消費税2%上げるだけで日本危機と騒ぐMMT論者のアホさ



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消費税2%上げるだけで日本危機と騒ぐMMT論者のアホさ
 安倍政権は消費税を8%から10%に上げる方向に進んでいる。消費税2%アップすることに野党や学者、評論家から反対の大合唱が上がっている。
 2%上げれば日本経済はリーマンショック以上のショックを受けると言っている学者も居る。経済危機を避けるために消費税は上げないで国債で賄えばいいというのだ。
 安倍政権が実際に2%アップして消費税10%にすれば日本経済の状態が分かってくる。もし、経済が危機状態まで落ち込んでいくことがはっきりした時に8%に戻せばいいし、そうでなければ国債を発行すればいい。だからなにも大騒ぎするまでのことではない。
 
 MMT(Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)という考えがアメリカから始まり、MMTを認める日本の経済学者が安倍政権の2%消費税アップに反対して政府の借金で賄うべきであると主張している。もし2%アップしたら日本経済が危機状態になると警告している。2%アップは経済危機を招くが2%に相当する金を政府が国債を発行して借金したとしても経済危機は起こらないと主張している。MMTの理論では、国の借金は国から見れば債務だが、民間の国債保有者から見れば資産だから両者は帳消しになり、プラマイゼロで「国の負担」は発生しないというのである。MMTは自国通貨建てで政府が借金して財源を調達しても、インフレにならないかぎり、財政赤字は問題ではないという経済論である。だから消費税を2%アップして国民の生活を苦しめ、経済危機に陥らせるより国債を発行しろというのだ。なるほどと思うが、冷静に考えると「あれ、MMTはすでに日本政府がやっていることではないか」と気付いてしまう。
政府はすでに1000兆円以上も国債を発行して借金している。MMTの理論をすでに日本政府は実践しているのだ、
 MMTはインフレにならない程度に国は借金することができるという理論である。以前、国債は1000兆円が限度であり、1000兆円を超えれば政府の財政は破綻すると言っていた。ところが1000兆円を超えても政府は財政破綻しなかったしインフレにもならなかった。
政府が財政破綻しなかった理由として、日本の国債は外国ではなく日本国民が所有しているから国民の財産になっている。国民の財産の範囲内だから財政破綻はしないと説明した。これこそMMT理論の実践ではないか。日本政府はMMT理論ができる前にすでにMMT理論を実践していたのである。
 
それだけではない。日本政府はMMT理論を超えることまでやった。なんと国債をマイナス金利にしたのである。マイナス金利になると政府は国債を発行するだけではなく利子の収入まであるのだ。
 政府は国債を発行しても利子を払うのではなく利子が収入になる仕組みにしたのだ。マイナス金利だから国民にとって損する財産になるから国債は買わなくなる。銀行や企業も買わなくなる。すると国債を発行することができなくなると思うが、唯一国債を買う銀行がある。それが日本銀行である。政府の国債は国民の財産ではなく。日本銀行の財産となった。国債発行は実質的には政府の貨幣発行と同じである。日本政府はすでにMMTの理論が通用しない段階の行為をやっている。
 
 日本にはMMT理論は成り立たない。MMTは国民が国債を買うことによって国の借金は国民の財産という図式を作り上げているが、マイナス金利の日本では国民は国債を買わない。買うのは日本銀行だけである。日本銀行は政府機関であり日本銀行の財産は国民ではなく国の財産となる。だから国の借金=国民の財産というMMTの理論は成り立たない。今の日本は自由にいくらでも貨幣を発行できる状態になっている。

 今の日本はデフレには国債を発行して悪化することを防ぐことができるが、インフレを防ぐ手段がない。日本が高インフレになった時に国民が所有している国債を国が買い取って市場の貨幣を減らすことができるのが国債の働きであるが、今は国民ではなく日本銀行が国債を持っている。日本銀行の国債を回収しても市場の貨幣を減らすことはできない。だからインフレを調整することが政府にはできない。
MMT論者はインフレにならない程度に国は国債を発行するべきというが、国はすでに1000兆円の借金をしている。MMT論者は国がいくら借金すればインフレにならないかの具体的な数字は出していない。というより出す計算方法を確立していない。だから数字を出すことができない。

 日本政府がマイナス金利にしたのは高騰した円を安くする目的があった。2011年には1ドル=75.32円まで円が高騰した。加工貿易によって経済が成り立っている日本にとって円高は経済危機を招いてしまう。円高を解消するために政府は公定歩合を0金利にしただけでなくマイナス金利まで落としていった。マイナス金利は世界の常識を覆すものであった。しかし、マイナス金利断行で円高は解消されて、日本経済危機は免れた。

 MMTは米国経済を根拠にして生まれたものである。米国の経済論をそのまま日本経済に適用しようとする経済学者は日本の政治・経済の現実を全然理解していない。

 MMTの虜になった経済学者の中には消費税2%上げればリーマンショックの何倍もの経済ショックを受けるという者もいる。そんなことはあり得ないことである。政府が徴収した消費税のお金は国が所有し市場から消えるものではない。国の予算として使われ再び市場で流通するお金になる。リーマンショックのような影響を与えることはない。
 消費税2%アップが日本の経済危機を及ぼすなんてアホらしい。もし、そうであることがはっきりすれば8%に戻せばいい。それだけのことだ。大騒ぎするまでのことではない。

 MMT論者は2%アップを否定しただけでなく消費税はゼロにして国の借金を増やせばいいと主張している。しかし、消費税をゼロにした時にインフレにはならないという数式は出していない。もし、消費税をゼロにしてインフレになった時、政府はインフレを防ぐために金利を高くしなければならない。金利を高くすれば国債相場で円が高くなる。そうなると輸出が減少して日本経済は危機に襲われる。MMTは日本経済が加工貿易で成り立っていることも認識していない。日本経済の基礎を認識しない経済学がMMTである。アホな経済学である。
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香港は民主主義を守る闘い勝利 沖縄は民主主義を破壊する闘い敗北



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香港は民主主義を守る闘い勝利
沖縄は民主主義を破壊する闘い敗北

 香港で中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案が議会で審議されることに反対した市民が立ち上がり、香港政府や立法会(議会)付近に集結した。
条例改正によって司法の独立が失われ、高度な自治を認める「一国二制度」が形骸化するとして民主派だけでなく経済界や法曹界などにも反発の声が拡大し、主催者発表で約200万人が集結した。
沖縄では辺野古移設反対運動がキャンプ・シュワブ、安和の琉球セメント、辺野古の海でが展開されている。

香港の「逃亡犯条例」改正反対運動は中国政府の政策に対する反対運動であり、沖縄の辺野古移設反対運動は日本政府の政策に対する反対運動である。両方とも反政府運動であ。ただ二つの運動の違いは反対運動の対象である政府の性格が違うことである。中国政府は社会主義という名の官僚独裁国家であり、日本政府は議会制民主主義国家である。

香港の反政府運動には共産主義・社会主義などの左翼は参加していない。中国政府が社会主義を名乗っているし、習近平首席はマルクス・レーニン主義を名乗っている。左翼は中国政府とイデオロギーが同じあり中国政府に同調しているから香港の反政府運動には参加していない。だから、香港の反政府運動は純粋な民主化運動と呼べるものである。一方沖縄の辺野古移設反対運動は民主主義国家の日本政府の政策に反対する運動である。香港の反政府運動とは違い共産党、社民党、社大党などの左翼が中心となっている運動である。
左翼が参加していない香港と左翼が参加している沖縄である。香港は民主主義を守る闘いであるが沖縄は民主主義を破壊する闘いである。

「逃亡犯条例」改正案とは香港が中国政府が犯罪人と指定した人物を中国政府の要請に応じて容疑者引き渡しを可能とするものである。香港政府が4月に立法会(議会)に提出した。現在、香港は米国など20カ国と犯罪人引き渡し協定を結んでいるが、中国本土やマカオ、台湾との間にはない。中国は55カ国と犯罪人引き渡し条約を調印しているが、中国の特別行政区である香港とは結んでいない。香港政府トップの林鄭月娥(りんてい・げっか)行政長官は「法の抜け穴をふさぐため」必要な措置だと強調している。
そのようなものであれば香港が中国本土と「逃亡犯条例」を結んでもいいと思えるのだが、香港市民には中国政府と「逃亡犯条例」を結ぶことで恐れていることがあるのだ。香港市民が恐れているのは「逃亡犯条例」を利用して中国政府が香港の民主派活動家を犯罪者に仕立て上げて中国引き渡しを要求し、香港の民主主義を弾圧するのではないかいうことである。中国政府は本国では政府を批判する表現は一切認めていない。政府批判すれば即逮捕である。今回の「逃亡犯条例」改正反対で運動した者たちは本国では犯罪者にされてしまう。。
香港で中国政府を批判する本を置いていた店主が秘密裏に逮捕されて中国本国に連行されたことがあった。香港で反中国的な活動をする者は、犯罪者にさせられて中国本土へ引き渡されるといった可能性が高い。中国政府が香港の民主化運動を「逃亡犯条例」を利用して弾圧するのは見え見えである。
香港を訪れた外国人ビジネスマンや観光客も、引き渡し対象になる可能性が指摘されている。。改正されれば香港市民は政府批判の運動は完全に弾圧されてしまう。だから、200万人の香港市民は反対に立ち上がったのである。それはまぎれもなく香港の民主主義を守る闘いである。

普天間飛行場を辺野古に移設するのは宜野湾市民の騒音被害と命の危険性をなくすためである。宜野湾市民の人権を守る目的として辺野古移設がある。移設は名護市長、県知事と政府の合意で決まった。沖縄の辺野古移設反対運動は香港のように法律改定に反対するのではなく、すでに法的に決まった辺野古移設に対して反対する運動である。
県民投票で7割以上が埋め立て反対であったが、辺野古埋め立てを止めることはできなかった。県民投票によって埋め立てを中止する法律がないからだ。あれば中止していただろう。日本は議会制民主主義という間接民主主義国家である。選挙で選ばれた議員が国会で賛成多数によって法律をつくる。国会がつくった法律には県民投票の結果に国が従うというのはない。議会制民主主義を容認するなら県民投票に政府が従わなかったことに納得できる。しかし、議会制民主主義を否認する辺野古移設反対派の一部は県民投票に従わない政府に反発し政府は民主主義を裏切っているなどと非難する。しかし、国会で決めた法の順守を全うしている政府は議会制民主主義の政治を行っている。法を破った政治をしていない。破れば違法行為として野党に即告訴され、裁判で有罪判決が下される。有罪判決が下されれば内閣は解散に追い込まれる。だから政府は法を守って政治を進めるし、辺野古移設工事も法を守って進めている。つまり、大げさに言えば議会制民主主義体制の元で辺野古移設工事は進めているし、辺野古埋め立ては進んでいる。それを現場で工事を阻止しようとする運動は反体制運動であり、議会制民主主義を破壊する運動である。「議会制民主主義破壊行為」というのは大袈裟な表現と思うかも知れないが決して大袈裟な表現ではない。適切な表現である。
「議会制民主主義破壊行為」というのが大袈裟に見えるのは辺野古移設反対運動の規模が小さいからである。彼らが本気で目指しているのは一万人以上の反対市民を結集させて、実力で辺野古移設工事を阻止することである。しかし。現在結集する市民は数十人であり、機動隊を排除することができないから移設工事を阻止することができないだけである。少数の活動家による暴力的な反体制運動だから平和的な反対運動に見えるのであって彼らの運動の本質は辺野古移設工事を実力で止めて、暴力による議会民主主義体制を破壊することである。

