沖縄教販直営店で販売

夕方、沖縄教販から電話があり、沖縄教販の7直営店で販売すると連絡してきた。
新参者の本だから、売れるか売れないか試験をしてみるつもりのようだ。
それはその通りだ。
内容がかたいから売れないだろうと考えているかもしれない。
そう思われても仕方のないこと。

金曜日に本を持っていくことになった。
来週には沖縄教販の店に並ぶと思う。
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今日、沖縄教販の審判が下る

「沖縄に内なる民主主義はあるか」を当分の間は、狼魔人日記の江崎さんがネット販売をしてくれることになりました。申し込みはメールでできます。

ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、
「沖縄に内なる民主主義があるか」の本を
沖縄教販が取り扱うかどうかを審査する日だ。
普通なら、
本の内容が法律に違反しているかとうかを
審査の基準にすると思うのだが、
担当者はそういう言い方はしなかった。

来週の火曜日に審査会があるので、
沖縄教販で取り扱うかどうかの判断を下すと話した。

私の本を読んだ担当者がそう話したのだ。
なんの問題もありませんとも、
問題がありますとも言わなかった。
不気味である

今日、審判が下る。
たかが、本の販売に、
審判が下るという言い方は変であるが、
審査会で審査をするというのだから、
審判が下るという言い方になってしまう。

正直に言わせてもらうと、
沖縄教販が取り扱わないのなら、
それでもいい、
別の販売方法を見つければいいじゃないかと思っている。

トーハンもあるし、
ジュンク堂などの書店と直接交渉する方法もある。
ポスターは作ってあるから、
ポスターを貼って、
ビデオ店など書店以外の店で売る方法もある。
路上販売もある。
路上で尺八を吹きながら売るというのも
おもしろいじゃないか。
でも、尺八を吹いていると、
CDの販売と勘違いされるかな。
まあ、
とにかく、
本を売る方法は色々ある。

沖縄教販の審査結果を、
気楽な気持ちで待つとしよう。
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沖縄教販の本の審査は来週の火曜日

本ができたからといって
すぐに書店に並ぶわけではない。

本の取り次ぎ店(卸や)に依頼しなければならない。
沖縄教販にお願いしようと思い電話をした。
依頼すればすぐにOKが出ると思っていたら、
そうではなかった。
本の審査会があり、審査会で了承されないと、
取り扱うことができないらしい。

淡々とした担当者の声に、
出版社に自費出版を断られたことが
想いだされ、
不安になる。

さっそく、メール便で本を送った。
二日後に、
来週の火曜日に審査会があるので、
私の本を取り扱うどうかを審査すると、
電話があった。
担当者の淡々とした話に、
不安をおぼえる。

断られるかも知れないという
思いが次第に強くなっていく。

自費出版を断られたことが
トラウマになっているようだ。

沖縄教販に断られたらどうしよう。
いしだ文栄堂に依頼するか。
それとも
沖縄トーハンに依頼するか
それとも
取り次ぎ店に依頼するのはあきらめて
ジュンク堂や
宮脇書店と
直接交渉をしようか
などと考えている。

大した本でもないのに、
出版会社は
どうして自費出版を断ったのだろう。
今でも信じられない。


「沖縄に内なる民主主義はあるか」を当分の間は、狼魔人日記の江崎さんがネット販売をしてくれることになりました。申し込みはメールでやってください。

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メール ezaki0222@ybb.ne.jp
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本ができあがった





色々あったが、やっとのことで本が仕上がった。
なかなかかっこいい表紙だ。
しかし、書店にすぐ並ぶわけではない。
沖縄教販さんに本を送った。私の本を取り扱うかどうかは「審査」して決めるそうだ。

私としては大した内容の本とは思わないが、なにしろ三出版社に自費出版を断られた本だ。もしかすると取り扱ってくれないかもしれないという不安がないと言えば嘘になる。

オスプレイやら普天間飛行場やら辺野古やらで盛り上がっている最中にこの本が出る。タイムリーなのかそれとも反発を買うのか。楽しみだ。

書店にこの本が並んだら、徹底して沖縄問題を追及していくつもりだ。
よろしく。
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元県知事大田氏の基地返還論は沖縄県破産論である

