「パシュル、外を見てごらん」
パシュルが窓に前足をかけて外をみたとき、口をあけたままかたまってしまいました。パルシュルは置物のようにひげ一本、ぴくりとも動きません。時間がこおりついてしまった感じです。
窓の外は、見渡すかぎり一面が水におおわれていました。さえぎるものは何もなく、どこまでも続く水が小さなさざ波をたてていました。
「み、水……」
パシュルはやっとそれだけいうと黙りこみ、床にぺったりと尻をつけてすわりこんでしまいました。
「外に出てみるかい?」
おじいさんがニコニコしてパシュルの背中をポンとたたきました。パシュルは首をこきざみに横に振りました。
やがてハトがもどってきました。
「もうしばらくすれば、水がひいて必ず出られるからな」
「あの……、箱舟に乗らなかった動物たちは?」
パシュルは気になっていたことをたずねました。
「大洪水でみんなほろびてしまった。箱舟に乗ったもの以外はみんな……」
「えーっ!」
パシュルは血の気がひいていくのがわかりました。大洪水がくるなんて知らなかったのです。箱舟に入れば守られるといったメルダの言葉を思い出しました。
「神様のさばきじゃよ。神様がこの世界を水でほろぼされたのじゃ」
パシュルはショックを受けてヨロヨロとメルダのところへもどりました。パシュルはその日からすっかりふさぎこんでしまいました。メルダが話しかけても、返事すらしません。
一週間後、ハトがオリーブの葉をくわえてきて、舟中が喜びに満ちたときも、パシュルだけは床をみつめて伏せっていました。
それから何日かたって、とうとう舟から降りる日がきました。おじいさんが一年近くも閉じられていたとびらを大きく開きました。
「さあ、みんな。降りるんじゃ。降りて全世界に散らばっていくのじゃ」
おじいさんがいうと、動物たちがせきをきったようにわれ先にとびらへ向かい、外にとび出してきました。
パシュルは箱舟の隅でじっとしています。
「パシュル、わたしたちもいきましょう」
メルダが立ち上がってパシュルの尻を鼻でつつきました。
「オレはここにいる。お前はすきなところへいけよ」
「どうして? 前は早く降りたいって言ってたのに……」
「気が変わったんだ。ほっといてくれ」
「そんなこといわないで、いっしょに降りましょうよ」
「いやだね」
6 約束のしるし
パシュルとメルダが言い争いっていると、おじいさんがやってきました。
「パシュル、こわいのだな」
おじいさんにはかないません。心の中をいいあてられて、パシュルはもぞもぞ体を動かし、照れかくしに前足で顔をなでました。
パシュルは舟が水に囲まれているのをみたとき、心底恐ろしくなってしまったのです。前はこわいものなんかありませんでした。足も速く、体もじょうぶなので自信に満ちていました。でも、川に落ちてから、水が恐ろしくなりました。そして、こんな洪水がこれからも起こるかもしれないと思うと、箱舟から出られなくなってしまったのです。
「だいじょうぶじゃ。こわければ、ずうっとわしらといっしょにいればいい」
おじいさんはパシュルの首をだいてやさしくいいました。
パシュルは、おじいさんと奥さん、三人の息子とお嫁さんたち八人のあとについていきました。もちろんメルダもいっしょです。
おじいさんたちは、箱舟を降りると、石を積み上げてさいだんを作りました。そしてひざまずくと手を組んで目を閉じました。
「おじいさんたち何をしているんだろう?」
「さあ……」
パシュルとメルダにはわかりませんでしたが、人間たちは神様に礼拝をささげていたのです。二匹は人間のまねをして頭を下げ、目をとじました。
「あっ、虹だ」
おじいさんの声で目を開けると、空に半円形の光の帯がみえました。七色のしまもようです。そのとき、天からパシュルの耳にはっきりと言葉が聞こえてきました。
「わたしは、もう二度と洪水でこの世界をほろぼさない。この虹は約束のしるしだ」
パシュルの心がふるえ、涙があとからあとから流れ落ちました。神様が命を守るために自分たちを箱舟に入れて下さったことがはっきりわかったからです。
パシュルはそっとメルダによりそいました。メルダのことを初めていとおしいと思いました。メルダの目にも涙がありました。虹がメルダのひとみに映って輝いていました。
おわり