先週の金曜日は土浦で行われた児童文学者協会茨城支部の例会に出席しました。午後の合評中に中座して15時発の電車で実家の三鷹に向かいました。三鷹で一泊して翌日土曜日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)例会に出席して土浦に戻ってきました。
昨日は疲れが出て体調不良だったのですが、今日は快復しました。
JCPの礼拝で語られたことの一部を紹介させていただきます。
2015年、JCPの年間聖句はイザヤ40:8です。
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」
永遠に立つとは、死なないこと、生き生きとしたいのちがあるということです。
神様はことばによって天地を創造されました。
わたしたち人間は、神にいのちをふきこまれて生かされています。人間は、受動的な存在で、神なくしては一日も生きられない存在です。
ヨハネ1:1には「初めに、ことばがあった」と書かれています。
また1:4には「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」とあります。
ことばは神(イエス・キリスト)のことで、ことばにいのちがあり、ことばは人の光なのです。
わたしたちは、イエス様の十字架の贖罪により、永遠の命が与えられました。
神はわたしたちに人格を与え、自由に生きる特権をお与えになりました。
人生の山坂を苦闘しながら生み出されるのがあかし文章です。
主の恵み、キリストの光を信仰感性によって生み出していくのがあかし文章です。
>人間は、受動的な存在で、神なくしては一日も生きられない存在です。
ということばが心に留まりました。
かつてわたしは自分の力で生きていると思っていました。誰かに頼らなくたっていいと思い上がっていました。
でも、JCPの例会に参加することも条件が整わないと不可能になります。健康、安全、家族の健康、台風や大雪、大地震、事故などから守られて初めて参加が可能になるのですね。また、生きていることも多数の条件が整えられて、生きられるのです。まさに神様の手の中で生かされている存在です。
苦難の中で泣き叫び、のたうちまわりながら、その中で表された主の業(わざ)を書いていくことが使命のように思えました。
昨年は「春夏秋冬」というあかし新書がJCP関東で出版されましたが、ことしからは「山川草木」というテーマで書いていきます。
時間がないから書けないという言い訳はやめて、細切れの時間をつなぎあわせてでも書いていきたいと心を新たにしました。
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「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」
永遠に立つとは、死なないこと、生き生きとしたいのちがあるということです。
神様はことばによって天地を創造されました。
わたしたち人間は、神にいのちをふきこまれて生かされています。人間は、受動的な存在で、神なくしては一日も生きられない存在です。
ヨハネ1:1には「初めに、ことばがあった」と書かれています。
また1:4には「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」とあります。
ことばは神(イエス・キリスト)のことで、ことばにいのちがあり、ことばは人の光なのです。
わたしたちは、イエス様の十字架の贖罪により、永遠の命が与えられました。
神はわたしたちに人格を与え、自由に生きる特権をお与えになりました。
人生の山坂を苦闘しながら生み出されるのがあかし文章です。
主の恵み、キリストの光を信仰感性によって生み出していくのがあかし文章です。
>人間は、受動的な存在で、神なくしては一日も生きられない存在です。
ということばが心に留まりました。
かつてわたしは自分の力で生きていると思っていました。誰かに頼らなくたっていいと思い上がっていました。
でも、JCPの例会に参加することも条件が整わないと不可能になります。健康、安全、家族の健康、台風や大雪、大地震、事故などから守られて初めて参加が可能になるのですね。また、生きていることも多数の条件が整えられて、生きられるのです。まさに神様の手の中で生かされている存在です。
苦難の中で泣き叫び、のたうちまわりながら、その中で表された主の業(わざ)を書いていくことが使命のように思えました。
昨年は「春夏秋冬」というあかし新書がJCP関東で出版されましたが、ことしからは「山川草木」というテーマで書いていきます。
時間がないから書けないという言い訳はやめて、細切れの時間をつなぎあわせてでも書いていきたいと心を新たにしました。

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