 無名人が短期間で有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやぃ方法である。
私は無名人である。私は有名人になりたい。だから沖縄の有名にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた末に、一番最初にかみつくのは太田昌秀氏にした。

なにしろ太田昌秀氏は沖縄で超がつく有名人だ。太田昌秀氏にかみつけば私は有名になれるだろう。
こんな私の思いつきを、安直なやり方だと笑う者がいるだろう。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。えげつないやり方だと軽蔑する者がいるだろう。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。

 太田昌秀氏をはじめ多くの沖縄の有名人にかみつけば、いつかは私も有名人になれる。
そう信じている。
 そう信じて、最初にかみつくことにしたのが太田昌秀氏だ。
なにしろ、太田昌秀氏は元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では最高に地位の高いお人なのだ。

沖縄の三冠王とか沖縄の天皇と呼ばれているという噂を聞いたことがあるような気がするくらい太田昌秀氏は沖縄の最高の権威者であり有名な人間なのだ。
いや、天皇と呼ばれた人は初代沖縄県知事の屋良朝苗だったかな。どっちだったかな。はっきりとは覚えていない。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、最初にかみつくのは大田昌秀氏が最適だと私は考えた。

さて、かみつくにはどうすればいいか。
それは決まっている。
太田昌秀氏の書いた本を買って読むことだ。読みながら、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
 さて、大田氏のどの本を買おうか。ネットで調べるとなんと大田氏の書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いているのかと私は驚いた。

沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの沖縄の民衆意識現代の差別と偏見(共) 、近代沖縄の政治構造沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの、伊波普猷-人と思想-(共)、「伊波普猷の思想とその時代」、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、『憲法改悪反対運動入門』(共)、沖縄-戦争と平和、「人間が人間でなくなるとき」ジェノサイド、留魂の碑-鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、「戦後日本」も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・

ふう、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は困った。
どの本がかみつきやすいのかは本の題名からはわからない。全部の本を読めば分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。
それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私には10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいないし全部読むのは私には不可能だ。
私が買うのは一冊にしよう。三冊も四冊も買えば読むのが大変だ。

どの本を買うか。私は考えた。私は悩んだ。
本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。
悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
 
一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。
ああ、わかった。歌に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なのでスナックのカラオケで時々歌う。

星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎

星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした

煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした

私が生まれる一年前の歌だ。
ぐっとくる詞だねえ。
昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌ってヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。
 
娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。
私は感心したね。
戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も身を落としたと大田氏は書いたというわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。

私は「こんな沖縄に誰がした」を本屋で買ってきた。
私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。
30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。
たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本だった。あの頃は学習塾をやっていたから、「そうだそうだ。沖縄はあまりにも学力が低すぎる。それは教師の教え方が悪いからだ」と本の題名に賛同するのがあったから買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。

本の表紙は全体が朱色だった。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。

題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。
すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。

私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き食台にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。テレビをつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じるからテレビは一日中かけっぱなしだ。

本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。
ページをめくった。
すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。

「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
と書いてあった。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。

「それはないよ、太田さん」

と私は思わず口にしていた。
「こんな沖縄に誰がした」という本の題名にしたのなら娼婦に身を挺した「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ねた本でなければならないはずだ。
ところが最初の一行で「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねているではないか。大田氏は昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん

大陸から帰った来た女性はまだ家族にも会えていない。
妹は飢えていないだろうか、
お母さんに一目会いたい。
必死に生きながら女性は妹や母親の無事を願っている。
戦争が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性。
そんな女性は戦後の日本にはたくさん居ただろう。
戦争の悲劇の真っただ中をを生きている女性の心情を大田氏は「泣き言」と冷たく突き放した。戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田氏に私は失望した。

菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの人に愛され、
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がカバーしている。
なんと美輪明宏もカバー曲を出している。
ユーチューブに掲載されている「星の流れに」ファンのコメントを紹介しよう。

菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声¬は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸¬し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。

戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ち¬を知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠¬償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。

はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装¬束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを¬覚えております。

最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷¬ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を¬振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン

「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」

 昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。
そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と錯覚している大田氏の精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私はまえがきを読み進めていった。


一週間後。
 一応「こんな沖縄に誰がした」を読み終わった。

 読後の感想は「まいったな」だ。かみつくところを見つけるところがないという意味で「まいったな」だではない。むしろ逆だ。かみつくところがあまりにも多すぎる。最初のページから最後までみんなかみつくことができる。こんなにかみつきやすい本でいいのか。元琉球大学教授で、県知事になり、国会議員までなったお人だ。私のような底辺の人間が簡単に噛みつくことはできないだろうと思っていたのに、意外や意外である。いたるところに噛みつけるのだ。こんなでたらめなことをよくも書けたものだと妙な感心をしたくらいだ。
 
本当にこのお人は県知事になった人物なのか。信じられない。

私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい。
                                   「こんな沖縄に誰がした」

と、かっこいいことを述べているが、「星の流れに」から見える戦後の日本の悲惨な現実を見ることができないお人が「沖縄の現状」を理解することができるのだろうか。憲法という上から沖縄という下を見ているが、上から目線で地べたの沖縄の現状を見ても沖縄の現状を真摯に理解できるはずがない。どうやらこの本はそんな本なのだ。

 さて、かみつくとするか。この本を買った目的は有名人の大田昌秀氏にかみついて私が有名人になるのが目的だ。なにがなんでも噛みついて噛みついて噛みついてやるのだ。噛みつくのはどのページでもかまわないな。

 気まぐれにぱーっとめくってぱたっと止めよう。そのページに噛みついてやる。開いてみると117ページであった。117ページに書いてある題名は「基地返還前後の経済変動」だった。

 大田氏は、ハンビータウンがヘリコプター基地だった頃の雇用は100人そこそこであったが、1981年に返還されてからは若者の街に変貌して、ヘリコプター基地だったころよりも経済発展し、雇用は数千人から一万人にも及んでいるといい、地元自治体に入る固定資産税は約257万円から1億9507万円に及んでいると述べている。

以上の統計の事実から大田氏は、軍事基地であるよりも民間に開放されたほうが経済発展をするのだと主張している。

 大田氏は本当に県知事だったのかと疑わせる発言である。大田氏が北谷町長であったらハンビー飛行場が返還されてハンビータウンとなり若者の街と栄えていったことはとても歓迎することである。そのお蔭で北谷町の税収がぐーんとあがったからな。

 でも大田氏は北谷町長ではない。沖縄県知事だった。県の経済発展の責任を持たなければならないお人であった。北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながるのなら大いに喜ばしいことであるが、北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながらないのなら県知事であった大田氏が手放しで喜ぶのはおかしい。

 沖縄市の園田にモッズというライブハウスがあった。国道331号線沿いにあり、モッズでは民謡からジャズまで多くのミュージシャンがライブをし、沖縄では有名なライブハウスだった。しかし、モッズは新しい街ハンビータウンができると園田より集客力がいいハンビータウンに引っ越した。当然のことながらモッズの客は沖縄市から北谷町に流れた。北谷の客は増えたが沖縄市の客は減った。

 美浜タウンの国道58号線沿いに新しいパソコン専門店ができた。すると沖縄市のコリンザの一階にあったパソコン専門店は閉店に追い込まれた。元々ぎりぎりの経営状態だったのに北谷町や嘉手納町の客が美浜に流れたことが影響して赤字経営に転落したのが原因だと考えられる。コリンザのパソコン店が閉店すれば美浜のパソコン店に客は流れる。

