たくさんの方が拍手ボタンを押してくださって、感激しています。押してくださる人は多くても2~3人かなあと思っていたので嬉しいです。書く励みになりました。
がん患者としての心境をつれづれなるままに書いてきて、今日で10回目になりました。今回で一応終わりにしたいと思います。
一応と書いたのは、また思いついたことがあれば書くかもしれませんし、質問などがありましたらお答するかたちで書きたいと思います。ぜひ、質問や感想をコメント欄に書いてください。
「がんになって失ったものは健康だけだった」と言ったのは作家の三浦綾子さんです。
ほんとうにそう思います。わたしは付け加えて「失ったものより、得たものの方がはるかに大きかった。」と言います。
わたしが得たものとは・・・
死の後ろ姿を見て、(今すぐ死ななくても)必ず死が訪れることを自覚し、限られた時間を生きていることを確認しました。
がんにならなくても、人はみな死にます。当たり前のことですが……。でも、死ぬのはまだずっと先のことと思っていたので実感がなかったのです。
がんになって死を身近に感じたとき、生きていることの価値を知らされました。
生きているということは当たり前ではなく、特別な条件が整えられてこそ可能なのですね。どんなにたくさんのお金や権力を持っていても、生きられる条件のすべてを自分で整えることはできないのです。
つまり生きるとは、自分の力で生きるのではなく、生かされてはじめて可能になるのです。
限りある『生かされている時間』がとほうもなく尊いものだと気付かされました。
これまでどうでもよいことに夢中になり、どれだけ無駄に時間を費やしてきたことでしょう……。
たとえば、もしあと半年しか生きられなかったら、何をすべきなのでしょう?
いままで夢中でやってきたことは必要なことだったのでしょうか? 本当にしなければならないことは何なのでしょう?
そんなことを考えるようになりました。
それががんになってわたしが得たものです。
今わたしは神さまから平安をいただいています。その平安はどんなことが起きても取り去られない平安です。がんになる前はこのような平安を感じませんでした。
わたしはがんになってよかったと心から思います。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」
という聖書の言葉そのものがわたしの心境です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。お読み下さった方々のうえにも平安がありますように。
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おわり
人間が生きて行く途上で、様々な試練や悩みがあります。
最近、「生きる意味が分からない。死にたい」という人が急増しているように感じます。
明日に希望が持てない不安な時代でもあるからでしょう。
しかし、こんな言葉を最近聞いたことがあります。
「あなたが”死にたい”と思って無駄に過ごした今日は、昨日しんで行った人が懸命に”生きたい”と思って努力した明日なのです。」
人は一体、何のために生きているのでしょうか。
人はどこから来て
何のために、勉強し、働き、生きて
どこへ向かっているのでしょうか。
なぜ、人は孤独なのでしょうか。
愛とは何か、生きる意味、死とは何かなどのことについて、ブログで分かりやすく聖書から福音を書き綴って来ました。
ひまなときにご訪問下さい。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書)
「生きる目的は一体何か」
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/m/200705
「人生の目的と意味は何か」:
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/d/20060519
小説「カシコギ」に書かれていた言葉『あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった者が、あれほど生きたいと願った明日。』を思い出しました。
ブログ拝見しました。聖書信仰に基づいて生きる目的や意味がわかりやすく書かれていますね。漱石さんのブログが大勢の方に用いられますようにお祈りいたします。