沖縄の学力を上げるために







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


「かみつくⅢ」は、
狼魔人日記でネット先行販売しています。
書店販売はもう少し待ってください。
申し込みはメールでできます。


ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp
みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


沖縄の学力を上げるために


国は全国学力テストの成績を発表した。
沖縄県は、小学校は2教科(国語B、算数A)、中学は全4教科最下位だった。

 皆さんは覚えているだろうか。沖縄が米軍統治下にあった時、沖縄の学力が悪いのは学校の設備が悪いからであり、祖国復帰して本土並みの設備になれば学力も本土並みになると沖縄教育界のリーダーであった初代沖縄県知事屋良朝苗氏が言っていたことを。
しかし、祖国復帰しても学力は全国最下位である。祖国復帰して本土並みになったのは学校の設備と先生方の給料である。本土並みにならなかったのは先生方の教育への情熱だ。先生方は復帰前と同じように政治活動に情熱を燃やした。だから、沖縄の学力は復帰前と同じで全国最下位である。
屋良氏の教育論は間違っていたのだ。学力を上げるのは設備ではなかった。先生が学力を上げる努力だった。


「かみつくⅢ」の最初の目次は「生徒に一番必要なのは学力だ」である。私は四十年前に糸満ロータリービルの三階で養秀学園という学習塾をやっていた。敷地は七十坪余で四教室あり、学習塾としては大きいほうだった。豊見城、東風平にも分校をつくり、一時期は与那原や牧港にも分校があった。

 平和教育や道徳教育という名の思想教育は義務教育には必要ない。学力さえあれば思想は年齢に応じて身についていく。全生徒が進学できる今の時代、中学卒業までに一番必要なのは高校で学ぶことができる学力を身につけることだ。生徒に一番必要なのは学力以外にはない。学力があれば夢を追うことができる。

 それが学習塾をやって痛切に感じた私の結論である。

「かみつくⅢ」にも書いたが、私の塾で二浪した女子生徒がいた。不合格になった時、涙を流しながら、もう一度、頑張るか」という私の問いに頷いた。彼女は私の学習塾で二浪した。
「かみつくⅢ」には書かなかったが、実は彼女には一歳下の弟が居て、彼女の勧めで弟も私の学習塾に入った。そのことを書くと嘘っぽいし、自慢話に思われそうなので書かなかった。
 普通なら不合格になったのだから別の塾に行くのが当たり前であるし、両親だって娘を不合格にした学習塾に弟を通わすのには反対だったはずだ。それなのに二人の子供を私の塾に通わせたのである。彼女が親を説得したからである。
恐らく、彼女はずっと落ちこぼれの生徒であったのだろう。私の学習塾で初めて勉強する喜びを感じたと思う。その実感があったから私の学習塾で二浪したし、弟もいれたと思う。
 落ちこぼれてしまうと自分の力では這い上がることができないのが現在の教育システムだ。成績が悪すぎると学習塾でも救うことは困難である。
 浪人生クラスは徹底して基礎から教えるから彼女も理解することができた。しかし、一浪しても合格できなかったのはかなり学力が下だったと思う。思うとしか言えないのは私は彼女の学力を正確には把握していなかったという事実がある。彼女は女性であり、内気で極端に口数が少なかったので、彼女の内面を理解できるまでの対話をすることができなかったからだ。私は「しちは」とか「四足す八は」と生徒に掛け算九九やひと桁の足算の質問を浴びせて生徒の実力を探っていたが、彼女にはやらなかった。それをやれば彼女への苛めになりそうでできなかった。
 彼女のような浪人生に会うと、学校教育には、落ちこぼれを救い上げるシステムが絶対に必要であることを痛切に感じた。

 
 落ちこぼれ生徒をなくすための提案

 落ちこぼれをなくすには居残り授業以外にはない。

 小学一年生から落ちこぼれ生徒は居る。
 二桁のたし算ができなくて落ちこぼれた生徒がいて、居残りをやり、宿題を出されたが落ちこぼれを
脱出できなかった。そんな話をコンビニのパートから聞いたことがある。
 なぜ落ちこぼれを解決できなかったのか。それは担任の先生が落ちこぼれ対策を知らなかったからである。
 その先生は二桁のたし算ができない生徒にふた桁のたし算のプリントをさせた。
 それは間違いである。彼に教えるべきはひと桁のたし算である。
 ひと桁のたし算ができるようになれば、二桁のたし算ができるようになるのは簡単である。

ひと桁のたし算ができない生徒へ教える方法

1 答が5以内の足し算をさせる。

1+2、2+2, 1+1, 3+2, 1+4,4+1,2+3・・・スムーズにできるまで繰り返しやる。
1+4、2+3, 4+1, 3+2

2 答えが10以下の足算をさせる。

2+6、3+6、3+5、4+5、2+7・・・スムーズにできるまで繰り返しやる。
6+2、6+3、5+3、5+4、7+2

1+9、2+8、3+7、4+6、5+5
9+1、8+2、7+3、6+4、5+5

 同じ問題を与え、解く時間を10秒以内、5秒以内と時間制限で解かせる。
解き方を教えるのではなく、解く実力を養成するのを目的にする。

一年生・・・一桁の足算
二年生・・・二桁の足算、掛け算九九
三年生・・・二桁の足算、二桁の掛け算、二桁÷一桁
四年生・・・二桁の足算、二桁の掛け算、三桁÷一桁
五年生・・・二桁の足算、二桁の掛け算、三桁÷一桁、少数一桁の足算引き算、真分数の足算・引き算
六年生・・・二桁の足算、二桁の掛け算、三桁÷一桁、少数一桁の足算引き算、真分数の足算・引き算、少数二桁の掛け算、割り算、真分数の掛け算・割り算

 このように全ての生徒が中学入学前に基本計算をできるようにする。
三学期には小学六年生の算数の成績の悪い生徒に、「六年生の成績はあきらめろ。その代わり掛け算九九と足算引き算ができたら中学で成績を上げるから」と説得し、難しい帯分数や少数の計算を教えないで、基本計算を教えた。
掛け算九九と一桁の足し算引き算ができれば中学の数学を教えることができる。これは本当だ。「できる」というのは即答できるという意味である。分数や少数は中学になって教えることができる。

 分数の計算ができない生徒に分数を教える時、私は分数とはなにかを説明しなかった。そうすると計算ができるまで時間がかかるし、生徒によっては分数を理解することができなくて頭が混乱したりするからだ。だから、計算のやり方を教えた。私は足し算をする時は通分が必要であり、なぜ通分をしなければならないかも教えなかった。

 いきなり、生徒に(2分の1)+(2分の1)を計算させた。分数の計算ができない生徒は分母も分子も足して(4分の2)にする。(4分の2)は(2分の1)である。生徒の計算は 半分+半分=半分 となってしまう。半分+半分=1である。そのことは誰でも知っている。生徒は自分の計算が間違っていることが分かる。生徒の計算は間違っていることを自覚させるのが大事である。 (2分の1)+(2分の1)= (2分の2)=1 と教えると生徒はすぐに納得した。それから分母が同じ時は分子を足すという正しい計算のやり方を教えた。生徒は信頼する先生のいうことを素直に聞き入れるようになる。だから、生徒の信頼を得た私は通分や掛け算や割り算は計算のやり方だけを教えて、計算をやる理由は教えなかった。
 生徒は数の意味や計算の意味を理解するより計算できることが大事である。計算ができるようになれば意味についても理解できる能力が備わってくる。計算できなければ意味を教えても生徒は理解できない。理解したとしても計算ができなければ理解したことになんの価値もない。
 野球ではバッティング理論を教える時間より、バッティング練習の時間がずっと長い。理論よりは体験させて技術を身に着けることが一番必要だからだ。それは数学も同じことだ。私の授業は説明する時間が短く、生徒が計算する時間が長かった。

 例えば一次方程式の授業なら、
〇x+2=5、
x=5-3・・・隣の辺に移すと反対計算になる。
x=2

x+2=5 の類似問題を5問やらせる。

〇x+5=2
x=2-5・・・隣の辺に移すと反対計算になる。
x=-3

x+5=2 の類似問題を5問やらせる。

〇2x=4
x=4÷2・・・隣の辺に移すと反対計算になる。
x=2

2x=4 の類似問題を5問やらせる

〇-2x=4
x=4÷(-2) ・・・隣の辺に移すと反対計算になる。
x=-2

-2x=4の類似問題を5問やらせる

〇2x+2=6
2x=6-2・・・隣の辺に移すと反対計算になる。
2x=4
x=4÷2・・・隣の辺に移すと反対計算になる。
x=2

2x+2=6の類似問題を5問やらせる

 このような方法で教え最後には分数の混じった難解な問題までやらせていった。問題をやらせるときは必ず時間制限をやった。そして、回答を丁寧にやった。
 このやり方は成績の悪い生徒もいい生徒も授業に集中した。私の数学の授業は黒板に自分で工夫した問題を出して解かせる授業であり、余り話さない授業だった。
 難解な方程式を一問だけ黒板に書き、解き方を説明する。そして、「二十秒以内に解け」と言って解かせる。解けない生徒に個人指導し、二十秒過ぎたらストップする。そして黒板で解答するという授業もやった。


-(2x-3)+3=-2(3x-2)-6
-1×(+2x-3)+3=-2×(+3x-2) -6・・・数や符号を省略しないで書くとこうなる。
-1×(+2x)-3×(-1)+3=-2×(+3x)-2×(-2) -6・・・( )を外す時は(  )の前の数を( )の中の数それぞれにかける。
-2x+6=-6x-2
-2x+6x=-2-6・・・隣の辺に移す時は反対計算になる。足し算は引き算に、引き算は足算に。
4x=-8
x=-8÷4・・・隣の辺に移す時は反対計算になる。かけ算はわり算に、わりはかけ算に。
x=-4

 私は問題を解く手順を必ず書くように指導した。手順を飛ばした場合は消しゴムで消させて、書き直しさせた。授業は野球で言えば練習であり、しっかりと解く手順を覚えるのが重要であり早く答えを出すのは駄目だ。ゆっくりでもいいから手順を正しく踏んで100%正しい答えを出すのが大切であると教えた。

 教え方を工夫すれば、生徒の実力は確実に伸びる。それが15年学習塾をやった私の考えである。
沖縄の学力を全国平均まで上げるには、小学一年から中学三年まで落ちこぼれ生徒を出さないシステムを構築することだ。その方法が確実なやり方だ。


 1979年に「教師は学力低下の最大責任者」という本が出た。著者は大浜病院創始者の大濱方榮氏である。「学力低下の責任は、なんといっても現場の教師にある。もちろん、家庭や行政、その他にもいろいろ責任はあるが、最大の責任はやっぱり教育現場の教師にある」と県教育委員長だった大濱氏は、学力低下日本一の沖縄の現状を憂えて、県教育委員会で発言した。それをタイムスと新報がが大々的に報道したものだから沖縄で大騒ぎになった。「大濱発言」は本土の朝日、読売、毎日新聞の社説でもとり上げられ全国にも波及した。
発言から2年後に出版したのが「教師は学力低下の最大責任者」である。

 30年以上前にも沖縄の学力が全国一低いことが問題にされた。そして、現在も学力は全国最下位である。現状はなにも変わっていない。沖縄の教育を変革しなければ・・・・。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

八月十五日・・・昭和天皇の「聖断」







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


「かみつくⅢ」は、
狼魔人日記でネット先行販売しています。
書店販売はもう少し待ってください。
申し込みはメールでできます。


ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp
みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


本当の天皇とは・・・・


集団自決は軍命令がなかったことが「パンドラ裁判」で明らかになった。軍命令はなかったが集団自決は起こった。なぜ集団自決は起こったのか、原因はなにか。
集団自決の根本的な原因を証明するために明治から昭和にかけての歴史を調べていると、昭和天皇が太平洋戦争を終わらした時の言葉を見つけたので掲載する。