 モッズのように沖縄市から北谷町のハンビータウン・美浜に移転した店舗がいくつもあり、多くの客がハンビータウン・美浜流れた。

 客がハンビータウン・美浜に流れたためにコリンザのパソコン店のように閉店した沖縄市や宜野湾市の店も多い。ハンビータウン・美浜のお客は他の市場から流れた人たちであり、他の市場から客を奪うことによって北谷町のハンビータウン・美浜は繁盛した。沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店は北谷町に客を奪われたのだ。

 県全体から見ればハンビータウン・美浜の繁盛はプラスマイナスゼロである。
 ハンビータウンの経済発展をまるで県全体の経済発展だと錯覚して手放しで喜ぶ人が県知事だったとは信じられないことである。県知事なら沖縄市などのハンビータウン・美浜の周辺の店がどれほどの売り上げが落ちたかを調査して、ハンビータウン・美浜が県全体に及ぼすメリットとデメリットについて分析するべきだ。

 返還された泡瀬ゴルフ場跡に大型店舗のイオンモールができる。沖縄市の商店経営者たちはイオンモールが開店すると壊滅的な打撃を受けるだろうと心配している。しかし、大田氏なら返還された泡瀬ゴルフ場にイオンモールができて経済が発展したと手放しで喜ぶのだろう。

一方が繁栄すれば一方は廃れる。それがサービス業の経済法則だ。例えば、大型スーパーが繁栄することによって個人商店やスーパーは廃れた。コンビニエンスが繁盛することによって個人商店、書店、弁当屋、パーラーなどが廃れた。新しい商業地が繁栄している裏には古い商業地が廃れていくのが現実だ。

そこにはプラスとマイナスの関係がある。ハンビー・タウン・美浜が栄えた分だけ他の商業地の売り上げは落ちたのであり、県経済の全体が成長したとは言えない。
このようなとても簡単な経済法則さえ知らない大田氏が県知事だったのだ。大田氏のあきれる経済論はこれだけにとどまらない。

現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、このハンビー飛行場の11倍の大きさにも関わらず、二〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。
                                  「こんな沖縄に誰がした」
と述べ、もし普天間飛行場が返還されたらハンビータウン・美浜のように経済発展すると推測している。

普天間飛行場とハンビータウン・美浜は車で数分の距離である。ハンビータウン・美浜より何倍も広い普天間飛行場に若者の街ができたらハンビータウン・美浜の客は普天間飛行場に流れてしまうだろう。ハンビータウン・美浜は廃れてしまうのは確実だ。こんな明々白々なことを大田氏は知らないのだ。大田氏の頭は大丈夫かと疑ってしまう。しかし、大田氏の妄想はこれだけでは終わらない。

さらに例を挙げると、極東最大の空軍基地と言われる嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。しかし、2734人しか雇っていない。それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されているのが実情だ。-このように、軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、雇用が一〇倍に増えるという試算が試算がなされているが、それはあながち誇張ではない。
                                  「こんな沖縄に誰がした」

 それは明らかな誇張だ。いや、妄想だ。嘉手納飛行場が民間空港になったら成田と同じ客数になると考えるほうがおかしい。沖縄にやってくる観光客は限られている。嘉手納飛行場が民間空港になったからといって観光客が増えるわけではない。嘉手納飛行場の客が増えただけ那覇空港の客が減るだけのことだ。客が減れば経営が赤字になり、倒産の危機に陥る。

もし、嘉手納飛行場が民間飛行場になったら、二つの飛行場が赤字になり倒産の危機に陥る。嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができるなんて妄想だ。

 普天間飛行場の軍用地料金は年間60億円である。普天間飛行場のほとんどは私有地であるから60億円の多くは宜野湾市の地主に入る。普天間飛行場が返還されれば軍用地料はゼロになる。軍用地料は日本政府から沖縄県内に入ってくるお金だ。ハンビータウン・美浜に入ってくるお金は県内のお金が移動しただけである。それどころか本土から仕入れた商品が売れれば売れるほど商品の原価の分だけ本土にお金が出ていく。

