普天間飛行場の騒音被害は日本の法律と宜野湾市政の責任

本をつくるのに忙しくブログを更新する余裕がなかった。日本図書コード管理センターに申し込んでISBN出版者記号がもらえた。本の裏側に印刷されている二段のバーコードだ。これがあれば全国の書店やコンビニなどで販売できる。後は本の原稿を仕上げて印刷所にもっていけばいいが、本つくりに悪戦苦闘している。カバー、目次、前書き、本文、後書きなど、1ページから200ページ余まで完璧に仕上げなければならないから大変だ。でも楽しい。


 
 新聞がとっても滑稽な記事を掲載した。
普天間飛行場とハワイのカネオヘベイ基地の図を掲載して、二つの基地の環境を比べて、「ハワイの学校で米軍機からの騒音はほとんど聞こえず、防音ガラスなどもない。日常的に騒音に苦しみ、定期的に米軍機墜落を想定した避難訓練をしなければならない沖縄の状況とはあまりにも違いすぎる」とハワイの米軍基地周辺と比べて普天間飛行場周辺の小中学校の環境の悪さを訴えている。
 ハワイのほうは環境のことを考慮して騒音被害を徹底して抑えているのに、普天間飛行場では騒音をまき散らしていると新聞は暗にアメリカ対して怒っているが、それはおかしい。ハワイの基地の周辺はアメリカの法律が適用されるが、普天間飛行場の周囲は日本の法律が適用される。米軍基地の周囲の環境状況はアメリカの法律と日本の法律の違いである。

 ハワイの米軍基地の環境に比べて普天間飛行場の環境が悪いのは日本の法律や普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくった宜野湾市政の責任であって、アメリカの責任でもなければアメリカ軍の責任でもない。アメリカ軍は普天間飛行場の外側に対してはなんの政治的権限も持っていないのだ。新聞はアメリカの法律を普天間飛行場の周辺に適用しろと主張しているのだろうか。
 それならば日本政府にアメリカの法律を普天間飛行場周辺に適用しろと要求すればいい。普天間飛行場の周辺の環境がハワイの米軍基地より環境が悪いのはアメリカや米軍の性ではなく、日本の法律と宜野湾市政の性である。悪いのはなにもかもアメリカ軍の性にするのはおかしい。
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沖縄産業界の恩人サムエル・C・オグレスビー



サムエル・C・オグレスビー氏は、1911(明治44)年10月25日、アメリカ合衆国バージニア州で生まれた。1933(昭和8)年、メリーランド大学博士課程を卒業。1942年(昭和17)年米国陸軍に従軍し、1945(昭和20)年3月、米陸軍政府将校として来沖した。その後エール大学のファーイースタン・シビル・アフェア・スクールで極東問題と日本語の研鑽を積んだ。

 同氏は、1950(昭和25)年3月、第二次世界大戦終焉の激戦地として灰燼化した沖縄に米国民政府職員として赴任され、沖縄の良き理解者として沖縄の経済、特に工業の振興に献身的に尽くされた。沖縄に勤務した16年間、同氏は、琉球工業連合会(現沖縄県工業連合会)のよきアドバイザーとして深くかかわり多くの産業を育てた。製糖、味噌醤油、食油、ビール、セメント、鉄筋、合板、菓子類に至る各製造業の90%は同氏の後援・指導を受けた。

 以下、オグレスビー氏産業開発基金編「沖縄産業の恩人(故)サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」(昭和61年)に寄せられた寄稿より。

「彼は自分がいったんこうだと思ったことは、上司が難色を示そうと、粘り強く説得して自分の主張を通す、そういう信念と勇気の持ち主であった。」-具志堅宗精

「氏は、自分がアメリカで仕事をしても虫眼鏡で見る程のこともできない、日本の諺にもある通り、「牛の尾たるより、鶏頭たれ」とある。沖縄のために全力を尽くしたいといつも言っておられた。」 -宮城仁四郎