香港の民主主義を守る闘いは勝利して「逃亡犯条例」改正を阻止することができた。沖縄の民主主義を破壊する辺野古移設反対運動は敗北し続け、辺野古移設工事を阻止することはできない。

共産党、旧社会党(社民党。立件民主党)、革マル、中核の左翼は資本主義・議会制民主主義を本質的に否定する社会主義集団であるが、戦後の日本の議会制民主主義体制下では脆弱し続けている。

香港も沖縄も民主主義が勝利している。民主主義の勝利は歴史的必然である。
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安倍首相に対する新報とタイムスの微妙な違い



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安倍首相に対する新報とタイムスの微妙な違い
 6月23日の慰霊の日の沖縄全戦没者追悼式での安倍晋三首相あいさつについての記事で新報「参列者「心に響かない」 沖縄全戦没者追悼式・首相あいさつ」とタイムス「「うそつき」「帰れ」 安倍首相のあいさつ中に抗議の声 沖縄追悼式」が掲載されたが、二つの記事には微妙な違いがある。
 
 新報もタイムスも首相のあいさつに「うそつき」「帰れ」などと激しいヤジがあったことについて書いている。
 参列した人の声として、
琉球新報
「見せかけじゃなく、県民に寄り添った気持ちを見せて政治の場で生かしてほしい」
「県民投票の結果を無視する政府のやり方は、県民の意見を軽視している」
「心に響かなかった。沖縄に来たこと自体が演出に感じる」
沖縄タイムス
「基地負担軽減を言いながら、民意を無視し新基地建設を進めるのは矛盾だ」
「去年と同じでしらじらしく、思いが入っていない。二度と来ないでほしい。議長の話はしっかり響いた。首相は気持ちがまったく伝わらない」

と両紙とも安倍首相を批判するインタビュー記事を掲載している。しかし、新報は批判する声だけを掲載しているがタイムスはそうではなかった。
「忙しい中、首相は時間をつくって沖縄のために来てくれているのにやじを飛ばす必要はない。県民は感謝しないといけない」
と安倍首相に感謝しやじに対して批判的な声も掲載している。ここに新報とタイムスの微妙な違いがある。新報は慰霊祭の記事では反安倍に徹底して、慰霊祭に参加した沖縄の人みんなが安倍首相に反発しているとイメージさせる記事に徹している。しかし、タイムスはやじを批判する参加者も居たことを掲載している。

 沖縄戦で犠牲になった多くの人々の霊を慰めるための慰霊祭である。敵味方も政治も関係なくただひたすら霊を慰める式典なのだから、その場ではお互いに霊をいたわり感謝しあう心だけが大切である。
 慰霊祭に参加した人は、あいさつするすべての人に感謝する心が大切である。たとえ安倍首相の政治に反対であっても慰霊の場所では感謝するべきである。ところが安倍首相のあいさつにやじを飛ばした人間たちが居たのである。やじは慰霊祭を侮辱する行為である。慰霊のために来た人であるなら決してやじを飛ばすことはない。やじが霊を安らかにすることはないからだ。やじを飛ばした人間には慰霊の心がない。

 慰霊祭のあるべき姿を重視するマスコミなら安倍首相にやじを飛ばしたことを批判するべきと思うが新報は一切していない。安倍首相へのやじだけを掲載した新報の記事を読めばば慰霊祭に参加したほとんどの人が首相に反発していると思うだろう。しかし、現実はそうではないと思う。首相が慰霊祭に来てくれたことに感謝し、やじを飛ばした人間には慰霊祭の威厳をぶち壊した「沖縄の恥」だと思う人が居るのは当然である。だから、タイムスはやじを批判する声を掲載したのである。タイムスはマスメディアとしての倫理をかろうじて守ったが新報は倫理を逸脱してしまっている。新報は反安倍イデオロギーの機関紙になってしまっていると思わざるを得ない。

最近の新報は異常である。反安倍、反辺野古移設、反米軍基地イデオロギーに執着してきた果てに「沖縄は植民地であるイデオロギー」の塊になってしまっている。タイムスも反安倍、反辺野古移設、反米軍基地の立場に執着してはいるが、新報のようにイデオロギー機関紙までにはなっていない。マスメディアに重要な「事実の報道」を完全に無視することは避けている。
微妙な違いが慰霊祭の安倍首相の記事で現れた。
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新報社説に見える日本ではなく沖縄の民主主義機能不全



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新報社説に見える日本ではなく沖縄の民主主義機能不全
 2019年6月18日の新報社説は、
米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡り、総務省の第三者機関「国地方係争処理委員会」(係争委)が県の承認撤回を取り消した国土交通省の採決を不服とした県の審査申し出を却下したことに対して、
「自治にとどまらず、日本の民主主義制度全体が機能不全に陥っているとしか思えない」
「沖縄以外の人々にとっても人ごとではないはずだ。このあからさまな実態に目を向けてほしい」
と主張している。
 新報社説は、県民投票で約7割が埋め立てに反対したにも拘わらず政府は埋め立て姿勢を変えなかった中、総務省の第三者機関「国地方係争処理委員会」(係争委)が県の審査申し出を却下したことを根拠に日本の自治、民主主義制度が機能不全に陥っているというのである。

新報社説は、
「係争委は、国と自治体の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に転換した1999年の地方自治法改正に伴い設置された。自治体の行政運営に対する国の介入が違法・不当だと判断すれば、是正を求める役割がある」
を強調し、県の審査申し出を再び却下したことは多くの行政法研究者の批判を無視して国の主張をうのみにした係争委の判断であると述べ、係争委のあるべき姿から程遠く、本来の役割を放棄し、国の追認機関と化していると述べている。

国地方係争処理委員会
 国の関与のうち是正の要求、許可の拒否その他の処分その他公権力の行使に当たるものについて不服のある地方公共団体の長等からの審査の申出に基づいて審査を行い、国の関与が違法等であると認めた場合には、国の行政庁に対して必要な措置を行う旨の勧告等を行う。

委員
(1)人数 : 5人(地方自治法第250条の8)
(2)選任 : 優れた識見を有する者のうちから、両議 
院の同意を得て、総務大臣が任命(地方自  
治法250条の9)
(3)任期 : 3年(地方自治法250条の9第5項)
(4)委員長 : 委員の互選により選任(地方自治法第 
250条の10)

国地方係争処理委員は優れた識見を有する者のうちから選ばれ、衆参両議院の同意で決まる。係争処理委員は多くの行政法研究者の意見に左右されるのではなく自分の責任ある判断をするべきである。新報社説は多くの行政法研究者が批判したことを強調し、係争処理委は批判に耳を傾けるべきと暗に批判に従った判断をするべきと主張しているが、係争委は批判に屈するべきではないし国に従うべきでもない。係争委は中立の立場に徹するべきである。
 係争委は県の審査申し出を却下した日、ふるさと納税の新制度から大阪府泉佐野市を除外した総務省の対応の是非も審査していて、「国の関与」に当たると認めた。国に寄り添うのが係争委ならば国の関与に当たらないとの判断を下したはずである。係争委は国にも地方にも中立の立場で判断していることを新報社説は認めるべきである。

行政不服審査制度を用いて撤回の審査を申し出た沖縄防衛局は一般私人と同様の立場にないため審査請求できないという県の主張が正しいと新報社説は主張しているが、それは間違っている。
日本は内閣が独裁政治にならないために省を配置し、省と省は独立した関係にある。埋め立てを管轄しているのは国土交通省である。防衛省には管轄する権限はない。独裁国家であれば防衛省が承認撤回を取り消すことができるが、日本は独裁国家ではないから防衛相が取り消すことはできないし、首相が取り消すこともできない。取り消すか否かを判断できるのは埋め立てを管轄している国土交通省である。埋め立てを法的に管轄している国交省は県の埋め立て承認撤回は不当であると判断して県の承認撤回を取り消したのである。
内閣の一員である国交相は、防衛局の申し立てを判断できる立場にないと主張している県は日本の内閣制度を理解していない。内閣の一員であっても省が違えば管轄する権限が違う。それぞれの省は独立機関である。だから、埋め立てに関しては防衛省は国交省に法的判断を委任しなくてはならないのだ。
埋め立てに関しては防衛省であろうが他の省であろうが、自治体であろうが私人であろうが立場は同じであり、国交省の法的判断をゆだねなければならない。国交省は他省である防衛相の埋め立てに関する審査依頼に法的判断を下すだけである。

県が係争委に申し出たのは、いくら対話による解決を求めても政府が聞く耳を持たないからだと新報社説は指摘しているが、対話による解決は2008年にすでに終わっている。仲井真知事と政府は何度も対話=協議を重ねて辺野古崎沿岸の埋立てを合意した。1Ⅰ年前に合意したたからこそ政府は辺野古埋め立てをやっているのである。ところが対話を強調している県は対話をする条件として埋め立て中止を要求している。それは1Ⅰ年前の県と政府の合意を無視した要求である。政府は県との対話には応じるが埋め立て中止はしないと言った。政府のほうが正しい判断である。「政府が聞く耳を持たない」という新報社説のほうが1Ⅰ年前の政府と県の合意に聞く耳を持っていない。

新報社説は、
「投票者の約7割が埋め立てに反対した県民投票後も政府が姿勢を変えない」
と政府を責めているが、県民投票条例を決めたのは県議会である。政府ではない。条例には県民投票の結果を日本、米国首脳に通知すると書いてあるだけで、県民投票の結果に日本政府は従わなければならないとか考慮しなければならないという言葉は一言もない。つまり、県民投票の結果に対して政府は通知を受け取るだけであり、政治的な対応をする必要がないという内容の県民投票条例であった。
 県民投票条例が「通知する」するではなく、
「政府は県民投票の結果に従わなければならない」「対応しなければならない」
と条文に書いてあったら政府が姿勢を変えないことを批判することができるが、条文には書いてなかったのだから政府が県民投票に応じる義務はなかった。新報社説の政府批判はお門違いである。新報社説は政府を批判するのではなく県民投票条例を作成した県与党を批判するべきである。いやそうではない。新報社説が認識しなければならないのは県は「政府は県民投票の結果に従わなければならない」と条令に書けなかったことである。書けば県民投票が違法行為になるからだ。

