレビで「ハンガリーの犠牲者」と言った瞬間に犠牲者とはハンガリー動乱の時に犠牲になった人々のことであることを知っていた。ハンガリー動乱とは社会主義の独裁政治に反対した労働者が蜂起したことである。ハンガリー革命ともいう。蜂起はハンガリー軍ではなくソ連軍により鎮圧された。その時に数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した・・・と学生の時に聞いていた。ハンガリーの市民、労働者の放棄こそが本当の革命である考えていた私は、労働者の蜂起を否定した共産党や社会党には反発した。

ハンガリー動乱は日本の共産主義者に大きな影響を与えた。ハンガリー動乱で労働者の蜂起を弾圧したソ連を批判したのが黒田寛一たちであった。彼らはソ連を批判し、日本共産党もソ連を批判するべきであると幹部に要求したが幹部は軍の弾圧を容認した。
宮本顕治が党中央委員会の多数派を占める日本共産党は、ソ連の武力介入を機にハンガリー事件について、蜂起した市民、労働者を反革命家とした。
黒田寛一はハンガリー事件に対しソ連を擁護した社会党や日本共産党と絶縁した。黒田はこの後「革命的マルクス主義」という独自の思想を展開し、その実践として「日本革命的共産主義同盟」を創設し、新左翼の先駆けとなった。革共同は「反帝国主義・反スターリン主義を掲げていた。米国は帝国主義、ソ連はスターリン主義であるとして米国、ソ連を打倒するのを目指していた。革共同は革マル派と中核派に分裂する。

ソ連が崩壊すると、ハンガリーは多党制に基づくハンガリー第三共和国を成立した。1990年代にはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構 (NATO) に、2004年に欧州連合 (EU) に加盟した。

ハンガリー動乱は60年以上も前のことであり社会情勢は現在の香港と違うが香港の運動はハンガリー動乱と同じように社会主義を否定して民主主義社会を目指した闘いだ。
ハンガリーの民主主義運動はソ連の軍隊に潰されたが、香港の民主主義運動はハンガリーの二の舞になってはならない。香港の市民運動の敗北は民主主義の敗北である。勝利するのは困難であるが達成しなければならない。。
習近平国家主席は、「中国のいかなる地域で分裂を図るいかなる者も打ち砕かれるだけだ」といった。反政府抗議活動が続く香港などの問題で習氏は強硬姿勢を改めて鮮明にしたとマスメディフは報道した。しかし、ハンガリー動乱のように中国軍で弾圧すれば世界から非難されるだろう。中国は経済を発展させ、一帯一路を展開しなければならない。だから他国とは仲良くしなければならない。世界二位の経済大国になった中国は軍事力を簡単に使えなくなった。天安門事件のように軍事力を使えないのが習政権の弱点である。軍事力以外のあらゆる手を使って香港の民主主義運動潰しをしてくるだろうが香港のデモは香港中を這いずり回り、潰されても潰されてもアメーバーのように蘇生し続ける。香港の民主主義アメーバーは中国本土にも侵入し這いずり回るようになるだろう。
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新基地建設は一か所もない デニー知事の「新基地反対」訪米は疑問

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新基地建設は一か所もない デニー知事の「新基地反対」訪米は疑問 
 玉城デニー知事は新基地建設に反対する沖縄の民意と、米軍基地を過重に負担する現状を伝えるために渡米するという。え、沖縄で新基地建設をしているって?。 秋縄で新基地を建設している場所はない。辺野古の建設は新基地ではなく普天間飛行場の移設を目的とした建設である。「新」ではなく「移設」である。それに「基地」ではない。「飛行場」である。私たちは普天間基地とは言わないで普天間飛行場という。辺野古に普天間飛行場を移設するのだから「新基地」建設ではなく「移設飛行場」建設であり、移設飛行場建設である。
 デニー知事は普天間飛行場の辺野古移設のための飛行場建設を左翼と同じように「新基地建設」と決めつけている。デニー知事は知事である。左翼活動家ではない。県民の選挙によって選ばれた公的存在である。公的存在であるのだから知事として米国訪問するのだから、辺野古飛行場建設を正確に伝える義務がある。左翼がでっちあげた「新基地」という嘘を言うべきではない。ところがデニー知事は嘘をつくのである。左翼にがんじがらめにされたデニー知事だからしようがないといえばしようがないが。
 