「聖断」(せいだん)
 ①天皇が決断したことを敬して差す言葉。
 ②昭和二十年八月九日、同年八月十四日にそれぞれ開かれた「最高戦争指導会議」に於いて、天皇が下した戦争終結に関する決断のことを言う。
 昭和二十年八月九日の会議で争点となったのは、ポツダム宣言の受諾に関する条件の付加であった。

 鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、米内光政海相は、条件は「国体護持」の一点のみにすべきだと主張したのに対して、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、「皇室存置の確認」、「自主的な国外からの撤兵」、「戦争責任者を日本主体で裁くこと」、「日本を保障占領せざる事」の四点を受諾条件に挙げ、譲らず、時刻は移り、鈴木首相が起立して、天皇に対しおそれながら、聖断を求めたのである。

 天皇は、鈴木首相に席に復するように指図すると、
「それならばわたしが意見を言おう。わたしの意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」
 と前提した上で、大要下のように語った。
 (軍部は)本土決戦本土決戦と云ふけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、又決戦師団の武装すら不十分にて、之が充実は九月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等の者は忠誠を尽した人々で、それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する。
                                         「木戸日記」(1223ページ)
 こうして「国体護持」の一点が受諾条件となったが、八月十二日のバーンズ国務長官の回答はこれをも否認するものであった。
 八月十四日の指導会議はまたも紛糾、鈴木首相、東郷外相、米内海相が「即時受諾」をかかげ、阿南陸相と梅津、豊田の両統帥部総長は再照会を主張してまたも会議はまっぷたつに割れた。
 鈴木首相は、二度目の聖断を求めた。

 二度目の聖断の記録を、下村海南・情報局総裁がのちにしている。これは、米内海相、左近司国務相、太田文相の手記と照合し、鈴木首相の校閲も経た、もっとも真に近いものだという。

 外に別段の発言がなければ私の考を述べる。
 反対側の意見はそれぞれよく聞いたが私の考は此前に申したことに変りはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考へる。

 国体問題に就いて色々疑義があるといふことであるが、私は此回答文の文意を通じて先方は相当好意を持って居るものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があると言ふのも一応は尤もだが私はさう疑ひたくない。要は我国民全体の信念と覚悟の問題であると思ふから、此際先方の申入を受諾してよろしいと考へる、どうか皆もさう考へて貰ひたい。

 更に陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領と云ふ様なことは誠に堪へ難い事で夫等の心持は私には良くわかる。しかし自分は如何にならうとも万民の命を助けたい。此上戦争を続けては結局我邦が全く焦土となり万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応へが出来ない。和平の手段によるとしても素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いことは当然ではあるが、日本が全く無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさへすれば更に又復興と云ふ光明も考へられる。
 私は明治大帝が涙を呑んで思ひ切られたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、此際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思ふ。今日まで戦場に在て陣没し或は殉職して非命に倒れたる者、又其遺族を思ふときは悲嘆に堪へぬ次第である。又戦傷を負ひ戦災を蒙り家業を失ひたる者の生活に至りては私の深く心配するところである。此際私としてなすべきことがあれば何でも厭はない。国民に呼びかけることが良ければ私はいつでも「マイク」の前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずに居ったのであるから突然此決定を聞く場合動揺も甚しいであろう。陸海軍将兵には更に動揺も大きいであらう。この気持をなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、良く治まる様にして貰ひたい。必要があれば自分が親しく説き諭してもかまはない。此際詔書を出す必要もあらうから政府は早速其起案をしてもらひたい。
 以上は私の考えである。
                                       下村海南「終戦記」(152ページ)



「天皇メッセージ」なるものを取り上げて、昭和天皇は沖縄を米軍に差し出して命乞いをしたなどと主張する人たちがいる。大田昌秀を筆頭にした左系の学者や運動家たちだ。あまりにもゲスな主張なので「天皇メッセージ」に反論するのもバカバカしく、私は「天皇メッセージ」批判をやらなかった。
 天皇が命乞いをすると考える人間はゲスだ。彼らに「小心者で俗的なお前たちと天皇は違う」と私は言いたい。昭和天皇は自分の命を惜しむ気持ちは全然なかった。必要であればいつでも死ぬ覚悟を持っていた。それが昭和天皇だった。
「しかし自分は如何にならうとも万民の命を助けたい」
 と昭和天皇ははっきりと言っている。昭和天皇は敗北宣言をすると決めた時、死を覚悟したはずである。昭和天皇が望んでいたのは自分が生き残ることではなかった。日本国民が生き残ることだった

 昭和天皇は驚くほど状況を把握していた。軍部のこと、敵国のこと、国民のこと、そして自分がなにをするべきか。
 「国民に呼びかけることが良ければ私はいつでも『マイク』の前にも立つ」と国民を混乱させない方法まで考えている。
昭和天皇の「聖断」を読めば昭和天皇が命乞いをしたなんてバカバカしいことが分かる。私は昭和天皇、今上天皇(現在の天皇)を崇拝はしていない。しかし、とても尊敬している。
「平成天皇」と呼んだ場合は(それが確定されていなくても)諡号に当たるので、存命中であらせられる陛下に対して使うのは不敬の極みにあたります。ただ、平成を時代の名前として「平成の天皇」とか「平成の帝」という呼び方はあると思います。ただし、これは正式な呼び方ではありませんので、公的な場では「今上天皇」や単に「天皇陛下」とお呼びするのが正しいかと思います」



40年以上も前の私が学生の頃、昭和天皇を批判する学生が多かった。しかし、私は皇太子が一般人である美智子さんと結婚したことや天皇一家の行動を見ていると本当の昭和天皇は民主主義を理解していたのではないかと思った。調べてみると昭和天皇が皇太子の時にイギリス留学をしていたことが分かった。昭和天皇が若かりし頃はイギリスをかなり気に入っているようだった。
 昭和天皇が望んでいたのは民主主義国家ではなかったのか。そして、「君臨すれど支配せず」のイギリス式の天皇制を望んでいたのではなかったかと私は思った。ただ、天皇制追究に熱心であったわけではなかったから、私の天皇への追究はそれで終わった。

 「国家とは共同体的幻想である」というマルクスの言葉がある。つまり、国家というのは本当は存在していない、国民の幻想であるということである。私は国家を天皇に置き換えてみた。「天皇とは共同体的幻想である」。すると、国民が崇拝している昭和天皇は政府や軍部がつくり上げた幻想であったと想像できた。戦前の国民がイメージしていた昭和天皇は実物の天皇ではない。政府と軍部がつくり上げた幻想の昭和天皇だ。本当の昭和天皇が考えていることと政府と軍部がつくり上げた昭和天皇とは大きなずれがあるだろう。そう、私は考えた。学生の時、そう考えていたことを思いだした。

 今でも戦前の政府や軍部がつくり上げた幻想の天皇を信じている人達がいる。それを天皇崇拝という。天皇否定論者もまた戦前の政府や軍部がつくり上げた幻想の天皇を信じている。幻想の天皇への批判は政府や軍部への批判である。そのことに気づかなければ間違った天皇批判になる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

女工の悲惨な実態を書かない沖縄







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


「かみつくⅢ」は、
狼魔人日記でネット先行販売しています。
書店販売はもう少し待ってください。
申し込みはメールでできます。


ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp
みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板



女工の悲惨な実態を書かない沖縄



 戦争の根本原因は領土拡大にあることを説明するために日清・日露戦争を調べていたら、四民平等→徴兵制度→日清戦争→日露戦争の後に「チルーの方言札」で書いてある「本部事件」があったことを知り、本土と沖縄の近代化の大きなずれを感じたので沖縄の徴兵忌避について書いた。
「チルーの方言札」は二十日に「千鶴子強いられた名前」二十一日に「出稼ぎ先『琉球人』差別」について書いている。見過ごすことができないので批判する。

「千鶴子強いられた名前」ではチルーが無理やり千鶴子という名前に変えさせられたことを書いている。

「なーめいめい、名前けーりわる やんり いーしが(各人、名前を変えろということだが)」。同名が複数おり、会社が命令した。皆抵抗したが、姉さん格の部屋長が説得、鶴枝、鶴美、鶴子などと決め、チルーは千鶴子になった。
                   「チルーの方言札」

沖縄の農民の女性の名前はカマドゥ(カマド)、ナビー(ナベ)、ウシ、カメ、チルーと同じ名前が多く名前の種類が少ない。それにカマド、ナベは道具でありウシは家畜、カメ、チルーは動物である。戦前の女性の名前で一番多い名前がウシである。琉球王朝時代の農民の女性は家畜か道具並みの存在であったからそのような名前をつけられたのだ。明治以後も琉球王朝時代の思想が根強い沖縄ではウシやカマドゥなどの名前が多かった。

私の母はカマドゥという名前だったが、南方の戦場から帰ってきた父がヒデに改名したそうだ。カマドゥとはカマドのことであることが日本兵に笑われたそうだ。だから改名したらしい。なぜ、日本兵はカマドという名前を笑ったのか。人間である女性の名前がご飯を炊くカマドだったからである。

明治維新以後日本の近代化はどんどん進んだ。それは国家の仕組みや経済だけでなく思想も発展していった。大正デモクラシーと呼ばれるように大正時代には民主主義・自由主義の意識が高まっていった。

大正デモクラシー
 政治面では普通選挙制度や言論・集会・結社の自由に基礎をおく議会中心政治,外交面では武断的な侵略や植民地支配の停止,社会面では団結権,ストライキ権など社会権の承認,半封建的地主小作関係の廃絶,被差別民の解放,男女同権,文化面では国家主義に対抗する自由教育,大学の自治,美術団体の文部省支配からの独立等々,さまざまの課題を掲げた自主的集団による運動が展開され,民主主義へ,自由主義への時代思潮をつくりだした。

 女性の人権の向上を主張する運動も起こった。まだまだ男尊女卑の思想が根強かった日本であったが女性が人間であることは認め家畜や道具並みに見ることはなかった。江戸時代でさえ女性の地位は家畜や道具よりは上だった。だから日本兵はカマドという名前が滑稽に思えただろう。

 小学生の時、不思議なことに気が付いた。夜、母は私が起きている間はずっと起きていた。ところが朝起きるとすでに母は起きて台所にいた。私は母が寝ている姿を見たことがなかった。私は母より早く起きて母が寝ている姿を見ようとしたが、私が早く起きてもすでに母は起きていた。母は寝ていないのだろうかと不思議に思った。母のことを思い出すと沖縄の女性は牛馬のように働いていたんだなあとしみじみと思う。

 ムヌカチャーの知念ウシさんは少数民族沖縄が差別されていることを問題にしている。しかし、少数民族沖縄内の女性差別は無視している。彼女が民主主義思想家ではないことはウシという名前が女性差別であることを知らないことから分かる。知念ウシさんだけでなく少数民族の差別を訴え、沖縄独立を主張している連中には民主主義思想がない。


 江戸時代は藩がそれぞれ独立国家であり藩ごとに関所があり日本国内を自由に行き来することはできなかった。明治になり廃藩置県をすることによって国中を自由に行き来することができた。沖縄の人も本土を自由に行き来できるようになった。

 チルーは本土の紡績工場に出稼ぎに行くが、これは廃藩置県と政府が産業開発に力を入れて紡績工場を造ったから実現した。沖縄は農業中心で産業と言えば製糖だけであった。昭和の初めの頃には砂糖の暴落で沖縄の農家の収入は激減し、ソテツ地獄に陥った。

■「ソテツ地獄」と県民の暮らし

 日露戦争後の不況にあえいでいた日本は、一九一四(大正三)年に勃発した第一次世界大戦によって一時撤退したヨーロッパ列強にかわって、アジア市場を独占することになりました。軍需品や鉱産物、薬品関係などの大量輸出によって景気は回復し、日本の工業の発達をもうながしました。沖縄もこの大戦景気の恩恵を受け、特産物の砂糖で利益をあげる「砂糖成金」が生まれるほどでした。

