辺野古移設の真実を捻じ曲げる者たち


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

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沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
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「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

みなさんの意見・感想は
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辺野古移設の真実を捻じ曲げる者たち


辺野古移設の真実、辺野古埋め立ての真実を述べた。
 辺野古移設は普天間飛行場の危険性をなくすためである。本当は米軍基地問題ではなく人道問題である。たとえば、街の中に危険物を扱う工場があり、しかも騒音が周辺住民に被害をもたらしている。そんな工場を安全な場所に移設するのと同じことである。たまたまそれが米軍基地であっただけのことだ。
 普天間飛行場の移設については国外、県外、県内のあらゆる場所を検討した結果辺野古に決まった。国外、県外移設は不可能であり、辺野古に移設するかそれとも普天間に固定化かの二者択一が本当の問題だ。ところが辺野古移設反対派は徹底してこの真実を隠している。隠して嘘の理由を並べ立てて辺野古移設反対を主張しているのである。翁長知事、革新、沖縄二紙は辺野古移設の真実、辺野古埋め立ての真実を捻じ曲げて、嘘の理由をねつ造して辺野古移設に反対している。


○国土面積の0・6%にすぎない沖縄に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中。
73・8%ではない。本当は22・7%だ。日本には、北海道から沖縄まで、全国各地に132か所の米軍基地がある。そのうち米軍専用基地は83か所で、他は自衛隊との共用である。共用の49所を入れないから73・8%である。共用を入れると22・7%である。共用といっても米軍が自由に使用していて専用と同じである。共用を含めると北海道が一番広い。米軍の実質的な使用施設は専用施設と共用施設であり実質は22・7%であるのに専用施設だけを計算して73・8%としている。沖縄に基地が集中しているように見せかけるためのまやかしである。
 
○嘉手納飛行場以南の米軍基地を返還しても専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものである。
 嘉手納飛行場以南の米軍基地返還は沖縄本島の問題であって、全国に占める割合で考えるべきではない。嘉手納飛行場以南の人口は沖縄本島の80%を占める。沖縄本島の80%の住民の周囲から米軍基地はなくなるのである。それは大きな効果である。0・7%しか縮小されないというのは印象を小さくするためのまやかしである。

○沖縄の米軍基地問題は、わが国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題である。
 辺野古移設問題は米軍基地問題でもなければ安全保障の問題でもない。普天間飛行場の危険性をなくす目的の人道問題である。人道問題を基地問題、安全保障問題にすり替えて捻じ曲げている。
日本の安全を守っているのは米軍だけではない。自衛隊も日本を守っている。安全保障の問題であるならば、米軍と自衛隊を合わせて考えるべきである。自営隊員は22万人である。4万人にも満たない米軍よりも自衛隊のほうが日本を防衛している。自衛隊基地は圧倒的に本土が負担している。
本土の主な米軍基地は、三沢空軍基地(青森県三沢市)、横田空軍基地(東京都福生市など)、横須賀海軍基地(神奈川県横須賀市)、岩国海兵隊基地(山口県岩国市)、佐世保海軍基地(長崎県佐世保市)であり、米軍基地は国民全体で負担している。沖縄が米軍基地を過重負担していると言うのは間違っている。

○基地が造られると、大浦湾の美しい風景も生物が多様にすむ海も見られなくなってしまう。
 埋め立てるのは辺野古崎沿岸部だけである。大浦湾を埋め立てるのではない。飛行場建設予定地は現在も建物が建っている。建物群が飛行場になるだけであり、大浦湾の風景が変わるわけではない。埋め立て地から大浦湾に土砂は出ない。大浦湾を汚染しない。だから大浦湾の生物が死ぬことはない。「基地が造られると、大浦湾の美しい風景も生物が多様にすむ海も見られなくなってしまう」は真っ赤な嘘である。しかし、新聞に掲載されたこの文章を読んだ人は大浦湾や辺野古の海が埋め立てられてしまうと信じるだろう。

○こんなきれいな場所を埋め立てるなんて政府の考えは理解ができない。
 これも同じである。辺野古の海や大浦湾を埋めるのをイメージさせる発言である。埋め立てる場所は新聞などに掲載している図などで分かる。辺野古の海も大浦湾も埋めないのに「こんなきれいな場所を埋め立てるなんて」というのである。事実を捻じ曲げている。
 
○ジュゴンがすむ海を守ろう。
 埋め立てするのは辺野古崎沿岸部だけである。大浦湾や辺野古の海に影響はほとんどない。ジユゴンに影響を与えることはない。そもそもジュゴンは回遊動物であり、大浦湾にも辺野古の海にも棲んでいない。ジュゴンが棲む海は金武湾南部、金武漁港から辺野古岬、安部‐嘉陽、伊部、屋我地島周辺の5個所である。
ジュゴンを保護するには、浅所にある海草場と深所の日中避難場を保存することである。ジユゴンの保存に危険なものは辺野古崎の埋め立てではなく、刺し網、定置網の設置、モズク養殖のネットである。水産養殖施設その他の水中構築物も危険である。辺野古崎沿岸部を埋め立てる辺野古基地建設はジュゴン保護には関係がない。辺野古で「ジュゴンがすむ海を守ろう」は辺野古崎埋め立てに反対する人を集めるためのでっち上げである。

○止めよう新基地建設!命育む美ら海を守り抜く。
もし、辺野古埋め立て地から土砂が流出するのなら、海底が土砂に覆われてサンゴもジュゴンの餌である藻も死滅する。飛行場建設反対派の主張は正しい。しかし、土砂は流出しない。土砂が流出しないのだから海の自然は守られる。大浦湾の全ての生物は今のままである。
 埋め立て反対派は大浦湾の自然が失われることを理由にして埋め立てに反対している。自然は失われないのだから埋め立て反対の根拠はない。彼らは嘘をついている。それも故意に嘘をついている。素人の発言に見えるが、彼らは素人を装った左翼活動家である。彼らは新聞に掲載されるのを目的に発言している。辺野古埋め立ての事実を知らない市民を辺野古移設反対に導くためである。

○観光立県なのに自然を壊して、人殺しの基地を造ることには反対。
「自然を壊して」は大嘘である。
 辺野古基地建設は普天間飛行場の移設が目的である。辺野古飛行場が人殺しの基地であるなら同じように普天間飛行場も人殺しの基地である。辺野古飛行場建設を阻止すれば普天間飛行場が残る。「人殺しの基地」は減らない。辺野古飛行場が完成すれば普天間飛行場はなくなるのだから基地が増えると言うことでもない。辺野古基地建設を阻止しようがしまいが「人殺しの基地」はあり続ける。あたかも辺野古基地は移設ではなく新基地であるように述べている。
2004年8月13日に普天間飛行場に隣接する沖縄国際大学にヘリコプターが墜落した。幸いにも死者は出なかったが、死者がでてもおかしくない事故だった。普天間飛行場と辺野古飛行場の違いは人口密集地にあるかないかである。普天間飛行場は人口密集地のど真ん中にあり、飛行機事故が起これば人の命が失われる可能性が高い。一方辺野古飛行場の周囲は海であり飛行機事故が起きても人の命が失われる可能性はとても低い。人の死ぬのに反対であるなら辺野古移設に賛成するのが当然である。ところが「人殺し」に反対という理由で辺野古基地建設に反対している。まるで普天間飛行場の移設ではないようだ。辺野古移設反対に賛成する人を増やすためのまやかしである。

○先の世代には戦争を体験させたくない。命がけで基地建設をとめたい。
 普天間飛行場を辺野古に移設するための建設である。基地を新しく建設することではない。基地は増えない。むしろ、辺野古飛行場は普天間飛行場より小さくなるし、嘉手納飛行場以南の米軍基地は撤去する。基地は減るのである。辺野古の基地建設を止めたら危険な普天間飛行場が残るだけである。
 沖縄は戦後70年間戦争がなかった。米軍が沖縄を守ってきたからだ。米軍基地が沖縄に存在する限り、沖縄が戦場になることはない。戦後の歴史がそのことを証明している。
 米軍基地があるから戦争になると思うのはひどい勘違いであり、被害妄想である。

○仲井真知事が防衛局の埋め立て申請を承認しなかったら県民同士(警官と反対派)が争わなくて済んだ。知事は辺野古に来て、県民同士の争いを見てほしい。
 議会制民主主義を否定した主張である。埋め立て申請は公有水面埋立法に則ったものであり、瑕疵がなければ知事は承認しなければならない。瑕疵がなかったから仲井真知事は承認したのだ。
 警官は県民である前に議会制民主主義国家日本の法律を国民に遵守させる義務を持つ国家公務員である。県民であろうとなかろうと違法行為をしている人間を取り締まるのが警官だ。県民同士の争いとは笑わせる。辺野古移設反対派が違法行為しているのを警官が取り締まっているのであり、県民同士の争いではない。
 そもそもキャンプシュワブで違法行為を繰り返している人間たちは全国から辺野古移設阻止を目的に集まってきた左翼活動家たちだ。過激な違法行為をして警官に逮捕された人間の多くは本土からやってきた者たちであり、県民はとても少ない。彼らは共産党や社民党や革マル派や中核派に属する人間たちであり、市民というより左翼活動家である。彼らの目的は辺野古移設を阻止することだけではない。彼らの目的は辺野古移設を阻止し、普天間飛行場を閉鎖・撤去し、日本の米軍基地を撤去し、日米安保条約を破棄することである。彼らは市民を装った左翼活動家だ。

自然を愛する市民を騙すプロパガンダたち

キャサリン・ミュージック
 キャサリン・ミュージックさんは名護市辺野古沖の大浦湾を訪れ、ハマサンゴやアオサンゴの群集するポイントに潜り、視察した。「まだ大丈夫。美しい」と笑みを浮かべ「世界中で(美しい海が)失われている。辺野古の海は絶対に守る。私は諦めない」と話した。

キャサリン・ミュージック=1948年生まれ。海洋生物学者。世界中の海をフィールドにし、1980年代に石垣島新空港建設計画があった白保でサンゴの保護活動に関わり、その後沖縄に述べ11年滞在し、現在はハワイ在住。

 キャサリンさんはこれまでプエルトリコの海やグレートバリアリーフ(オーストラリア)など世界各地の海に潜り、サンゴ礁の調査をしてきた。米軍普天間飛行場の移設に伴う辺野古海域の埋め立てについては「恐ろしい行為。ばかなこと」と批判している。
「辺野古の海には千種を超える魚がいる。サンゴも400種以上が生きている。新種もまだいるはずだ。こんなにも美しく、貴重な海は世界中どこにも残っていない」
と指摘し、
「軍事基地ではなく、海洋公園にするべきだ。世界中の人に辺野古の海の美しさを知ってもらいたい。そうすればきっと、ばかな行為(新基地建設)は止められる」と語り、「カリブ海など世界中でサンゴ礁が失われている。温暖化や赤土汚染、酸性化など理由はさまざまだが、(基地建設で)わざと殺すのは信じられない」と大浦湾の世界的な価値を強調した。
「大浦湾は山と川があり、マングローブの生物など、全てを備えたエコシステムだ。軍事基地より海洋公園にした方が雇用や教育の面でも効果がある」と指摘し、「破壊か調和か、沖縄の人には選ぶことができる。スコットランドと同じで、沖縄には民主主義が生きている」と語った。

キャサリンさんは「(基地建設で)わざと殺すのは信じられない」と米軍基地建設が自然破壊するかのように発言している。キャサリンさんは間違っている。米軍基地は自然を破壊をしない。防衛局は環境アセスを県に提出し、県が検討した結果埋め立てを許可したのである。辺野古飛行場建設で自然を破壊することはあり得ない。しかし、キャサリンさんは自然破壊をするという。キャサリンさんの学者としての見識を疑わなければならない。
 キャサリンさんは、「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん(山がはげれば海もはげる。海がはげれば沖縄もはげる)」としまくとぅばで語ったという。その通りである。山からの栄養を含んだ水が海に流れ出て、その養分が海の植物や動物を育てる。山の自然を保つということは海の自然を豊かにするということである。大浦湾の周囲は山である。山の自然が大浦湾の自然を豊かにしているのは事実である。
キャサリンさんの言う通りであるが、しかし、「山ぬはぎねー、海んはぎん」にはひとつ大事なことが抜けている。川である。山の水は川を伝って海に流れ込む。だから、山の自然が保たれたとしても川が汚染された場合は山からの水は汚れてしまい。汚れた水が海に流れ込んでしまう。川が汚れていると海も汚れてしまう。
川を汚染する正体は川沿いにある工場や住宅や畑である。工場や住宅や畑から汚染水が流れ出て、川を汚し海を汚すのである。山は自然のままであっても川が汚染されていると海は汚染されてしまう。

大浦湾は沖縄本島の東側にあり、名護湾は西側にあるが、二つの湾は同じ山から水は流れている。それなのに大浦湾は自然が豊かでジュゴンが食する藻が生えている。しかし、名護湾は大浦湾ほどには自然が豊かでないからジュゴンの藻は育っていないしジュゴンもやってこない。昔は名護湾にもジュゴンが来たことはある。その頃は名護湾も汚染されていなかったのだろう。しかし、今はそうではなくなった。
名護湾も大浦湾も同じ山から水が流れている。しかし、名護湾と大浦湾には大きな違いがある。名護湾は北部最大の名護市街地になっていて、川は赤土や生活排水などで汚染されている。しかし、大浦湾の周囲は人口が少ない。汚染度は低い。だから大浦湾の自然は豊かである。キャサリンさんの「山ぬはぎねー、海んはぎん」は川の汚染を考慮していない中途半端な理屈である。名護湾にそそぐ川の汚染を防げば大浦湾と同じように名護湾にもジュゴンはやってくるだろう。
 キャサリンさんが海洋生物学者であるならば大浦湾と名護湾を比較するべきである。そして、大浦湾と名護湾の違いを指摘し、名護湾の自然も豊かにするように指導するべきである。キャサリンさんは大浦湾だけを観察するのではなく北部全体を見て、適切なアドバイスをしてほしいものだ。
             
 キャサリンさんは「大浦湾は山と川があり、マングローブの生物など、全てを備えたエコシステムだ。軍事基地より海洋公園にした方が雇用や教育の面でも効果がある」と指摘しているが、その指摘には疑問が残る。
 大浦湾には二見川、大浦川、汀間川、美謝川がある。二見川は上流にダムがあり、雨が降らないときはほとんど水が流れていない。雨が降ると溜まった生活排水を海に流し込む。
キャサリンさんが言う通り、大浦川には沖縄で一番大きいマングローブ林がある。マングローブが植わっている場所は上流から赤土が流れてきて堆積している場所である。
 大浦川の川沿いは住宅とウコン畑が続いている。ウコン畑の溝は川につながっている。雨が降らない時は山の水が大浦湾に流れ出るが雨が降ると生活排水や畑の赤土が大浦湾に流れ出る。二見川、大浦川、汀間川の河口は赤土の混ざった砂である。白い色ではなく茶色にくすんだ色の砂である。汚染された砂である。
 三つの川は住宅や畑沿いを流れて赤土や生活排水を大浦湾に流しているが美謝川は違う。美謝川はキャンプシュワブ内を流れていて、住宅や畑からの排水が流入することはない。山の水がそのまま大浦湾に流れ込んでいるのが美謝川である。実はジュゴンの食する藻が繁茂している場所は美謝川河口である。大きな藻が生えているのも美謝川河口の近くにある。民間地を流れている三つの川の河口にジュゴンの藻が繁茂しているという記事はまだ一度も載ったことがない。もし、軍事基地を撤去し美謝川沿いが住宅や畑になったら美謝川も他の三つの川と同じように汚染されてジユゴンの藻は生えなくなるだろう。キャンプシュワブが民間地になれば大浦湾の汚染がもっと進み、キャサリンさんのいうエコシステムは破壊される可能性が高い。
 大浦湾は東側にあり高い山に囲まれている。早く日が暮れる。夕日も見れない。沖縄の観光ホテルやリゾートが西海岸に多いのは日が暮れるのは遅く美しい夕日が見れるからである。大浦湾を海洋公園にしても訪れる人は少ないだろう。莫大な維持費に無駄な税金を使うだけである。

 「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん(山がはげれば海もはげる。海がはげれば沖縄もはげる)」は辺野古飛行場の埋め立てとは関係のない理論である。なぜなら、辺野古埋め立ては海のほうであり山はなにも変わらないからだ。
「山ぬはぎねー、海んはぎん」は嘉手納飛行場以南の北谷、宜野湾、浦添、那覇市、豊見城市、糸満市などの人口密集地にはてはまる理論である。北谷町から那覇市にかけては緑の山はほとんどない。山を切り拓いて草木を切り倒し住宅や工場をつくったからだ。そのために山ははげたのである。それが原因で海岸の多くのサンゴは死滅していった。藻なども少なくなり魚は激減していった。「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん」である。
 サンゴを再生させようとサンゴの苗を植える活動をしているが、サンゴの再生に必要なのは苗を植えることではない。山を元に戻すことである。川をきれいにすることである。もう山を元に戻すことできないかも知れないが、川の汚染をなくし、海を浄化することはできる。サンゴは一つのサンゴから何十万もの種を放出する。種は海流に乗りあらゆる所に落ちる。海が浄化しサンゴが育つ環境をつくれば自然にサンゴは増える。
 川をきれいにすることがサンゴや海の動植物を保護する最良の方法である。

 辺野古飛行場は辺野古崎の沿岸部分を埋め立てる。山は関係がない。「山ぬはぎねー、海んはぎん」の指摘は的外れである。それに辺野古崎の沿岸部だけを埋めるだけであるから大浦湾の被害は微少である。
皮肉なことであるが、キャンプシュワブがあったから大浦湾の自然は保たれている。キャンプシュワブが民間地であったなら大浦湾は他の民間地域と同じように汚染されていただろう。海洋学者キャサリン・ミュージックさんの指摘は的外れである。キャサリンさんは海洋学者という肩書を辺野古反対派に利用されたプロパガンダである。

もっともらしく「埋め立ては産業破壊」などという大城忠
沖縄で生産されるもずくの6割~7割は辺野古以南の宜野座・金武・うるま市・南城市の海域で生産収穫されています。特に勝連、知念は主生産地で地域活性の重要産業となっています。もずくの生産量は自然環境(波浪・日照量・水温・潮流等)に大きく左右されるだけでなく、陸からの生活排水や都市開発、農業生産の管理によっても影響を受けます。それは、もずくもサンゴと同じ透明で綺麗なイノーの海でしか生育しないからです。
もし、辺野古基地建設が強行され、埋立てが進めば大量の土砂は、10月頃のミーニン(新北風)により拡散し、宜野座・金武・うるま市・沖縄市・北中城・知念・奥武島まで南下します。もずく養殖に不可欠なもずく母藻の育苗やもずく網への種付、沖出し後の芽出しに、大きな影響を及ぼし不作の原因となります。
年々、沖縄の海の環境は悪化し続ける現状で、さらなる埋立工事はもずくやアーサだけでなく他の水産物(魚類や貝、エビ等)にも影響があると思います。
                                       「大城忠」
大城忠氏(57)は もずくを販売しているイトサン(糸満市)会社の社長である、過去に糸満市沖の埋め立てでモズクが不作となった経験を踏まえ、「辺野古が埋め立てられればモズク産業は破壊する。沖縄の自立はストップする」と述べている。モズクが不作になる原因は辺野古基地建設が強行され、埋立てが進めば大量の土砂が大浦湾に流れ出てしまい、土砂は10月頃のミーニン(新北風)により拡散し、南下するからだという。大城氏は多くの埋め立て地を見てきたはずである。どのようにして埋め立てが行われるかも知っているはずである。
 大城氏は「過去に糸満市沖の埋め立てでモズクが不作となった」というがモズクが不作になった原因を述べていない。私は糸満市に15年近く住んでいた。埋め立ても見てきた。糸満の埋め立てで土砂が外海に流れ出た話は一度も聞いたことはないし、なかった。埋め立て地の海岸は魚が多く絶好の釣り場だった。土砂が流れ出なかったから絶好の釣り場になったのだ。糸満でもずくを栽培しているという話は聞いたことがなかったが、栽培していたとしてももずくが不作になった原因は予想できる。
 埋立ては豊見城市から糸満市にかけて行われた。広大な埋め立てであった。海で自然を育む場所は海岸近くの浅瀬である。浅瀬には植物や微生物が繁茂し栄養が豊富である。山と同じように浅瀬が海の自然を豊かにする。埋め立てによって豊見城市から糸満市の広大な浅瀬はほとんど埋め立てられた。それだけではない。山のほうは住宅が増えていった。キャサリンさんのいう「山ぬはぎねー、海んはぎん」である。それに浅瀬がなくなったから糸満の海はやせていった。もずくが不良になったとしたら山に住宅が増え、浅瀬が埋められたからである。
 大城氏のいう通り埋め立てによってもずくが不作になったことは事実であると思うが、原因は埋め立てで土砂が海に流れたことではなかった。海岸の広大な浅瀬は埋められ山ははげていったからである。
 辺野古飛行場の埋め立ては辺野古崎沿岸だけである。大浦湾の海岸のほとんどは埋め立てられることはない。山もそのままである。糸満市の埋め立てとは全然違う。もずく養殖について詳しいのなら糸満市の埋め立てと辺野古の埋め立ての違いを知っているだろうし、辺野古の埋め立てがもずく養殖に被害を及ぼさないことも知っているはずだ。もし、本当にもずく養殖に被害を及ぼすのならもずくを養殖している業者たちが大反対するばずだ。

辺野古は海底ボーリング調査を終えると、埋め立て工事が始まるが、すぐに土砂で埋めるのではない。防衛局は埋め立て本体工事の最初の手続きとして業者との契約を結んだが、最初に始める工事は傾斜堤護岸約320メートル、二重締切護岸約550メートル、ケーソン2工区で計430メートルの計1300メートルを整備する。埋め立てる前に埋め立て区域の外周の壁をつくるのである。今回の契約では全体約4900メートルのうち約27%を占めるという。
外周の壁をつくり、埋め立て地からは土砂どころか海水も漏れない状態にしてから土砂を埋めるのである。つまり、埋立地から大浦湾に土砂は出ない。大城氏が糸満市の埋め立てを見てきたのならそのことは既に知っているはずである。大城氏は知っていながら埋立地の土砂が大浦湾に流れ出ると言うのである。彼は嘘をついている。嘘ついていることを彼自身は知っている。なぜ大城氏は見え見えの嘘をいうのか。答えは大城氏のブログを見れば分かる。

安倍総理大臣は、4月から1千7百億円の国民の血税を投入し、本土大手建設会社を使い辺野古、大浦湾を埋立てを軍国主義のごとく強行に進めています。
沖縄の宝の海の一つ、辺野古、大浦湾の自然豊かな海は、次の世代に受け渡さななければならないものです。そして、その海をより豊穣にしてくれる山原の森や川も保全しなければならない、とても貴重な生態系です。
 人も、命の種を自分の子や孫を通じて受け継がれていくのと同じように、豊かな沖縄の自然も次の世代に残すことが、今を生きる私達県民の義務であると思います。
さらに、県民一丸となって辺野古、大浦湾の埋め立てを阻止する事は、海人の生きる糧(かて)や術(すべ)を守るだけでなく、沖縄の真の宝の物である沖縄の精神性や人間性(アイデンティティー)に対して大きな自信と誇りを取り戻し、やがて沖縄の自立と平和国家へと繋がります。
                              大城忠「海人ブログ」より
大城氏は安倍首相を軍国主義呼ばわりしている。「次の世代に残す」「県民一丸となって」「沖縄の精神性や人間性(アイデンティティー)」等々、大城さんの使う言葉は革新と同じである。つまり、大城さんは革新活動家であるのだ。革新活動家であるがゆえに自分の専門知識をひけらかしながら、辺野古埋め立てが自然破壊をするような真っ赤な嘘をつき、なにも知らない市民を騙して辺野古移設反対運動に巻き込んでいこうとしているのである。

キャサリン・ミュージックさんも大城忠氏も自然を愛する市民を騙すために存在するプロパガンダである。

島袋純琉球大学教授は学者ではない左翼政治屋だ
島袋純琉球大学教授のいう「民主主義の基本」は本当の民主主義の基本ではない。
島袋教授は辺野古移設に反対した稲嶺氏が名護市長選に当選したから、名護市民は辺野古移設に反対を明示した。だから日本政府は辺野古移設を断念するのが当然でありそれが民主主義の基本であると述べている。安っぽい民主主義論である。
政府が辺野古移設を決断した理由は、第一に辺野古飛行場建設は現在の軍用地をそのまま利用し、新たな土地接収は必要なかったことと、地主の反対がなかったことである。第二に辺野古区民が移設を容認したからである。もし、辺野古区民が反対すれば政府は辺野古移設の方向に動くことはなかった。辺野古区民の容認を得た政府は名護市長と県知事の説得に取り掛かった。そして、名護市長と県知事の賛成も取り付けた。辺野古区民、名護市長、県知事の三者が辺野古移設に賛成したから辺野古移設の実現に政府は動いた。政府・辺野古区民・名護市長・県知事の4者の合意があって初めて辺野古移設が決まったのである。これが議会制民主主義国家のやり方である。
辺野古飛行場建設は名護市の事業でもなければ県の事業でもない。国の事業である。だから、4者の合意が必要であった。莫大な事業費がかかり大きな工事である辺野古飛行場建設はいったん計画が始まれば簡単に止めることはできない。
過去の名護市長は辺野古移設を認めた。国の事業であるのだから、次の名護市長が反対したからといって簡単に止めることはできない。4者の合意で始まった国の事業を新しい名護市長が止める権限はない。合意は契約であり、4者の同意で成立した契約を名護市長の反対で破棄することはできない。それが日本の議会制民主主義がつくった法律である。
名護市長が賛成したら工事をやって、次の名護市長が反対したら工事を止め、次の市長が再び賛成したら工事を再開する。しかし、次の市長が反対したら再び工事を止める。そんなことをしたら国の事業はめちゃくちゃになる。日本の国がめちゃくちゃになる。島袋教授が主張しているのはそういう民主主義のことである。そんなバカげた民主主義はない。
地方の自治体が国の計画の実権を握る理屈になってしまう島袋教授の民主主義論は議会制民主主義の否定でしかない。

島袋教授のいう民主主義は、名護市に関係するものは全て名護市民に決定権があるということである。国、辺野古、前名護市長、県知事の4者で決めたことを新しい名護市長一人の心変わりで計画を頓挫させることが民主主義だというのである。そんなのは民主主義ではない。国家を破壊するローカルテロ主義だ。
名護市は辺野古移設に反対した候補が当選したが、八重山市長選、沖縄市長選では辺野古移設に賛成した候補が当選している。普天間飛行場の辺野古移設は名護市だけの問題ではない。県全体、国全体の問題である。名護市だけが反対したからといって中止するわけにはいかない。

島袋氏のいう民主主義にはもうひとつ問題がある。
島袋教授は辺野古移設反対を掲げて稲嶺氏が当選したのだから、名護市民は辺野古移設に反対している。だから、地元である名護市民の反対を聞き入れて辺野古移設を断念するのが民主主義であると言う。しかし、名護市民の多くは西海岸に住んでいるが、辺野古は西海岸から十キロメートルも離れている東海岸にある。地図を見れば本当の地元は辺野古であることが分かる。辺野古区民は移設を容認している。島袋氏のいう民主主義は地元の主張を聞き入れるのが基本であるなら名護市民は辺野古区民の要求を聞き入れて辺野古移設に賛成しなければならない。名護市民が辺野古移設に反対するのは地元辺野古の無視になる。辺野古では辺野古移設に賛成した区長が当選したから、島袋教授のいう民主主義では辺野古移設賛成ということになるのではないか。ところがこの事実を島袋教授は無視している。明らかに故意に無視している。その事実を認めれば島袋教授のいう地元主義の民主主義論では辺野古移設を認めてしまうからだ。島袋教授は辺野古移設反対のために理屈を組み立てている。自分勝手な民主主義論である。
もし、辺野古区長が辺野古移設に反対する候補が当選し、名護市長選では辺野古移設賛成の候補が当選したら、島袋教授は地元の辺野古が反対しているから辺野古移設は止めるべきであると主張していただろう。

島袋氏は琉球大学の教授である。議会制民主主義国家について知り尽くしているはずである。国、県、名護市、辺野古の政治的な権限について知っているだろうし、4者が同意した国の事業である辺野古移設を新しい名護市長が反対したからといって中止できないことは知っているだろう。それが議会制民主主義国家の基本であることは島袋教授は知っているはずだ。
稲嶺市長が市のあらゆる権限を使って辺野古移設を阻止しようとしたが、遅らすことはできても中止させることはできなかった。辺野古移設反対候補が知事になっても辺野古の工事を遅らすことはできても中止させることはできない。翁長知事が徹底して抵抗すれば太田昌秀元知事の時のように国は裁判を起こすだろう。法律に従って進めてきた国が裁判で勝つことは目に見えている。
島袋教授は学者としての議会制民主主義の知識より、辺野古移設反対のイデオロギーを優先させている。
島袋教授は学者ではなく左翼政治屋である。

辺野古でのテロ行為を正当化する佐藤学沖国大教授
 佐藤学沖縄国際大学教授は左翼活動家のテロ行為を正当化している。
 佐藤教授は、「海上での阻止行動を『特異な風景』と捉える向きが若者を中心に少なくない。沖縄が直接的な行動で止めるしかないほど追い込まれたことをもう一度確認したい」と述べて、今までの辺野古の経過を説明する。
二〇一〇年以降の県内選挙で辺野古移設反対の結果が続き、東京行動で安倍首相に建白書を渡し、辺野古移設反対は最高水位に達した。しかし、県関係の自民党国会議員、自民党県連が次々と転び、知事が埋め立てを承認したために、県民は民主的な方法を崩され、直接的な力に頼るしかなくなったというのが佐藤教授の説明である。
佐藤教授は東京行動は辺野古移設反対を主張したように述べているが、それは違う。東京行動の目的はオスプレイ配備撤回であった。オール沖縄はオスプレイ配備撤回で結成したのである。

建白書 
内閣総理大臣 安倍晋三殿
われわれは2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。
県民大会からわずかひと月もたたない10月1日、オスプレイを強行配備した。沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。特に米軍普天間基地は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数に上る死者を出している危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外何物でもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練が中止されている。
沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2カ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには14年から16年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願っても来た。この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。
安倍晋三内閣総理大臣殿。沖縄の実情を今一度見つめていただきたい。沖縄県民総意の米軍基地からの「負担軽減」を実行していただきたい。以下、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会、沖縄県議会、沖縄県市町村関係4団体、市町村、市町村議会の連名において建白書を提出する。
1、オスプレイの配備を直ちに撤回すること。及び今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。
2、米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。
                                    「建白書」
建白書で主張しているのは米軍基地からの「負担軽減」でありオスプレイ配備撤回である。それを県民総意としている。東京行動は「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」の延長であった。
「米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること」も要求しているが、それはオスプレイ配備撤回にとってつけたものであり県民総意とは言えない。それに建白書に記してあるのは辺野古移設反対ではなく県内移設断念である。
東京行動の時のオール沖縄ではまだ辺野古移設反対に統一してはいなかった。
建白書の文言は普天間飛行場の閉鎖・撤去の文言であったが、代表者の翁長知事は閉鎖・撤去ではなく県外移設を主張し続けた。その時点ではそれぞれが県外移設と閉鎖・撤去を主張していたのだ。東京行動の時はオスプレイ配備反対が盛り上がっていたのであり辺野古移設反対が盛り上がっているわけではなかった。建白書の文言では断念要求が「県内移設」であり「辺野古移設」ではなかつたことからもうかがえる。

辺野古移設反対が盛り上がったのは県知事選の時からである。県知事選の時、翁長知事は沖縄アイデンティティー論を考え出して、イデオロギーは腹六分に押さえることを主張し、県外移設と閉鎖・撤去のイデオロギーは押さえて辺野古移設反対で統一することを提案した。翁長知事の提案に革新は同調し、独自の立候補を立てないで翁長知事を支持した。辺野古移設反対の公約で翁長知事と革新は手を組んだのである。辺野古移設反対が盛り上がったのはそれからである。
佐藤教授は「県民は民主的な方法を崩され、直接的な力に頼るしかなくなった」と述べている。民主的な方法を崩されたから直接的な力つまり非民主的な方法で辺野古移設阻止をするしかなくなったと主張している。佐藤教授は民意か県民にあり政府が県民の民意を踏みにじり民主的な方法を崩したと主張したいだろうが、それは違う。日本は議会制民主主義国家である。政府は民主主義のルールを重んじているから政府は徹底して民主的な手続きをやってきた。
仲井真知事は民主主義ルールに則って埋め立てを承認した。辺野古移設反対派は民主的な方法を崩されたのではなく民主的な方法では辺野古移設を阻止できなかったのである。「直接的な力に頼るしかなく」と佐藤学教授は述べているが「直接的な力」とは議会制民主主義を否定した違法な暴力行為である。

佐藤教授は辺野古移設反対が東京行動から県民総意であったと嘘をつき、仲井真知事の申請承認で県民の民主的方法は崩されたといい、直接的な力に頼るしかなくなったと主張している。そして、「沖縄には直接行動で基地の拡張を止めざるを得なかった歴史がある」と述べ、実際にあった事例を述べている。
具志川の昆布土地闘争、金武町の104号超え実弾演習阻止、恩納村の都市型施設建設阻止、国頭村の安波バリアーパット建設阻止を上げ、辺野古はその延長線上にあると佐藤教授は述べている。それは違う。