 軍用地返還跡に小売店の商業街ができるということは、県内に入ってくるお金は絶たれ、県外にお金が出ていくシステムが増えるということである。

 米軍基地が存在することによって日本政府やアメリカから年間3000億円近くのお金が県内に入ってくる。もし、軍用地が返還され、返還跡地にはハンビータウン・美浜のような街や泡瀬ゴルフ場跡のイオンモールのような小売店ができると、年間3000億円の県内への流入はストップする一方県内から県外へお金がどんどん出ていくシステムが増える。それでは沖縄県が破産する。

 元県知事大田氏の基地返還論は沖縄経済の破産論である。
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沖縄の学者のだらしなさ




「沖縄に内なる民主主義はあるか」の本の原稿つくりは最終段階にはいった。文章のほうは完成した。カバーのデザインがまだ完成していない。カバーが完成すれば印刷所との交渉だ。
印刷団地に見積もりを依頼し、先週の月曜日には見積もりを知らせる約束をしたのだがまだ電話もメールも来ない。どうしてこんなにルーズなのだろうか。まいってしまう。今日か明日にでも印刷団地に電話しよう。


桜井沖大教授は沖縄の世論と本土の世論の断絶を加速させている例として本土ジャーナリスの書いた新潮45の6月号での「沖縄叩き」の記事を取り上げている。本土ジャーナリスの主張を取り上げたのだから本土ジャーナリストに反論をするかと思いきや反論をしていない。「沖縄叩きに走っている」でチョンチョンである。

本土ジャーナリストは彼らの視点から沖縄を判断し、沖縄はこうこうであると述べているのであって「沖縄叩き」を目的にしているのではない。沖縄の私たちがやるべきは彼らの主張に賛同するかそれとも反対して反論するかである。それを賛同もしないし反論もしないで「沖縄叩き」などといって弱者意識をもろに出すなんてみっともない。沖縄の学者たちはどうしてこんなに主義主張がないのか。

新潮45の「沖縄の不都合な真実」は私も読んだ。彼らの主張に賛同するところもあったが、反発するところもあった。
反発する理由のひとつに沖縄に莫大な交付金をあげた裏には自民党の金権政治があったことを彼らは見逃していることだ。日本政府は沖縄に莫大な交付金をあげ、その裏では公共工事会社から多額の献金が自民党のある派閥に回った。

残念ながら、沖縄は「ゆすりの名人」になれるほど頭はよくないし知恵も回らない。沖縄を「ゆすりの名人」にしたのは自民党の派閥政治だ。

自民党政府は戦争被害の大きい沖縄に同情し沖縄の経済を発展させる名目でどんどん莫大なお金をあげた。次から次へと新しい公共工事を増やしていった。
自民党政府は沖縄をとても優遇した。それは自民党の派閥が潤うからだ。

自民党政府が沖縄問題で見向きもしなかったことがひとつある。それは尖閣諸島の領海問題だ。自民党政府は領海を守る努力を怠った。だから中国漁船や台湾漁船が沖縄の漁師を追い払って日本領海で堂々と漁をした。八重山近海の赤サンゴは台湾や中国の漁師の密漁で壊滅状態にされた。

なぜ、自民党政府は尖閣諸島の領海を真剣に守らなかったか。
海には公共工事はできないからだ。つまり自民党にお金が入ってくるシステムを領海問題ではつくれない。領海を守るのに懸命になってもお金が全然入ってこないから金権主義である自民党のどの派閥も尖閣諸島の領海を守るのに熱心になれなかった。
復帰当時から自民党政府が尖閣諸島の領海を守るのに真剣であったら中国漁船が大挙して尖閣諸島の領海に侵入することはなかった。日本の自衛隊は強いし尖閣諸島に外国の漁船を一歩も侵入させない気になればできた。できたのにやらなかったから中国漁船は侵入したのだ。警戒が厳しくなった今は一隻の中国漁船さえ侵入してこない。それが証拠だ。

