今日はブログ開設3周年記念日です。その1年半ほど前に乳がんの手術から無事生還したことがきっかけでHPをたちあげていました。
HPのことを友人に知らせると、「携帯で見ることができないの? PCはやらないから……」と言われたことがきっかけでブログを開設しました。
HPの記事を書くのにHTMLで悪戦苦闘していたのですが、ブログは何と簡単なことでしょう。書いた文字をそのまま更新できることが驚きでした。
そのころから、ブログは大はやりになりました。総務省の調査によると2008年1月現在の国内におけるブログの数は約1690万、記事総数は13億5000万件だそうです。
びっくりですね。
このように数あるブログの中からわたしのブログにアクセスして下さった方に心から感謝いたします。神様の導きを感じます。
先日自死について記事を書いたら、いつもの倍ほどのアクセスがありました。ブログ村からのアクセスが多いので、おそらくタイトルをみてアクセスして下さったのでしょう。
自死(自殺)を考えて悩んでいる人が多いのではないかと心配になってきました。
国内の年間自殺者は2007年で33000人だと聞きました。
わたしの持っているテーマのひとつは、自死してほしくないということです。わたしが書いた「死なないでください」の詩を読んで「命が救われました」と言って手紙をくださった方とは、1年以上文通が続いています。詩を読まれる方はhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~tukushi/poem/ikasarete.htmlをクリックしてください。
前にも書きましたが、わたし自身中学生の時ずっと死にたいと思っていました。ほんの少しのきっかけがあれば、死んでいたでしょう。自分のことが大嫌いだったので、自分を抹殺したいと思っていたのです。
でも、今は自分のことが好きです。同じ失敗を繰り返すわたしです。優柔不断な性格も以前と変わりませんが、欠点を含めて好きになれたので、死を願わなくなりました。
追い詰められ、自己嫌悪に陥り、なぜ生きなくてはならないの? と思うこともあるでしょう。四方八方ふさがれているようなところに置かれ、絶望という言葉しか思い浮かばないときがあるかもしれません。
でも、四方八方ふさがれていても、いつでも上は開いているのだということを覚えて下さい。こちらからは見えません。でも、上からいつもあなたのことを見ているお方がいるのです。そのお方(神様)はあなたを造り、あなたを愛し、あなたのことを何よりも尊いと言って下さっています。
神様がいるなら、なぜわたしを苦しい目に合わせるの?と思った方がいるでしょうか。
神様は、あなたの魂を救うためにひとり子イエス・キリストの命を差し出して下さったのです。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、あなたを救うためだったのです。あなたの魂が滅びてしまわないためにあなたの代わりに苦しみを受け、死んでくださったのです。
神様の愛を知ったので、わたしは自分が好きになれました。
わたしが「苦しい。もう耐えられない」と思うとき、イエス様の苦しみと比べてみます。イエス様は神の子だというのに人々からさげすまれ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられたのです。イエス様の苦しみに比べたらわたしのは、苦しみなどといえる程のものではありません。神様は耐えられないような試練には合わせないと約束してくださっていますから。
あなたが苦しむ時、神様も苦しんでおられます。もしあなたが自ら命を絶ってしまったら、神様はどれだけ心を痛め、悲しまれるでしょう。もしかしたらあなたは、誰からも愛されていないと思っているかもしれません。でも、それは違います。あなたのことを神様は愛し、あなたの命を大切に大切に思っていて下さるのですよ。
聖書の言葉
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネ3:16)
あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えて下さいます。(Ⅰコリント人への手紙10:13)
わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43:4)
あらためて文香さまのお働きを神さまのご計画の中で教えていただきました。
これからもさらに神さまからのメッセージをお伝えしていただくお働きの祝福をお祈りさせていただきます。
イザヤ書の御言葉が多くの人に届きますように・・
生きるのは「本能」による、と考えている。
この科学信仰は、進化論からくるのかもしれない。適者生存をバックにした考えかもしれない。
しかし、ある時、人はこの世界が科学的合理的に造られているだけでは説明できない、諸問題遭遇する。
なぜ私は生きているのだろう?戦争で人を殺すことは、合理的に説明できるのだろうか?年老いて死んでいくのはなぜなのか?死後はどうなるのか?分らない世界に唯ただずむだけである。
生きることが目的本能であったが、ある時から逆に、人は死が本能と思い考えるようになる。そして、とどのつまり、生きるために死ぬとゆう大誤解を犯してしう。これは、サタンの惑わしである。
ある哲学者が自殺は誤りであると言った。私もそう考える。自殺と事故は極近似である。自殺は事故であると考える。
火事場に生きる道を失った人は明らかに事故死である。飽くまでも冷静に、沈着に考えてみれば、逃れの路は開かれている。幻惑に囚われて幻想の只中、死への道をまっしぐらに走っている。死の事実より先に死の思いに捕らえられている。
戦場にあれ、現代社会にあれ、家族にあれ、人は孤独に慣らされている。自殺者は自己の死を自分のことだけにしているのではないか?人は自分独りで生きて行けるわけはない。その生い立ちにおいても、社会人としても、その老後においても。
自殺の思いは、自分以外の他人の存在なくして、自分は生きられないという立場に到達したにすぎない。そこで死を決意し実行するのは、誤解もはなはだしい。
あなたの考えの出発点は存在であれ、世界であれ、社会であれ、家族であれ、他者を前提にしているから。
自殺が事故なら、殺人も事故である。見知らぬ人を殺すとは、大事故である。
科学的合理社会では、何故人を殺してはいけないのか?この問いは避けられないだろう。そして、人間の説明はすべて空しくなるだろう。多くの戦争で血を流している現実は、科学的合理的に説明ができないであろう。唯、事実がある。事実がそうである。と、しか言いようがない。
神は掟として人に、「人は人を殺してはならない」と語られている。信じる以外にない。
自殺にしろ、他殺にしろ、戦争にしろ、神は禁じられている。これは神の掟である。
人の思索は、極微の情念の世界では、日常の考えでは届かない。そこで、飛躍して事故を起こしてしまう。踏み外して転落して事故を起こしてしまう。哀れなるかな。思索も限界があるもの。自己の思索を絶対化するのは危険である。むしろ思索の挫折、無力を自覚して、情念の世界芸術や信仰へと場を変えるべく警告である。
科学万能社会、思索に疲れ果て死んでいく方々へ。聖書を読んで下さい。これが全ての答えです。科学的合理的思考が進化の象徴と思いきや、幻想であることに気付かれますように。
3年の間に、やめようと思ったことは数え切れないほどありましたが、主の憐れみにより続けさせてもらっています。
神様がこの小さき者のブログに働かれ、用いてくださいますよう続けてお祈りください。
確かに科学的合理的に考えると、わからない問題に突き当たりますね。
なぜ生まれたのか? なぜ生きるのか? なぜ死ぬのか?の答えは、どんな科学や学問をもってきても得ることができません。
はじめでありおわりであるお方の存在を認めない限り解決しないですよね。
聖書はその問題の答えを教えてくださいますね。