子供のころ、よく母親にしかられました。ガミガミ言われているときは、『うるさいなー』と思いながらも安心していました。がんこなわたしは、なかなかあやまりませんでした。すると母は、「もういい、わかったから!」と言って口を閉ざしてしまいます。
そうするとわたしは不安になって「何がわかったの?」と尋ねます。母がわたしを無視して家事を始めると、とほうもなく不安で寂しい気持ちになったことを覚えています。
「ごめんなさい」とひとこといえば、母はにっこり笑って抱きしめてくれます。その「ごめんなさい」がなかなか言えなかったのですが……。
神との和解について昨日書きましたが、神様と和解するとはそういうことなのだと思います。すでに神様の方から和解の手を差し伸べてくださっているので、ただ受け入れればいいだけなのです。キリストの十字架によって罪はもうすでに赦されているのですから、何の努力も何の償いも必要なく、ただその手をつかむだけでいいのです。
神様と和解している者はなんと幸いなことでしょう。不安な時も、辛い時も、嬉しい時も、いつも神様に伝えることができ、神様が応答して下さるからです。
今日も、祈りの中で神様に思いのすべてを伝えました。不安でいっぱいだった心に平安が訪れました。
今日はこれから実家に行きます。
自我をしっかりにぎりしめていると、素直になれませんね。
家庭集会に出られてよかったですね。さわちんさんのうえに神様の恵みが豊かにそそがれますように。
社会に出ると自分が悪くないのに謝らなきゃならない場面がありますよね。
簡単そうで難しいのが「ごめんなさい」という言葉ですよね。
今日は家庭集会に参加しました。使徒の働き2章14節から交読し、メッセージを聞きました。先週ペンテコステのメッセージと同じ箇所で今日は復習ということになりました。
前回理解できなかったので何回聞いても聞き過ぎることはないと思いました。
教会での礼拝もいいけど家庭集会もいいもんですね。