 しかし、この大戦景気は長続きしませんでした。第一次大戦が終わって西欧勢力が再びアジア市場に進出してくると、日本の輸出は急速に減少し、国内では過剰生産によるいわゆる戦後恐慌におちいりました。砂糖の価格は下落し、深刻な不況の波が押し寄せてきました。
さらに、一九二三(大正一二)年におこった関東大震災や、一九二九(昭和四)年におこった世界恐慌により、「昭和恐慌」とよばれる慢性的な不況が日本をはじめ沖縄の人々の生活を襲いました。

 大正末期から昭和初期にかけておこった恐慌は、沖縄では「ソテツ地獄」とよんでいます。当時の沖縄の人口の7割が暮していた農村部では、極度の不況のため米はおろか芋さえも口にできず、多くの農民が野生の蘇鉄(そてつ)を食糧にしました。毒性を持つ蘇鉄(そてつ)は、調理法をあやまると死の危険性があるにもかかわらず、その実や幹で飢えをしのぐほかないほど、農村は疲弊しきっていたのです。
 しかし、このような県民の貧窮にもかかわらず国税は徴収され、さらに台風や干ばつなどが追い打ちをかけたため、県民の暮らしは文字通り地獄の様相を呈していました。農家では身売りが公然とおこなわれ、さらには海外への移民や本土への出稼ぎが増えていきました。
                        「近代沖縄」

 チルーが紡績工場に就職したのは一九三〇年代後半だという。就職した理由は「いつまでも親元だとふんでー(甘えん坊)だと言われるし、イジをだすため」に大阪の錦華紡績に就職したというが、その説明は嘘である。そんな悠長な理由から就職したのではない。貧困が理由で就職したのだ。「チルーの方言札」からは沖縄の貧困は伝わってこない。

 戦前の沖縄はソテツ地獄に見舞われたように貧困の極みだった。女性が働くところは金持ちの家の女中か遊郭くらいであり、貧しい農家の男の子は糸満売りされた。日本の法律で人身売買は禁じられていたが戦前の沖縄では公然と人身売買が行われていた。

 チルーが謝花尋常小学校高等科へ進んだ時、五学級が一つ減った。出稼ぎに行く子がいたためだ。家族から出稼ぎに行ったのは八歳上の長女姉。「姉さんはいじじゅうさん(意地が強い)。人の二倍働き、半分は貯金、半分は家へ仕送りした」。それで土地を買い、農耕用の馬も買った。契約を終え帰郷した姉は見違える和服姿。柳ごおりには嫁入り準備の着物や服が詰まっていた。父母の喜ぶ様、美しい姉の姿。チルーの胸は高鳴った。
                   「チルーの方言札」

 小学校の高等科の生徒の年齢ば十歳そこそこである。戦前はそういう子が出稼ぎに行く時代であり、紡績で働いた娘の仕送りで土地を買い、馬も買えた時代である。沖縄の農民の貧しさが想像できる。
そうであるなら、本土就職のありがたさを書いてもいいのだが、「チルーの方言札」は沖縄差別を強調する。

 沖縄の女工募集は一九〇六年頃から本格化するが、標準語や文化の違いで苦労した。「リューキュー、イモクイ、ブタ」と怒鳴られた(『名護市史・出稼ぎと移民』)
・・・・・・・・・・・・・・・
 今でも嫌だったと思いだす出来事がある。本土出身がチルーの顔を見つめ「あんた沖縄ってねえ。自分たちと同じで変わらないね」と言い放った。「やー、くにひゃーや(なんだ、この野郎)」。心中では怒りが渦巻いたが、出てきたのは「どうして」という一言だった。
                      チルーの方言札
 出稼ぎ先で「琉球人」差別されたことは沖縄では定説となっている。しかし、冷静になって考えると差別問題は微妙な感情問題でもあり、すべてを「琉球人差別」とはいえない。私たち沖縄自身の問題も多く含まれている。

 沖縄の女工が差別された大きな原因は共通語を使えなかったことである。「チルーの方言札」は共通語を使えなかった沖縄の少女たちを擁護しているがそれは間違っている。共通語を使えなかったことを批判するべきだ。本土で働くのなら共通語を覚えるのは当然だ。共通語を使えなくて叱られたことを差別されたと感じるのはむしろ傲慢である。甘えである。

「郷に入らば郷に従え」ということわざがある。本土に就職するのなら共通語とマナーをマスターするのは必須である。差別されたのは共通語やマナーをマスターしていなかった少女たちに非がある。しかし、これは少女たちの責任ではない。沖縄の政治家の責任だ。沖縄の方言が本土の人間には全然分からないことは政治家なら誰でも知っていたはずである。また、沖縄は貧しく本土就職する少年少女が多いことも知っていた。ならば本土での就職をうまくやっていくために共通語・マナー教育を徹底してやるべきであった。共通語・マナーの授業を設けるべきであった。方言札はむしろ生ぬるかった。「郷に入らば郷に従え」ということわざが沖縄にはなかったようだ。

 なぜ、沖縄の政治は少年少女の本土就職対策をしなかったか。それには原因がある。明治時代は中央集権制度であり沖縄県の知事は政府が派遣した。政府から派遣された知事は中央政府の意思を沖縄に広めるのが役目だった。一方琉球王朝時代と変わらない思想の地方社会では琉球王朝時代からの有力者が首長になっていた。だから、首長は封建社会のように村を支配する政治を行っていた。少年少女が本土就職で生じる障害を解決することに関心はなかっただろう。

 琉球人差別は沖縄の政治家の怠慢が原因であったと言える。今だからそんなことが言えるのだと思うかもしれないが、「チルーの方言札」を執筆した謝花直美記者や出稼ぎ・移民研究家の大城道子さんは現在の人間だが、女工たちの被害を琉球人差別と決めつけている。沖縄政治の怠慢を琉球差別に転換している。

 一九二六年に、沖縄の女工が、食堂で他県出身の女工に誤ってお湯をかけたが「ごめんなさい」という言葉が分からずだまっていた。「謝れ」と言われたが、反応できずにいたため、相手に「琉球人のバカ」となじられ、喧嘩になった。他に「琉球人のイモクイ」「琉球人のブタ」とあざけられることもあった。
                  「チルーの方言札」

 沖縄出身の女工は「ごめんなさい」さえ言えなかったのである。それでは怒られて当然である。まてよ。沖縄の方言に「ごめんなさい」があっただろうか。私は「ごめん」という言葉しか知らない。「ごめん」と同じ意味の沖縄方言を知らない。

 謝る言葉に「ぐぶりーさびたん」というのがあるがこれは「ご無礼をしました」の意味だ。「わんが わっさいびーたん」は「私が悪かった」の意味である。「ごめん」が沖縄方言ではないとしたら、「ごめん」と同じ意味の言葉が沖縄方言にはないのかもしれない。誤ってお湯をかけた場面では、「あいえー」と驚いた声を出してから、「ちゃーんねーらに(大丈夫か)」と相手を心配する場面しか私は思い浮かばない。「ごめんなさい」に匹敵する沖縄方言が思い浮かばない。もしかすると沖縄方言には「ごめんなさい」がないかも知れない。

 そういうことも含めて女工たちには共通語やマナーを教えるべきであった
本土に就職した女工たちのトラブルをなくすことができるのは沖縄の政治家である。しかし、政治家はトラブルが起きないための教育システムをつくらなかった。

 義務教育を終えても子供たちの職場がない。親は農業でいいと思うが、子どもは自己表現をしたいと思い、大和の先生を見て憧れた。そこに紡績の募集があり、現金をもうけ、親に仕送りもできた。
                     「チルーの方言札」

 この説明も嘘である。親が那覇港で本土に行くわが子を見送るときの有名な言葉がある。
「手紙はしむぐとぅ じんから先にうくりよう(手紙はいいからお金から先におくれよ)」
である。貧しいがゆえの言葉であり、決して親は農業だけでいいとは思っていなかった。親は生活が貧しいから娘を紡績工場に就職させたのである。

女工節
補作詞 我如古 盛栄

一 親元ゆ離り大和旅行ちゅし
  淋しさやあてぃん 勤みでむぬよ

○親元を離れ本土に行くこと 寂しさはあっても務めであるからよ。

二 友と別れたし島の村はじし 
  親とわかれたし那覇の港よ

○友と別れたのは故郷の村はずれ 親と別れたのは那覇の港よ

三 那覇までや我島 船乗りば大和 
  何時が銭儲けて我島帰ゆらど

○那覇までは私の故郷 船に乗れば本土 いつになったらお金を稼いで私の故郷に帰るだろうか

四 大和かい来りば 友一人居らん 
  桜木にかかてぃ我んや泣ちゅさ

○本土に来ると友達は一人も居ない。桜の木に(寄り)かかって私は泣くよ

五 照る月に向かてぃ 眺みゆる空や 
  島ぬ面影ぬ勝てぃ立つさ

○照る月に向かって眺める空に 故郷の面影が強く思い出されるよ

六 ガラス窓開きてぃ 歌小あびたしが 
  聞かりゆみアンマ 我身ぬ歌声よ

○ガラス窓を開けて歌を歌ったけれど 聞こえたかしら?お母さん 私の歌声が


七 紡績やアンマ 楽んでぃる来ゃしが 
  楽や又あらん 哀りどアンマ

○紡績は、お母さん 楽だと聞いて来たけれど 楽では又ない 辛いんだよ お母さん

 我如古より子さんが女工の心を切々と歌っている女工節の歌詞である。私の大好きな歌であり、カラオケでいつも歌っている。

 貧しいがゆえに家の生活を支えるために少女は遠い知らない土地に働きに行かなければならなかった。不安、寂しさ、仕事のきつさが女工の運命だった。「親は農業でいいと思うが、子どもは自己表現をしたいと思い」女工になったというのは嘘である。十五、六の少女がどうして遠い知らない土地に行きたいと思うのか。女工は先生になれない。金持ちしか先生になれないことは少女たちも知っていただろう。貧しいゆえに女工になることがどうして自己表現になるのか。女工の現実を無視した説明である。女工の多くが肺結核になったが肺結核になると即工場を首になった。肺結核は不治の病であり家に帰った女工は数年後に死んだ。

 小学六年生の時、先生が女工の話をした。先生が子供の時、隣のお姉さんが紡績工場に就職した。五、六年後に家に帰ってきたお姉さんは肌が透きとおるように白く、とても美人になっていた。お姉さんの膚が透きとおっていたのは肺結核が原因であった。数年後にお姉さんは死んだという。

 沖縄の貧困、低賃金、厳しい労働、肺結核、死が女工の現実である。
沖縄方言を重んじ、「琉球人差別」を主張する大城道子さんや謝花直美記者は女工の悲惨な実態や沖縄の貧困を隠している。沖縄を客観的に見つめていない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本の近代化に遅れた沖縄の農民







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


「かみつくⅢ」は、
狼魔人日記でネット先行販売しています。
書店販売はもう少し待ってください。
申し込みはメールでできます。


ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp
みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板



日本の近代化に遅れた沖縄の農民



「チルーぬ方言札」の2は「徴兵検査物扱いに激怒」の見出しで、本土からやってきた検査官が沖縄の人間を物扱いにし、それに反発した村人が反抗した「本部事件」について書いている。「本部事件」を最初に取り上げたのが元沖縄タイムス社長の新川明氏であった。

今年は「本部事件」から100年となる。
戦前に多くの徴兵忌避者を出した本部村で一九一〇(明治四三)年五月一八日、徴兵検査で徴兵忌避の疑いのある一人の青年に対してなされた官吏の行為に怒った村民が、検査場に乱入して暴行を加え、機器を破壊する事件が発生した。いわゆる「本部騒動」「桃原事件」などと呼ばれている徴兵検査をめぐるこの事件で、本部村の住民二三人(二人は無罪)が騒乱罪に問われた。

最近では資料も出てきているが、当時の新聞資料しかないなかで、この本部事件の全体を紹介し、近代史に徴兵忌避をめぐる事件として位置づけたのは新川明である。いま読んでもすごいと思う。写真は陸軍省の堀の報告書「沖縄徴兵検査ノ際村民不穏ノ挙アリタル件」の表紙。提出は事件の翌日五月一九日となっている。