☆琉球工業連合会創立10周年記念事業
1963(昭和38)年5月21日に琉球工業連合会は創立10周年を迎え、これを記念して、会員の芳志を募り、会の発展に大きく寄与したオグレスビー氏の胸像を制作することを決定した。やがて、オグレスビー氏の等身大の、高さ約1.8mの胸像が完成し、翌64(昭和39)年12月2日、那覇市内の琉球東急ホテルで贈呈式と祝賀会が行われた。 

☆オグレスビー氏産業開発基金の設立
 胸像贈呈の2年後、1966(昭和41)年12月20日、オグレスビー氏逝去の報が琉球工業連合会に届いた。享年55歳。「沖縄に埋葬してほしい」との遺言があり、遺体は泊国際墓地に埋葬された。

 翌67(昭和42)年に同氏の長年の功績を記念して、工業関係有志の浄財によりオグレスビー氏産業開発基金を設立し、現在まで奨学金授与並びに工業功労者表彰を毎年行っている。

(1)オグレスビー氏工業功労者賞

 同賞の審査基準は、沖縄の工業発展に著しく功績のあった者に授与しようというもので、
○新規企業を導入して成功した者
○新製品を開発して成功した者
○その経営する企業によって沖縄経済に大きく貢献した者
○人格高潔なる者
○その他

また、沖縄の産業開発に有益な事業を興した者となっている。

(2)工業関係学生の学資援助

 オグレスビー氏奨学金は、工業関係学科の在学生に対して、心身健全、志操堅固、学業優秀で、経済的に学資の支出が困難な学生に学資の一部を支給している。

☆オグレスビー氏顕彰墓碑建立
1968(昭和43)年には、沖縄財界人の浄財により、那覇市泊の国際墓地に顕彰墓碑を建立し、以後、命日(12月20日)には追悼式を墓前で行っている。


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めじろと拳銃

冬になるとめじろが村にやってきて、がしゅまるの実や椿の蜜を食べる。
村の大通り沿いに空き屋敷があった。屋敷の中は雑草が茂っていた。屋敷の大通りに面している側に大きながじゅまるの木が植わっていて実を食べにやってきためじろが枝から枝へ飛び回っていた。私たちががじゅまるの下で遊んでいるとスペイン系のアメリカ青年とウチナーの彼女がやってきた。アメリカ青年は背が低くウチナーンチュと同じくらいであった。彼女は陽気で派手な格好をしていた。まだ十代のようであった。二人はがじゅまるを見上げてめじろを見ながら話し合った。彼女はめじろを指さしながら話した。するとアメリカ青年は内ポケットから小型の拳銃を出して、めじろに向けると一発撃った。しかし、めじろは何事もなかったように飛び回っている。彼女は笑いながらアメリカ青年をからかった。めじろに命中させることができなかったので「へたくそ」とでも言ったのだろう。二人の会話はざっくばらんで少年と少女の会話のようであった。
アメリカ青年はむきになってめじろに向かって数発撃った。ところがめじろは何事もなかったように平気で枝から枝へ飛び回っていた。彼女は大笑いした。アメリカ青年は弁解しながら拳銃をポケットに戻した。
彼女はアメリカ青年をからかい、アメリカ青年は弁解しながら去っていった。

「へたくそだなあ」
二人が去った後にヨシ坊が言った。飛び回っているめじろに命中させるのは非常に難しいことであるが、私たちは赤城圭一郎のファンで、抜き打ちの竜と呼ばれている拳銃の名手の映画を見ていた。竜は振り向きざまに拳銃を撃って、相手の拳銃を弾き飛ばした。竜はいつも敵の拳銃に命中させて拳銃を弾き飛ばして体に命中させることはしなかった。どんなに拳銃の名手でも竜のようなことはできるはずないが、小学生の私たちはできるものだと信じていた。だから、アメリカ青年がめじろを撃ち落とすことができなかったのをへたくそと思ったのだ。
このアメリカ青年は拳銃を撃つのが好きなようで、一号線を超えた場所に輸送管に沿って車道があったが、そこでカジノで使うチップを道路の反対側に立てて、チップに向けて撃っていた。
弾はチップに当たったり外れたりした。木の枝に自転車のチューブを細く切って取り付けたゴムカンという本土ではパンコと呼ぶ小石を飛ばすのを私たちは持っていたが、彼の拳銃の腕より私のほうが上だと思った。彼に勝負を挑みたかったが英語は話せないし、彼は私たちを無視して彼女とばかりいちゃついていたので勝負を挑むのを止めた。
勝負をしなかったのは心残りである。
拳銃を撃つのを見たのは彼が最初で最後だった。彼以外に拳銃を持ち歩いているアメリカ人はいなかった。
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沖縄産業界の恩人・サムエル・C・オグレスビー