○具志川の昆布土地闘争
ベトナム戦争中の1966年1月、米軍が具志川市の天願桟橋強化のため昆布の土地約8万2000平方メートルの接収を計画した。しかし、地元の地主の反発は強く、強い阻止行動などにより、米軍は71年3月に計画を断念した。
○金武町の104号超え実弾演習阻止
1973年の金武村の104号越え実弾演習阻止闘争のこと。
県道104号越え実弾砲撃演習の移転先の一つ、北海道・矢臼別演習場を抱える別海町の佐野力三町長、議員ら計6人が22日、同演習の実施地、金武町を視察した。佐野町長は吉田勝広金武町長と会談後、報道陣の質問に対して「演習受け入れも選択肢の一つ」と明言。受け入れ容認の条件として治安悪化防止策の確立を挙げ、「(米兵外出時の)防衛施設局職員のエスコートを、米軍が了解するのかが最大のポイントになる」と話した。104号越え実弾演習は北海道に移転した。
○恩納村の都市型施設建設阻止
1989年に、キャンプ・ハンセンの恩納村域にグリーン・ベレーの都市型戦闘訓練施設の建設が発覚した。地元恩納村や住民の猛反発は猛反発し座り込み闘争を展開した。米軍は施設使用を断念した。
○国頭村の安波バリアーパット建設阻止
 1981年1月国頭村安波で米軍のハリアーパット建設計画が発表された。住民は建設予定地の山の中に入り激しい抵抗運動を展開した。米軍は建設を断念した。

元具志川村の昆布土地接収、金武町の104号超え実弾演習、恩納村の都市型施設建設、国頭村の安波バリアーパット建設と辺野古飛行場建設とは根本的に違う。
○4つの場合は地元住民が反対していたが、辺野古飛行場建設は地主も地元の辺野古区民も容認している。
○4つの場合は新設であったが、辺野古飛行場建設の場合は普天間飛行場の移設である。
○4つの場合は危険が増えるが辺野古飛行場建設は普天間飛行場の危険がなくなる。
○4つの場合は米軍の一方的なものであったが、辺野古飛行場建設は政府の民主的な手続きを経たものである。

辺野古飛行場の直接影響を受ける辺野古区民や漁民は移設を容認している。辺野古は4つの闘争の延長線上にはない。佐藤教授は、「「県民は民主的な方法を崩され」と嘘の理屈をつくり、「直接的な力」つまりテロ行為に頼るしかないと述べて、左翼活動家のテロ行為を正当化している。彼らの主張は辺野古移設反対、普天間飛行場閉鎖・撤去である。彼らの目的は普天間飛行場の閉鎖・撤去であり、安保廃棄である。
「基地を造らせないための最大の勝負どころは海上ボーリング調査だ。工事着手でひるむことなく陸上、海上ともさまざまな行動を続けていく」連中というのは左翼活動家集団であり、普天間飛行場の閉鎖・撤去、安保廃棄の立場から辺野古移設を反対しているのである。左翼の本性を隠し、民主主義を装った左翼活動家のテロ行為を佐藤沖国大教授は正当化しているのである。

稲嶺市長の「ジュゴンを守る」は大嘘
美謝川の水は管理され、赤土を大浦湾に流出しないようにしている。大浦湾の自然を育んでいるのが美謝川である。大浦湾に流れている川は美謝川、二見川、大浦川、汀間(ティマ)川があるが、美謝川以外の三つの川沿いには住宅や畑がある。河口は泥砂が広がっている。
二見川と大浦川と汀間川は水が汚れているからジュゴンの食する藻は育たない。新報が書いているように美謝川から流れているきれいな水がジュゴンの藻やサンゴを育てている。
「埋め立てにより、河口が地下水路になる時点で無謀過ぎるが、地下水路が長くなればなるほどさらに魚類などの生息域は減る」(琉球新報)
沖縄防衛局の計画は美謝川を地下水路(暗渠(あんきょ))にするものであった。距離は1022メートルになる。琉球新報は沖縄防衛局の計画を批判している。しかし、区域が現行の240メートルから1022メートルに沖縄防衛局は辺野古ダムから最短距離で海に注ぐものであった。しかし、沖縄防衛局は辺野古ダムから最短距離になる案を準備したがその案を稲嶺市長は承認しないと発言したので、沖縄防衛局は計画変更の申請をまだやっていない。新報はそのことを書いていない。美謝川の計画が地下水路1022メートルに延びた状態のままである原因は稲嶺名護市長にある。地下水路1022メートルであると今のように美謝川河口にジュゴンの食する藻は生えないかもしれない。
琉球新報は地下水路計画は防衛局にあるように書いているが、それは違う。本当の責任は稲嶺名護市長にある。
稲嶺名護市長は「ジュゴンを守る」と何度も演説しているが、稲嶺市長にジュゴンを守る気がない。稲嶺市長は辺野古移設を阻止する口実に「ジュゴンを守る」と言っているのだ。
稲嶺市長の「ジュゴンを守る」は嘘八百である。ただひたすらに辺野古建設を阻止したいのである。

2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しないよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立てに県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただきます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)
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2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
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次回放送は平成27年7月8日水曜日
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短編小説・江美とジュゴンとおばあちゃん



「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら





県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター

「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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「沖縄に内なる民主主義はあるか」は沖縄タイムスに自費出版を断られた。それも陰険なやり方で。沖縄タイムスは自費出版を募集している。だから私は原稿を送り自費出版を依頼した。ところが一週間過ぎても沖縄タイムスからは連絡がなかった。最初に依頼したボーダーインクもなんの連絡もなく、一週間後に私から電話をすると自費出版を断られた。
沖縄タイムスもボーダーインクと同じパターンだろうと思って電話をしなかった。案の定、その後沖縄タイムスからは電話はない。原稿も返却されていない。
自費出版拒否についてのいきさつは「沖縄に内なる民主主義はあるか」の第一章に書いてある。


去年琉球新報の短編小説新人賞に応募した。残念ながら落選した。
辺野古移設問題と絡ませながら、思春期の少女が悩み考え成長していく姿を描いた。自意識の芽生えの過程である。
私としてはうまく描けたと思っている。

江美とジュゴンとおばあちゃん


江美は小学六年生。家は那覇市の郊外にある。家族はお父さんとお母さんと小学三年生の弟の良樹と幼稚園生の妹の亜実の五人である。江美の家の隣には一人暮らしをしているおばあちゃんの家がある。
江美はおばあちゃん子だ。江美が生まれた頃はお母さんも働いていたから、江美の面倒はおばあちゃんがみた。
江美は小学一年生になってからずっとおばあちゃんの家で勉強をしている。おばあちゃんは小学校の先生をしていたから、江美の分からないところを教えてくれたし、ノートの書き方や勉強のやり方なども教えてくれた。おばあちゃんのお蔭で、学習塾に通わなくても江美の成績は優秀だ。

江美がおばあちゃんの家で勉強をしている時、おばあちゃんはテレビを消しているが、ニュースの時間だけはテレビをつけた。その日もいつものようにおばあちゃんはニュースの時間になったのでテレビをつけた。勉強している江美の耳に普天間飛行場という言葉が聞こえたので、算数の問題を解いていた手を休めて江美はテレビを見た。普天間飛行場に江美は敏感に反応する。アナウンサーは、普天間飛行場の移設先である辺野古の海の埋め立てを仲井真知事が承認したと話した。
普天間飛行場は宜野湾市の真ん中にあり、周囲は住宅が密集している。世界一危険な飛行場と言われている。飛行機が墜落するとたくさんの人が死ぬ。何回も墜落したという飛行機オスプレイが普天間飛行場に配備されたからますます普天間飛行場は危険になった。辺野古の海の埋め立て承認のニュースを聞いて、江美はほっとした。
「おばあちゃん。よかったね」
おばあちゃんはテレビをじっと見ていた。
「これで宜野湾市の人が死なないで済むんだ。ああ、よかった」
「なにがいいもんか」
おばあちゃんは不機嫌になっていた。江美はおばあちゃんが喜ぶと思っていた。でも、おばあちゃんは不機嫌だ。なぜだろう。
「だってさ、オスプレイが墜落したら普天間飛行場の周りのたくさんの人が死ぬんでしょう。辺野古に移ったら人が死ななくて済むよ。おばあちゃんはうれしくないの」
「うれしくないね」
「どうして」
おばあちゃんは答えないで、
「ヨーカンを早くお食べ。ジュースも飲んでいないじゃないか」
と言った。イライラしているおばあちゃんは辺野古の海の埋め立てについて江美と話したくないのか、ヨーカンを食べるように江美をせかした。江美はおばあちゃんにせかされて、ヨーカンを食べてジュースを飲んでからおばあちゃんに訊いた。
「どうして、おばあちゃんは辺野古の海の埋め立てがうれしくないの」
「辺野古の海を埋めたら、ジュゴンが死ぬ、魚が死ぬ、サンゴが死ぬ。辺野古の海が死ぬ。辺野古の海を埋め立ててはいけない」
江美は納得できなかった。
「普天間飛行場があると周囲の人が死ぬとおばあちゃんは言ったんだよ。ジュゴンや魚やサンゴの命より人の命が大事だよ」
「江美はいつから自然の命を大事にしない薄情な人間になったのか」
江美にはおばあちゃんの言っていることが分からなかった。おばあちゃんは人の命が一番大事、命どぅ宝と何度も江美に教えた。だから江美は人の命が一番大事だと信じている。
「だって、人の命が一番大事だっておばあちゃんは江美に教えたんだよ」
「人の命も大事。ジュゴンや魚の命も大事。サンゴの命も大事」
江美は人の命が一番大事だとずっとおばあちゃんに教えられてきた。急にジュゴンや魚やサンゴの命も大事だと言われても納得することはできなかった。江美は混乱した。
「でも」
やっぱり人の命のほうが大事だよと言いたい江美だった。しかし、おばあちゃんの声は鋭く、怖い顔をしていた。おばあちゃんの権幕に押されて江美はなにも言えなかった。
「さっさと勉強をしなさい」
そう言うとおばあちゃんはお茶を飲んだ。 
江美は勉強を始めようとしたが、意味不明のおばあちゃんの怒りに動揺し、勉強をすることができなかった。江美の目から急に涙が出てきた。涙は一つ二つとノートに落ちた。涙は止まりそうもない。もう、勉強どころではない。泣いているのをおばあちゃんにばれたくない江美は立ち上がり、教科書とノートを抱えて玄関に向かった。急に立ちあがった江美におばあちゃんは驚いた。
「あれ、江美、どうしたのか。勉強は終わったのか。ヨーカンはまだ残っているよ」
江美は振り返らないで出て行った。

 二階の勉強部屋に入ると、声が外に洩れないように口を押えて江美は泣いた。江美は泣き虫だ。算数の問題が解けないと泣くし、おばあちゃんに叱られるとすぐ泣いてしまう。
「江美は泣き虫だねえ」
とおばあちゃんはあきれる。
 江美はおばあちゃんの前でよく泣いた。でも、今日は泣いているのをおばあちゃんに見られたくなかった。だから、おばあちゃんの家を出た。こんなことは生まれて初めてだ。
 おばあちゃんが厳しい顔で「江美はいつから自然の命を大事にしない薄情な人間になったのか」と言った時、江美の頭の中は真っ白になった。頭の中が真っ白になりながら、「だって、人の命が一番大事だっておばあちゃんは江美に教えたんだよ」と言ったのはおばあちゃんに反発したからではなかった。江美はおばあちゃんの教えをちゃんと守っているんだよと訴えたかったのだ。「ああ、そうだったねえ。江美はおばあちゃんが教えたことをちゃんと守っているんだ。ごめんごめん」という返事がおばあちゃんの口から出るのを江美は期待した。でも、おばあちゃんの口から出たのは違っていた。「人の命も大事。ジュゴンや魚の命も大事。サンゴの命も大事」と今まで聞いたことがないおばあちゃんの言葉だった。江美の考えは間違っているとおばあちゃんに言われた気持ちになった。
大好きなおばあちゃんの教えを守ってきたのに、江美の訴えをおばあちゃんは分かってくれなかった。江美の気持ちを理解されなかったことがくやしくて悲しかった。

 おばあちゃんは江美を姫ゆりの塔や摩文仁の丘などの戦跡地によく連れて行った。そして、人の命は一番大事だと教えた。人の命を奪う戦争は絶対やってはいけないと教えた。江美はおばあちゃんの話は難しくてよくわからなかったが「うんうん」と素直に聞いた。
おばあちゃんと一緒に戦跡地に行くとアイスクリームやお菓子を買ってくれるしレストランにも連れて行ってくれるから江美はピクニック気分で行っただけだった。しかし、少しずつおばあちゃんの教えが分かるようになってきた。二年前のオスプレイ配備反対の県民大会に江美はおばあちゃんに連れられて行った。いつ墜落するかもしれない恐ろしい飛行機オスプレイ。灰色の不気味な姿の写真を見るだけで江美は怖くて体が震えた。そのオスプレイが普天間飛行場に配備されるという。おばあちゃんは絶対反対だと言い、江美も反対だった。県民大会でおばあちゃんも江美も「はんたーい」の拳を突き上げた。でも、オスプレイは配備された。

 普天間飛行場の周囲には住宅が密集している。オスプレイが墜落したらたくさんの人が死んでしまう。普天間飛行場は一日も早く移さなければならない。だから、仲井真知事が辺野古埋め立てを承認するというニュースが流れた時、宜野湾市の人たちの命が助かると思って江美はうれしかった。おばあちゃんと一緒に喜ぼうと思った。でも、おばあちゃんは不機嫌になった。
人の命が一番大事だとおばあちゃんは江美に教えてきたのに、おばあちゃんはジュゴンや魚の命も大事だと意味の分からないことを言って江美を突き放した。おばあちゃんの教えを守ってきたつもりの江美だったからおばあちゃんの話に納得できなかったし、突き放されたことがすごく悲しかった。
夕食の時、お母さんが呼びにきたが、江美はおばあちゃんと顔を合わせるのが嫌だったから、宿題をやってから食べると言って、下りていかなかった。暫くしてお腹がぐーぐーと鳴った。江美は部屋を出てゆっくりと階段を下りた。するとおばあちゃんの声が聞こえた。江美は勉強部屋に戻った。それから三十分ほど過ぎて、とてもお腹が減った江美は部屋を出て、階段をゆっくりと下りた。おばあちゃんの声は聞こえない。それでも用心しながら階段を下りた。おばあちゃんは居なかった。江美は一階に下りて行きご飯を食べた。

 翌日、江美はおばあちゃんの家に行かなかった。心配したおばあちゃんは江美の部屋にきたが、ドアの鍵を掛けた江美はおばあちゃんの呼びかけに「今日は一人で勉強する」と言っておばあちゃんの家に行くのを断った。
夕食の時、お母さんが呼びに来た。おばあちゃんに会いたくない江美は宿題があるから後で食べると言った。でも、お母さんは後で食べるのを今日は許さなかった。
「駄目。夕食はみんなで食べるものよ。さっさと下りてきなさい。いいね」
江美は仕方なく一階に下りて行った。
江美はいつものようにおばあちゃんの側に座った。
「今日も一人で勉強かい」
江美は黙ってうなずいた。
「明日はおばあちゃんの家においでよ」
江美は行きたくなかった。でも、断ることもできない。江美はじっと黙っていた。
「江美。ちゃんと返事をしなさい。おばあちゃんに失礼ですよ」
「いいよいいよ、順子さん。江美も小学六年生になったんだ。思春期なんだよ。色々悩み事があるんだよ。口を利きたくない日だってあるさ」
お母さんはおばあちゃんに「躾はちゃんとしないといけないですから」と断ってから、
「江美、ちゃんと返事をしなさい。明日はおばあちゃんの家に行くわね」
と言った。長女である江美にお母さんはいつも厳しい。江美はお母さんには逆らえない。江美は仕方なくうなずいた。
「うなずくだけでは駄目。ちゃんと返事をしなさい。明日はおばあちゃんの家に行くわね」
「はい」
江美は返事した。
「順子さん。無理強いしてはいけないよ」
と言いながら、おばあちゃんはニコニコしていた。江美が明日家に来るのでおばあちゃんはうれしいのだ。

 その夜、江美は夢を見た。ジュゴンが辺野古の海を泳いでいる。すると突然上から黒い雲のような物が落ちてきてジュゴンを覆った。落ちてきたのは土砂だった。非情な土砂はどんどんジュゴンに落ちてきた。ジュゴンはもがき苦しんだ。土砂に包まれたジュゴンは暗い海底に沈んでいった。
「ジュゴンを殺さないでー」
江美は起き上がった。ジュゴンがとても可哀そうで、江美は肩を震わせて泣いた。

 辺野古の海を埋め立てたらジュゴンが死ぬ。魚も死ぬ。サンゴも死ぬ。ジュゴンが死ぬのは嫌だ。魚が死ぬのも嫌だ。サンゴが死ぬのも嫌だ・・・でも・・・オスプレイが墜落したらたくさんの人が死ぬ。ジュゴンや魚が死ぬより人が死ぬのが嫌だ・・・・でも・・・ジュゴンの夢を見た江美はジュゴンや魚やサンゴが死ぬのも嫌だと思うようになった。
 どちらが死ぬのもかわいそうだ。どちらも死なない方がいい。でも・・・。人の命とジュゴンの命を比べればやっぱり人の命が大事だと江美は思う。やっぱり辺野古の海を埋め立てたほうがいい。でも、オスプレイはまだ墜落していない。もしかするとオスプレイはずっと墜落しないかも知れない。辺野古の海を埋め立てたらジュゴンは必ず死んじゃう。やっぱり辺野古の海は埋め立てない方がいい。しかし、オスプレイが墜落しないとは絶対に言えない。いつかは墜落するだろう。一〇年前には沖縄国際大学にヘリコプターが墜落したのだからきっと墜落する。明日墜落するかもしれない。来月か、来年か、五年後か、十年後か。オスプレイはいつか墜落する。オスプレイが墜落したらたくさんの人が死んじゃう。やっぱり、辺野古は埋め立てたほうがいい。でも、ジュゴンが死ぬのは嫌だ。
人が死ぬのも嫌、ジュゴンや魚やサンゴが死ぬのも嫌。おばあちゃんのいう通りだ。でもやっぱり人の命が一番大事。人の命が助かるためにはジュゴンや魚やサンゴが死ぬのは仕方がない。仕方がないけど・・・・・。 ジュゴンや魚やサンゴが死ぬのを認めてしまう江美は悪魔の心になってしまった気持ちになる。江美は悪魔の心にはなれない。やっぱりジュゴンや魚やサンゴが死ぬのは嫌だ。
普天間飛行場のことや辺野古の海のジュゴンや魚やサンゴのことを考え、悩んでいるうちに悲しくなってきて江美の目から涙がこぼれてきた。江美がこんなに悩み苦しむのは生まれて初めてだった。

江美はおばあちゃんの家に行く決心がつかなかった。お母さんと約束したから行かないといけない。でも、気が重い。江美は溜息をついた。
コンコンとドアを叩く音がした。振り返るとドアがバーッと開いて、お母さんが、
「江美。江美の大好きなシュークリームがあるってよ。おばあちゃんが食べにおいでって」
おばあちゃんはわざわざ江美の大好きなシュークリームを買ってくれた。大好きなおばあちゃんが江美に会いたがっている。でも・・
・。以前だったら走っておばあちゃんの家に行ったが、今日の江美は違っていた。おばあちゃんに会うのは気が重かった。
「さあ、早く行って」
江美の悩みを知らないお母さんは江美をせかした。でも、江美は行くかどうか迷った。
「なに、もたもたしているの。早く行って」
短気なお母さんは怒った。お母さんに怒られるのが一番怖い江美は教科書とノートを持つと急いで部屋を出た。

 江美はおばあちゃんの家の玄関の前で立ち止まった。
「江美かい。お入り」
おばあちゃんの声が聞こえた。江美はゆっくり玄関の戸を開けた。江美の姿を見たおばあちゃんは立ち上がり、冷蔵庫に行った。
「ほら、シュークリームだよ。早くお食べ」
おばあちゃんはにこにこしていた。
「昨日は、なんでおばあちゃんのところに来なかったのかい。宿題が多かったのかい。だったらおばあちゃんが宿題を手伝ってあげたのに。ああ、そうか。宿題は自分でするもんだと教えたのはおばあちゃんだった。うっかり忘れていたよ」
シュークリームのとろけるようなおいしさとおばあちゃんのとぼけた話を聞いて江美の心がほぐれた。江美は笑った。いつものおばあちゃんと江美に戻った。
勉強をしながらおばあちゃんと話している内に、普天間飛行場や辺野古の難しい悩みは江美の頭からすーっと消えていった。

 おばあちゃんが風邪を引いた。風邪は重く、三日間入院した。
退院した日、江美は学校から帰るとすぐにおばあちゃんの家の玄関を開け、
「おばあちゃーん」
と大きな声でおばあちゃんを呼び、
「なんだい江美」
とおばあちゃんの声が聞こえると、
「ランドセルを置いてくるねえ」
と言って、家に走って行き、タッタッタッと階段を上ってランドセルを置くと、教科書とノートを持ってタッタッタッと階段を下りておばあちゃんの家に行った。
 おばあちゃんは体がだるいと言って横になっていた。
「おばあちゃん、大丈夫」
「大丈夫だ。少し体がだるいだけだ。二、三日すれば元気になるよ」
江美は勉強を始めた。時々おばあちゃんは咳をした。その度に江美は手を止めて、「おばあちゃん大丈夫か」と言いながらおばあちゃんの様子を見た。「大丈夫だ。勉強を続けて」とおばあちゃんは言った。
暫くして、おばあちゃんは起き上がろうとした。
「どうしたの」
「ちょっとトイレに」
おばあちゃんは起き上がるのにしんどそうだった。江美はおばあちゃんが立ち上がるのを手伝った。
「おばあちゃん。江美が連れて行ってあげる」
江美はおばあちゃんの腕を肩に回した。その時、あれっと思った。以前は、つま先立ちをしないとおばあちゃんの肩を担ぐことができなかったのに、今は逆に膝を曲げなければならなかった。まっすぐ立てばおばあちゃんの肩をはずしそうだ。・・・おばあちゃんの身長はこんなに低かったかな・・・。江美はおばあちゃんの身長が低くなったかしらと思った。
でも、それは江美の勘違いだった。江美の身長が伸びたのだ。江美の身長が伸びたのでおばあちゃんの身長が低くなったように感じたのだ。体が大きくなった江美にはおばあちゃんの体重も軽くなったように感じた。前みたいにおばあちゃんの体の重みでふらつくことはなかった。
「おばあちゃんは軽くなったみたい」
「それは江美が大きくなって力が強くなったせいだよ。おばあちゃんより江美のほうが身長は高くなっている。これからは江美の身長がどんどん伸びていって、おばあちゃんが江美を見上げるようになるねえ」
おばあちゃんはうれしそうに言った。
江美はうれしさ半分さびしさ半分だった。江美は今までずっとおばあちゃんに包まれているような気持ちで生きてきた。おばあちゃんはいつまでも江美より大きいと思っていた
。おばあちゃんが大きいから江美はおばあちゃんといると安心感があった。江美が大きくなったということはうれしい。でも、もうおばあちゃんは江美を包むことができなくなった。それは少しさびしい気がする。
 おばあちゃんより大きくなった江美には、おばあちゃんに頼るだけではなくおばあちゃんを守っていこうという気持ちが芽生えてきた。なんだか、おばあちゃんとは今までよりも身近な関係になったような気がした。

「おばあちゃん。江美がお湯を沸かしてあげる」
「玄関を掃除するね」
テーブルを拭いたり、お茶を入れたり、洗濯物をたたんだり、肩を叩いたり、足をもんだり、江美はおばあちゃんのために色んなことをやるようになった。
「江美は大人になったねえ」
おばあちゃんは江美を誉めた。それが江美には嬉しかった。

辺野古のジュゴンの夢のことは江美の頭から消え、思い出すことはなかった。ところが人間とは不思議なもので消えていた記憶がなにかのきっかけでふと蘇ることがある。
学校の帰り道で、仲良しの多恵ちゃんが本部町にある美ら海水族館に行ったことを話した。江美も何回か美ら海水族館に行ったので、二人は美ら海水族館の話をした。イルカショー、ウミガメ、マナティーのことを話したが、ジュゴンに似ているマナティーではなく、水族館のジンベエザメの話をした時、なぜか夢に見たジュゴンが江美の頭に浮かんだ。多恵ちゃんと別れて、歩きながら、なぜジンベエザメのことを話した時ジュゴンの夢を思い出したのかを考えた。すると夢の中のジュゴンが水族館のジンベエザメと同じ斜め上の角度に見えたことに気が付いた。そうか、水族館で見たジンベエザメが夢の中のジュゴンになっていたのだ。だから、ジュゴンはジンベエザメのように斜め上に見えたのだ。
江美は立ち止まった。夢が変だ。なにかおかしい。なんだろう。江美は歩き始めた。夢のなにが変なんだろう。なにがおかしいのだろう。そうか、土砂だ。土砂が変だ。夢の中のジュゴンは土砂に包まれて海底に沈んでいった。土砂がジュゴンを包むのはおかしい。土砂は布とは違う。布だったらジュゴンを包むが、土砂は水の中ではバラバラに広がっていくはずだ。土砂が布のようにジュゴンを包んで海底に沈んでいくのはおかしい。江美が見た夢の中の土砂はまるで意思を持っているようにジュゴンを包んでいった。それはおかしい。土砂に意思はないはずだ。土砂は水の中では散っていくはずだ。江美が見た夢の土砂の動きは間違っている。
江美は忘れていた辺野古のジュゴンのことを再び考えるようになった。

ジュゴンや魚はサンゴと違って自由に泳げる。
「そうだ。ジュゴンは泳げるのだから土砂が落ちてくれば急いで逃げればいい。土砂は散らばるから逃げることができるはずだ。たくさんの土砂が落ちてきても土砂に包まれることはないからジュゴンは逃げることができる。辺野古の埋め立て工事が始まればジュゴンや魚は辺野古の海から逃げればいい。そうしたら埋められない」
埋め立てがあってもジュゴンは埋められない。だから、サンゴは死ぬけどジュゴンは死なない。ジュゴンは逃げて生き延びる。江美は大発見をした。
「ジュゴンが死なないことをおばあちゃんに教えよう。江美が発見したことを話せばおばあちゃんは喜ぶはずだ」
と江美は思った。しかし、そう思った後におばあちゃんの厳しい顔が浮かんだ。江美の考えを話したら、もしかするとおばあちゃんはまた怒るかも知れない。おばあちゃんの怒った顔を思い出すと江美の心は萎えた。
 江美はおばあちゃんに話す勇気がなくなった。もしかするとなんらかの理由でジュゴンは逃げられないかも知れない。辺野古の海に沈められていくかもしれない。だから、おばあちゃんはジュゴンが死ぬといったかもしれない。でも、どうしてジュゴンや魚は死ぬのだろう。
辺野古の海が埋め立てられたらジュゴンは生き延びることができるのだろうか、それともできないのだろうか。江美は再び辺野古のジュゴンについて悩むようになった。ジュゴンは死ぬのかそれとも・・・・・・・。

 悩んでいる内に、江美は辺野古の海のことを知らないことに気が付いた。そういえばジュゴンのこともほとんど知らない。ジュゴンの大きさや棲んでいる所やジュゴンが泳ぐ速さなどを江美は知らない。辺野古の埋め立てにしてもどんな方法で埋めるのか全然知らない。あれもこれも知らないのだから江美には手に負えない問題だ。これはジュゴンや辺野古の海や埋め立てについて知っている人しか解けない問題だ。江美があれこれ考えても正しい答えを出すことはできないだろう。ジュゴンがどうなるかはジュゴンや辺野古の海のことをよく知っている人に訊くしかない
。おばあちゃんに訊くのは駄目。おかあさんはきっと知らないだろう。お父さんは知っているだろうか。でもお父さんに訊けばおばあちゃんにばれるかもしれない。それは嫌だ。辺野古のジュゴンのことを調べていることをおばあちゃんには知られたくない。
 江美は色々考えた末に、担任の玉城朱里先生に訊くことにした。朱里先生は先生だからなんでも知っているはずだ。でも、朱里先生は学校の勉強以外のことを教えてくれるだろうか。江美は不安になったが、朱里先生に訊く以外に方法はなかった。江美は朱里先生に訊くことにした。

「朱里せんせー」
三時限目の終わり、江美は廊下に出た朱里先生を追いかけた。
「どうしたの江美さん」
「朱里先生。教えてください。お願いします」
「江美さんが質問するなんて珍しいわね。なにを訊きたいの」
「朱里先生。辺野古の海を埋め立てるとどうしてジュゴンや魚は死ぬんですか」
「え、なんのこと」
江美の質問に朱里先生は面食らった。
「サンゴは逃げることができないから死ぬと思います。でもジュゴンや魚は泳げるから逃げることができると思います。逃げることができるのにどうして死ぬんですか」
江美の質問を朱里先生は理解できなかった。
「なんの話をしているの。先生には江美さんの話の意味が分からないわ。落ち着いて、先生に分かるように説明して」
江美は辺野古の海を埋め立てるとジュゴンや魚やサンゴが死ぬとおばあちゃんに言われたことを話した。そして、ジュゴンが土砂に包まれて海の底に沈んでいく夢を見たことも話した。
「ふうん、そんな夢を見たの。それが本当ならジュゴンが可哀そうだね。
江美さんが訊きたいのは辺野古飛行場埋め立てのことね。最近は毎日のように新聞に載っているし、先生の知っている人が辺野古に行ったという話も聞いたわ。先生も江美さんの話と似たようなことを聞いたことがある。でも、先生は詳しく知らないの」
江美はがっかりした。江美がうつむいて黙ったので、
「ジュゴンや魚が埋め立てで死ぬということはありえないと思うわ。でも江美さんはちゃんとしたことを知りたいのよね」
江美はうなずいた。
「二、三日待ってくれない。先生が調べてみるわ。それでいい」
「はい」

 三日後に、朱里先生は昼休みの時に職員室に来るように江美に言った。
昼休みに江美は職員室に入り、朱里先生を探した。
「江美さん。こっちよ」
職員室の奥のほうで朱里先生が手を振った。江美が来ると、朱里先生は沖縄地図を取り出し、北部の地図を開いた。
「江美さん。ここが辺野古のキャンプシュワブよ。そして、ここが辺野古の海で、ここが大浦湾よ。この突き出た岬があるでしょう。ここが辺野古崎といって辺野古飛行場ができるところなの」
朱里先生は辺野古崎の周りを赤鉛筆で記した。
「辺野古飛行場はこのくらいの大きさになるわ」
江美が想像していたのより辺野古飛行場は小さかった。
「埋め立てるといっても、辺野古崎の沿岸部だけよ」
「ここだけですか」
「そうよ。だから、辺野古の海や大浦湾を埋め立てるのではないわ」
「想像していたよりもずっと小さいです。ほっとしました」
「そうよね。先生も調べてみて驚いたわ。辺野古の海が埋め立てられる。大浦湾が埋め立てられると聞いていたから、もっと大きい飛行場だと思っていたわ」
朱里先生は江美を向いた。
「それからね、江美さんが見た夢のことだけど、埋め立てについて江美さんは勘違いしているわ。江美さんは海に土砂を入れると考えているようだけど、埋め立てをやるときは、コンクリートの壁で周囲を囲って海と遮断するの。それから埋め立てるのよ。だから、ジュゴンが泳いでいる上から土砂をかけるということはないわ」
「そうなんだあ」
ジュゴンは土砂に覆われることはない。江美はほっとした。
「埋め立て地域は辺野古崎沿岸だから、大浦湾のサンゴが死滅することもないと思うわ」
「サンゴも死なないんですか」
「そうよ」
「ああ、よかった」
江美はほっとした。ほっとした途端に涙が出た。朱里先生はハンカチを江美に渡した。
「江美さんは辺野古埋め立てのことでとっても悩んだのね。自然を愛する気持ちはとっても大事よ。江美さんの辺野古の埋め立てを心配する気持ちは素晴らしいわ。江美さん、ひとつだけ気になることがあるの、見て」
朱里先生はキャンプシュワブを流れている川を指した。
「この川の名前は美謝川というの。美謝川の上流は緑で覆われた森林地帯なの。森林地帯からは養分をたくさん含んだ水が湧き出るのよ。美謝川に養分豊富な水が流れて、ほら見て、美謝川は大浦湾に出ている。だから大浦湾の自然は豊かなのね。でも美謝川の河口付近は辺野古飛行場になってしまうの。美謝川の河口付近にジュゴンが食べる藻がたくさん生えているらしいけど、ジュゴンの食べる藻場は埋め立てられるわね」
江美はショックを受けた。
「それじゃあ、ジュゴンは飢え死にするのですか」
朱里先生は苦笑した。
「いいえ、そんなことはないわ。ジュゴンの食べる藻はここだけではないの。ジュゴンは別の場所の藻を食べると思うわ」
「その場所はどこにあるのですか」
「それは先生も分からない」
「やっぱりジュゴンは死んじゃうんですか」
泣きそうな江美を見て、朱里先生は困った。
「ジュゴンが藻を食べる場所は辺野古だけではないの。多分北の方に藻場はたくさんあると思う。ジュゴンは一年に五、六百キロも移動するの。ほら、アフリカの像やしま馬やキリンなど多くの草食動物が食べ物を求めて大移動するでしょう。ジュゴンも同じよ。ジュゴンも草食動物だから藻を求めて移動するの。ジュゴンは辺野古に棲んでいるわけではないわ。辺野古には藻を食べにやってきているの。今でもジュゴンは辺野古以外の色々な場所に行って藻を食べているのよ。辺野古の藻場がなくなってもジュゴンは大丈夫よ。元気に生きていくわ」
「本当ですか」
「本当よ。だから、ジュゴンの心配をしなくていいわ」
江美の顔が明るくなった。
「それにね、美謝川の河口は塞ぐのではなくて、辺野古飛行場の隣に河口を移すから、いつかは新しい河口近くに藻が生えてきて、ジュゴンがやってくると思うわ」
「そうなんだ。よかったあ」
江美の悩みは朱里先生の説明で解決した。江美の心のもやもやは消えた。
「朱里先生、ありがとうございました」
「私もとてもいい勉強になったわ。私が江美さんにお礼を言いたいくらいよ」
江美は笑顔で朱里先生にお辞儀をし、職員室を出た。
職員室を出た江美は朱里先生に教えてもらったことを学校から帰ったらすぐにおばあちゃんに話そうと思った。しかし、教室に着くころになるとおばあちゃんに話すかどうか迷った。
あの時のおばあちゃんを思い出した。
「辺野古の海を埋めたら、ジュゴンが死ぬ、魚たちが死ぬ、サンゴが死ぬ。辺野古の海が死ぬ。辺野古の海を埋めたらいけない」
おばあちゃんの顔は江美が見たことのない怖い顔だった。おばあちゃんがなぜあんなに怒ったのか江美には分からない。でも、おばあちゃんはとても怒っていた。
 朱里先生から訊いた話をするとおばあちゃんはどうするだろうか。
「へえ、先生から訊いたの。偉いわね。ああ、そうだったの。おばあちゃんが間違っていたねえ」
と、にこにこしながら江美の話に納得してくれるだろうか。それとも・・・・。朱里先生のように上手に説明できる自信が江美にはない。上手に説明できないと・・・・。おばあちゃんの怖い顔が浮かんだ。江美はおばあちゃんに話すのをあきらめた。

