先週は木曜日に教会での家庭集会があり、土曜日はクリスチャン・ペンクラブの例会でお茶の水まで行ってきました。教会までの20分、駅までの30分は歩いています。寒さの中でも健康が守られていることを感謝しています。
最近、酷いニュースばかりとびこんできます。テロ事件やバスの横転事故。
「神さまはどうしてこのような事件が起きるのをゆるしておられるんだろう。どんな意味があるのかな」とクリスチャンの友人が言いました。
児童文学の仲間は、
「『いいことをすれば幸せになり、悪いことをすれば不幸になる。』のなら、神様はいると思う。でも、現実はそうじゃない。むしろ誠実に生きている人に次々と不幸な目にあうように思える。だから、神様はいないと思う」
と言いました。
そう思われるのは、もっともです。
「なぜあんなにやさしい人が病気で苦しんで死ななければならなかったのか? 神様は本当にいるのか?」
そのように尋ねられたことがあります。
そんなときわたしは、「理由はわかりません」と答えます。そう答えるしかないからです。
理不尽なことが起きたら、神様がいないことの証拠になるのでしょうか。
聖書のヨブ記には、不条理の苦難について書かれています。ヨブのことは以前もブログに書きましたが、改めて書かせていただきます。
昔ヨブという人がいました。神様を信じ、決まりを守って生きる正しい人でした。奥さんと10人の子どもたちに恵まれ、たくさんの召使と家畜を持っていました。
ある日神様のところへサタンが来て言いました。ヨブは信仰深いけど、それは恵まれているからじゃないか? もし持っている物すべてを取り去られたら、神様をのろうかもしれないと言ったので、神様はヨブに不幸が訪れることをサタンにゆるしました。
ヨブは一日のうちに子どもたちと家畜、召使たちを失いました。
そのときヨブが言った言葉は「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」でした。
主とは神様のことです。子どもたちや召使、家畜はみんな神様から与えられたもの。だから神様が取られても当然のことだ。といって、神様をほめたたえています。
その信仰には驚きます。そのあとでヨブ自身がひどい皮膚病になり苦しみます。そのようすを見てヨブの奥さんは「神をのろって死になさい」と言いました。
ヨブは、それでも文句はいわなかったのですが、3人の友人が見舞いに来てくれ、ヨブに向かってこのようになったのはヨブに罪があるからだなどと言い始めました。友人の言葉に反論しているうちにヨブは自分の生まれた日をのろい、神様に文句を言い、どうしてこんな目に遭わせるのかと理由を尋ねます。
それが聖書の何章にもわたって書かれています。
最後に神さまはあらしの中からヨブに答えて「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするものは誰か?」と言われます。神さまのことばは、ヨブの疑問に対する答えになっていません。神さまは天上でのサタンとのいきさつについては説明しません。でも、ヨブは説明を求めていたのではありませんでした。
ヨブは、神の栄光に接し、その偉大さに触れ、自分の罪を認め悔い改めます。
「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです(40:4)」
ヨブは自分の無知、弱さを認め、神の全知全能に触れて、神さまのなさることは人間の知識では、はかることができないと思ったのです。
そして神様はヨブを癒し、子どもを与え、財産を倍にしてくれます。
ヨブ記を読むと、どんなことが起きても、神様に「なぜ?」と聞く必要はないのだと思わされます。どんなにむごいことが起きても、それは神様の御手の中で起こったことなのです。
現在と過去のことしかわからないわたしたちです。将来のことは少しもわからない者にとって、勝手に意味づけすることはできません。
神様は、ご自分がお造りになった生物(どんな人間でも、動物でも)をとても大切に思っておられるので、たとえ肉体が死んでも魂をねんごろに取り扱ってくださる。どんな死に方をしても天国で採算があうようにしてくださると、わたしはそのように思っています。
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最近、酷いニュースばかりとびこんできます。テロ事件やバスの横転事故。
「神さまはどうしてこのような事件が起きるのをゆるしておられるんだろう。どんな意味があるのかな」とクリスチャンの友人が言いました。
