奢れる日本の教師





 横浜市教委の育鵬社教科書問題に取り組んでいる社会科教員柴田健氏から沖縄の新聞への投稿があった。

 柴田健氏の投稿の、「八重山諸島をめぐる八重山地区の一部政治家の過剰な対応が」の文を読んだ時、「一部」の言葉にひっかかった。多分、誰もなんとも思わないだろう。しかし、この「一部」はなにげない言葉であるが、民主主義の原理を侮辱する使い方をしている。この「一部」は社会で通常に使う過半数や大部分の反対言葉としての「一部」ではない。数学な全体の反対言葉としての「一部」である。

 全体が100である場合10も90も一部である。柴田健氏はそういう数学的な意味の「一部」として使っている。柴田健氏は「八重山地区の一部政治家の過剰な対応が、今回の事態を生んだ現況のようだが・・」と述べている。今回の事態になったのは保守系の政治家が石垣市長になったからである。石垣市長は石垣市民の投票で過半数の票を得たから市長になったのである。柴田健氏は民主主義の原理である「過半数」も数学の理屈を使用して「一部」と表現するのだ。
 この過半数の指示による代表者も「一部」という表現を使うことによって代表者としての権威を落とすのだ。「一部」は巧妙な政治用語である。

 日本は民主主義国家であり、文科省は民主主義のルールに従ってつくられた政府機関である。文科省が許可した教科書を柴田健氏は、「戦前の修身教科書の現代版であり、憲法三原則をまともに学ぶことができない内容である」と切って捨てるのである。柴田健氏は一介の社会科の教師である。柴田健氏は歴史学者でもなければ法律家でもなければ評論家でもない。
 そのような人物が「公正な教科書を通過したとは思えない欺瞞な教科書である」と断言するのである。日本の教員は歴史学者、法律家、評論家のように権威者なのである。

 表現の自由だから、柴田健氏が1人の教師と文科省への批判として新聞に投稿するのなら、一人の人間としての主張であるから問題はない。
しかし、調査員に選ばれた教師は教科書に順位付けをして育鵬社の教科書を排除することができる。八重山地区で問題になったのが、調査員が推薦しなかった育鵬社の教科書選んだことだった。沖教祖の委員長も「調査員に順位付けをさせたら育鵬社の教科書が選択されることはなかった」と断言している。

 調査員が順位づけをすることは教科書を選ぶ権力は教員にあるということである。沖教祖委員長や育鵬社の教科書の選択に反対しているほとんどのひとが教科書を選択する権利は教師にあると主張しているのだ。事実八重山以外は調査員の順位づけによって教科書を選択しているから教師が教科書を選択していることになる。
 依然は学校ごとに教師の賛成多数で教科書を選んでいたそうだ。しかし、平成2年に教師が教科書を選択する行為をやめるように文科省は通達したらしい。しかし、現在でも実質的には教師が教科書を選択している状況が続いている。

 沖縄の教育の歴史では八重山で今年はじめて調査員の順位付けを廃止した。調査員の順位づけを廃止したのは八重山地区だけであり、他の地区ではすべて調査員が順位付けしている。つまり、現場教師が教科書を選択しているようなものである。
 教師が中立な立場で自由に教科書を選ぶのなら順位付けもいいが、義務教育は日教組、高校は高教祖ががっちりと思想的に支配している。沖縄なら沖教祖の支配下にあるから教師は教科書を自由には選べない。もし、教師が自由に教科書を選ぶことができたら育鵬社の教科書を選ぶ教師も出てくるはずだが、沖教祖委員長が豪語したように、教師が育鵬社の教科書を選ぶことは絶対にないのだ。それは沖教祖が革新的な思想が強く、保守系の思想と対立しているからである。

 柴田健氏は社会科の教師であり、公民を教えている。日本は法治主義であり、法律を守るのがなにより大事であることを柴田健氏は生徒に教える。その柴田健氏が8月23日の八重山採択地区協議会答申は手続きそのものに違法性がある」と断じている。育鵬社の教科書を採択するために協議会の規約を変更したりしたのが玉津石垣教育長であるが、彼がが非常に気をつけたのが違法な行為をしないことである。
 そのために自民党の教育に詳しい議員から手ほどきを受けている。玉津氏の提案は協議会の参加者全員が賛成している。玉津氏のやり方は強引ではあるが法的なミスはやっていない。

