なぜ日本は自民党が与党であり続けるのか

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なぜ日本は自民党が与党であり続けるのか


日本はずっと自民党が政権を握っている。国民の自由な選挙で国会議員は選出されるのだから、他の政党と交互に与党になるのが普通である。事実、外国の議会制民主主義国家では米国のように与党は変わっている。日本のように自民党がずっと与党であり続けている国はない。まるで日本は自民党を与党にさせるために裏で政治工作をしているのではないかと思わせるほどに自民党が与党であり続けている。
日本は国民の自由意思で選挙をする。裏工作はない。だから、国会議員は国民の自由意思で選出している。そうでありながらなぜ自民党が与党であり続ける。不思議である。


 1953年の国会は自由党(199) 改進党(76) 左派社会党(72) (右派社会党(66) 分党派自由党(35) その他(18)であった。1955年になると保守系は日本民主党(185)と自由党(112)の2党になり、左翼系も左派社会党(89)と右派社会党(67)の2党になった。1958年には自由民主党(287) 日本社会党(166)の2大政党時代になった。二大政党時代になったから自民党と社会党政権を争い、交互に与党になるのが普通であるが、そうならなかった。社会党が与党になったことは一度もなかった。


 1958年以後に、1993年と2009年以外はずっと自民党が与党であり続けた。社会党は分裂し社会党はなくなった。自民党は分裂しないでずっと安定して続いている。
日本国民は自民党を支持し続けている。しかし、自民党だから支持しているというものではない。自民党の政治を支持しているのだ。もし、自民党よりも他の政党の政治がいいと思ったら国民は自民党以外の政党を支持している。事実、2009年に民主党が309議席、自民党119議席になり、民主党が与党になったことがある。民主党が与党になったということは国民は自民党だから支持しているということではないのだ。
 
自民党政権時代にアメリカ合衆国発の金融危機で世界経済が悪化したことがある。アメリカの金融危機によって円高になった。円高になると日本製品は高くなり売れなくなる。日本輸出は落ち込み、日本経済は悪化していった。経済悪化を自民党政府を改善することができなかった。日本経済はますます悪化していった。国民は自民党政府に不安を持つようになった。
かつてない速さで悪化する経済情勢に加えて、ねじれ国会における野党の審議拒否・審議引き延ばしのために迅速な景気対策がとれなかった。そのために麻生内閣の支持率は10%台まで落ち込んでいった。
自民党より民主党のほうが国民のための政治をやると信じた国民は総選挙で民主党を与党にしたのである。国民は民主党が日本の経済悪化を克服すると期待したが、民主党政権で経済はますます悪化していった。民主党は国民の期待を裏切ったのである。3年後の2012年の総選挙では民主党はたった53議席しか取れないで野下した。国民は自民党に期待した。294議席確保した自民党が与党に帰り咲いたのである。
 与党に帰り咲い自民党は総理大臣を安倍晋三氏にした。安倍内閣は経済対策を立てた。それをアヘノミクスという。
「第一の矢」:大胆な金融緩和 
「第二の矢」:機動的な財政政策 
「第三の矢」:民間投資を促す成長戦略


 安倍内閣は円高を解消し円安にするためにマイナス金利による金融緩和をやった。マイナス金利にすれば銀行の収入は激減する。円への信頼はなくなり、世界での円の価値が低くなる。もしかすると新たな経済危機に陥るかもしれない。危険を覚悟で安倍内閣はマイナス金利政策を実行したのである。世界でマイナス金利政策をした国はない。日本だけである。マイナス金利によって円は次第に安くなっていった。すると日本の商品は安くなり輸出が増加していった。アベノミクスによって日本経済は復活していった。


安倍内閣は2度総選挙をやった。国民は安倍内閣を支持し、2度勝利し、安倍内閣であり続けている。2005年から2021年の自民党→民主党→自民党という政治の流れを見ると、国民は国民生活を豊かにする政党を選んでいるのだ。


社会党と共産党は国民生活を豊かにする政党ではないと国民は知っていた。だから、支持率は低く、社会党、共産党が与党になることはなかったのだ。


<font size=4>自民党が与党であり続けている原因を解いていく1 


笠置シズ子とパンパン</font><center>

 この写真に強い衝撃を受けた。手を振っている女性は歌手の笠置シズ子である。そして、笠置のファンたちである。私が衝撃を受けたのは女性ファンが快活に笑っていることである。女性歌手のファンが女性であるのだ。
 笠置シズ子は終戦の2年後の1947年に「東京ブギウギ」を発表した。「東京ブギウギ」は大ヒットして笠置は国民的スターとなった。笠置が有名な歌手であること。東京ブキウギをうたっていたことは知っていた。私が驚いたのは女性たちの笑い顔である。敗戦して数年後である。敗戦のショックで国民は貧しさの中で苦しんでいるはずである。それなのに女性たちは快活に笑っているのだ。信じられない笑いである。
 彼女たちは熱烈な笠置ファンである。