玉城知事は在沖米海兵隊の分散移転計画法案の確定前に訪米し、在沖海兵隊の配置見直しを直訴し、新基地建設の阻止につなげたい考えという。県幹部は「訪米と法案協議が重なるタイミング。上院案を基に、辺野古の見直しを訴えるチャンスだ」と意義を強調している。お笑いである。
デニー知事は二回目の渡米である。二回目は一回目よりも効果があり、交渉する相手が高い地位であるのが当然であると思うのが普通である。
ところが訪米して米政府関係者と面会する予定ではあるが相手は決まっていない、前回は国務省次官補に次ぐマーク・ナッパー次官補代理が対応した。日本政府関係者は「前回は、初訪米という配慮が日米にあった」と解説。「今回は面談相手のクラスが下がるだろう」という見通しだ。前回でも法案協議とは関係のない官補代理にしか会えなかったが、今回は次官補代理よりも隠下になりそうである。法案協議をする政治家に会えればデニー知事の意向の反映に期待を持てるが協議になんの影響も与えることができない次官補代理以下の人物に会うのであれば例え会えたとしても法案反映はない。それははっきりしている。そもそも、面談する相手が決まっていないのに訪米するのはおかしい。相手が決まっても法案に反映させることができるか否かの判断をしなければならない。反映する能力のないような人物が相手なら訪米はやめるべきである。相手が決まっていないのに訪米するのはとんでもないことである。

デニー知事の訪米は米政府関係者、米連邦議会議員との面談や、有識者との意見交換、大学での講演を予定しているが辺野古移設見直しを要求できる政府閣僚や法案競技者に会えない。せいぜい有識者との意見交換、講演でお茶を濁すだけの訪米である。辺野古移設阻止のための訪米というより、訪米の様子をマスメディアに掲載させて、県民に訪米をアピールするための訪米でしかない。アピール政治である。
訪米は県の左翼が敷いたレールであり、デニー知事はレールに乗っているだけである。全国トークキャラバンと同じように。
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慰安婦問題に完全決着をつける3



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慰安婦問題に完全決着をつける3明治以後も日本遊女韓国妓生はは性奴隷だった
 慰安婦問題に完全決着をつける。今までずるずると慰安婦=性奴隷が正当化されてきた原因は封建時代の舞妓、妓生を含んだ遊女たちが性奴隷であったことを解明しなかったことにある。封建時代から調べなければ慰安婦=性奴隷が間違っていることを説明することができない。
慰安婦=性奴隷は間違っていることを日本国民に説明することは重要であるしろ、今まで十分な説明ができていない。
日本で慰安婦=性奴隷を完全に粉砕するつもりだ。

「少女慰安婦像は韓国の恥である」で日本、韓国の封建時代の舞妓、妓生や遊郭などの女性のほとんどは少女の時に買われた性奴隷であったという説明が不足していた。封建時代には性奴隷であったことを説明する必要があるが、それだけでは足りない。封建時代の次の明治時代でも遊郭の女性は性奴隷であったのは歴史的事実である。この説明も足りなかった。
娼妓取締規則が施行されたのは明治三十三年である。つまり三十三年間の日本の社会では封建時代の性奴隷のシステムは容認されていたのである。そして、娼妓取締規則が施行されたが、それが社会に浸透するのには時間がかかった。特に沖縄では娼妓取締規則は全然浸透していなかった。
 子供の頃に母が話したことであるが、戦前は親のいうことを聞かない男の子には「糸満売り」すると脅したそうだ。すると男の子はおとなしくなり親のいうことを聞いたそうである。「糸満売り」とは糸満の漁師に少年を売ることである。売られた少年は漁のやり方を教えられるが、泳ぎを教える時は縄で子供の腹を縛って泳ぐことができなくても海に放り投げたそうだ。少年が海水を飲み死にそうになっても、何度も海に放り逃げたという。だから少年たちは「糸満売り」を怖がった。
女の子は「ジュリ売り」をするぞといったそうだ。ジュリ売りされると遊ぶ自由はなくなり、歌や踊りの厳しい訓練の毎日である。ジュリ売りすると言えば女の子はおとなしくなったそうだ。
ジュリとは遊女をさすことばである。近世から那覇の辻(つじ)(方音チーヂ)や仲島、渡地(わたんじ)は遊廓(ゆうかく)として発展したが、ジュリはそこの遊女をさして使われた。
戦前の沖縄には「糸満売り」「ジュリ売り」があった。
私は二十年ほど前に糸満売りをされたという男性にあった。私の家の前には400坪のほどの荒れ地があった。荒れ地を地主から無料で借りて畑にしたおじさんがいたが、彼は与那国から糸満に売られたと言っていた。

