今日でブログ6周年を迎えました。こんなに続けられるとは思いませんでした。先のことはわかりませんが、背後で祈って下さる方々に支えられてここまできました。ありがとうございます。これからもよろしくおねがいいたします。
OBIの学びの中で「審美感(しんびかん)」という言葉が出てきました。美しいものを見分ける感性のことです。審美感は神様が作られてわたしたちに下さった感情ですから、誰でも持っています。美しいものを美しいと感じる心を育てることが大切だと聞いてその通りだなあと思いました。
子どものころ、身近にある自然の美しさに感動していたのに、いつの間にか気づかなくなってしまったものがあり、忙しい日常の中で大切なものを失ってきたような気がします。
ヒックンが2歳のとき、ベランダで咲いたチューリップをみて「お花きれい。笑ってる」と言っていつまでもながめていました。
わたしは子どものころ、道端に咲く白い花びらを広げている小さな花を見つけたとき、なんてきれいなんだろうと思いました。祖母に花の名を聞くと「雑草だよ」と面倒くさそうに答えたのでがっかりしました。でも、後になってその花にハコベという名がついていることを知ったとき、とてもうれしかったことを思い出します。
最近は夕方になると晴れた日は必ず窓の外を眺めます。夕焼け空をみて、空のキャンバスに描く神様の絵画を感動を持って眺めるのです。(毎日違うので飽きません)
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中でゾシマ長老が言っている言葉を読むと、心新たにされます。
わたしの心は……むしろ夕日を、
夕日の長い斜光を愛し、
その斜光とともに、長い祝福された人生の中の
静かな和やかな感動的な思い出を、
なつかしい人々の面影を愛している。
それらすべての上に、感動させ、和解させ、
すべてを赦す、神の真実があるのだ!
ゾシマ長老は夕日を見て、生涯の思い出と出会った人々を思い浮かべ、愛をもって受け入れています。神さまの真実を見て、感動し、和解し、赦しを体験しています。自然をみて、神様の語りかけを聞いているのです。何というすばらしい感性でしょう。
ひとつの花を見ても、雑草だとしか思えない人、どんな名がついているんだろうと思い巡らす人、神様がこのような小さな花をも造られたのだと感謝と感動をもって見る人、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」と言われたイエス様の言葉を思い出す人……それぞれだと思います。幼子のように「きれい」と思うだけでもすてきですね。
野に咲くゆりを見て、イエス様は
「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした(マタイ6:29)」と言われました。
これは、ゆりの美しさを最大限に表現された言葉だそうです。イエス様ご自身がご自分の感性で美しいと感じられたのです。そして、人々にも美しさを理解するように語られたと教えていただいて、イエス様ご自身が持っておられる審美感をわたしたちにも下さったのだなあと嬉しくなりました。
美しさに感動する心を呼び起こされました。
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OBIの学びの中で「審美感(しんびかん)」という言葉が出てきました。美しいものを見分ける感性のことです。審美感は神様が作られてわたしたちに下さった感情ですから、誰でも持っています。美しいものを美しいと感じる心を育てることが大切だと聞いてその通りだなあと思いました。
子どものころ、身近にある自然の美しさに感動していたのに、いつの間にか気づかなくなってしまったものがあり、忙しい日常の中で大切なものを失ってきたような気がします。
ヒックンが2歳のとき、ベランダで咲いたチューリップをみて「お花きれい。笑ってる」と言っていつまでもながめていました。
わたしは子どものころ、道端に咲く白い花びらを広げている小さな花を見つけたとき、なんてきれいなんだろうと思いました。祖母に花の名を聞くと「雑草だよ」と面倒くさそうに答えたのでがっかりしました。でも、後になってその花にハコベという名がついていることを知ったとき、とてもうれしかったことを思い出します。
最近は夕方になると晴れた日は必ず窓の外を眺めます。夕焼け空をみて、空のキャンバスに描く神様の絵画を感動を持って眺めるのです。(毎日違うので飽きません)
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中でゾシマ長老が言っている言葉を読むと、心新たにされます。
わたしの心は……むしろ夕日を、
夕日の長い斜光を愛し、
その斜光とともに、長い祝福された人生の中の
静かな和やかな感動的な思い出を、
なつかしい人々の面影を愛している。
それらすべての上に、感動させ、和解させ、
すべてを赦す、神の真実があるのだ!
ゾシマ長老は夕日を見て、生涯の思い出と出会った人々を思い浮かべ、愛をもって受け入れています。神さまの真実を見て、感動し、和解し、赦しを体験しています。自然をみて、神様の語りかけを聞いているのです。何というすばらしい感性でしょう。
ひとつの花を見ても、雑草だとしか思えない人、どんな名がついているんだろうと思い巡らす人、神様がこのような小さな花をも造られたのだと感謝と感動をもって見る人、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」と言われたイエス様の言葉を思い出す人……それぞれだと思います。幼子のように「きれい」と思うだけでもすてきですね。
野に咲くゆりを見て、イエス様は
「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした(マタイ6:29)」と言われました。
これは、ゆりの美しさを最大限に表現された言葉だそうです。イエス様ご自身がご自分の感性で美しいと感じられたのです。そして、人々にも美しさを理解するように語られたと教えていただいて、イエス様ご自身が持っておられる審美感をわたしたちにも下さったのだなあと嬉しくなりました。
美しさに感動する心を呼び起こされました。

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