静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

Welcome

2025年04月27日 | 教会案内

日本ホーリネス教団 静岡教会 Shizuoka Holiness Church “Grace Chapel”


 

 「人は心の中に、何によっても埋める事のできない空洞がある」とは、有名な科学者であり哲学者でもあった、パスカル(Blaise Pascal 1623-1662)の言葉です。

 この言葉は、現代に生きる私たちにも、何故かピッタリと当てはまるのではないでしょうか。物質的に豊かになり、ハイレベルの教育を受けても、人の心は満たされず、本当の平安が見いだせないのが、この世界です。

 こういう時代だからこそ、永遠に変わることのない神の言葉である聖書に耳を傾け、真の平安を見いだしていただきたいのです。

 教会とは、神を礼拝し、聖書を学び、賛美を歌い、共に祈り合うところです。お互いに助け合い、新しい交わりができる仲間がいるところです。どうぞ教会に加わって下さり、神を愛し、自分を愛し、他者を愛して生きる生活を共にしていきましょう。教会で中心となる集会は、毎週日曜日の礼拝です。まずは、こちらにお出かけ下さい。
 

ご案内 教会案内 集会案内 イベント案内
読み物 説教要約 天のマナ 教会だより
写真集 今週の生花 フォトギャラリー  
その他 リンク集 教会予定表  

使徒信条主の祈り

 

※最新記事に戻りたい場合は、ブログのタイトル部分「静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog」をクリックして下さい。
※コメントの書き込みは、個々の「表題」や下段にある「コメント( 0 ) 」の数字部分をクリックする事で行えますが、認証制ですので後日に表示されます。「Trackback ( 0 )」はクリックしても、受け付けていませんので拒否されます。
※掲載された写真の幾つかは、マウスカーソルを合わせるとコメントが表示されます。

日本ホーリネス教団静岡教会 〒422-8043静岡県静岡市駿河区中田本町13-30 TEL:054-286-8323 FAX:054-286-8347 牧師:杉本 守・杉本敬子

このBlogに掲載の記事・写真の無断使用を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。Copyright 2008 The Shizuoka Holiness Church. No reproduction or republication written permission.

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2024年08月04日 | 天のマナ
 「小さい頃からみ言葉に聴く幸い」
 7月の末に、浜松ホーリネス教会で、子どものキャンプが二日間行われました。連日、子ども20名、中高生~大人25名くらいの者達が集まりました。半分以上の子ども達が初めてもしくは数回目の来会でした。親御さんも一緒に集われました。子供たちはすぐに溶け込み、振り付け賛美に、ゲーム、聖書のお話を聞き、暗唱聖句を夢中でしていました。聖書のお話は、放蕩息子のたとえ話から、「あなたは神に愛されている」ことが3回語られました。
 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(新改訳、伝道者の書12章1節)とあるように、若いうちから、創造主なる神の言葉を聞き、霊に命をいただき、知的にも整理され、確かな倫理観を持つことが必要であります。静岡教会でもサマーフェスティバルが、8月25日(日)午後4時から行われます。この機会を用いましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第二回 子ども食堂

2024年08月04日 | イベント案内
第一回目は好評でした。第二回目をいたします。
申し込みは電話でもFAXでもできます。
是非、お出かけ下さい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2024年07月28日 | 天のマナ
 「成熟した信仰者として育てる」                 
 先週の火曜日に教団主催の教職対象のキリスト教教育の講演会が、「これまでとこれからのキリスト教育―『非暴力の教育』から」のテーマでリモートで持たれました。そこで学んだことを少し記させていただきます。
 キリスト教教育は、まずは「体」、続いて「心(感性)」、さらに「頭(理性、知性)」、最後に「霊を中心とした全存在」を重点に教育していく事であると、私なりに捉えさせていただきました。小学低学年までは「体:教会が楽しい」と感じるように、小学高学年までは「心:神様に愛されている」と感じように積み上げ、中学高校では進化論や部活などで戸惑うので、「理性:知性でも理解でき信仰を告白できるよう」に語り合いの中で積み上げ、青年以降は、「全存在:霊を中心とした全存在でキリストに献身できるよう」に教育し続ける事であります。「教育」というと、「先生から生徒に教えるという」イメージですが、そうではなく、「語り合う交わりの中で、主イエスによってひとりひとりが教られる」ということです。「和気あいあいで楽しい、主に愛され神の家族に愛されて嬉しい、聖書の真理を理解し知的にも整理されている、どんな状況でも主に命をかけ従う歩みをしている」と主に従う者は成長、成熟させて頂くのです。「栄光から栄光へと」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主なる神に向かい