新川は復帰前の新聞連載の中で、戦前の新聞資料を使いながら、事件やその後の県による本部村抑圧の動きなどを当時の社会状況を踏まえながら、沖縄近代史の「叛骨の系譜」に位置づけた。新川は事件の背後に官憲の挑発があったのではないか、と推測している。そして、「当時の沖縄社会には、何らかのきっかけさえあれば『本部事件』のような事態を誘発させる基盤は、民衆の徴兵に対する反感と厭悪として一般化し、広く民衆のなかで共有されていた」と書いている。(新川明『琉球処分以後』上、二一一頁)
海邦小国

 新川明氏が『本部事件』を取り上げた理由は、日本政府の徴兵制度に反発して徴兵忌避をした沖縄の人々には日本の抑圧への反骨の精神があったことを主張するためである。民衆の徴兵に対する反感と嫌悪は反戦平和思想に繋がることを新川氏は強調したいのだ。しかし、それは新川氏の歴史事実を無視した我田引水である。「本部事件」が起こったのは明治四三(一九一〇年)である。その頃にはすでに日本は近代化へ大きく前進していた。

明治元年(一八六八年)
明治四年(一八七一年)四民平等・・・士族の公務を解いて農業・工業・商業の自由を与え、また平民も等しく公務に就任できることとした。
明治五年(一八七二年)徴兵制度を採用・・・国民皆兵となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。
明治二七年(一八九四年)日清戦争
明治三七年(一九〇四年)日露戦争

日清戦争、日露戦争に勝利した日本は世界から一人前の国として認められるようになった。東洋の国で世界から認められたのは日本が最初である。

大陸の列強と戦争をして勝利し大陸進出を目指している日本政府からみれば南の小さな沖縄県の北部の小さな村で起こった「本部事件」は些細なことでしかない。蚊に刺されたくらいのむず痒ささえ感じなかっただろう。「何らかのきっかけさえあれば『本部事件』のような事態を誘発させる基盤は、民衆の徴兵に対する反感と厭悪として一般化し、広く民衆のなかで共有されていた」という認識は、新川氏が沖縄は日本、世界から見ればとても小さい存在であるということを自覚できないで沖縄は日本と対等な実力を秘めていると妄想しているからである。

新川氏は、沖縄の徴兵忌避は日本がどんどん近代化していく流れの中で取り残された人々の行動であったことを知らないで、現代の反戦運動と無理やり結びつけようとしている。徴兵忌避=反戦・厭戦ではない。そう思っているのならとんでもない勘違いである。

明治政府は明治四年に士農工商制度を廃止して四民平等にした。市民平等にしたから兵士専門である武士階級が解体し、国民皆が兵士になることになり徴兵制度ができた。豊臣秀吉が刀狩りをやって農民から武器を奪ったように封建社会では農民の反乱を恐れて農民には武器を持たさなかった。江戸時代になると士農工商制度になり、農民は生まれた時から死ぬまで農民だった。農民が武士になることはできなかった。

しかし、明治政府になると四民平等になり、国民すべてが兵士になれるようにした。徴兵制度は市民平等から生まれた日本の近代化の象徴である。日清戦争の時の清国と日露戦争の時のロシアは封建社会国家であった。二つの大戦は近代国家と封建社会国家の戦争でもあった。清国、ロシアの武士階級の軍隊と日本の平民による軍隊との戦争は小国でありながら日本が勝利した。それは封建国家に対する近代国家の勝利であった。

沖縄の徴兵忌避は戦争をするのは武士階級であり、農民は農業だけをやるものであるという封建思想が原因である。彼らには四民平等の思想がなかったから徴兵忌避をしたのである。

「チルーの方言札」では徴兵検査で物扱いにされたから農民が激怒したと述べているが、「物」扱いをされたという意識は「人間」であるという意識がなければならない。人間なのに人間扱いをされていないという意識から「物」扱いをされたという意識が生じてくる。四民平等さえ理解していない桃原の農民たちに人権意識があったとは考えられない。「物」扱いをされたという意識は彼らにはなかった。

「がってぃんならん。うんなまでぃ、うちなー うしぇーるばーい(許せない。こんなに沖縄をばかにするのか)」
本土の人間に馬鹿にされたということが原因で怒ったのであって人間として物扱いされたという人権意識から怒ったのではない。

本当に桃原農民がそんなことを言ったのか疑問である。「がってぃんならん」は最近よく使われていて流行している言葉である。現在流行しているから使っているのではないだろうか。桃原の農民が沖縄全体を意味する「うちなー」という言葉を使っただろうか。「わったーどぅ(俺たちを) うしぇーるばーい」とか「とーぱるんちゅー(とーばるの人間を) うしぇーるばーい」なら自然に口から出ると思うが「うちなー」は出てこないと思う。「沖縄を馬鹿にするな」は左系の人間たちが使う言葉であるが、彼らは自分は沖縄の代弁者である気持ちがあるから沖縄ということばを使っている。琉球王国時代の封建意識が強い農民が沖縄を代表するような「ウチナー」を口にするのはおかしい。それになぜ「りゅーちゅー」ではなくて「うちなー」なのかも疑問である。「がってぃんならん。うんなまでぃ、うちなー うしぇーるばーい」は現在の左翼の気持ちをウチナー口で書いたもので「本部事件」当時の農民の言葉とは思えない。

新川明氏は「当時の沖縄社会には、何らかのきっかけさえあれば『本部事件』のような事態を誘発させる基盤は、民衆の徴兵に対する反感と厭悪として一般化し、広く民衆のなかで共有されていた」と述べ、農民の抵抗が現在の反戦運動を内包しているように書いているが、実際は農民の古い思想による抵抗であり、日本の近代化に取り残された農民の抵抗である。このような抵抗は日本政府の政治が沖縄に浸透するにつれてなくなっていく。

一九四五年には集団自決が起きたように沖縄の民衆の意識は琉球王国時代の封建思想から軍国主義思想に変化していたのである。琉球王国時代の農民には兵士になる思想も自決する思想もなかった。餓死者が出る「ソテツ地獄」を何度も味わった農民には「命どぅ宝(生きていることが一番の宝)」「生ちかりーるえーだー 生ちけー(生きれる間はなにがなんでも生き抜け)」のようにどんなことがあっても生き抜く思想が強かった。

しかし、「本部事件」から三十五年後の一九四五年には天皇ために戦い天皇のために死ぬという思想が広まり、集団自決もやったのである。たった三十五年で沖縄の思想は大きく変わったのである。
沖縄の思想を激変させたのはなにか。それは皇民化教育である。

小学生の時に明治天皇が崩御した時に乃木将軍が自決した話や会津の白虎隊が自決した話を先生から聞いた。それは悲劇ではなく武士としての立派な行為として先生は話した。戦前ではない戦後のことである。自決とは自分の死を自分で決める武士のプライドであった。処刑する時も武士は切腹をした後に首を跳ねた。農民の処刑に切腹はなかった。

江戸時代には武士だけに許された自決が太平洋戦争の頃になると国民全員に日本人としての誇りを守るための自決が認められ、敵に殺されるより自決する思想が国民全体に広まった。この思想は日本のどこで広まったか。いうまでもなく皇民化教育をした学校である。

戦後生まれの私たちに影響を与えた戦中時代に十代だった小説家、評論家の全員が熱烈な軍国主義少年であったと述べている。そのくらい少年たちの皇民化はすごかった。沖縄も例外ではなかった。沖縄に学校が増えるにつれて皇民化教育も広まり、軍国主義人間は増えていった。

渡嘉敷と座間味の集団自決に軍命令はなかったと主張したドキュメンタリー作家の上原稔念氏が、軍命令はあったと主張した琉球新報社に裁判で勝利した。新報社か最高裁への上告をあきらめたほどの完全勝利だった。渡嘉敷と座間味の集団自決に軍命令はなかったことを裁判所か承認したのだ。

軍命令はなかったのに村の人たちは集団自決をした。彼らが集団自決をする思想を持つようになっのは皇民化教育にあった。皇民化教育以外にもいくつか原因はあるが、最大原因は皇民化教育にあった。皇民化教育をやったのは沖縄の教員たちである。日本軍ではなく、沖縄の教員こそが集団自決をさせた犯人であったのだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本の近代化と沖縄方言







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


「かみつくⅢ」は、
狼魔人日記でネット先行販売しています。
書店販売はもう少し待ってください。
申し込みはメールでできます。


ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板



日本の近代化と沖縄方言



 沖縄タイムスで「チルーぬ方言札」を連載している。連載二回目に「徴兵検査物扱いに激怒」という題名で、徴兵制度開始から十年の頃の本部町旧桃原での出来事を書いている。

 虚弱や障害があれば不合格になるため、検査前、青年は徹夜で語り体力を消耗させた。馬車をひかせ指を切断したり、針で目を刺す者もいた。
当然ながら、戦死したくないと言うのが理由だ。日本の軍隊に入りたくないという理由もあった。
                  チルーの方言札

 徴兵検査に不合格になるために病気になったり障害者になったという話は子供の頃聞いたことがある。醤油やひまし油を飲んでげりをした人もいたらしい。
「チルーの方言札」では徴兵検査での事件について述べ、それが沖縄民衆の日本国家への抵抗のように書いているが、なぜ「徴兵制度」があるかについては述べていない。
日本の徴兵制は,一八七二(明治五)年十一月二十八日の「全国徴兵に関する詔」および一八七三(明治6)年一月十日の 太政官布告無号「徴兵令」の布告による国民皆兵制がとられたことに始まる(『法令全書』第六巻〔明治六年〕
一九二七(昭和二)年四月一日に徴兵令は廃止,引き換えに兵役法が公布され(法第四七号),日本の男子は満二〇才になると徴兵検査を受ける義務が課せられた。
 徴兵検査は,越中ふんどし一枚になって,身長,体重測定,視力検査の後,軍医の前でふんどしを脱いで,痔(じ)や梅毒を検査する方法に加えて,身上についても行われた。
 終わると,順番に徴兵官の前に呼ばれて判定を受けるのである。検査の結果は,「甲種」から順に「第一乙種」「第二乙種」「丙種」などにランク分けされ,身体や精神の状態が兵役に適さない者は「丁種」とされた。

 徴兵制度は明治政府になってしかれた。江戸時代に徴兵制度はなかった。江戸時代で兵士と言えば武士であったが、明治時代になると士農工商の身分制度を廃止し、武士階級をなくした。そして、徴兵制度を設けて国民の二〇歳以上の男子すべてを兵士の対象にしたのである。いわゆる国民をみんな下級武士にしたのである。
 徴兵制度に対して沖縄だけでなく日本の多くの地方で反発した。封建社会では戦うのは武士であり、武士ではない農民は農業だけをやり戦うことは許されていなかった。だから、戦うのは武士と武士であった。一六〇九年に薩摩が琉球に攻め入った時、薩摩軍と戦ったのは琉球王国の武士たちであり、琉球王国の農民は戦争に参加していない。
 封建社会では土地と農民は武士階級の所有物であった。所有物の獲得争いが武士と武士の戦争になった。沖縄の農民は自分たちは農業をやり年貢を納める存在であり、武器をもって戦争をやる存在ではないと理解していた。
 武士は戦争をやり農民は農業をやる。生まれた時から死ぬまでそれは変わらない。時代が変わっても武士は武士であり農民は農民である。武士だけでなく農民もそういう思想であった。
 明治政府は廃藩置県をやり、士農工商の身分制度を廃止した。そして、大日本帝国憲法を制定し、国民は法の下で平等に扱う法治主義国家になった。徴兵制度を制定し、徴兵検査は全国で行われた。日本の近代化の流れの中に徴兵制度はあった。
「チルーの方言札」は時代背景を語らないで、徴兵検査に抵抗する沖縄の農民の姿を描いている。
身分制度の廃止、廃藩置県は沖縄の下級武士や農民の近代意識の芽生えから実現したものではない。本土の明治維新により明治政府ができ、明治政府が一方的に沖縄の身分制度を廃止し、琉球王国を琉球藩にし、琉球藩を沖縄県にした。廃藩置県は沖縄の武士や農民に断りもなく明治政府が強引に押し付けたものである。だから沖縄の農民は琉球王国時代の思想のままだった。地方になればなるほど、琉球は独立国であり、明治政府は他国であるという意識が強かっただろう。
 徴兵検査も他国が自分たちに強制しているという意識が強かっただろうし、徴兵制度に反発する沖縄の農民は多かったに違いない。本土の農民も徴兵制度に反発する者は多かった。
 しかし、軍隊は身分差別がなく個人の実力を評価するところであり、農民でも優秀であれば高評価されることを知って、農民は軍隊を見直すようになる。日本社会で身分差別をなくし近代化を早く実現したのは意外なことに軍隊であった。軍隊の場合は徹底して優秀な兵士になるための教育を行う。貧しい農民出身でも実力があればどんどん出世できるのが軍隊であった。