2006年―V字型滑走路飛行場建設で名護市長と政府が合意
2008年―辺野古沿岸埋め立てで県知事と政府が合意
2013年―県が沖縄防衛局の埋め立て申請を承認
2016年―最高裁が県の埋立て承認取消は違法と判決

 辺野古移設には県も名護市も政府と合意した。現知事と市長は前知事が政府と合意したことを一方的に破棄することはできない。破棄は違法行為であり、認められない。無論、県民投票の結果に政府が従う義務はないし、応じるか否かは政府の自由である。条例に県民投票の結果に政府が従わなければならないとか対応しなければならないと書けば県民投票そのものが違法行為になってしまう。そのことを知っていたから県与党は書かなかったのである。
辺野古埋め立てを進めることは政治的にも法的にも正当である。県民投票に左右されない。政治的にはなんの権利もないのが県民投票だった。なんの権利もない単なるパフォーマンスの県民投票を県民に強いたのが県政与党だったのである。

65年前にキャラウェイ高等弁務官は「沖縄の自治は神話である」の演説で、
「政治とは実際的な問題を処理していくことであって空想的な計画を作ったり、圧力団体がスローガンを叫ぶことではないのである」
と沖縄の政治を批判した。キャラウェイ高等弁務官の批判は今でも通用している。
 県民投票は実際的な問題である辺野古移設を処理することはできないものだったのに、あたかも県民投票の結果が辺野古埋め立てを左右するものと思わせた。県民投票は非現実の空想的な計画でしかなかった。辺野古移設反対派である与党のスローガンを叫ぶための県民投票であったのだ。米民政府統治時代であった63年前の高等弁務官の批判が現在も通用する沖縄政治であるのは残念である。

 琉球新報は、総務省の第三者機関「国地方係争処理委員会」(係争委)が県の審査申し出を却下したことについて、
「第三者機関が機能しないのでは、自治にとどまらず、日本の民主主義制度全体が機能不全に陥っているとしか思えない」
と述べているが、第三者機関はちゃんと機能した。機能したから却下したのだ。却下したから第三者機関が機能しないと決めつけるのは新報社説が辺野古移設反対のイデオロギーに凝り固まっていて報道機関としての客観性を見失っているからである。
 地方処理委が判断するのは県の承認撤回が法的に正しいか否かではない。承認撤回が正しいか否かの判断をするのは司法である。係争委ではない。係争委が判断するのは国交省が承認撤回を取り消した行為が合法であるか否かである。係争委は合法であると判断したのである。注意しなければならないのは係争委は承認撤回の内容が違法であるから却下したのではないということである。取り消した行為が合法であると判断しただけである。

 国全体の埋め立てを管轄する国交省であるから辺野古の埋立ても管轄する立場にあり、防衛省から提出された県の埋立て撤回は無効であるか否かの審査依頼を国交省が判断するのは当然である。当然であるから係争委は埋め立て承認撤回を取り消した国土交通相の裁決を不服とする県の申請に対して県の主張を退けたのである。係争委は「国が主張する内容の適法性を判断するものではない」と承認撤回の内容が正しいか否か法的に正しいかを判断するものではないということを断っている。その判断は係争委ではなく司法が判断するものである。
 それなのに新報社説は、
「国が進める埋め立てには疑問が尽きない」と述べた後に、大浦湾の軟弱地盤の改良は工期や工費を示せていないと指摘し、埋め立て工程の変更に関して環境保全を理由に県が国へ行政指導を再三実施していることで環境面にも疑念が残るなどと述べている。だから係争委の県の申請却下は民主主義の機能不全だと述べているが係争委は承認撤回の正否を審査する機関ではない。
 新報社説はこうした問題含みの工事について中身に踏み込まず形式論で門前払いしたことは、係争委が第三者機関として機能していないことを意味すると批判している。しかし、係争委が新報社説が主張しているようなことをすれば司法への不当介入であり違法行為である。ところが新報社説は「国交相の(承認撤回を違法とした)判断が違法かどうかなど実質的な審議はせず形式論に終始し、またもや門前払いにした」と批判し、係争委に埋め立てへの法的違法介入を要求しているのである。
 係争委は形式論ではなく国交省の承認撤回取消の行為が違法か否かを冷静に協議しているし県を門前払いにもしていない。新報社説がそう思うのは県の承認撤回は正しいと信じこんでいるからである。信じ込んで承認撤回が実現することを熱望しているから、係争委の役割を無視し、係争委に違法な司法判断をさせて県の主張を認めさせたいのである。新報社説の期待は空しく、係争委は係争委の任務に徹し県の申請を却下した。
 
日本国家の法律に則った合法的な手続きで辺野古埋め立ては決まったのに政府の独裁的な強制と決めつけているのが新報社説である。辺野古埋め立て反対政治だけが新報社説の民主主義政治である。新報社説のほうが沖縄の自治や、沖縄の民主主義制度を機能不全に陥らそうとしている。それは沖縄左翼政治と呼べるものである。
 沖縄左翼政治は議会制民主主義国家日本には通用しない。それを証明したのが翁長前知事当選以後の沖縄であった。
 辺野古移設反対の翁長氏が県知事に当選し、県議会も移設反対派が与党になった。それに衆議院選挙も移設反対派が圧勝し続けた。それなのに辺野古移設工事は着実に進み、翁長氏死去による知事選では翁長氏の後継者であるデニー氏が当選し、県民投票では辺野古埋め立て反対が7割以上になった。それにも拘わらず、辺野古移設工事は進み、埋め立て工事が着実に進んでいる。

 辺野古移設工事が進んでいるのは、日本が独裁国家で地方の権利は一切認めず中央政府のやりたい放題であるからではない。日本は議会制民主主義国家であり、地方自治権も認めている。
 辺野古移設工事が着々と進んでいるのは政府と県、名護市が辺野古移設に合意したからであり、合意は一方的に県が破棄できないからである。これが日本民主主義のルールである。民主主義ルールを無視した空想的な計画や、辺野古移設反対派のスローガンを叫ぶパフォーマンス政治は実際的な問題を処理していく民主主義政治に敗北していくだけである。
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キャラウェイ高等弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた3



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沖縄内なる民主主義19新発売中

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新報社説は「内なる民主主義」がない5
キャラウェイ高等弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた3
キャラウェイ高等弁務官はAサイン制度を1962年に制定・1963年に施行した人物である。Aサイン制度を制定したことによってAサイン店は1957年の約670店から250店にまで激減した。キャラウェイ高等弁務官の厳しくなった新基準によって生活に大きな打撃を受けた住民は後を絶たなかった。キャラウェイ高等弁務官を嫌った沖縄住民は多かった。
 Aサイン制度を施行したことでもキャラウェイ高等弁務官は嫌われている。しかし、キャラウェイ高等弁務官がAサイン制度を制定した裏には琉球政府の風俗営業に対するずさんがあった。
 本土では売春禁止法が1957年4月1日に施行されたが琉球政府は売春禁止をしなかった。そして、ずさんな管理で米兵の性病は蔓延した。
 
 コザ市に米兵相手の特飲街が最初にできたのが八重島である。八重島特飲街ができたのは ,経済的な理由の他に,米兵から婦女子を守るという目的も兼ね備えていた。当時,基地周辺地域では米兵による婦女暴行,致死事件が多発していたので,基地と一般居住地域との間に緩衝地域を設けることにより,米兵の犯罪を防止しようとする動きがあり、住宅地から離れた場所にある八重島に特飲街をつくった。
米軍側も性病の媒体となる売春婦を囲い込むことができるので両者の利害が一致した。
朝鮮戦争勃発直前にできた八重島特飲街は岩山や森によって人目につきにくく、特飲街として絶好の場所だったので,住民地区から隔離され た売春街 として注 目され,当 時の沖縄の大繁華街へと発展した。
朝鮮戦争の効果もあって,八重島は1950年末頃には50軒の飲食店が軒を並べて昼夜米兵の遊場となり,1951年から1953年にかけて,ホステス300人,人口1000余人とふくれあがり,コザの「不夜城」などと呼ばれたりしていた。

1950年になると朝鮮戦争が勃発する。朝鮮戦争の戦火が激しくなるにつれて嘉手納飛行場の米兵が激増する。米兵相手の特飲街は八重島以外にも増えていった。BCストリートにも米兵達を目当てとした商店やレストランが軒を並べるようになり,コザに大きな経済効果を及ぼした。
コザの特飲街には,沖縄本島や宮古・八重山などの離島,奄美大島など各地から,生きるために職を求める女性達が集まってきた。特飲街だけに限らず,売春は日常的に行われていた。生活するために場当たり的に売春を行う「街娼」や「パンパン」「ハーニー」「密淫」と呼ばれる女性が多く存在した。
米軍側を悩ましたのが性病の蔓延だった。性病になった米兵は兵士として役に立たないから米兵に性病が蔓延すれば戦力が落ちる。米民政府の民政長官は書簡で,性病撲滅の手段として,米軍要員の居住地域を米軍施設内に制限し,住民との接触を断ち切る手段を講じるかもしれないと伝えた。米兵が街に出なくなるという経済的影響を考えるならば,住民側で性病撲滅にもっと積極的に取り組むだろうという狙いがあったからである。
米民政府の狙い通り書簡に驚いた業者は性病撲滅対策を考えるようになった。対策として出てきた意見が,八重島特飲街のように一定地域に街娼を集め、性病感染防止策として定期的に検診する「検バイ制度」を完全実施をすることであった。しかし,米軍側からすると,性病に感染した売春婦達との接触が問題であり、そのような売春婦との接触を禁じたかったので,沖縄側の応急処置のような考えと抜本的改革を求める米軍側との間では意見が違った 。

日本軍は性病の蔓延を防ぐために「娼妓取締規約」を適用した慰安婦制度を制定し、日本軍が指定した慰安所のみで売春を許可した。「娼妓取締規約」には自ら警察官署に出頭して申請すること。医師の定期的な検診を受けること、性病になれば仕事をしないことなどを明記している。性病を予防するために日本軍の慰安所では必ずサックを使用することを義務付けていた。もし、琉球政府が戦前の「娼妓取締規約」を参考にして売春規約を制定していたなら性病は蔓延しなかっただろう。琉球政府は「娼妓取締規約」のようなものを制定することもなく売春を野放しにしたのである。

