今日も風が冷たかったのですが、教会へ向かって自転車を走らせていると、ぽかぽか暖かくなってきました。
11日の礼拝メッセージの一部紹介と感想を書きます。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」
とパウロが書きました。イエス・キリストが十字架につけられたとき、パウロはそこにいませんでした。なぜキリストと共に十字架につけられたなどと書いたのでしょう……。
パウロの言う死とは、『自我を明け渡す』ことです。
「祈りのハイド」と呼ばれた宣教師がいます。イリノイ州出身のジョン・ネルソン・ハイドは27歳の時インドに向けて出発しました
ハイドは、宣教師になるという夢がかなって得意げな気持ちでした。
ところが船室に一通の手紙が届きました。父親の親友の牧師からでした。
その手紙には『親愛なるジョンへ。私はあなたが聖霊に満たされるまで祈ることをやめません』
それを読んでジョンは怒りました。(聖霊に満たされるまでとはどういうことか? 聖霊に満たされているから宣教師になったのに……)と。
手紙を読み返しているうちに自分が間違っていることに気づきました。自分が宣教師になる準備ができてないこと、心の底に高飛車な自我があったこと、自分自身を装っていたことに気づいて船の中でずっと祈っていたそうです。
両親のいない少女がいました。少女は叔母さんに引き取られました。叔母さんとの関係はあまりよくありませんでした。
少女は高校生のときイエス・キリストを信じました。叔母さんは少女が教会へ行くのを快く思っていませんでした。
少女は叔母さんに対して悪いなあと思いつつ反抗していました。小言ばかり言う叔母さんの前に出るとどうしても悪態をついてしまうのです。
どうしたらよいか思案していたとき、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という聖書の言葉が少女の心に入ってきました。
私ではなく、私の内におられるキリストが叔母さんと会えばいいと思って祈りました。
その後、叔母さんに会うと、弱くて老いた叔母さんの姿が目に入ってきました。自分を育てるために結婚もしないで尽くしてくれた叔母さんの姿が……。
少女は叔母さんを抱きしめて泣きました。そのとき、叔母さんの心の中にあった塊が溶けていくのを感じました。
のちに叔母さんもイエス・キリストを信じるようになりました。
「キリストが私のうちに生きておられることを認めた時に事が起こります。」「自分が死ななければ、生きておられるキリストを体験することができません。」と牧師先生が言われました。
メッセージを聞いて、心が刺されるように痛みました。わたしは高慢でした。
キリストを主とすると言いながら、いつの間にか自分の人生の主導権を自分で握っていました。自分の願いを真っ先に掲げて祈っていました。
わたしの人生をキリストに明け渡していませんでした。どうか握っているその手を開いてすべてをキリストに委ね、おまかせすることができるようにと祈りました。
にほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
11日の礼拝メッセージの一部紹介と感想を書きます。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」
とパウロが書きました。イエス・キリストが十字架につけられたとき、パウロはそこにいませんでした。なぜキリストと共に十字架につけられたなどと書いたのでしょう……。
パウロの言う死とは、『自我を明け渡す』ことです。
「祈りのハイド」と呼ばれた宣教師がいます。イリノイ州出身のジョン・ネルソン・ハイドは27歳の時インドに向けて出発しました
ハイドは、宣教師になるという夢がかなって得意げな気持ちでした。
ところが船室に一通の手紙が届きました。父親の親友の牧師からでした。
その手紙には『親愛なるジョンへ。私はあなたが聖霊に満たされるまで祈ることをやめません』
それを読んでジョンは怒りました。(聖霊に満たされるまでとはどういうことか? 聖霊に満たされているから宣教師になったのに……)と。
手紙を読み返しているうちに自分が間違っていることに気づきました。自分が宣教師になる準備ができてないこと、心の底に高飛車な自我があったこと、自分自身を装っていたことに気づいて船の中でずっと祈っていたそうです。
両親のいない少女がいました。少女は叔母さんに引き取られました。叔母さんとの関係はあまりよくありませんでした。
少女は高校生のときイエス・キリストを信じました。叔母さんは少女が教会へ行くのを快く思っていませんでした。
少女は叔母さんに対して悪いなあと思いつつ反抗していました。小言ばかり言う叔母さんの前に出るとどうしても悪態をついてしまうのです。
どうしたらよいか思案していたとき、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という聖書の言葉が少女の心に入ってきました。
私ではなく、私の内におられるキリストが叔母さんと会えばいいと思って祈りました。
その後、叔母さんに会うと、弱くて老いた叔母さんの姿が目に入ってきました。自分を育てるために結婚もしないで尽くしてくれた叔母さんの姿が……。
少女は叔母さんを抱きしめて泣きました。そのとき、叔母さんの心の中にあった塊が溶けていくのを感じました。
のちに叔母さんもイエス・キリストを信じるようになりました。
「キリストが私のうちに生きておられることを認めた時に事が起こります。」「自分が死ななければ、生きておられるキリストを体験することができません。」と牧師先生が言われました。
メッセージを聞いて、心が刺されるように痛みました。わたしは高慢でした。
キリストを主とすると言いながら、いつの間にか自分の人生の主導権を自分で握っていました。自分の願いを真っ先に掲げて祈っていました。
わたしの人生をキリストに明け渡していませんでした。どうか握っているその手を開いてすべてをキリストに委ね、おまかせすることができるようにと祈りました。
![にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ](http://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian88_31.gif)
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
文香さんのおっしゃるとうりですネ!
【 アーメン ! 】
かつて私の尊敬するKISHI先生がおっしゃいました。「全ては、ガラテヤ2:20 に尽きますなぁ~!」と。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
アーメン!
>全ては、ガラテヤ2:20 に尽きる。
そうですね。そして、自我を明け渡すことは難しいことですね。
明け渡したと思っても、いつの間にかしっかり握っていたり……いつもこの御言葉を思って自分自身を点検しなければ……と思いました。
「自分が死ななければ、生きておられるキリストを体験することができません。」
本当にその通りですね。
少なくとも一度は体験させて頂いたにも関わらず、まさに、「明け渡したと思っても、いつの間にかしっかり握っていたり」ですが、日々刻々と点検しなければと思いました。ありがとうございます。
ありがとうございました。
昨日もまた茨城で強い地震があったのでびっくりしました。怖かったことでしょう。
もはや「明日のことを思い煩うな」で、イエスさまと共にあるのみですね。
私もそうありたいです。
今朝も明け方に地震があってとび起きました。一昨日の地震に比べればたいしたことなかったですが……。
頻繁に起きているので怖いですが、まさにイエス様と共にあって平安をいただいています。