 柴田健氏が「8月23日の八重山採択地区協議会答申は手続きそのものに違法性がある」と主張しているのは日教組に属する教師の主張であり、一社会科教師の素直な主張ではない。柴田健氏は9月8日の決定意外に有効な結論はないと主張しているが、協議会の規定変更は全員の賛成がなければ変更できないのに、9月8日の協議会では過半数の賛成で規定を変更した。
 これは明らかに法律違反である。横浜市で育鵬社の教科書問題に取り組んでいるのなら、横浜市でも同様な手口で育鵬社の教科書を選択しただろうし、そのことは知っているはずだ。
 それに三市町の人口比では石垣市が九割を占めているのに、三市町の教育委員が同数の協議会で多数決を実施するのは民主主義の原理に反する行為である。公民で民主主義を教える資格は柴田健氏にない。
柴田健氏は社会科の教師というより政治活動家である。

 柴田健氏は、「根本的な解決策である学校採択(使用する教科書を現場の教員が選び、校長が承認する)に移行させる時期が来ていると思われる」と述べている。残念だが、日教組が文科省の検定を合格した育鵬社の教科書を拒否する限り、むしろ教員が教科書を選択する権利をなくすほうに進展するだろう。大阪府の改革案では校長を公募し、教科書の採択も校長がするという。

 教科書で学校の方向性を示すのなら、校長が教科書を選択するのもいい。また、地域で教育の方向性を出したいのなら調査員の順位づけを廃止して、地区協議会で教科書を決めたほうがいい。

 本土の教員柴田健氏の投稿が沖縄の育鵬社の教科書に反対している人たちと同じ意見であるということは、育鵬社の教科書問題は全国的なものであり、日教組と自民党のバトルであるという証拠である。




メア氏だけが正直者

 メア氏は思ったことをストレートに話すタイプなのだろう。政治家も評論家も沖縄では、沖縄が怒るのを避けて、微妙に表現を柔らかくしたりはぐらかしたりする。

 メア氏は、「普天間の移設を崩壊させるのか、実行するのか」と沖縄に決断を迫っている。メア氏は、「普天間基地は長い滑走路があるので、米軍の運用を考えると本当は今のほうがいい」と正直に話している。
 普天間基地がいいなどと言えば、革新系の政治家、知識人、人々が劣化のごとく怒るのは目に見えている。だから、政治家や評論家は絶対にそんなことは言わない。ところがメア氏は平然というのである。
メア氏は普天間基地の県外移設は技術的には可能といい、しかし、「本土でも新しい米軍基地を造るのは、すごく難しい」と述べている。

 メア氏のいう通りである。「県外移設」は不可能に近い。日本のどんな場所でもヘリコプター基地建設反対の運動が起こるだろう。ヘリコプター機知を建設しようとした知事や市町村長は住民の反発をかって落選する。アメリカの有力議員でも辺野古移設は不可能であるなら嘉手納基地への移設を考えているのであり県外への移設は念頭にない。
 ヘリコプター基地はヘリコプターの機能上、アメリカ軍がアジアな存在する限りアジアには必要であり、グアムに移設されることは絶対にない。そして、県外移設が不可能であるから沖縄内の移設しかないのだ。

 メア氏の発言とは違い、青山氏は「海兵隊の移転候補地は東京が一番いいと」と発言している。絶対に実現しない提案である。本土の人間の考えや軍事面に通じている評論家でありながら沖縄でこんな発言をするのだ。沖縄の人を怒らさないように、しかし、実現不可能な発言を平気でやるのだ。

 屋良氏も、「北朝鮮有事への対応は福岡の方が近く、長崎の佐世保基地からの揚陸艦で海兵隊を運ぶことを考えると台湾有事へも早い」と述べている。

 青山氏と屋良氏は普天間基地問題を巧妙に海兵隊問題にすり替えている。普天間基地はヘリコプター基地であり、問題はヘリコプター基地移設の問題であって、海兵隊移設の問題ではない。そのことを両氏は知っていながら、故意にヘリコプター基地問題を海兵隊問題にすり替えているのである。

 ヘリコプターは民間でも活躍している。山や海で遭難人を救助するのになくてはならないのがヘリコプターだ。災害や救急、情報集めでもヘリコプターは活躍している。ヘリコプターは屋良氏が強調している有事だけではなく、アメリカ軍で事故が起きたときや、部隊訓練のための移送、物資の輸送などヘリコプターは日常的になくてはならない存在である。

 本土ではヘリコプター基地建設は住民の反対運動で実現できない。
 ヘリコブター基地は沖縄の方に優位性がある。
 
 メア氏の指摘は正しい。青山氏と屋良氏は問題をはぐらかしている。メア氏は嘘がつけない実務家タイプの人間のようだ。日本的な政治家、評論家とは違う。しかし、メア氏のほうがアメリカ人としては普通だと思う。
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