こどものように
泣きたいときは 泣けばいい
わたしも一緒に泣くから
流した涙は どこへいくの?
それは、神さまの皮袋の中へ
苦しいときは 叫べばいい
わたしも一緒に叫ぶから
叫んだ声は どこへいくの?
それは、神さまの耳の中へ
礼拝のとき、よく涙を流すと書きました。悲しくてではなく、主の臨在に触れ、感動して泣くのです。最近とくに涙もろいわたしですが、人前で自分の抱えている問題のことで泣いたことは、ほとんどありませんでした。神さまに向かって訴え、ひとりで泣くことはありましたが、両親にはもちろん、牧師先生の前でも、夫の前でも、友人の前でも悲しみの涙を見せたことがなかったのです。
ところが、昨日礼拝の後で、親しくさせていただいているY姉(教会では、同じ主を信じる者を兄弟姉妹といいます)とお話ししました。Y姉は信仰の先輩で、祈りの友でもあります。色々な話しをしたあと、この前病院で言われたことを話して祈っていただこうと思い、「お祈りして欲しいことがあるんです」というと、Y姉が泣きそうな顔をして、わたしの手を握って肩を抱き、「どうしたの?」と暖かい言葉をかけて下さいました。
そのとき、突然堰がくずれたように涙があふれ出し、何も言えなくなってしまいました。自分でも予想もしなかったことでした。わたしがしゃべれるようになるまでY姉は黙って待っていて下さいました。
しばらくしてやっとのことで、「まだ、わからないことなんです。だから心配しても仕方のないことなんですが……」と再発転移の不安を泣きながら話すと、Y姉は涙を流し、心から祈って下さいました。なんだか、心にたまっていたものが流れ落ちてすっきりした気持ちになりました。共に泣いて下さる友人がいるということは、何と素晴らしいことでしょう。
いままで人前で泣きたいときに泣かず、つらいときにつらいと言わなかったのは、心に鎧いを着ていたからでしょうか? 片意地張っていたのでしょうか?……とても弱い者です。
いままでこのブログでも、癌になってからのあかしをたくさん書いてきました。そのあかし文章と今日の文章が矛盾していると思われる方もおられるかもしれません。でも、どちらも真実なのです。決して見栄を張って思ってもいないことを書いてきたわけではありません。心の中をそのまま書いてきました。
神さまの力によって強められ、不安がなくなるようなときもあります。でも、突然不安の波に襲われ、足をすくわれるようなときもあります。
なぜY姉の前で素直に泣けたかというと、きっとその日の礼拝のメッセージを聴いたからだと思います。どういうメッセージだったかは、後日書きます。
私も家の中で一人で声をあげて泣いたことがあります。泣きつかれて少しは気持ちがすっきりしました。
文香さんの涙を受け止めてくださる優しい方がいらっしゃって良かったですね。
明日のブログも待っています。
この不安や弱さこそ尊いことだと思います。
そんな只中に在って主に拠りすがって生きる文香さんは、本当に神さまに愛され守られて生かされておられるなあと思います。
明後日のことも一切のことをお祈りしています。
泣けるということは幸せですよね。ほんとうに悲しくてつらい瞬間はは涙も出ません。
素直なザアカイも好きですよ。
「不安や弱さこそ尊い」と言って下さると、嬉しくなります。