 江美は考えた。辺野古のジュゴンや魚たちのことで江美がとても悩んだことをおばあちゃんは知らない。今はいつもの仲のいい江美とおばあちゃんだ。江美が辺野古のことを心の中に仕舞ってしまえば仲のいい江美とおばあちゃんの関係は続いていく。
もし、江美の本当の考えを話したらおばあちゃんは怒るかもしれない。江美を嫌いになるかもしれない。おばあちゃんの家に行けなくなるかもしれない。それは嫌だ。おばあちゃんとはいつまでも仲良くしていきたい。
おばあちゃんに辺野古の話はしないほうがいい。それが江美のためであるしおばあちゃんのためだ。考えた末の江美の結論だった。
 
 江美にとって困ったことが起きた。おばあちゃんが辺野古に行こうと言いだしたのだ。八月二十三日に辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前で大きな集会があるという。おばあちゃんはその集会に江美と一緒に行こうと言った。今までの江美だったら喜んで行った。帰りにおいしい料理やお菓子が食べられるからだ。しかし、江美は辺野古に行きたくなかった。こんな気持ちになったのは初めてだ。
「なぜ行きたくないのかい。帰りに恩納村にあるお菓子御殿に寄ろうと思っているよ。江美の大好きな紅芋タルトが食べられるよ。紅芋タルトの手作り体験もあるらしいよ」
紅芋タルトのことを聞いて江美は生唾をごっくんした。「うん、行こう、おばあちゃん」と言いそうになった。でも、辺野古に行きたくない気持ちのほうが強かった。
「ごめんね、おばあちゃん。江美は行きたくない」
「どうして」
行きたくない理由は言えない。
「どうしても」
おばあちゃんはがっくり肩を落とした。それからのおばあちゃんは元気がなくなった。体も小さくなったように感じた。 

「エミ。辺野古に行かないんだって。おばあちゃん寂しそうだよ。行ってあげたら」
数日後に、お母さんが言った。お母さんがそんなことを言うのは意外だった。小学四年生の時、おばあちゃんが江美をオスプレイ配備反対県民大会に連れて行った時、お母さんとおばあちゃんは大喧嘩をした。
「小さな子供を県民大会に連れていくのは止めてください」
「いいじゃないか。子供の時から反戦平和の考えを持つのは大事だ」
お母さんは一週間もおばあちゃんと口を聞かなかったくらいに怒っていた。そんなお母さんだったのに、おばあちゃんと辺野古に行ってあげてと江美に言う。
「お母さんは二年前は反対したよ。どうして今度は江美に行けと言うの」
「最近のおばあちゃん元気がないわ。辺野古に行ったら元気になるかもしれない」
それはお母さんの言う通りかもしれない。二年前の県民大会でのおばあちゃんは元気だった。昔の友だちと楽しそうに話し合い、孫の江美を自慢していた。おばあちゃんは十歳も二十歳も若返ったように元気になっていた。
しかし、おばあちゃんが元気になるとしても江美は辺野古に行きたくなかった。おばあちゃんはジュゴンや魚やサンゴが死ぬ話をするだろう。おばあちゃんのジュゴンたちの話を聞くのが江美は嫌だった。

おばあちゃんが行きたがっていた八月二十三日は過ぎた。江美はほっとした。でも、辺野古の集会はまたやってくるだろう。次も行かないというとおばあちゃんはとてもがっかりするに違いない。次も行かないとは言えない。どうしよう。江美は悩んだ。
江美は「右の耳から左の耳」ということわざをお父さんから聞いたことを思い出した。お母さんにどんなに叱られても平気なわけはそのことわざがあるからだとお父さんは話していた。辞典で調べると意味は、右の耳から入ったことが左の耳からすぐ抜けていく。聞いたことを片っ端から忘れてしまうことのたとえだった。そうだ、おばあちゃんの話を右の耳から聞いて左の耳から抜かしていけばいい。そうすればおばあちゃんの話を聞くことができるはずだ。江美は辺野古に行っても嫌な思いをしない方法を見つけた。

辺野古の浜で県民集会が九月二十日に開催されることになった。予想通りおばあちゃんは江美を誘った。心の準備をしていた江美は辺野古に行くと返事した。
「辺野古に駐車はできないから、宜野座村の友達のところまでおばあちゃんの車で行って、そこからはタクシーで行こうね」
「タクシーに乗るの。お金がもったいない。バスで行こうよ」
「あそこはバスはあまり通らない。バスを待つのが大変。だからタクシーでいく。江美、恩納村においしい沖縄そば屋があるの。帰りにそばを食べよう」
「うれしい。でも江美はお菓子御殿に行きたい。紅芋タルトを食べたい」
「じゃ、お菓子御殿に行こう。それから沖縄市においしいアイスクリームを売っている店があるから、その店にも寄ろうね」
「おばあちゃん大好きー」
辺野古でおばあちゃんはジュゴンや魚やサンゴが死んでしまう話をするだろう。江美は「うんうん」と、おばあちゃんの話を素直に右の耳から聞いてあげる。そして左の耳からこっそり抜かしていく・・・。

江美はちょっぴり二重人格者になったようだ。おばあちゃんに従順な江美と、おばあちゃんに従順なふりをする江美に。悩んで考え悩んで考えを繰り返していきながら心が少しずつ成長していく思春期の江美である。

「おばあちゃん。紅芋タルトの手作り体験もするんだよね」
「そうだよ。さあ、早く車に乗って」
九月二十日の朝、江美とおばあちゃんは辺野古に向かって出発した。

2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しないよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立てに県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただきます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)
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2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/fNMDaISM_J0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

次回放送は平成27年7月8日水曜日
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辺野古埋め立ての真実


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「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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辺野古埋め立ての真実


 辺野古飛行場予定地の辺野古崎は東海岸にある。人口が集中している名護市街地は西海岸にある。辺野古と名護市西海岸は山を挟んでおよそ10キロメートル離れている。普天間飛行場なら浦添市を越え、那覇市の南はずれの国場側河口まで離れていることになる。同じ名護市といっても東海岸の辺野古と東海岸の名護市街地では浦添市・那覇市の二つの市を挟んでいるくらいに遠く離れているのである。
 西海岸は辺野古飛行場から遥かに離れていて影響は全然受けない。辺野古飛行場の地元として名護市西海岸側を入れるのは本当は問題がある。
 東海岸側の辺野古区・豊原区・久志の3区(久辺3区と呼ばれている)は移設を受け入れている。過疎化が進んでいるので人口は少ないが、久志岳、久志岳ゴルフガーデン、キャンプシュワブなどがある久辺3区は面積では西海岸側にひけを取らない大きさである。
 久辺3区が辺野古移設に反対であるなら地元が反対していると言える。しかし、久辺3区は移設を受け入れている。辺野古移設に反対しているのは久辺3区以外の地域の名護市民である。人口が集中している西海岸の名護市民に反対の声は多く、その結果、移設反対の稲嶺進氏が市長に当選した。だから、名護市全体では辺野古移設反対である。東海岸の久辺3区の主張は西海岸の市民に封殺されたと言える。

昔は辺野古のある東海岸は久志村であった。久志村の主な産業は林業から農業へと変わったものの、過疎化により人口は減少。山を隔てて西海岸の名護町などの町村から合併の動きが出てきた。合併に反対してきた久志村であったがこのままでは村を維持するのは困難であったため、結局1970年8月1日に名護町・屋部村・羽地村・屋我地村と合併し名護市となり、300年近くの歴史に幕を閉じた。久志村役所は名護市久志支所となった。
合併しても経済発展したのは西海岸だけであった。1975年沖縄県の本土復帰記念事業として沖縄県国頭郡本部町で沖縄国際海洋博覧会が開催された。海洋博公園のお蔭で名護市の西海岸経済はどんどん発展していった。しかし、経済発展するのは西海岸だけであり、東海岸の久辺3区は過疎化していった。このままでは過疎化に歯止めがかからない。名護市に頼ることもできない。久辺3区は普天間飛行場の辺野古移設容認を条件に過疎化脱出を図ったのである。
久辺3区は「生活排水処理のための下水道整備」や「公園、集会所の整備」「基地負担に見合った住民への補償的施策」など18項目を政府に要請した。交渉の結果、振興策の実現に向けた協議会を設置することが決まった。

西海岸であるというだけで経済が発展し、東海岸であると言うだけで過疎化していく。それが沖縄本島北部の実態である。東海岸の困難を省みない西海岸の名護市民だから普天間飛行場の辺野古移設に反対をし、久志3区の過疎化に平然としているのである。
同じ名護市でも辺野古飛行場の地元は東海岸の辺野古区である。西海岸は地元ではない。地元ではない西海岸の住民が辺野古移設反対しているのだが、翁長知事・稲嶺市長・革新・沖縄二紙は「地元名護市の反対」に捻じ曲げているのである。


大浦湾と辺野古埋め立て予定地である。埋め立て地は辺野古崎の沿岸部だけである。辺野古の海や大浦湾のほとんどは埋めない。沿岸部の埋め立てだけで大浦湾の自然に影響を与えるのはあり得ないことである。
 辺野古飛行場の滑走路はV字型である。離着陸の時に人家の上を飛ばないためにV字型にしたのである。
 辺野古飛行場はキャンプシュワブ内に建設される。現軍用地に建設するから新たな土地を接収する必要がない。辺野古以外なら新たな土地を接収する必要がある。辺野古以外なら飛行場建設は不可能である。
 周囲は海である。墜落事故があっても普天間飛行場のように人命や人家に被害を及ぼすことはない。
 飛行場に一番近い辺野古区でも1キロメートル離れている。辺野古区と飛行場との間には丘があり、騒音被害も小さい。

このような好条件は本土にもないし沖縄にもない。宜野湾市民の騒音被害、生命と財産を守るために辺野古移設は必要である。辺野古移設は人道問題であって基地問題ではない。

埋立ての土砂は外に出ない



埋め立て反対は埋め立てで土砂をどんどん海の中に流し込むイメージを与えている。もし、土砂をどんどん流し込むと土砂が広がって海底の広範囲を埋めてしまう。そうなるとものすごい大量の土砂が必要になる。それにそのような埋め立て方法だと反対派の言う通り大浦湾も辺野古の海も土砂で埋まり死滅するだろう。しかし、そのような海の広範囲を汚染する埋め立ては日本では行われていない。公有水面埋立法で自然環境を破壊する埋め立ては禁じているからだ。
それではどのようにして海を埋め立てるのかを説明する。
最初に海底に土台をつくった後、コンクリート製の箱船を埋め立て地の周りに隙間無く並べる。この箱船の名前はケーソンと言う。ケーソンの底の栓を抜くと水が入って沈む。傾かずに沈むように海底の状態を修正する。沈んだケーソンに岩石や解体ビルの破片などを入れて重くする。
土砂も同時に入れる。ケーソンの上に上部コンクリート壁を築く。消波ブロック(テトラポット)は魚巣にもなる。
全部沈むと埋め立て地の外壁ができあがる。海水は最初は吸い上げない。だから外海の水圧の影響は受けない。囲いの中に土砂を流し込む。それに応じて海水を吸い上げ放出する。中に土砂を流し込んで埋め立て地の出来上がり。土砂が外海に出ることはない。浅瀬はケーソンを使わない。

大浦湾の藻が繁茂している原因
 キャンプシュワブ内を流れている美謝川の写真である。川は見えない。美謝川は左上の辺野古ダムから国道339号線の下を抜け、緑の木々の中を流れている。山の自然の水がそのまま海に流れ出ているのが美謝川である、


埋め立て反対派グループの報告である。
「特にキャンプ・シュワブ大浦湾側、つまり普天間代替飛行場移設事業による直接の埋め立て地の中が最も多くジュゴンに利用されている」
グループはキャンプシュワブ側に藻が最も多く生えていると報告している。だから、埋め立てるとジュゴンに多大な被害を与えると主張していて辺野古埋め立てに反対している。グループはキャンプシュワブ側に藻が繁茂している原因は報告していない。原因を報告するのは彼らにとって不都合であるからだ。
藻が繁茂している場所はキャンプシュワブを流れている美謝川河口付近である。つまり藻が繁茂している原因は美謝川にある。
美謝川は畑の赤土や生活排水に汚染されないでキャンプシュワブの山の豊富な養分をそのまま大浦湾河口に運んでいる。それが藻が繁茂している原因である。大浦湾には二見川、大浦川、汀間川が流れ出ているが、川沿いには人家や畑があり生活排水や赤土が川に流れ込み、川はそれらを大浦湾に運んでいる。人家は少なく、畑の規模も小さいので大浦湾の汚染度は低いが、三つの川が大浦湾を汚染しているのは確実である。美謝川だけが汚染されないで山の栄養豊富な水を大浦湾に供給しているのである。
 美謝川は飛行場建設予定内を流れているし、河口も埋め立て予定地に入っている。河口は北の方に移す予定である。防衛局は飛行場の地下を通る設計をしている。およそ1キロメートル以上の川になる。国としては辺野古ダムから新美謝川河口までまっすぐにして半分の距離にしようとしているが、それには稲嶺市長の許可が必要である。辺野古移設絶反対の稲嶺市長は変更を拒否すると発言した。もし、稲嶺市長が拒否するのであれば、稲嶺市長には大浦湾の自然を守ろうという考えがないということだ。

大浦湾・辺野古の海が豊かなのはキャンプシュワブの山のお蔭である
 キャンプシュワブの山は昔のままである。その山から大浦湾に流れている美謝川が大浦湾の自然を豊かにしている。
 川沿いに住宅や畑のある二見を流れる川の河口には赤土が流れ出て汚染されている。大浦湾の北側には広大なカヌチャゴルフ場がある。ゴルフ場も海の汚染こそすれ、自然を豊かにはしない。大浦湾・辺野古の海が豊かなのはキャンプシュワブの山のお蔭であるといっても過言ではない。山の自然が保たれれば大浦湾の自然も保たれる。それが真実だ。

ジュゴンについて
2001年3月6日の政府のジュゴン予備調査報告では東海岸で5頭、西海岸で1頭が確認されたという。最近は三頭である。10年で沖縄近海のジュゴンは半分になった。辺野古飛行場建設はまだ始まっていないのにだ。三頭は家族である。父は西海岸に棲息し、母子は東海岸に棲息している。現状ではジュゴンが繁殖する可能性はゼロであるという。沖縄のジュゴンの絶滅危機である。ジュゴンの絶滅危機と辺野古基地建設は関係がない。
ジュゴンの体重は300キロから400キロある。草食動物のジュゴンは大食いであり毎日体重の十%(三十キロ~四〇キロ)を食する。多い時には十六%も食べると言われている。ジュゴンは辺野古の海に棲んでいるのではない。そもそも辺野古より嘉陽の海のほうが藻が多く、辺野古より嘉陽の海のほうでジュゴンは多く見られている。
ジュゴンは一か所で棲息してはいない。アフリカの像やしまうま、キリンなどの大型の草食動物がエサを求めて大移動するように、ジュゴンも藻を求めて移動している。ジュゴンは餌を求めて一年に数百キロメートル移動する。
 ジュゴンを守りたいのなら沖縄の川の水質をよくし、ジュゴンの食する藻を繁茂させることである。辺野古基地埋め立てを阻止することがジュゴンを守ることにはならない。そのことを専門家も指摘している。
三重大学生物資源学部のジュゴン研究会によって「沖縄産ジュゴンの保護のために」をWEBで発表している。

沖縄本島周辺の海草の分布は極めて貧弱である。海草群落を有する海岸は全海岸線の10%程度にすぎない(環境庁, 1996)。主要群落は金武湾南部、金武漁港から辺野古岬、安部、嘉陽、伊部、屋我地島周辺の5個所である。沖縄のジュゴンは、この乏しい海草群落と沖合いの避難場所との間を日周移動して生活している。
このような状況にあるジュゴンを保護するには、浅所にある海草場と深所の日中避難場を保存し、そこでのジュゴンの安全を保障するだけでなく、両者を結ぶ回廊部の保全と通過時の安全の確保が重要である。今回の航空機調査中に金武湾では定置網が4個所確認された。既に沖縄では定置網や刺し網による混獲の事例も発生しているし、漂着死体は漁業による混獲に起因している可能性がある。沖縄のジュゴンのような小個体群の場合には、これまで記録された2年に1頭程度の事故死でも重大な影響を及ぼす可能性がある。ジュゴンの生活圏においては刺し網や定置網の設置を避けることが望まれる。
モズク養殖のネットによるジュゴンの混獲は記録がないが、4月時点では沿岸のいたるところで養殖が行われ、8月の藻場の調査時には既にネットは除去されていたが、海草群落の中にもその痕跡が認められた。ジュゴンの羅網の可能性と海草群落自体への悪影響が懸念される。
海草群落の保存上の脅威には、水産養殖施設その他の水中構築物による直接の破壊のほかに、富栄養化による底質の劣化や赤土の流出による藻場の消滅が考えられる。その防止が望まれる。
「日本産ジュゴンの現状と保護」
 ジュゴン研究会はジュゴンの死の原因は定置網や刺し網による混獲であると指摘している。保存に危険なものは刺し網、定置網の設置、モズク養殖のネットである。ジュゴンを保護するには刺し網や定置網の設置を避けるこどであり、浅所にある海草場と深所の日中避難場を保存することである。そして、水産養殖施設その他の水中構築物も危険である。辺野古崎沿岸部を埋め立てる辺野古基地建設はジュゴン保護には関係がない。むしろ、二見川、大浦川、汀間川の汚染のほうがジュゴン保護にはマイナスであるのだ。

漁師が辺野古区民の真実を話す
テント村の人達は辺野古区民としてはうるさくて迷惑している。あんなことはやってほしくない。
辺野古移設については漁師は全会一致で容認している。賛成ということではないです。賛成でもなければ反対でもない。容認です。ちゃんと漁業への補償などをやってくれることなど、私たちの要求を受け入れてくれるなら容認するということです。私たちが移設を容認していることがなぜか外には伝わっていません。
 テント村の人達に地元の人はほとんどいません。私が見る限り一人も居ないです。おじいちゃんとかおばあちゃんとかがたまに二、三人テントに居たりしますが、彼らはお金で雇われているようです。私はそのように聞いています。
 実はですね。私がメディアに辺野古の実情を一部始終話してもほとんどカットされます。県民には伝わらないです。
「辺野古の人を助けたい」と言って辺野古にやってくる人がかなり多いですが、ほとんどの人がメディアの間違った情報を信じているんです。それをどうにかしたいのですが、私たちの考えが外には伝わらないのでどうしようもありません。
普天間では人の頭の上を軍用機が飛んでいるというし、とても危ないですよ。だったら早めに辺野古に移設したほうがいい。私や辺野古の人はみんなそう思っています。とにかく、早めに移した方がいい。
テント村の人たちですが、高江に居たりしているし、この前は泡瀬に居たようです。なんでもかんでも反対している人間のように私には見えます。辺野古の人もみんなそう思っています。私たちに危害を加えることはないから、まあ、やりたいように勝手にやったらいいという感じです。一人になると彼らはなにもできない。団体だとワーワー騒いでうるさいですが、一人だと大人しくて全然話をしないです。
埋め立てる時に土砂は流出しないのだから魚がいなくなるというのはあり得ない。ただ、海流に変化が起こるのでそれが漁にどのような影響があるのかは分からない。それは気になります。しかし、テトラポッドが設置されるので海が今よりきれいになるのは確実です。それにテトラポッドは漁礁にもなるので魚が増える可能性もある。
メディアは私たち辺野古民の気持ちや意見をちゃんと正確に報道してほしい。賛成・反対は別として、反対なら反対の意見をいう人の反対する理由をちゃんと報道すればいいし、賛成の意見を言う人が居るなら賛成の理由をちゃんと報道してほしい。それが私の切なる願いです。
ある老辺野古民は訴える
 チャンネル桜の水島氏が船に乗るために移動していると、見知らぬ老人が近寄ってきて水島氏を呼び止めた。水島氏はテント村の連中と勘違いされないために「私たちは反対運動じゃないです」と言った。老人をそれを承知で水島氏を呼び止めたようである。老人は「なにも考える必要はない」と言い、手振りを交えながら、「普天間飛行場は危ないだろう。一日でも早くこっちに移した方がいい」と言った。そして、「物事は理性で判断するべきだ。あれたちはなんでもかんでも感情的だ」とテント村の連中を非難した。水島氏と話し合った老人はすっきりした顔になり、「ああ、話してよかった」と言い、帰っていった。
昔から脈々と受け継がれている隣人を憐れみ思いやるウチナー魂を老人は見せてくれた。


2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しないよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立てに県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただきます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)
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2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/fNMDaISM_J0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

次回放送は平成27年7月8日水曜日

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辺野古移設の真実


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら





県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター

「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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辺野古移設の真実
辺野古移設が決まるまでの過程を見ると日本が議会制民主主義国家であることがよく理解できる。国家事業だからといって国が勝手に事業を進めることができないのが議会制民主主義国家である。地方自治体に認められた権利を国が破ることは許されない。国家事業も地元の自治体が同意しない限り進めることはできない。それが議会制民主主義国家である。 
民主主義の冠に「議会制」を置いているのには理由がある。日本は直接民主主義国家ではなく議会制民主主義国家であるが、だからというわけではない。民主主義にはまやかしの民主主義もあり、民主主義といっただけではまやかしの民主主義に非難されたりするからだ。本当の民主主義とか本当ではない民主主義とかで主張し合うのは消耗するだけである。革新も民主主義を主張しているし、辺野古移設反対の翁長知事が当選し、また世論調査でも辺野古移設反対が80%もあり、沖縄の民意は辺野古移設反対であり、民主主義であるならば辺野古移設を中止するのが当然であると革新は主張している。本当に革新の主張が民主主義なのかと論争しても並行線になるだけだろう。はっきり言えることは日本は民主主義国家であることだ。
共産党は資本主義社会の議会制民主主義を資本民主主義と呼んでいる。資本主義社会の国家は労働者階級を搾取している資本家階級のための国家であるということをレーニンが理論にし、日本共産党はレーニンの理論を受け継いでいるからだ。共産党は資本民主主義に対抗して民族民主主義なるものを考えだした。革新が主張している民主主義は共産党が考えだした民族民主主義のことであり資本主義社会である日本の議会制民主主義のことではない。彼らは日本の議会制民主主義を認めていない。翁長知事や革新も議会制民主主義を無視している。無視した上で民主主義を主張している。民族民主主義も翁長・革新の民主主義もまやかしの民主主義である。議会制民主主義のほうが本当の民主主義である。
政府は議会制民主主義に則って辺野古移設計画を進めていった。政府は辺野古区、名護市、県の了承を得るために粘り強く民主的な交渉をした。そして、辺野古移設を決めた。辺野古移設は議会制民主主義の手続きによって決まったのである。それが辺野古移設の真実である。


1995年
9月4日米兵による少女暴行事件発生。

1996年
3月22日 大田知事が橋本首相との会談で普天間基地の早期返還を要求。首相は「現状は厳しい」と発言。
4月12日 橋本首相とモンデール駐日米国大使が普天間飛行場を5年から7年以内に返還すると発表。
4月14日 普天間返還は移設条件付であることが判明。
6月.26日 米軍が普天間移設3候補地(キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセン、嘉手納弾薬庫)を提案していたことが判明。
9月17日 橋本首相来県、講演で撤去可能な海上基地建設検討を表明。
10月18日 日本政府は関係省庁の専門家で構成するグループ、および学識経験者を中心とするグループ、TAG( 技術支援グループ)を設置し、施工法について研究を行った。TAGの座長は横浜国立大学教授だった合田良実。初会合は10月18日防衛庁で開催された。
海上ヘリポートに求められた土木的な条件
○沖縄本島東岸沖
○滑走路の長さは1500m。
○沖縄本島周辺の100年確率波浪などに対して安全性、耐久性を確保すること。
○想定水深は5m、25mの2案。
これを民間団体や企業に提示して技術提案を募り、その内容を検討した。

検討を経て、最終報告では杭打ち桟橋、ポンツーン方式メガフロート、セミサブ方式メガフロートの3案が現実的に実現可能として併記された。

1、杭打ち桟橋工法(QIP工法)
海底に固定した鋼管杭により、滑走路や建築物の基礎となる上部工を支持する構造。
施工はまず鋼板製のフローティングモジュールを工場等で製作し、次いで海上の設置場所まで曳航する。モジュールには予め支えにする鋼管杭の何割かを取り付けておき、設置場所でジャッキによりおろして海底に固定する。その後、今度は杭を更に伸ばしてモジュールを海面よりも上に持ち上げる。これらの作業が終わった後に残りの鋼管杭を取り付け、隣接するモジュールとの接続作業を実施する。基本計画の作成から設計に1年半、施工には3年程度と見積もられた。費用は100万平方メートル規模で2000億円(想定水深25m)。陸上とは連絡橋を用いて行き来する。設計技術、安全基準の評価が進み、実用化が最も進んだ工法と言われている。

2、メガフロート(ポンツーン方式)案
提案したのは1990年に設立された造船、鉄鋼、建設など96社で構成する「マリンフロート推進機構」であった。1995年4月には運輸省などの支援を受けて造船、鉄鋼など17社からなる「メガフロート技術研究組合」が発足し、3ヵ年で本方式のメガフロートを実現するための研究に着手した矢先に、基地移設問題が出てきた。研究会はこの時既に神奈川県横須賀市沖に、長さ100m、幅20m、厚さ2mの鋼製の浮体ユニットを展開し実験を開始していた。
設計には1年、施工には4年半かかると見積もられた。使用する鋼材は90万トン。1トン当たりの建設費は20万円であった。
 揺れの問題については米軍筋から疑問が呈され、「いくら防波堤があるとは言え、台風が来れば海面は揺れるし、橋の通行が不能になれば軍事基地の用をなさない」と使用上の制約に難色を示していた。

3、メガフロート(セミサブ式)案
関西国際空港1期工事の工法を検討していた1970年代後半に提案されたことがあるが、当時コストと耐久性についての技術的課題が未解決であったため棄却された経緯がある。長さ、幅はポンツーン方式と同じで厚さは12m。内部の利用法もポンツーン方式と同じである。メガフロートとしてはポンツーン方式より先に考案されたが、波浪を防波堤で遮断しないため構造物の強度が必要になる。メリットとしては水深の深い場所でも建設が可能なことである。コスト面ではポンツーン、QIPより割高で、両工法に比較して2倍以上。また、陸上との連絡方式は船舶となる。

その他の提案
SACO中間報告などを前提に日本政府でヘリポート検討が進められるのと並行して、民間からも様々な提案が行われた。

重力着底型プラットフォーム案
英略称SBSP。大林組により1996年10月、防衛庁に提案された。水深100mまで対応可能。コンクリート製の重力式基礎を海底に設置し、海面上に鋼製脚を伸ばしてデッキを上に載せ連結する。波の影響を受けにくく、コストや環境の面でも有利であり、メガフロートよりも安価に出来ると説明された。工事期間は2年から2年半で、波に強い特性から防波堤は不要である。

移動海上基地(MOB)案
アメリカ軍が研究を始めていた。1996年9月に橋本首相が海上ヘリポート案を示した際一気に世間の注目を浴び、一時は有力候補と目され、当時の海兵隊司令官であったクルラックなど、関係者が期待を示している。

11月16日 久間章生防衛庁長官が「キャンプ・シュワブ沖が有力」と言及。

普天間飛行場の移設について海外移設も含め多くの案が検討された。

海外移設案
アメリカ海軍系のある研究機関ではオーストラリアへの移転も含めた撤退シナリオも研究していたという。これは、佐世保と横須賀の海軍基地の維持のために、普天間については手放すシナリオを想定した内容であった。
当時のアメリカ軍には朝鮮半島の緊張状態は早期にカタがつくという楽観論があり、かつ将来の仮想敵である中国との戦いでは海兵隊は有用ではなく、海兵隊の活躍の場は湾岸にあるという考えがあった。
しかし、米豪の国防当局者は「アメリカ海兵隊のオーストラリアでの訓練の拡大は、沖縄における米軍基地の整理、縮小の動きとは関係ない」との理由で海外移転は棄却された。

国内移設の検討
日本本土の移設候補地としては高知県、苫小牧東などが検討対象に上がった。沖縄本島内での移設候補地は、多数の案が俎上に上がった。
日米は移設候補地の選定ではまず嘉手納弾薬庫地区と嘉手納飛行場が候補地として取り沙汰される。候補地に挙げられた地元の反応は早く、この時点で反対集会が実施された。
候補地は嘉手納弾薬庫、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ、嘉手納飛行場となっており、宜野座村の潟原海岸を埋め立てて使う案もあった。その他に浦添沖、ホワイト・ビーチ訓練水域のある本島南部の中城湾なども候補地に挙がったこともあった。
日本側は5月9日に国内調整を進めるために「普天間返還作業委員会」(委員長:古川官房副長官)を組織した。

嘉手納弾薬庫案
アメリカ側から海兵隊のヘリが集結するのに十分な大きさを持つ基地として、嘉手納弾薬庫地区が最適地に挙げられた。しかし、弾薬庫への移転案については読谷村など予定地周辺が農業用ダムの水源となる森林地帯で、希少動物の宝庫であることから環境に悪影響が出るとして強く反対した。
嘉手納弾薬庫地区は開発の波に晒されず、豊かな自然が残された。この点に着目した反対派は同地で調査を行い、15種の希少生物が生息していると発表した。こうした動きから、県も地元と同様の見解を防衛庁に伝え、7月初頭には本案は沙汰止みとなった。

嘉手納飛行場統合案
嘉手納弾薬庫地区の次に浮上したのが、嘉手納飛行場への統合案であった。

アメリカ軍は3点の理由から日本側に反対した。
1.低速のヘリと高速の戦闘機を管制官が同時に管制するのは負担が大きい。
2.移設が実行されれば平時でもヘリ、戦闘機が各々60~70機ずつ訓練を行う飛行場となる。有事には増援などにより2~3倍の機体が集結すると考えられ、それを嘉手納一ヵ所で賄う事は不可能。
3.嘉手納は当時から騒音が問題視されており、P‐3Cの駐機場を移転したり、防音壁を設置したりしていた。普天間の機体を収用すれば嘉手納、北谷両町にとっては更に劣悪な環境となる。

嘉手納統合案については海兵隊は移転可能との意見を出したが、嘉手納に駐留する空軍の第18航空団は否定的意見だった。

嘉手納統合に代わる移設候補地も検討した。

嘉手納弾薬庫地区(新設)
キャンプ・シュワブ(新設)
伊江島への移転(既設)
県外自衛隊基地への移転(既設)

しかし、いずれも普天間飛行場の代替基地には不適当であると判断された。

キャンプ・ハンセン案[
1996年5月27日に開催したSACOで日米は作業班の設置を決め、嘉手納統合案などと平行してキャンプ・ハンセンおよびキャンプ・シュワブに対する検討を実施した。
キャンプ・ハンセン移転案については次の点が問題視された。
○平坦な地形ではないため工事が難航する。
○経費面で問題。
○森林伐採による赤土流出の可能性がある。
○現状でも夜間ヘリ訓練で騒音問題が発生している。

地元の反発は強く、キャンプ・ハンセンでは6月27日、キャンプ・シュワブでは7月8日以降集会や議会による反対決議などが相次いだ。

橋本首相による海上ヘリポート構想の表明
嘉手納案が消えた際、次に考えたのが陸上から離れ、米軍の使用水域を活用したキャンプ・シュワブ沖の活用案であった。
防衛庁は兵員輸送や住宅など陸上の付属施設の点で難題が多いと慎重姿勢だった。
橋本首相は9月17日、沖縄での講演で海上ヘリポート構想について明らかにした。以降、この発想が世間一般でも広く知られるようになった。

11月16日 防衛庁長官であった久間章生は、「現在地からそう遠くてもいけない。騒音問題もある。キャンプ・シュワブ沖合がかなり有力になるのではないか」と発表する。
12月2日 SACO最終報告が提出された。その中で、代替施設となる海上ヘリポートの機能としては1,300メートルの撤去可能な滑走路を備えることを挙げている。

