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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

謙遜の極致

2010-10-30 16:58:00 | 聖書から
台風の影響で強い雨が降っています。

パソコンのスイッチを入れてIEを開くと色々な情報が入って来ます。急上昇ワードが現れたり、ニュースが流れたり……世界中の現在の情報が入って来るので便利ではありますが、気が散ります。

ブログのコメントやメールが来ていないか気になって、朝起きるとすぐPCのスイッチを入れたくなります。
でも、デボーションをしてからでないとPCを開いてはいけないというルールを自分で決めています。
デボーションとは聖書を読んで祈る時間です。朝起きたらまずそれをします。PCを使い始める前から行っていたことです。40~50分かかります。

デボーションが終わると主人を起こす時間になり、朝食の支度がすむとPCのスイッチを入れます。
メールやコメントを確認だけして電源を切ります。

次にPCのスイッチを入れるのは、何時間も後になります。出かける用事のない時は2回目のデボーションとOBIの学びをしてからPCを開くと決めているので、お昼近くになります。

創作をするときはワードだけ使えればいいので、ネット接続のできない古いPCで行います。ブログを書くときはネットにつながる新しいPCを用います。
ところが新しいPCのある部屋は北向きで寒いのです。暖房は小さな電気ストーブひとつなので、冬になったら対策をたてなくては……。


水曜礼拝ではキリストの謙遜について学びました。
「キリストの自己卑下こそが謙遜の極致であった」と聞いたとき、最初は意味がわかりませんでした。

自己卑下と言う言葉はあまりいいイメージがありません。へりくだっても自分を卑下してはいけないと思っていたからです。

卑下するとは、『自分を劣ったものとしていやしめること。へりくだること。』と広辞苑に書かれています。

卑下するとは、どうせわたしなんか・・・と卑屈になることではないかと思っていたのですが、そういう意味ではなかったのです。

キリストの卑下とは、卑しい者と同じようになられたということ。卑しい者というのは十字架刑になるほどの犯罪者を意味します。

キリストは何の罪も犯さなかったのに犯罪者として十字架につけられて処刑されました。のがれられないから仕方なくではなく、神さまのみ心に従ってすすんで十字架につけられたのです。
いと高き方であるお方、神の子であるキリストが卑しくなられた。そこまでしてわたしたちを救ってくださったと思うと心が震えます。


「キリストは、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:8)」

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