探し求めていた本がやっと手に入った。それはある人物について書いた本である。
彼は世界的に有名な人物ではない。日本でも有名ではない。しかし、沖縄の経済界ではとても有名な人物である。その人物の名前はサムエル・C・オグレスビーという。私はサムエル・C・オグレスビーという人物を知らなかった。10年近く前に沖縄の経済発展に貢献した人物であると紹介している記事があったが、切抜きをしなかったので、名前を覚えることができなかった。
数日前の新聞に彼の名前が載っていたので、さっそくインターネットで彼に関する本を探した。アマゾンには彼に関する本はなかった。沖縄の古本屋で「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」という本があったので注文した。その本はサムエル・C・オグレスビー氏への追悼本である。彼に関する本はこの一冊だけのようだ。

サムエル・C・オグレスビーは1950年から16年間沖縄の産業発展に尽力した人物である。
彼は、砂糖、肥料、たばこ、セメント、ビール等沖縄のほとんどの産業の創立に尽力した人物である。
戦前の沖縄には製糖以外の企業らしい企業ははほとんどなかった。製糖でさえも原始的な製造であり、機械を使った生産ではなかった。
戦後の沖縄の産業は本当にゼロからの出発であった。お金はないし、技術もなかった。産業界への融資、新しい機械の導入などに熱心に尽力したのがサムエル・C・オグレスビー氏なのだ。だから、彼は「沖縄産業の恩人」と呼ばれている。
「沖縄人以上に沖縄を愛した人」という人もいる。

故稲嶺一郎氏は「敵国の住民に対してどうしてこんなに優しい気持ちを持って真剣になれるのだろうかと、アメリカという大国の国民性か、あるいはこの人だけのパーソナリティなのかと、不思議な感じすらした。妙なものだが、実際、日本人が敵国の住民をこのように慈しむことができるだろうか、さえ感じたものである」と述べている。

サムエル・C・オグレスビーは彼の遺言通り、泊の国際墓地で妻と一緒に眠っている。

沖縄の歴史は土地闘争、復帰運動、基地撤去運動などで彩られているが、沖縄人の生活を支えたのは経済であり、産業である。派手な政治の裏で戦後の経済がどのようにして発展したのかを解明するべきである。サムエル・C・オグレスビー氏の研究が待たれる。
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新聞配達は犬との闘い

アメリカ人は大きい犬を飼っている家庭が多い。犬を鎖でつないでいればいいのだが、夜の間は鎖をはずして庭を自由に動き回れるようにする家庭が多かった。外人住宅の新聞配達は犬との闘いでもあった。
犬に襲われた時、絶対に犬に背中を見せて逃げてはいけない。犬は人間より早いからすぐに追いついて尻を噛む。外人住宅だけではなく村でも放し飼いの犬が多かったから、私たち子供は犬に襲われた時の防御のやり方を話し合っていた。防御方法は犬と向かい合い大声を出しながら手を振り回し後ずさりをしていくことだ。普通の犬なら吠えるだけて飛び掛かってはこない。