1997年
8月23日 橋本首相来県、講演で「普天間返還は海上基地建設が前提」と明言。
11月5日 久間防衛庁長官来県、名護市と県に海上基地基本案を提示し、協力要請。
12日21日 ヘリ基地建設の是非を問う名護市民投票(反対:16,254票,賛成:14,269票)で反対が賛成を約2300票上回る
12月24日 比嘉名護市長が橋本首相に海上基地受入を伝え、辞職すると表明。大田知事は海上基地の結論を出す前に翌年1月中旬以降の再会談を約束。

1998年 
2月6日 大田知事、海上基地受入れ拒否を表明。

大田知事が海上基地受け入れ拒否をした理由は県内移設だからであった。革新系の大田知事は県内の全ての米軍基地を撤去する考えであったから、例え普天間飛行場の危険性をなくすためであっても県内移設であれば反対であった。
 
※1995年)9月28日に大田知事は代理署名拒否を表明した。海上基地受入れ拒否を表明したのと理由は同じである。
米軍基地反対の大田知事は一坪反戦地主の代理書名を拒否したのである。一坪反戦地主が署名を拒否した時は県知事が代理署名することを法律で決まっていた。ところが大田知事は代理署名を拒否したのである。それは違法行為であった。これに対して政府は、1995(平成7)年9月29日、地方自治法に基づき、駐留軍用地特措法の規定により義務付けられた本件公告縦覧の手続きに応じるよう沖縄県に勧告し、同年11月29日には「命令」を行った。しかし、大田知事は拒否した。国は知事の代理署名拒否は想定外であったので、代理署名を拒否した場合の対処法をつくっていなかった。反戦地主の契約更改ができなければ米軍基地使用に支障する。追いつめられた国は沖縄県知事を被告とする職務執行命令訴訟を、同年12月7日に福岡高等裁判所那覇支部に提起した。判決の結果、県は敗訴した。県は最高裁判所に上告するが、最高裁判所の判決で上告は棄却され、1996(平成8)年8月28日に沖縄県の敗訴が確定した。

米軍用地の強制使用手続きをめぐる代理署名訴訟の上告審で、最高裁大法廷(裁判長・三好達長官、15人は28日、駐留軍用地特別措置法を合憲と認定、大田昌秀知事の署名拒否は「著しく公益を害することは明らか」として、国側が全面勝訴した1審判決を支持して、大田知事の上告を棄却した。 判決は15人全員一致だった。
判決では、駐留軍用地特措法の適用が「わが国の安全と極東における国際の平和と安全の維持にかかわる国際情勢、土地等の必要性の有無・程度、提供することによってその所有者や周辺地域の住民などにもたらされる負担や被害の程度など諸般の事情を総合考慮してなされるべき政治的、外交的判断を要する」として、国の裁量にゆだねられていると判断し、県側の違憲主張をすべて退けた。
審査の範囲については、国による強制使用認定の適否を審査の範囲外とした福岡高裁那覇支部の判断を否定して、砂川裁判最高裁判決を維持。その上で、使用認定には無効にしなければならないような落ち度はないとの判断を示し、合憲とした。
 反戦地主の代理署名を拒否したような大田知事であったから、辺野古海上案に反対するのは当然と言えば当然である。大田知事が望んでいるのは沖縄からすべての米軍基地が撤去されることであり、普天間飛行場が県内に移設することには反対であった。

2月8日 名護市長選で移設容認派が推進する岸本建男氏が1万6253票を獲得し当選、玉城氏に1150票差。投票率は82.35%。
5月15日 普天間飛行場の県外移設など要請で大田知事訪米。
11月11日 小渕首相 海上基地見直し表明。
11月15日 知事選で県内移設容認(15年使用期限付軍民共用)の稲嶺恵一氏が37万4833票を獲得し初当選。大田昌秀氏との表差3万7464表。投票率76.54%。
1999年
8月21日 宜野湾市議会が県内移設要請決議。
9月.24日 名護市辺野古区行政委員会、陸上・埋め立て案反対決議。
9月.27日 名護市議会「北部地域への新空港早期建設に関する要請決議」否決。
10月15日 沖縄県議会「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」可決。
11月19日 第13回沖縄政策協議会が開かれる。稲嶺知事が「早期に移設候補地を表明したい」と発言。政府は北部振興策などの取組方針7項目を提示。
11月22日 稲嶺知事、移設先は名護市の辺野古沿岸沖(キャンプ・シュワブ水域内)と発表。
11月25日 稲嶺知事候補地決定を政府へ伝え、15年使用期限を要請。
12年3日 稲嶺知事が岸本名護市長に移設受入要請。
12月23日 名護市議会、徹夜審議で辺野古沿岸地域への移設促進決議。
12月27日 「普天間」で岸本名護市長、条件付き受け入れ表明。
12月28日 代替施設を「キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」と閣議決定。

2000年
8月25日 普天間飛行場代替施設の基本計画を協議する「代替施設協議会」の初会合開催。国と県、移設先地元の名護、東、宜野座3市村で構成。第15回沖縄政策協議会も開かれ、21世紀プラン最終報告を決定。
1月16日 第5回代替施設協議会。
①くい打ち桟橋(QIP)
②メガフロート(ポンツーン方式)      
③メガフロート(セミサブ式)
3工法について協議。
岸本名護市長は使用期限と基地使用協定で「基本計画と同時並行的に進めてほしい」と要望。工法でも環境に配慮した必要最小限の工事・施設を要請。

6月8日 第7回代替施設協議会、第6回北部振興、第4回移設先・周辺地域振興、第4回跡地対策準備協議会を開催。代替協では代替施設案として3工法8案を提示。岸本名護市長は「基地使用協定、使用期限、振興策は平行して進めるべき、それらの問題に進展がない状況では、早急に結論を出すつもりはない」と明言。提示された工法の工期は6年から18.5年、建設費は1400億円から1兆円、年間維持管理費は7000万円から7億7000万円と試算。
12月27日 第8回代替施設協議会、第8回北部振興、第5回移設先・周辺地域振興、第6回跡地対策準備協議会を開催。建設位置「リーフ上」で可能な限り北東側に建設することで合意。岸本名護市長は「軍民共用でできる限り縮小」との考えを表明

2002年
9月27日 稲嶺知事が県議会で15年使用期限の解決なくして着工はないとの立場を表明。
11月17日 県知事選で稲嶺氏が大差で再選。

2002年8月4日 第九回代替施設協議会で合意された普天間代替施設の基本計画に反発している移設先の名護市辺野古区行政委員会(宮城利正委員長)は3日午後、岸本建男名護市長を招いて会合を開き、決定案より施設を100メートル以上外洋側に移すことなどを口頭で要望した。会合後、岸本市長は、地元の要望に対し「努力したい」と述べ、政府に求める構えを示した。同区行政委は要望を四項目にまとめ、5日午後、岸本建男名護市長に正式に文書で要請する。一方、同市豊原区は3日、同区公民館で行政委員会(城間正昭委員長)を開き、決定案がリーフに掛かる外洋を求めた地元要望と違うとして、移設先3区の全行政委員が集まる拡大合同委員会で、岸本建男名護市長や防衛施設庁に説明を求めることを決めた。
辺野古区の要望
(1)基本計画案より施設を100メートル以上外洋側に移す。
(2)施設を南西側に100メートルから200メートルほど寄せる。
(3)施設自体の幅(730メートル)を100メートル縮小する。
(4)作業ヤードは施設工事完了後、区に無償譲渡する。
これまで区が求めてきた案より、踏み込んだ内容。会合では、岸本市長らが基本計画について、工事の危険性などから現在地に決まった、と説明し理解を求めた。行政委は市に提示していた「外洋側」の2案を挙げ、「ぎりぎりの判断で提示した譲れない内容」と強調した。
                                  「琉球新報」参考
※辺野古沿岸移設でも、同じ場所に作業ヤードを作り、施設工事完了後は区に無償譲渡する約束であった。しかし、現稲嶺市長は作業ヤードを作ることを市長権限で取り消した。

2003年
4月8日 政府が辺野古沖で現地技術調査を開始。

2004年
8月13日 米海兵隊ハワイ所属の大型輸送ヘリCH53Dが沖縄国際大学 の一号館本館に接触、墜落、炎上した。
      幸いなことに犠牲者は出なかったが、人口密集地のど真ん中にある普天間飛行場の危険性を浮き彫りにした事件であった。ヘリコプター墜落は辺野古沖への移設に拍車をかけると思われたが、意外なことが起こる。2004年9月9日に防衛施設局の辺野古沖でボーリング調査が開始されたが、移設反対派はボーリング調査用のやぐらを占拠してボーリング調査を妨害したのである。
※沖国大にヘリコプターが墜落炎上したことは、普天間飛行場周辺の住民の生命が危険であり、危険性をなくすためには辺野古海上に移設したほうがいいことは周知の事実である。しかし、革新系市民は移設に反対し、やぐらを占拠してボーリング調査を暴力で阻止したのである。宜野湾市民の騒音被害や命の危険を危惧するよりも県内移設することに断固反対する革新派市民は人権を軽視している。
 政府は反対派の妨害により海上移設を断念する。

10月1日 小泉首相が在沖米軍基地の本土移転推進の意向を初表明

2005年
2月6日 政府が辺野古移設の見直しを検討していることが明らかに。
2月15日 米連邦議会の海外基地見直し委員会が在沖基地視察で来沖。稲嶺知事が海兵隊の県外移設を要求。
3月10日 小泉首相が辺野古移設の見直しを指示していたことが判明。海上移設を断念した小泉首相は、稲嶺知事の要求もあり、県外移設を目指し、調査を開始した。

※馬毛島は鹿児島県にある無人島である。住民の住んでいる島から12キロメートル離れた場所に馬毛島はある。馬毛島は米軍空母艦載機の離着陸訓練の候補地になっていた。完成すれば嘉手納飛行場の戦闘機も馬毛島で離着陸訓練をやる予定であった。
「馬毛島」のある鹿児島県西之表市の市議会議員らが来県し、嘉手納飛行場を視察した。市議たちは嘉手納飛行場の戦闘機の轟音に驚いた。嘉手納飛行場を視察した市議たちを中心に馬毛島の離着陸訓練への反対運動が広がった。県や地元4市町の反対によって馬毛島の滑走路の建設は中止している。12キロも離れている無人島の「馬毛島」で戦闘機の離着陸訓練する滑走路を造るこことにさえ反対するのが本土の住民である。
普天間飛行場用地の大きさは馬毛島の離着陸訓練用滑走路の比ではない。普天間飛行場移転となると馬毛島と違って海兵隊もやってくる。沖縄のマスコミや米軍基地反対派の人たちは米軍基地被害の凄まじさや海兵隊員の恐ろしさを本土の人たちに発信し続けてきた。だから本土の住民は米海兵隊がやってくることに恐怖し拒否反応が起こるだろう。住民の住んでいる場所から12キロメートルも離れている馬毛島の離着陸訓練用滑走路建設にさえ反対するのだから、普天間飛行場の移設ならもっと激しい反対運動が起こるだろう。西之表市の市議会議員らの「馬毛島」の陸上着陸訓練滑走路建設への拒否反応をみれば、本土の住民が普天間飛行場を受け入れるのは不可能であることがわかる。

6月23日 小泉首相「自分の所へ来てくれるなという地域ばかりだ」と普天間飛行場の本土移転を困難視。本土の自治体の「総論賛成、各論反対」のために県外移設を断念する。
9月27~30日 日米審議官級の非公式協議で、日本のキャンプ・シュワブ陸上案と米側の辺野古リーフ内縮小案(浅瀬案)で調整難航
10月1日 稲嶺知事が県選出国会議員らと意見交換し、普天間代替案のキャンプ・シュワブ陸上案と辺野古リーフ内縮小案(浅瀬案)に否定的な見解を示す。
10月13日 額賀福志郎自民党安保・基地再編合同調査会座長が小泉首相に「沿岸案」を提案。
10月15~17日 米国務・国防省高官が県や県議会ら地元関係者に「普天間」の県内移設を条件に、嘉手納基地以
南の基地を北部に集約する案を説明。
10月26日 日米審議官協議で辺野古沿岸案基本合意。
10月31日 稲嶺知事、北原防衛施設庁長官と会談、午後、沿岸部移設拒否を表明。
11月1日 那覇防衛施設局、辺野古沖調査の一時中止を発表。
11月1日 辺野古、豊原、久志3区の区長が北原防衛庁長官と会談、沿岸案拒否を伝える。
11月7日 宜野座村議会、沿岸案反対を可決。
11月8日 額賀福志郎防衛庁長官が来県し稲嶺知事、岸本建男名護市長と会談。
11月9日 額賀防衛庁長官が記者会見、沿岸案の修正を否定。
11月10日 政府、米軍再編中間報告の取り組み方針を閣議決定。
11月16日 ブッシュ米大統領来日、小泉首相と会談、中間報告の合意内容の実施を要求。
12月3日 麻生太郎外相とラムズフェルド米国防長官が会談。3月の最終取りまとめに向け作業内容確認。
12月16日 県議会が沿岸案反対の意見書を全会一致で可決。
1 2月21日 宜野湾市議会、沿岸案反対を賛成多数で決議。
12月26日 自民党の山崎拓沖縄振興委員長が記者会見、沿岸案推進を言明。

2006年
1月22日 名護市長で沿岸案に反対し、修正案に柔軟姿勢を示す島袋吉和氏が初当選。
2月9日 島袋名護市長が上京。小池百合子沖縄担当相、山崎沖縄振興委員長らと会談。沿岸案反対伝える。
2月23日 自民党県選出・出身国会議員が小泉純一郎首相に沿岸案修正を要請。首相は修正を拒否。
3月9日 稲嶺知事が額賀防衛庁長官と会談。沿岸案拒否を伝える。
3月9日 小泉首相と山崎氏らが会談。シュワブ沿岸部移設案修正を否定。
3月17日 政府、沿岸案の滑走路の向き変更の検討明らかに。
3月21日 小泉首相と額賀防衛庁長官が会談。首相が微修正を容認。
3月5日 沿岸案をめぐり島袋名護市長と額賀防衛庁長官が協議。
3月26日 島袋市長と額賀防衛庁長官が再協議。
3月28日 小泉首相、額賀防衛庁長官、山崎自民党安全保障調査会長、守屋武昌防衛事務次官が会合。沿岸案を原則とする方針を確認。
3月30日 額賀防衛庁長官と金武、恩納、宜野座、東の4町村長が会談。
3月31日 名護、金武、恩納、宜野座、東の5市町村長が会合。
4月4日 島袋市長、額賀防衛庁長官との再協議で上京。100メートル以内で沖合移動 辺野古沿岸案 政府が新微修正案。
名護と政府は4日の会談で、
(1)住民の安全を考慮。
(2)環境保全に考慮。
(3)実現可能性のある移設案を追求。
3点の基本方針を確認した。

4月7日 島袋名護市長が滑走路2本案(V字形案)で政府と合意。宜野座村も政府と基本合意書締結。
5月4日 稲嶺知事、キャンプ・シュワブ陸上部に暫定へリポート整備を求めることなどを盛り込んだ「米軍再編に関する県の考え方」を発表。
5月30日 政府、県の反対を押し切り、米軍再編最終報告の実施に向けた方針を閣議決定。「合意案(V字形案)を基本」としたが具体的な内容は見送り。1999年の閣議決定廃止、新協議機関の設置も決定。
8月18日 稲嶺知事と額賀長官、普天間移設の協議機関の早期設置に向け調整することで合意。知事は暫定ヘリポート案本格討議を要求。
9月26日 安部内閣が発足。久間章生氏が防衛庁長官に就任。
10月7日 稲嶺氏後継として知事選に出馬表明した仲井真弘多氏が政策発表「現行のV字形案では賛成できない」と表明。後に「普天間飛行場の3年内閉鎖状態の実現」を公約。
10月30日 仲井真氏、「(移設先の)ベストは県外だが、県内移設もやむを得ない」とキャンプ・シュワブ沿岸部移設容認を示唆。
11月19日 仲井真氏、県内移設反対の糸数慶子氏を退け、知事に初当選
11月28日 久間長官、「3年内閉鎖状態」について「事実上できない」と否定

2007年
.1月19日 第3回普天間移設措置協議会開催。名護市が約350メートル沖合いに移動する修正案提示。政府は2010年1月ごろの埋め立て工事開始を提示。
2月5日 守屋武昌防衛事務次官が仲井真知事との会談で場周経路の見直しを柱とする普天間飛行場の危険性除去策を提示。
4月25日 仲井真知事、島袋名護市長らとともに防衛省で久間防衛相と会談。市、県が求める沖合移動は進展なし。
8月7日 防衛施設局が県などに環境アセス方法書送付。県と名護市は受け取りを保留。
8月14日 環境アセス方法書の公告縦覧。
10月23日 仲井真知事は「環境アセス手続きの一つとして受け取らざるを得ない」とし、方法書の受け取り保留を解除。

普天間代替施設、政府案より沖へ90m…政府が譲歩方針
 政府は、沖縄県のキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市)に建設予定の米海兵隊普天間飛行場(宜野湾市)の代替施設を、2006年に日米両政府が合意した案より90メートル程度、沖合に移動する修正を行う方針を固めた。
 沖縄県や名護市も受け入れに前向きな姿勢を見せている。これにより、1996年の返還合意から12年近く停滞している普天間移設問題が動き出す可能性が出てきた。
 普天間移設問題では、旧防衛庁と名護市が06年4月、シュワブ沿岸部にV字形滑走路を建設することで基本合意した。名護市はその後、300メートル以上、沖合に移動する試案を提示し、沖縄県も同調したが、政府が難色を示し、平行線をたどったまま環境影響評価の手続きが進んでいる。政府は09年8月には周辺海域の埋め立てを県に申請し、14年に代替施設を完成させる計画だ。
 県や名護市が沖合移動を求めるのは、騒音や事故の際の危険性を低減するためだ。政府は米側との再調整が必要になることなどで否定的だったが、周辺海域の埋め立てには知事の承認が不可欠であるため、町村官房長官らが主導して県側に譲歩すべきだと判断した。
 沖縄県の環境影響評価条例の施行規則では、大幅な計画の変更は手続きのやり直しが必要だ。移動距離が約55メートル以内ならやり直す必要はないが、県や名護市はさらに大幅な移動を主張している。政府は県側の要求にできるだけこたえるため、代替施設の当初位置から約90メートル沖合にある「長島」ぎりぎりまで移動する案を軸に検討する構えだ。
 米側との調整について、政府は「90メートル程度の移動なら運用上の問題も生じず、協力を得られる」と見ている。ただ、名護市が求める滑走路の短縮については、米側の反発が予想されるため、政府は使用協定を結んで騒音の大きい訓練を制限することなどで市に理解を得る考えだ。
 こうした政府の方針に対し、沖縄県の仲井真弘多知事は読売新聞の取材に、「名護市の意向を尊重して考えたい。移動距離は、政府といったん合意できれば、その後に要求を上積みするつもりはない」と語った。名護市も「100メートル近く移動できれば地元に説明できる。滑走路の長さの問題も、使用協定を結んで使い方を限定すればクリアできる」(幹部)としている。
 政府は環境影響評価の方法書に対する知事の意見を1月21日までに聞き、そのうえで調査を始める。知事の意見表明後の1月下旬に沖縄県や関係市町村とつくる普天間移設協議会を開き、調査開始への理解を得る方針だ。こうした動きと並行して県や市と政府案の修正を非公式に検討し、3月にも協議会の議題にしたい考えだ。ただ、県内移設に反対する革新陣営や市民団体の反発が予想され、流動的な要素も残っている。
「読売新聞2007年12月31日」

2008年
2月7日 第6回協議会で町村官房長官が「沖合い移動も念頭に置き、建設計画の問題などについても協議する」と表   
     明。
2月14日 沖縄防衛局が追加修正資料の修正版を沖縄県に提出し、方法書を確定。
3月14日 沖縄防衛局が方法書の追加修正資料の修正版を沖縄県に提出し、方法書を確定。

2009年
1月20日 バラク・オバマ氏が第44代米大統領に就任。
3月7日 麻生太郎首相が就任後初来県し、仲井真知事が沖合修正をあらためて要請。
4月1日 沖縄防衛局が環境影響評価基準書を県へ提出、沖合移動の複数案を比較検討した結果、日米両政府合意案で準備書を作成。
9月25日 鳩山連立政権発足。鳩山首相は県外移設が前提との考えを表明。

※自民党政府と沖縄県で最終的な合意がなされ、辺野古移設が決まる寸前であったが、衆院選で民主党が大勝し、鳩山連立政権が誕生したために辺野古移設は頓挫する。鳩山首相は「できるなら国外、最低でも県外」を公約する。しかし、それは過去に小泉首相が県外移設をしようとしてできなかったことを知らなかったがゆえの鳩山首相の無知による公約であった。

10月13日 環境アセス準備書に対する知事意見提出。
10月19日 鳩山首相は新たな代替地を検討する可能性を指摘。
10月29日 うるの会が硫黄島移設案を提案・・・すぐに可能性がないと指摘されて提案は消える。
10月30日 鳩山首相は参院代表質問で「県民に苦渋の選択を押し付けるつもりは毛頭ない。最後は私が決める」と明言
12月15日 鳩山首相が現行案以外の移設先検討を明言。「できるなら国外、最低でも県外」を宣言した。国外は無理であることを知った鳩山首相は県外移設を明言した。

鳩山由紀夫内閣時代に検討された移設案の概要

1 九州移設案(新田春・築城基地移設案)
2 嘉手納基地統合案
3 キャンプハンセン移転案
4 関西国際空港移転案
5 馬毛島案
6 伊江島案・下地島案
7 自衛隊基地への移設案
8 勝連沖埋立案
9 グアム・テニアン島案
10 キャンプ・シュワブ陸上案
11 メガフロート案
12 辺野古杭打ち桟橋案
13 徳之島案
14 腹案
15 九州ローテーション案
16 その他
17 無条件撤去論

※ほとんどは小泉首相時代に検討され、実現が困難であると判断された案であった。

2010年
1月24日 名護市長選で稲嶺氏が初当選
2月24日 県議会が普天間の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書を全会一致で可決。
3月8日 沖縄基地問題検討委員会で、社民が国外や県外移設、国民新がシュワブ陸上と嘉手納基地統合などの移設案を提案
3月26日 北沢俊美防衛相が仲井間知事との会談で「現行案は極めてゼロに近い」と明言。
4月9日 鳩山首相が移設先として鹿児島県徳之島を明言。
     県外移設先の候補地は一か所も上げることができなかった鳩山首相であった。徳之島を候補地にあげたが、徳之島との事前交渉はなく、一方的に鳩山首相が決めたものである。
4月12日 鳩山首相がオバマ米大統領と非公式会談で沖縄の負担軽減に理解を求める。
4月18日 「米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会」に1万5000人が参加。鳩山首相が徳之島を候補地に挙げると徳之島はすぐに反対の声を上げた。

※徳之島の人口は約25,000人である。1万5000人は人口の60%である。沖縄本島の人口は約129万人である。もし沖縄本島なら77万人が参加したことになる。

4月20日 徳之島3町長が平野博文官房長官との会談を拒否、徳之島の強烈な反対運動に徳之島案はあっけなく頓挫した。鳩山首相は県外移設を諦める。
4月25日 「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外を求める県民大会」で9万人が参   
      加。
5月4日 鳩山首相が初来県し県内移設を明言。
5月10日 米軍普天間飛行場をめぐる関係閣僚会議で現行案を修正する形での移設案を確認。
5月16日 伊波宜野湾市長と稲嶺名護市長が県内移設反対で共同声明。普天間基地包囲行動に1万7000人が参加。
5月23日 鳩山首相が再来県し、名護市辺野古への移設を明言。
5月28日 日米両政府が辺野古崎地区とこれに隣接する水域を移設先とする共同声明発表。
6月4日 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。

※2010年6月4日で辺野古移設の政治決着がついたと判断するのが常識である。辺野古移設が最終的に決まったのは民主党政権時代であった。 

 自民党の小泉首相、民主党の鳩山首相の時代に県外移設は不可能であるということがはっきりしたのである。良識ある政治家であるなら実現の可能性がない県外移設を公約にしない。ところが沖縄の政治家は県外移設を公約にするのである。実現不可能である県外移設を公約にすることは県民を騙しているし政治家として失格である。

 政治決着したとしても辺野古埋め立てがすぐにできるのではない。埋め立てには公有水面埋立法に則った計画書を作成して、県知事に申請し承認を得なければならない。自然保護など公有水面法には厳しい条件がある。
 政治的決着がついたので防衛局は埋め立て申請の準備に入った。防衛局は県に3年後に公有水面埋め立て承認申請書を申請する。

2013年
3月22日 沖縄防衛局は22日午後3時40分、米軍普天間飛行場の名護市辺野古沖への移設に向けた公有水面埋め立て承認申請書を名護市の県北部土木事務所に提出した。申請書には埋め立て水域の漁業権を持つ名護漁業協同組合の同意書も添付した。県は申請書類を確認し、不備がなければ受理することになる。
12月18日 沖縄防衛局は米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた環境影響評価を補正した評価書を県に提出。
12月27日 仲井真知事は那覇市の知事公舎で記者会見し、政府が米軍普天間飛行場の移設に向けて申請した名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認したことを正式に発表した。 


自民党政府が最初に辺野古移設を提案した時、辺野古区民、名護市長、名護市議会、県知事の4者が反対していた。県側の提案を政府が拒否したこともあった。お互いの主張と妥協を繰り返しながら政府と地元は合意に達した。しかし、民主党政権に代わると、合意を無視した鳩山首相は県外移設を主張した。本土では普天間飛行場を受け入れる地域はなく鳩山首相の県外移設はとん挫した。鳩山首相は再び辺野古移設に戻った。その時に初めて辺野古区民、名護市長、県知事、日本政府、米政府の5者が同意した。これで辺野古移設が決定したのである。
 その後は、県から埋め立て承認を得るために公有水面埋立法に則った書類作成の段階に入ったのである。これが議会背民主主義のやり方である。議会制民主主義を理解できない金平氏の仲井真知事への批判はお門違いであった。

菅直人首相が日米合意の踏襲を明言した2010年6月4日に辺野古移設が最終的に決まった。それ以後は、辺野古移設を阻止するには日米両政府を移設断念させる以外に方法はなかった。ところが翁長知事は自分が知事になれば辺野古移設を阻止できるようなことを公言した。辺野古移設反対を公約にした翁長知事が当選しても、日米両政府が断念しない限り辺野古移設を阻止することはできない。それなのに辺野古移設を阻止できるような公言をした翁長知事は県民を騙したのである。それだけではない。辺野古移設ができなければ普天間飛行場が固定化する。県外移設が不可能であることは鳩山首相が実現できなかったことで明らかである。翁長知事が不可能な県外移設を前提に辺野古移設反対を公約にしたのは二重に県民を騙したことになる。

2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しないよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立てに県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただきます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)
沖縄の声


2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
沖縄の声

次回放送は平成27年7月8日水曜日
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伊佐浜の激しい抵抗運動の裏の存在非合法沖縄共産党



伊佐浜が激しい抵抗運動になった原因

 伊佐浜の強制撤去
伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前から「チャタンターブックヮ」(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていました。戦時中も米軍の土地接収からもまぬがれ、戦後もかつてのように稲が植えられていました。
 米軍は1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告しましたが、翌年1955年3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させ、約3万坪の土地を接収しました。また3月14日には、伊江島の真謝でも約300人の武装兵が島に上陸し、家から住民を追い出した後、13個の家屋をブルドーザーで破壊して焼き払い、10万8千坪の土地が米軍に接収されました。
 その状況に対し、琉球政府立法院でも住民の生命と財産を守る基本的な立場から米側に対して軍用地収容取り止めの請願を再三行いました。
「土地収用家屋立退き指令撤回要求決議案」第5回臨時第5号 1955年3月4日 
 同年7月11日、米軍はさらに伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失いました。
 この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
                 「沖縄県公文書」
 有名な銃剣とブルドーザーによる伊佐浜の土地接収である。1954(昭和29)年12月、米軍は宜野湾村伊佐浜の住民へ立ち退きを勧告、55年3月に再度通告したが区民、支援者は座り込みで反対した。米軍の武力による強制接収の時には多くの逮捕者や負傷者が出た。土地接収は伊佐浜や伊江島だけではなかった。他の多くの場所で土地接収があった。
米軍は1953(昭和28)年4月3日に琉球列島米国民政府布令第109号「土地収用令」を公布し、同年4月11日に真和志村(現那覇市)の銘苅と安謝の一部、ついで天久と読谷村渡具知、楚辺、同年12月には小禄村具志で土地接収をやった。だが、伊佐浜のように土地接収に反対し、座り込みなど激しい抵抗運動をしたのは他の土地ではなかった。戦争で勝利した米軍に住民が命がけで抵抗する気力はなかったはずである。伊佐浜と伊江島の抵抗運動は特殊なケースであったのだ。

戦後の沖縄の人々は米軍を戦前の日本軍と重ね合わせていただろうから米軍も恐ろしい存在に見えただろう。米軍に抵抗したらひどい目に合わされると信じていただろうから強制土地接収に対して抵抗運動は起こさなかった。伊佐浜の農民が自然発生的に激しい抵抗運動を起こすことはあり得ないことである。なぜ、伊佐浜は激しい抵抗をやり銃剣とブルドーザーによって強制接収されたのか。それには原因がある。伊佐浜の激しい抵抗運動の裏には沖縄の非合法共産党の存在があった。そして、伊佐浜の激しい抵抗運動は日本共産党が本気で暴力革命を目指していたことに深く関係していた。

日本共産党の暴力革命
日本共産党の歴史
1920年12月、労働条件の改善という高まる社会運動とロシア革命の影響を受けて、日本社会主義同盟が結成。
1921年4月、ロシア革命の影響を受けた堺利彦や山川均らにより日本共産党準備委員会が結成。日本共産党宣言、日本共産党規約が採択。
1921年7月15日、日本共産党創立大会が開かれ、堺利彦が委員長となった。
1921年11月、コミンテルン支部・日本共産党として承認された。
1923年2月、日本共産党綱領草案が審議された。
1923年5月、早稲田軍教事件を機に共産党の存在が明らかになり、当局は堺、山川、徳田,市川正一、野坂参三ら党員を逮捕し 29 名を治安警察法違反で起訴した。
1924年2月、解党を決議した。
1925年1月、コミンテルンは解党に反対し上海会議で党再建を指示。9月に機関紙、無産者新聞を発刊。
1926年12月、山形県五色温泉で再建 (第3回) 大会を開催した。福本和夫が理論的指導者となる。
1927年7月、コミンテルンは福本イズムを分裂主義として批判。党再建の組織方針と日本革命の基本的方針を示した。
1927年12月、中央委員会は工場細胞の建設、機関紙赤旗を 創刊。
労農党、日本労働組合評議会、日本農民組合、全日本無産青年同盟などをとおしての労農運動、対支非干渉運動,初の普通選挙などに活動した。
1928年、1929年、三・一五事件、四・一六事件の大検挙で党組織と労農党は大打撃を受けた。しかし満州侵略に反対する闘争で党勢を拡大した。
1932年10月、川崎第百銀行大森支店襲撃 3 万円余強奪事件などで信頼失墜した。さらに熱海事件と呼ばれる代議員が一斉検挙されたことで壊滅的打撃を受けた。
1933年12月、赤色リンチ事件で宮本顕治、袴田里見が逮捕され党中央部は解体した。
1945年10月、占領軍の指令で獄中にあった徳田、志賀義雄らは釈放され、機関紙赤旗が発刊され活動再開。
敗戦時の食糧難と労働運動で盛り上がりを見せた。
1946年4月、戦後初の総選挙で 5 名の当選者を出した。1949年1月、35 名を当選させた。

1951年10月、平和革命方式から武力革命方式に転換。山村工作隊や火炎瓶闘争などの軍事方針を実施した。
1952年、総選挙で前回の得票数 298 万表から 89 万表 (議席はゼロ) に激減した。国民大衆の支持を失うに至った。
1955年7月、武装闘争を放棄し大衆運動との結合をはかった。原水爆禁止運動、基地反対闘争、警職法闘争、安保闘争を展開。
1961年7月の党大会で反米・反独占の民族民主主義革命を経て社会主義革命を達成するという綱領を採択した。
中央委員会議長に野坂参三、書記長に宮本顕治の 50 年問題で分裂した両派の幹部を選出した。


日本共産党はロシアや中国のように武力によって日本国家を倒し、社会主義国家を樹立するのを目的に結成した党である。

1949年11月、中国の劉少奇は中国流の武装闘争方式を日本を含むアジアに広げる見解を打ち出していた。日本共産党は中国共産党のアジア戦略に呼応じようとしたのである。
1950年6月4日、参議院選挙で日本共産党から3人が当選すると、6月6日、マッカーサーは中央委員24人の公職追放を指令し、その政治活動を禁止した。日本共産党の書記長徳田球一らはこの弾圧を自らの党支配を実現する絶好の機会とし、政治局会議や中央委員会を開催せず、党規約にない手続きで「臨時中央指導部」を指名した。徳田らは、意見の異なる宮本顕治ら7人の中央委員を排除して、非公然の体制に入った。
日本共産党の革命運動が広がることはなかったが、事件の多さには驚く。信じられないことだが、日本共産党は本気で暴力革命を目指していたのだ。