売春行為によって「花柳病(性病)」が米兵たちの間に蔓延し始め,朝鮮戦争に派兵される兵士の数に影響を与えたため,これ以上の拡大を防ぐ目的から米軍はオフ・リミッツを発令した。オフ・リミッツとは,米軍人・軍属の沖縄の住民地域への立ち入りを禁止する措置のことである。米民政府公安局は1952年1月15日にオフ・リミッツを売春関係の地域に発令したのである。もし、オフ・リミッツを宣言された地域に入った全ての米軍要員には適切な懲罰措置が下されることになる。
ところがオフ・リミッツの発令目的である性病の感染防止は,その当事者であるとされた街娼などが立入禁止地区の対象外であるほかの地域へ移動してしまうので,地域を限定したオフ・リミッツの発令では,その効果が発揮されることがなかった。性病の蔓延をなくす目的のオフ・リミッツであったが効果はなかったのである。

街娼をオフ・リミッツ地域の歓楽街へ収容することが不可能であることを知った米民政府だった。米民政府はオフ・リミッツで性病の蔓延を防ぐことを諦めた。基地に依存する人々としては,オフ・リミッツ発令は死活問題であった。実際に倒産にまで追い込まれる人もいた。業者たちは早急なオフ・リミッツ解除を米軍に陳情するようになった。オフ・リミッツを解除させるために特飲街で働く特殊職業婦人の性病感染防止策である検バイ制度などの徹底を図ることを米軍に約束した。
米軍はオフ・リミッツを解除した。検バイ制度などの徹底を図ることがオフ・リミッツの解除の理由と業者側は思ったが、実はそうではなかった。オフ・リミッツでは性病の蔓延を防ぐことはできないと知ったからだった。オフ・リミッツでは出入りを禁じた地域から別の地域に街娼は移動するので街娼の売春を防ぐことはできない。オフ・リミッツでは性病防止の解決にはならないことを知った米民政府はオフ・リミッツの逆の方法を考え出した。
米軍は1953年11月に飲食店や風俗営業と12のホテル業者に米軍人・軍属が立ち入ってもいいというAPPROVED(許可済み)の営業許可証を発行した。米兵は許可済みの店だけに出入りでき、
非営業許可の店には出入り禁止にした。米兵の出入りを禁止するやり方ではなく、出入りできる店を限定したのだ。APPROVEDの頭文字がAなので営業許可済みの店をAサイン店と呼ぶようになった。
レストラン・飲食店は「赤のAサイン」,バー・クラブなどは「青のAサイン」,加 工 食 品 は「黒 のAサイン」というように3つの色で区分していた。特に飲食店に限っては「赤のAサイン」の許可表示がない店には米軍人・軍属の立ち入りを厳しく取り締まった。Aサイン制定は,設備の改善など高額な費用がかかり,また銀行の資金停止も重なり,オフ・リミッツの影響を受けた八重島特飲街の業者にとって,四苦八苦の状態になった。八重島では1956 年を境に衰退の一歩をたどる一方,入れ替わるようにして BCストリートは次第に活気が溢れるようになっていった。
ただし,A サイン制度で店の衛生環境の質に変化が生じたものの、一歩路地に入ると売春行為が続けられていた。それに民間地域の中に特殊飲食店が散在する状態であった。そして、飲酒はしないで売春のみを商売とする遊郭も登場した。それがコザの吉原である。
1953年に,東京の有名な遊郭である吉原にあやかって,吉原風俗営業組合が結成され,八重島の近くに吉原がつくられた。民間地域の中に特殊飲食店が散在する他の特飲街とは異なった独立した組合の営業によって,民家に直接悪影響を及ぼさない立 地条件を強みに、「白人相手の風俗店街」を目的に商売を始めた。しかし,1954年7月に米軍は吉原をオフ・リミッツ地域に指定した。オフリミッツが実施されて以来,吉原は苦境に立たされた。そこで,「白人相手の風俗店街」から一転して,「沖縄人相手の風俗店街」として商売をするようになった。吉原のオフ・リミッツは1955年4月に解除されたものの,その時には沖縄人相手に繁盛するようになっていた。吉原は完全に沖縄人のみというわけではなく,1956年9月頃にはポツポツと外人客が姿を見せ,琉米両方を相手に商売をしていたが, A サインなしでも米兵を入店させる店もあった。Aサイン制度の導入をしても事態は急変することに至らなかったのだ。米民政府は,Aサインの施設の数を減少させることによって,監視活動を容易にでき,認可基準を厳格にしていく考えを明らかにするようになっていく。そうなれば米兵相手の商売は大きな痛手になるだろう。
米民政府が実施しようとしていたAサインの施設の数を減らす計画は実施されなかった。それだけではない。1959年にはAサインも停止するようになった。原因は琉球政府社会局(1961年8月から厚生局)が飲食店の許可・衛生審査を適切に管理する条件の下に,当時のブース高等弁務官が未認可施設へのオフ・リミッツをすべて解除したからである。制度停止に際しては,米民政府公安局・厚生局が琉球政府の保健職員とともに検討を行った結果,琉球政府による健康・衛生・検査に関わる制度と手続きが改善・厳格化されたと評価したからである。
琉球政府による営業認可制度で米軍向け営業も十分に保証できると判断した米民政府はオフ・リミッツとAサイン制度を廃止して、飲食店営業可制度を琉球政府へ移管した。売春・性病予防対策として,オフ・リミッツを経てAサイン制度といった施策を導入したものの,売春・性病根絶を果たさないまま制度を停止して、管理はすべて琉球政府に任せたのである。しかし、 琉球政府の飲食店営業管理は米民政府の期待を裏切った。
琉球政府の飲食店営業管理になると、風俗営業関係の業者は乱立し,コザの街は性病蔓延が再び過熱していった。風紀は米民政府の期待を裏切り乱れていったのだ。それに、琉球政府の認可した施設の多くが米軍要員およびその家族の健康と福祉にとって有害なものとなっていった。

沖縄統治の最高責任者は琉球列島民政長官(極東軍総司令官)で、副長官に琉球軍司令官が任ぜられ、その補佐役に民政官がおかれていたが、1957年6月、米大統領行政命令で高等弁務官制度が施かれ、ムーア副長官が初代の高等弁務官に就任した。米民政府の最高責任者は米軍ではなく米国大統領になった。

米民政府がオフ・リミッツをしたのは性病が蔓延しないためであったが、1954年に性病対策ではなく政治的な理由でオフ・リミッツを中部一帯に敷いたことがあった。原因は米国民政府のプライス勧告だった。1954年3月にアメリカ民政府は,アメリカ側評価による地価相当額の一括払いによる永久借地権の設定を勧告した。これに対し地主は反対し、琉球立法院は,地代の一括払い反対,適正補償,賠償,および新規接収反対の4原則を打ち出した。四原則要求は島ぐるみの反対運動に発展していった。
島ぐるみ反対運動に対して、
「第30号線以北から東部の屋嘉及び西部の仲泊以南にある全住民地域及び諸施設は、無期限にわたり全米軍要員の“オフリミッツ”に設定された。この禁令は全軍要員に適当な通告を与えるため、8月8日の午前9時までは実施されない。この処置は、この地域内で計画される住民大会やデモ(示威行進)における煽動的意見、または行進の結果発生するかもしれない琉球人と米人間の衝突をさけるための予防措置としてとられたものである。」
と米民政府はオフ・リミッツ発令の警告をした。
警告した日の翌日に琉球大学の学生会を中心とした集会がコザの諸見小学校で開かれた。学生たちはデモも計画していたが、集会の途中、10数人のコザの風俗業者が、コザ市長からの要請ということでデモの中止を求めてやってきた。業者の要求でデモは中止した。しかし、反対運動はなおも盛り上がっていき、米民政府は忠告通りオフ・リミッツを発令した。そして、琉球大学の6人の学生が米民政府の圧力で除籍処分を受けた。
オフ・リミッツを発令してもプライス勧告反対島ぐるみ運動は鎮まることがなく、反対運動は4年間続いた。1958年6月、第2回土地問題渡米折衝団(当間重剛琉球政府行政主席ら)が現地で米陸軍長官と解決策を協議し、軍用地料はプライス勧告時の6倍に引き上げ、原則として地代は年払い、5年ごとに土地の評価替えをして更新することが決まり、反対運動は終わった。
 軍用地主の収入は増え、産業も復興し、米兵相手の夜の産業もどんどん発展していった沖縄はかつてないほどに経済発展していった。そして、金の亡者たちが暗躍し政治は腐敗する時代になっていった

そんな状況の中、1961年にポール・W・キャラウェイ氏が高等弁務官に任命された。

キャラウェイ高等弁務官は性病が蔓延しているのを防ぐ目的ですぐに新しい制度つくりの検討に入った。そして、新基準によるAサイン制度が1962年に制定され1963年に施行されたのである。新Aサイン制度の認可要件は,立地,建築,内装,設備,衛生,保管,冷凍,食器類,全般といった10項目からなり,各項目にさらに多くの細目が付記されていた。
新基準拠項目は,まず主要道路沿いの立地,街灯の存在,下水溝の覆い,業務地区内の立地,歩道の安全,集合店舗の禁止,地区の美貌といったAサイン店集積地区の物理的構成と外観の整備を要求し,続いて詳細な施設建設,内装,設備の条件を規定した上で、新基準を加えた。
特に注目する新基準はトイレに関する2項目であった。
「トイレは居住地区域に対して開かれていてはならず、適切な照明を備えなければならない」
「男性用と女性用に別の設備がなければならない」であった。これは当時売春が店舗のトイレと通ずる奥の部屋で行われていたことに対する措置であった。キャラウェイ高等弁務官はAサインの店舗では売春ができないようにしたのである。これらの基準はAサイン施設・区域内からの売春行為の「空間的」排除を意図するものであった。Aサイン制度は以前と比べ,物的環境において厳格な基準が設けられることとなったのである。   
キャラウェイ高等弁務官によるAサイン復活は,コザの業者を大混乱させた。というのは,新しいAサインの検査基準というのは,衛生面が重視されており,検査基準に合わせるためには何千ドルという資本金が必要になったからである。新基準によって従来までにはない高度な衛生観念を身につけることができたのだが,厳しくなった新基準を守っていない店は即オフ・リミッツが発令された。キャラウェイ高等弁務官の新しいAサイン基準は琉球政府の甘い管理になれていた業者たちの生活に大きな打撃を与えたのである。こうした厳格な新制度の適用によって,改築のための設備投資が可能であった業者のみが申請を行い,その数は1957年の約670店から250店にまで激減した。性病がなくならない限りオフ・リミッツは絶えないと判断した業者側も, 新Aサインによる衛生面を重視するようになった。そうすると,必然的にオフ・リミッツになることが少なくなった。このキャラウェイ 高等弁務-官による新Aサイン制度によって, 一挙に設備も衛生面も向上したAサイン店であった。