 私の叔父に盛松という人がいたそうだ。彼はとっても頭がよく成績は常にトップだった。しかし、彼の親は農民であった。学校の成績に関心がなく畑仕事の手伝いをさせた。彼は嘉手納の農林高校に合格したが、親が猛反対して辞めさせた。向上心の強い盛松おじさんは海軍に入隊し、海軍でどんどん出世したそうである。パラオで戦死したが、盛松おじさんが優秀だったことは親戚でも有名である。九〇歳になるおばさんはパラオにある盛松おじさんの墓をお参りしてきたそうだ。
 役所や教員などは身分の高い人たちが多くを占めていた。どんなに頭がいい農民でも貧しくて教育を受けることができなかったから、公務員や教員にはなれなかった。それに比べて基礎から徹底して兵士の教育をする軍隊は頭がよく優秀であれば出世することができた。
 沖縄の徴兵制度を問題にするのなら日本の近代化と沖縄の農民の意識のずれも問題にするべきだ。

 家の近くに体の不自由な青年がいた。小さいころのけがが原因で腕が曲がっていた。本部小学校であった徴兵検査で、本土出身の検査官らが青年の忌避を疑った。検察官が曲がった腕を力ずくで伸ばし、青年は卒倒したという。
障害をうそと疑われ、仲間を者扱いされた怒りが、他の青年たちの怒りを掻き立てた。
 チルーの先輩はその時の感情を代弁した。「がってぃんならん、うんなまでぃ、うちなーうしぇーるばーい(許せない。そんなに沖縄をバカにするのか)」激しい抗議と指笛。膨れ上がる群衆。検査官らは抜刀し負傷者も出た。群衆は後に引かず、検査官は護衛をつけ撤収せざるを得なかった。
                   チルーの方言札

 青年が卒倒するまで強引に腕を伸ばしたのは検査官のやりすぎである。本土からきた検査官なら沖縄の農民を見下していた面もあったと思う。ただ徴兵を免れるために病気や障害を装った農民は日本全国に多かっただろう。そのために検査官が厳しく検査するようになったのは当然なことでもある。沖縄でも多くの農民が病気や障害を装った。「本部事件」の青年は本当に障害者だったが、偽の障害者を強引に腕を伸ばして見破った場合もあっただろう。「がってぃんならん、うんなまでぃ、うちなーうしぇーるばーい(許せない。そんなに沖縄をバカにするのか)」は日本の近代化を理解していない古い農民意識から出た言葉である。通信が発達していない時代である。江戸幕府から明治政府に時代が大きく変わったことを沖縄の農民が知らなかった可能性は高い。検査官の厳しい検査を「うちなーうしぇーるばーい」と怒るのは事実あっただろう。問題は新しい時代の流れを理解できない農民の反発を現在の新聞がヒーロー視することである。
農民の反発に明治政府は妥協しなかった。

 青年を含め二十三人が騒擾罪で逮捕された。二人は無罪、二十一人が有罪で、最高懲役は五年だった。(『本部町史』)これを機に忌避に対して厳罰が取られていく。
                     チルーの方言札
 新聞記者は明治政府について理解しながら沖縄の農民のことを研究するべきである。徴兵制度による徴兵検査は全国で行われた。沖縄だけ特別視してはいない。沖縄の人間だからバカにすることはなかった。

 「皆、言葉が分からんから、苦労したという。独りでも標準語が分かる者がいれば代表して聞いて、残りの者に説明したと」。命令が分からずバカにされ、制裁も加えられることもあった。『沖縄対話』による標準語教育から約三十年。チルーの父親世代は標準語を学んでいなかった。
 沖縄では徴兵制度が始まり一九一五年までに七七四人が忌避したと告発された。
                  チルーの方言札

 共通語は学校だけで使う言葉、方言は生活の言葉だと考えていた私は学校以外は方言を使っていた。それは日本語を押し付ける共通語励行に対する反発であった。琉大演劇部で照明係の仲里先輩は方言を使っていたので彼と話す時は方言で話した。方言を話せない学生が多い中ですらすらと自在に方言で話すことに内心優越感があった。しかし、私の優越感が崩れた時が来た。
 ひとつは宮古方言を聞いた時である。沖縄の方言ならどこの方言でも理解できると自負していたが、宮古方言は全然理解できなかった。私が話していた方言は沖縄の方言というより沖縄の共通語だったのだ。沖縄なら沖縄の全員が理解できる言葉が必要である。その言葉は首里・那覇を中心とする中部の方言でありそれが沖縄の共通語であったのだ。沖縄は沖縄なりの共通語が必要であり、私の使う方言は沖縄共通語だったのだ。
 私は学校の共通語励行に反発したが、日本で生活する者にとって共通語修得は重要であったのだ。
日本なら日本全体に通じる言葉がなくてはならない。それが共通語である。だから学校で共通語を教えるのは当然のことであり方言札を利用して共通語を早く覚えさせようとしたことは間違いではなかった。
 方言にはもうひとつ大きな問題があった。方言は身分制度のあった時代の言葉であり身分差別を認める言葉であることだ。自由、平等、民主、人権のような言葉は方言にはない。なんとか方言に言いかえることができるかもしれないが、しかし、共通語の世界とは違う世界である。共通語は方言より普遍性が高い。方言の限界を感じた時から私は方言を使うことにこだわらなくなった。

 戦前は共通語励行をもっと徹底するべきだったと今の私は思う。公民館などを利用して大人にも共通語を教えるべきだった。そうすれば沖縄はもっと発展していたと思う。
 共通語を広めることはウチナーグチを衰退させることではない。共通語励行がウチナーグチを衰退させたようにみえるが実はそうではない。ウチナーグチを衰退させた最大原因はカラーテレビとアニメの普及である。私は一九七五年から糸満で学習塾をやっていたが、糸満では多くの小学生が糸満グチを使っていた。最初の頃はびっくりした。しかし、小学生の糸満グチが一九八〇年代から急激に減ってきた。原因はおもしろいアニメが増えたことだった。カラーテレビで見るアニメを多くみることによって共通語で話す子供が増えていったのだ。沖縄の学者はこの事実さえ知らないようである。

 テレビもラジオもない時代には共通語が広まらなかったように。テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどが蔓延している時代にウチナーグチが衰退するのは当然である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

なぜ、戦争が起きるのか





「かみつくⅡ 」の目次
「かみつく」の内容紹介
「沖縄に内なる民主主義はあるか」の内容紹介




「かみつくⅡ」は、
狼魔人日記でネット販売しています。
申し込みはメールでできます。

ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


なぜ、戦争が起きるのか


 私は一九四八年生まれである。子供の頃は電気がないランプの時代もあった。市販しているガラスのランプは一個だけで。小部屋などで使うランプは鯖かんづめの缶に布を通した手製のランプを使っていた。電気が通ったのは小学低学年の頃だった。米軍から払い下げた発電機を利用した発電会社ができて、大湾や比謝に配電していた。
 テレビのない時代であったから私たち少年は日が暮れるまで外で遊んでいた。鬼ごっこ、缶けり、かくれんぼ、グーチョキパー、ちゃんばらごっこなどなどいろんな遊びをやった。

 公民館に砂場とすべり台とブランコができたので私たちは砂場で幅跳びや相撲をやった。相撲に飽きるとムートーという相手が降参するまで攻める打撃なしの総合格闘技のような遊びをやった。
遊び疲れると月の下で輪になって色々な話し合いをするのが常だった。戦争の話もよくやった。戦艦大和が沖縄にやってきていたら沖縄は戦争に勝っていたとか、ゼロ戦とグラマンはどちらが強かったかとか、大人や雑誌などから仕入れてきた戦争話をいろいろ話した。

 戦争の話は最後に第三次世界大戦の話になっていった。第一次世界大戦第二次世界大戦が起こったのだから第三次世界大戦は必ず起こるだろうという考えだった。西平という一切年上の少年は世界大戦は二十年ごとに起こっているから第三次世界大戦も十年以内に起こると断言していた。
 第三次世界大戦は核戦争になり人類が滅亡する戦争と言われていた。核爆弾に詳しい少年がいて、私たちは彼から核爆弾がどんなものか教わった。彼の話によると核爆弾一個で沖縄は消滅するらしい。あの頃の私たちは原子爆弾と呼んでいた。原子爆弾より威力がある水素爆弾も開発されていると彼は話した。
 原子爆弾一個で沖縄が消滅するのは信じることができなかったが、原子爆弾は広島や長崎に落ちて広島や長崎は壊滅状態になったという話を聞けば信じないわけにはいかなかった。

 地球が滅亡するという第三次世界大戦の会話の最後には「明日、第三次世界大戦が始まったら、死ぬ前になにをやりたいか」という話になった。「最後の晩餐」である。他の子供たちが何を話したか覚えていないし、私が何を話したかも覚えていないが、頭の中で考えたことは覚えている。公民館の広場の隣にはトミおばあさんの小さな駄菓子屋があった。もし、第三次世界大戦が起こり確実に死ぬことになったら私はトミおばあさんの駄菓子屋に入り、お菓子を強奪しようと考えていた。子供の私の夢はお菓子を腹一杯食べることであり、トミおばあさんなら年寄りだから子供の私でもお菓子を強奪できるだろうと思った。

 強奪することは悪いことである。トミおばあさんの駄菓子屋からお菓子を強奪することを考えていることを話したら周りの子ども達から非難されるだろうと考えたから私は話さなかった。
 あの時代、多くの子供たちは第三次世界大戦や核爆弾について話しあっただろうか。それともそんな話は私たちだけだったのだろうか。それはわからない。ただ、私たちは第三次世界大戦や核爆弾について興味を持たざるを得ない環境にあった。

 私が住んでいる所は読谷村の比謝というところであったが、比謝は嘉手納町に近く嘉手納飛行場が見えたし、比謝の東側には嘉手納弾薬庫があった。

 国道五十八号線を北進し嘉手納町を過ぎて読谷村に入った時、五十八号線の西側には比謝橋、大湾、比謝の密集した住宅が連なっているが、東側は建物がひとつもない。畑と野原だけである。建物がないのは軍用地だからである。畑の向こうに頂上が東北にかけて横長になっている低い山が見えるが、その山の頂上からふもとまでが嘉手納弾薬庫で陸海空の米軍が使用する爆弾を貯蔵している。嘉手納弾薬庫は嘉手納飛行場の四倍も大きい。

 嘉手納弾薬庫は安全のために弾薬庫から数キロ離れた広い範囲を人が住まないように軍用地にしている。広い軍用地は米軍が使用することはないので設備を一切造らない条件で地主が畑にすることを黙認している。それを黙認耕作地という。
広い嘉手納弾薬庫には広場、山、川の自然があり、ギーマ、クービー、ベンシルー、マチバルパンクー、ヤマモモなどの木の実があり、私たちは木の実を食べたり、川で泳いだり魚や川ガニを取って食べたりして遊んだ。朝から出かけ昼食は自然の恵みを食して夕方まで遊んだ。