●1951年10月16日(火)第五回全国協議会で新綱領採択。
革命を達するには暴力しかない、とする武闘闘争の正当化。2月に蒲田で火炎瓶が投げられたのがこの綱領を受けての武力闘争の始まりだった。
●1951年12月26日(水)練馬署旭町駐在所勤務伊藤巡査(当時32歳)殺害事件。
製紙労組員を暴行傷害事件で逮捕後、ビラ貼り、駐在所押し掛けなどの嫌がらせが続いていた。ビラには「伊藤今に引導を渡すぞ O労組」など書かれていた。26日深夜「O製紙先の路上に人が倒れている」との通報で出かけたまま行方不明。翌朝撲殺死体で発見さる。拳銃も奪われる。あとには夫人と3歳と1歳の幼児が残された。
●1951年12月末~昭和27年1月27日(火)小河内山村工作隊。
日本共産党が中国共産党にならい「農村解放区」を設定しようとしたものが「山村工作隊」である。都内では小河内山村工作隊が最も活発であった。
●1952年1月21日(月)白鳥事件。
札幌市南6条の通りで、日本共産党党員が、中央署の白鳥警備課長を射殺。それまでに、自宅に数百通の脅迫状が来ていた。日本共産党札幌委員名の「みよ、ついに天ちゅう下さる。(ママ)」のビラが市内に撒かれた。
●1952年2月3日(日)長野県南佐久郡田口村で、無灯火自転車に乗った日本共産党の一団が5人の警官に暴行を加えピストルを強奪。逃げ遅れた日本共産党地区委員をその場で逮捕。
●1952年2月21日(木)蒲田署警官襲撃事件。
日本共産党が「反植民地闘争デー」を期して軍事方針に基づき行動した集団暴行事件。午後5時すぎ、大田区糀谷の電業社付近に約70人が集まり、不穏な状況に対し蒲田署K巡査が職質したところ、「この野郎、人民の敵だ、殺してしまえ」と襲いかかり暴行、手錠をかけ拳銃を強奪した。その後250人位に増えた暴徒は、2隊に分かれ無届けデモを行った。目つぶし、投石、派出所を襲撃破壊した。
●1952年2月23日(土)京都税務署を日本共産党員が襲撃。
●1952年2月28日(土)荒川署を日本共産党員が襲撃。
●1952年3月16日(月)鶴見、川崎税務署火炎瓶襲撃事件。
●1952年3月20日(木)京都の派出所を日本共産党員が襲撃。
●1952年3月28日(金)一連の日本共産党が引き起こした暴力革命闘争に対応するため「破壊活動防止法」案の綱領を発表。
●1952年5月17日(土)栃木県那須郡金田村村役場事件。
日本共産党党員らにより三月以来、人糞の投げ込み、集団脅迫、傷害が続いていたが村役場での会議中20名あまりの日日本共産党員が乱入。
●1952年6月2日(月)大分県菅生で交番が爆破される。4日襲撃首謀者逮捕。
●1952年6月10日(火)京都で朝鮮人50人が警官隊と衝突、パトロール車に火炎瓶投入、警官ら火傷。
●1952年6月25日(水)朝鮮動乱2周年記念集会、前夜祭のデモ隊は「人民電車」を動かし吹田で警官隊と大乱闘。
デモ隊2500人は新宿前で警官隊4000人と乱闘衝突。東口広場は「火炎瓶広場」と化した。
●1952年6月28日(土)東芝府中工場火炎瓶事件。
●1952年7月4日(金)破防法案は衆院本会議で可決成立。
●1952年7月7日(月)名古屋大須球場で訪ソ・中視察報告大会後デモ隊火炎瓶で警官隊と衝突、路上車放火 121人検挙。
●1952年年7月16日(水)都下恩方村山村事件。
 前村長宅に数名の「山村工作隊」の男が表門のくぐり戸をぶちこわして侵入、風呂場のガラス戸15枚、玄関や十畳間の雨戸五枚を破壊しこぶし大の石を投石。
●1952年年7月21日(月)破防法公布施行。公安調査庁発足。
●1952年7月30日(水)山梨県曙村山村地主襲撃事件。
就寝中の小中学生3人を含む家族を竹槍で突き刺す。3人は血の海の中に息も絶え絶えになって横たわっているところを
駆けつけた警官に救われた。
●1952年年8月6日(水)都下町田町の朝鮮人集落とマーケットより、時限爆弾製造法等が書かれた日共秘密文書「料理献立表」など押収。
●1952年8月7日(木)横川元商工大臣が埼玉県河村で襲撃され重傷。日共党員の容疑者3人を逮捕。
●1953年2月16日(月)小岩派出所侵入事件。
●1953年3月3日(火)警察爆破の陰謀発覚 日共党員3人を検挙。岡谷市署川岸村の旧防空壕に隠してあったダイナ
マイト50本、導火線10mなどを押収した。
●1953年3月5日 スターリン死亡。
●1953年5月17日 舞鶴引き揚げ援護局不法監禁事件。
 第三次中共帰還の際、舞鶴で援護局女子職員をスパイだとして吊し上げ、軟禁した。後に日本共産党員国民救援会事務局長小松勝子と都立大教授在華同胞帰国協力会総務局長阿部行蔵を検挙。
●1953年10月14日 徳田球一北京で病死。その死は1955年まで公表されなかった。
●1953年11月5日 高萩炭鉱所長宅爆破事件。
●1953年11月11日 京都荒神橋事件。
学生を含む800人が不法デモ。中立売署県警本部等に投石、窓ガラス破壊の乱暴狼藉。警官隊により鎮圧。警官7人学生4人が負傷。
●1953年11月12日 新潟県で講演内容が気にくわないと県教組(日教組)が文部常任専門員を吊し上げる事件発生。
●1953年11月12日 日鋼・赤羽争議事件。
中立労組員第2組合員とピケを張って就業を阻む第1組合員との間で乱闘。就業希望者側の女性(21)ら7人に重軽傷。

日本共産党のロシア革命、中国革命のような暴力革命を目指した闘いは当時の国民に不安と反感を与え、1951年の総選挙で300万票34席の当選を出したものの、1952年年10月の総選挙ではわずか89万票で全員落選した。武装闘争は日本国民の反感を生み、日本共産党は衰退したのである。日本共産党の暴力革命は国家打倒というスケールの大きい戦略のわりには数多くの「小さな事件」のまま収束した。日本共産党の革命運動が国民に広がることはなかった。

 日本共産党の「農村部でのゲリラ戦」の方針は沖縄にも影響した。沖縄では「山村工作隊」や「中核自衛隊」などのような過激な行動は起こさなかったが、非公然組織が作られ、「アメリカ帝国主義の沖縄の植民地化に対する闘争」を展開した。沖縄共産党は、米帝国主義は沖縄人民を搾取や弾圧する存在であると決めつけていた。

琉球人民党大島地方委員会(党綱領の改正はなぜ必要になったか,とくに改められている部分はどこか,アメリカ帝国主義は完全に琉球を植民地・軍事基地・奴隷化した,アメリカ帝国主義は琉球の独立国家を企んでいる,琉球の解放は祖国日本の解放・独立と不可分である,一般的要求,政治的要求,労働者の要求,農民の要求,社会的日常要求,教育文化の問題,琉球を解放するものは誰か)
「金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」1953年12月 謄写版17ページ」
 復帰前の沖縄の共産党と言えば人民党のことであり、代表者は瀬長亀次郎氏だと思われているが、瀬長亀次郎は表の合法的な活動をした共産党員であり、裏には非合法的な日本共産党が存在していた。非合法日本共産党のリーダーが国場幸太郎(国場組社長と同姓同名の別人)であった。非合法組織というのは国がその存在を認めない組織のことである。非合法日本共産党とは国家転覆を企む組織である。沖縄では合法共産党が人民党であり瀬長亀次郎がリーダーであった。一方非合法日本共産党は国場幸太郎がリーダーであった。

一九五二年十一月の末党地方委員会は中央から派遣された同志国場幸太郎が持って来た党中央の指導によって,
(1)中央に南方地域特別対策委員会がつくられたこと,
(2)琉球の党組織はこの下におかれること,
(3)現在の党組織とメンバーを正式な正規の手続きがとられるまで暫定的に認めること,
(4)急いで正式な手続を完了する旨の指示を受けた。
「 金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」
沖縄人民党は表向きは日本共産党に属していなかった。だから日本共産党本部の指導は非合法共産党員によってなされた。米軍の「反共攻撃」と向き合う沖縄人民党を地下で指導していたのが非合法共産党のリーダーであった国場幸太郎だったのである。
国場幸太郎は1951年に日本への「留学生」として東京大学経済学部で学んだ後、1953年に沖縄に戻り、人民党員として土地闘争その他の活動にかかわるが、非合法共産党のリーダーであった彼は米軍対敵諜報部隊の厳しい監視下にあった。国場幸太郎は1950年代末の島ぐるみ運動の退潮のなか、1960年に本籍地を東京に移す形で沖縄を脱した。

奄美共産党の働きかけによって生まれた沖縄の非合法共産党については,合法政党沖縄人民党の影に隠れて,公然と語られることは少ない。それは,沖縄人民党自身が米軍から「共産主義者」として弾圧されてきた「反共攻撃」の歴史と重なり合い,人民党幹部が共産党員であることは厳しく秘匿されてきた歴史と関わっている。ようやく最近になって,当事者の一人である国場幸太郎氏が,「現代世界史の中の沖縄」(『現代思想』2000年6月号),「沖縄の50年代と現在」(『情況』
2000年8/9月号)などで,なお断片的だが,その存在を語り始めている。
           加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)

 新聞報道では沖縄人民党の背後の地下組織の存在や「本土」との暗号連絡がクローズアップされていて、それはそれで重要であるが、長く戦前戦後の各国共産党史や日本共産党文書を見てきた私には、むしろ、沖縄共産党の「本土」共産党とは異なる動きが、驚きであった。
 だから、米軍の「反共攻撃」と向き合う沖縄人民党を地下で指導していた共産党の存在が明るみに出ても、長く沈黙を守ってきた人民党関係者にとって、不名誉なことではない。「五〇年問題」で分裂し孤立した「本土」の共産党から相対的に自立した組織をもち、独自に島民と結びつき、瀬長亀次郎氏を那覇市長に押し上げる原動力になりえたことを、誇りとすべきだろう。当時の「本土」共産党の極左方針に従うだけの党であったならば、党員たちが復帰運動の先頭に立つことはできなかったであろう。
                    加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)
 共産党は労働者階級の解放を目指した闘いであった。労働者とは自分の労働力を売ってお金をもらう人間である。戦前は労働者を無産階級と呼んでいた。共産党は財産を持たない無産階級である労働者の解放を目指していたから、土地所有者は解放の対象ではなかった。社会主義国家では私有財産は許されていない。土地も会社も住宅もすべて国が管理している。
 労働者の解放を目指す沖縄共産党は労働者の組織化を目指した。

奄美共産党では一九五三年十月以降日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに琉球地方特に沖縄の基地労働者を中心とする琉球の十万労働者の組織化に重点をおき奄美地区と沖縄の同志とが密接な連絡をもってアメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を組織する方針をたて、
「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 この方針が沖縄共産党の方針であった。労働者の組織化は国家打倒を目指した闘いに発展することを前提としていた。つまり革命を目指した運動である。だから方針を表に出すことはできなかった。沖縄共産党は合法と非合法を巧みに使い分けながら運動を展開した。

合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定,条約三条の撤廃,即時祖国復帰,アメリカ軍の土地取り上げ反対,人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし,これに対する抵抗組織の確立をはかり,
                        「沖縄・奄美非合法共産党文書」
非合法面では党員の獲得と組織の拡大と党の政策の合法面における実践化につとめ重点を当面基地労働者の組織において努力した結果,一九五二年六月には琉球において始めての日本道路会社スト闘争を組織し,ついに完全勝利をかちとったのである。日本道路ストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ,団結させる歴史的意義をもち一般人民にも植民地政策にめざめさせ,これに対する抵抗を組織する方向を与えた革命的記念闘争であった。
                         「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 このように合法的な大衆運動を組織しながら沖縄共産党は共産党員を増やしていったのである。国場幸太郎を中心とした非合法沖縄共産党の目的は暴力革命を目指している共産党本部と同じように沖縄でも「山村工作隊」を結成して「農村解放区」をつくることであっただろう。

労働運動と植民地反対闘争の革命的基礎はこれを出発点としてなされ,この労働者たちを中心として急速に成長し発展した。琉球地方委員会は琉球の労働者階級に根を張り,十分労働者を組織する基礎を確立し,琉球住民の民族解放民主統一戦線の基礎をつくった。
松村組,清水組砕石工場,K・O・T等々,これらのすべての闘争は党によって指導された。琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され,沖縄細胞として活動したが,名実ともに琉球地方委員会になると共に正式には日本共産党の指し示す民族解放民主革命の達成のためにその一翼として琉球の祖国復帰による住民解放の綱領を決定し,党中央の承認をうけるため,一九五二年七月沖縄に於いて琉球地方委員会を開催して,この方針を決定したが,この地方党大会はつねに革命え[へ]の道を共にして来た人民党の瀬長亀次郎書記長と島袋嘉順組織部長の両氏を始め他の沖縄出身者が[数文字空白=「入党」?]として党の方針の実現をみた。  
                          「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 非合法文書では民族解放民主統一戦線、民族解放民主革命、住民解放、革命の文言を使っている。それは国家転覆を目標にしている組織であることを明示している。
 革命という目標は共産党本部と同じでも本土と沖縄の実情が異なっていたために本土のような警官殺害、火炎瓶闘争などの過激な行動を沖縄ではできなかった。沖縄では共産党本部の極左的指令を敢えて無視し、土地接収反対運動や「本土」と比較にならない低賃金・無権利の労働者を組織して「島ぐるみ闘争」に入っていった。

 伊佐浜は銃剣とブルドーザーによる土地接収として有名であり、繰り返し繰り返し伊佐浜のことを報道をするので米軍は全ての土地を銃剣とブルドーザーで接収したようにイメージしてしまうが事実は全然違う。北谷村,浦添村,真和志村,越来村,読谷村など多くの場所で土地接収を行ったが、激しい抵抗をしたのは伊佐浜と伊江島だけであり、他の多くの場所では抵抗運動は起こっていない。読谷村では楚辺と渡具知のは全て接収されて新しい場所に移動したが抵抗運動はなかった。
 伊佐浜は非合法沖縄共産党が裏で暗躍したから激しい抵抗運動が起こったのである。非合法沖縄共産党の中心的メンバーだった国場幸太郎は米軍に逮捕され、拷問されて沖縄共産党員の名前を自白したという噂がある。そのために瀬長亀次郎から党を除籍されたという。

 土地接収反対運動は辺野古の経済発展をきっかけに下火になっていく。

辺野古は「島ぐるみ闘争」の最中に条件付きで米軍の土地接収を受け入れた。「土地取上げは 死刑の宣告」だと伊佐浜では徹底抗戦をやったのに辺野古では逆に土地接収を受け入れたのである。どんなに反対しても伊佐浜のように強制接収されるのなら、条件をつけて受け入れをするというのが辺野古民の考えだった。
 辺野古民の出した条件は、
1 農耕地はできるだけ使用しない。
2 演習による山林利用の制限。
3 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
4 米軍の余剰電力および水道の利用
5 損害の適正保障
6 扶養地の黙認耕作を許可する。
の6項目であった。要求がすべて受け入れられたのではないが、米軍と辺野古区は友好関係になり、キャンプシュワブが建設された。
 すると、辺野古の経済は空前の活況になる。五年間で辺野古の人口は4倍になり、多くの青年男女が、建設工事、PX(売店)、クラブ、メスホール(食堂)の職員として従事するようになり、彼らの給料は民間会社や地方公務員よりも高かつた。軍作業の人気も高まっていった。
水道の整備は米民政府の援助で行われた。辺野古の土地造成工事も米民政府が陣頭指揮をとって協力した。辺野古の驚異的な発展の噂はまたたく間に県内に広がり、経済発展を望んで米軍基地を受け入れる村がどんどん増えていった。そのために土地闘争は衰退していった。
基地経済が沖縄を貧困から救うということが分かった時から、沖縄の人々は米軍を受け入れるようになっていったのである。戦前の貧困を体験した沖縄の人たちにとって戦後の基地経済による繁栄は天国であった。

戦後米軍は、沖縄の人々の健康と政治、経済向上に尽力した



米国は民主主義国家であり、米軍は民主主義軍隊である。米軍は沖縄を植民地支配する気はなかった。むしろ沖縄の人々の健康と生活向上に尽力した。

植民地支配をする気なら莫大な経済援助をするはずがない。米軍が沖縄の人々の幸福のために尽力したひとつが医療政策である。
終戦直後にすぐに米軍が取りかかったのが沖縄の人々の健康・衛生の改善であった。1946年1月には、米海軍指令90によって、公衆衛生部の管理機構の再編が行われ、公衆衛生部の運営管理責任を、米海軍政府長官から軍政府本部専任軍医に委譲し、軍政府職員、沖縄人職員の診療、医療の一切の責任を持つこととした。


 戦後米軍政府が行った医療改革

(1) 官営医療制度
     軍政府は戦後直ちに官営医療制度を実施し、医師の個人自由開業を禁止した。医師は各地区の病院や診療所などの医療機関に公務員として勤務することとし、非常事態に対応したのである。
(2) 介輔制度
     戦後の医師の絶対数不足の中で旧日本軍の衛生兵、戦前に医学教育を受けていて、戦争のため学習を中断せざるを得なかった元学生などが医師助手として医療活動に従事させられた。彼らはその後、地域医療に大きく貢献することになった。
(3) 本土医学生留学制度
     軍政府は医師不足の解決のため医師養成の必要性を重視し、1949年に契約医学留学制度を開始した。
(4) 保健所の設立
     保健衛生行政の対策として、軍政府は各地区に次々と保健所を設立した。以後保健所は、本土同様、保健衛生指導に大きな役割を果たしてきた。
(5) 公衆衛生看護婦の育成
    保健所の設立と同時にコ・メディカルズの育成にも力が入れられていったが、そのなかでも特に公衆衛生看護婦(公看)の育成が進められ、各保健所を中心に地域に密着した保健医療の担い手として当時深刻な問題であった結核、ハンセン病の予防と治療などに重要な役割を担った。
(6) 臨床検査技師の育成
伝染病や寄生虫の疫学的調査を行うなど、地域衛生業務には欠かせない臨床検査技師の 養成も進められた。

米軍は医療や道路など生活環境を整理した後に政治・経済の発展に取り掛かった。

米軍による政治改革
戦前は地方議員に対して報酬(月給)を支払うことは法律で禁じられていた。地方議会議員は名誉職的に考えられていて、生活に困らない資産家が立候補する例が大半であった。
戦前の沖縄は中央政府から派遣された知事が権力を握っていたから、地方自治は有名無実だった。戦前に自治の体験をした政治家はいなかったのだから戦後の沖縄には自治能力はなかったと言っても過言ではない。
米軍はそんな沖縄に自治能力を育てていったのである。

立法院 
1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
立法院は、米国民政府布令第68号「琉球政府章典」により設置された、琉球政府の立法機関である。立法院の権限は、沖縄に適用されるすべての立法事項について立法権を行使することができるが、米国民政府の制約下にあり、法令の無効を命じられることもあった。
1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
1952年5月1日、議長・副議長が議員の互選となる(それまではアメリカ上院にならって行政副主席が議長になっていた)。
1953年12月26日、奄美地区が日本に返還される。
1954年2月1日、民政府布令第57号「立法院議員選挙法」改正第5号により、立法院議員の選挙制度が「中選挙区制」から「小選挙区制」になる。また、民政府布令第68号「琉球政府章典」改正第6号により、定員が29人となる。
1954年7月29日、立法院新議事堂が完成し、移転する。
1954年10月21日、沖縄人民党の瀬長亀次郎議員が議員資格を剥奪される(人民党事件の軍事裁判で懲役2年の判決が下ったため)。
1956年1月31日、立法院制定の立法院議員選挙法(1956年立法第1号)が公布される。
1962年2月19日、大統領行政命令改正により、立法院議員の任期が3年になる。
1965年5月28日、立法院議員選挙法が改正され、立法院の定員が32人となる。

立法院の権限

(1)立法権
米国民政府の布告・布令・指令に反しない限りにおいてその範囲内ではあるが、日本本土においては法律で定めるべき事項に対して立法権を行使した。立法院が制定する法令は立法と呼ばれる法形式が取られており、米国民政府の承認を経て施行されていた。「立法」は「旧日本法(1945年のニミッツ布告公布時点での日本法)」に優越するため、立法をもって旧帝国議会制定の法律の改廃が可能であった。よって、日本の地方議会の条例のように「2年以下の懲役・禁固もしくは100万円以下の罰金もしくは没収、5万円以下の過料」という罰則の制限はなく、法理論上は死刑を含む刑罰を定めることができた。
立法提出権は議員のみが有し、行政主席には与えられなかった。その代わり、立法が必要とされる場合には行政主席は参考案が付いた立法勧告書(メッセージ)を提出することができた。

(2)規則制定権
立法院における会議その他の手続及び内部の規律について「立法院規則」を制定する権限を有する。

歴代立法院議長
初代 - 泉宇平(1952年4月1日-1952年4月30日)※行政副主席
2代 - 護得久朝章(1952年5月31日-1953年12月26日)
3代 - 平良幸市(1954年4月5日-1954年9月13日)
4代 - 大浜国浩(1954年9月13日-1956年3月31日)
5代 - 与儀達敏(1956年4月12日-1958年3月31日)
6代 - 安里積千代(1958年4月7日-1960年11月30日)
7代 - 長嶺秋夫(1960年12月1日-1967年5月12日)
8代 - 山川泰邦(1967年5月12日-1968年11月30日)
9代 - 星克(1968年12月7日-1972年5月14日)
          
米軍は沖縄の議会制民主主義を育てていったが、沖縄の革新勢力は議会制民主主義を破壊する行為に出た。それが教公二法阻止運動である。教公二法には教員の政治活動を規制した条文があり既に本土では制定された法律であった。しかし、沖縄の教職員は政治活動を規制されることを嫌い、教公二法阻止闘争を展開した。
民主党(自民党系)は教公二法案の成立への手続きは進んでいった。危機を感じた教職員は10割年休闘争を決定して立法院を取り巻いた。そして、1967年2月24日、民主党が教公二法を強行採決しようとした時、教職員は警護している警察管をごぼう抜きにして立法院に突入して教公二法の議決を阻止した。 教公二法闘争は教職員の政治力の強さを証明した事件であった。
アンガー高等弁務官は「教公二法案を可決することは沖縄における民主主義がかかっています。民主主義や多数決のルールに従うのか、それとも暴徒のルールに従うかです。教師の政治活動や子供への影響の問題も重要なことですが、より深刻なのは、果たしてこの島で民主主義が生き残れるかということです」と心配した。
革新系政治家や知識人から植民地支配をしていると言われている米軍民政府のアンガー高等弁務官が「果たしてこの島で民主主義が生き残れるか」と教職員の立法院乱入を民主主義を破壊する行為とみなしたのである。アンガー高等弁務官は、米国は沖縄の民主主義を守る側にあると認識していたのだ。アンガー高等弁務官の発言から米国が沖縄を民主主義社会にしようとしていたことが窺える。
アンガー高等弁務官は、対立が沖縄人同士であるという理由で琉球政府からの米軍の直接介入の要請を断っている。これもまたアメリカ流の民主主義である。


行政主席

行政主席は琉球政府の行政府の長である。今でいう県知事である。戦前の知事は中央政府から派遣されていたから沖縄出身の知事はいなかった。行政主席が歴史上初めての沖縄出身の首長ということになる。
琉球政府の行政権は行政主席に属するとされたが、実際の権限は米国民政府が掌握しており、行政主席の権限は制約されたものであった。
行政主席は、立法院の立法案(予算案等も含む)に対して異議のある場合は、理由を明示して立法院に返送することができる(いわゆる拒否権の行使)。ただし、立法院の3分の2以上の多数で再議決された場合は、米国民政府の民政副長官(後の琉球列島高等弁務官)の決定を待たなければならない。また、行政主席は法案提出権や議会解散権を持たないなど、都道府県知事や市町村長の権限と大きく異なるところがあった。

行政主席指名権
立法院発足当初はなかったが、自治権の拡大にともない、行政主席を指名することが可能になった。1968年に行政主席公選制が実現し、発展的解消された。
1952年 - 57年 米国民政府による直接任命
1957年 - 61年 立法院の代表者に諮って、米国民政府が任命
1962年 - 65年 米国民政府の受諾できる者を立法院が指名し、米国民政府が任命
1965年 - 68年 立法院議員による間接選挙
1968年 - 72年 住民による直接選挙 沖縄の歴史上初めてである。
 このように米民政府は、直接任命から直接選挙へと発展させていった。

○琉球大学 1950年に首里城跡後に設立した。
○米琉親善記念日の制定
1853年5月26日のペリー提督来琉を記念して、5月26日を米琉親善記念日に定め、様々な記念行事が行われた。その後、この日の前後1週間を米琉親善週間と定めた。
○広報活動
米国民政府は、『今日の琉球』『守礼の光』の2種類の月刊誌を発行していた。これらの雑誌は、戸別に無料で配布されたほか、各地の琉米文化会館や琉米親善センターでも無料で入手することができた。
『今日の琉球』 1957年に創刊された米国民政府発行の月刊誌である。米国民政府の宣伝や施策の解説や琉米親善活動の記事が多かった。
『守礼の光』 1959年に創刊されたPR用の月刊誌である。上記の「今日の琉球」とは異なり、主として沖縄文化やアメリカの歴史などを紹介し、親しみやすく編集されていた。実際の編集は、東南アジアの共産勢力向けのプロパガンダをしており、沖縄に印刷工場や放送局を有していた米陸軍第7心理戦部隊が行っていた。
○琉米親善委員会の組織化
1950年代後半に、琉米相互の親善と理解を図ることを目的とした琉米親善委員会が組織された。しかし、親善団体というよりは、米国民政府に対する援助要請窓口という色彩が濃くなっていった。
○文化施設の建設
琉米文化会館琉米文化会館 米国民政府の文化施設で、名護市・石川市(現うるま市)・那覇市・平良市(現宮古島市)・石垣市・名瀬市(現鹿児島県奄美市)に設置された。アメリカ型の文化施設で、図書室・ホール・集会室が完備されていた。復帰時に日本政府に買い上げられて、各自治体に無償譲渡された。
○琉米親善センター 琉米文化会館と同じ目的の施設であるが、こちらは自治体の施設で、米国民政府の援助と地域住民の寄付によって建てられた。コザ市(現沖縄市)・糸満町(後市制施行し糸満市)・座間味村にあった。

○琉球銀行設立 1948年5月1日。
戦後のインフレ抑制と沖縄経済の正常な発展のため、「金融秩序の回復と通貨価値の安定」を目的とし、米国軍政府布令に基づく特殊銀行として設立されました。
○製糖工場設立 1952年  
ハワイの遊休2製糖工場の機械設備を導入 1953年に1回目の操業を行い亜硫酸法による耕地白糖を製造。

 米民政府は沖縄の医療、政治、経済、文化などあらゆる分野の発展に尽力したのである。


沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー
沖縄を愛し、経済の発展に全力を注いだ人がサムエル・C・オグレスビー氏である。沖縄産業の90パーセントにオグレスビー氏は関わったと言われている。彼は沖縄産業の恩人と呼ばれ、今でも経済界の人たちは毎年命日には泊の外人墓地にあるオグレスビー氏の墓を参拝している。


オグレスビー氏は1911年10月アメリカ合衆国バージニア州で生まれ、メリーランド大学で学士号及び博士号を習得、さらに、エール大学で極東問題と日本語の研鑽を積み卒業した。同氏は1950年に米国民政府職員として沖縄に赴任し、沖縄の経済、特に諸工業復興の趣旨を撒き芽を育て、戦前の沖縄では夢想だにできなかった各種の近代的工業の隆昌を見るに至ったことは、真に沖縄を愛し、沖縄の繁栄を願う同市の16年余にわたる献身的努力の賜物である。
               「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」

オグレスビー氏は1950年(昭和25年)に、琉球列島米国民政府経済局次長として沖縄に赴任した。当時の沖縄の経済は、戦前より製糖産業以外の産業がまともに存在しておらず、戦争で焼け野原になった事もあって、ほぼ何もない状態であった。オグレスビー氏は赴任早々に、製糖産業とパイナップル産業の発展に着手し、この2つの産業を「沖縄二大産業」と呼ばれるくらいまで成長させた。
1953年(昭和28年)に琉球工業連合会(現・社団法人沖縄県工業連合会)が設立されると、会のアドバイザーとなり、産業界への融資や新しい機械の導入を進めて、沖縄の経済特に工業の振興に献身的に尽くした。彼が携わった産業には、製糖、味噌醤油、製油、ビール、セメント、鉄筋、合板、菓子類など数多くあり、沖縄の製造業の90%はオグレスビー氏の支援や指導によるものと言われている。1965年(昭和40年)10月1日より琉球開発金融公社の3代目理事長に就任し、翌1966年(昭和41年)4月まで務めた。
1966年12月20日、宜野湾市にて死去。55歳没。「自分が死んだら沖縄に埋葬してほしい」と遺言していた事もあって、那覇市泊にある国際墓地にタイス夫人と一緒に眠っている。
オグレスビー氏の告別式に参列した政治家、経済人
 琉球商工会議所会頭・宮城仁四郎   沖縄経営者協会会長・船越尚友   
 琉球分蜜糖工業会会長・石橋好徳  琉球工業会会長・具志堅宗精
友人代表
 松岡政保、長峰秋夫、小波蔵政光、久手堅憲次、崎山秀英、宝村信雄、大城鎌吉、国場幸太郎、稲嶺一郎、仲田睦男

 オグレスビー氏に関する本は「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」一冊だけである。この本は研究者が書いた本ではなく、オグレスビー氏の死去から20年の節目を記念して、「オグレスビー氏産業開発基金」が発行した本であり、内容は生前のオグレスビー氏と交友のあった経済人や政治家の思い出を書いたものである。本に書かれたオグレスビー氏の説明をするより、宮城仁四郎氏の告別式での弔辞のほうがオグレスビー氏の人物像が分かってくると思うので弔辞を紹介する。

宮城仁四郎の告別式での弔辞
 私とオグレスビーさんが最初にお会いしたのは1950年、オグレスビーさんが沖縄へ来られて直後だと思います。それも当時、琉球政府、民間人から「沖縄の農業は、甘藷作りでなければならない、又、工場も昔と違って初めから大型分蜜糖工場にするべき」との意見書が、民政府に出されていて、民政府ではハワイ、ルイジアナその他から専門技術者を招聘し、これらの方々の意見書が出てその結論を今日言い渡される様であるが、「どうも良いことではないようだから一緒に行ってくれ」と琉球政府の糖業関係の係員が来て頼まれました。
 私は当時、勢理客で製塩業をして居りましたが、要望があってお会いしたのがオグレスビーさんでした。案の定、オグレスビーさんは沖縄の糖業は専門家の意見では、「大型工場にする程もない。せいぜい黒糖工場でやっていく程度だ」とのことでした。それで私は立ち上がってオグレスビーさんを指さして「それなら沖縄はどんな農業をすれば良いというのか!沖縄の農業について貴方より私の方が詳しいつもりだ」と随分、失礼な云い方をしたのですが「それでは君が、毎日でも来て私を説得してみろ」とのことで「よろしい」と別れました。当時はキャンプ桑江には、自動車がないと乗り入れが出来なかったが、私の製塩会社にはトラックが1台配車されていたので、約1年ほど毎週2回位行って琉球製糖建設の話をしたものでした。いつも午後1時に行って帰りは日暮れでした。いつの間にか二人は仲良くなり、砂糖以外の沖縄の産業についても意見を交換するようになりました。桑江キャンプには5つのセクションにそれぞれ部長が居て沖縄問題はこれらの方々の合意により処理された様でしたが、オグレスビーさんは遂にこの方々と沖縄群島民政官を説得され、ガリオア資金により琉球製糖工場を建設されることになりました。琉球製糖は始まっても金もないのでハワイの遊休工場を13万8千ドルの全くの捨て値で購入して建設したのですが、工場を知らない人達から色々なデマや誹謗があって常に苦労をし、私は琉球製糖を引かざるを得ないようになりました。後で分かったことですが、オグレスビーさんも大変な非難を受けられた様ですが、私には一言もそれらしいことは云われませんでした。
 或る経済団体の祝賀会で、オグレスビーさんは「琉球製糖建設で私も10年歳を取ったが、宮城さんも10年ふけた」と云って笑われたのを想い出します。
 普通の官吏であれば、それにこりて後は事なかれ主義で通したと思われますが、その後も沖縄に於ける新しい企業には例外なく、オグレスビーさんが努力されて実現しています。今日、沖縄にある二次産業の90%はオグレスビーさんのお蔭で出来たといっても決して過言ではありません。
 もう一つ忘れてならないのは、石垣島で沢山のパインアップルが栽培されて収穫期になるのに工場建設は未だ手つかずの有り様で、それを振興開発金融公社に融資申請しても恐らく許可を得て建設までは1年もかかると思われるので収穫期には間に合わないので、「各工場の建設資金を民政府で一括し、直接融資をしてもらいたい」と申し出のです。それには振興開発金融公社の悪口も随分云ったので初めはオグレスビーさんも怒っていましたが、民政官の直接調書をもらって2日で決定し、機械設計、建設に進みパイン企業初年度の業績を上げ、パインもほとんど腐らさずに処理できて後で民政府から逆に例を言われました。
 オグレスビーさんは、この5~6年余り、健康がすぐれない様子でしたが、時々訪問すると「この仕事で今晩は12時まで家でやらなければ」ということが続いていたようでした。最近でも沖縄の糖業問題を聞かれたり、北部製糖のことで随分気を使われて近々、話し合いたい、と云われていましたが、遂にその機会もなく逝去されました。
 役人の立場でオグレスビーさんほどお仕事の出来る方は、私は世の中にそんなに沢山は居られないと思います。オグレスビーさんの偉業は、沖縄繁栄の礎となって永久に残るでしょう。
 ご冥福を心から御祈り申し上げお別れの言葉とします。
               「宮城仁四郎の告別式での弔辞」