米兵に性病が蔓延するということは特飲街の女性に蔓延することであり、琉球政府が売春を野放しにしているということは沖縄に性病が蔓延するということである。そして、蔓延した。キャラウェイ高等弁務官がやったことは琉球政府が積極的にやるべきことであった。
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キャラウェイ弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた2



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明治時代に八丈島からの開拓団が入植するまでは、大東島全島が無人島であった。南大東島の開拓を始めたのが玉置半右衛門だった。半右衛門は開拓団を募集し、その時に「30箇年の政府貸下げ期間経過後は、各耕作者に開墾した土地の所有権を与える」ことを口約束したといわれ、開拓団の人々はそれを励みに大木生い茂る亜熱帯の原生林を切り拓いていった。しかし、玉置半右衛門の病没後、南大東島が東洋製糖へ譲渡されてしまったことにより、耕作者に土地の所有権が認められない状態が戦後まで続いた。
戦前は大東島の土地はすべて製糖会社が所有していて学校教育や医療、交通制度もすべて製糖会社が運営していた。
1945年(昭和20年)終戦。南大東島も終戦までは戦争に翻弄され、空襲や激しい艦砲射撃を受けた。製糖工場が焼かれたことと、自給自足が必要となったことで、入植以来行われてきた製糖業も中断せざるをえなかった。
1946年(昭和21年)に米軍政府は製糖会社による経営という社会制度を排除し、村制が施行されて「南大東村」が誕生した。これまですべて経営する会社に頼ってきた学校教育や医療、交通制度は政府や村に委ねられることになった。新しい村づくりが始まり、村議会や婦人会、青年会も発足。郵便局や警察署も次々に設置された。南大東島の土地を所有している大日本製糖は本土に引き揚げ、大東糖業社が設立された。
新しい村が作られていく中で、島民の気掛かりは土地のことだった。村制が敷かれたとはいえ、土地は相変わらず大日本製糖の所有だったのだ。

戦前の大東島は企業が島をまるごと所有する状態だったため、通常の行政制度の適用を受けなかった。大東島諸島は行政区分としては島尻郡に属していたが、島ごとが社有地であるために、そこに生活する農民や「仲間」は形式上は社有地に仮住まいしているようなものだった。そのため、戸籍人口は一人もいないという特異な状況だった。

米軍政府によって会社員から村民となった南大東島の人々は土地の所有権を主張し1959(昭和34)年6月21日に「土地所有権獲得期成金」を結成し、国、琉球政府、民政府への陳情をくり返し訴えた。島の土地所有権を主張していた大日本製糖と村民は土地の所有権をめぐり裁判で争うことになった。 
1952年に琉球政府が設立され、行政、立法、司法の三権分立の沖縄になったから、長きにわたり解決しなかったこの土地問題は米民政府ではなく琉球政府の司法にゆだねられたのである。、しかし、59年から大東島村民の訴えは4年経過しても琉球政府は村民の土地所有権を認めるまではいたらなかった。
1961年(昭和36年)に南大東島の視察に来た時キャラウェイ高等弁務官に、島民達は半右衛門の口約束から始まったこの島の土地問題を直訴した。裁判が続く中で、キャラウェイ高等弁務官は米琉合同土地諮問委員会に調査を命じ、調査の結果、島民に土地の所有を認めた。
1964年(昭和39年)7月30日、キャラウェイ高等弁務官により島民の請求した農地や土地が無償で譲渡されることになった。島民の願いが叶えられたのである。入植から64年、南大東村にとってこの日は歴史的な日になった。歴史的な日の翌々日の1964年8月1日にキャラウェイ氏は第3代琉球列島高等弁務官を退官した。南大東村民の土地の所有権を認めたのがキヤラウェイ高等弁務官の最後の仕事になったのである。

61年に大東島の問題を知ったキャラウェイ弁務官は裁判の様子を見守っていただろう。しかし、琉球政府の裁判がもたもたして大東島の島民の立場に立っていないことに失望したキャラウェイ弁務官は退官するぎりぎりになって島民の土地の所有権を獲得させたのである。

「沖縄の自治は神話である」と言ったキャラウェイ弁務官が大東島では自治権を与えたことに不思議がる人は多い。

「アメリカによる沖縄統治の最高責任者である高等弁務官のキャラウェーは、沖縄人の自治を認めなかったにもかかわらず、大東島では農作業に従事していた人々に土地所有権を認めた。
これにより、沖縄で忌み嫌われたキャラウェーは、南大東島の沖縄人にとっては、神様のように評価されることになった。歴史の皮肉だ」
という評価が多いが、それはキヤラウェイ高等弁務官の「沖縄の自治は神話」の真意を理解していないからだ。
 キャラウェイ高等弁務官が沖縄に自治を認めなかったから「自治は神話」であるということではない。沖縄に自治権を与えても自治権は沖縄の人民のためではなく一部の人間の利権に使われてしまうからキャラウェイ高等弁務官は「沖縄の自治は神話である」と言ったのである。

 南大東島でも琉球政府が統治している状態では「沖縄の自治は神話」というのが現実であったのだ。
 米軍政府は大和製糖の支配から解放して南大東を自治村にして、南大東島の人たちに村運営権を移した。しかし、南大東の土地は大和製糖の私有であり、大東島で働いて生産する人々には私有権がなかった。それでは本当の自治村とは言えない。
 軍政府が大東村に与えた自治権ではあったが、それだけでは本当の自治村とはいえなかった。土地の所有権のない南大東村の自治はみかけであり、「南大東村の自治は神話」であった。神話から本当の自治にするには琉球政府が南大東村の人々に土地の所有権を認めることであった。しかし、琉球政府は認めるまでにはいたらなかった。琉球政府は南大東村を「自治は神話」にしたままだった。
 「南大東村の自治は神話」を排して自治を実現したのがキャラウェイ高等弁務官だったのである。

1946年 : アメリカ軍政開始により村制が施行され、製糖会社による島の支配から脱して南大東村となる。しかし、「自治は神話」の状態になる。
1964年 : 島内の耕作地の所有者が大日本製糖ではなく島民であることが最終的に確認される。
「自治は神話」が解消される。

多くの人たちはキャラウェイ高等弁務官の「沖縄の自治は神話である」を理解していない。キャラウェイ高等弁務官から見れば琉球政府が土地の所有権を認めていない南大東島村こそが自治の神話であったのだ。だから、神話を解消し、南大東村を本来の自治村にしたのである。

本土では1947年にGHQの指導の下で日本政府が行った農地の所有制度の改革を行った。
「1945年12月9日、GHQの最高司令官マッカー サーは日本政府に『農地改革に関する覚書』を送り、『数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する』ことを指示した。こ れ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を 作成、同法は1946年10月に成立した」。
この法律に基づき、不在地主の小作地のすべてと在村地主の小作地のうち広面積の小作地が政府によって強制的に安値で買い上げられ、小作人に売却された。その結果、農地に占める小作地の割合は46%から10%に減少し、地主制度は完全に崩壊した。キャラウェイ氏が南大東島村で行ったのは不在大地主から小作人である島民に土地の所有権を移すことであり「日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」GHQの農地改革と同じ行為である。それは奴隷制を徹底して許さない民主主義の原点である。
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埋め立てはどんどん進む。それなのにデニー知事はのんびりトーク全国キャラバンだとよ



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埋め立てはどんどん進む。それなのにデニー知事はのんびりトーク全国キャラバンだとよ

 県が実施した県民投票で辺野古埋め立て反対が7割を超した。県民は埋め立てに反対なのだから、県民の代表である玉城デニー知事は民意が実現するまで懸命に行動するべきである。もし、埋め立てが阻止できなかったら知事の座を退く覚悟で取り組むべきである。それが県知事のあるべき姿である。しかし、デニー知事は辺野古埋め立て阻止に真剣に取り組む気はないようだ。
 県民投票から5カ月が過ぎた。辺野古埋め立てに本部港からも土砂を運ぶようになったし、辺野古埋め立て現地では新たにK8護岸からの土砂の陸揚げもするようになり、埋め立て工事のペースが二倍になった。そんな時にデニー知事が新たに始めたのが  
安全保障の負担を全国で考えてほしいと訴えるトークキャラバンである。日々を重ねれば重ねるごとに辺野古埋め立て阻止に心血を注いでいくかと思いきやなんと、「トーク」キャラバンをするというのだ。「トーク」である。あきれてしまう。県知事の仕事は「トーク」をすることではない。県知事の仕事は行政である。やるべきは「トーク」ではなく「行政」である。県知事のやるべきことは県民への公約を実現し、県民の希望を実現していくことである。
県民投票で7割以上の県民が埋め立てに反対したのだからデニー知事は埋め立て阻止の実現に突き進むべきである。突き進んでいると思いきや、なんと11日に東京のルポール麹町でたった200人の市民を集めてトークをしたのである。議員でもない、知事でもない普通のたった200人の市民を集めてトークをしたのである。デニー知事は東京だけでなく全国キャラバンをやるという。「トーク」で沖縄に負担が集中する安全保障について全国的な議論の喚起を狙うというのである。東京で集まった市民はたった200人である。東京の人口は1300万人である。1300万人の内のたった200人とトークしたのである。これでは政治的な効果は0である。沖縄県の行政の長である県知事ならばわずか200人の東京都民とトークするのではなく東京都の行政の長であると知事とトークするべきである。
デニー知事がやるべきは市民と「トーク」することではなく、辺野古移設を阻止するために都道府県知事や市町村長との交渉をするべきである。

県の情報発信のための全国キャラバンは1996年の大田県政がやったという。そうであるならば太田県政の全国キャラバンの成果を分析するべきである。全国キャラバンによって日本中に沖縄問題が理解され、沖縄問題が解決されていったならデニー知事も全国キャラバンをやるべきである。そうでなかったらやるべきではない。事実、太田県政の全国キャラバンの成果はなかった。東京のルポール麹町で行った全国キャラバン最初の集会を見れば全国キャラバンがなんの成果もないことは予想できる。
キャラバンの題名が「We love OKINAWA デニー知事キックオフ・シンポジウム―沖縄の声を聞き、皆で考えてみませんか?」である。東京の市民に「We love OKINAWA」を主張するキャラバンなのだ。東京市民なら「We love TOTYO」である。東京市民に東京愛を示すことはなく一方的に「We love OKINAWA」を掲げ、沖縄のことを考えろというのはどうだろうか。沖縄に強い関心がある市民なら聞くだろうが、沖縄に関心のない市民なら聞かないだろう。
 デニー知事は、200人の市民に薩摩の侵攻に歴史をさかのぼりながら「為政者による圧力が今日に至るまで続いている。その最たるものが辺野古の現状だとぜひ受け止めて、自分ならどうするか主権者として考えてほしい」とそれぞれが考えるよう訴えたという。デニー知事は薩摩侵攻を問題にしているが、琉球王国も宮古、八重山。奄美大島を侵攻をした歴史的事実がある。

