主人は孫のヒックンに「いい子だったら今度おもちゃ買ってあげる。いい子かな? 悪い子かな?」としきりに言っています。
そういうふうに言わないでと言っているのに……。
いい子だったら……と条件をつけると、いい子のヒックンは好きだけど、悪い子のヒックンは嫌いという意味になりかねません。
いい子になってほしくて言っているのはわかります。でも、子どもはするつもりがなくても、つい悪い事をしてしまうことがあります。(子どもだけでなく大人もそうですね)
そして悪い事をしたとき、しまった!と思って反省するのです。
そんなとき、頭ごなしに叱られたり、悪い子とレッテルを貼られたりしたら、反省の気持ちが薄れてしまいます。
さらに悪い子は受け入れてもらえない、愛されないと思うと、突き放されたような気持ちになります。
わたしは子どものころ悪いことをした時、母に叱られているうちは安心していました。
でも、「もういい。わかったから」とそっぽを向かれると不安になりました。「何がわかったの?と聞くと、「あんたは悪い子だってことがわかったの」
そう言われると、もう愛してもらえないのだと思い、母の背中に泣いてしがみついたのを覚えています。
悪いことをしてしまったら、その行為に対して叱っても、悪いことをした子どもの存在を否定してはいけないのです。
今の世の中は良い結果を出すこと、努力して勝ち抜くことを賞賛し、体が弱いため頑張りたくても頑張れない人、頑張っても良い結果を出せない人をバカにする社会です。
目に見える成果、結果だけを重視し、経過やそのときの子どもの心を無視する先生や親。
「いい子だったら○○してあげる」「成績が上がったらご褒美を上げる」と条件付きで子どもを可愛がる親。
成績が悪くても、悪い事をしてしまっても、存在そのものが尊いのだという聖書的な考えで子どもに接すれば、もっと伸びて行くのになあと思います。
先週の水曜礼拝では夜回り先生こと、水谷修一さんの書いたものを紹介して下さいました。
その中に
「純粋でまっすぐな子どもほど病んでいき、優しさがある子ほど、優しさゆえに傷つけられている。みんな大人の都合で汚されている」と書かれていました。
夜の街でうろついている子どもたちは不良でどうしようもない人間だというレッテルを貼る大人が多い中で、水谷先生は夜の街の子どもたちと接してこられました。彼らは好き好んで夜の街にいるのではなく、居場所がないから出かけて行くのです。本当は寂しくて愛に飢えているのです。
そんな子どもたちに伝えたい。「きみを造った神様は『わたしの目には、あなたは高価で尊い(イザヤ43:4)』と言っておられるよ。きみは愛されるために生まれたんだよ」と。
にほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
そういうふうに言わないでと言っているのに……。
いい子だったら……と条件をつけると、いい子のヒックンは好きだけど、悪い子のヒックンは嫌いという意味になりかねません。
いい子になってほしくて言っているのはわかります。でも、子どもはするつもりがなくても、つい悪い事をしてしまうことがあります。(子どもだけでなく大人もそうですね)
そして悪い事をしたとき、しまった!と思って反省するのです。
そんなとき、頭ごなしに叱られたり、悪い子とレッテルを貼られたりしたら、反省の気持ちが薄れてしまいます。
さらに悪い子は受け入れてもらえない、愛されないと思うと、突き放されたような気持ちになります。
わたしは子どものころ悪いことをした時、母に叱られているうちは安心していました。
でも、「もういい。わかったから」とそっぽを向かれると不安になりました。「何がわかったの?と聞くと、「あんたは悪い子だってことがわかったの」
そう言われると、もう愛してもらえないのだと思い、母の背中に泣いてしがみついたのを覚えています。
悪いことをしてしまったら、その行為に対して叱っても、悪いことをした子どもの存在を否定してはいけないのです。
今の世の中は良い結果を出すこと、努力して勝ち抜くことを賞賛し、体が弱いため頑張りたくても頑張れない人、頑張っても良い結果を出せない人をバカにする社会です。
目に見える成果、結果だけを重視し、経過やそのときの子どもの心を無視する先生や親。
「いい子だったら○○してあげる」「成績が上がったらご褒美を上げる」と条件付きで子どもを可愛がる親。
成績が悪くても、悪い事をしてしまっても、存在そのものが尊いのだという聖書的な考えで子どもに接すれば、もっと伸びて行くのになあと思います。
先週の水曜礼拝では夜回り先生こと、水谷修一さんの書いたものを紹介して下さいました。
その中に
「純粋でまっすぐな子どもほど病んでいき、優しさがある子ほど、優しさゆえに傷つけられている。みんな大人の都合で汚されている」と書かれていました。
夜の街でうろついている子どもたちは不良でどうしようもない人間だというレッテルを貼る大人が多い中で、水谷先生は夜の街の子どもたちと接してこられました。彼らは好き好んで夜の街にいるのではなく、居場所がないから出かけて行くのです。本当は寂しくて愛に飢えているのです。
そんな子どもたちに伝えたい。「きみを造った神様は『わたしの目には、あなたは高価で尊い(イザヤ43:4)』と言っておられるよ。きみは愛されるために生まれたんだよ」と。
にほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
この私のままで受け止めて下さる神様の愛を知り、初めて心の安らぐのを感じます。
いっぱいに受けた愛を今度は誰かに返して、そして母のこともわかってあげなくては、と思います。
神様の愛を知って、平安をいただくことができてよかったですね。
神様から受けた愛を誰かに返そうとされ、お母さまのことも理解しようとされるジャスミンさんのお気持ちに心打たれました。