 私は水谷豊の「相棒」のファンである。相棒だけは昔からずっと見ている。昼に再放送をしているが再放送も見ている。水谷の娘である女優趣里が笠置シズ子を主人公にしたNHKの連続ドラマ「ブキウギ」の主人公を演ずるということを知った。それまでは趣里のことを知らなかった。趣里 が演じる笠置について調べてみた。調べていると笠置の前に集まっている女性ファンたちの写真を見つけた。女性たちは笑い、とても楽しそうである。
 彼女たちは米兵相手に体を売る“パンパン”である。パンパンたちは笠置の熱烈なファンであった。パンパンたちが熱烈なファンであることを知って驚いた。米兵相手に体を売る“パンパン”たちが笠置のブギに熱狂したというのだ。なぜ熱狂したのかという原因については書いていない。
 東京ブキウギの歌詞である。


東京ブギウギ リズムウキウキ
心ズキズキ ワクワク
海を渡り響くは 東京ブギウギ
ブギの踊りは 世界の踊り
二人の夢の あのうた
口笛吹こう 恋とブギのメロディー
燃ゆる心のうた 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵も月の下で
東京ブギウギ リズムウキウキ
心ズキズキ ワクワク
世紀のうた心のうた 東京ブギウギ
ヘイー
作詞:鈴木 勝 作曲:服部 良一


 ブギのリズムは元来、黒人ジャズやブルースの流れをくみ、逆境の中でも世を恨まず、強く明るく生き抜こうという希望を与える歌である。東京ブギブギはウキウキ、ワクワクし楽しく踊る歌である。米兵を相手に体を売っているパンパンたちが熱狂する歌とは思えない。しかし、熱狂したのである。
「ブギの女王”が“夜の女”たちの心を捉えたのは、未亡人となった笠置シヅ子が乳飲み子を抱えて懸命に歌い踊る姿に、同性として心打たれたからだと解説している。彼女たちは、苦しさを顔に表さずに舞台で明るく力強く歌い踊る笠置シヅ子に、生きる希望を投影していたと解説している。日劇のステージのかぶりつきに、花束を持ち、目を輝かせた彼女たちの姿を見ない日はなかった」とジャーナリストは評している。
信用できない批評である。
観客がファンになるかならないかは舞台の歌手の歌いっぷりを見てから決めるのである。歌手がどんな私生活をしているかは関係ない。彼女たちは舞台の笠置の歌いっぷりを見て熱烈なファンになったのである。,
彼女たちは日劇での笠置のステージに毎日駆けつけたという。彼女たちは数百名で舞台前の客席を陣取り、まるでアイドルファンのように笠置を熱烈に応援したという。それが敗戦から数年後に起こったことである。信じられない。信じられないが事実である。


1950年アメリカ公演に行く前に歓送特別公演が日劇で行われた時、夜の女たちの姐御“ラク町のお米”は仲間たちに大号令をかけ、日劇の一階の半分、約800席を買い占め、「ラクチョウ夜咲く花一同より」と書かれた、ひときわ大きく高価な花束をステージの笠置に贈ったという。笠置は感激し、彼女たち一人ひとりに「おおきに、おおきに」と応え、握手をして回った。<center>

 笠置シヅ子とパンパンたちの明るい姿を見て子供のころの近所に住んでいたアメリカハーニーたちを思い出した。私が住んでいた場所は嘉手納米軍飛行場から1キロほど離れている場所にあった。隣近所には米兵と同棲しているアメリカハーニーたちが居た。ハーニーとはアメリカ兵と結婚している女性ではなく、同棲することによってアメリカ兵から収入を得ている女性である。ハーニーは地元の女性はいなかった。遠く離れた場所に住んでいる女性たちであった。米兵から得たお金を実家に送っていた。離島の女性は多かったようだ。そのような女性をアメリカハーニーと呼んでいた。
 
ハーニーたちは明るかった。彼氏である米兵とは友達のようであり、男尊女卑のような関係はなかった。むしろ、ハーニーのほうが強い印象だった。笠置シヅ子のファンであるパンパンたちの写真を見るとハーニーたちの明るさと重なった。
 二軒隣の女性は米兵と結婚していた。子供が二人いて、一緒に遊んだ。かなり離れた家にはベッキーという私生児が居た。よくいじめられていた。
ある日、広場で遊んだ後に川に行くことにらなった。ベッキーは遊び仲間ではないので連れて行かない。しかし、ベッキーが錆びそうな顔をしたので、
「ベッキーも行くか」と聞いた。ヘッキーは嬉しそうにうなづいたので連れていくことにした。川はむらからかなり離れている。川遊びをしていると、
「ベッキー」
と女性の声が聞こえた。女性は何度も「ベッキー」と言いながら近づいてきた。ベッキーは川から出て女性を向かえた。女性はベッキーの母親だった。母親は泣きながらベッキーを強く抱きしめた。母親は私たちが川に連れて行ったのはベッキーを集団でいじめるのが目的であると思ったらしい。私たちは母親が泣きながら強く抱きしめている理由が分からず首をかしげながら見ていた。ベッキーは苦笑いしていた。母親はベッキーを連れて帰った。


 アメリカハーニーたちの陽気は他の女性に感じることができない明るさだった。東京のパンパンたちと似ている。米人を接することによって肌で感じることができる自由ではなかっただろうか。


 彼女たちは戦前の日本では感じることができなかった「自由」を米兵と接触して感じたのではないだろうか。
 米兵と書いてあるが日常生活では軍服はつけていない。米兵は普通のアメリカ人である。彼女たちは普通のアメリカ人と接触したのである。

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