奄美群島南部の沖永良部島と与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏は1416年に北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島と沖永良部島に服従を要求する。沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃した。1429年に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。次いで徳之島も服属した。
1447年に第一尚氏4代尚思達王が奄美大島を征服。1450年から1462年まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた。
1466年に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧して、琉球王国は奄美群島全域を支配下に置いた。全域支配の成った1466年、琉球王国は那覇に泊地頭(泊港)を置き、奄美群島各地に年貢の納付を改めて命じた。

デニー知事の主張は沖縄本島で三国を統一した琉球王国中心の理論であり、客観性がない。封建時代は武力に強い国が弱い小国を武力で支配し、年貢を納めさせる時代であった。武力で勝る琉球王国は宮古島、八重山、奄美大島を武力制圧し年貢を納めさせたのである。1609年には武力で勝る島津に琉球王国は支配された。封建社会は支配者の弱肉強食の時代だった。
しかし、琉球処分は違う。封建社会の江戸幕府を滅ぼして近代国家を設立した明治政府は武力で琉球王国を滅ぼしたが、琉球を支配し、年貢を納めさせたのではなかった。明治政府は琉球王国を滅ぼして四民平等の沖縄県を築いた。
 デニー知事には島津侵攻と琉球処分そして安倍政権も沖縄に圧力をかける為政者にしか見えないようだ。
 ハーフであり身分が最下層であるデニー氏が琉球国王になれるはずはなかった。明治から戦前までは日本政府が県知事を派遣していたから、四民平等ではあったがデニー氏が県知事になれることはなかった。戦後、日本復帰して日本の法律が沖縄に適用されるようになり、県知事は県民の選挙で選ばれるようになったからデニー氏は県知事になれたのである。それなのに島津侵攻以来の為政者による圧力が今日に至るまで続いていると考えるのはおかしい。もしそうであればデニー氏が知事になれたはずがない。日本が法治主義の議会制民主主義国家になったからデニー氏は県知事になれたのである。
 デニー知事は、辺野古の工事の在り方について「法律の解釈のねじ曲げが続くと、日本の民主主義も地方自治も成り立たない。沖縄の現状ではなく、自分ごととして考えてほしいと全国に伝えたい」と東京都の200人の市民に話したという。
 法治国家である日本で法律の解釈の捻じ曲げが簡単にできるのか。もし、デニー知事のいうことが正しいなら日本の民主主義も地方自治も成り立たないだろう。議会制民主主義国家の政府が法律を捻じ曲げているとは考えられない。むしろ、法律を捻じ曲げようとしたことが明らかになったのは政府ではなく翁長知事の承認取消だった。最高裁で翁長知事の承認取り消しは違法であるとの裁定が下ったのだ。

デニー知事は「政府は辺野古が唯一の解決策だという。だが、どこと比べて唯一なのか沖縄県民は説明を受けたことはない。辺野古が唯一という理由、理屈が成り立っていないから説明してと求めている。説明できないものを実行するわけにはいかない」と改めて辺野古新基地は認められないと強調したが、現実はデニー知事が認めなくても埋め立て工事は着々と進んでいる。デニー知事が「実行するわけにはいかない」と言っても安倍政権は実行しているのである。

県知事は県行政の長である。国の行政の長ではない。デニー知事は県行政の長なのだから国の行政の在り方を追及する前に沖縄県の行政に集中するべきである。デニー知事の歴史や法の解釈は行政ではないし解釈が辺野古埋め立て工事にいささかも影響することはない。全国キャラバンは少数の市民に県の税金を使ってデニー知事のたわごとを聞かすだけである。行政の長であるデニー知事がやるべきものではない。
政府は「辺野古が唯一である」と述べて、辺野古移設工事を進めている。デニー知事は「辺野古が唯一という理由」を政府は説明していないと言うが、政府は名護市長とV字型滑走路飛行場建設で合意し、県知事とは埋め立てで合意した。だから辺野古飛行場建設工事をやっている。「辺野古が唯一という理由」を説明しなくても法に則って実践していく。それが行政だ。
デニー知事がやるべきことは「トーク」することではない。県民投票で明確になった辺野古埋め立て反対の民意を実現することである。東京キャラバンをのんびりとやっている暇はない。真摯に辺野古埋め立てを阻止するのに取り組まなければならないのがデニー知事である。
県民投票の民意を根拠にした安倍政権への辺野古埋め立て中止要求は政府の「辺野古移設が唯一」という理由によって実現させることはできなかった。安倍政権が県民投票の民意を無視したのである。安倍政権の民意無視に日本の民主主義も地方自治も成り立たないとどんなに叫んでも辺野古埋め立てを止めることはできない。それが現実である。安倍政権への中止要求では辺野古埋め立て反対の民意を実現することはできないことは明らかである。であるならば他の方法を模索しなけれはならない。しかし、まだ有効な方法は見つかっていないようである。追い詰められているデニー知事であるはずだがなんとのんびりと全国キャラバンをするというのである。これでは辺野古埋め立て阻止に真剣に取り組んでいるとは言えない。

6月14日で沖縄防衛局が辺野古沿岸部に埋め立て土砂を投入して半年となったことについてデニー知事は、
「埋め立て工事を行わないようぎりぎりまで政府に求めてきたが、土砂投入の強行は非常に遺憾だ」
とした上で、県民投票の結果に関係なく工事を進めると宣言した通り埋め立てを進めている政府に対して、デニー知事は2月の県民投票の結果を踏まえ、政府は工事を中止して県と対話する場を設け、解決策を模索すべきと主張した。
政府の解決策は辺野古移設である。着実に埋め立てを進めるのが政府の方針であるし、実際に埋め立てを着実に進めている。そんな政府が埋め立てを中止することはないし、解決策を模索することもない。模索しなければならないのはデニー知事である。

 デニー知事は、政府に対話を呼び掛けながら、行政指導や国地方係争処理委員会の審査申し出、抗告訴訟など法律に基づいた対抗策を講じると述べている。デニー知事の模索はこの程度である。
 翁長知事が承認取消の法廷闘争で敗北したように法律に基づいた闘いでは政府に絶対に勝てない。ということはデニー知事の対策では辺野古移設を阻止することはできない。阻止できないのに阻止できるる振りをしているのがデニー知事である。

キャラウェイ高等弁務官は「沖縄の自治は神話である」の講演の中で、沖縄の政治を批判し、
「政治とは実際的な問題を処理していくことであって空想的な計画を作ったり、圧力団体がスローガンを叫ぶことではないのである。政治というものは可能なものを行う芸術である」
と述べた。50年以上前のキャラウェイ氏の批判であるが、彼の批判は現在の沖縄の政治にも通用する。

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キャラウェイ弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた1



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新報社説は「内なる民主主義」がない5
キャラウェイ弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた1

1952年に行政主席・立法院・裁判の三権分立の琉球政府が設立される。行政首席は民政府が任命、立法院議員は市町村民の選挙で選ばれた。

行政主席の職務・権限
行政各局の管理運営に責任を負い、米国民政府の認可のもとに職員を任命する。
立法の委任がある場合には、その施行のために必要な規則を定めることができる。

立法院の権限
米国民政府の布告・布令・指令に反しない限りにおいて法律を制定する。立法院で制定した法律は米国民政府の承認を経て施行された。

沖縄の住民が選出した議員によって法律が制定されるようになったから、沖縄の民主化は発展していったように見えたが、実はそうではなかった。キャラウェイ弁務官のことを調べていくとその事実が分かってきた。


2015年4月 7日 (火)に翁長知事が菅官房長官に「キャラウェイのようだ」と言ったことをきっかけに琉球新報は翌日の8日に「『キャラウェイ』に反響63年「自治神話」報道」の記事でキャラウェイ弁務官の「沖縄の自治は神話」発言について書いている。

菅義偉官房長官との会談で翁長雄志知事が引用したキャラウェイ高等弁務官の「自治神話論」発言があった1963年3月、高等弁務官の発言を批判的に報じた琉球新報の社内には緊張感が広がっていた。
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「自治は神話である」―。1963年3月5日、キャラウェイ高等弁務官は那覇市内・ハーバービュークラブの「金門クラブ3月月例会」に招かれ演説。翌6日の琉球新報朝刊は一面で演説内容を次のように記す。

「自治とは現代では神話であり存在しない。琉球が再び独立国にならないかぎり不可能」
「琉球政府への権限委譲は行政命令にも規定し、努力も払われているが現在の琉球政府の状態ではまだまだ」
演説は県民の「自治権拡大」の熱望に冷水を浴びせ、同日夕刊で立法院野党各党は猛反発した。
               琉球新報
キャラウェイ弁務官が「自治権拡大」の熱望に冷や水を浴びせたことに野党は反発したと新報は報じている。野党とは人民党や社大党の左翼政党であり反米主義の左翼政党が反発するのは当然であるが、与党の保守の方もキャラウェイ弁務官には反発していた。保守革新の政党から嫌われたのがキャラウェイ弁務官である。

「沖縄の自治は神話である」と発言したポール・W・キャラウェイ氏が高等弁務官に就任したのは、琉球政府が設立してから9年後の1961年2月16日である。弁務官の中で一番悪名高いのがキャラウェイ氏であるが、キャラウェイ弁務官が沖縄の住民を弾圧し苦しめる政治をやったと思うのは間違いである。キャラウェイ弁務官がやった政治は沖縄の住民のためであった。彼の演説の全文を読めばそのことが分かる。ところが沖縄の政治家も新聞もキャラウェイ弁務官を自治権拡大を許さない独裁者であると非難したのである。原因はキャラウェイ弁務官と沖縄側との間には自治についての考えの決定的な違いがあった。

リンカーン大統領の有名な「人民の人民による人民のための政治」の格言が民主主義の原則と言われている。キャラウェイ弁務官はリンカーン大統領のいう民主主義の原則を実現するのが自治であると考えていた。しかし、沖縄の自治は「人民の人民による人民のための政治」ではなく「一部の人間の一部の人間による一部の人間のための政治」であった。沖縄側が要求したのは沖縄の一部の人間による政治決定権であったのだ。沖縄の政治にはリンカーン大統領のいう「人民のため」が欠落していたのだ。キャラウェイ弁務官はそれを弁務官権限で「沖縄の人民のための政治にした」のである。
キャラウェイ弁務官のいう自治とは、納税者の最小限の負担で政治の安定並びに住民の福祉で最大の効果を上げながら合法的な機能を効率的に行使する政治のことである。琉球政府がそのような政治を行い、政府の機能を十分行使する能力があることを実証すればキャラウェイ弁務官は「沖縄の自治は神話」とは言わないで沖縄に自治権を拡大していっただろう。しかし、沖縄の政治は合法的な機能を沖縄人民のために効率的に行使するのではなく一部の人間の利益のために行使するだけであった。
米民政府が権力機能を移譲すると、特殊な利益団体が納税者の負担で利益を享受したり、一般住民を無視して特権層が利益を享受していた。その事実が米民政府の調査によって明らかになったから権限の委譲はしないとキャラウェイ弁務官は言ったのだ。