2024年07月21日 | 生花
主なる神に向かいほめうたをささげます。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2024年07月21日 | 天のマナ
 「主に満たされているキリスト者」 
 人間の欲求には生理的欲求(食欲、睡眠欲、性欲)があり、他にも「安全の欲求」「社会的欲求」「自己実現の欲求」「承認欲求」などがあります。人によって年齢によって強弱は違いはあれ、小さい子供から大人、年長者に至るまでこれらの欲求が見られます。これらの欲求は、神の定めた秩序(ルール)の中で正しく満たされることが必要です。そうでないと問題を起こし、人格が崩壊し、人間関係も混乱し壊れていきます。
 人は誰しも「認めてほしい」との承認欲求があり、子供なら親、友人、学校の先生などに承認の要求をします。「自分を見てほしい」「自分の話を聞いてほしい」「自分を褒めてほしい」「自分を受け止めてほしい」というものです。「そうだね」「大変だね」「よくやっているね」と受け止めてもらった時には満たされますが、「忙しいからあとで」と後回しにされたり、「そんな風に思ってたの」と裁かれたり、「それは違う」と否定されたりした時には満たされず不満が起こります。それは、限界ある人に求めるゆえでしょう。しかし、神様には限界がありません。神に求める時に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(新改訳イザヤ43:4)といつも言って下さっていることに気づきます。「あなたを見て、聞き、褒め、受け留めて下さっている」のです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子ども食堂始めます

2024年07月10日 | イベント案内
静岡グレースチャペルでは、7月20日(土)より、子ども食堂を始めます。
申し込みは電話でも受け付けています。(留守電の時は名前と人数をお知らせください)。
申し込みをお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2024年07月07日 | 天のマナ
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)   

 「信仰を捨てたくなったこと(クリスチャンをやめたいと思ったこと)はありますか?」と問われると、「一度もありません」と即答します。私にとっては主イエスと共に歩まないイエス様抜きの人生などありえません。「牧師を辞めたくなったことはありますか?」と問われると、「はい、時々あります」と即答します。「辞める」というか「召しの返上」ということでしょうか。「もう、35年牧師をしてますので、主よお返ししたいのですが・・・と」。昔の牧師先生方は、講壇で倒れるのが本望だったようで尊敬いたします。私の場合は、宣教も見えるようには進まず、牧会でも頭を抱えますと「もう十分」と上記のような気持になります。あるクリスチャンの医師が、「牧師は二番目にストレスが多い職種」と言われたそうです(一番目が皇室だそうです)。鬱になる牧師が増えています。教団の牧師隠退年齢は75歳で、私はあと18年。モーセもエリヤも燃え尽きた時があり、「私一人ではこの民すべてを負うことはできません。私には重すぎます。私にこのような仕打ちを続けるなら、むしろ私を殺してください。」(民数記11:14~15)、「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください」(列王上19:4)と言いました。「では辞めるのか」というとそうではなく、主の憐れみで続けさせていただくのです。なぜなら常に「神の召しの言葉」(タイトル)が語られ内に湧いてくるからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2024年06月30日 | 教会案内
「ただ主を誇る」           
 「家の家宝は何ですか?」と聞かれたら、ある方は、先祖代々より引き継がれてきた「絵画」や「格言」と答えるでしょう。また、「あなたの誇るものは何ですか?」と聞かれたら、ある方は、「家族です」と答えるでしょう。別の方は、「家」、「友人」、「学歴」、「技能」、「才能」、「功績」、「権力」と答えるかもしれません。では信仰者ダビデは何と言っているでしょうか。「ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。」(詩編20篇8節)です。彼は、スリヤやアンモンの軍と戦う時に、自分の戦車や馬の数を誇らず、主の名を誇ったのです。それは、彼が「勝利は、戦車や馬の数ではなく、主なる神こそが与える」と確信していたからです。
実際に私たちが物事に直面した時、何をあてにして戦うでしょうか。目の前にある人や物、知識や技能を頼りにしているのではないだろうか。信仰者はそうではなく、主イエスをあてにし、主イエスの偉大な力によって強くされ、ダビデに勝利を与えられた主なる神を信じて進んで行くのであります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2024年06月23日 | 天のマナ
 「荒れ地においても咲く花のように」
「私の羊を飼いなさい。よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」(ヨハネ21:17~18)。
 このみ言葉は、復活の主イエスがペトロを再召命した時に語った言葉です。この世においてペトロを始め、主に従う私たちの行く手には予期せぬ悲しみや苦しみが起こります。しかし、私達キリスト者はそこで気落ちするのではなく、不毛の砂漠のただ中で生きる小さな花の美しさに驚くように、予期せぬ喜びに気づくことです。そして、尽きることのない泉の新鮮な水のように、苦痛の深みから湧き出る測り知れない癒しの力に気づくことです。この力とは、聖霊なる神の力です。神の力は私たちの内に働き、私たちのものとなり、どこに行こうと、どんな人に出会おうと、わたしたちの内から流れ出るのです。「『私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる』。イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。」(ヨハネ7章38節)。苦難の時こそ、「イエスを主」と告白させてくださった我が内におられる聖霊なる神に目を留め、この方に落ち込みましょう。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする