驚いた。テロで22人死亡した英国のコンサートの歌手は「サム&キャット」のキャットだった



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驚いた。テロで22人死亡した英国のコンサートの歌手は「サム&キャット」のキャットだった
 イギリス中部マンチェスターのコンサート会場で22日夜(日本時間23日朝)起きた自爆テロ事件が起こり、8歳の女児1人を含む22人が死亡、59人が負傷するという大惨事になった。コンサートを開催していた歌手は米歌手のアリアナ・グランデさん(23)であるが、彼女はNHK教育テレビで放映していた喜劇「サム&キャット」のキャットである。「サム&キャット」は高校生二人が共同で部屋を借り、生活のためにベビーシッターをするという喜劇だった。キャットは独特の感性を持った、しかし頭の足りない少女であった。非常に難しい役柄であったがアリアナは彼女自身がキャットではないだろうかと思わせるくらいに演じていた。
 「サム&キャット」は人気番組であったが一年くらいで終わった。キャットに興味があったのでネットで調べると、彼女は歌手としても成功していた。ユーチューブで彼女を見たが、歌手として凄い才能の持ち主だと思った。
 彼女は日本が好きである。日本に来たこともある。そして彼女はきゃりーぱみゅぱみゅの大ファンである。
 マリアナは身長は153㎝の小柄な女性であり白人系ではない。
 
 イギリスのコンサートはデンジャラス・ウーマン・ツアーとして日本コンサートも含まれている世界ツアーのひとつであったがテロによって世界ツアーが危ぶまれた。しかし、ロンドン公演から来月5日のスイス公演まではキャンセルされるが「現在発表されている8月12日と13日に千葉・幕張メッセでの日本公演はスケジュール通り行うことになった。

アリアナは事件後、「心が引き裂かれそう。本当に悲しい。言葉がありません」と悲痛な思いをツイートしている。そして、「やめたり、恐れながら活動したりしない」「憎悪に勝利させない」とテロに屈しない姿勢を強調し、自爆テロの被害者らを支援するため、マンチェスターで慈善公演を行うと発表した。

歌手のマリアナより「サム&キャット」のマリアナを見たいが、「サム&キャット」の再開は望み薄だ。
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沖縄の「もはや戦後ではない」にしたのは基地経済である。県の「県民は過重な基地負担を背負う」は嘘である。



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沖縄の「もはや戦後ではない」にしたのは基地経済である。:県の「県民は過重な基地負担を背負う」は嘘である。
日本本土では昭和31年(1956年)の経済白書で「もはや戦後ではない」とされ、高度経済成長が始まりましたが、ちょうどその時期に、本土の米軍基地の整理縮小の流れを受けて、本土から沖縄に海兵隊の移転が進みました。
戦後、沖縄は、昭和47年(1972年)の本土復帰まで27年間にわたり、米軍の施政権下にありました。本土復帰後も、本土では基地の整理縮小が進む中、沖縄には多くの米軍基地が日米安全保障条約に基づく提供施設・区域として引き継がれ、県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっています。
 
 県は「本土復帰まで27年間にわたり、米軍の施政権下にありました」と書いてあるが、それは嘘である。米軍の施政権下にあったのは1945年からの5年間であった。1950年からは米民政府の統治に変わる。米国は議会制民主主義国家である。米軍は米大統領の指揮下にあり、シビリアンコントロールされている。米軍は軍事を専門に行うものであり政治を行うことは許されていない。沖縄を統治するということは沖縄の政治を行うことである。米軍が沖縄を統治することは許されていなかった。終戦から5年間はインフラ整備のために米軍が統治した。しかし、1950年からは米大統領の直轄になり、沖縄に米国民政府が設置された。その後は祖国復帰するまで米国民政府が統治したのである。米軍ではない。県の米軍が統治していたというのは嘘である。

 県は、本土は1956年から経済成長が始まったと述べているが、沖縄の経済状況については説明しないで、経済とは関係ない海兵隊の移転が進んだことを述べている。経済と海兵隊は関係がない。「もはや戦後ではない」と本土の経済を述べたのなら、本土と比べて沖縄の経済は発展したのか否かを説明するべきである。海兵隊の移転を述べるなら海兵隊の移転が沖縄の経済に影響したのかどうかを県は説明するべきである。ところが説明していない。

「もはや戦後ではない」と経済白書で記述した根拠は戦後の経済が戦前の経済水準を超えたからである。日本の戦中戦後の経済は戦前の経済より低かった。ここで比較している「戦前」とは、1934年~36年平均のことである。36年以降の日本経済は戦争のために足踏みして成長しなかった。戦争が終わり、低迷していた日本の経済は11年目にして1934年~36年平均を超えたのである。そのことを根拠にして経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言したのである。
それでは1956年度の沖縄経済は戦前に比べてどうなっていたのか、戦前の経済より後退していたのかそれとも発展していたのか。それを知るには戦前の経済を知る必要がある。

沖縄県が設置された明治時代から大正にかけての約40年で人口は約20万人増加した。機械式の製糖工場の導入によりサトウキビから砂糖への生産効率が向上し、産業の近代化が行われたことで、経済が発展し、それに伴い人口が増加したのである。さらに官吏や寄留商人の転入も相次いだ。しかし日清戦争、日露戦争の景気後は日本は大不況となる。それに伴い、沖縄県の主要産物である砂糖は過剰供給となり、さらに砂糖の国際市場価格の下落、関東大震災の発生、世界恐慌が追い打ちをかけ、大正末期から昭和時代初めには沖縄の経済はどん底状態になった。沖縄はサトウキビ生産をしていだので、食糧が極端に不足した。ソテツの実から抽出した澱粉しか食せないほどに沖縄の皮脂人は困窮した。その様は「ソテツ地獄と呼ばれた。
経済がどん底状態になった沖縄から海外へ移住する人々が増加した。1899年から1937年までに約7万人の海外移民がいた。自然増加数と海外移民による社会減少数が同程度であったため、人口推移はほぼ横ばいとなった。
1920年以降みられた、主に大阪府や神奈川県への出稼ぎ労働者は毎年1万人以上となり、その子孫らは大阪府大阪市大正区と神奈川県横浜市鶴見区に暮らしている。その後太平洋戦争によって、県外や台湾へ疎開した者は約8万人に上った。
 戦前の人口推移である。
1920年57万1,572 人
1925年55万7,622 人
1930年57万7,509人
1935年59万2,494 人
1940年57万4,579人
 戦前の沖縄の産業は農業だけであった。工業はなかった。土は赤土であり養分は少なく、農業しかない沖縄は貧しかった。それに加えて世界恐慌などの影響で極貧な島になった。戦前は貧しいために人口が60万人以上になることはなかった。それが戦前の経済であった。
それでは戦後の沖縄の人口はどのように変化したか。
1945年実施されず、推計人口は 32万6,625人
1947年実施されず、推計人口は 53万7,051 人
1950年69万8,827人
1955年801,065人
1960年88万3,122人
1965年93万4,176人
1970年94万5,111人
 沖縄戦で10万人の住民が死亡し、多くの男性は日本兵として戦地に行っていたから終戦の時は沖縄の人口はわずか32万人であった。ところがわずか5年後には69万になり、戦前より10万人も増えている。人口が増えたということは経済もよくなったと考えられる。沖縄はわずか5年で戦前の経済を超えたのである。本土流の経済白書でいえば沖縄は1950年に「戦後は終わった」ということになる。
本土で「戦後は終わった」と経済白書で宣言した1956年の前年の沖縄の人口は80万人を超えている。なんと戦前より21万人も増えたのである。経済から見れば沖縄は戦前をはるかに超えたのである。まさに奇跡の経済成長である。
戦前の沖縄と戦後の沖縄の違いは米軍基地があるかないかである。戦前は米軍基地はなかったが戦後は米軍基地ができた。それ以外は同じである。沖縄の経済発展は米軍基地があったからである。それ以外の原因はない。

 県は、本土は1956年に戦後は終わったが沖縄には米軍が駐留しているから戦後は終わっていないし、県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっていると主張している。
 県が過重な基地負担といっているが、県のいう通り基地が過重な負担であれば沖縄では生活がきついから人口は減少するはずである。ところが沖縄の人口は狂的なスピードで増え続けてきたし経済も発展してきた。人口と経済から見れば基地に過重負担があるとは言えない。むしろ人口増加と経済発展の原動力が基地にあったと言える。沖縄経済を発展させてくれた米軍基地には感謝するべきである。
 米民政府が沖を経済に尽力した象徴的な人物がサムエル・C・オグレスビー氏である。彼は沖縄経済界では「沖縄産業の恩人」と呼ばれている。私はオグレスビー氏について「沖縄内なる民主主義」の1号である「かみつき」に書いた。「かみつき」より引用する。

 サムエル・C・オグレスビーは、1911年10月アメリカ合衆国バージニア州で生まれ、メリーランド大学で学士号及び修司号を修得、さらにエール大学で極東問題と日本語の研さんを積んだ。1966年12月20日逝去され、個人の遺言よって、個人の愛された沖縄、泊の国際墓地に永眠される。
 オグレスビー氏は、1950年3月第二次大戦終焉の激戦地として廃墟化した沖縄に米国民政府職員として赴任した。オグレスビー氏は沖縄の経済、特に諸工業復興の種子を撒き芽を育てた。戦前の沖縄では夢想だにできなかった各種の近代的工業の隆昌を見るにいたったことは、真に沖縄人を愛し、沖縄の繁栄を願う同氏の16余年にわたる献身的努力の賜物である。
 

顕彰墓碑式での具志堅理事長あいさつ
 私ども、沖縄の産業人は、故オクレスビー氏を「沖縄産業の恩人」と呼び慕い、かぎりない感謝と尊敬の念をささげております。
 1950年頃、戦後の荒廃から沖縄産業復興の策定が始まったとき、当時の合衆国琉球軍政府の方針は、食糧増産、黒糖工場で進むことであったようですが、これを沖縄側の要望である農業は甘藷作、そして大型分蜜工場の実現を主張して実現させました。また、石垣島に於ける収穫の6ケ月後に迫ったパイン工場新設を、当時の民政府に直接談判して、特別の民政府直接融資を成功させました。このように故オグレスビー氏、沖縄の二大機関産業である分蜜糖、パイン缶詰の基礎を築かれました。
 私事にわたって失礼ですが、私の企業である味噌醤油、職油、ビールは、オ氏の大きな後援によって今日の発展をみるに至りました。いつもいつもその愛情と功績を感謝している次第です。このようにしてお菓子、鉄筋、合板など沖縄の製造加工業の90%は、オ氏の直接間接の指導後援に負うところが大きいのではないでしょうか。故オグレスビー氏の米国民政府経済局に於ける16年間のお仕事は、そのまま沖縄産業発展の歴史と云っても過言ではないと思います。これもオ氏が日本語をよく話し、沖縄人よりも沖縄人の心になり切って民政府要路の方々を説得することができ、沖縄に適した産業政策を実現された功績によるものであります。
 去る、1964年、琉球連合会創立10周年事業として、胸像を制作、東急ホテルで盛大な贈呈式を行いました。
 1966年12月には、オ氏の名を永久に記念すべく沖縄財界有志の方々から浄財をいただき「オグレスビー記念産業開発基金」を設立(基金5、333ドル)し、第一回の奨学資金授与並び第一回工業功労者表彰を行い、活動を開始しております。そして今回は、沖縄財界人の浄財による「顕彰墓碑」の建立となった次第です。
 以上をもちまして、故オグレスビー氏のご功績を偲び、除幕式のご挨拶とします。
  1968年11月26日
         オグレスビー氏産業開発基金
               理事長 具志堅 宗精

赤マルソウの醤油が出た頃、タイス・オグレスビー夫人は毎日のように平和通りの店を巡り、「キッコウマンより赤マルソウの醤油がいい」と買っては宣伝して回られた。

 沖縄を愛し、沖縄の経済発展に全身全霊をかけたアメリカ人がいたことを君は知っているか。サムエル・C・オグレスビー。彼はウチナーンチュの私や君よりも何倍も何倍も沖縄を愛していた。

 彼は夫人とともに泊の国際墓地で眠っている。

米民政府は軍事基地の強制、事件・事故を起こした米軍兵士の罪の軽減工作だけをやってきたのではない。
行政・立法・裁判の三権分立を確立し、沖縄社会の法治主義・民主主義を推し進めてきたのは紛れもなく米民政府である。
そして、琉球大学、琉球銀行等を創立して沖縄の政治・経済発展を推進してきた。
その中でもサムエル・C・オグレスビー氏は沖縄側の立場に立ち、米民政府と熾烈な交渉をして、沖縄経済発展に貢献した。

「オグレスビーさんは『琉球製糖建設で私も10年歳をとったが宮城も10年ふけた』と云って笑われたのを思い出します」(宮城仁四郎弔辞より)
資金も知識も経験もない沖縄での製糖業の近代化は想像を絶する困難なものであった。
それを実現したのがオグレスビー氏だったのである。

沖縄の経済発展に自分の人生のすべてを打ち込んだアメリカ人がいたことを沖縄の政治家、知識人、マスコミは封殺している。
                 「かみつき」
 米民政府は沖縄の民間の企業育成にも尽力したのである。県はその事実を無視して米軍基地の負担だけを取り上げている。

 私は高校まで読谷村の南側に住んでいた。その頃はベトナム戦争があり嘉手納飛行場の爆音はひどかった。テレビは聞こえない。会話も大声で話さなければならなかった。嘉手納飛行場を爆破したいくらいに本当にひどい状態だった。琉大に合格して首里に住むようになったが、嘉手納飛行場から遠く離れた首里は静かだった。夜になると余りにも静かで気味が悪いくらいであった。嘉手納飛行場がある読谷と嘉手納飛行場がない首里は別世界だった。
 県は県民全体が基地の過重負担を背負っているというが、騒音被害についていえば嘉手納飛行場、普天間飛行場などの周辺の住民は被害を受けるが那覇市など周辺に住んでいない住民は被害を受けない。騒音被害を受けている住民はわずかである。県民の多くは被害を受けていない。
もし、基地が県民に負担を背負わせていたら沖縄の人口は減少していただろう。ところが沖縄の人口は増え続けていったのである。2015年には143万3,566人になった。戦前の2倍以上の人口になった。基地は県民にとって負担ではないから人口はどんどん増えたのである。
 県民が増えただけではない。観光客も増えた。米軍基地が恐ろしい存在であったら観光客が増えるはずはない。米軍基地はアジアの平和を守っている。その象徴的存在が嘉手納飛行場である。
 嘉手納飛行場を一望できる道の駅は連日観光客で賑わっている。観光バスやレンタカーで駐車場はいつも埋まっている。嘉手納飛行場は観光名所になっているのだ。道の駅に来るのは日本人だけでない。台湾、韓国、中国の観光客もやってくる。外国人にも人気がある。
 軍事基地はあらゆる国にある。軍事基地は国を守るために存在しているし。国民は負担とは思っていない。沖縄の米軍基地は沖縄、日本だけでなく韓国、台湾、フィリピンなどアジアの国々の平和を守っている。そんな米軍基地は県民の負担ではない。誇りである。
 
 米軍基地は県土面積の約10%を占めているという。ということは90%には基地はないということだ。人口に当てはめると90%の県民は米軍基地とは関係なく生活しているということになる。
 嘉手納弾薬庫は大自然に覆われているだけである。トリイステーションは通信基地であり爆音もにければ銃弾が飛ぶこともない。静かである。浦添市にあるキャンプ・キンザーは補給基地なので軍事物資を置いてあるだけであり静かである。米軍基地でも騒音や銃弾などで基地被害を出す基地は少ない。数パーセントであろう。キャンプ・キンザーなどの米軍基地はフリーマーケットを開いて多くの県民を楽しませている。
 
基地負担の具体的な説明をしないで「県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっています」という県の意見は自分勝手な思い込みである。県は米軍基地について客観的に見るべきである。
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義挙人さんへ



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義挙人さんへ

お久しぶりです。
「銃剣とブルドーザー」について、私も少し疑問を持っていました。民主主義国家であるアメリカが、しかも、捕虜にした住人に水やチョコレートを与えるほどの国が、寝込みを襲うような方法で強制収容するとは何と冷酷か国かと、、、思っていたが、、、
やっぱり その様なことがあったのか と このブログ読んで改めて思いました。

県公文書も不都合な事は記録として残さなかったんだと 今 今思った。

話は変わりますが、

私は、地主会(沖縄県軍用地等地主会)の某市町村の評議員をやっています。
今は、総会の時期です。そこで某市町村の地主会の総会資料(事業報告書)に 沖縄の県の軍用地は銃剣とブルドーザーと強制収容されたんだと言う表記がされていたので、私はすぐ意見を言いました。銃剣とブルドーザーで強制収容されたのは一部であって、すべてじゃない。今騒いでいる、辺野古は自ら誘致したのですよと、質問したが、評議員の中には、左傾の人もおり、沖縄の土地は搾取されたのだと反論されました。

私は、事実ではないと他の評議員意見を求めたが、、さすが、革新地盤の地主会、、、誰も私の意見に同意する人はいませんでした。

(事業報告書)は総会資料として、そのまま訂正なく、提出されます。

これが、現実です。ヒジャイさんどう思いますか?


義挙人さんへ

地主会の目的は少しでも軍用地料を上げることです。軍用地料を上げる意見は歓迎するがそうではない意見は興味がないのです。
「銃剣とブルドーザー」で強制接収したというのは、提供したくなかったのに強制接収したのだから軍用地料を上げるのは当然であると政府に主張することができます。それに翁長知事が「米軍基地は沖縄の経済発展の最大の阻害要因だ」というのも軍用地料値上げの理由になります。
 地主会の幹部のほとんどは金の亡者ですよ(苦笑)。とにもかくにも値上げの理由に関心があるだけです。もし値上げをしないなら返還しろ、返還した方が経済発展するのだから地主は得すると政府に主張したこともあります。
 
 ただ、米民政府が土地を強制収容したことは事実です。戦前の沖縄の産業は農業だけでした。だから、土地を取り上げられたら生きていけないと農民たちが本気で思っていたことは事実だと思います。実際、土地を取り上げられたら少ない軍用地料だけで生活していくのは無理です。戦争で負けたから本当は反対でも抵抗することをしないで土地接収に応じたのです。
米民政府は土地を強制接収しただけではありませんでして。土地を失って生活手段を失った農民を優先して雇用していったのです。軍雇用は実は失態対策でもありました。米軍は軍作業員が必要だったから雇用したのですが、実は必要以上に雇用していたのです。彼らの仕事は物を運んだり、廃棄物を片付けたり、掃除をしたりの単純作業でした。農民出身にはそんな仕事しかこなせなかったと思います。
 那覇に住んだ時にある人が軍作業員は怠け者で頭も悪いから那覇では使えないと言われたことがありました。ショックでしたが思い当たることがありました。軍作業をしている大人たちが仕事の容量について話していましたが、彼らは「ハンチョウ」が見張っている時は一生懸命仕事をして「ハンチョウ」が居ない時は手抜きをして楽に仕事をすると話していました。容量よく怠けることが彼らの効率的な仕事だったのです。「ハンチョウ」が来ていることを知らないでゆんたくして怠けていたので叱られたと話しているのを聞いたこともあります。それも笑い話にしていました。そんな彼らを那覇の民間会社では雇わないというのももっともだと思いました。
軍雇用が本当は米民政府の失態対策でもあったのです。

 話が横道にそれましたが、軍用地主会のテーマはいかにして軍用地料を上げるかです。残念ではありますが、義挙人さんの話がそっぽを向かれるのは仕方がないことだと思います。

 私たちにとって深刻なのは多くの県民が左翼が作り上げた嘘の歴史を信じていることです。地主会は別にして、できるだけ多くの県民に本当の歴史を伝えるのは重要だと思います。それもまた困難な現実ですが。
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銃剣とブルドーザー」は非合法沖縄共産党の暗躍があったからである。その証拠の文章が見つかった



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「銃剣とブルドーザー」は非合法沖縄共産党の暗躍があったからである。その証拠の文章が見つかった。


太平洋戦争終結後も、朝鮮戦争の勃発など国際情勢の変化に伴い新しい基地が必要になると、武装兵らによる「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を造っていきました。
 
 この文章は「沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」の第1章:沖縄と米軍基地の歴史的側面の一部である。この文章が嘘であることを説明する。「銃剣とブルドーザー」を根拠にしているのが伊佐浜と伊江島の土地接収であるが、土地接収したのは他にももっとあった。他の土地では「銃剣とブルドーザー」を使わなかった。そのことを読谷村の渡具知と名護市の辺野古の土地接収で説明する。
伊佐浜で「銃剣とブルドーザー」による土地接収が行われたというのが常識になっているが、その原因をつくったのが沖縄の非合法共産党である。非合法共産党が深く関わったから「銃剣とブルドーザー」の場面ができたのである。そのことを説明する。伊佐浜の土地接収反対運動の中心人物が国場幸太郎という非合法共産党員であった。皮肉なことに彼が書いた伊佐浜土地接収のドキュメントが「銃剣とブルドーザー」は非合法共産党が深く関わっていたことを証明している。、彼が書いた伊佐浜土地接収のドキュメントを最後に紹介する。

米国は議会制民主主義国家である。米軍はジビリアンコントロールされていて、米軍が政治をすることは許されていない。終戦から5年間は米軍政府がインフラ整備のために沖縄を統治していたが、1960年からは米民政府が統治した。
県は米軍が「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を造っていったと述べているが民主主義国家である米国がそんなことをするはずがない。
新しい土地が必要であるかどうかを最終的に判断し土地接収を決めるのは米軍ではなく米民政府であった。米民政府は必要な土地に住民が住んでいると退去するように通告し、強制立ち退きを迫ったが、その前に住民との交渉を行った。一番の問題は立ち退きをしなければならない住民の住む場所である。それと建設費用や移転補償である。米民政府はそのことについて住民と交渉して移設先を決めた。それが事実である

県は「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を造っていったと述べていてそれを伊佐浜と伊江島土地接収を例に出して、沖縄の土地接収は「銃剣とブルドーザー」でやったと思わせているが、事実はそうではなかった。そのことについて説明する前に県公文書にかいてある伊佐浜の土地接収を紹介する。

米軍は1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告しましたが、翌年1955年3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させ、約3万坪の土地を接収しました。また3月14日には、伊江島の真謝でも約300人の武装兵が島に上陸し、家から住民を追い出した後、13戸の家屋をブルドーザーで破壊して焼き払い、10万8千坪の土地が米軍に接収されました。
その状況に対し、琉球政府立法院でも住民の生命と財産を守る基本的な立場から米側に対して軍用地収容取り止めの請願を再三行いました。
「土地収用家屋立退き指令撤回要求決議案」第5回臨時第5号 1955年3月4日 
同年7月11日、米軍はさらに伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32戸136名の住民が住む家を失いました。
この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
               「沖縄県公文書」
県公文書では1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告し、3カ月も経たない翌年の3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させたと書いてある。もしそうであればひどい。たった3カ月では移転先さえ見つけるのは難しい。本当に米民政府はこんなひどいことをやったのだろうか。そうではなかったはずである。
そのことが予想できる県公文書がある。

この日から遡ること2年前、米軍は1953(昭和28)年4月3日に琉球列島米国民政府布令第109号『土地収用令』を公布し、同年4月11日に真和志村(現那覇市)の銘苅と安謝の一部、ついで天久と読谷村渡具知、同年12月には小禄村具志で土地接収を強行しました」
「県公文書」
県公文書に民政府は2年前に土地接収の交付をしたと書いてある。米民政府は交付をしてから住民と交渉をしたが住民は反対したので1954年12月に3月11日に強制接収することを最後通告したと考えられる。この最後通告を県公文書はあたかも最初の通知のように見せている。それに反対したのは住民全員ではない。民政府の布令に応じた住民もいた。だから土地接収を宣告してわずか3カ月足らずで強制接収をしたということではない。
「沖縄県公文書」に土地接収された住民がその後どうなったかを書いていない。彼らは住むところがなくて路頭に迷ったのだろうか。いや、そうではなかっただろう。住む家は米民政府が準備していたはずである。私はそのことを子どもの頃に知っている。私は県公文書にある渡具知についての顛末について知っているからだ。というのも、海の近くにあった渡具知が私が住んでいた比謝の隣に移転したからだ。そのことについて説明する。
私が幼稚園生の頃だった。私は読谷村の比謝に住んでいたが、ある日、ブルドーザーが比謝の近くの原野のすすきや木々をなぎ倒して整地していった。整地した土地には家が建てられていった。それが海の近くにあった渡具知の移転先であった。
写真はトリイステイションである。トリイステイションは渡具知、楚辺のを移転させ、大木、古堅のの一部も移転させた広大な通信基地であった。


 写真に写っている畑すべてがトリイステーションである。宇宙衛星時代になる前は畑にはおよそ100基を超す電波塔が立っていた。
古堅小学校の西と南はトリイステーションの金網に囲まれている。私の頃は古堅小中学校であり、9年間今の古堅小学校に通った。小学校の南側には金網の向こうに窓のない巨大なコンクリートの建物があった。その建物が通信基地であり、アジアのすべての情報が集まる場所と聞いた。トリイステーションがアジア一の通信基地であると聞いて目の前にアジア一の通信基地があることを私は内心誇りに思った。

渡具知は左下にあったで、楚辺はトリイビーチあたりにあったと思う。楚辺のは全部写真の左上のほうに移った。渡具知も楚辺も原野を整地して、家を建てたのである。整地する費用や建築の費用を出したのは米民政府であっただろう。その頃の住民は貧しかったから整地して家を建てる費用はなかったはずである。
比謝は渡具知からかなり離れた場所にある。畑に通うには距離が遠くて不便であった。それに渡具知は漁業のであったから比謝の隣にうつったのでは漁業ができない。だから反対する住民も多かったのではないだろうか。近くの古堅に移転する方法もあったが、そうすると広い空地がないので渡具知の住民は分散しなくてはならなかった。全体が移転できるのは比謝の隣の原野しかなかったのである。沖縄はの共同体意識がとても強い。分散するよりはまとまることを選択して比謝の隣に移転することにしたと思う。原野を整地して家をつくった後に移転するまでは一年以上はかかった。「県公文書」では渡具知の土地接収を強引にやったように書いてあるが、事実はそうではなかった。私は確信を持って言える。

米民政府は土地接収の時に強制立ち退きをさせたが、移転先の確保や家をつくる費用は保障したはずである。それに写真で分かるようにトリイステイション内に畑がある。その畑一帯には多くの電波塔が立っていた。米民政府は米軍基地内であっても設備として使っていない土地を畑にすることを許可した。だから電波塔の周囲で畑をつくるのは黙認していた。そのような畑を黙認耕作地という。
嘉手納飛行場内に畑はないが、嘉手納飛行場の北側にある嘉手納弾薬庫は広大な畑地帯がある。
58号線を北に向かって走ると、嘉手納町を過ぎると読谷村であるが、読谷村の58号線の右側は広大な畑地帯である。返還された場所にはファミリーマートやサンエーなどの新しい店舗が並んでいるが、そこを過ぎると延々と畑と緑地帯が続き、家は一軒もない。そこは軍用地の黙認耕作地だからである。軍用地料をもらいながらも畑もできる場所である。ただ、ビニールハウスなどの設備を設置するのは禁じられている。
県は、「田畑をつぶして」と述べているが写真で分かるように黙認耕作地があるように基地建設に必要な場所は田畑を潰しただろうが、米民政府はできるだけ田畑を残すようにした。それが黙認耕作地である。黙認耕作地帯は子どもの頃よく遊んだ場所であり、あの頃の風景が今も残っている場所である。

読谷村では県が述べているような「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を造っていきました」ということはなかった。土地接収は強制であったがの移転先を確保し家もつくった。それは読谷村だけでなくすべての地域で行ったはずである。県が述べているようなことは本当はなかったはずである。
伊佐浜でも楚辺や渡具知のように移転先を米民政府は確保し、新しい家を提供する約束をしたはずである。
米民政府は一方的に強制土地接収をしたのではなく、住民との交渉に応じていたことが史実として残っているのが辺野古がある。

辺野古はどんなに反対しても強制接収されるのなら、条件をつけて受け入れをするということにした。
辺野古民の出した条件は、
Ⅰ 農耕地はできるだけ使用しない。
2 演習による山林利用の制限。
3 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
4 米軍の余剰電力および水道の利用
5 損害の適正保障
6 扶養地の黙認耕作を許可する。
の6項目であった。要求がすべて受け入れらたのではないが、米軍と辺野古区は友好関係になり、キャンプシュワブが建設された。
水道の整備は米民政府の援助で行われた。辺野古の土地造成工事も米民政府が陣頭指揮をとって協力した。米民政府は基地建設のために強制接収をしたが、土地接収通告を出した後に時間をかけて住民側と話し合い住民側の要求を聞きいれていたことが分かる。
米民政府は伊佐浜でも辺野古のように交渉をやり渡具知のように移転先を確保していたはずである。しかし、一部の住民は立ち退くを拒否して居座った。

戦後の沖縄の人々は米軍を戦前の日本軍と重ね合わせていただろうから米軍も恐ろしい存在に見えただろう。米軍に抵抗したらひどい目に合わされると信じていただろうから強制土地接収に対して抵抗運動は起こさなかった。伊佐浜の住民が自然発生的に激しい抵抗運動を起こすことはあり得ないことである。なぜ、伊佐浜は激しい抵抗をやり銃剣とブルドーザーによって強制接収されたのか。それには原因がある。伊佐浜の激しい抵抗運動の裏には沖縄の非合法共産党の存在があった。そして、伊佐浜の激しい抵抗運動は日本共産党が本気で暴力革命を目指していたことに深く関係していた。

1950年(昭和25年)6月6日 にマッカーサーは日本共産党幹部逮捕と日本新聞協会代表に共産党員の追放を勧告して、日本共産党中央委員24名を公職追放した(レッドパージ)。
レッドパージは、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。

米国本国では、上院議員ジョセフ・マッカーシーが、1950年2月「国務省には205人のスパイがいる」と告発した。彼の告発は「マッカーシー旋風」「赤狩り」と呼ばれ、戦中のルーズベルト大統領の側近者の多くが共産主義者として告発され、共産党員や共産党シンパと見られる人々が排除されていった。チャールズ・チャップリンをはじめ優れたハリウッド関係者も多数追放となった。後に大統領となるジョン・F・ケネディなどの多くの民主党員は赤狩りを強く支持した。

1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を停止した。GHQのの日本統括が終わったので、レッドパージはなくなり日本共産党は復活した。朝鮮戦争は続いていた。この時が日本で革命を起こすチャンスであると中国に亡命していた徳田球一と共産党は考えた。そして、1952年から53年にかけて警官殺害も含めて多くの事件を起こした。毛沢東が山村の農民たちを解放していった革命を成功したことを真似て、徳田球一は「山村工作隊」を結成して日本の山村から革命を起こそうと考えた。
伊佐浜の土地接収反対運動は1953年であり、本土の共産党の暴力革命運動と同じ時期である。本土と沖縄であるから関係がないように思えるが、そうではなかった。密接に関係していた。

沖縄は米民政府が統括していたからレッドパージは継続していた。沖縄では共産党は政党して認めなかった。だから、沖縄では共産党を名乗らず人民党を名乗った。瀬長亀次郎は人民党の委員長となり、那覇市長や立法院議員になった。
沖縄には人民党があったから共産党はなかったと思うだろうが、そうではなかった。沖縄に共産党はあった。政党しては認められていないし活動も禁じられていたので非合法共産党として結成した。沖縄に非合法共産党が存在していたのである。予想していなかった事実である。非合法共産党は本土の共産党本部の指示を暗号などを利用して受けていた。 

奄美共産党の働きかけによって生まれた沖縄の非合法共産党については,合法政党沖縄人民党の影に隠れて,公然と語られることは少ない。それは,沖縄人民党自身が米軍から「共産主義者」として弾圧されてきた「反共攻撃」の歴史と重なり合い,人民党幹部が共産党員であることは厳しく秘匿されてきた歴史と関わっている。ようやく最近になって,当事者の一人である国場幸太郎氏が,「現代世界史の中の沖縄」(『現代思想』2000年6月号),「沖縄の50年代と現在」(『情況』2000年8/9月号)などで,なお断片的だが,その存在を語り始めている。
     加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)
沖縄には人民党とは別に非合法共産党が存在していたのだ。このことはほとんどの人が知らないだろう。しかし、非合法共産党が存在していたのは事実である。ネットで調べていくと非合法共産党員として国場幸太郎と言う人物が浮上した。

1952年11月の末党地方委員会は中央から派遣された同志国場幸太郎が持って来た党中央の指導によって,
(1)中央に南方地域特別対策委員会がつくられたこと,
(2)琉球の党組織はこの下におかれること,
(3)現在の党組織とメンバーを正式な正規の手続きがとられるまで暫定的に認めること,
(4)急いで正式な手続を完了する旨の指示を受けた。
 「 金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」
国場幸太郎という人物が共産党中央からの指令書を持ってきた。指令書によって沖縄の非合法共産党は組織づくられ、運動を強化していった。
1954年8月31日付沖縄タイムスは「東大政経部卒業のK君が日共本部から正式党員として潜行、人民党の組織細胞に相当食い入っている…」と報じている。国場幸太郎が共産党員であることは米民政府はすでに知っていた。
国場は、那覇商業高校の教師に内定していたが、取り消されていた。教員になれない国場は建設会社に働きながら、
人民党真和志支部に属し〝表〟の活動をする一方で、非合法共産党の活動をやった。
国場幸太郎という名前は国場組の元社長と同姓同名である。沖縄には国場組の国場幸太郎と共産党員の国場幸太郎が居たのである。国場組の国場幸太郎は有名であり多くの県民が知っているが共産党の国場幸太郎は表で活躍はしていないから無名でありほとんどの県民は知らない。国場幸太郎は1951年に日本への「留学生」として東京大学経済学部に進学している。彼は中央と沖縄の共産党との連絡係りだった。そして1953年沖縄に戻り活動をした。
彼は伊佐浜土地闘争に深く関わっていたことを、「米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争」で語っている。

1955年1月18日、那覇市内の人民党本部にいる私のもとに、全く予想していなかった知らせが届いた。2年前からアメリカ軍の土地接収に反対してきた伊佐浜が土地接収を承諾したというのである。すぐに私はバスに乗って伊佐浜に駆けつけた。私はそれまでに何度も伊佐浜を訪れていて、区民の皆さんとは遠慮なく話し合える間柄になっていた。
ところが、その日、男たちは話すのがつらいのか、伏し目勝ちに顔をそむけて、話に応じてくれない。対照的に婦人たちは、心配な気持ちをそのまま訴えるように話していた。水田の側を流れるせせらぎで洗い物をしている年老いた農婦は、私を見上げる目に涙を浮かべて、「この田んぼが取られるくらいなら、私も一緒に埋めて欲しい」と嘆き、悲しんでいた。また、赤ん坊を胸に抱きしめた農婦が、庭に立ちつくしたまま、「土地接収を承諾してから、男たちは酒を飲んでやけくそになっています。男はそれですまされるかも知れません。しかし、生し子生し出じゃちゃる女や、あねーならぬ(子どもを産み育てる女はそうはしておれない)。」と母親としての気持ちを切々と語っていた。そういう婦人たちの声を聞いて、何とかしなければならないと思い、私は区の幹部の人たちと粘り強く話し合った。その結果、幹部の一人が次のように語った。
「誰だって田んぼを取られることには反対だ。しかし、この13万坪の水田を持っている伊佐(通称伊佐浜)喜友名、新城、安谷屋の4区のうち、他の3区は、〝伊佐浜が反対すると、自分たちの区の軍作業員までも首になる〟とか〝貰える補償も貰えなくなる〟とか、脅かされて、伊佐浜に文句をつけている。それに行政主席や村長なども頼りにならない。もう私たちだけではどうにもならない。」
「米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争」

※伊佐浜は土地接収を承諾したと国場幸太郎は書いてある。承諾したということは米民政府の交渉係に承諾したと伝えたことになる。国場の文章で分かることは、伊佐浜以外の喜友名、新城、安谷屋の3区はすでに承諾していたことである。それに補償ももらえるのである。このままなら「銃剣とブルドーザー」の強制土地接収にはならなかったはずであるが国場が暗躍して状況が変わる。

この話を聞いて、私は、人民党を始め労働組合や教職員会等すべての民主的大衆団体に対するアメリカ占領軍の弾圧が伊佐浜の人たちを如何に深い孤立感に陥れているか、痛切に実感させられた。そこで私は次のように提案した。
「沖縄には皆さんの土地闘争を支援する気持ちを持った人が沢山います。ただ、何をすればよいか分らないので、黙っているだけです。立法院も皆さんが働きかければ、親身になって動くはずです。試みに、私が人民党の大湾議員の他に社大党の議員も連れてきますから、座談会を開いて、皆さんの気持ちを率直に聞いてもらってはどうでしょうか。」
幹部たちは、これまで行政主席や立法院に陳情してきた経験から、いぶかしげだったが、議員が来てくれるなら座談会を持ってもいいということになった。
翌日の早朝、私は社大党の西銘順治・立法院議員を自宅に訪ね、ことの次第を話して、座談会への出席を要請し、承諾を得た。それから伊佐浜とも連絡をとって、1月28日に座談会を持つ段取りをつけた。
ところが、当日は約束の時間になっても議員の姿がなく、伊佐浜の人たちの顔には失望の色がありありと浮かんでいた。私は那覇に取って返して、立法院に行き、個室でためらっている西銘議員の言訳を聞くのもそこそこにして、西銘・大湾両議員と一緒に立法院の公用車で伊佐浜に駆けつけた。
立法院議員が来てくれたということで、伊佐浜の人たちは大変喜び、男も女も殆ど全員が座談会に集まった。そして、伊佐浜の人たちの訴えを聞いて心を動かされた西銘議員は、社大党が全党あげて伊佐浜の土地闘争を支援するよう党内に呼びかけるほか、立法院でも支援決議するように働きかけることを約束した。
西銘議員のその言葉に元気づけられて、伊佐浜区民は土地闘争を今一度建て直す相談を始めた。そこで、土地接収に男は一旦承諾したけれども、女は反対だということで闘いを再構築する運びになった。ここまで話が進むと、「女や戦ぬ先駆(イナグヤイクサヌサチバイ=いざとなると女はたたかいの先頭に立つほど強い)」、「男女同権はアメリカが教えてくれたことではないか」などと冗談も飛び出して、みんな生き生きとなった。

3日後の1月31日、伊佐浜の婦人たちは行動を起こして、行政主席に面会し、土地接収に反対の意思を伝えるとともに、主席が住民の側に立つことを要請した。同じ日、西銘順治は社会大衆党所属の立法院議員である桃原亀郎、大山朝常、平良良松、中里猛らと一緒に伊佐浜を訪れて実情を聴取し、社会大衆党も伊佐浜の土地取り上げ反対闘争に全党を挙げて取り組むことになった。
「米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争」
※正式には伊佐浜は土地接収に応じることになったのである。もし、それを取り消すのなら米民政府と交渉をするべきであった。ところが国場は非合法共産党員である。彼の正体は米民政府に知られているし、伊佐浜の土地闘争に関わっていることも知られている。だから彼は米民政府と交渉する考えは毛頭なかっただろう。沖縄の政治家たちを反対運動に賛成させることが国場ができることであった。だから彼は伊佐浜の主婦たちを行政主席に合わせた。
しかし、主婦たちだけが反対しても伊佐浜全体の反対にはならないし、交渉相手は行政主席ではない。米民政府である。国場は立法議員に伊佐浜土地接収反対に参加するように呼びかけたが、そんなやり方では正式に承諾を取り消すことはできるはずがない。

アメリカ占領軍は、3月11日、いきなり伊佐浜水田地帯の一角で整地作業を始めた。それを見た伊佐浜区民は男も女も総出して、作業現場のパワー・シャベルが空中高く上がった隙を見計らってその下に座り込み、作業を止めさせた。すると隣接するキャンプ(兵営)に待機していた完全武装部隊が出動して来て、銃剣を突きつけ、銃床で殴って、座り込みの伊佐浜区民を退去させた。しかし、作業も中止され、この時はそれですんだ。米軍はどのくらいの抵抗があるか、小手調べしたようである。
強制接収が予定されている7月18日、伊佐浜には早朝から幾百、幾千という人たちが農民の土地闘争の支援に駆けつけた。そのために、その日はアメリカ軍も手を出さなかった。強制接収は、支援の人たちが家に帰って、地元の区民の他は2、300人しか泊り込んでいない深夜に始まった。
午前3時頃、水田地帯の一角から重車両の動く音が聞こえてきた。しかし、真っ暗闇で、その姿は見えない。水田地帯のすぐ側を通っている軍用道路の彼方からも轟々という不気味な音が聞こえてくる。音がだんだん近づいてきた所をよく見ると、武装兵を満載したトラックと、これまた武装兵を両脇に乗せたブルトーザーが、ライトを点けずに、何台も何台も徐行して来るではないか。そして、空がうっすらと白みかける頃には、13万坪の水田地帯はすっかり武装兵に包囲され、ブルトーザーが32戸の住居があるに突入していた。海の方ではドレッジャー(浚渫船)が汽笛を鳴らしながら伊佐浜の海岸に近づいて、海水と一緒に砂を流し込むパイプを水田地帯に向けて繋いでいく。それは戦争さながらの海陸両面作戦で、琉球軍副司令官ジョンソン准将が陣頭に立って指揮をとっていた。
夜が明けた時には、水田地帯の周りに有刺鉄線が張り巡らされ、大勢の作業員が水田の畦を次々と切り崩していた。支援に駆けつけた人たちは武装兵に阻まれて近づくことが出来ず、怒りに震えながらアメリカ軍の仕打ちを見守っているばかりであった。
伊佐浜の区民もこうなっては手の施し用が無く、金網の中に入った32戸の家屋に座り込み、最後の抵抗を示した。それをアメリカ兵たちは銃剣やピストルを突きつけて追い出した後、家屋の取り壊しにかかった。
先ずの入り口にある店の屋根に鶴嘴が打ち込まれた。剥き出しになった梁にロープがかけられ、それをブルトーザーが引っ張って、家は引き倒された。倒れた家の木材等は家財道具もろともブルトーザーで寄せ集め、ダンプカーに積んで、海岸に捨てに行く。このようにして32戸の家屋が次々と取り壊された。水田にはドレッジャーが海底から吸い上げた砂を海水と一緒に流し込み、水田は見る見るうちに砂で埋められていった。
「米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争」

※米軍が整地作業を始めたのは伊佐浜が土地接収を承諾したからである。ところが伊佐浜の住民が整地作業を阻止しようとした。国場は伊佐浜の住民と書いているが、阻止しようとしたのは伊佐浜の一部の住民であっただろう。非合法共産党員も一緒だったかもしれない。彼らを米軍から見たら伊佐浜の住民ではなく暴徒であっただろう。承諾したのに阻止しようとする住民が居たのは米軍にとって予期せぬことであった。作業員の危険を感じた米軍は部隊を出動させて「銃剣を突きつけ、銃床で殴って」座り込みの暴徒たちを退去させたのである。
7月18日には幾千という人たちがやってきた。彼らは国場たちが動員をかけた、教員、公務員、軍や民間の労働者たちである。米軍が彼らを実力で排除のは簡単である、しかし、排除することはしなかった。米軍は民間人を弾圧するのを極力避ける。それが民主主義国家米国の軍隊である。
 米軍は民間人と争うことがないように圧倒的な軍隊を動員し、作業場に侵入しないように有刺鉄線を張り巡らしたのである。作業員はみな沖縄人である。米兵ではない。
伊佐浜の住民が32個の家屋に座り込んだというが、彼らは住民の一部であり代表者ではない。伊佐浜の代表者は土地接収を承諾したのだ。
米民政府は2年前に住民が住んでいる伊佐浜、喜友名、新城、安谷屋の4区の土地を接収することを通達した。移転場所は米民政府が準備し、補償金も出す約束をした。喜友名、新城、安谷屋の3区は承諾した。伊佐浜だけは承諾しなかった。しかし、最終的には承諾した。だから米民政府は家の取り壊しと田んぼの埋め立てを始めたのである。ところが一部の伊佐浜住民が作業現場で座り込み闘争をした。彼らを排除するために米軍が実力行使したことを県は「銃剣とブルドーザー」で強制接収したといっているのである。

国場幸太郎が知られていないのは、彼は1960年に共産党を脱退して東京に移り住み、その後は政治活動をしなかったからである。脱退したのは党の方針に疑問を持ったからである。彼は悩み苦しみ、活動ができない状態になった。彼の異常に気付いた仲間たちが彼を入院させたこともあった。沖縄をさる時に国場は、
「一見してゆるやかなようで、その実は大きなうねりをもって発展しつつある現在の複雑な情勢の下では、旧態依然とした活動のやり方では大衆運動を組織し、前進させることはできなくなっている」
と述べたという。

 伊佐浜の土地は接収されたが、非合法共産党の反対運動は成功したと言える。その後伊佐浜の土地は『銃剣とブルドーザー』で強制接収されたと宣伝して反土地運動が島ぐるみ闘争に発展したからである。
しかし、島ぐるみ土地闘争は衰退していった。そのきっかけをつくったのが辺野古である。米軍基地を受け入れたことで基地経済で辺野古の経済は空前の活況になる。五年間で辺野古の人口は4倍になり、多くの青年男女が、建設工事、PX(売店)、クラブ、メスホール(食堂)の職員として従事するようになり、彼らの給料は民間会社や地方公務員よりも高く、いわゆる軍作業の人気が高まっていった。辺野古の驚異的な発展の噂はまたたく間に県内に広がり、経済発展を望んで米軍基地を受け入れる村がどんどん増えていった。そのために土地闘争は衰退していった。
戦後人口増加率が一番高いのが宜野湾市である。土地の多くを接収された宜野湾市であったが基地経済の恩恵を一番受けたのも宜野湾市であった。そのことを住民が実感できたのは60年代からである。
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45年を振り返ってのアジアに対する私の感想



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45年を振り返ってのアジアに対する私の感想
1972年(昭和47年)5月15日に祖国復帰してから今日で45年になった。45年前の沖縄と現在の沖縄を比較する記事が沖縄だけでなく本土のマスコミも多く掲載した。記事を読みながら、
「復帰45年かあ」
と思いはしたが、私の脳裏を駆け巡ったのは沖縄のことではなくてヨーロッパやアジアの変化のことだった。特にアジアについては感慨深いものがある。それもいい意味で。
 アジアは変わった。45年前は、中国、北朝鮮は社会主義国家であり、韓国、台湾、フィリピンは軍事独裁国家だった。カンボジアはシヌアーク国王による王国であったが内戦状態になった。米国は社会主義国家の拡大を抑止するために民主主義国家ではなく軍事独裁国家であった韓国、南ベトナム、フィリピンを軍事支援していた。アジアの議会制民主主義国家は日本だけであった。
あの頃は社会主義国家中国や北朝鮮の情報はほとんど入ってなかった。だから中国や北朝鮮の社会がどういう状態であったかはほとんど知らなかった。しかし、社会主義国家のほうが労働者を搾取する資本主義国家米国や日本よりはいいと考える人たちは中国や北朝鮮にあこがれていた。
45年前は社会主義国家と軍事独裁国家や米国との対立があり、ベトナム戦争、カンボジア紛争、フィリピンの共産グループのゲリラ戦など戦争が絶えないアジアだった。
ベトナム戦争では米国が負けた。世界一の経済大国であり、世界最強の軍隊でありながらベトナムでは負けてベトナムから引き上げた。ベトナム戦争は民主主義国家の弱点をさらけ出した戦争であった。民主主義国家は他国に軍事侵略をして搾取することをしない。米国は南ベトナムから搾取をしなかった。戦費はすべて米国のお金で賄った。そのために戦争が長引くと国家財政が悪化した。経済も悪化し、ドルの価値は低下し、経済危機に襲われた。経済危機から逃れるために米国はベトナムから引き上げた。軍事大国てあっても経済危機には勝てずベトナム戦争に敗北した米国であった。米軍は引き上げて、南ベトナムは北ベトナムに占領された。アジアでは社会主義が増大していくのではないかと思えたのがベトナム戦争であった。
私はベトナム戦争では南ベトナムを支援している米国に賛成も反対もできなかった。南ベトナムが民主主義国家であったら米国の支援に賛成していただろう。しかし、南ベトナムは軍事独裁国家であった。軍事独裁国家と社会主義国家を比べると社会主義国家がいいかもしれないと言う気持ちがあったから、南ベトナムを支援している米国に賛成する気はなかった。しかし、北ベトナムに賛同する気持ちもなかった。

45年前のアジアは日本以外の国は社会主義国家か軍事独裁国家であり、私が支持できる国はなかった。独裁国家が連なっているアジアの政情は不安定で、未来が見通せなかった。45年前はそんな時代だった。
復帰から45年後の今は韓国、台湾、フィリピンは議会制民主主義国家になり、中国は市場経済を導入して世界2位の経済大国になった。45年前に比べれば豊かで平和になったアジアである。
 
 韓国では大統領が罷免され、フィリピンのドゥテルテ大統領は麻薬撲滅を宣言して麻薬の売人や使用の疑いのある者を警察や自警団が射殺することを許可して、今までに8000人も射殺した。そんな状況を見ればまだまだ豊かで平和なアジアになったとは言えないが、45年前のような戦争や内紛はないからあの時代に比べたら平和で豊かになったと言える。北朝鮮は気になるが、もう、45年前のような戦争はアジアでは起こらないだろう。

 議会制民主主義になれば経済発展を優先する。フィリピンでは麻薬撲滅のために警察や自警団が多くの麻薬関係者を殺害しているが、実は麻薬も経済効果がある。だから、麻薬売買を撲滅すればフィリピンの経済は悪化する。ドゥテルテ大統領は麻薬撲滅を掲げると同時に経済発展を目指して、色々な政策をやっている。
 中国やベトナムと領海争いをしている南沙諸島を共同開発するのを両国に提案したのはドゥテルテ大統領である。中国とは対立ではなく経済協力政策を仕掛けている。
 ベトナム戦争では殺し合いをしたが、今は経済発展のために米国と仲良くしようとしているのが社会主義国家ベトナムである。中国も一帯一路政策で経済発展を目指している。

 アジアの時代の流れは経済発展へと向かっている。経済発展を阻害するのが武力争いである。これからのアジアは武力争いについてはお互いに押さえる努力をやり、経済発展を目指した国々の連携によって平和なアジアが築かれていくと思う。そうあってほしい。
 45年を振り返ってのアジアに対する私の感想である。


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沖縄の米軍基地は全国の70.6%ではない。20%だ。



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沖縄の米軍基地は全国の70.6%ではない。20%だ。
沖縄にある米軍基地は全国の70.6%というのは専用基地であって米軍基地全部ではない。米軍は自衛隊と共用している基地もある。専用・共用合わせると沖縄理米軍基地は全体の22.68%である。北部の4000ヘクタールの米軍用地が返還されたから20%くらいになった。

全国の共用・専用の米軍基地(千㎡)

北海道 344,601 33.55%
沖縄県 232,933 22.68%
全国計 1,027,049

 実は共用を含めると北海道33.55%、沖縄県が22.68%だから北海道の方が広い。もし、この事実が広まると沖縄の米軍基地問題の深刻さが軽くなってしまう。そうならないために琉球新報は専用と共用の違いを次のように説明する
「米軍専用施設は米軍が基地の排他的管理権を持ち、その運用で日本の法制度が適用除外される特権が認められているが、共用する自衛隊基地は日本の法律が適用され、米軍がそこを一時利用する場合にも、基本的に日本の管理権に沿った対応となるから「米軍基地」と「自衛隊基地」では大きな違いがある」

このように大きな違いを根拠にして新報は共用基地を除外して専用基地のみを発表して沖縄の米軍基地は全国の70%以上占めていて米軍基地が沖縄に集中していることを強調している。
 琉球新報は、共用基地を除外して専用基地のみを発表するのは「沖縄から米軍基地を撤去させるために、日本のマスコミが情報操作をしているのでしょう」と、インターネット上で共有(リツイート)されたことに対しての反論として共用と専用の違いを述べた。しかし、新報の反論も「操作」を目的に反論したものである。
共用基地であっても米軍には日米地位協定が適用されているから行動が専用に比べて制限されるということはない。米軍は自由に行動できる。本当は新報が強調する法的な違いはあってないようなものである。
新報は法的なことを問題にしているが、共用基地で米軍がなにを行っているかを問題にしていない。本当の問題は共用基地で米軍はなにをやっているかが問題である。
共産党の安保廃棄全国委員会のブログには共用基地で米軍がなにをやっているかを詳しく説明している。

「北海道の米軍基地は現在18か所、面積では全国第一位となっています。米軍専用基地は、『キャンプ千歳』の1か所で、残りはすべて地位協定2条4項bによる共同使用基地です。
沖縄の県道104号越えの実弾射撃訓練演習が移転された矢臼別演習場は、日本で最大規模の自衛隊演習場で、米軍はこの演習場を使って、沖縄ではできなかった実弾射撃訓練を繰り広げてきました。北海道の中規模演習場もすべて共同使用基地となりました」

 米軍が北海道の共用基地で行っているのは実弾射撃訓練である。沖縄ので大きな基地問題の一つとして取り上げられるのはこの射撃訓練である。最近恩納村の安富祖ダム工事現場で射撃訓練の流れ弾が見つかって大問題になったが、北海道では沖縄より激しい射撃訓練をやっている。
 また、航空自衛隊千歳航空共用基地では嘉手納基地所属のF15戦闘機の「訓練移転」で激しい訓練をおこなっている。
 本土の共用基地では沖縄の訓練を移して、沖縄より激しい訓練を行っているのだ。琉球新報はこの事実を隠して法の問題に転換している。
 米軍基地で問題になるのは基地被害である。基地被害は訓練で生じる騒音や事故であり、米兵による事件、事故である。設備が問題になることはない。浦添市の国道58線沿いにキャンプ・キンザがあるが、キャンプ・キンザは倉庫であるから訓練は行わない。だから騒音も事故ない。静かである。キャンプ・キンザが問題になったことはない。

 新報は共用基地の激しい訓練を隠して法的に専用基地とは違うことを強調しているが、共用基地も専用基地と同じである。そのことを沖縄より大きい米軍基地のある北海道について共産党の安保廃棄全国委員会のブログでは次のように述べている。
「北海道の米軍基地はこれまで、北端の稚内米軍基地など、アメリカのソ連『封じ込め』戦略の一翼を担ってきましたが、ソ連の崩壊後、これらの基地は自衛隊基地に返還されました。しかし、米軍は、矢臼別演習場の恒常的使用や小樽港、函館港などへの米空母、米軍艦船の寄港など米軍態勢の維持・強化をすすめています」
このように名称は共用施設であっても米軍は専用施設と同じように自由に使い強化しているのである。沖縄の米軍基地は本当は全国の70.6%ではなく20%である。
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軍用地料1000億円、農業生産額935億円という現実

軍用地料1000億円、農業生産額935億円という現実
米軍基地経済は2000億円であり、沖縄県のGDPはは4兆1749億円であるから米軍基地がGDPに占める割合はたった4.8%しかない。沖縄経済が基地に依存しているというの間違いである。むしろ基地が無くなれば土地の有効利用と市街地の発展によって、経済が拡大するだろうと翁長知事や沖縄2紙や識者は言う。翁長知事は「米軍基地は経済発展の阻害である」と言い。沖縄の経済発展のためにも米軍基地はないほうがいいと言っている。
一方観光は平成26年度5,341億7,200万円であり沖縄経済に大きく貢献しており、沖縄経済をけん引していると言う。
基地経済は観光の半分以下である。米軍基地は経済でも沖縄に貢献していないから、基地は不要であるかも知れないと思ってしまうが。そうだろうか。ちょっと待てと言いたい。基地経済は4.8%であるが観光は何%なのか。実は沖縄2紙は基地経済のGDP比はよく出すが観光経済のGDPは滅多に出さない。計算機で出すのは簡単だから出してみよう。
観光のGDP比は12.8%となった。観光でさえもわずか12.8%なのだ。基地経済は沖縄経済のトップを占める観光経済の37.5%を占めているのだから決して低いとは言えない。むしろ高いと言えるのではないか。
実は基地経済が沖縄経済に大きく占めていることがすぐに分かる方法がある。それは農業生産と比べることである。実は基地経済と観光は何度も比べたりするが農業生産額と比べたことは一度もない。
沖縄の戦前の産業は農業中心であった。農業以外の産業はほとんどなかった。戦後も基地経済や観光以外の産業で頭に浮かぶのは農業である。
琉球新報 は5月14日(日)に「日本復帰あす45年 沖縄県経済、浮沈越え」のタイトルで復帰した1973年と2015年度のGDPについて観光と農業を比較している。
県内総生産(実質、支出側)GDPは、復帰時に6057億円だったのが2014年度には4兆1749億円と約6・9倍も拡大した。入域観光客はこの間56万人から876万人となった。人数については記しているが、なぜか収入は記していない。

農業の場合は果実が73年の27億円から15年には57億円へ伸びた。 キクを中心とした花卉の栽培も80年代以降急速に伸び、15年の産出額は107億円となった。復帰時に農業産出額の3分の1近くを占めたサトウキビは85年に374億円まで伸びたものの、農家の高齢化が進み15年には162億円に減った。パイナップルも、90年の缶詰の輸入自由化を受け73年の26億円から15年には14億円に減った。
そして、農業の総生産額は1973年の451億円から2015年度には935億円へ倍増したという。しかし、倍増したといっても935億円である。実は米軍用地料金は1000億円である。農業生産額は軍用地料よりも低いのである。農業生産額のGDP比率はわずか2,2%である。基地経済が4.8%で沖縄経済の発展を阻害しているというなら農業のほうがもっと経済発展を阻害していることになる。そんな理屈になってしまう。だから、翁長知事や沖縄2紙は基地経済と農業を比べることは絶対にしない。比べると基地撤去するより農業をやめたほうがいいと言われるからだ。

農業生産額を見れば戦前の沖縄がとても貧しかったことが分かると思う。戦前の沖縄の人口は60万人にはなれなかったし、沖縄の人々は本土や海外への移民をしないと生きていけなかった。
もし、戦後も農業中心の沖縄であったら、人口は戦前の半分で30万人くらいであっただろう。実は奄美大島は人口が戦前の半分以下になっている。それから予想すると30万人はあり得ることである。110万人が沖縄から消えることになる。観光があるから人口が30万人にはならないと思う。ただ、基地経済が沖縄経済に占める割合はまだ高いと言える。
割合が高いと言っても米軍基地は共産党一党独裁中国を抑止するために存在しているのだから経済問題にしてはいけない。
沖縄は観光以外の産業の発展を真剣に考えなければならないと思う。
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県の「沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」は嘘だらけである。徹底して反論する



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新発売・違法行為を繰り返す沖縄革新に未来はあるか 定価1404円(税込み)

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県の「沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」は嘘だらけである。徹底して反論する。
沖縄県知事公室基地対策課から沖縄の米軍基地の疑問を分かりやすく解説するという「沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」が発表された。

 最初に普天間飛行場の上空写真があり、
「米軍基地のホント?うそ!?」
「何も無かったところに米軍基地ができたの?」
の文言を並べてある。
第1章:沖縄と米軍基地の歴史的側面
Q1沖縄の米軍基地ができた歴史的背景を教えてください。
Q2何もなかったところに米軍基地ができて、その周りに人が住んだのではないですか。
Q3米軍統治下における沖縄の状況について教えてください。
第2章:米軍基地の現状と日米地位協定
Q4沖縄にはどれだけの米軍基地があるのですか。
Q5沖縄本島中南部にある米軍基地の状況を教えてください。
Q6沖縄の軍用地の特徴を教えてください。
Q7米軍基地に起因する事件や事故について教えてくだ
Q8米軍に起因する騒音問題や環境問題につ
いて教えてください。
Q9日米地位協定とは何ですか。また課題を
教えてください。
Q10日米地位協定の改定は難しいのではないですか。

第3章:米軍基地と沖縄県の経済、財政
Q11沖縄県の経済は米軍基地経済に大きく依存しているのではないですか。
Q12米軍基地がなくなったら沖縄の経済に悪影響があるのではないですか。
Q13軍用地主は大金持ちと聞きましたが本当で
すか。
Q14米軍基地と引き替えに沖縄振興が図られて
いるのではないですか。
Q15内閣府沖縄担当部局予算(沖縄振興予算)は沖縄県にだけ3,000億円上乗せされているので、米軍基地を負担するのは当然ではないですか。
第4章:辺野古新基地建設問題
  ( 普天間飛行場移設問題)
Q16なぜ普天間飛行場を辺野古へ移設することに反対なのですか。
Q17沖縄県は辺野古新基地建設に反対していますが、日米安全保障体制に反対なのですか。
Q18沖縄県が、辺野古への移設を反対すると、普天間飛行場の危険が放置されるのではないですか。
Q19辺野古・大浦湾の自然環境について教えて下さい。
Q20辺野古・大浦湾の5,800種以上の生物のうち、 約1,300種は分類されていない生物であり、その多くは新種の可能性があるというのは本当ですか。
Q21沖縄県は最高裁判所で敗訴したのだから、辺野古移設を認めるべきではないのですか。

Q21までの県の回答はひどい。県の回答にできるだけ詳しく反論していこうと思っている。
Q1沖縄の米軍基地ができた歴史的背景を教えてください。
豊かな自然と独特な文化を有する沖縄は、太平洋戦争において、史上まれにみる熾烈な地上戦が行われ、「鉄の暴風」と呼ばれたほどのすさまじい爆弾投下と砲撃により、緑豊かな島々は焦土と化しました。 沖縄に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い、次々と新しい基地を建設していきました。住民は土地を有無を言わさず奪われました。


県は戦前の沖縄を「豊かな自然と独特な文化を有する」と述べて、沖縄の生活は豊かであったようなイメージを与えている。自然は豊かであったかも知れないが沖縄県民の生活は非常に貧しかった。沖縄の土地は養分の少ない赤土である。小さい島なので大きい川がなく、水資源も乏しく米作に向いていなかった。それに夏には暴風がやってくるから農作物の被害は大きかった。
戦前の沖縄の人口は60万人以上になったことはない。なれなかった現実があった。

沖縄の主食は米ではなかった。さつま芋だった。さつま芋は赤土に育ち暴風の被害も少なかったからだ。
戦前の沖縄の産業は農業であった。政府の方針で換金作物であるさとうきびを主につくっていた。さとうきび栽培で成金になる農家もあった。しかし、それが一転して沖縄を貧困に追い込むことになる。原因は世界恐慌である。

世界恐慌とソテツ地獄
日露戦争後の不況にあえいでいた日本は、1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦によって一時撤退したヨーロッパ列強にかわって、アジア市場を独占するようになった。軍需品や鉱産物、薬品関係などの大量輸出によって景気は回復し、日本の工業も発達した。沖縄もこの大戦景気の恩恵を受け、特産物の砂糖で利益をあげる「砂糖成金」が生まれるほどであった。
第一次大戦が終わって西欧勢力が再びアジア市場に進出してくると、日本の輸出は急速に減少し、国内では過剰生産によるいわゆる戦後恐慌におちいった。砂糖の価格は下落し、深刻な不況の波が押し寄せてきました。
さらに、1923(大正12)年におこった関東大震災や、1929(昭和4)年におこった世界恐慌により、「昭和恐慌」とよばれる慢性的な不況が日本をはじめ沖縄の人々の生活を襲った。
大正末期から昭和初期にかけておこった恐慌は、沖縄では「ソテツ地獄」とよんいる。当時の沖縄の人口の7割が暮していた農村部では、極度の不況のため米はおろか芋さえも口にできず、多くの農民が野生の蘇鉄を食糧にした。毒性を持つ蘇鉄は、調理法をあやまると死の危険性があるにもかかわらず、その実や幹で飢えをしのぐほかないほど、農村は疲弊しきっていた。
しかし、このような県民の貧窮にもかかわらず国税は徴収され、さらに台風や干ばつなどが追い打ちをかけたため、県民の暮らしは文字通り地獄の様相を呈していった。農家では身売りが公然とおこなわれ、さらには海外への移民や本土への出稼ぎが増えていった。
このように戦前の沖縄は極貧であった。人口が60万人以上になることはなかったことが理解できると思う。戦前は極貧であり60万人の人口にならなかったことを明らかにすれば、戦後の沖縄の人口が60万人をはるかに超え、祖国復帰前には94万人になった原因が米軍基地経済のお蔭であることを認めなければならない。しかし、県が沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」を発表した目的は沖縄に米軍基地は必要ないことを主張するのが目的である。戦前の極貧を明らかにすれば県が主張ができなくなる。そうならないために県は戦前の沖縄の極貧を隠したのである。そして、戦前は「豊かな自然」という表現を使ってあたかも戦前の沖縄は豊かな生活を送っていたように見せかけて深刻な沖縄の極貧を隠したのである。

県は戦時中について「沖縄に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い、次々と新しい基地を建設していきました。住民は土地を有無を言わさず奪われました」と述べている。「強制隔離」の表現では住民は隔離されなくてもいいのに米軍は強制的に隔離したとイメージになり、捕虜収容所での住民は不自由で満足な食事も与えられなかったと思ってしまう。
しかし、事実は違っていた。沖縄は全域が戦場であった。日本兵は山間や住宅地など至る所に潜んで米軍を急襲した。また、住民の服装をして米軍を襲ったこともあった。米軍にとって日本兵と住民の区別ができなかったので手を上げて降伏をしない住民を銃撃するケースも多かった。
墓に隠れて犠牲になった住民である。



上の写真は医療班員にとともに国吉大地方面を駆け抜けている時に射殺された女性である。彼女は野戦病院に動員された女学生の従軍看護婦か、女子義勇隊とよばれ防衛召集された女子青年団であるだろう。カバンには自殺用の手投げ弾、小銃弾、包帯などの衛生材料が入っていた。(6月12日)
下の写真は海兵師団の拙攻に射殺された女子狙撃兵である。
日本軍は住民に手りゅう弾を2個渡し、米兵にあったら一個は米兵に投げ、残りの一個で自殺するように指導していた。住民も兵士にしたのが沖縄戦であった。



足腰不自由で逃げ遅れた老女であるが、老女でも逃げようとすれば米兵は射殺した。那覇市(5月)



住宅地でも野山でも戦場であった沖縄には住民にとって安全な場所はなかった。唯一安全であったのが捕虜収容所である。
沖縄民謡に「PW無常」という歌がある。PWというのは Prisoner of War の略で戦争捕虜のことである。戦争に負けて捕虜になってしまった惨めな気持ちを歌った民謡である。子供の頃に何度も聞いて捕虜生活は惨めだっただろうと思っていたが、この歌は戦争に勝つつもりでいたのに負けてしまったことへの気持ちを歌ったものであり、捕虜収容所の生活について歌ったものではなかった。

米国は民主主義国家である。軍国主義国家ではない。県は米軍は「住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い」と述べて米軍が県民を弾圧したように述べているが事実は違う。沖縄戦で民間人が10万人も殺されたのは無差別の艦砲射撃や爆撃もあったが、地上戦は激戦であり、日本兵と民間人の区別ができないために多くの民間人が犠牲になった。米軍にとって住民の犠牲者を出さないためには収容所に入れる必要があったのである。

戦時中の捕虜収容所

米軍軍政府は上陸早々、各収容所内の教育者をピックアップして、各地区に学校を建てさせた。開校式には地区隊長が出席し、祝辞を読んだ。
写真はコザ第二小学校の写真である。上は「シッカリベンキョウシマショウ」と訓示するケラー少佐。中はコザの教育長兼米軍政府教育顧問の兼島ヨウシキ氏と真玉橋キョウセイ先生。下は開校祝賀運動会。



髙江洲小学校の様子。同行の設立は4月5日である。米軍が嘉手納、読谷に上陸したのが4月1日であるから上陸から6日目の設立である。米軍が泡瀬方面に進攻したのは4月3日であったから、捕虜にすると同時に米軍は学校をつくったことになる。
校舎は仲喜州国民学校の木造校舎を利用した。教員64名、児童生徒は2.414名だった。


米軍は戦争孤児収容施設もつくった。今の沖縄市室川に200人前後の孤児が収容されていた。戦前女子師範だった大山盛康氏が校長。姫ゆり部隊生き残り5人と當山菊さんの6人が先生であった。


米軍は戦争中に安全な場所である捕虜収容所に学校をつくったのである。この写真は戦争後の写真ではない。激しい戦争が行われている最中の捕虜収容所の写真である。

米軍は学校をつくっただけではない。各収容所には必ず食糧配達所と病院を設置した。
6月29日に撮った写真である。マリー・ティーラーはサンフランシスコ生まれで、11歳の時に沖縄に帰ってきたため英語がペラペラであった。軍医は大助かりだった。


上・ハブに咬まれた少年を治療している。中・収容所の前で明るい笑顔を見せる看護婦たち(6月22日)。下・人手の足りない診療所では彼女たちの存在は貴重だった。


彼ら医療関係者ほど住民に感謝されたアメリカーは居ない。彼らは人類愛を遺憾なく発揮した。北部の田井等で骨折の治療。

 米軍は各地のキャンプ近くには必ず糧秣倉庫をつくり、食糧を集積した。これら野戦用の食料は1946年の5月
までは、全部住民に配給した。各収容所では主食の足しに芋が増産された。
配給を適切に行うためにカードを支給した。上はカードを支給している写真である。下は戦火をまぬかれた誰かのタル詰めの黒糖も配給の対象になった。



南部から移動してきた人々の村。芋の配給。


5万人に増えた田井等
 米軍が名護、羽地方面を占領したのが4月7日であった。羽地の真喜屋と今帰仁に疎開していたのが首里市民であったが、元気な者は民とともに逃げ込んだ。しかし、足の弱い老人5名が真喜屋の分校に残った。日本軍が襲撃するということでこの老人たちを田井等の空き家に移したのが収容所の初めであった。4月の12、3日頃のことである。
 やがて、毎日山から下りてくる人々でふくれあがり、9月25日には55、266人になった。捕虜収容所は自由であり食糧もあり、看護も充実していたので収容所に入る住民は増えていった。

 戦争中は軍事優先であり、基地をつくるために土地を接収するのは当然である。県は「土地の強制接収を行い」と述べているが、住民は避難していて住民が住んでいない場所に基地をつくった。そして、住民が安心して生活できる場所を米軍は確保した。「住民は土地を有無を言わさず奪われました」というのは間違っている。
 県は戦時中の事実を正確には述べていない。
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TPP早期発効、11か国結束…米復帰も準備へ



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中国の一帯一路戦略に対抗する
TPP早期発効、11か国結束…米復帰も準備へ
 米国を除く環太平洋経済連携協定(TPP)の署名国11か国が、今月21日にベトナムで開く閣僚会合の共同声明の原案が12日、明らかになった。
 「TPPを出来る限り早く発効させることを追求する」とし、早期発効に向けて結束する姿勢を打ち出す。11月までに米国がTPPに復帰しやすい参加手続きを準備することでも合意する見通しだ。
 TPPを巡っては、巨大市場を抱える米国を除く発効には消極的な国もある。このため、原案では、米国を念頭に「原加盟国の参加手続きの早期化など、付随手続きの議論を開始する」とした。将来米国が復帰しやすい仕組みを事前に整えておく狙いがある。
 こうした手続きの検討については、TPP参加国も出席する11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議の前に、「(事務レベルの)作業を終えるよう求める」とした。

 中国は共産党が巨大ブルジョアジーである。共産党中心の世界経済をつくるために一帯一路戦略を進めている。チャイナマネーによってラオスは中国に支配されている。第2第3のラオスが一帯一路戦略によって生まれ、中国支配が拡大していくだろう。

一帯一路に流れ込むチャイナマネー
「現代版シルクロード」の一環として、現在、東南アジアのラオスでは、中国主導による大規模な経済開発が進められています。人口700万人に満たない小国ラオスに、大量の「チャイナマネー」が流れ込んでいます。
中国と国境を接するラオスの町、ボーテン。
「一帯一路」構想によって、建設ラッシュが進んでいる。
再開発される土地は、34平方km、東京ドームおよそ730個分。
物流センターや国際金融センター、雲南省とバンコクを結ぶ高速鉄道の駅などが建設されている。
その開発の中心を担っているのはラオスではなく、中国の企業。
開発業者は「ラオスの指導者は、『ボーテンは小香港、あるいは深センのようだ』と言っていた」と話した。
ラオスの町だというのに、住民の多くは中華系で、通りには中国語の看板があふれている。
使われている標準時間も、北京時間。
さらに、町は免税特区に指定されていて、免税店には、連日、中国人観光客が「爆買い」にやってくる。
商品の値段は人民元で書かれ、支払いも、ほとんどが人民元。
キャバレーも中国人向けにつくられ、今後も、さまざまな娯楽施設が建設されることになっている。
町が活気づく一方、複雑な思いを抱える人もいる。
もともとの住民が、数km先の村に立ち退きさせられた。
住民は、「以前の場所は、中国人がたくさん買いに来たが、今は、みんな通り過ぎるだけです」、「ボーテンは両親の故郷なので、悲しくて腹立たしいです」などと話した。
初めてのサミットが開かれる「一帯一路」構想。
中国は、地域での影響力の拡大を狙い、ラオスなど途上国の住民の生活を変えながら、開発を続けている。

中国の野望を食い止めて日本・アジアの民主化と経済発展のためにTPPはなくてはならない。
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タイトルは「瀬嵩沖で文化財調査 県と名護市、辺野古問題共有したい」だが本文には「共有」の一語もない。新報のあせりか

タイトルは「瀬嵩沖で文化財調査 県と名護市、辺野古問題共有したい」だが本文には「共有」の一語もない。新報のあせりか

【琉球新報の5月12日 のネット記事に「「瀬嵩沖で文化財調査 県と名護市、辺野古問題共有したい」のタイトルがあった。気になったので本文を開いた。

【辺野古問題取材班】米軍普天間飛行場移設に伴う名護市辺野古への新基地建設で、キャンプ・シュワブ沿岸を埋め立てる「K9護岸」工事現場では12日午前、砕石をクレーンでつり上げて波打ち際に投下する作業が続いた。海域では県と名護市による文化財調査が行われた。

 文化財の潜水調査は瀬嵩側の海域で行われた。4月中旬にはK9護岸の工事現場沖で実施されたが、遺物は見つかっていない。今回の調査は、連休で一時中断していたが、10日から再開した。

 遺跡認定を受けていない場所で遺物が密集して発見された場合は文化財保護法により、工事を一時中断して遺跡の有無を確認する調査が必要になる。

 新報の「辺野古問題取材班は「遺物が密集して発見された場合」は「工事を一時中断して遺跡の有無を確認する調査が必要になる」と書いてあるが、それは文化財保護法があるから当然のことであり、県と名護市が辺野古問題を共有しすることとは関係がない。それにK9護岸の工事現場沖で実施されたが、遺物は見つかっていないのが事実である。新報の記事には県と名護市、辺野古問題共有したいという文章は見当たらない。事実にそくわないタイトルにしたのは辺野古の工事を中断させるために異物が見つかってほしいと切に思い込んでいる辺野古問題取材班の気持ちが書かせたのだろう。辺野古建設反対運動を盛り立てようとしていることがみえみえである。

 記事には写真も貼ってあった。「県と名護市、辺野古問題共有したい」というタイトルから予想して弁舌を振るっているのは調査団員なのかと思ったが違っていた。
 
彼は「島ぐるみ会議と神奈 川を結ぶ会」の仲宗根保共同代表である。本土からやってきた活動家である。記事には結ぶ会が11人がキャンプ・シュワブの座り込みに参加したという。写真の人数は12人である。記事には市民約40人が座り込みと書いてあるが、せいぜい20人くらいだろう。とすると座り込みの半分は本土からやってきた連中である。
 辺野古基地建設反対運動の母体は共産党、社民党、革マル派、中核派などの全国組織である。反対運動は山城議長が目立っているから彼を中心に反対運動を展開していると思ったら間違いである。北上田毅をはじめ多くの幹部が沖縄にやってきて、彼らが実質的な裏のリーダーとなっている。彼らの上には本土の幹部がいる。本土の幹部の指示に従って沖縄の幹部は活動している。だから粘り強い反対運動を続けることができる。沖縄県民を中心とした反対運動と考えるのは間違いである。
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