 その時の軍政本部商工局長は、分からず屋で通った男だった。いったん認可した機械の払い下げを、朝鮮戦争勃発による事情急変を理由に取り消しを通告してきた。その時窮地に陥った私のために、商工局長とのあっせんの労をとってくれ、機械の払い下げを約束通り実現してくれたのがオグレスビー氏である。赤マルソウ味噌醤油合名会社を那覇市与儀から現在地の首里寒川町に移し、工場を拡張できたのもそれからのことである。昭和26(1951)年1月末から本土との自由貿易が再開され本土産品の大量輸入で大ピンチを迎えた地元醤油業界に対しても彼は救援の手を差し伸べてくれた。
 操業間もないわれわれ生産業者の窮状の訴えに対し、早速関係者を説き伏せて、昭和28(1953)年4月「醤油の輸入全面停止」の実施に力を注いでもらった。
 この措置が、米民政府のとった、地元産業育成の第1号となった。
        赤マルソウ、オリオンビール株式会社創設者具志堅宗精
 


オグレスビー氏の功績を記念して二つの賞が創設された。

(1)オグレスビー氏工業功労者賞
 沖縄の工業発展に著しく功績のあった者や沖縄の産業開発に有益な事業を興した者に授与する。
○新規企業を導入して成功した者
○新製品を開発して成功した者
○その経営する企業によって沖縄経済に大きく貢献した者
○人格高潔なる者
○その他
2015年度受賞者
 沢岻カズ子  株式会社御菓子御殿代表取締役会長
 金城博  株式会社トリム代表取締役会長

(2)工業関係学生の学資援助
 オグレスビー氏奨学金は、工業関係学科の在学生に対して、心身健全、志操堅固、学業優秀で、経済的に学資の支出が困難な学生に学資の一部を支給している。
2015年度受賞者
 沖縄高専の安元康貴さん
2014年度受賞者
美里工業高校の上江洲紅歌さん
浦添工業高校の松本勇志さん
 
オグレスビー氏工業功労者賞と工業関係学生の学資援助は現在も続いている。


 銃剣とブルドーザーによる強制土地接収、墜落事故、騒音被害、婦女暴行、交通事故等々が報道され続け、米軍は悪であるというのが沖縄では定着している。それは「アメリカ帝国主義は完全に琉球を植民地・軍事基地・奴隷化し」と決めつけている共産党の論理が深く浸透していったからである。革新、沖縄タイムス、琉球新報も米軍に対する思想は共産党の影響を強く受けている。革新や沖縄二紙が反米軍基地運動していた裏で、米軍は医療で沖縄の人々の健康を守り、立法院、行政主席、裁判所を設立して沖縄の民主化を進め、琉球大学を設立して沖縄発展のための人材を養成するシステムをつくり、経済を目覚ましく発展させたのである。それが民主主義国家米国の民主主義米軍の真実である。



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森本元防衛相のバカげた「九州の南、西は可能」


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

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森本元防衛相のバカげた「九州の南、西は可能」論


普天間移設先「九州の南、西は可能」 森本元防衛相が持論
森本敏元防衛相は17日、日本記者クラブで会見し、米軍普天間飛行場の移設先について「九州の南、西半分のどこかにあれば、抑止力は落ちるが、何とかやっていける」と述べ、軍事上は県外移設が可能だとの認識を示した。森本氏はこれまで、海兵隊の陸上、航空、後方支援部隊をまとめたMAGTF(マグタフ=海兵空陸任務部隊)が「日本の西半分のどこかに、機能する状態ならば(普天間の移設先は)沖縄でなくてもよい」との認識を示していたが、より踏み込み、九州の南方と西方を移設可能な場所として初めて言及した形だ。
 森本氏は「沖縄だったら抑止力だ、隣の鹿児島県なら抑止力にならない、そんなことがあり得るのか。軍事的にはナンセンスだと思う」と指摘した。九州の南方、西方への移設が軍事上可能な理由として「陸上連隊と揚陸艦、飛行部隊、後方支援部隊が三位一体となって戦力を発揮できる」とし「そこ(九州)から東側は明らかに中国から見たら(米軍が)引いていった、出てこないと思われる」との持論を展開した。
 一方、民主党政権時に全国各地の候補地を検討したことを強調した上で、県内移設の利点として「抑止をするときに、戦略的に効果的な場所にある」との考えも示し、政治的な観点を含めると沖縄が効果的だとの考えも述べた。
 防衛相在任中に移設候補先として上がった鹿児島県徳之島への移設について「報道が出ると反対者がどんどん出てきてつぶされる。だから政治的に無理だ」と説明した。その上で「政治的に円満に解決し、どうぞ使ってくださいという県があれば(県外移設の)交渉の余地がある」との考えを示した。
琉球新報社
 普天間飛行場の本土移転は軍事上は可能であることはすでに分かっていることである。だから小泉元首相は県外移設をやろうとした。しかし、普天間飛行場を受け入れる自治体はひとつもなかった。沖縄の米軍基地負担を軽減するために普天間飛行場を本土に移転することを全国の首長は賛成しているが、自分の所に移転するとなると反対した。小泉元首相はそのことを「総論賛成各論反対」と言い、本土移転を断念して辺野古移設に戻った。
 問題は政治的な問題であって軍事的な問題ではない。それはずっと前から知られていることだ。
 
 中国への抑止力は、
三沢米軍基地・・・F16攻撃機を主力とする第35戦闘航空団とスパイ衛星の運用をはじめ情報収集部隊である第373情報監視群の基地。
横田米軍基地・・・在日米軍司令部と第5空軍司令部(在日米空軍司令部)、第374米輸送航空団が配備され、C130輸送機14機が常駐している。国連軍司令部も併設している。
横須賀米海軍基地・・・在日米海軍の本拠地であり、第7艦隊の出撃基地である。
厚木米軍基地・・・米空母の艦載機部隊、第5空母航空団の基地です
岩国米軍基地・・・沖縄の第一海兵航空団(キャンプ・フォスター)指揮下の第12海兵航空群が配備されている海兵隊航空基地である。
佐世保米軍基地・・・海外で唯一の強襲揚陸艦部隊の拠点であること。強襲揚陸艦ボノム・リシャールをはじめとする4隻の揚陸艦、4隻の掃海艦の母港
嘉手納基地・・・第18航空団の出撃基地
普天間飛行場・・・航空戦闘部隊である第1海兵航空団第36海兵航空群
ホワイトビーチ・・・攻撃型原潜の出撃・補給基地
トリイ・ステーション・・・陸軍通信部隊

中国への抑止力は上記の日本全体の米軍基地の総合力であるのであって普天間基地の抑止力うんぬんに矮小化してはならない。
森本元防衛相は「そこ(九州)から東側は明らかに中国から見たら(米軍が)引いていった、出てこないと思われる」「(県内移設の利点として抑止をするときに、)戦略的に効果的な場所にある」と述べているが、九州の東側に移転したとしても抑止力が下がるということはない。普天間飛行場が九州に移転しようが辺野古に移転しようが抑止力としての戦略的な効果においては大した違いはない。抑止力は米軍基地総合力の問題であって普天間飛行場の移転とは関係のない問題である。

問題は県外移設が政治的にできないことに尽きる。

森本元防衛相の「政治的に円満に解決し、どうぞ使ってくださいという県があれば(県外移設の)交渉の余地がある」は非現実的でありバカげた考えである。
田原 総一朗氏は、鳩山元首相が普天間飛行場を徳之島に移転しようと内密に徳之島の有力者と交渉しようとしたら官僚にリークされて報道されてしまい、交渉ができなくなったと言い、もしリークされなかったら可能性があったような印象を与え、官僚が真剣にやれば県外移設ができるような発言をしている。田原 総一朗氏の考えは間違っている。徳之島で移設反対1万人集会に1万5千人が集まった。それは徳之島の人口の6割である。政府が有力者と裏交渉をしたとしても移設することは不可能だ。
森本元防衛相も「報道が出ると反対者がどんどん出てきてつぶされる。だから政治的に無理だ」と報道の性にしているが、報道されようとされまいと住民の多くが反対するから県外移設はできない。それが現実だ。

種子島から西方12㎞離れた東シナ海上に無人島馬毛島がある。面積は8.20㎞、周囲16.5㎞である。馬毛島に米軍の離着陸の訓練のための滑走路をつくる計画があったが、住民の反対で実現しなかった。
 住民が住んでいる種子島から12㎞離れた無人島で滑走路をつくることさえ困難である。普天間飛行場の移設は不可能である。
 
 辺野古移設に反対している革新は本土への移設にも反対している。もし、本土に移設しようとすれば革新による辺野古のような過激な反対運動が本土でも起こるだろう。辺野古より動員力は増え、運動も過激になるはずだ。

 辺野古移設ができるのは地元辺野古区民の容認が大きい。辺野古区民が反対すれば辺野古移設はできなかった。議会制民主主義国家である日本で、国の事業であっても地元の了解なしでは実行することはできない。辺野古区民の容認が第一である。
辺野古区民の容認だけではない。名護市長、県知事の容認も必要である。辺野古移設は、辺野古区民、名護市長、県知事の三者が容認して初めて計画を実行することができたのである。
 本土は「総論賛成各論反対」であり、普天間飛行場の移設を容認する自治体は一か所もない。

「普天間移設先「九州の南、西は可能」発言は元防衛相としては抑止論が間違っているし、「政治的に円満に解決し、どうぞ使ってくださいという県があれば(県外移設の)交渉の余地がある」発言は学者として現実を正確に把握していない。

花より野菜

 ゴーヤー、キューリ、ヘチマ、モウイ、オクラなどの庭の野菜がどんどん大きくなってきた。
ゴーヤーが一番実をつけている。

シークワーサーの枝を這っているヘチマにも実がついた。そろそろ食べごろである。


モウイは実は大きいし沢山実がなっている。

 
 というわけで、毎日が野菜三昧である。野菜作りには肥料などのお金がかかっているから、せめて肥料代分は食べなければならない。スーパーで野菜は買わないで、庭の野菜だけを毎日食べている。

6月の半ばなのにグラジオラスが咲いた。二本のグラジオラスは咲き終わり茎が枯れていこうとしている時に咲いた。遅咲きにしても遅すぎる。
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日本の米軍基地


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ソ連は崩壊したが、中国はまだ社会主義国家である。そして、領土拡大主義であり、尖閣諸島に侵略しようとしている。
南沙諸島ではフィリピンやベトナムの領海を中国の領海だと主張して侵略している。
中国が社会主義国家である限り、抑止力として日本の米軍基地は必要である。
中国が民主主義国家になり、米国や日本、その他アジアの国々と友好関係になれば日本の米軍基地は必要なくなる。その時には日本の米軍基地のほとんどを撤去するだろう。

 韓国、台湾、フィリピンを中国の侵略から守るために存在しているのがアジアに駐留している米軍である。
中国を抑止し、アジアの平和を守っているのは、米軍の戦闘機・爆撃機、情報機関、原子力空母、原子力潜水艦、海兵隊の総合力である。


アジアの平和のために日本の米軍基地は必要である
 
 米軍基地があるから攻撃されると引退した自民党の老政治家や革新政治家たちは言っているがそれは妄想からきたたわごとである。
もし、日本の米軍基地に攻撃を加える国があると主張するのなら、それはどの国であるのか、なぜその国は米軍基地を攻撃するのか、その原因を説明するべきである。しかし、彼らは日本の米軍基地を攻撃する国がどの国であるかを言わないし、攻撃をする原因も説明しない。ロシア、韓国、台湾、ベトナム、フィリピン、インドネシア、シンガポールなどのアジアの国々が米国と戦争する可能性はない。米国は民主主義国家である。ヨーロッパで見られるように民主主義国家と民主主義国家は戦争をしない。ヨーロッパの民主主義国家はEUという共同体をつくっている。民主主義国家と民主主義国家はやウ交感系を高めていく。米国が韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、シンガポールなどアジアの民主主義国家と戦争をすることはあり得ないことである。むしろ友好関係を高めていくだろう。
アジアに民主主義国家ではない国がある。北朝鮮と中国とベトナムである。ベトナムは米国とベトナム戦争をやったが、現在はTPP参加を表明し、アジアの日本、フィリピンなどの民主主義国家や米国と友好関係にある。米国と友好関係を築いているベトナムが日本の米軍基地を攻撃することはあり得ない。もし、米国と戦争を始め、日本を攻撃するとすれば北朝鮮か中国である。
北朝鮮は韓国に侵略しようとしているが韓国には米軍が駐留して北朝鮮の侵略を韓国軍と共に阻止している。中国は日本の尖閣諸島に侵略しようとしているが尖閣は日米安保の適用範囲であると米国は宣言し中国の侵略を抑止している。南沙諸島には現実に中国は侵略している。これ以上の侵略を阻止するために米国はフィリピンに軍隊を派遣し、中国の侵略を抑止している。米軍の北朝鮮や中国への抑止は朝鮮戦争以来60年以上も続いている。米軍は朝鮮戦争、ベトナム戦争をしたが日本が攻撃される可能性は一度もなかった。
米国は朝鮮戦争で現在の韓国を助け、台湾の中国侵略を徹底して防いだ。
台湾海峡危機
1950年代から1990年代にかけて中華人民共和国と中華民国(台湾)の間での軍事的緊張が高まった事件の総称を台湾海峡危機と呼んでいる。4度にわたり緊張が高まったが、アメリカの介入などにより全面戦争に発展することはなかった。

第一次台湾海峡危機(1954年 ― 1955年)
1954年9月3日、中国人民解放軍は金門島の守備に当たっていた中華民国国軍に対し予告もなく突然砲撃を行った。1955年1月18日には解放軍華東軍区部隊が軍区参謀長張愛萍の指揮の下、一江山島を攻撃、陸海空の共同作戦により一江山島は解放軍により占拠された。
一江山島を失った台湾側は付近の大陳島の防衛は困難と判断、2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍と中華民国海軍の共同作戦により大陳島撤退作戦が実施され、浙江省の拠点を放棄したことで事態は収束を迎えた。

第二次台湾海峡危機(1958年)
1958年8月23日、中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始、44日間に50万発もの砲撃を加え、金門防衛部副司令官である吉星文、趙家驤、章傑などがこの砲撃で戦死している。この砲撃に対し台湾側は9月11日に中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。この武力衝突でアメリカは台湾の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているとし、また中国をナチスになぞらえた。9月22日にはアメリカが提供した8インチ砲により中国側への砲撃を開始、また金門への補給作戦を実施し、中国による金門の海上封鎖は失敗、台湾は金門地区の防衛に成功している。
10月中旬、ダレス国務長官は台湾を訪れ、蒋介石が金門・馬祖島まで撤収することを条件に、援助をすると伝えた。蒋介石は10月21日からの三日間の会談でアメリカの提案を受け入れるが、大陸反撃を放棄しない旨もアメリカへ伝えた。
10月6日には中国が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言し、アメリカとの全面戦争を避けた。

国光計画(1962年)
1962年、大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手した。具体的に政府及び軍部に大陸反攻のための組織を設置、同時にアメリカの支持を取り付けようとしたが、アメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった。

第三次台湾海峡危機
1995年-1996年台湾海峡危機又は1996年台湾危機とも呼ばれる第三次台湾海峡危機は、1995年7月21日から1996年3月23日まで台湾海峡を含む中華民国周辺海域で中華人民共和国が行った一連のミサイル試験の影響であった。1995年半ばから後半にかけて発射された最初のミサイルは、一つの中国から中華人民共和国外交政策を引き離すものと見られていた李登輝の下の中華民国政府に対する強力な信号を送ろうとしたものと見られている。第二波のミサイルは、1996年初めに発射され、1996年中華民国総統選挙への準備段階の台湾総統選挙に対する脅迫の意図があると見られた。
アメリカ合衆国政府はベトナム戦争以来の最大級の軍事力を行使して反応した。クリントン大統領は1996年3月にこの地域に向けて艦船の増強を命じた。ニミッツを中心とした二つの航空母艦群(英語版)や第7航空母艦群(英語版)、インディペンデンスを中心にした第5航空母艦群が、この地域に存在し、台湾海峡に入ったと公式発表された。

フィリピン対テロ戦争

フィリピン南部ミンダナオ島では、40年以上政府とイスラム系住民との武力紛争が続いてきた。10万人を超える死者を出している。アメリカ軍は「フィリピンにおける不朽の自由作戦」でミンダナオ島におけるイスラム勢力と対決するフィリピン軍を訓練や助言などの方法で援助している。フィリピン国軍やアメリカ軍による共同軍事作戦、掃討作戦が行われイスラム反乱軍はほぼ壊滅・弱体化したといわれている。

米軍は中国とも戦争を辞さない態度をとってきた。中国のほうが米軍と戦うのを避けてきた。アジアで米軍と戦う国はない。つまり日本が攻撃されるというのはアジアの情勢を知らない者の妄想である。注目するところは蒋介石が大陸反攻をしようとした時、米国が反対したことである。米国はすべての国の侵略行為に反対しているのだ。朝鮮戦争もベトナム戦争も侵略を阻止するのが目的であったし、現在もそうである。

6月16日(火)に時事通信から以下の報道があった。
南シナ海埋め立て「近く完了」=米との対立回避へ妥協か―中国

 【北京時事】中国外務省の陸慷報道局長は16日、中国が南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島で進めている埋め立て工事について談話を発表し、「既定の作業計画に基づき、近く完了する」と明らかにした。その上で次の段階として、軍事・防衛のほか、海上救難や災害対策、航行安全などに使用する施設を建設すると表明した。
 中国による南シナ海での埋め立てに対し、米国は中止を要求し、継続するなら「人工島」周辺に米軍機や軍艦を派遣する構えを見せていた。23、24両日にワシントンで開かれる米中戦略・経済対話を前に、対立激化を回避したい中国は、埋め立て工事終結の方針を示すことで妥協を探った可能性もある。 
                      「時事通信」

日本の米軍基地は日本を防衛するだけでなくアジアの平和を守るために存在している

日本の米軍基地は北朝鮮と中国の脅威に対峙し、抑止している。日本に米軍基地があるから攻撃されるのではなく、北朝鮮、中国から日本、韓国、台湾、フィリピン等のアジアの民主主義国家を守っているのである。
日本の米軍基地を調べていくとその事実が明確になる。


日本の米軍基地
米軍基地は日本全国に132か所(1027平方キロメートル)ある。米軍専用基地は83か所で、他は自衛隊との共用である。日本の主な米軍基地は、三沢空軍基地(青森県三沢市)、横田空軍基地(東京都福生市など)、横須賀海軍基地(神奈川県横須賀市)、岩国海兵隊基地(山口県岩国市)、佐世保海軍基地(長崎県佐世保市)と沖縄の米軍基地群。
沖縄が負担している割合は23%てあり、約75%というのは専用施設に限ったことであり、事実とは異なる。都道府県別米軍施設の面積ランキング」では1位は北海道で、3万4463㌶。沖縄は2位で、2万3671㌶である。以下、静岡、大分、山梨と続く。

○北海道の米軍基地
現在18か所、面積では全国第一位。
米軍専用基地は、「キャンプ千歳」の1か所。残りはすべて共同使用基地。
沖縄の県道104号越えの実弾射撃訓練演習が移転された矢臼別演習場は、日本で最大規模の自衛隊演習場。米軍はこの
演習場で沖縄ではできなかった実弾射撃訓練を繰り広げてきた。北海道の中規模演習場もすべて共同使用基地。
航空自衛隊千歳航空基地は共同使用基地。
嘉手納基地所属のF15戦闘機の「訓練移転」では、滑走路の拡張によって、米軍機が嘉手納基地と同様、激しい訓練をおこなっている。

〇三沢米軍基地
F16攻撃機を主力とする第35戦闘航空団とスパイ衛星の運用をはじめ情報収集部隊である第373情報監視群の基地。第35航空団は、F16攻撃機40機を擁し、在韓米軍のF16部隊と一体となって、地上攻撃能力を強化する訓練をおこなっている。
 対地爆撃を主たる任務とするF16は、東北地方に設置されたグリーン・ルートやピンク・ルートなどの低空飛行訓練ルートで、低空飛行訓練をくり返している。
 三沢基地の北、姉沼地区に「セキュリティ―・ヒル」という小高い丘に、19個のパラボラ・アンテナ群が並び周辺のあらゆる電波情報を収集し解析する「象のオリ」アンテナなどが置かれている。米空軍の第373情報監視偵察群指揮下の三沢安全保障センターで、中国や北朝鮮など周辺国の電波や通信を傍受し、瞬時に解析するスパイ基地。

「ミサイル防衛」の最前線として増強
 三沢基地を中心とする青森県での「米軍再編」は、「ミサイル防衛」の最前線基地としての増強がすすめられた。
 日本海に面する青森県つがる市には、米軍Xバンド・レーダーが設置され、自衛隊基地内に米軍「車力通信所」が設置された。このレーダーは、アメリカの世界的規模の「ミサイル防衛」網の一環で、米国本土を攻撃する弾道ミサイルを監視・探知するレーダーである。北朝鮮や中国の弾道ミサイル用といわれている。

〇横田米軍基地と首都圏の米軍基地
在日米軍司令部と第5空軍司令部(在日米空軍司令部)、第374米輸送航空団が配備され、C130輸送機14機が常駐している。国連軍司令部も併設している。日本に飛来する外来米軍機の中継・輸送基地の役割を担っている。
 2012年3月には、横田米軍基地に、航空自衛隊航空総隊司令部(当時は府中市)が移駐し、戦後初めて「航空自衛隊横田基地」が発足した。
西太平洋における唯一の輸送航空団の中継基地である横田基地は、世界のどこにでも展開する準備を整えている遠征部隊である。それが大規模な訓練をおこなっている理由である。つまり、この訓練は、世界のどこにでも出撃できる軍事態勢づくりのためである。こうした横田基地での新たな訓練とともに、横田基地に「強襲着陸用滑走路」も設置された。

※ 日本の米軍基地がアジアの情勢を常に見守り、いざ紛争が起こるとアジアのどこにでも駆けつける態勢にあることが理解できる。日本の米軍基地はアジアの平和を守っている。
首都圏の空を支配する「横田エリア」
 横田基地を中心とした首都圏の空には、横田ラプコン(通称「横田エリア」)という米軍専用空域が68年間続いている。「横田エリア」は、北は新潟県から東は栃木県、西は群馬、長野、埼玉、東京、山梨、神奈川、静岡県の1都8県にまたがる広大な区域である。高度は、海面上から2万3000フィート(約7000メートル)の空域である。民間航空機は、米軍の許可なくこの空域に入ることができません。JAL(日本航空)機が御巣鷹山に墜落した事故では、ここが「横田エリア」の中だったので、捜索隊は米軍の許可のもとに入った。
 
〇横須賀米海軍基地と神奈川の基地群

 横須賀基地は、在日米海軍の本拠地であり、第7艦隊の出撃基地である。
揚陸指揮艦「ブルーリッジ」を旗艦とする第7艦隊は、ハワイの太平洋艦隊の指揮下にあり、東は日付変更線から西はアフリカ東岸までの西太平洋、インド洋、日本海という地球の5分の1の広大な海域を作戦区域とする艦隊だ。原子力空母ジョージ・ワシントンをはじめ11隻の戦闘艦が横須賀基地を母港としています。乗組員約5350人の原子力空母ジョージ・ワシントン(今秋よりロナルド・レーガンに代わる)は、「ミサイル防衛」用のイージス・システムを搭載している7隻の艦船で編成される第15駆逐戦隊とともに「空母打撃群」を編成しています。これらは、アフガン、イラク戦争の最前線で攻撃の先頭に立ってきた。

横須賀基地の「米軍再編」
横須賀基地は、「米軍再編」によって、あらたに原子力空母として、核(原子力)基地化の増強がすすめられている。

※原子力空母を主体とする第七艦隊もいざという時はアジアに駆けつける。
厚木米軍基地
 厚木基地は、米空母の艦載機部隊、第5空母航空団の基地です。FA18スーパー・ホーネットで編成される4つの戦闘攻撃飛行隊(VFR)(約52機)やF18グラウラー電子戦飛行隊、早期警戒飛行隊などが配備されている。第5航空団は、米国唯一の911航空団であり緊急事態で運用される「殴りこみ」航空団である。
厚木基地は、米軍専用地区と共同使用地区からなっており、航空基地としての中心となる滑走路、管制塔、作戦センターは、自衛隊が使用する国有財産で、米軍との共同使用となっている。
神奈川県は、沖縄に次ぐ「第二の基地県」と言われている。米軍専用基地数では沖縄についで13か所の米軍基地がある。キャンプ座間には、在日米陸軍司令部が置かれている。基地には、第9戦域支援コマンドが置かれ、太平洋軍担当地域での紛争の際の補給支援をおこなう部隊が配備されています。また、第78航空大隊やスパイ部隊である第500軍事情報旅団の指揮下にある第441軍事情報大隊が配備されている。
 
〇キャンプ富士
静岡県御殿場市にあるキャンプ富士(「富士営舎地区」)は、沖縄の米海兵隊基地司令部の管轄下に属する地区で、東富士演習場を統括する部隊が駐留している。
東富士演習場は、富士山麓に広がる米軍と自衛隊の共同使用演習場です。1968年までは米軍専用演習場であったが、米軍が経費節減のため、日本に返還し、自衛隊所有の訓練場となったが、米軍が年間270日間にわたって自由に使うことができる。270日間は、土・日を除けば「毎日」という意味である。自衛隊演習場であるが、実質は米軍演習場というしくみになっている。
東富士演習場は、沖縄の県道104号越え実弾射撃訓練が移転し、年間1か月近く、昼夜を問わずの訓練がおこなわれている。東富士演習場の近傍にある今沢海岸には、「沼津海浜訓練場」があり、ベトナム戦争やイラク戦争では上陸作戦演習が頻繁におこなわれた。

〇岩国米軍基地
岩国基地は、沖縄の第一海兵航空団(キャンプ・フォスター)指揮下の第12海兵航空群が配備されている海兵隊航空基地である。FA18スーパー・ホーネット戦闘攻撃機など約36機配備されています。また、AV8Bハリアー垂直離着陸攻撃機6機、FA6Bプラウアー電子戦偵察機、CH53D大型ヘリ8機など約57機の軍用機が配備されている。
 岩国基地上空には、「岩国エリア」という米軍専用空域が存在し、北は島根県江津市や浜田市、山口県、広島県の上空から、南は四国の愛媛県上空にまで及んでいる。
 岩国基地では、2010年5月29日から新滑走路が運用開始になり、基地機能は格段に強化されました。この計画により、基地面積は1.4倍、滑走路は、45mから60mに拡幅され、戦闘攻撃機が2機編隊で離着陸が可能となった。格納庫や弾薬庫、燃料タンクが増設された。これまでにはなかった200m超の岸壁が沖合いの突端に建設され、喫水13mで3万トン級艦船の接岸が可能になりました。

〇佐世保米軍基地
第一の特徴 海外で唯一の強襲揚陸艦部隊の拠点であること。強襲揚陸艦ボノム・リシャールをはじめとする4隻の揚陸艦、4隻の掃海艦の母港であり、世界の7割の海岸線から陸地に侵入できるLCAC(エアクッション型上陸艇)の海外唯一の前進配備基地である。強襲揚陸艦は、乗組員約1200名、海兵隊員約1800名を収容し、「殴りこみ」戦闘の最前線に立つ艦船である。
第二の特徴 西太平洋の燃料・弾薬の補給、中継拠点であること。米第7艦隊の艦船約70隻を3ヵ月間行動させることが可能な約85万キロリットルの燃料と、約4万トンの弾薬を貯蔵している。

〇沖縄の米軍基地

沖縄の海兵隊基地
沖縄には、沖縄全土の10.2%、本島の18.4%に米軍基地が配備されている。その中心は、米海兵隊基地である。
在沖米海兵隊の中心は第3海兵遠征軍で、司令部は、キャンプ・コートニー(うるま市)に設置されている。地上戦闘部隊である歩兵部隊(第4海兵連隊)がキャンプ・ハンセン(金武町)とキャンプ・シュワブ(名護市)に、砲兵部隊である第12海兵連隊がキャンプ・ハンセンに、航空戦闘部隊である第1海兵航空団第36海兵航空群が普天間基地(宜野湾市)に置かれています。また、補給・後方支援部隊である第3海兵兵站群司令部が、キャンプ・キンザー(牧港補給地区・浦添市)に置かれています。これらは、それぞれが米海兵隊太平洋軍の指揮下にあり、「空地任務部隊」として、地上戦闘ばかりでなく、航空戦闘、海上戦闘を担う{殴りこみ}能力を保持しています。
第31海兵遠征隊(MEU)は、海兵隊の空地任務をもつ主たる戦闘部隊です。海兵隊はそもそも、第二次世界大戦から本格的な水陸両用戦闘を担う部隊となり、ソ連崩壊後、「遠征隊」がその主力となりました。「遠征隊」は、普天間の航空部隊や地上戦闘部隊と一体となって機動的に編成され、アフガンやイラクなどの紛争に迅速に介入する目的をもっています。
普天間基地は、「世界一危険な基地」と称され、宜野湾市の中心部にあり、住民に墜落の危険と爆音被害を与えています。普天間に配備されている第1海兵航空団は、司令部をキャンプ瑞慶覧(フォスター)に置き、指揮下部隊には、岩国基地の第12海兵航空群やハワイのカネオヘ・ベイ米海兵隊基地の第24海兵航空群があります。これらは、軍事的に一体となって配備・展開され、岩国のFA18戦闘攻撃機などが沖縄の訓練海空域で頻繁に戦闘・爆撃訓練をおこなっています。2004年8月、沖縄国際大学に墜落したCH53Dはハワイから岩国に配備されていた大型輸送ヘリコプターで、普天間での訓練中に墜落したものです。
キャンプ・キンザーは、在沖米軍が使用する日用品から弾薬(弾薬庫は、嘉手納、辺野古)までを貯蔵・補給する海兵隊兵站部隊の基地です。
嘉手納基地(嘉手納町)
 嘉手納基地は、第18航空団の出撃基地で、F15戦闘機(約50機)を主力として、KC135空中給油機、E3空中警戒管制機が配備されています。また、空軍の特殊作戦機であるMC130Hコンバット・タロンⅡ、「ミサイル防衛」のためのRC135コブラボールなどに加え、海軍のP3C対潜哨戒機、陸軍のPAC2・PAC3(パトリオット・ミサイル)部隊(第1防空砲兵部隊)も置かれている。90機以上の航空機が配備されている。

ホワイト・ビーチ(うるま市)
勝連半島の先端にある米海軍基地で、横須賀基地の第7艦隊主力艦やグアムを母港とする攻撃型原潜の出撃・補給基地となっています原潜の出撃・補給基地
陸軍の第1特殊部隊群(空挺)第1大隊など、陸・海・空の基地群が集中しています。

トリイ・ステーション 陸軍通信部隊
ジャングル戦闘訓練場 北部訓練場
キャンプ・ハンセン 中部訓練場


本土6基地沖縄4基地が日本・アジアの安全を守っている。

三沢米軍基地・・・F16攻撃機を主力とする第35戦闘航空団とスパイ衛星の運用をはじめ情報収集部隊である第373情報監視群の基地。
横田米軍基地・・・在日米軍司令部と第5空軍司令部(在日米空軍司令部)、第374米輸送航空団が配備され、C130輸送機14機が常駐している。国連軍司令部も併設している。
横須賀米海軍基地・・・在日米海軍の本拠地であり、第7艦隊の出撃基地である。
厚木米軍基地・・・米空母の艦載機部隊、第5空母航空団の基地です
岩国米軍基地・・・沖縄の第一海兵航空団(キャンプ・フォスター)指揮下の第12海兵航空群が配備されている海兵隊航空基地である。
佐世保米軍基地・・・海外で唯一の強襲揚陸艦部隊の拠点であること。強襲揚陸艦ボノム・リシャールをはじめとする4隻の揚陸艦、4隻の掃海艦の母港
嘉手納基地・・・第18航空団の出撃基地
普天間飛行場・・・航空戦闘部隊である第1海兵航空団第36海兵航空群
ホワイトビーチ・・・攻撃型原潜の出撃・補給基地
トリイ・ステーション・・・陸軍通信部隊

東アジアで米軍基地があるのは韓国と日本だけである。韓国の米軍基地は北朝鮮の抑止力になっているが、フィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地が返還された今では日本の米軍基地は韓国、台湾、フィリピンなどアジアの国々の中国からの侵略の抑止力となっている。
日本の米軍基地は中国のアジア侵略を抑止し。アジアの民主主義国家の平和を守っている。