しかし、外人住宅の犬は大きい。手を振り回しても飛び掛かってくるかも知れない恐怖があった。私は手ではなく新聞紙を丸めて襲おうとする犬の鼻あたりを新聞紙で突きながら後ずさりした。この方法は効果的で、犬は新聞紙を噛もうとして私に飛び掛かることはなかった。
このやり方で犬に噛まれるのを防いできたが、ある家にとても大きい犬がいて、新聞紙でも防げそうになかった。普通は家の中に閉じ込めているのだが、時々庭に放っている時があった。犬はもしかすると私を襲う気はなくて、フレンドリーな気持ちで私に寄ってきたかもしれない。
しかし、でかい犬が吠えながら寄ってくるのはとても恐怖だった。新聞紙を振りかざしながら難を逃れていたが、いつかは新聞紙は通用しなくなって犬に襲われるかも知れないという恐怖があった。恐怖と闘いながら新聞配達をしていたが、そのうちに新聞配達が毎朝来るのを知っていながら、犬を野放しにしている主人に腹が立ってきた。なめられてたまるかという気もちが湧きあがり私は反撃に出ることにした。こぶし大の石を左手に持ち私は庭に入った。新聞を玄関のノブに挿み、玄関から離れている時に裏庭からでかい犬がやってきた。
私は右手に新聞紙を持ちゆっくりと後ずさりした。犬が接近してきた。私は新聞紙を犬の鼻あたりに向けた。犬が新聞紙に触れようとした瞬間に思いっきり石を投げた。石は犬の前足に当たり、犬がウオーンと哀れな声を発した。すると家族がなにごとが起こったのかと一斉に出てきた。私は家族が玄関から出る前に庭の外に出た。背後で主人や妻や子供がわーわー騒いでいるのが聞こえたが、私は振り向かないで次の家に向かった。
翌日から犬を庭に出すことはなくなった。
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砂辺松一先生のこと

砂辺松一先生は中学三年生の時の私のクラスの担任であった。砂辺先生と私たちは縁が深かった。というのも私たちが小学五年生の時に琉大を卒業したばかりの砂辺先生は私たちの担任になった。砂辺先生は小学校の先生だったのだ。ところが私たちが中学生になると砂辺先生は英語教師として中学の先生になった。
私たちが中学二年生になると数学の担任にもなった。あの頃は専門の教師が少なく、専門ではない教科も受け持っていたようだ。多くの先生は数学を担任するのを嫌がっていて、若い砂辺先生は数学の担任を押し付けられた。砂辺先生は数学を担当するようになったいきさつを私たちに話した後、本当は数学が一番の苦手な教科だと砂辺先生は素直に話した。今なら、数学の苦手な先生になぜ数学の担任にするのかとPTAが大騒ぎするだろうが、それが許される時代だった。

普通問題が解けない場合はその問題をうまく避けてごまかすものだが砂辺先生は違っていた。ある日、数学の授業をしている途中で応用問題を解けないと砂辺先生は素直に私たちに話した。その時、誰一人として砂辺先生を非難する生徒はいなかった。それどころかクラスの全員が一丸となって難問に挑んだ。成績優秀な生徒は黒板の前に出て、ああでもないこうでもないと砂辺先生と一緒に考え討論した。勉強が全然できない生徒までもが真剣に黒板に集中した。あの授業は最高の授業だった。

小学校の時の砂辺先生は話をよく脱線して、色々な体験談を話した。戦争体験談や戦前の思い出など多くのことを話した。

そのひとつに教育勅語の話があった。戦前は天皇崇拝の教育をしていたのに戦後になると180度転換して民主主義の教育をしていると若き砂辺先生は戦前からの先生を批判した。そして、戦前の教育は教育勅語を丸暗記させたと言うと、
教育勅語を私たちの前に披露した。




「朕 惟 フニ我カ皇 祖皇 宗 國 ヲ肇 ムルコト宏 遠 ニ ヲ樹ツルコト深 厚 ナリ
チンオモうにワがコウソコウソウクニをハジむることコウエンにトクをタつることシンコウなり

我カ臣 民 克ク忠  ニ克ク孝 ニ億 兆  心  ヲ一 ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
ワがシンミンヨくチュウにヨくコウにオクチョウココロをイツにしてヨヨソのビをナせるは

此レ我カ國 體 ノ精 華ニシテ教  育 ノ淵 源 亦 實 ニ此 ニ存 ス
コれワがコクタイのセイカにしてキョウイクのエンゲンマタジツにココにソンす

爾  臣 民 父母ニ孝 ニ兄 弟 ニ友 ニ夫 婦相 和シ朋 友 相 信 シ恭  儉 己 レヲ持シ
ナンジシンミンフボにコウにケイテイにユウにフウフアイワしホウユウアイシンじキョウケンオノれをジし

博 愛 衆  ニ及 ホシ學 ヲ修 メ業  ヲ習 ヒ以 テ智能 ヲ啓 發 シ 器ヲ成  就 シ
ハクアイシュウにオヨボしガクをオサめギョウをナラいモッてチノウをケイハツしトクキをジョウジュし

進  テ公 益 ヲ廣 メ世 務ヲ開 キ常 ニ國 憲 ヲ重  シ國 法 ニ遵  ヒ
ススンでコウエキをヒロめセイムをヒラきツネにコクケンをオモンじコクホウにシタガい

一 旦 緩 急  アレハ義勇 公 ニ奉 シ以 テ天 壤  無窮  ノ皇 運 ヲ扶翼 スヘシ
イッタンカンキュウあればギユウコウにホウじモッてテンジョウムキュウのコウウンをフヨクすべし

是 ノ如 キハ獨 リ朕 カ忠  良  ノ臣 民 タルノミナラス
カクのゴトきはヒトりチンがチュウリョウのシンミンたるのみならず

又 以 テ爾  祖先 ノ遺風 ヲ顯 彰  スルニ足ラン
マタモッてナンジソセンのイフウをケンショウするにタらん

斯ノ道 ハ實 ニ我カ皇 祖皇 宗 ノ遺訓 ニシテ子孫 臣 民 ノ倶 ニ遵  守 スヘキ所
コのミチはジツにワがコウソコウソウのイクンにしてシソンシンミンのトモにジュンシュすべきトコロ

之 ヲ古今 ニ通 シテ謬  ラス之 ヲ中  外 ニ施  シテ悖 ラス
コレをココンにツウじてアヤマらずコレをチュウガイにホドコしてモトらず

朕 爾  臣 民 ト倶 ニ拳 々 服 膺 シテ咸 其  ヲ一 ニセンコトヲ庶 幾 フ
チンナンジシンミンとトモにケンケンフクヨウしてミナソノトクをイツにせんことをコイネガう」

参考:現代口語訳
 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。

 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。

 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。




砂辺先生は教育勅語の説明をしたが、私はさっぱり理解できなかった。

戦前の教育である丸暗記教育、今でいう洗脳教育を砂辺先生は嫌っていたのだろう。だから、私たちの前で私たちにはさっぱり意味の分からない教育勅語を披露し、戦前の教育を非難した。小学五年生の私には砂辺先生の言おうとしていることが理解できなかったが、大学生になった頃に砂辺先生の言おうとしていることが理解できるようになった。

戦後生まれの人たちは皇民化教育と聞いたら天皇陛下の偉大さの説明をする授業だと思うだろう。そうではない。教育勅語を丸暗記させるような洗脳授業が皇民化教育だったのだ。だから本土から遠く離れ大和文化の影響が小さい沖縄でも短期間で天皇崇拝の若者たちが生まれた。「天皇陛下のために戦い、天皇陛下のために死ぬ」という天皇崇拝の洗脳授業をやったのが沖縄の教員たちである。

砂辺先生の話から脱線するが、沖教祖や沖縄のマスコミは集団自決は日本軍が命令したから起こったのだと主張しているが、本当は違うのではないかと思う。慶良間の集団自決は赤松隊長が命令したのではないという証言者が現れている。座間味の場合は集団自決を命令したといわれている梅沢元隊長は健在であり、彼は集団自決をするために爆弾をくれといってきた村の代表たちを自決はするなと怒って帰したと証言している。
日本軍が自決を命じた証拠はないのだ。
一方、戦前の皇民化教育や米軍に捕まったら女は暴行されて殺される。男は残忍なころされかたをするという噂があったから自決をしたと証言する人は多い。いや、ほとんどの人たちがそのようにいう。そして、自分たちが洗脳されていた証拠として「海ゆかば」を歌う。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

海で(戦いに)ゆくなら、水に漬かる屍ともなろう。
山野を(戦いに)ゆくなら、草の生える屍ともなろう。
天皇のおそばにこの命を投げ出してもけして後悔はしない。

自決するかしないかを大きく左右するのは本人の心である。日本軍が手りゅう弾を二個渡し、一個は米軍に投げ、一個は自決に仕えと言っても、自決する気がなかった人もたくさんいたわけで、そのような人たちは自決をしていない。統計的には自殺をしなかった人のほうが多いだろう。自決しようとして生き残った人のほとんどは皇民化教育を受けた性で自決をしようとしたと証言している。皇民化教育をやったのは沖縄の先生たちである。

集団自決をやる心をつくったのは皇民化の洗脳教育をした沖縄の先生たちである。慶良間の集団自決に日本軍は関与していないどころか集団自決はするなと梅沢元隊長は村民代表を追い返したのだ。沖縄の先生たちは自分たちの罪を隠すために集団自決は日本軍の命令であったと主張し、集団自決は日本軍の性であることを教科書に掲載させようと懸命になっている。しかし、集団自決をやらせたのは日本軍ではなく沖縄の先生たちであるのは明確になった。

砂辺先生は、黒人も白人も黄色人の体の中に流れているのは同じ赤い血であると教えた。戦前、砂辺先生の家には下働きしている朝鮮人がいたが、朝鮮人の子どもと喧嘩した時、自分が悪かったのに、朝鮮人の子どもが彼の親にこっぴどく叱られるのを見てとても済まない気持ちになったといい、沖縄にも差別があったことを教えた。
砂辺先生は教えるというよりも自分のストレートな気持ちを話しただけだったかもしれない。授業から脱線した砂辺先生の話は面白かったし私の心に強烈に残っていて、私の思想に大きな影響を与えている。
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二グロ ニガー ニガストゥ


中学三年生の時の英語の先生は砂辺松一先生だった。砂辺先生は英語がペラペラだった。読谷村にはアメリカ人が多く住んでいたので、砂辺先生は時々アメリカ人を連れてきて英語の発音練習をさせた。

ある日若いアメリカ人を連れてきた。名前はジョンとしておこう。ジョンは白人で20歳そこそこの青年だった。金髪で青い目をしていた。身長は170センチくらいで高くなかった。ジーパンをつけラフな服装だった。ジョンは大勢の生徒の前に立つのは初めてのようで落ち着かなかった。私たちを見ては恥ずかしそうに下を向いたりしていた。

授業は英語の比較級の勉強だった。Tall高い tallerより高い tallest最高に高いの勉強だ。砂辺先生は単語の意味を説明し、比較級の意味と発音の仕方を説明をした後に、ジョンに比較級の発音をさせた。私たちはジョンの発音を聞きながら発音練習をした。2,3の単語を練習した後に、砂辺先生は、「ニグロ」の発音練習をさせた。砂辺先生は「ニグロ」は黒人のことであるが「ニガー」は黒人を差別する言葉であるとのことだった。砂辺先生はアメリカの実際の生活では比較級といっても単なる比較級としてだけ使われているのではなく、「ニガー」のように実際には差別の言葉として比較級が使われている場合もあると説明した。

砂辺先生はジョンに「ニグロ」の比較級、最上級の発音を私たちに教えるように話した。するとジョンは驚いた顔をした。そして、砂辺先生に訴えるようなしぐさで話した。ジョンはニガーは黒人差別の言葉であり、声に出したくないというようなことを砂辺先生に言ったと思う。そのことを承知の上で発音練習をさせようとしていた砂辺先生はジョンに発音するように説得した。嫌がっていたジョンだったが砂辺先生の説得に負けてニグロの比較級最上級の発音を私たちに教えることを承知した。
ジョンが「ニグロ」と言うと私たちは「ニグロ」と言った。砂辺先生とジョンの話し合いでジョンが「ニガー」を口にしたくないということが分かった私たちはおもしろがって、ジョンが弱々しく「ニガー」と言った後に、いつもより大きい声で「ニガー」と発音した。すると若いアメリカ人の顔がみるみるうちに真っ赤になった。若いアメリカ人は下を向いたり横を向いたり砂辺先生を向いたりと落ち着きを失っていた。砂辺先生が冷静な声で二言三言いうと、ジョンは観念したように発音練習を続けた。
私は、私たちが「ニガー」と大声を出しただけで若いアメリカ人の顔が真っ赤になっていったのを今でも覚えている。
ジョンは数回ほど私たちに発音を教えてくれた。ジョンはシャイなアメリカ青年だった。

ジョンとはこれっきりだったが、私はジョンを思わぬことで新聞で見ることになる。あれから5,6年たった頃、ジョンが脱走兵として夕刊紙に顔写真つきで載っていたのだ。ジョンはベトナム戦争反対を訴えて軍隊から脱走したとのことだった。その後のジョンについては知らない。

注 にぐろの最上級はWEBで見つけることができなかったのでカタカナ表記にした。


訂正
「「NIGGER」を比較級の用例というのは初耳で、何か変な気がします。単純な名詞だと思います。この先生の勘違いではないでしょうか」北谷孝さん。

私の勘違いだと思います。砂辺先生がニグロは黒人のことだが、ニガーは黒人を蔑視する言葉であると説明しのをはっきりと覚えていますが、それが比較級の勉強であったかどうかははっはりしません。私が勝手にそう思い込んでいる可能性が高いです。

若いアメリカ人がニガーと言うのは勘弁してくれと砂辺先生に頼んでいる様子や砂辺先生が真剣な表情で表情でジョンを説得し、ジョンが仕方なさそうに砂辺先生の説得に応じている様子は覚えています。
そして、私たちが大きな声で「ニガー」と言った時に若いアメリカ人が顔を真っ赤にしてとても困っていた様子は今でも覚えています。
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アメリカ少年がぐるぐる回った理由


大湾は学校の行き帰りに古堅の外人住宅モーガンマナーの中を通った。別の道路もあるのだが、毎日同じ道を通るのはおもしろくないから時々モーガンマナーの中を通った。モーガンマナーに入るとアメリカ人が歩いているわけで、アメリカ人とすれ違う。
グループの時は、グループの中の誰かが、アメリカ少年へ、「ファイトミー」と言った。アメリカ少年へ「ファイトミー」をいうことは他の少年に勇気を見せる行為であった。一人がいうと他の少年も調子に乗って「ファイトミー」といった。私たちは喧嘩をする気はないし、アメリカ少年も聞きなれた言葉なので無視した。私たちの「ファイトミー」は「ヤー」と同じくらいの挨拶代りの言葉だった。「ファイトミー」の意味も知らないでアメリカ少年にいう生徒もいたくらいだ。一人の時は本当に喧嘩になってしまうと怖いから言わなかった。
これもアメリカ人が隣りに住んでいたから出てくる話である。

アムロは自転車屋の子どもだった。彼は大湾に住んでいたので時々モーガンマナーの中を通る時があった。彼が中学三年生の時の話だ。「ファイトミー」をいうのは小学生の時で中学生になると「ファイトミー」はいわない。アメリカ少年とすれ違う時は「ヤー」とか「グッドアフタヌーン」というくらいだ。
ある日、学校帰りにモーガンマナーの中を歩いていると、アメリカ少年がアムロに話しかけてきた。アムロは英語が全然ダメだったから、アメリカ少年の話は全然分からなかった。「ソーリー、I cannot speek inglish」さえも言えないアムロは「分からん」と言った。それも英語の調子で「ワカラーン」と言った。
するとアメリカ少年はアムロのまわりをぐるぐる歩き回った。アムロはアメリカ少年が自分の周りをぐるぐる歩いたものだから、頭が混乱し怖くなって逃げた。
この話はつくり話ではない本当にあった話だ。アムロはなぜアメリカ少年が自分の周りを歩いたのか英語の先生である砂辺先生に聞いた。砂辺先生はその理由がわかった。アムロが「ワカラーン」と言ったのをアメリカ少年は「walk around」
に聞こえたのだ。
砂辺先生は授業でアムロの体験談を私たちに話した。英語の発音と似ているのが多い沖縄の方言では、「ワッタームン」(私の物)を「what time」と勘違いしたことや、「nine three」を「ナーヒン トゥリ」(もっと取れ)に勘違いした話はあったが、共通語の「わからん」が英語の「歩き回れ」に勘違いされたというのはあの時に聞いただけである。
アメリカ人と隣り合わせに住んでいたから出てきた話である。
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