中国漁船や台湾漁船が日本の領海に堂々と侵入できたのは自民党の金の亡者であった派閥政治が原因であるし、沖縄が「ゆすりの名人」といわれるほどに沖縄に莫大な交付金が入ってきたのは自民党の派閥政治が原因だ。
民主党政権はぐらぐら揺れていて沖縄どころではないから、今までの流れに乗っているだけだ。まあ、民主党政権であれ自民党政権であれ政権がぐらついている間は沖縄どころではないから沖縄への高額交付金は続くだろう。

沖縄対外問題研究会(我部政明代表)の学者たちが「沖縄は、今、どこに立っているのか、そしてどこに向かうのか」を理性のバトルを通じて明らかにするという。「理性のバトル」だとよ。理性が一体どんなバトルするというのか。本土のジャーナリストとバトルできない沖縄の学者になにができるのだ。
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普天間飛行場の騒音被害は日本の法律と宜野湾市政の責任

本をつくるのに忙しくブログを更新する余裕がなかった。日本図書コード管理センターに申し込んでISBN出版者記号がもらえた。本の裏側に印刷されている二段のバーコードだ。これがあれば全国の書店やコンビニなどで販売できる。後は本の原稿を仕上げて印刷所にもっていけばいいが、本つくりに悪戦苦闘している。カバー、目次、前書き、本文、後書きなど、1ページから200ページ余まで完璧に仕上げなければならないから大変だ。でも楽しい。


 
 新聞がとっても滑稽な記事を掲載した。
普天間飛行場とハワイのカネオヘベイ基地の図を掲載して、二つの基地の環境を比べて、「ハワイの学校で米軍機からの騒音はほとんど聞こえず、防音ガラスなどもない。日常的に騒音に苦しみ、定期的に米軍機墜落を想定した避難訓練をしなければならない沖縄の状況とはあまりにも違いすぎる」とハワイの米軍基地周辺と比べて普天間飛行場周辺の小中学校の環境の悪さを訴えている。
 ハワイのほうは環境のことを考慮して騒音被害を徹底して抑えているのに、普天間飛行場では騒音をまき散らしていると新聞は暗にアメリカ対して怒っているが、それはおかしい。ハワイの基地の周辺はアメリカの法律が適用されるが、普天間飛行場の周囲は日本の法律が適用される。米軍基地の周囲の環境状況はアメリカの法律と日本の法律の違いである。

 ハワイの米軍基地の環境に比べて普天間飛行場の環境が悪いのは日本の法律や普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくった宜野湾市政の責任であって、アメリカの責任でもなければアメリカ軍の責任でもない。アメリカ軍は普天間飛行場の外側に対してはなんの政治的権限も持っていないのだ。新聞はアメリカの法律を普天間飛行場の周辺に適用しろと主張しているのだろうか。
 それならば日本政府にアメリカの法律を普天間飛行場周辺に適用しろと要求すればいい。普天間飛行場の周辺の環境がハワイの米軍基地より環境が悪いのはアメリカや米軍の性ではなく、日本の法律と宜野湾市政の性である。悪いのはなにもかもアメリカ軍の性にするのはおかしい。
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沖縄産業界の恩人サムエル・C・オグレスビー



サムエル・C・オグレスビー氏は、1911(明治44)年10月25日、アメリカ合衆国バージニア州で生まれた。1933(昭和8)年、メリーランド大学博士課程を卒業。1942年(昭和17)年米国陸軍に従軍し、1945(昭和20)年3月、米陸軍政府将校として来沖した。その後エール大学のファーイースタン・シビル・アフェア・スクールで極東問題と日本語の研鑽を積んだ。

 同氏は、1950(昭和25)年3月、第二次世界大戦終焉の激戦地として灰燼化した沖縄に米国民政府職員として赴任され、沖縄の良き理解者として沖縄の経済、特に工業の振興に献身的に尽くされた。沖縄に勤務した16年間、同氏は、琉球工業連合会(現沖縄県工業連合会)のよきアドバイザーとして深くかかわり多くの産業を育てた。製糖、味噌醤油、食油、ビール、セメント、鉄筋、合板、菓子類に至る各製造業の90%は同氏の後援・指導を受けた。