自衛隊は日本国を防衛するしかできない。アジアの民主主義国家を守るのは米軍しかない。フィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地は1991年に返還され、現在は日本の米軍基地だけであるが、アジアの民主主義国家の平和を維持するには米軍が必要であることを知らしめたのは、皮肉にも米軍のフィリピンからの撤退であった。
フィリピンから米軍が撤退すると、1995年に中国はフィリピンが領有権を主張しているミスチーフ礁などを占領して建造物を構築した。軍事力に優る米軍が駐留していたら中国はミスチーフ礁を占領していなかっただろう。フィリピンの軍事力が弱いのを見通したうえでのフィリピン侵略であった。フィリピンの中国に対する甘い考えが招いた中国のミスチーフ礁侵略である。
2011年2月末から5回以上にわたり、中華人民共和国探査船がフィリピンが主張する領海内において探査活動をくり返し、5月には無断でブイや杭などを設置した。
2015年5月には、中国が南シナ海で進める岩礁埋め立てや施設建設について「中国の主権の範囲内の問題だ」などと述べ、中止しない方針を表明した。埋め立ての目的については「軍事防衛の必要を満たすため」とし、軍事利用を含むことを明確に認めたのである。
中国に圧力をかけることができるのはアジアには一国もない。米政府だけが中国に圧力をかけることができる。米政府は今後、スプラトリー諸島の12カイリ以内に米軍機を進入させる可能性を表明した。
フィリピンは米軍に対し、フィリピン軍施設の共同使用や、補給物資貯蔵施設などの建設を認め、米艦船などの巡回配備を活発化させているが、時すでに遅しである。フィリピンに比べて日本政府は中国の本質を見抜いていた。
1972年に沖縄は本土復帰したが、ベトナム戦争で多大な戦費を使い、経済が破綻寸前であった米政府は沖縄から米軍基地を撤退する積もりでいた。日本とフィリピンの米軍基地があれば北朝鮮、中国への抑止力は保つことができると考えていたのだと思う。沖縄の米軍基地撤去に反対したのは日本政府であった。米軍基地の維持には日本が「思いやり予算」を出すことで沖縄の米軍基地は残った。
 日本政府が「思いやり予算」を出して米軍の沖縄駐留を維持させたのは正しい判断であった。
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アジアの平和のために米軍は必要である


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アジアの平和のために米軍は必要である



 黒い部分はソ連邦が崩壊する前の1980年代の社会主義国圏である。アジア大陸はほとんどが社会主義国であった。東アジア大陸ではわずかに韓国だけが非社会主義国であった。
社会主義圏が急激に広がったのは武力による拡大が原因である。

1917年にロシア革命が起き、史上初の社会主義国家が誕生した。1924年のレーニンの死後に独裁的権力を握ったスターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国とした。スターリンはソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともにポーランドに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した。またバルト3国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにバルト三国を併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。  さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国である中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
第二次世界大戦によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影はなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。さらに6月5日にはハーバード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。
このようにスターリンによって社会主義国圏は急拡大していってヨーロッパの民主主義国家を脅かす存在になった。武力による社会主義圏の拡大を抑止するには米国の軍事力が必要であった。
           
沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある中国の拡大

1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦(国共内戦)を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃した内戦で相次いで国民政府軍に勝利をおさめ、1949年4月には共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧した。この過程で南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと避難したりする国民政府関係者が多数出た。その為、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。なお、崩壊状態に陥った南京国民政府は蒋介石の指導の下で台湾に撤退し(台湾国民政府)、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っている。冷戦を経て現在中華民国を国家承認している国は30ヶ国未満であるが、二つの「中国」政府が並立する事態は台湾問題として東アジアの国際的政治問題となっている。

建国当初の政治を担ったのは、中国人民政治協商会議であった。この段階では共産党独裁体制は確立されておらず、「新民主主義論」のもと共産党、中国民主同盟、中国農工民主党、中国国民党革命委員会などの諸勢力が同会議の中心となった。1950年、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われた。法の内容自体は穏健的なものであったが、地主に対して積年の恨みを抱いていた貧農などによって運動は急進化し、短期間で土地改革は完了した。
中華人民共和国の発足直後は、旧国民党、富裕層などによる反共・反政府運動が続発した。このため、「反革命活動の鎮圧に関する指示」が出され、大衆を巻き込んだ形で反政府勢力の殲滅を図った。1953年までに71万人を処刑、129万人を逮捕、123万人を拘束し、240万人の武装勢力を消滅させた。


1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。ただし、1954年のネルー・周恩来会談で平和五原則を示したこと、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも積極的に関わったことに見られるように、常にソビエト連邦一辺倒なのではなく、第三勢力としての外交も行った。また、1956年のソ連共産党第20回大会においてフルシチョフが行った「スターリン批判」に対して、中国共産党は異なった見解(功績7割、誤り3割)を示した。これ以降ソビエト連邦との関係は徐々に悪化、のちの中ソ論争や中ソ国境紛争へとつながっていく。
国内では、1953年頃より社会主義化を本格的に進め、人民政治協商会議に代わって人民代表大会を成立、農業生産合作社を組織した。1956年に行った「百花斉放百家争鳴」運動が知識人から批判をうけたため、これを弾圧するために1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。  
1958年、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わったと言われている。同じ頃、チベットの中国との同化を図り、「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる。チベットの最高指導者、ダライ・ラマはインドに亡命し、未だ帰還していない。

毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。建国直後の1949年にウイグル侵攻を行い、ウイグルを占領した。1950年にはチベット侵攻を行い、チベットを併合した。1952年には朝鮮戦争に介入した。毛沢東の指導のもとで大躍進政策と核開発を行ない、多くの餓死者と被爆者を出しながらも核保有国としての地位を確保する。1959年のチベット蜂起を鎮圧すると、1962年にはチベットからインドに侵攻した(中印戦争)。1974年には南シナ海に侵攻し、ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)

ウイグル進攻
1949年の晩夏、人民解放軍は甘粛省の河西回廊に進み、新疆に圧力をかけた。1949年の秋、共産党勢力は国民党と三区との間で新疆の政治的主導権に関して個別の合意に達した。中国共産党は国民党の地方政府と軍を説得し、指導者は新しく成立した中華人民共和国への三区自治の編入に合意した。彼らは降伏した国民党将官と共に中華人民共和国政府の要職につけられた。人民解放軍は1949年10月に新疆に展開し、広大な地域を1950年春までに占領した。

チベット侵攻
第1段階 アムド地方やカム地方の北部・東部・南部を制圧(1948年‐1949年)。
第2段階 チベット政府ガンデンポタンを屈服させ、カム地方の西部やウー・ツァン地方、ガリ地方を制圧、これにより、チベットの全域を制圧することとなった(1950年‐1951年)。

※ 中国共産党は人民解放軍という名の軍隊によってウイグルやチベットを占領したのである。

          
沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある朝鮮戦争・中国の拡大
 
1950年6月25日早朝、朝鮮人民軍は38度線を突破して南部への進撃を開始した。李承晩政権の朝鮮武力統一を未然に防止し、「南半部」を解放する、というのがその理由だった。朝鮮人民軍は進撃をつづけ、1950年6月28日には韓国の首都ソウルを陥落させた。
一方、在日米軍は7月1日、釜山に上陸して北上を開始し、沖縄駐留のB‐29が北朝鮮爆撃を開始した。また、6月27日には第七艦隊が台湾海峡に展開した。7月7日、国連は国連軍総司令部の設置を決定、東京の連合国軍最高司令官マッカーサーを国連軍総司令官に任命し、米軍を中心に16カ国からなる国連軍が編成された。
朝鮮人民軍の勢いは、国連軍参戦後もやまず、1950年8月下旬には、国連・韓国軍は、半島南東部の釜山・大邱などがある一角においこまれた。朝鮮半島の95%を北朝鮮が占領した。
9月15日、マッカーサーの指揮のもとに国連軍はソウル近郊の港町仁川への上陸を決行、韓国内の朝鮮人民軍を南北から挟撃した。
これを機に戦局は逆転し、1950年9月26日に国連軍はソウルを奪回、10月1日には韓国軍が38度線を突破し、つづいて7日に国連軍も同線を突破した。そしてこの日、国連総会は武力による朝鮮統一を承認した。国連・韓国軍はなおも北上して19日に平壌を占領。一部の部隊は26日に鴨緑江まで到達した。しかしその前日、中国人民義勇軍が参戦して朝鮮人民軍とともに反撃に転じ、1950年12月4日に平壌を奪回、翌51年1月4日にはソウルを再占領した。これに対し、2月1日、国連総会は中国非難決議を採択、3月14日には国連・韓国軍はソウルを再奪回した。
戦線は38度線を境に膠着(こうちゃく)状態におちいり、打開策として中国本土やソ連領シベリア諸都市への原爆攻撃を主張したマッカーサーは、トルーマンにより、1951年4月11日に国連軍総司令官を解任された。以後も戦線膠着状態を打開するために、細菌弾、毒ガス弾も使用されたが、決定的な戦局の転換はおきなかった。
戦線が膠着状態になったのをみて、1951年6月23日、ソ連の国連代表マリクはラジオで休戦を提案、関係各国はこれをうけいれ、7月10日に開城を会場(10月に板門店に移動)として朝鮮休戦交渉がはじまった。しかし、交渉は遅々として進まず、断続的に2年間におよび、ようやく53年7月27日板門店において、国連軍総司令官マーク・クラーク、朝鮮人民軍最高司令官金日成、中国人民義勇軍司令員彭徳懐の間で休戦協定が調印された(韓国は拒否)。
           
国連・韓国軍側戦死者 50万人
負傷者        100万人
朝鮮人民軍・中国人民義勇軍戦死者 100万人
戦傷者              100万人
民間人の死亡者、行方不明者南北あわせて 200万人以上

※沖縄戦で民間人・日本兵が20万人死んだことを沖縄では問題にしているが、私たちは沖縄戦だけにこだわってはならない。戦後朝鮮戦争で300万人もの住民や兵士が死んだことも問題にするべきである。
 

沖縄の米軍基地強化と密接な関係があったアジアの冷戦

中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党と中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連と連合した。一方、中国国民党は台湾島に逃れた。
日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。朝鮮戦争では兵士・住民の犠牲者300万人も居たといわれている。
フランス領であるインドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、西側は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、南側に傀儡政権を置いた。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。

これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に占領していた旧敵日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。

共産主義の封じ込みを担ったのが米軍である。韓国、日本、沖縄、フィリピンに軍事基地をつくり、北朝鮮、中国、北ベトナムの社会主義国家のアジア拡大を抑止したのが米軍であった。
  
         
 

拡大を続けていた社会主義国圏であったが、1960年代からヨーロッパでは民主化運動が始まり、民主化運動は次第に広がり社会主義を崩壊させる。

ベラとはチェコスロバアの体操選手ベラ・チャスラフスカのことである。1968年のメキシコ五輪で、体操をやるベラに非常に感動した。琉大の男子寮の食堂の映りの悪い白黒テレビであったが、ベラの体操に私の目は釘付けになった。スポーツを見てあれほど感動したことはなかった。19歳の私は感動を詩に書いた。

ベラ

われる拍手と歓声の中で
乱れた金髪を後光にほほえむベラ
踊り終えた肉体は安らぎ
安らいだ心が
生を終えた心が
よろこびをかみしめる

沈黙の世界がいつしかおとずれる
棘をもたない花
金貨で買えない真珠
目が遠い宇宙をみつめる
そこにはなにもない

血のにじむ練習
自信 転落 絶望 回転
喜び 躍動 希望 自信
過去の世界
宇宙塵と散った過ぎし日
過去も見えない未来も見えない 現実も

真空の無時間の世界であなたは生きていた

平均台
マット
鞍馬

生きていた場所から去ったあなたはよろこびを噛みしめる
ああ すばらしいあなたの姿
女神よりも尊いあなたの姿
涙を一粒
喜びのあなたの涙が私の胸に落ち
わたしはうちふるえ 高鳴り 熱くなり
よろこびとも悲しみとも言えない
涙があふれでる

チャスラフスカはメキシコオリンピックで、跳馬 、段違い平行棒、床そして個人総合で金をとり、平均台と団体種目では銀メダルをとって女子体操の6種目すべてでメダルを獲得した。しかし、メダルを取った以上に、彼女にはメダルを越えたなにかがあり、彼女の魅力に私は惹かれた。
なぜ、私はあれほどに感動したのか。その理由はかなり後になって分かった。

チャスラフスカは1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名した。同年8月のワルシャワ条約機構によるロシアが軍事介入をして、プラハに侵攻してきた。弾圧から逃れるために彼女は身を隠さざるを得なかった。彼女のメキシコオリンピック参加は非常に危ぶまれていたが、オリンピック直前にようやく出国を許可された。彼女はこのとき、祖国の屈辱をはね返すために、最高の演技を誓い競技に臨んだ。そして、圧倒的な強さを見せたのである。弾圧に屈しない彼女の内に秘めた闘いの魂は体操の演技に昇華して私を感動させたのだ。

二千語宣言
1968年のチェコスロバキア改革運動、いわゆる「プラハの春」を象徴する文書のひとつ。4月の『行動綱領』が党による改革の指針であるのに対して、『二千語宣言』は市民社会側からの改革への支持・期待の表明であった。起草者は、作家のルドヴィーク・ヴァツリーク。
エミール・ザトペックやベラ・チャスラフスカをはじめとする著名人が名を連ね、1週間たらずで3万人以上の市民が署名した。
『二千語宣言』に署名したチャスラフスカは金メダリストとしての栄誉をはく奪され、職を失い、苦しい生活を強いられる。うつ病にもなったという。しかしそれでも彼女の不屈の精神は弾圧に負けず転向することはなかった。1989年にチェコスロバキアが民主化されるまでの21年間、彼女は耐えに耐えて生き抜いたのである。
1989年11月、ビロード革命によって共産党体制が崩壊すると、彼女はハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任した。大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。

チェコスロバキアの民主化革命をビロード革命と呼んでいる。
 1989年11月17日に共産党支配を倒したがこの革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。

民主化革命は労働者や文化人が中心となって起こしている。これこそが真のプロレタリア革命であると私は思う。プロレタリアとは労働者階級のことである。労働者には家族がいる。家族も労働者階級に属する。学生の頃、私はそのように考えていた。労働者というのは自分の労働を売る人間のことをいう。労働を売ってお金=給料をもらう人間だ。働いて給料をもらう人はすべて労働者である。
民主化革命はいろんな労働者が力をあわせて自分たちの権利を勝ち取った。ロシア革命などの社会主義革命は労働者ではなく政治家が中心になって起こした革命だ。だから本当のプロレタリア革命ではなかった。共産党一党独裁の社会主義国家を倒した民主化革命こそが本当のプロレタリア革命だったのだ。


フランスの五月革命の意義、
事件の発端は1966年に起こったストラスブール大学の学生運動で、教授独占の位階体制に対する民主化要求からはじまった。短編小説「一九七一Mの死」で書いてあるように私が琉球大学の学生運動に参加していた時、革マルが家族闘争の模範としたのがストラスブール大学の学生運動から始まった「フランスの五月革命」であった。「フランスの五月革命」は民主化運動であったが、革マルは革命を目指した運動である。学生の頃は民主化運動と革命運動の狭間で私は悩んだ。

ストラスブール大学の民主化運動はナンテールに波及し、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動に発展、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。アナーキストのダニエル・コーン=ベンディットと統一社会党のジャック・ソヴァジョ、毛沢東主義者のアラン・ジェスマル、トロッキストのアラン・クリヴィンネが指導し、フランス全体の労働者も同趣旨から民主化に賛同し、運動は拡大した。その頃から民主化運動の枠を超えて政治運動に転換していった。
ベトナム戦争反対は民主化運動ではないが、しかし、国民委員会5人の検挙は表現の自由への弾圧であり、彼らの逮捕に反対する運動は民主化運動である。
5月2日から3日にかけて、カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模な学生デモがおこなわれた。5月21日にはベトナム戦争、プラハの春事件等の国境を越えた国家権力の抑圧に反対し、自由と平等と自治を掲げた約1千万人の労働者・学生がパリでゼネストを行った。これに対して、機動隊がこの参加者を殴打したため、抗議した民衆によって工場はストライキに突入し、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。「中央委員会」は間接的に援助、各大学もストライキに突入し、このゼネストは第二次世界大戦以来の政府の危機をもたらした。
運動は民主化を越えた反政府運動へと発展していった。

シャルル・ド・ゴール大統領は、軍隊を出動させて鎮圧に動くと共に、国民議会を解散し、総選挙を行って圧勝した。ド・ゴール大統領が戦記よに圧勝したことは注目すべきである。つまりフランス国民は民主化運動には賛成したが、民主化運動に乗じたアナーキーやトロッキストたちの反政府運動=革命運動には反対したのである。
五月革命によって、労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された。民主化運動の勝利である。

東欧革命または東欧民主化革命または共産主義の崩壊は、1989年にソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義国が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。

ポーランド民主化運動
ハンガリー人民共和国は1980年代初頭には既に経済の自由化や議会の複数候補制などの改革を進めていたが、1988年5月に社会主義労働者党(共産党)のカーダール・ヤーノシュ書記長が引退すると、社会主義労働者党内ではより急進的な改革を主張する勢力が実権を掌握するようになった。1989年2月に急進改革派は事実上の複数政党制を導入し、5月にはネーメト内閣がハンガリーとオーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。
1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。

ベルリンの壁崩壊
クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界史的に広まった。

ブルガリアの民主化
ジフコフ長期政権が崩壊し、後任となったムラデノフらはあくまでも一党独裁制の枠内での自由化を進めようとしたがこれをきっかけに市民側のデモが活発化し、12月には党の指導性を放棄することや自由選挙の実施などを決定せざるを得なくなった。1990年の自由選挙ではブルガリア社会党(共産党が改名)が過半数を制して政権を維持し、ムラデノフが大統領となった。しかし、1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。

ビロード革命
ベルリンの壁崩壊を受けて、東欧の共産党国家の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキア社会主義共和国では、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキアでは、1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指してビロード革命と言う

ルーマニア革命
ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニア社会主義共和国では、1989年12月16日に民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが射殺されて終結した。チャウシェスクの死体はテレビを通じて世界中に晒され、チャウシェスクの死によってルーマニア社会主義共和国は崩壊し、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。
 
コマネチの亡命
チャウセスク独裁政権下のルーマニアでは個人の自由は認められず、警察も含め、誰もチャウセスク一家に逆らう事は出来なかった。
ナディア・エレーナ・コマネチは1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得し、オリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得した選手であった。1984年から1989年まで彼女はルーマニア体操協会のコーチとしてジュニア選手の育成にあたったが、ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男ニクが毎晩のように夜の街へ付き合うように求められ、愛人関係となることを強いられた。身も心もボロボロになったコマネチは、1989年11月28日、命がけでルーマニア脱出を敢行、6時間歩いて地雷が埋められた国境を越えハンガリーに逃れた。しかし、ハンガリー国境警察に逮捕されてしまう。ここでも彼女は決死の脱走を計り、オーストリアに脱出しアメリカ大使館に駆け込む。12月1日彼女はアメリカに渡り、自由を得た。
コマネチの亡命はルーマニア国民を奮い立たせ、12月22日、チャウシェスクの演説中群集はチャウシャスク打倒デモ隊と化した。大統領夫妻はブカレストを脱出したものの近郊のトゥルゴビシュティで逮捕、25日に特別軍事法廷で死刑判決を受け即刻処刑された。

共産党一党独裁国家を倒した民主化運動
共産党一党独裁国家を倒したのが民主化運動であった。冷静な目で歴史を見れば、共産党一党独裁国家の次にやって来るのが民主主義国家であることが分かる。これは否定することができない歴史的事実であり、必然である。
 共産党一党独裁国家はプロレタリア革命によって樹立され労働者を解放した国家と思われているが、実際は労働者を弾圧する国家であった。そもそもロシア革命は労働者が立ち上がった革命ではなかった。武力で国家打倒を主張する政治家を中心とした農民、労働者、軍隊による武力革命だった。中国は毛沢東などの政治家が農民中心の軍隊をつくって蒋介石軍と戦い、勝利して国家をつくった。
労働者が立ち上がり労働者のための国家をつくったのはロシアや中国の革命ではなくかった。東欧の共産党一党独裁国家を倒した民主化運動であった。これこそがプロレタリア革命であったのだ。民主化運動によってできた国家は議会制民主主義国家であり、三権分立・法治主義が確立している国である。議会制民主主義国家は実質的にプロレタリア革命を成就している国家である。つまり、米国、日本などの議会制民主主義国家はプロレタリア革命を乗り越えた国家であるのだ。
 
 小学生の時、先生が「水を通さない」と言った時、私は戸惑った。水が電気を通すことを体験していたからだ。子供の頃、親子ラジオというのがあって、各家庭に有線でラジオ放送をしていた。台風の時、ラジオの線が切れて道路の水たまりに接触することがよくあった。水たまりに指を触れるとビリビリと電気が走った。だから、水は電気を通すことを私は知っていた。水は電気を通すのに先生は電気を通さないと言った。先生が嘘をつくはずはない。なぜだろうと私は悩んだ。中学の時に電解質が電気を通すことを知って納得した。
学生の時に言われていたプロレタリア革命論は電気を通さない実験室の純粋な水のようなものである。あの頃のプロレタリア革命論と言えば、工場などの生産に関わっている単純生産労働者が立ち上がり、国家を暴力で倒し、新しい労働者国家を樹立するというものであった。しかし、労働者は工場生産をしている人間たちだけではない。自分の労働力を売って収入を得る者は全て労働者だから、小売業、マスコミ、通信、交通、娯楽等々で働いている人たち全てが労働者である。労働者は多種多業に渡る。また課長、係長、部長、社長も労働をして収入を得ているから労働者である。収入が多いのは労働の質が高いからであって支配階級に属しているから収入が多いのではない。

労働をしないのに収入を得るのを資本家というが、資本家は会社の所有者である。株式会社では会社の所有者は株主である。株主が資本家であり、共産党は、資本主義国家ではブルジヨア階級がプロレタリア階級を支配し搾取しているという。つまり米国や日本では株主が労働者を支配し搾取しているというのである。しかし、議会制民主主義国家である日本や米国は株主が労働者を支配し搾取しているようには見えない。株主の政治力が強いようには見えない。
資本家階級が労働者階級を支配しているのが資本主義国家だと言われているが、米国、日本、イギリス、フランスなど資本主義が発達している国家は同時に議会制民主主義国家も進んでいる国家である。議会制民主主義国家は資本家(株主)階級が労働者階級を支配する仕組みになっていない。
多くの労働者が立ち上がり新しい国家をつくったのが東欧民主化革命であった。新しい国家は議会制民主主義・三権分立・法治主義である。米国、日本、イギリス、フランスなどの議会制民主主義国家はプロレタリア革命をすでに乗り越えているのである。

 日本の学生運動は民主化運動ではなく革命運動であった。米国を帝国主義国家と決めつけ、米国でのプロレタリア革命を主張し、日米安保の廃棄を目指していた。なぜ、日本の学生運動が民主化運動でないかは、彼らは共産党から分離した組織であったからである。共産党は共産主義革命を目指しているし、革マル派と中核派は共産党から分離した組織であり革命を目指していることは共産党と同じであった。
 共産党、革マル派、中核派はフロレタリア革命を起こし、共産党一党独裁国家を樹立することを最終目標にしている。しかし、東欧の民主化革命で証明されたように、歴史的には共産党一党独裁国家は議会制民主主義国家の前の段階の国家である。60年安保闘争、70年安保闘争に見られるように日本の学生運動は革命運動であり民主化運動ではなかった。プロレタリア革命はすでに議会制民主主義によって乗り越えられている。日本の学生運動は未来を目指した運動のように見えるが、彼らが帝国主義国家と呼んで打倒の対象にしている米国にすでに乗り越えられている運動なのだ。

革命を目指した日本の学生運動の中にあって日本大学の闘争は唯一の民主化運動であった。「1968」というホームページがある。日大闘争を闘った人のホームページである。

はじめに

急に書きたくなった、35年経って何を急にというかも知れないが、胸にある記憶を、思いを文章にしたくなった。
地方に住んでいる私は卒業してから20数年、全共闘の話は妻以外の誰にもしなかった。
やっと語れだしたのは、息子が全共闘だった私の年に近づいたこの10年だ。
この35年、何度胸からほとばしり出る思いを止めたのだろう。
辛いことがあると、あの時の事を思い出した。
「日大全共闘は最後の最後まで闘うぞー、最後の最後まで闘うぞーー、」シュピレフコールが事あるごとに頭の中にひびきわたった。

時系列やデータの考証はしていない、あくまで私の憶えている範囲で書いている。嘘は書いていないが、内容に間違いがあるかもしれない。 話が前後しているかもしれない。経過の正確さを求めるため時間を掛けるつもりはない。日大闘争に「直感」で参加したあの時と同じだ。個人の情報はなるべく記述しないつもりだ。
日大闘争をデータとして知るにはすばらしいホームページが他にあるのでそちらを見て欲しい。

私はリーダーでも何でもなかった。ヘルメットを被り、角材を手にバリケードの最後まで戦った、ただの一兵卒だ。
最初から最後まで自分の意思で判断し、その結果も受け止めた。ここに語っているのは私個人の歴史だ。(2003年9月30日、記)
■不正

日大の授業料は安くなかった。理工学部では当時30万円ほどだった。実験費などはまた別に徴収される。その他を合わせると結構な額になった。 庶民が年収100万円足らずの時代にだ。 日大で経理の不正が発覚した。使途不明金が20億円も出てきたのだ。古田会頭を始めとする一部理事が大学の公金を私物化していたと言われた。 不明な使途の中には、体育会を牛耳る者や理事に繋がる右翼団体にも不正に流れたものもあるといわれた。 私達には、(親が)苦労して払った授業料が何に使われたのか、不正は無かったのか真相を質す権利があった。
先進的学友が真相を質すため立ち上がった。その集会に、体育会系学生と思われる集団が襲い掛かった。道路で集会をおこなう学生に、学内の2階3階から椅子、机、消火器など手当たり次第に投げ、消火栓で放水を浴びせた。また構内では学生を追いまわし、殴る、蹴るの暴行を働いた。私の仲間はこの時日本刀で背中を切りつけられた。制服の警官が出動したが、彼らは暴行学生を取り締まらなかった。
日大の多くの学部で、旧自治会や有志で「理事会はこの問題に納得できる回答を出せ」と五つの要求をした。
その回答が、要求する学生に対する一連の暴力・暴行だったのだ。先進的学生は、大学の息の掛かったそれまでの自治会ではこの局面への対応は無理と判断し、自治会の主要メンバーで「共闘会議」をそれぞれの学部で設立した。
大学の会計を賄う過半数の、いや圧倒的多数の日大生が、自分たちが出した学費の使途を問いただし回答を求め、答えない理事会に責任をとって退陣せよと突きつけただけだ。日本は民主主義の国だ。道理が通らず、ルールを無視したのは、日本大学を経営する古田会頭以下理事会だ。私達は民主的手段で、クラス討論、学科幹事会、学部自治会と手順を踏んで話し合い、結論をつみあげっていった。だからこそあの「民青」諸君も、私たちに異を唱えることが出来ず一時期一緒に行動した。
だが、理事会はことごとく学内の民主的な意見を無視し、彼らが託った暴力で黙らせようとしてきた。今までの日大がそうであったように。
私(達)には「政治的」な意図はなかった。 悪い事は悪い、と言っただけだ。あまりにも大きな学生のパワーに、問題が「政治化」しただけだ。
                                 ホームページ「1968」
父は何も言わなかった。一緒に帰省した。帰ると待っていた母親に泣かれた。私は戦列に復帰する事しか考えていなかったし、親がどんなに心労していたかは其のときは分からなかった。それよりも早く東京へ戻りたい気持ちが勝っていた。自分が親となった今、親の辛さを思うと、如何に親不孝だったか痛感している。今更遅いが、「母さんごめんなさい」
                                 ホームページ「1968」
 日大闘争は民主化運動であったが、家族や世間には理解されないで孤立していた。政治運動である全共闘を彼らは拒否したから学生運動でも孤立した闘いであった。フランスの五月革命を成功させたフランスと日大闘争が孤立した闘いを強いられた日本の違いは学生や市民の民主主義思想の違いではなかっただろうか。




ソ連は崩壊したが、中国はまだ社会主義国家である。そして、領土拡大主義であり、尖閣諸島に侵略しようとしている。
南沙諸島ではフィリピンやベトナムの領海を中国の領海だと主張して侵略している。
中国が社会主義国家である限り、抑止力として沖縄の米軍基地は必要である。
中国が民主主義国家になり、米国や日本、その他アジアの国々と友好関係になれば沖縄の米軍基地は必要なくなる。その時には沖縄の米軍基地は撤去するだろう。

 韓国、台湾、フィリピンを中国の侵略から守るために存在しているのがアジアに駐留している米軍である。
中国を抑止し、アジアの平和を守っているのは、米軍の戦闘機・爆撃機、情報機関、原子力空母、原子力潜水艦、海兵隊の総合力である。

嘉手納飛行場、普天間飛行場、原子力潜水艦が寄港するホワイトビーチ、アジアからの情報を集めているトリイ通信基地など沖縄の米軍基地は中国の侵略を抑止しているアジアの米軍の一員である。

沖縄の米軍基地はアジアの平和を維持するためにはなくてはならない存在である。
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辺野古基金は県議会選挙運動の資金に?・・・


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら




県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター
  
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辺野古基金は県議会選挙運動の資金に?・・・

辺野古基金設立趣意書

今年は戦後70年の節目の年です。私たち沖縄県民は悲惨な地上戦により住民の4人に1人が犠牲となりました。戦後27年間米軍占領統治下におかれ、日本国憲法は適用されませんでした。本土復帰から43年目をむかえる今も、米軍基地があるがゆえの事件や事故に苦しみ続けています。

沖縄県民は長年に渡り、自ら望んで持ってきたわけではなく、「銃剣とブルドーザー」で強制接収されて造られた米軍基地を挟んで「容認派・反対派」と互いにいがみあい、県民同士が分断をされ続けてきました。
こうしたなか、昨年1月に行われた名護市長選挙では、辺野古移設反対を掲げる稲嶺進市長が再選を果たし、9月の市議会議員選挙でも新基地建設反対の議員が議会の多数を占めました。

そして、11月に行われた沖縄県知事選挙は、普天間基地の名護市辺野古への移設問題が最大の争点として行われ、「あらゆる手法を駆使して新基地はつくらせない」とする翁長雄志新知事が、移設容認の前知事に10万票の大差をつけて圧倒的勝利をおさめました。

続く12月の衆議院選挙でも沖縄小選挙区の全てで「辺野古新基地建設反対」の候補者が勝利し、沖縄県民の圧倒的多数の民意がゆるぎないものであることが示されました。

ところが、安倍政権は、仲井眞前知事が公約を翻し行った公有水面埋め立て承認を盾に、辺野古新基地建設を強行しています。

こうした政府の行為は、沖縄県民の意思を侮辱し、日本民主主義と地方自治の根幹を破壊する暴挙と言わざるをえません。私たちは2013年1月に安倍総理に提出した建白書を総意として「オスプレイの配備撤回、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念」を強く求めているのです。

このたび、日本国内の新聞をはじめ米国紙への意見広告など「辺野古新建設ノー」の沖縄の声を国内外に発信すると同時に県内移設を断念させる運動(活動)の前進を図るために物心両面からの支援を行い、沖縄の未来を拓くことを目的として「辺野古基金」の設立を行いました。
多くの皆様のご協力、ご支援を心からお願いいたします。
2015年4月9日
辺野古基金の使い道

○翁長雄志知事が「4月以降のなるべく早い時期」に訪米する意向を示していることから、基金設置が間に合えば意見広告は知事の訪米に合わせて掲載し、訪米の効果を高めることにつなげる。
○米政府と議会対策。米政府関係者や上下両院の議員へのロビー活動を後押しする。
○シンポジウム開催も検討し、米国の有識者の理解を広める。
○国内では、新聞への意見広告掲載のほか、パンフレット作成などで建設反対を訴える。
○全国の地方議会にも、政府に対応を改めることを求める決議などで意思を示すよう働き掛ける。

 
辺野古基金の共同代表
呉屋守将
建設関連事業、スーパーマーケットを核とした流通業をはじめ、ゴルフ・リゾートホテル等の観光サービス業へと事業を展開している金秀グループの会長。沖縄経済界の大物。翁長氏の選対本部長を務めた。
宮城篤実氏
前嘉手納町長
平良朝敬
かりゆしグループのCEO(最高経営責任者)、
長浜徳松
沖縄ハム総合食品会長
佐藤優
 元外務省主任分析官
菅原文子
2014年11月に死去した俳優菅原文太さんの妻
大城 紀夫
連合沖縄の会長
高里 鈴代
基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表。強姦救援センター・沖縄(REICO)代表
友寄 信助
社民・護憲議員
比屋根 照夫琉球大名誉教授
由井 晶子
うないフェスティバル実行委員長、ハンセン病問題ネットワーク
吉元 政矩元沖縄県副知事
宮崎駿氏
アニメ映画監督
鳥越俊太郎
 ジャーナリスト

基金の設立会見で呉屋守将共同代表は、
「昨年の一連の選挙で何度も明確に示した県民の意思に、安倍政権は全く耳を貸そうとしない。(その姿を)『民主主義の盟主』を標榜(ひょうぼう)する米国政府と米国民に直接訴えたい」と述べている。