児童文学の仲間は、
「『いいことをすれば幸せになり、悪いことをすれば不幸になる。』のなら、神様はいると思う。でも、現実はそうじゃない。むしろ誠実に生きている人に次々と不幸な目にあうように思える。だから、神様はいないと思う」
と言いました。
そう思われるのは、もっともです。
「なぜあんなにやさしい人が病気で苦しんで死ななければならなかったのか? 神様は本当にいるのか?」
そのように尋ねられたことがあります。
そんなときわたしは、「理由はわかりません」と答えます。そう答えるしかないからです。
理不尽なことが起きたら、神様がいないことの証拠になるのでしょうか。
聖書のヨブ記には、不条理の苦難について書かれています。ヨブのことは以前もブログに書きましたが、改めて書かせていただきます。
昔ヨブという人がいました。神様を信じ、決まりを守って生きる正しい人でした。奥さんと10人の子どもたちに恵まれ、たくさんの召使と家畜を持っていました。
ある日神様のところへサタンが来て言いました。ヨブは信仰深いけど、それは恵まれているからじゃないか? もし持っている物すべてを取り去られたら、神様をのろうかもしれないと言ったので、神様はヨブに不幸が訪れることをサタンにゆるしました。
ヨブは一日のうちに子どもたちと家畜、召使たちを失いました。
そのときヨブが言った言葉は「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」でした。
主とは神様のことです。子どもたちや召使、家畜はみんな神様から与えられたもの。だから神様が取られても当然のことだ。といって、神様をほめたたえています。
その信仰には驚きます。そのあとでヨブ自身がひどい皮膚病になり苦しみます。そのようすを見てヨブの奥さんは「神をのろって死になさい」と言いました。
ヨブは、それでも文句はいわなかったのですが、3人の友人が見舞いに来てくれ、ヨブに向かってこのようになったのはヨブに罪があるからだなどと言い始めました。友人の言葉に反論しているうちにヨブは自分の生まれた日をのろい、神様に文句を言い、どうしてこんな目に遭わせるのかと理由を尋ねます。
それが聖書の何章にもわたって書かれています。
最後に神さまはあらしの中からヨブに答えて「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするものは誰か?」と言われます。神さまのことばは、ヨブの疑問に対する答えになっていません。神さまは天上でのサタンとのいきさつについては説明しません。でも、ヨブは説明を求めていたのではありませんでした。
ヨブは、神の栄光に接し、その偉大さに触れ、自分の罪を認め悔い改めます。
「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです(40:4)」
ヨブは自分の無知、弱さを認め、神の全知全能に触れて、神さまのなさることは人間の知識では、はかることができないと思ったのです。
そして神様はヨブを癒し、子どもを与え、財産を倍にしてくれます。
ヨブ記を読むと、どんなことが起きても、神様に「なぜ?」と聞く必要はないのだと思わされます。どんなにむごいことが起きても、それは神様の御手の中で起こったことなのです。
現在と過去のことしかわからないわたしたちです。将来のことは少しもわからない者にとって、勝手に意味づけすることはできません。
神様は、ご自分がお造りになった生物(どんな人間でも、動物でも)をとても大切に思っておられるので、たとえ肉体が死んでも魂をねんごろに取り扱ってくださる。どんな死に方をしても天国で採算があうようにしてくださると、わたしはそのように思っています。
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私も今までの道のりを経てきたおかげで
神さまに「なぜ?」と問わなくなりました。
人が生きていくことは
神さまが与えてくださることに
応えていくことだと思っていますから。
なぜ 花はいつも
こたえの形をしているのだろう
なぜ 問いばかり
天から ふり注ぐのだろう
(岸田衿子)
この一篇の詩に出会ったときに腑に落ちました。とても素直に・・・
>神さまが与えてくださることに
>応えていくこと・・・・・・・
その通りですね。
岸田衿子さんの詩紹介してくださってありがとうございます。深くて素敵な詩ですね。