 以下、オグレスビー氏産業開発基金編「沖縄産業の恩人(故)サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」(昭和61年)に寄せられた寄稿より。

「彼は自分がいったんこうだと思ったことは、上司が難色を示そうと、粘り強く説得して自分の主張を通す、そういう信念と勇気の持ち主であった。」-具志堅宗精

「氏は、自分がアメリカで仕事をしても虫眼鏡で見る程のこともできない、日本の諺にもある通り、「牛の尾たるより、鶏頭たれ」とある。沖縄のために全力を尽くしたいといつも言っておられた。」 -宮城仁四郎

☆琉球工業連合会創立10周年記念事業
1963(昭和38)年5月21日に琉球工業連合会は創立10周年を迎え、これを記念して、会員の芳志を募り、会の発展に大きく寄与したオグレスビー氏の胸像を制作することを決定した。やがて、オグレスビー氏の等身大の、高さ約1.8mの胸像が完成し、翌64(昭和39)年12月2日、那覇市内の琉球東急ホテルで贈呈式と祝賀会が行われた。 

☆オグレスビー氏産業開発基金の設立
 胸像贈呈の2年後、1966(昭和41)年12月20日、オグレスビー氏逝去の報が琉球工業連合会に届いた。享年55歳。「沖縄に埋葬してほしい」との遺言があり、遺体は泊国際墓地に埋葬された。

 翌67(昭和42)年に同氏の長年の功績を記念して、工業関係有志の浄財によりオグレスビー氏産業開発基金を設立し、現在まで奨学金授与並びに工業功労者表彰を毎年行っている。

(1)オグレスビー氏工業功労者賞

 同賞の審査基準は、沖縄の工業発展に著しく功績のあった者に授与しようというもので、
○新規企業を導入して成功した者
○新製品を開発して成功した者
○その経営する企業によって沖縄経済に大きく貢献した者
○人格高潔なる者
○その他

また、沖縄の産業開発に有益な事業を興した者となっている。

(2)工業関係学生の学資援助

 オグレスビー氏奨学金は、工業関係学科の在学生に対して、心身健全、志操堅固、学業優秀で、経済的に学資の支出が困難な学生に学資の一部を支給している。

☆オグレスビー氏顕彰墓碑建立
1968(昭和43)年には、沖縄財界人の浄財により、那覇市泊の国際墓地に顕彰墓碑を建立し、以後、命日(12月20日)には追悼式を墓前で行っている。


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南山舎も自費出版を断ってきた



南山舎も自費出版を断ってきた。断る理由が八重山教科書問題が係争中だからという。裁判が決着つけるまでは答弁を控えるという国会答弁を聞いているようだ。

裁判と本を出版するのは関係がない。それに八重山地区ではすでに教科書は配布されて使用している。八重山教科書問題については多くの人が新聞でも意見を述べている。本を出してもなんの問題もないはずだ。
沖教祖や新聞に対して批判的な内容だから自費出版を断ったのは明らかだ。

恐らく裁判が終わっていたとしても私の自費出版は断っていただろうな。ボーダーインクの場合は普天間問題で検閲され、南山舎の場合は八重山教科書問題で検閲された。
沖縄の出版社界にはまいったな。国が言論封殺するのではなく民間の裏体制が言論封殺をしている。信じられないことだ。

恐ろしい沖縄になったものだ。
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出版会社をつくる。それが結論だ。

文芸社から見積書が来た。内容は、
四六版の本250ページまで、校正は一回、カバーは四色刷り、表紙は一色刷り(デザインは一案)、発行部数は500部、著作権使用料は本体価格に対し、初版5%・2刷以降10%、ネット書店販売(アマゾン、楽天ブックスへ登録)、刊行月に提携書店50店舗に配本し1カ月陳列、刊行月に毎日新聞社で広告、文芸社HP及び文芸社モバイルにて宣伝告知、国立国会図書館に納本(永久保存)、文芸社流通センターにて在庫管理・注文管理、刊行4ヵ月後に在庫報告・ほか随時対応。