 八歳の時に辻にジュリ売りされた有名な民謡歌手がいる。名前を糸数カメという。彼女は1915年6月26日に生まれ、八歳の時に辻に売られた。大正12年である。糸数カメは戦後は民謡歌手として活躍した。彼女は民謡だけでなく踊りの達人でもあった。

 

辻とは遊郭のことであり、糸数カメは八歳から歌、踊り、三味線の英才教育を受けた。ポスターに「古典芸能を土台に諸芸能を取り組み」と書いてあるが、それは糸数カメだけでなく、全ての辻の少女が古典芸能を土台に諸芸能を取り組んだのである。その中でも糸数カメは優秀だったのだ。だから戦後は民謡歌手として活躍した。
 私が糸数カメを知ったのはユーチューブとグーグルのお陰である。戦前の民謡で軍人節というのがある。若い頃に何度も聞いたが民謡に興味のない私は聞き流していた。軍人節は反戦歌と言われている。しかし、戦前に反戦歌などなかったはずである。軍人節の詞の内容をしりたくなった。ユーチューブでは聞きたい歌を探せるので軍人節を探して聞いた。私の聞いた軍人節は嘉手苅林昌と糸数カメのデュエットだった。

軍人節
作詞・作曲 普久原朝喜
(夫)無蔵と縁結で月読みば僅か 別れらねなゆみ 国の為でむぬ 思切りよ思無蔵よ
○貴女と縁を結んで(の)日々を数えると僅か(しかない) 別れなければなるまい 国の為であるから あきらめよ 愛する貴女よ
(妻)里や軍人ぬ 何んち泣ちみせが 笑て戻いみせる御願さびら 国の為しちいもり
○貴方は軍人になったのです。なぜ泣くのですか。(私はあなたが)笑ってお戻りくださることをお願いします 国の為(に)軍人としてしっかりと働いてきて来てください。
(夫)軍人の務め我ね嬉さあしが 銭金の故に哀りみせる母親や如何がすら
○軍人の務めをするのは誇りであるし、嬉しいのだが、(私が居なくなると生活の)お金のために苦労される母親はどうなるのか(心配だ)。
(妻)例え困難に繋がれて居てんご心配みそな 母の事や思切みそり思里前
○例え困難に縛られていても ご心配なされないで母のことは 思いを切ってください。 あなた。 
(夫)涙ゆい他に云言葉やねさみ さらば明日ぬ日に別れと思ば 此の二人や如何がすらなみ
○涙以外に言葉はない 明日に日には別れなければならないこの二人はどうなるのだろうか。

 糸数カメの歌を聞いた時、彼女の声が他の民謡歌手とは違っているのに気が付いた。民謡歌手は地声で歌うが、彼女の声はオペラ歌手のように鍛え上げた声をしているのだ。糸数カメの声を聞いて頭に浮かんだのが淡谷のり子であった。糸数カメの声は他の民謡歌手と比べて上品な声をしていた。糸数カメに興味を持ちグーグルで調べた。それで糸数カメが八歳の時に辻に売られたことを知った。

 封建時代に存在していた子供の売買は明治時代になってもなくなることはなく続いていたのだ。沖縄では昭和になっても続いていた。その証拠として糸数カメのジュリ売りがある。本土でも娼妓取締規則を守らないで女の子の売買はあっただろうし遊女を性奴隷にしている遊郭は多かったはずである。