 軍用地は私たちの最高の遊び場たった。だが、山奥のほうに入っていくと突然大きな爆弾が山のように積まれている広場に出るときもあった。広場にはカービン銃を肩に掛けた看視員がいて私たちを追い払った。嘉手納弾薬庫には核爆弾が貯蔵されているという噂があったが、山積みした爆弾を見た私たちは噂の核爆弾もあるだろう思っていた。残波岬には大きいミサイルが中国に向かって立っていた。そのような環境にあったから私たちは第三次世界大戦は起こるかも知れないと思っていた。子供の私には核戦争は絵空事ではなかった。

 第三次世界大戦が始まるかも知れない事態が起こった。キューバ危機である。キューバ危機が起こったのは一九六二年である。私が中学一年生の時だ。第二次世界大戦が起こってから約二十年が経っていた。二十年周期で世界大戦が起こるならキューバ危機が第三次世界大戦発展する可能性は高かった。

 キューバ危機の原因はキューバにソ連の核ミサイルが持ち込まれたことが原因であった。ケネディ大統領は全米テレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。私の家にはテレビがなかったのでラジオからキューバ危機のニュースを聞いた。

 ラジオではケネディ大統領が海上封鎖したことや、核ミサイルを積んでいるかもしれないソ連の船がキューバに向かっていることを放送した。ラジオでも戦争になるかも知れないと緊迫した放送をした。キューバ上空を飛んでいた偵察機がミサイルで撃墜された時、私はアメリカとソ連は戦争になると思った。

 ソ連とアメリカが戦争をすれば第三次世界大戦になる。アメリカ軍基地のある沖縄は真っ先に核ミサイルを撃ち込まれて一瞬の内に消滅してしまうだろう。沖縄の住民はみんな死ぬ。私はそれを恐れていたから、戦争にならないことを祈りながらラジオニュースを聞いた。
 幸いなことにキューバ危機は回避された。私はほっとした。

 キューバ危機は、一九六二年十月十四日から二十八日までの十四日間だった。たった二週間だったから、キューバ危機は本当はそんなに緊迫はしていなかっただろう、ラジオが大げさに放送したのだろうと私は思うようになった。あなたはキューバ危機を知っていますか。知っていたとしてもたった二週間の出来事であったし、多分あなたも私と同じように「核戦争危機」というほどのものではなかっただろうと考えていると思う。しかし、事実はそうではなかった。

 数年前にNHKでキューバ危機のドキュメントの放送を見たが、キューバ危機は本当に核戦争寸前までいっていた。核戦争に向かわざるをえない状況に追い込まれながらなんとか戦争になるのを回避しようとするケネディ大統領とフルシチョフ首相の苦悩は極限までいっていた。ケネディ大統領は弟のロバート司法長官に戦争が起こった時の犠牲者の数を試算させたという。

 アメリカ軍部隊の警戒態勢は、二十二日の大統領演説中にデフコン3となった。二十六日午後十時にはデフコン2となり準戦時体制が敷かれた。

デフコン 5  平時における防衛準備状態を示す。準備状態の上昇は統合参謀本部が実行し、国防長官が宣言する。
デフコン 4  情報収集の強化と警戒態勢の上昇を意味する。冷戦時に、大陸間弾道ミサイル部隊のデフコンはほとんどこ       のレベルだった。
デフコン 3  通常より高度な防衛準備状態を示す。アメリカ軍の使用する無線は機密コールサインに変更される。二〇〇       一年九月十一日の同時多発テロの際にも宣言された。
デフコン 2 最高度に準じる防衛準備状態を示す。キューバ危機の際に一度だけ宣言されたことがある。一九六二年一〇月       二十三日に宣言され、戦略航空軍団はB‐52爆撃機の一部を空中待機、残りのB‐52とB‐47は滑走       路待機となった。これは戦略航空軍団については、十一月十五日まで継続された。
デフコン 1 最高度の準備を示す。今までに用いられたかどうかは定かではないが、アメリカ軍やアメリカ領土に対する外      国軍による切迫した、または進行中の攻撃のために予約されている。核兵器の使用が許可されることもある。

 ケネディ大統領はソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソー、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置いた他、日本やトルコ、イギリスなどに駐留する基地を臨戦態勢に置いた。核爆弾を搭載したB‐52戦略爆撃機やポラリス戦略ミサイル原子力潜水艦がソ連国境近くまで進出し戦争に備えた。また、ソ連も国内のR-7やキューバのR‐12を発射準備に入れた。

 デフコン2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買いに殺到する事態が起きた。

 キューバ危機が起こった時、ケネディ大統領は核攻撃の際にはキャサリン夫人と子どもたちをワシントンD.Cから離れたシェルターに避難させるという計画を立てたがジャッキー夫人は、
「もし何かが起きたとしても、私をどこかへ送らないで。私たちはみんなここで、あなたと一緒にいる。私はあなたと一緒に死にたい、子どもたちもそうよ──あなたなしで生きるくらいなら」
と反対したという。
 キューバ危機はジャッキー夫人が死を覚悟するほど非常に緊迫した状況になっていたことが理解できる。

キューバ危機は核戦争に発展しなかったが、中学生の私はキューバ危機を体験して以来近い将来核戦争が起こるかもしれないと心配するようになった。
 マンガ好きの私は月刊雑誌少年画報を毎月買っていた。少年画報の後ろの方には毎月短編小説が掲載されていたが、第三次世界大戦が起こったという想定で書かれた小説が載ったことがある。核戦争が起こり、核シェルターに入って生き延びた人々が地上に出てみると、地上は草木ひとつない廃墟の世界であるというところで終わっていた。私は廃墟の世界で生き続けるほうがいいのかどうか悩んだ。悩んだ末に私は廃墟の世界で生きても虚しいだけだから死んだほうかいいと結論した。

 私は中学三年生の時の校内弁論大会で第三次世界大戦が起こり、核戦争になったら私は生きるより死を選ぶと発表した。作り話だとあなたは思うだろうが本当のことである。教師も生徒もマンガの読みすぎで頭がおかしくなったのだろうと苦笑しただろうが、第三次世界大戦・核戦争がトラウマになっていた私は真剣だった。

 第三次世界大戦がトラウマなった私は高校生になるとなぜ大人は戦争をするのかを考えるようになった。
 戦国時代の映画では、天下を統一して平和な国にするために戦争をするのだと主人公は言っていたが私は半信半疑だった。
 日本史にしろ世界史にしろ歴史は戦争の連続だ。なぜ、戦争が起きるのか。なぜ戦争をするのか。民族と民族の対立による戦争。宗教の違いによる戦争。征服の欲望者による戦争などなど、戦争の原因は色々あるように言われているが、戦争の根本的な原因はなんなのか。高校生の時、戦争の原因を追究したが原因を明らかにすることはできなかった。
 
私のように戦争がなぜ起こるかを考えた少年は多かったのでないだろうかう。
 戦争の根本的な原因は領土拡大にあると確信が持てたのは三十代になってからである。領土争いではなく領土拡大である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

沖国大のほうが移転するべき





「かみつくⅡ 」の目次
「かみつく」の内容紹介
「沖縄に内なる民主主義はあるか」の内容紹介




「かみつくⅡ」は、
狼魔人日記でネット販売しています。
申し込みはメールでできます。

ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


沖国大のほうが移転するべき



 2004年8月14日の米軍ヘリ沖国大墜落事故から9年の集会が沖国大で13日に開かれた。
 大城保学長は隣接する米軍普天間飛行場の即時閉鎖と返還を日米両政府求める声明を発表した。14日以降、首相や駐日大使らに対し、同飛行場を使用する航空機の即時飛行中止とオスプレイ追加配備の中止を要求する文書を起きるという。

大城学長は
「起きてはならない事故は必ず起こる。それに、どう立ち向かうのかが大事だと思う」
「普天間飛行場があり、オスプレイが宜野湾市上空を飛行し続ける以上、事故は起こる」
「大学の平穏・安寧を脅かす普天間飛行場の強化、ましてや固定化は、大学にとって認められるものではない」

と発言している。

 大城氏は沖縄国際大学の学長である。学長であるならば沖国大の歴史を知っているはずである。学長が自分の大学の歴史を知らないなんてあり得ない。

 沖縄国際大学(おきなわこくさいだいがく、英語: Okinawa International University)は、沖縄県宜野湾市宜野湾二丁目6番1号に本部を置く日本の私立大学である。1972年に設置された。大学の略称は沖国大(おきこくだい)もしくは沖国(おきこく)。
略歴
1959年、沖縄県のアメリカ合衆国による統治下時代に、財団法人コザ学園が琉球国際短期大学を設置した。
1962年、同財団法人は琉球国際短期大学を内包する形で国際大学を設置、琉球政府により認可された。
1972年、沖縄返還がなされると、沖縄県に設置されていた大学に関しても日本国内の大学設置基準と
あわせる必要が生じた。そのため、沖縄の復帰に伴う特別措置によって国庫補助金が交付さ
れさらに日本私学振興財団から特別に貸与金が交付された。これらを原資として国際大学を母
体に沖縄大学の一部を統合して設立したのが現在の沖縄国際大学である。
                             ウィキペティア

 沖縄国際大学は1972年に現在の場所に創設した。1972年はベトナム戦争の最中であった。

1970年:リチャード・ニクソン大統領就任(1月)、南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻(4月)、カンボジア内戦勃発

1971年:南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻(2月)、ニューヨーク・タイムズ紙に「ペンタゴン・ペーパーズ」連載    開始、南ベトナム大統領選挙(10月)

1972年:北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開・停止(12月)

1973年:パリ協定締結(1月)、アメリカ軍がベトナムから撤兵完了(3月)

 沖国大を創設した1972年当時はベトナム戦争の最中であり、沖縄での戦闘訓練は激しく普天間飛行場の危険性は今より数十倍も高かった。沖国大か開学して間もない頃、ヘリコプターから沖国際大にタンクが落下する事故が起こった。大城学長は「起きてはならない事故は必ず起こる」ともっともらしく発言しているか、開学して間もないときに「起きてはならない事故」はすでに起きたのだ。それでも沖国大は別の場所に移転する考えは全然なく、どんどん校舎を新築していった。

 ベトナム戦争時代の普天間飛行場の周囲が危険であるのは見え見えであった。それなのに普天間飛行場の隣に大学を創るなんてキチガイ沙汰である。

 危険な場所になぜ沖国大をつくったのか。

 あの頃、沖国大のある場所は辺鄙な場所であり住宅はほとんどなく土地が安かった。沖国大の経営者たちは大学の創設費用を安くするために普天間飛行場の隣を選んだのである。沖国大を創設した人間たちは創設費用を安くすることだけに関心があり学生の安全には関心がなかったということだ。

 沖国大の創設を許可したのは宜野湾市の市長や議員である。米軍ではない。米軍は危険な場所に大学をつくるのに反対だったはずである。米国では米軍飛行場の隣に大学をつくるなんて絶対に許可しないはずだ。人権を重視する米国ではあり得ないことが沖縄では起こったのである。米軍は「オー、ノー」と頭を抱えただろう。

 なぜ、宜野湾市の市長や議員は危険な普天間飛行場の隣に沖国大を創設するのを許可したのか。それは大学ができれば人口が増え税金収入が増える。市長や議員は人口が増え宜野湾の経済が発展するのを最優先したのである。彼らは学生の人命の危険性には全然関心がなかった。小学生の人権にさえ関心のない彼らは普天間飛行場の隣に普天間第二小学校をつくった。1969年のことである。沖国大ができる二年前である。