キャラウェイ弁務官は「沖縄の自治は神話である」の演説で琉球政府、立法院、司法が沖縄住民のためではなく一部のための政治であることを指摘し批判した。

琉球政府批判
1、琉球政府は失業保険制度が制定されたとき、その   資金の管理者にされたのである。しかし、同資金は琉 球政府のものではないのである。その資金は被雇用者や雇用者が納入した者であり、それから利益を受ける労働者に所属するものである。琉球政府は単に、その資金を労働者のために保管しているのに過ぎないのである。しかし、同資金を労働者の利益以外の目的のために流用しようとしたことが、これまでに幾度となくあったのである。同資金の保全にとっての脅威は、やっと最低必要な保護策が立法されるまで続いたのである。

2、琉球政府は、労働争議の一部である小さな暴力に なるかもしれない行為と、争議の一部ではなく、実際に刑事上の行為である暴力行為とを区別することをこれまで一貫して拒否してきたのである。政府は労働争議中のすべての行為を、争議の一部とみなす傾向があったのである。この主張は、法律的見地から支持することはできないのである。これは、その平和と安隠を保つため社会に対して責任を持つ当局によって、全社会を相手として犯された欺瞞行為である。そして、これは琉球政府の方で責任を取ることを拒否することになるのである。

3、西原地区における二つの競合する製糖工場の問題は、責任回避の一例である。道をへだてて二つの製糖工場を設立し、同じ農民からサトウキビの奪い合いをさせることに経済的な妥当性がないことは知られていたのである。それにもかかわらず、琉球政府は二つの製糖工場を許可したのである。この措置には、その地域の住民への、ひいては琉球経済全般に対する影響についての考慮がなされていなかったのである。今日、農民も工場側もこの問題および少なくともこれと性質を同じくするもう一つの問題に対して、無謀にも無責任であった琉球政府も、砂糖産業を合理化することを狂気のように試みており、その反面それと同時に他地域からの競争に対処するため、より大型の、したがってさらに小数の製糖工場にする決裁を避けようとしているのである。

4、多年にわたって琉球の銀行は、ほとんど完全な許可証を受けて運営を許されてきたのである。私は自由という言葉よりむしろ許可証という言葉を用いる。というのはここでもまた、私たちは、銀行と政府による信用機関の甚だしい濫用を見出すからである。この分野における不正行為の一例として、理事たちは彼らが経営している営利会社に無担保貸し付けを行うことが認められていたのである。これらの資金は、銀行に彼らの貯金を任せた大小多数の預金者の預金から出たのである。このような行為は他国ではほとんどどこでも重罪となるのである。琉球政府は、これに対して措置を取ることを拒否し、その代り弱々しくもその責任を回避して、米国民政府にそれを転嫁しようとしたのである。

立法院批判
1.医療法案は病院、診療所および助産院が一般大衆保護のための最低基準に適っているか、いないかを確かめるために必要な年次監査を規定しなかったのである。法律違反に対する刑が専門的水準を維持する上に全く不十分であり、また、不法営業を除去したり、厳重に防止することもできなかったのであろう。
2.立法院は、その労働者災害保障保険法案の草案の中で労働者が被った業務上障害のため、雇用者が当然も持つべき負担額を納税者に負わせるように法案を書き表して、納税者の税金の不当な使用を許可しようとしたのである。

立法院は、行政府と同様、琉球住民の利益のために必要とされているすべての法律を制定する権限を委任されているのである。立法院がそれをなし得なかったことに対して、高等弁務官が立法院に十分な権限を委任しなかったり、その行動に対する責任を与えなかったとして、高等弁務官のせいにして逃れることはできないのである。

司法批判
司法はその義務と責任の性質上、責任を引き受け、それを遂行するのに最も優れた記録を持っているのである。したがって司法府はおそらくもっとも広範囲の責任を持っているのである。しかし、ここにも法律上迅速な裁判をなす場合、それをよほど遅らせたり、法曹人の職業的水準が望まれているよりも低いのを黙認している例があるのである。

「沖縄の自治は神話である」の演説で指摘した問題はキャラウェイ弁務官が初めて指摘していたものではない。以前から米民政府が指摘して沖縄側に正すように忠告していた問題であったが、沖縄側は米民政府の忠告に目を背け正すことはしなかった。しびれを切らした米政府は沖縄の政治を正す目的でキャラウェイ氏を弁務官に任命したと思える。それはキャラウェイ氏の履歴を見れば納得できる。

ポール・ワイアット・キャラウェイの履歴
キャラウェイ氏は1905年12月23日、アーカンソー州ジョーンズボロで父・サディアスと母・ハッティの間に生まれた。三人兄弟の一人であり、兄弟の名はフォレストとロバートで、後にフォレストはポールと同じくアメリカ陸軍将官となった。
両親はともにアーカンソー州選出のアメリカ合衆国上院議員を務め、母は女性で初めて選挙により選出された上院議員である[。
キャラウェイ氏はジョージタウン大学を卒業し、1933年弁護士の資格を取得した。軍を退役した彼は、1965年から1968年の間アーカンソー州のハーバー・スプリングスで弁護士を開業し、その後ワシントンD・Cのベンジャミン・フランクリン大学で教鞭を執った。彼はメリーランド州で晩年を送ったとされる。

キャラウェイ弁務官は弁護士であり法律に詳しく、法治主義・民主主義に徹していた人物であったのだ。だから米政府は彼を沖縄の高等弁務官に任命したのである。

琉球政府の設立から7年後の1959年(昭和34年)に米民政府は域内の金融機関を調査させた。すると、琉球銀行を除く各金融機関の杜撰(ずさん)な経営内容が発覚した、米民政府はただちに「厳重警告」を発すると共に、琉球政府に銀行監査強化を要請した。翌年にも琉球政府に対し再三にわたって銀行行政の改善を求めた。しかし、改善することはなかった。
琉球政府は金融検査部を設置するが、同部の人事権が琉球政府行政主席の掌中にあるため、せっかく米民政府同部が金融監督権や逮捕捜査権を与えても発動することをしなかったのである。この為、金融機関の腐敗は拡大の一途を辿った。自治権を与えてもその権利を有効に使わなかったのが琉球政府だったのである。
こういう現実に対してキャラウェイ弁務官が「沖縄の自治は神話である」と言ったのである。沖縄の自治は現実ではなく神話の中にあると沖縄政治を批判したのである。政治に神話は必要ない。いや、あってはならない。だから、キャラウェイ弁務官は神話を現実にするために動いた。キャラウェイは金融検査部の独立制を保つために人事権を琉球政府から奪い高等弁務官のものとした。そして金融検査部長に、当時琉球大学で教鞭をとっていた公認会計士の外間完和を任命し、各金融機関の一斉捜査を開始したのである。外間完和氏は金融機関からのコーヒー一杯の接待も拒否したという。
独立制の強い金融検査部によって金融機関の腐敗が明らかになり、沖縄銀行の頭取を含む三行の役員数名を背任行為で逮捕。琉球農林中央金庫などの公的機関を含む、沖縄14金融機関65人を退任させたのである。これが「沖縄の自治は神話である」と言ったキャラウェイ弁務官がやったことである。
それからようやく、琉球政府はその重い腰をあげ、各金融機関に対し綱紀粛正を促す「政治献金の全面禁止、および金融機関職員の融資の際の金品の供応等の受領禁止」の通達を出した。
キャラウェイ高等弁務官が動くまで琉球政府は今では当たり前であるが、当時でも当たり前であった「政治献金の全面禁止、および金融機関職員の融資の際の金品の供応等の受領禁止」の警告も出せずにいたし、不正を見逃し続けてきたのである。

キャラウェイ弁務官は琉球銀行の株主総会に本人が筆頭株主(米国民政府が51%の株を所有)として出席し、その席上で経営陣の責任を追及し、経営陣の総辞職を行わせた。

キヤラウェイ弁務官のやったことを沖縄の自治を認めない独裁政治と決めつけるのは間違いであることが理解できたと思う。キャラウェイこそが沖縄の自治の在り方を真剣に考え、沖縄人民のための民主政治を実行したのである。沖縄人民のための政治ができなかったのは琉球政府のほうであった。
 
    つづく
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堺市長選は維新の会が勝利



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堺市長選は維新の会が勝利 
▽堺市長選開票結果     
当137862永藤 英機 諸新
 123771野村 友昭 無新
  14110立花 孝志 諸新

 大阪市に次いで堺市も維新の会が市長選に勝った。
大阪市長選、市議選で維新の会が勝利したのは「大阪都構想」を市民が支持したからではない。今までの維新の会の政治改革が市民に受け入れられたからである。堺市長選は1400票差という接戦で永藤英機候補が勝利したが、次の市長選では大差で勝利するのは間違いない。永藤氏は大阪市で成功した政治改革を堺市で実現していけばいいからだ。
 維新の会によって大阪府、大阪市の教育、福祉、文化等の改革と経済復興の成功は既成政党が実現できなかった地方自治体の新しい改革でもある。大阪で成功すれば他の自治体にも波及していくだろう。

日本維新の会が11日に大阪市内で開く夏の参院選第6次公認発表の記者会見に、参院選で共闘する「減税日本」の河村たかし代表(名古屋市長)や、神奈川選挙区(改選数4)に維新公認で出馬する松沢成文参院議員ら、地域の政党や政治団体のトップが集結する。
 維新の馬場伸幸幹事長は6日の代議士会で「各地の政治勢力の結集として維新があるとの理念で、参院選の候補者選定を進めている」と訴えた。

 野党五党の連合は政権党になれない。維新の会は地方政党ではあるが日本第二の都市である大阪での政策が大阪市民に支持されている。他の都道府県、市町村との連合を実現していけば野党五党よりも政権党になれる可能性がある。

 大阪府知事、市長、堺市長選は維新の会VS自民党にであった。共産党、立憲民主等の野党五党は独自の候補を出すことができないで自民党候補を応援した。大阪では保守VS保守の首長選になったのだ。大阪の新しい首長選の展開を見れば、二大政党の可能性は野党五党連合より維新の会にあると予想することができる。
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新報社説は「内なる民主主義」がない4



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新報社説は「内なる民主主義」がない4
1950年9月に沖縄群島知事選があった。沖縄の歴史で選挙で沖縄の首長を決めるのは1968年の行政主席選挙が初めてと思っていたが、なんとそれより17年前に知事選があったのだ。多くの県民がこのことを知らないのではないか。