 1910年韓国併合があり、日本が韓国を統治するようになった。四民平等と法治主義を韓国にも適用したのが日本政府である。1916年に妓生や酌婦、芸妓などの遊女を奴隷から解放する貸座敷娼妓取締規則を施行したが、それは明治政府が一方的に韓国に押し付けた法律であり法律を守ろうとする韓国人はいなかったはずである。今までの歴史的伝統である性奴隷システムをしっかりと続けていたはずだ。
貸座敷娼妓取締規則を施行してもそれを守る業者は少なかった。それは沖縄も同じだ。日本兵相手の遊郭のほとんどの娼婦は業者に買われた性奴隷だったのだ。慰安婦問題で民間の娼婦のことが出てこい。不思議であるし、そのことが慰安婦が性奴隷ではないことの証明を阻んでいる。
慰安婦は日本軍が管理した娼婦であるが実際は慰安婦より民間の娼婦が多かったはずである。民間の娼婦が出してこないことが慰安婦は性奴隷ではなく売春婦であったことの証明が出ない根本的な原因である。
慰安婦問題で絶対に譲れないのが日本軍が管理していた慰安所だけは貸座敷娼妓取締規則の法律が適用され、慰安婦は職業婦人としての娼婦であったことだ。
唯一慰安婦だけは性奴隷でなかった。ところが日本政府はこの事実を認識することができないようである。政府だけでなく慰安婦は売春婦だと主張する日韓の識者や学者も同じである。
民間の娼婦が性奴隷であり慰安婦は性奴隷ではなかったことを認識していない日本政府は裁判でドジを踏む。
 韓国遺族会裁判(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件)で、裁判所に提出した金学順の略歴を見れば彼女が慰安婦でなかったことは明白であるのに日本政府は「金学順は慰安婦ではなかった」ことを立証し、主張することができなかったのだ。
もし、金学順が慰安婦であったなら、自分の意思で慰安婦になったこと、父母も賛成したことの書類を警察に提出していた。そして、慰安婦としての報酬をもらっていた。慰安婦であったと主張するならば金学順はそのことを認めなければならなかった。認めなければ慰安婦ではなかったということだ。
金学順は妓生に40円で売られている。ということは彼女は妓生になっていた。40で売られた金学順は性奴隷の世界からことは不可能だった。妓生に売られたことで慰安婦ではないことは決まっていた。。
慰安婦ならば韓国で応募して、日本軍が指定した場所に報酬や生活を管理する楼主が連れて行ったはずである。ところが妓生を管理している養父に連れられて中国に行ってから慰安婦になったといっている。慰安婦ならありえないことである。明らかに金学順は慰安婦ではない。性奴隷の妓生である。彼女の居た場所は慰安所ではなく民間の韓国人が経営する遊郭であった。日本兵相手の売春をやったとしても慰安所以外の場所での売春であった。
 金学順が慰安婦ではなかったこと。日本軍は関わっていなかったことを日本政府は立証するべきであったのにしなかった。日本政府自体が慰安婦と妓生などの民間の売春婦を区別することができなかったことがずるずると今日まで慰安婦問題が続き、慰安婦=性奴隷の主張を否定することができていないのである。
 政府たけではない。識者や学者も慰安婦が性奴隷ではないことの証明ができていない。封建社会であった江戸時代や大韓帝国時代の遊女は性奴隷だった。明治政府、韓国併合以後に性奴隷から解放する法律はできたが、民間では封建時代の慣習が続き、遊女の性奴隷が多かった。唯一国家機関である日本軍は法律を守り、遊女を性奴隷から解放した。唯一慰安婦だけは性奴隷ではなかった。

 慰安婦は売春婦だったと主張する日韓の学者たちは慰安婦は売春婦だったと主張するだけである。性奴隷ではなかったという証明はしていない。そもそも彼らは左翼と同じように性奴隷の定義をしていない。
 奴隷とは売買される人間のことである。舞妓も妓生も遊女も売られた少女である。だから彼女たちは奴隷であった。
 奴隷には選択の自由がない。彼女たちは自分の意思で辞めることはできなかった。だから奴隷である。しかし、慰安婦は自分の意思で辞めることができるから奴隷ではない。
 娼妓取締規則は売買を禁止しているし、慰安婦は自分の意思で慰安婦になることを決める。止めることもできる。だから奴隷ではない。
 奴隷には報酬がない。しかし、慰安婦には報酬がある。だから借金を返済するために慰安婦になり、借金を返済した後に慰安婦を辞める女性もいた。
 このような事実を知れば慰安婦が性奴隷ではなかったことが理解できる。性奴隷だったのは封建時代の慣習を続けた民間の娼婦だったのだ。
 元慰安婦を名乗っている女性たちはみんな民間の娼婦であった。日本軍が管理する慰安所の慰安婦ではなかった。
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