 米国政府と米国民に直接訴える方法は新聞広告とロビー活動に辺野古基金を使うことを呉屋守将共同代表は名言している。しかし・・・

辺野古基金への意気込み

 やるべきことは無数にある。米国、中でもワシントンDCで講演会やシンポジウムを開き、基地に苦しんだ沖縄の戦後史、日本政府によって民意をないがしろにされている現実を、知事らが切々と訴えるのは効果があろう。米国の有力紙への意見広告もいい。市民運動だけでなく、れっきとした地方政府の代表者たる知事も含めて訴えるのはインパクトが違う。
 もちろん米政府への直接の訴えも必要だ。米国ではシンクタンクに籍を置く人が政府に入ることが多い。次期政権を見据えてシンクタンクを行脚するのもいい。
 翁長雄志知事は5月後半に訪米の予定だが、無論1回で済むはずがない。今回はともかく、将来は国連での訴えも検討すべきだ。
 これらを賄うには相当な費用がいる。その費用を県予算だけで賄うのは難しい。民間ベースでの基金設立だが、知事が「頼もしい。同じ目標に向かい頑張る基礎ができた」と喜んだのもうなずける。
 国内でもまだ「沖縄は基地で食べている」といった誤解は多い。基金を使い、全国行脚でこうした誤解を払拭(ふっしょく)するのも必要だろう。
 基金の効用は、こうした周知活動を資金面で支えるのにとどまらない。重要なのは、基金自体が国内世論を喚起する点だ。
石原慎太郎元東京都知事が提起した尖閣諸島買い取り基金は、賛同者から資金を集めたばかりでなく、国粋主義的ナショナリズムを喚起した。辺野古基金は新基地建設にとどまらず、石原氏の志向とは正反対の、平和を求める国民世論を喚起することになろう。まさに「日本の平和と民主主義を守るための基金」(呉屋氏)となる。

 辺野古基金は、辺野古移設反対の声を国内外に発信するのに使うのが目的である。すでに国内や米国の新聞に意見広告を掲載することを決めており、それ以外の使途は今後検討すると辺野古基金代表者は述べていた。しかし・・・


 翁長沖縄県知事は「沖縄の民意」を説明する目的で27日に渡米し、6月5日に帰ってきた。およそ10日間の長期渡米であった。翁長知事は辺野古移設計画の撤回を求めて米政府や米議員らと対談をした。
 渡米をしたのは翁長知事だけではなかった。知事とは別行動をした訪米団が居た。
渡久地修県議(共産)が団長を務め、知念博那覇市議(新風会)が副団長、山内末子県議(県民ネット)が事務局長を務める総勢15人の訪米団である。
メンバーはかりゆしグループ前最高経営責任者の平良朝敬、糸数慶子参院議員、城間幹子那覇市長、稲嶺進名護市長、石嶺傳實読谷村長日本共産党の古堅茂治市議ら那覇市議5人等々であった。
訪米団長の渡久地修県議は「米国世論に沖縄の実態を訴えていく任務がある。知事を支えて頑張ろう」
かりゆしグループ前最高経営責任者の平良朝敬氏は「沖縄は基地経済で成り立っているという誤解がある」と指摘。経済の視点から基地が経済発展の最大の阻害要因と伝える考えを示した。
訪米団は米連邦議会議員(補佐官対応含む)やシンクタンク等と会合をやった。
訪米団は費用を個人で負担するという。辺野古基金から出ないようだ。
辺野古基金は意見広告や米政府や議会対策として使う趣旨であったのだから、訪米団の費用を辺野古基金から出すのが当然だと思ったのだが、辺野古基金から出さなかったようだ。
それだけではない。辺野古基金の趣旨には「日本国内の新聞をはじめ米国紙への意見広告など『辺野古新建設ノー』の沖縄の声を国内外に発信する」と書いてある。翁長知事の渡米は辺野古基金を使う絶好のチャンスであった。ところが辺野古基金が新聞広告に使われた様子がない。

 翁長知事の「辺野古に新基地はつくらせない」という強い意気込みを持っての渡米である。ありったけの辺野古基金を使って応援するのが当然である。辺野古基金を投入しなかったのは設立した趣旨に反する。
渡米前にはすでに2億円以上の寄付があった。翁長知事の渡米は辺野古基金を使う絶好のチャンスだったのに使わなかった。辺野古基金の代表者は寄付をした人たちの気持ちを裏切ったのである。

翁長知事が米国から帰った日に琉球新報に奇妙な記事が掲載された。

辺野古基金3億突破 運営委、新たな支援先検討

 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設阻止を目的とした「辺野古基金」の事務局は4日、寄付の総額を発表し、3日現在で3億1536万7686円、件数で2万8114件になったことを明らかにした。4月9日の基金設置から2カ月足らずで3億円を突破した。8日には那覇市旭町の金秀本社で第3回基金運営委員会を開き、基金の新たな活用方法について議論する。
 基金の活用方法についてはすでに、新基地建設阻止の運動を展開する「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」の支援が決まっており、3回目の基金運営委ではその他の支援先などを検討する。
 これまでの議論では新基地建設阻止の活動に取り組む市町村単位の組織を支援することや、県外・海外の新聞などに新基地建設反対の意見広告を掲載する案などが挙がっている。
   琉球新報 6月5日(金)
 寄付金が2カ月足らずで3億円を突破した。これはすごいことである。
 しかし、この記事を読んで奇妙に感じたことがある。第3回基金運営委員会を金秀本社で開いたことである。金秀は商売をやっている会社である。辺野古基金は商売ではない。なぜ、辺野古基金運営委員会を金秀本社で開いたのか。不自然である。
 WEBで調べてもっと驚いた。辺野古基金事務局は金秀本社に設置していたのだ。商売をしている金秀本社に事務局を設置し、基金運営委員会も金秀本社で開くのは不自然である。WEBを見ながら頭に浮かんだのがキャンプシュワブの新入社員研修のことだった。
 金秀は研修として新入社員をキャンプシュワブに集め、辺野古移設反対の訓示を聞かせた。それは辺野古移設反対の政治思想を新入社員に強要することである。辺野古移設に反対するのも賛成するのも社員一人一人の自由である。金秀がやったことは社員への政治思想の強制である。それは思想・心情の自由を保障している憲法に反する。金秀は堂々と憲法違反をやったのである。

 辺野古基金の代表者は現役引退をした老人や本土の有名人が多くを占めていて、直接辺野古基金を運営に関わることができる人物は少ない。いわゆるほとんどの代表者は客寄せパンダであり、辺野古基金の運営に関わっていないだろう。
金秀本社に辺野古基金事務局があり、運営委員会は常に金秀本社で開いている。運営基金運営委員会の中心人物は金秀の呉屋守将氏であることが推測できる。
 キャンプシュワブで新入社員の研修をしたり、金秀本社に辺野古基金事務局を設置している呉屋氏は公私混同を平気でやっている。いわゆるワンマンであり独裁者タイプの人間である。
 経営は失敗した時の責任は代表者が取るから独裁でいい。しかし、政治は違う。代表者が独善的にやってはいけない。辺野古基金は多くの人々の寄付によって集まったものであり、辺野古基金の趣旨に従って使わなければならない。一部の代表者の思いのままに使ってはならない。
 
 基金の活用方法についてはすでに、新基地建設阻止の運動を展開する「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」の支援が決まっており、3回目の基金運営委ではその他の支援先などを検討する。
       「琉球新報」
の記事は妙である。辺野古基金設立趣意書では、

日本国内の新聞をはじめ米国紙への意見広告など「辺野古新建設ノー」の沖縄の声を国内外に発信する。

 新聞広告をして国内外に「辺野古新建設ノー」を発信することを最初に述べている。辺野古基金は国内外への宣伝を主な目的にしている。
 ところが6月5日の琉球新報の報道では辺野古基金を国内外に「辺野古新建設ノー」を発信するのに使うことではなく、「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」の支援をすることであった。

 本土や国外に辺野古移設反対が広がったのは「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」が活躍したからではない。沖縄タイムスや琉球新報が本土に発信し、翁長知事が国内外の記者を相手に会見を開き、それが国内外に報道されたからである。国内外に辺野古移設反対の主張を広げるためには新聞や放送などの広告を利用する必要があり、それには莫大な費用が必要であるから辺野古基金を設置したのである。
 「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」に資金を提供しても国内外に辺野古問題を広げる効果は薄い。

 翁長知事が訪米した時に米国の新聞に公告を載せなかったのは妙である。また、第二回の基金運営委員会でも国外や国内の新聞に公告を載せる計画は出されなくて、県内の「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」を支援することを決め、辺野古基金を設立した目的からずれているのも妙である。本当に国内外へ辺野古問題を広める目的で辺野古基金を設立したのか疑問である。
 

ヘリ基地反対協議会とは

正式名称は「海上ヘリ基地建設反対・平和と名護市政民主化を求める協議会」、略称が『ヘリ基地反対協議会』です。

ヘリ基地反対協議会HPより

緑豊かな山々とサンゴの海に抱かれた、辺野古・大浦湾。
人々は、地域特性を織り合わせ独自の歴史を紡いできました。
1997年、新たな米軍基地建設計画に対し、名護市では「大事な事はみんなで決めよう」と市民が立ち上がり、市民投票で「基地ノー」の意志を示しました。
しかしその後名護市民の意志は無視され、新基地計画は中身を二転三転させながら、10年後の現在まで続いています。
その間、日本政府によるさまざまな「アメとムチ」政策は地域共同体に亀裂を生みだし、多くの人々が悩み苦しんできました。
ところで、米軍連邦地裁に提訴されたジュゴン訴訟によって、V字形沿岸案の実像は日本政府が国民・県民向けに行っていた説明とは全く違い、巨大な軍事要塞であることがあきらかになりました。
現在、日本政府は基地建設を前提に環境現況調査を辺野古・大浦湾海域で強行していますが、環境アセス法に違反する調査に、市民や専門家からも厳しい批判と抗議の声が上がっています。


ヘリ基地反対協議会に資金が回ればキャンプシュワブの反対運動を強化することができる。テントを新しいのに代え、食事や運送の費用が潤沢なる。動員を増やすこともできるだろう。しかし、それは闘争資金であって広告資金ではない。
「県内移設を断念させる運動(活動)の前進を図るために物心両面からの支援」にはなるし辺野古基金の趣旨に反してはいないが、肝心な国内外へ辺野古移設反対の発信の計画は立てなくて「ヘリ基地反対協議会」や「島ぐるみ会議」への支援を決めるのはやはり妙である。
 辺野古基金は表向きは国内外への発信であるが裏では別の目的がある。それは辺野古基金を選挙運動の資金にするということである。

いつの間にか「オール沖縄」は消え、その代わり「島ぐるみ会議」が増えてきた。

 オール沖縄が誕生したのは県知事選があった前年の2013年である。オール沖縄の先頭に立った翁長知事は県知事選に圧勝し、オール沖縄派の翁長陣営と革新陣営は衆議院選でも圧勝した。しかし、衆議院選の後はオール沖縄の声は少なくなり、今ではほとんど聞かなくなった。
 県知事選や衆議院選は沖縄全体の選挙である。オール沖縄は県知事選や衆議院選に勝つための選挙戦略であった。選挙が終わるとオール沖縄は用なしになる。
 来年は県会議員選挙がある。選挙はそれぞれの市町村が戦場となる。オール沖縄ではなく、市町村別の組織が必要になってくる。その組織が市町村で続々と誕生している島ぐるみ会議である。

2015年4月20日(月)の「赤旗」にうるま市の島ぐるみ結成会の様子が掲載されている。
 
新基地反対で団結 「島ぐるみ会議」結成

 沖縄県名護市辺野古への米軍新基地建設に反対し、垂直離着陸機オスプレイ配備撤回・米軍普天間基地の閉鎖・撤去・「県内移設断念」を求める「建白書」の実現に向け、うるま市・「島ぐるみ会議」が19日、結成され、同市で結成大会が開かれました。新基地反対で団結しようと、会場を埋め尽くす約400人の市民や議員らが結集しました。

 「会議」は、市における「オール沖縄」的な島ぐるみの連帯の強化と運動の発展を目指します。冒頭、埋め立てが狙われている辺野古の大浦湾を紹介する映像がスクリーンに映され、参加者は美しい海にため息をもらし、食い入るように見つめました。

 共同代表に、照屋大河、山内末子両県議、県立中部病院の元院長平安山英盛氏、元裁判官の仲宗根勇氏らが就任しました。ヘリ基地反対協議会の安次富浩共同代表、島ぐるみ会議共同代表の平良朝敬氏(かりゆしグループ最高経営責任者)らがあいさつしました。

 活動方針として、今後の県民集会への参加、辺野古の現地抗議行動の参加者の組織と毎週木曜日のバス運行、ステッカーやTシャツの作成・販売、写真展や学習会、講演会を開催していくことなどが提起されました。
         「赤旗」
共同代表に照屋大河、山内末子両県議がなっている。島ぐるみ会議は大衆運動のように見えるが、実は大衆運動にみせかけた選挙運動である。その証拠が県議が共同代表に名を連ねていることである。県議が代表になることで来年の選挙運動を兼ねているのである。

市町村の島ぐるみ会議は読谷村、北谷町、沖縄市、糸満市、今帰仁村、名護市、うるま市、宮古島市等々続々と結成している。

糸満市島ぐるみ会議
共同代表 元市長の上原博氏、本土復帰前に立法院議員を務めた仲松庸全氏(元県議)、琉球大学名誉教授の金城正篤氏

今帰仁村島ぐるみ会議
 共同代表 大城清紀副村長、内間利三元村議会副議長、山内聰元村議

名護市島ぐるみ会議
共同代表 稲嶺進名護市長、屋比久稔市議会議長、玉城義和、具志堅徹両県議、玉城義和県議、

うるま市島ぐるみ会議
共同代表 照屋大河、山内末子両県議、県立中部病院の元院長平安山英盛氏

 島ぐるみ会議に辺野古基金を使うことは辺野古基金が選挙基金になっている。
 翁長・革新陣営は、オール沖縄は用無しになったから消して、来年の県議会選挙に勝つために市町村別の島ぐるみ会議をつくっているのである。その島ぐるみ会議に辺野古基金を使う計画を立てている。

 翁長知事陣営と革新陣営は来年の県知事選に向けてすでに動いている。

 翁長・革新陣営のやり方を批判はするが非難する気はない。選挙は仁義なき戦いである。あらゆる知恵と金を行使する戦いだ。
 辺野古基金を設立し3億円もの金を集め、選挙運動の島ぐるみ会議に金を回す。
 さすがだと思う。翁長・革新陣営は戦いに勝つために必死であり、ありったけの力を注いでいる。
 それに比べて自民党県連はどうなのであろうか。翁長・革新陣営のような必死さが伝わってこないのは気のせいなのだろうか。
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沖縄二紙の神話の勝利・・・しかし・・・


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沖縄二紙の神話の勝利・・・しかし・・・

「辺野古取り消し」77% 県内移設反対83% 71%作業停止求める 新報・OTV世論調査

 琉球新報社は沖縄テレビ放送(OTV)と合同で5月30、31の両日、米軍普天間飛行場移設問題に関する県内電話世論調査を実施した。名護市辺野古への移設阻止を前面に掲げ、埋め立て承認についても有識者委員会の提言によって取り消す方針を示している翁長雄志知事の姿勢を77・2%が支持した。県内移設への反対は83・0%となった。同様の質問を設けた調査では、2012年5月に辺野古移設反対の意見が88・7%となったことに次ぎ、同年12月の安倍政権発足以降の本紙調査では最高の値となった。一方で、埋め立てに向けた作業を継続している政府への批判が依然として根強く、県内全域に広がっていることが明らかとなった。調査は戦後70年を迎えたことに合わせて実施した。 仲井真弘多前知事が承認した名護市辺野古沖の埋め立てについて、翁長雄志知事は県の第三者委員会が承認取り消しを提言すれば、取り消す方針を示している。この知事方針について「大いに支持」が52・4%、「どちらかといえば支持」が24・8%で、合わせて77・2%が支持すると回答した。
 辺野古移設に反対する翁長県政の発足後も政府は移設に向けて辺野古沖での海上作業を継続し、近くボーリング調査を再開させるとみられる。こうした政府の対応について「作業を止めるべきだ」が71・6%を占めた。「作業を続けるべきだ」は21・0%だった。
 普天間飛行場問題の解決策については「国外に移設すべきだ」が最も多い31・4%。「無条件に閉鎖・撤去すべきだ」が29・8%、「沖縄県以外の国内に移設すべきだ」が21・8%と続き、これら県内移設に反対する回答を合わせると83・0%となった。
 「名護市辺野古に移設すべきだ」は10・8%、「辺野古以外の沖縄県内に移設すべきだ」は3・4%だった。
        「琉球新報」
 琉球新報社、沖縄テレビ放送(OTV)の合同世論調査では県内移設への反対は83・0%と圧倒的多数である。民意は県内移設反対である。翁長知事が主張しているように民意に応じて辺野古移設を止めたとしよう。しかし、それではなにも解決しない。普天間飛行場移設問題が振り出しに戻るだけである。

普天間飛行場問題の解決方法の世論調査では

国外に移設すべきだ・・・31・4%。無条件に閉鎖・撤去・・29・8%、
県外移設・・・21・8%
県内移設・・・14・2%

 となっている。県内移設反対は83・0%と圧倒的多数であるが、普天間飛行場の解決方法になるとそうではない。解決方法は県内移設も含めて4つに分かれるが、一番多い「国外に移設すべきだ」でも31・4%。であり、過半数にほど遠い。4つのすべの案が過半数にほど遠い。過半数に達したものがないということは普天間飛行場の解決方法には民意がないということになる。民意通りにすれば、辺野古移設はストップするがめ普天間飛行場は固定化してしまうことになる。

 去年の国外移設、県外移設、県内移設、普天間固定化の4つに絞った世論調査では国外移設、県外移設が40%弱で並び、どちらも過半数に届かなかった。辺野古移設反対では80%を超えていたとしてもそれが普天間飛行場の解決策にはつながらないのである。
 もし世論調査の民意に従って実行するとすれば普天間飛行場は固定化してしまう。ところが普天間飛行場の固定化を望む県民は数パーセントであり、圧倒的に少ない。そこに民意の矛盾が出てくる。民意では普天間飛行場問題は解決できないのが現実である。
琉球新報の世論調査は普天間飛行場問題は解決しないと結論づけている。
 
 県外移設派の翁長知事は閉鎖・撤去派の革新と手を組み、辺野古移設反対を選挙公約にした。辺野古移設反対に賛成している県民は国外移設、閉鎖・撤去、県外移設を主張している県民であり合計83%である。県民の多くが翁長知事に投票し、仲井真前知事に10万票をつけて当選した。辺野古移設反対を選挙公約にした翁長知事の選挙戦略は大成功した。
 しかし、翁長知事と革新は本来一緒になることができない関係である。

県外移設・・・日米安保容認
閉鎖・撤去・・・日米安保廃棄

日米安保容認と廃棄は政治的に対立しているから一緒になることはできない。しかし、翁長知事はイデオロギーは腹6分に押さえて沖縄アイデンティティーで手を組むというアイデアを考えた。それによってイデオロギーでは対立する両者が辺野古移設反対を選挙公約にし手を組んだのである。そして、知事選に大勝した。
 県知事になった翁長氏はあらゆる手段を使って辺野古移設を阻止すると宣言し、宣言した通りにあらゆる手段を使って辺野古移設阻止に走っている。

 翁長知事によって辺野古移設阻止が成功した場合、普天間飛行場はどうなるのか。県外移設の翁長知事陣営と閉鎖・撤去の革新陣営は主張が違うから対立し辺野古移設反対派は2つに分解してしまう。世論調査の民意と同じで普天間飛行場問題は振り出しに戻るだけであり解決はしない。
 翁長知事は革新と手を組んで辺野古移設反対を選挙公約にしたが、その瞬間に選挙には勝利する確率がぐんと高まったが、一方では普天間飛行場問題の解決を放棄したことになる。
 翁長知事は保守と革新の支持を得て、仲井真前知事に10万票もの差をつけて当選したが、それは普天間飛行場の解決を放棄した結果であった。

 辺野古移設は普天間飛行場問題を解決するのが目的だった。翁長知事は県知事に当選するために肝心な普天間飛行場問題を放棄したのである。
 
翁長雄志知事は県の第三者委員会が承認取り消しを提言すれば、取り消す方針を示している。この知事方針について「大いに支持」が52・4%、「どちらかといえば支持」が24・8%で、合わせて77・2%が支持すると回答した。
          「琉球新報」
県民の絶大な支持を受けた翁長知事の方針である。取り消しをすれば辺野古移設工事ストップし政府はピンチに追い込まれそうであるが、そういうことにはならない。なぜなら、第三者委員会は翁長知事の私的諮問機関であって公的な組織ではない。法的にはなんの権限もない。第三者委員会の提言で承認取り消しをしたとしても法的には根拠のない取り消しであり拘束力はない。翁長知事は第三者委員会の提言を根拠に訴訟を起こすことさえできないだろう。たとえ、県民の77・2%の支持があったとしてもだ。

 翁長知事の選挙公約自体が矛盾したものであった。日米安保容認の翁長知事と日米安保廃棄の共産党が米軍基地問題で手を組むことは不可能である。たとえ、辺野古移設に反対であっても普天間飛行場の解決方法は県外移設と閉鎖・撤去に分かれているのだから両者が手を組むことはしてはいけなかった。それが政治家の倫理である。手を組むとしたら県外移設か閉鎖・撤去かのどちらかにまとめなければならなかった。
 ところが両者は一つにまとめることはしなかった。両者ともひとつにまとめることができないことを知っていたからだ。両者は最初からひとつにまとめることを放棄したのである。まとめないことを口実にしたのが沖縄アイデンティティーであった。沖縄アイデンティティーで安保容認と安保廃棄が同居したのである。
 
 鳩山首相時代に県外移設も閉鎖・撤去も不可能であることが判明し辺野古移設に戻ったという歴史的事実がある。翁長知事はその事実を無視して県外移設を主張した。その上、選挙に勝つためにこれまた実現不可能な閉鎖・撤去を主張する革新と手を組んだのである。
 翁長知事の選挙公約は実現するのが目的ではなく選挙に勝つためであったのだ。
 県外移設、閉鎖・撤去、辺野古移設阻止は実現不可能であることが初めから知っていることである。
 仲井真前知事が実現不可能な普天間飛行場の五年以内停止を公約にしたが、実現しそうもない夢の政治を公言する沖縄の政治を52年前に批判した人物がいる。悪名高いキャラウェイ高等弁務官である。

キャラウェイ高等弁務官は1963年3月5日、ハーバービュークラブで金門クラブ員を対象に演説を行った。いわゆる「沖縄の自治は神話」と騒がれることになる演説である。。

金門クラブとは
米陸軍省後援による米国留学を経験した人たちの親睦団体。初期の留学生たちは、軍輸送船で金門橋(ゴールデン・ゲートをくぐったので、これにちなんで命名された。1947年7月にスタートし、施政権が返還された1972年までに支給された米留学奨学資金件数は1,110件、そのうち、博士号取得者は28人、修士号262人、学士号155人。


 金門クラブは米留学をしてアメリカ民主主義を学んだエリート集団である。キャラウェイ高等弁務官の演説は彼らに向けた演説であり、沖縄の一般人に向けた演説ではなかった。演説は民主主義と自治に関するものであり内容はかなり高度であった。当時の一般の人が理解するのは困難だったと思う。
 演説で、キャラウェイ氏は政治についてこのように語っている。

「政治とは実際的な問題を処理していくことであって空想的な計画を作ったり、圧力団体がスローガンを叫ぶことではないのである」

 キャラウェイ高等弁務官は政治は実際に起こっている問題を処理するものであると述べている。現実に実現できるかどうかを模索し、模索しながら実現に努力していくものが政治であり、実現不可能=空想的なものを政治は対象にしてはならないと言っている。また、圧力団体がスローガンを叫ぶのも政治ではないと述べている。

キャラウェイ高等弁務官は当時の沖縄の政治の欠点を指摘したのである。52年前の指摘である。
 52年前の指摘が今でも通用してしまうのが沖縄の政治である。沖縄の政治は50年も前から進歩をしていないのだ。残念なことである。沖縄に生まれ育った者として虚しさを感じる。

 県外移設は空想である。現実ではない。それを証明したのが自民党時代の小泉首相であり、民主党時代の鳩山首相であった。
 政治家なら両首相が県外移設に失敗した事実を認識するべきである。それでも県外移設を主張するなら県外移設がではなかった原因を追究し、県外移設が可能であることを模索し、移設できる可能性を明らかにした上で県外移設を公約にし、移設場所を示すべきである。
まともな政治家なら県外移設場所を示すことができなければ県外移設を主張してはいけない。政治は実現できるか否かが問題であり、実現できる可能性がないのを実現できるように県民に吹聴してはいけない。
 翁長知事は県外移設の神話、閉鎖・撤去の神話を無理やり合併させて辺野古移設反対のムードをつくり、翁長知事が当選すれば辺野古移設が阻止できるという神話をつくって大勝した。

翁長知事の勝利に大きく貢献したのが辺野古神話をつくった革新、沖縄タイムス、琉球新報である。辺野古神話は県内に広がり、県外にも広がっていった。翁長知事と菅官房長官、安倍首相との会談の後は全国のマスコミが注目するようになり辺野古神話はますます広がった。

今や全世界にも広がった。ホワイトハウス前でも県系人抗議行動を展開している。

「日本の小さな島にたくさんの米軍基地が押し込められている」
「海兵隊の新基地は必要ない」
「人権、自然、民主主義という言葉は世界の共通語。沖縄で起きている問題は世界の人たちの共感を呼ぶ」

 人口密集地にある危険な普天間飛行場を安全な辺野古に移すというだけのことである。つまり人権問題の解決としての辺野古移設である。ついでに言えば、軍用地内に移設するから新たな土地接収はない。辺野古に移設した跡の普天間飛行場は返還される。他の軍用地も返還されるし海兵隊も8000人は沖縄から出ていく。軍用地は減るし海兵隊も減るというのが辺野古移設の事実である。辺野古移設の本当の問題は人権問題と米軍基地縮小の問題であって、米軍基地問題、日米安保条約問題とは関係がない。
翁長知事、革新、沖縄タイムス。琉球新報によって事実とはかけ離れた神話がつくられたのである。

現実
閉鎖・撤去・・・不可能
国外移設・・・不可能
県外移設・・・不可能
辺野古移設・・・可能
普天間固定化・・・可能

 現実的に考えれば、閉鎖・撤去、国外移設、県外移設は不可能である。実現可能は辺野古移設か普天間固定化である。県民に普天間飛行場の解決策を問うなら、閉鎖・撤去、国外移設、県外移設が可能であるか不可能であるかを明確にしなければならないが、真剣に突き詰めていけば辺野古移設か普天間固定化しかないことが分かる。県民に問うべきは辺野古移設か普天間固定化かのどちらを選択するかである。
ところが沖縄2紙は今まで閉鎖・撤去、国外移設、県外移設が可能か不可能かについて徹底して追求したこみとはない。それに世論調査では「希望」を調査しているのであって実現できるかできないかを問題にしていない。

希望=非現実
閉鎖・撤去・・・不問
国外移設・・・不問
県外移設・・・不問
辺野古移設・・・不問
普天間固定化・・・不問

世論調査は市民の希望を聞くだけである。希望だから実現するしないは関係ない。閉鎖・撤去を調査アンケートに入れることは、空を飛びたい調査で、グライダーで飛ぶ、パラグライダーで飛ぶ、ヘリコプターで飛ぶ、ジェット機で飛ぶ等の中に、手をパタパタさせて空を飛ぶも入れるようなものだ。

実現が可能か不可能かを問題にしない琉球新報の世論調査では、辺野古移設反対が83・0%と圧倒的多数ではあっても普天間飛行場の解決では過半数がひとつもなく民意がなくなるという矛盾が生じるのである。

 「自民党小泉政権時代と民主党鳩山政権時代に県外移設をしようとしたができませんでした。あなたは県外移設ができると思いますか」
「鳩山元首相は『できるなら国外、最低でも県外』を公約しましたが、国外はすぐにあきらめました。国外移設はできると思いますか」
「普天間飛行場の閉鎖・撤去はできると思いますか」
というような世論調査を沖縄2紙はやったことがない。
「政治とは実際的な問題を処理していく」というキャラウェイ高等弁務官の指摘を無視したのである。
 琉球新報の世論調査は政治に関する世論調査のように見えるが本当は政治から離れた空想的な希望の世論調査である。調査結果は政治的な世論ではなく、空想的な世論である。

 辺野古移設問題は空想的な世論、神話がつくられ、翁長知事はどんどん沖縄神話を述べるようになっていった。

「沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度もない。土地を奪っておいて、辺野古が唯一の解決策だという話をすること自体、日本の国の政治の堕落だ」
「工事の現状は、銃剣とブルドーザーによる基地建設の様相を呈してきた」
、「(新基地建設を止めるための)知事の権限を有効に使って、名護市長とともに新基地を造らせない。それができるという確信も持っている」
、「こんなことが世界のメディアで知らしめられたとき、本当に日本は民主主義国家として世界から、尊敬し、愛されるだろうか」
などなど、翁長知事の記者クラブで言い放った神話がマスコミを賑わしている。


 官邸と沖縄の戦いは、まるで映画『仁義なき戦い』の組長・山守と子分・広能の理不尽なそれだが、官邸も外務・防衛官僚も、大国の狭間でしたたかに生き延びてきた“琉球王国の外交力”を少し甘く見ているのではないか。法的対抗策と独自“外交”の経過と記録は、そのまま「独立カード」を手にするための痕跡=証拠ともなる。いまは表だって口にしなくても、地固めは“粛々と”進んでいることになる。

 「辺野古を勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ」と現地で訴えた直後に亡くなった俳優・菅原文太さんが生きていたら、「安倍さん、カードはまだ1枚、残っとるがよぉ」と言う場面だ。
   「プレジデント ジャーナリスト 藤野光太郎」
このような記事を掲載するように、翁長知事の神話に賛同するマスコミが増えた。

 空想的な世論、でっち上げた神話で県民を騙すことはできる。県民だけでなく、日本のマスコミ、世界のマスコミを騙すことはできる。
 しかし、法律を騙すことはできない。安倍政権を騙すことはできない。

【東京】中谷元・防衛相は2日午前の閣議後会見で、訪米中の翁長雄志知事が沖縄の民意を無視した名護市辺野古への新基地建設工事は安倍政権が掲げる積極的平和主義に反すると批判したことについて、「これまでも沖縄県側と協議をしながら進めてきた」と述べ、批判はあたらないとの認識を示した。
 中谷氏は辺野古移設について「基地自体も縮小され、海上移転によって安全性も軽減し、騒音面も普天間は全くなくなる」と移設の必要性を強調。「結局辺野古に移設するのが、現在考え得る唯一の手段だ」と述べ、新基地建設に全力を挙げる姿勢を示した。
沖縄タイムス 6月2日
 神話に振り回されているマスコミと違い、中谷元・防衛相は冷静に翁長知事に反論している。菅官房長官は翁長知事が申請を取り消したら訴訟も辞さないと述べている。安倍政権は神話に冷静に対応し、辺野古移設を着実に進めている。

 翁長知事はキャラウェイ高等弁務官の故郷である米国に渡った。辺野古移設を断念させるためだ。しかし、米国で待っているのはキャラウェイ高等弁務官のような生粋のアメリカ民主主義者たちである。翁長流神話が通用する国ではない。神話は軽くはじかれて砕かれるだろう。翁長知事は砕かれた神話を繕うだけで精いっぱいになるはずだ。
「私が(辺野古移設に)反対しているというような認識を感じておられる。私からすると、(日米両政府は)つくるということしか考えていない認識ですからね。お互いさまで、それを非難される筋合いはさらさらないので」
というように。
翁長知事は菅官房長官との会談で、「普天間も含めて基地は全て強制接収された。普天間は危険だから、危険除去のために沖縄が(辺野古で)負担しろと。こういう話がされること自体が、日本の政治の堕落ではないか」と述べた。そのあとも「日本の政治の堕落」を繰り返している。それは安倍政権が堕落していると言っているのと同じであり、安倍政権を侮辱した発言である。安倍政権は怒り諌めるべきであるのだが、しかし、安倍政権は翁長知事を諌めることはしない。沖縄を甘やかしているからだと思う。
米国の人間は侮辱されることには黙っていない。
翁長知事は、
「日米安保体制は民主主義という共通の価値観を持つ国々との連帯で中国に対抗しようとしている。自国民にそれらを保障したうえで連帯の輪を作ることが品格のある日米安保体制だ」と言い、現在の日米安保は品格がないとでもいうような発言をした。それは米国を侮辱したのに等しい。だから米国人は黙っていない。クローニン上級顧問は
「米政府にとっては、翁長知事にわざわざ時間を割く動機がほとんどないだろう。翁長知事は怒りをあおる言葉を使い過ぎている」
とすぐに厳しく反応している。それが米国だ。「辺野古に基地はつくらせない」と勇んで米国に渡ったが、手厳しく跳ね返されるは目に見えている。

 でっちあげた神話で県民の高い支持を得、日本、世界のマスコミを席巻している翁長知事であるが、政治の世界では壁また壁にぶつかり前進できない。
 
普天間飛行場問題を放棄して知事になった翁長知事であるから、普天間飛行場の固定化を避けるための代替案については「日本政府が第一義的に考えるべきだ」と安倍政権に丸投げをしている。
辺野古移設が唯一の解決方法である主張している安倍政権に丸投げすれば辺野古移設に決まるのが当然である。「日本政府が第一義的に考えるべきだ」は翁長知事が政治的に敗北することになり絶対に口に出してはいけないことである。しかし、県外移設も閉鎖・撤去も言えない状態に追い詰められてきたからといって「どうしていいか分からない」と敗北を認めることは口が裂けても言えない。敗北をしているのにかろうじて敗北ではないように見せかけているのが「日本政府が第一義的に考えるべきだ」である。アホらしい発言である。

辺野古飛行場建設は着実に進み、翁長知事の辺野古阻止は確実に破たんする。辺野古移設に関してはなにも危惧することはない。しかし、翁長知事、革新、沖縄タイムス、琉球新報が創りあげた神話は生き続けるだろう。沖縄の本当の政治的不幸は神話が生き続けることである。
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