 沖国大が普天間飛行場の隣にあるのは沖国大の経営者や宜野湾市の市長、議員の責任であり、彼らが学生の人権を無視したからである。米軍には全然責任がない。

 そんなことを知らない19歳の学生代表の真喜志綾乃さんは「平穏な日々を過ごしたい。私たちの願いはそれだけです」などと意見を言う。
 沖国大は普天間飛行場が今より数十倍も危険なベトナム戦争中に普天間飛行場の隣につくったのである。創設当時に比べれば現在のほうが平穏である。もっと平穏を望むのであれば沖国大を引っ越したほうがいい。
 危険である普天間飛行場の隣に勝手に大学をつくって、普天間飛行場が危険だから撤去・閉鎖しろというのはあまりにもわがままな言い分である。

 普天間飛行場は共産党一党独裁国家中国や北朝鮮の侵略を抑止しアジアの民主主義国家の安全と平和を維持するために存在している。小市民の小さな欲望を実現するための沖国大とは存在価値が桁違いである。
 アジアの民主主義の安全と平和をちっとも考えないで、自分のちっぽけな小市民的欲望にこだわる人間たちに普天間飛行場の閉鎖・撤去を主張する権利はない。
 
 普天間飛行場と沖国大では存在価値が数百倍も違う。
 普天間飛行場が危険だというのなら、普天間飛行場の隣に自分勝手につくった沖国大のほうが移転するべきである。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

慰安婦少女像は韓国の恥





「かみつくⅡ 」の目次
「かみつく」の内容紹介
「沖縄に内なる民主主義はあるか」の内容紹介




「かみつくⅡ」は、
狼魔人日記でネット販売しています。
申し込みはメールでできます。

ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


慰安婦少女像は韓国の恥


 日本には公娼制度があった。それは売春を公認することであるが、その目的は無秩序な売春を国の管理下に置き、売春を秩序化し売春婦を保護し、理不尽なトラブルをなくすことにあった。
 公娼制度を条文化したのを「娼妓取締規則」という。

■ 娼妓取締規則(明治三十三年十月内務省令四十四号)

第一条 十八歳未満の者は娼妓たるを得ず
第二条 娼妓名簿に登録せられざる者は娼妓稼を為すことを得ず
娼妓名簿は娼妓所在地所轄警察官署に備ふるものとす
娼妓名簿に登録せられざる者は取締上警察官署の監督を受くるものとす
第三条 娼妓名簿に登録は娼妓たらんとする者自ら警察官署に出頭し左の事項を具したる書面を以て之を申請すべし
一 娼妓と為る事由
二 生年月
三 同一戸内に在る最近尊族親尊族親なき時は戸主の承諾を得たる事若し承諾を与ふべき者なき時は其事実
四 未成年者に在ては前号の外実父、実父なき時は実母、実父母なき時は実祖父、実父母実祖父なき時は実祖母の承諾を得たる事
五 娼妓稼を為すべき場所
六 娼妓名簿登録後に於ける住居
七 現在の生業但し他人に依りて生計を営む者は其事実
八 娼妓たりし事実の有無並に嘗て娼妓たりし者は其稼業の開始廃止の年月日、場所、娼妓たりし時の住居及稼業廃止の理由
九 前各号の外庁府県令にて定めし事項
前項の申請には戸籍吏の作りたる戸籍謄本前項第三号第四号承諾書及び市区町村長の作りたる承諾者印鑑証明書を添付すべし
娼妓名簿登録申請者は登録前庁府県令の規定に従ひ健康診断を受くるものとす
第四条 娼妓稼を禁止せされたる者は娼妓名簿より削除せらるるも
のとす
前項の外娼妓名簿の削除は娼妓より之を申請するものとす但し未成年者に在ては前条項第一項第三号及第四号に掲ぐる者よりも之を申請することを得
第五条 娼妓名簿削除の申請は書面又は口頭を以てすべし
前項の申請を自ら警察官署に出頭して之を為すに非ざれば受理せざるものとす但し申請書を郵送し又は他人に託して之を差出す場合に於て警察官署が申請者自ら出頭すること能はざる事由ありと認むる時は此限に在らず警察官署に於て娼妓名簿削除申請を受理したる時は直に名簿を削除するものとす
第六条 娼妓名簿削除申請に関しては何人と雖妨害を為すことを得  
  ず
第七条 娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを
得ず
娼妓は法令の規定若くは官庁の命令により又は警察官署に出頭するが為め外出する場合の外警察官署の許可を受くるに非ざれば外出することを得ず但し庁
府県令の規定に依り一定の地域内に於て外出を許す場合は此限に在らず
第八条 娼妓稼は官庁の許可したる貸座敷内に非ざれば之を為すこ
とを得ず
第九条 娼妓は庁府県令の規定に従ひ健康診断を受くるべし
第十条 警察官署の指定したる医師又は病院に於て疾病に罹り稼業
に堪へざる者又は伝染性疾患ある者と診断したる娼妓は治癒の上健康診断を受くるに非ざれば稼業に就くことを得ず
第十一条 警察官署は娼妓名簿の登録を拒むことを得ず
庁府県長官は娼妓稼業を停止し又は禁止することを得
第十二条 何人と雖娼妓の通信、面接、文書の閲読、物件の所持、購買其の外の自由を妨害することを得ず
第十三条 左の事項に該当する者は二十五円以下の罰金又は二十五
日以下の重禁固に処す
一 虚偽の事項を具し娼妓名簿登録を申請したる者
二 第六条第七条第九条第十二条に違背したるもの
三 第八条に違背したるもの及官庁の許可したる貸座敷外に於て娼妓稼を為さしめたる者
四 第十条に違背したる者及第十条に依り稼業に就くことを得ざる者をして強て稼業に就かしめたる者
五 第十一条の停止命令に違背したる者及稼業停止中の娼妓をして強て稼業に就かしめたる者
六 本人の意に反して強て娼妓名簿の登録申請又は登録削除申請を為さしめたる者
第十四条 本令の外必要なる事項は庁府県令を以て之を定む
第十五条 本令施行の際現に娼妓たる者は申請を持たして娼妓名簿に登録せらるるものとす
※旧字体は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めています。

 公娼は十八歳以上であること、未成年者は親の承諾が必要であること、住居も国が指定した場所にすること等々厳しい規則があった。
 朝鮮にも日本の「娼妓取締規則」に相当する法律が制定された。それは「貸座敷娼妓取締規則」という。
一九一六年三月三一日には朝鮮総督府警務総監部令第四号「貸座敷娼妓取締規則」(同年五月一日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より一歳低い一七歳未満に設定された。

日本女性なら「娼妓取締規則」に違反している女性、韓国女性なら「貸座敷娼妓取締規則」に違反している女性は公娼ではない。慰安婦は日本兵を相手にする公娼のことである。だから、公娼ではない売春婦は慰安婦ではない。
三十五人のオランダ女性を強制連行して慰安所に入れた「白馬事件」でも分かるように、慰安所に入るには、年齢が一七歳以上であること、本人の自由意思で入所したことを確認できる趣意書に署名するなど「娼妓取締規則」「貸座敷娼妓取締規則」を遵守しなければならなかった。

韓国は慰安婦の少女像設置運動をアメリカで展開している。



 米カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のグレンデール市の公園で30日、いわゆる従軍慰安婦を象徴する少女像の除幕式が行われた。米国ではこれまでにニューヨーク、ニュージャージー両州でも記念碑が設置されている。
少女像はソウルの日本大使館前にあるものと同じ。韓国系団体「カリフォルニア韓米フォーラム」などが設置を働きかけ、グレンデール市議会が7月9日に認めていた。除幕式には多数の韓国系住民らが参加し、日本政府に謝罪などを求めた。

 慰安婦制度では一七歳未満の少女は慰安婦になることを禁じている。慰安所に入るためには親の承諾書と一七歳以上であることを証明しなければならない。
 「白馬事件」では十七歳以上の女性を集めている。年齢に厳しい制限があったことが分かる。慰安所に入る時は年齢、名前、出身地を登録しなければならない。慰安婦の書類は日本軍が管理している。韓国の元慰安婦には十一歳や十四歳で慰安婦させられたと証言している女性がいるが考えられないことである。

 慰安婦イコール売春婦ではない。慰安婦は公娼であり国が認めた売春婦である。だから慰安婦は私娼ではない。慰安婦ではない違法な日本兵相手の売春婦も多かっただろう。儲け主義の悪質ブローカーが横行していたのは当然である。彼らは慰安婦になれない少女を売春婦にしただろう。
韓国の元慰安婦の証言には慰安所に入る時に本当は十四歳なのに十七歳と偽ってサインしたという話は出てこない。十一歳なのに慰安婦させられた女性もいる。十一歳の少女が十七歳と偽ることは不可能であり慰安所に入ることはできなかったはずである。

 米国も日本も売春禁止法が施行されていて売春は禁止されている。それでは米国や日本に売春行為は行われていないかというとそうではない。米国でも日本でも売春行為は行われている。大きな売春組織が何度も摘発されている。沖縄でも売春宿は存在している。売春禁止方があるからといって売春がなくなったわけではない。
 戦時中は「娼妓取締規則」「貸座敷娼妓取締規則」があり、私娼は禁止されていた。私娼は取り締まりの対象であった。しかし、売春禁止法が施行されているにも関わらず売春行為が絶えないのと同じように戦時中は私娼は禁止されていたのに横行していた。

 本当の慰安婦問題とはなにか。
 それは日本が売春を公認したことである。日本は「娼妓取締規則」、朝鮮は「貸座敷娼妓取締規則」を施行し売春を認めていた。そのことが本当の慰安婦問題である。
 娼妓取締規則」には性奴隷を認める条文はない。条文のどこを探しても娼婦を「性奴隷」のように扱ってもいいという条文はない。むしろ逆である。売春婦が「性奴隷」のように扱われないように売春を職業として認め、売春婦を職業婦人として人権を保護する制度になっているのが公娼制度である。
 売春そのものが女性の人権を侵害しているという批判はその通りであるが、慰安婦制度によって性奴隷にされたという批判は成り立たない。むしろ、慰安婦制度は強制連行・監禁・強姦を禁止し、女性を性奴隷から守っている制度である。
「白馬事件」はオランダ女性を性奴隷にしたので軍司令部は慰安所を閉鎖した。

 当時十九歳だった一九四二年、日本軍占領後、収容所に入れられ、「日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」「一緒に連行されたオランダ人少女らと三年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした。

「白馬事件」やこのような事件は慰安婦問題ではない。戦場における女性の性被害の問題だ。このよう女性の性被害は日本軍だけでなくすべての国の軍隊で起きている。

 慰安婦問題は日本が売春を公認した公娼制度の問題である。公娼制度に違反した「白馬事件」や性奴隷は慰安婦問題の対象外だ。

慰安婦問題・・・日本が売春を公認。
白馬事件・性奴隷・・・戦場における強制連行・監禁・強姦によ     
           る女性の性被害。

 韓国の自称元慰安婦は性奴隷にされたことを問題にしているが、慰安婦制度は性奴隷を禁じているのだから、本当は慰安婦問題ではない。慰安婦制度を守らなかった強制連行・監禁・強姦による性被害の問題である。

 慰安婦少女が問題になっているのは韓国だけである。少女が慰安婦になることは違法行為である。少女は慰安婦ではなく民間の違法な売春婦であっただろう。日本兵相手の少女売春が韓国では横行していたということだ。その象徴が慰安婦少女像である。

 戦時中、少女売春・性奴隷があったことで、少女売春・性奴隷を禁じている慰安婦制度を非難することは、売春行為があることで売春禁止法を非難することと同じである。

 日本が売春を公認した慰安婦問題は日本の問題であるが、少女売春・性奴隷は戦場における強制連行・監禁・強姦であり全世界の軍隊の問題である。
 慰安婦にされたのは韓国だけでなくオランダ、台湾、フィリピンなど多くの国の女性がいるが少女慰安婦問題は韓国だけである。十七歳未満は慰安婦になれない。だから韓国が主張している慰安婦少女は本当は慰安婦ではなかっただろう。慰安婦制度に違反している売春婦少女であっただろう。

 韓国は少女まで売春をさせた。米国にどんどん設置している像は韓国の慰安婦少女像ではない。韓国の売春婦少女像である。韓国の恥ずべき像である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