沖縄群島知事選挙
1950年8月に知事公選の告示がなされた。
知事立候補者
松岡政保 沖縄民政府工務部長
平良辰雄 琉球農林省総裁
瀬長亀次郎 人民党委員長 

 立候補者に瀬長亀次郎が居たことには驚いた。知事公選があったことはことは薄々知っていたが具体的には何もわからなかった。まさか瀬長亀次郎が知事選に立候補していたとは・・・。それに三立候補の中で二人は政党に属していないで瀬長亀次郎だけが人民党という政党から出馬している。松岡政保氏は沖縄民政府工務部長という肩書であり、平良辰雄氏は琉球農林省総裁という肩書である。二人を推薦している政党がない。推薦している政党がないから二人を推薦する政党がなかったということではなく、その時の沖縄には人民党以外の政党が存在していなかったのだ。このことを知っている人は少ないと思う。知事選は軍政府が設定したものであり、沖縄側の要求によるものではなかった。沖縄戦による荒廃から立ち直っていない状況であったから政党がなくても不思議ではない。それに戦前は中央から知事を派遣していたから知事選はなかった。戦前もなかったのだから沖縄の人々には知事選は思い浮かばなかっただろう。知事選は米国流民主主義政治を軍政府が沖縄に導入したものである。だからその時の沖縄には人民党以外の政党はなかったのである。政党は知事公選以後にできる。
 人民党の実態は共産党である。共産党はロシア革命をきっかけにして社会主義革命を目指した革命党である。通常の政党とは性格が違うし。共産党は戦前から沖縄にあった。戦後米軍が統治すると共産党を容認しなかった。だから、瀬長亀次郎は共産党を人民党の名に代えたのである。本土は日本政府になると共産党を政党として容認したが米民政府が統治していた沖縄は復帰するまで共産党は容認されなかった。

選挙戦が始まった。知事の座を目指した選挙戦は熾烈をきわめ,終盤には泥仕合も演じられた。農連の監査に関連して平良候補が背任罪で告発されたり,初等学校の建設に関して松岡候補が利益誘導と非難されるなどの事態も出現した。これに対して,婦連,青連などの民間団体は,公明選挙のスローガンを掲げ,選挙浄化に乗り出した。また,軍政府もラジオや映画を活用して,選挙に関する啓蒙活動を展開した。候補者の政策に大きな争点が見出せないにもかかわらず,候補者を取り巻く人間関係をめぐって有権者の知事選挙に対する関心は,否応なく高まった。1950年 9 月,首里青年会が主催した首里での3候補による合同政見発表会で,最高潮に達した。予定時間の午後4 時までに,1 万人余りの人々が会場を埋めつくしていた。有権者の関心は高く,投票率は 88.8% に達した。
15万8000票余の得票を得て,平良辰雄が初の公選知事に選出された。(琉球銀行 250 頁)
投票率は 88.8%にも達した程に歴史的な選挙であった。しかし、多くの県民が過去に知事選があり、選挙によって知事が登場した事実を知らない。

平良氏は知事になってから、1950年10月31日、兼次佐一らと社会大衆党を結成した。当初は比嘉秀平(後の行政主席)や西銘順治(後の沖縄県知事)などの保守系政治家も在籍しており、幅広い階層からの支持を受けていた。社大党はやや左系であったのでその後、保守系の比嘉秀平や西銘順治が相次いで離党した。比嘉氏らは保守系の琉球民主党を結成した。のちに同党は自由民主党に合流した。保守政治家が離脱した社大党は革新色を強めていき、沖縄人民党とともに沖縄県祖国復帰協議会に加盟して沖縄本土復帰運動の中心に立っていった。

沖縄群島政府は,平良知事の就任とともに,1950年11月に発足した。新政府の誕生を祝い軍主催による知事就任式が,琉球大学本館前の広場で盛大に行なわれた。自治の門出を祝福して,多くの人々が那覇市に押し寄せ,街は戦後最大の人出となった。
知事就任式において,マクルーア軍政長官は
「沖縄の歴史において稀なこの盛典に参列するのは大きな名誉であり喜びにたえない。これまで沖縄の住民は,その政府の指導者を自らの意思で選ぶ機会を持たなかった。圧迫,隷属及び機会をほとんど与えられぬまま,数百年後の今日,沖縄の住民は,民主社会の大きな価値ある市民の権利と特権を持つ個人として浮かび出てきた。」
と祝辞を述べた。また,就任式に臨んだ平良知事は、
「我々は,自治を許される明るい希望を持つことができたが,この希望は義務と責任を自覚した自主性の充分な発揮によって果たされる。自治の責任と,財政経 済自立の義務を痛感し,軍の支援の下に軍民協力して 新沖縄の建設に邁進したい。」
との決意を表明している。こうして多大な民主的要素を賦与されて政治的に数段前進した群島政府が発足したのである。マクルーア軍政長官と平良知事の発言を見れば沖縄の民主自治政治の発展は確実のように思われる。新報社説が主張しているような米軍政府の植民地支配というのは最初からなかったのである。
 軍政府の目的は米軍基地常駐と沖縄の民主的な自治政府の樹立であった。沖縄に米軍を駐留させるか否かを決めるのは米軍ではない。アメリカ大統領である。アメリカ大統領はソ連、中国などの社会主義国家がアジアに拡大することを阻止するために、韓国、日本、フィリピンなどに米軍を駐留することを決めた。沖縄もその一つであった。
 米国は議会制民主主義国家である。植民地支配の政治はしない。沖縄を統治した軍政府は米政府の決定に従って米軍駐留の恒久化と沖縄の民主化と経済成長を目指した自治政府を設立した。軍政府が目指したのが沖縄を奄美、沖縄本島、宮古、八重山の四つの群島に分けることだった。

各群島の知事
奄美群島知事(中江実孝)
沖縄群島知事(平良辰雄)
宮古群島知事(西原雅一)
八重山群島知事(安里積千代)
各群島議会の議員定数
奄美群島議会(13名)
沖縄群島議会(20名)
宮古群島議会(9名)
八重山群島議会(7名)
 
 1945年から始まった軍政府による沖縄統治の仕上げとしての4群島の自治政府設立であった。

軍政府は1946年から1951年までに琉球に対する基金の支出は1億5000 万ドルにのぼる。このうちの90%近くが,伝染病の防遏と治安維持,経済復興に使われた。そして、残りが行政管理に使われた。
経済発展になくてはならないのが資金を提供する銀行である。米国は戦争が終わってわずか3年後の1948年(昭和23年)5月1日に琉球銀行を設立している。戦後のインフレ抑制と沖縄経済の正常な発展のために「金融秩序の回復と通貨価値の安定」を目的とし、米国軍政府布令に基づいて資本金の51%を米国軍政府が出資し琉球銀行は設立された。米国による経済援助もガリオア資金の他に,1949年にはエロア援助も加わった。1950年には琉球大学を開学した。
米軍政府は戦争が終わってわずか5年で、企業資金を準備し、琉球銀行設立、琉球大学設立して、沖縄の政治・経済の復興の準備を整えたのである。

新報社説が問題にするのは米軍基地の存在である。米軍基地が存在するゆえに沖縄は米軍に植民地支配されていると主張している。しかし、米軍政府は沖縄の経済復興、自立政治に向かうための準備をしたのであり、軍政府を引き継いだ米民政府も経済復興。自立政治を目指していた。それが米国流の政治である。米国は新報社説のいう軍事植民地支配をやろうとしたのではない。もし、植民地支配をしたかったらガリオア資金も琉球銀行も琉球大学も設立しなかったはずであるし、群島知事選挙もしなかったはずである。沖縄が民主社会になり豊かになることを目指していたからやったのである。沖縄民政府記録を見ることによってそれが理解できる。

米極東軍司令部に琉球軍政局が新設され,長官にウエッカリング准将が就任したことにともない,長官の沖縄視察が行なわれた。1948年9月来沖の目的を琉球の実情,人民の実生活,復興の必要条件などを視察するためであると述べている。また,同行の軍政局予算関係担当のフレミング主任は,戦後相当の復興救済資金を投入しているが,今回,軍政府が面目を一新した機会に,出来るだけ住民と接触して,琉球が可能な限り自給自足の態勢をとれるようにしていきたいとし,戦前から沖縄にある自立と勤勉の精神により,優れた熟練の技能を活用して,知事と協力して復興を進めたいと述べている。(沖縄民政府記録 2 49 頁) 
ウエッカリング准将は,アメリカが琉球を重視していることを視察にあたって強調した。アメリカは,琉球の住民の救済には特に力を入れてきたが,これからは援助の程度の減少が予想され,将来的には自給自足の実現が求められている。戦災による破壊の復興を進め経済的にも自立させたい。琉球軍政局の目指すところは,琉球の復興と住民の福祉の増進にある。1952 年を目途に多くの復興事業を計画しており,専門家 15 名に研究をさせている。辺戸岬の丘の上まで棚田が作られているのを見て,これからは水産業も興すべきだと述べた。(沖縄民政府記録257頁)

軍政府は沖縄の政治経済発展の準備を整えた上で群島知事選挙を行った。軍政府の計画通りに進めば沖縄は4群島の自治政府が定着し、日本復帰まで続いていた可能性がある。。しかし、現実は違った。軍政府の統治が終わると同時に群島知事制度も終わった。終わらしたのは民政府である。群島知事制度を終わらせたのは制度に大きな欠点があったからである。軍政府を引き継いだ民政府は群島知事制度を廃止して、中央自治政府を設立した。
群島政府は4群島がそれぞれ自立しているから、4群島をまとめる中央政府が必要である。群島は米国ではいえば州にあたる。しかし、群島は小さい。4群島でも米国の州よりはるかに小さい。軍政府を引き継いだ民政府は群島制度を廃止して、市町村を統治する琉球政府を設置したのである。4群島制度を引き継いでいたら4群島の上に中央政府としての琉球政府を設置しなければならなかった。すると、沖縄本島には知事を中心とした群島政府と中央政府としての行政首席、立法院、裁判所の琉球政府が存在しなければならなかった。沖縄本島に人口は集中しているし、沖縄群島政府と中央政府がダブったてしまう。人口の少ない沖縄には群島政府は必要がないと考えた民政府は群島を廃止したのである。

私たちは米国統治時代の軍政府や民政府がなにをやったかを正確には知らない。沖縄二紙や政治家、識者は批判するだけで正確な情報を伝えることがなかったからだ。軍政府、民政府がやったことを知ることができたのはネットのグーグルのお陰である。グーグルがなければ知ることができなかった。
軍政府にも民政府にも「内なる民主主義」があった。「内なる民主主義」を基本にして行ってきたことを独裁支配にしか見ることができなかった沖縄の側に「内なる民主主義」がなかったということである。
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