以上のサービスで合計金額は138万円という。
文芸社の強みは全国1100書店と業務提携をしていて、その中の50書店には1か月間陳列することだろう。文芸社のHPを見ると、毎月かなりの数の自費出版の本を紹介している。自費出版会社の中では文芸社が一番人気と思う。

しかし、138万円は高い。それに本が売れたとしても5%しか著者には支払われないようだから、138万円のほとんどは戻ってこないことになる。自費出版すれば本の所有権は私のほうにあると思っていたが見積書を読むとそうでもないようだ。でも、所有権が私にあり本が売れた場合に原価が戻ってくるにしても138万円は高い。本の原価を1000円に設定しても全部売れて50万円しか戻ってこない。やはり135万円は高い。
それに、私の本が本土で売れるとは思えない。文芸社の宣伝効果はゼロに近いと思う。県内の書店に陳列してくれるように私自身が営業をしていかなければ売れないと思う。県内なら私が営業できるから、県内の出版社で自費出版し、出版社に営業のやり方を教えてもらおうと考えていた。だから、県内の出版社にこだわっていたのだが県内の出版社に私の原稿は嫌われたようだ。

風詠社は500冊で729、750円だ。そのうち200冊は著者分となっていて、譲るのも売るのも著者の自由と書いてある。残りの300冊は売れた分の定価の50%を著者に還元するとなっている。風詠社のほうが条件はいい。

きのうもタイムスからは連絡がなかった。タイムスから自費出版するのはあきらめるしかないようだ。県内で出版できそうにない。風詠社にしようかな。しかし、風詠社は県内の出版社じゃない。悩むなあ。

いっそのこと自分で出版社をつくろうかな。本の出版は「沖縄に内なる民主主義はあるか」の一冊だけで終わるつもりはないし、小説も出版したい。色々な小説新人賞に応募して落選した小説であるから売れないと思うが、私としては本にして世の中の人に読んでもらいたい。全部で10数冊にはなるくらいの小説の原稿を抱えている。

出版会社をつくれば安く出版できるから自費出版よりは多く出版できる。
よし、出版会社をつくることにしよう。

糸満市で学習塾をやった時は、小さなトタン屋根の家から糸満ロータリービル(一階は琉球銀行)の三階に移り、豊見城校、東風平校まで学習塾を拡大した実績がある。40歳に読谷村に戻り、嘉手納ロータリーで十坪の小さなレンタルビデオ店から出発して、売り上げをどんどん伸ばしてロータリー内の40坪のビルに移った。沖縄市、名護市、那覇市のスーパーと提携して出張ビデオ店をやった実績もある。ただ、商売はどんどん拡大させたがお金は残らなかった(苦笑)。

コンビニエンスホットスパーの社長の口車に乗せられてホットスパーのオーナーになったのが失敗で、ビデオ店をやめなければならない羽目になったが、500本のビデオから始めたビデオ店も5年後に止める時には10000万本になっていた。

大学を卒業してからずつと商売をしてきたのだから、出版会社の経営もできると思う。出版会社の収入で生活するのではないから気が楽だ。ただ、質素な生活を送りながら書くことに専念したいと考えていたのでできるなら出版社をやりたくない。しかし、そういうわけにもいかなかくなった。

ボーダーインクも駄目で、沖縄タイムスも駄目なら、自費出版してくれる県内の出版社を探し回る難儀をするより自分で出版社をつくったほうがいい。ボーダーインク社に自費出版を断られた時から出版社をつくろうかどうか迷っていたが、タイムスの対応の仕方をみて、自分で出版会社をつくることを決めた。そのほうが気は楽になる。

出版会社をつくる。それが結論だ。
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