慰安婦問題を捻じ曲げるタイムス・新報2





「かみつくⅡ 」の目次
「かみつく」の内容紹介
「沖縄に内なる民主主義はあるか」の内容紹介




「かみつくⅡ」は、
狼魔人日記でネット販売しています。
申し込みはメールでできます。

ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


慰安婦問題を捻じ曲げるタイムス・新報2



タイムス・新報両紙で連載している「問われる自画像・歴史認識と日本」は慰安婦問題の巧妙な捻じ曲げを八月九日の記事でも行っている。

聞き取りによると、第二次大戦中の一九四四年四月、十八歳のマーサはインドネシア中部ジャワ島のスマトランから日本軍に連行され千キロ以上離れたフロレス島で性行為を強要された。インドネシア日本占領前、オランダの植民地だった。
               「問われる自画像・歴史認識と日本」

 マーサのことは事実である。この事件は「白馬事件」といい有名な事件である。

 当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第一六軍司令部のガイドラインを無視した。(ガイドラインは未発見であるが証言やスマトラの第二五軍の類似の通達からそのように考えられている。)
 複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から十七歳から二十八歳の合計三十五人のオランダ人女性を強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの四つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。
 三月一日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。週に一度医師の身体検査があったが、充分な治療はほとんど行われず、医師が強姦することさえあった。
                               ウィキペティア
 
 強制連行し、給料を払わずに強姦したということは性奴隷である。もしこの事実だけであったなら慰安婦は性奴隷であったという証拠となる。しかし、この事件には続きがある。

 自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により一六軍司令部は、一九四四年四月末に四箇所の慰安所を閉鎖した。(小田島大佐の視察は、事件と前後して抑留所の管理が軍政監部から現地軍司令部に移管したためのものである。)しかしながら、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。
                                ウィキペティア

 慰安婦は公娼である。公娼は本人が同意することを前提としている(法律として明文化してある)。強制的に慰安婦にすることを日本軍は禁じていた。オランダ女性を強制的に慰安婦にしたことは法律違反だった。だから、一六軍司令部は二か月後に慰安所を閉鎖したのだ。「問われる自画像」はこの事実を隠している。日本軍がオランダ女性を強制連行して慰安婦にしたことだけを書いている。

 新聞を読んだ人は日本軍がオランダ女性を性奴隷にしたと思うだろう。新聞はその効果を狙っているのだ。新聞のマインドコントロールである。
 私はコンビニで売れ残った新聞を切り取ってコピーし、それを読みながらブログの文章を書いている。だから、私のブログは一日遅れの新聞記事を参考に書いている。一昨日はタイムス・新報の両紙が売り切れていたので「オランダ社会の無理解」をコピーすることはできなくて、ブログを書くのをあきらめた。ところが写真家の石川真央さんのブロクにコピーが掲載されていたので、ブログを書くことができた。
 石川真央さんは「オランダ社会の無理解」の内容を信じ、日本軍や安倍首相、橋本市長に怒ったからブログに掲載した。石川真央さんは沖縄二紙の狙い通りマインドコントロールされたのだ。彼女のように多くの読者がマインドコントロールされているだろう。
 

 「問われる自画像」の文章の後半には、

 李は、従軍慰安婦について「当時は必要だった」と発言した橋下氏を「でたらめだと非難。賠償請求訴訟は〇七年に最高裁が上告を棄却し敗訴が確定したが「自分」が死んでも日本政府への責任追及は子供たちが引き継ぐ」と断言した。
 大原市内で入院中の元原告の万愛花(八十五)。中国で「右傾化」への例会が強まる安倍首相について「歴史を正視していない」と批判し「だからこそ裁判を何度でも打たなければならない」
                       問われる自画像「再び傷つけられた」

 橋下徹大阪市長の従軍慰安婦発言には在オランダ日本大使館に「危険な発言」と抗議書簡を送った・「橋下氏の発言や、強制された慰安婦の存在を疑問視する安倍晋三首相の言葉は元慰安婦らを繰り返し傷つけています」と憤る。
                     問われる自画像「オランダ社会の無理解」

と必ず橋下市長や安倍首相を非難する文章を書いている。慰安婦問題ではないのに慰安婦問題のように扱い、安倍首相や橋本市長を批判しているのがタイムス・新報が同時連載をしている「問われる自画像」である。

 慰安婦について調べていくと、慰安婦=公娼であることがわかる。公娼は国の認可制であり公娼になるためには多くの規制がある。公娼になるには本人の自由意思で売春婦になることを条件にしている。白馬事件では「日本語で書いた趣旨書への署名を強制した」したから違反行為をしたことになる。

戦場では三つのケースの性行為があった。

一 慰安婦を相手にした性行為。慰安婦=公娼制度を遵守した売春婦。慰安所のみで商売する。
二 フリーな売春婦を相手にした性行為。フリーな売春婦=政府の許可を得ていない売春婦。慰安所以外の売春宿で商売を  する
三 一般女性の強制連行・監禁・強姦による性行為

「問われる自画像」は慰安婦問題を扱っているように見せながら実際は三のケースを実例にしている。三は慰安婦ではない。一般女性である。「問われる自画像」は慰安婦問題を捻じ曲げている。
 
 白馬事件と似た事件をロシア兵も起こしている。

敦化事件
 一九四五年八月二七日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。

 一七〇人ほどの婦女子は一五,六人ずつに分けられ監禁されることとなった。
ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は八月二七日の深夜になっても収まることはなかった。このため、二十八人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、二十三人が死亡、五人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。

 八月二七日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ以上の暴行は中止されることとなった。
                          ウィキペティアを参考

 白馬事件と敦化事件は内容が同じ事件である。しかし、日本軍とソ連軍の対応は異なっている。日本軍は違法行為をした慰安所を閉鎖している。ロシア軍は二十三人の自決者が出るまではロシア兵の強姦を黙認していた。
日本軍は兵士の強制連行・監禁・強姦を禁じていた。その代わり慰安所を設置した。しかし、慰安婦制度のないソ連は強制連行・監禁・強姦を認めていた。
 慰安婦制度は兵士の強制連行・監禁・強姦を禁止するための制度であり、一般女性の被害を防ぐための制度であった。


 終戦後の一九四八年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として十一人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田慶治陸軍少佐には死刑が宣告された。また、中心的役割をはたしたと目される広島県生まれの陸軍大佐は戦後、日本に帰っていたが軍法会議の終了前に自殺した。裁判では、慰安婦にされた三十五人のうち二十五名が強制だったと認定された。


 日本は慰安婦制度=公娼制度を世界に公表するべきだ。公娼制度を遵守したのが慰安婦であり、公娼である慰安婦が「性奴隷」にされることはなかった。それが真実である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

慰安婦問題を捻じ曲げるタイムス・新報





「かみつくⅡ 」の目次
「かみつく」の内容紹介
「沖縄に内なる民主主義はあるか」の内容紹介




「かみつくⅡ」は、
狼魔人日記でネット販売しています。
申し込みはメールでできます。

ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


慰安婦問題を捻じ曲げるタイムス・新報



沖縄タイムスと琉球新報は「問われる自画像・歴史認識と日本」の連載コラムを掲載している。沖縄2紙が同時に掲載しているということは当たり前のことではあるが沖縄の全ての新聞が掲載していることであり、新聞を読んでいるすべての県民は否応なく「問われる自画像・歴史認識と日本」を読むことになる。
 八月九日掲載の「再び傷つけられた」の記事はひどい内容である。

 中国の農村に住んでいた李秀梅(八六)さんは一九四二年の一五歳の時、山西省に進駐してきた日本軍に自宅から連れ去られて監禁され、毎日のように性暴行を加えられた。

 約五カ月後に「死んだ方がましだ」と思い、抵抗を試みた相手が「赤ら顔の隊長」であった。隊長は怒って革ベルトで顔を殴った上。左の太ももを長靴で蹴り上げ、頭もこん棒で殴りつけた。李さんは大けがを負って意識を失い、自宅に搬送された。
 娘の不幸を悲観した母親の自殺を知った。
                      沖縄タイムス

 東京高裁は二〇〇四年十二月に、日本軍兵士による「拉致」「連行」「監禁」「約五カ月間繰り返された性的暴行」の被害事実は認定したが、李さんの請求は棄却した。

 李さんの問題は慰安婦の問題ではない。李さんは一部の悪質な日本兵に拉致監禁され性的暴行を受けた。これは犯罪行為だ。事件が発覚して日本軍が知ることになれば李さんを拉致監禁した日本兵は裁かれるべきである。ただ日本軍が綱紀粛正を徹底していたらのことであるが。このような事件を大目に見ていたなら日本軍を批判しなければならない。

 「問われる自画像・歴史認識と日本」の今回の見出しは「首相発言『慰安婦』憤る」であり、李さんを慰安婦扱いしている。李さんは慰安婦ではない。慰安婦とは職業婦人のことであり、農村に住む普通の少女であった李さんは慰安婦ではない。農村の少女が悪質な日本兵に拉致され性的暴行を受けたのが李さんの事件である。

 戦時中までは日本は職業として売春を公認していた。国が公認している売春婦を公娼と言った。公娼になるためには親の承認が必要であり、定期的に性病検査けることを義務としていた。公娼になれるのは十八歳以上であり、政府が指定した場所(吉原など)でのみ商売を許されていた。政府の許可を受けていない売春婦は私娼といい、政府は私娼を厳しく取り締まった。

 日本が大陸に侵略した時、日本兵を追って多くの売春婦も大陸に渡った。日本軍が一番恐れたのは規制のない売春を許すと性病が蔓延して兵士の戦闘意欲を低下させることであった。そのために政府は日本国内の公娼制度を日本軍が制圧した大陸でも適用したのである。
〇 売春婦は十八歳以上であること。
〇 親の許可が必要であること。
〇 定期的に性病検査をすること。
〇 政府が指定した場所でのみ商売をすること。
など、公娼制度には十六の法規制があった。

 慰安婦というのは大陸に渡って日本兵相手に商売をした公娼のことである。公娼は国内と同じ法律が適用されるから、民間の医師がいない大陸では定期的に軍医の性病検査を受けなければならなかったし、軍が指定した慰安所でのみ商売をした。慰安所というのは国内の吉原と同じで、売春宿を民間から隔離する目的で造られたのである。
このことは慰安婦について調べれば簡単にわかることである。慰安婦についてコラムを書く人間であれば慰安婦が公娼であることは知っているはずであり、李さんのように拉致された女性は慰安婦ではないことも知っているはずである。ところが「問われる自画像・歴史認識と日本」は李さんを故意に慰安婦としているのだ。李さんを慰安婦にでっち上げることによって慰安婦が性奴隷であったというイメージをつくりあげている。

 李さんと同じように満州でロシア兵に拉致監禁され連日性的暴行を受けた一〇〇名余の日本女性がいた。女性たちは性的暴行を止めるように訴えたがロシア兵は聞き入れなかった。ロシア兵のひどい性的暴行に二十三人の日本女性は集団自決した。集団自決に驚いたロシア軍は残りの女性を解放したという。そのような痛ましい歴史もある。
 女性の人権向上を主張しているアンジェリーナ・ジョリーさんは「戦争は人間を変える」といい、現在、内戦などの戦場で婦女暴行が横行しているのを批判にしている。エジプトの一〇〇万人規模の反大統領デモの時も婦女暴行が多数発生したことが問題になった。李さんの日本兵による拉致監禁暴行は今でも発生している戦場における婦女暴行の問題である。日本軍の慰安婦問題ではない。「問われる自画像・歴史認識と日本」は慰安婦問題を捻じ曲げている。

 日本政府が慰安所を造ったのは李さんのような日本兵による婦女暴行をなくすのが目的であった。慰安所を造っても性的暴行をゼロにすることができなかったのは事実であるが減らす効果はあっただろう。慰安所を設置していないアメリカ、ロシアなどのほうが婦女暴行が多かったのは歴史的事実である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