静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2024年04月28日 | 天のマナ
「主の癒しを経験する恵み」 

 私たちが属している日本ホーリネス教団の信仰の特色は、「聖書信仰」「ウエスレー・アルミニウス主義」「四重の福音」です。「聖書信仰」とは、「旧新約聖書六十六巻は、神の霊感を受けて書かれた誤りなき神の言であり、キリストを啓示し、福音の真理を示すものである。聖書はわたしたちの信仰と生活の基準であり、教会の唯一の正典である」ということです。「ウエスレー・アルミニウス主義」については教会員手帳129ページをご覧下さい。「四重の福音」とは、主イエスが私たちに与えて下さった救いの豊かさです。それは「新生(義認)、聖化(きよめ)、神癒(癒し)、再臨(栄化)」です。今回は、「神癒(癒し)」について記します。
 この地上での歩みの中で時に私たちは病いにかかったり怪我をしたりします。主は救い主であり癒し主ですから、魂を救うと共に、肉体をも癒し傷ついた心をも癒して下さる方であります。信仰の先人でありました大橋京子姉が、「私は主の癒しを体験した」と何度も証しをして下さいました。それは若かりし時のこと、物が食べられないくらいあごが痛み、医者にかかっても治らなかったが、主イエスに祈った時、神癒(癒し)を経験したというものでした。
「まことに私は主、あなたを癒す者である。」(出エジプト記15:26)。
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天のマナ

2024年04月21日 | 天のマナ
 「教会総会における主の恵み」

 人生には様々な節目があります。「入学、卒業、入社、結婚・・・」などがすぐに挙げられるでしょう。また、年にも節目があります。「年始、年度初め、年末、年度末・・・」です。企業でも総会がありますし、キリスト教宣教団体(TVライフライン、市内キリスト教会連合会)、私たちが属している日本ホーリネス教団、静岡ホーリネス教会もそうです。

 当教会の総会は来週です。走り続けている歩みを少し止め、神の豊かな導きの中にあって過ぎ去りし年月を振り返り、神に感謝するのです。そしてこれからの神の祝福のご計画を知り確認し、期待をもつ時でもあります。私達人間は、時に目の前のことでいっぱいになり、振り回されてしまう者であります。年一度の主にある総会は、私たちの信仰の目をもう一度神の計画に向けさせ、私たちに与えられている神の使命を再び自覚させるのです。「そうだ!、主の力により自分の責任を果たさせていたこう」と。マンネリではなく、主にある新たな一歩を共に踏み出しましょう。
「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」(ルカによる福音書4章5節)。
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天のマナ

2024年04月14日 | 天のマナ
 「信仰告白としての賛美の恵み」

 ゴスペルの練習は、月の第一水曜日午後7時~ズームでのディレクターによるレッスンをしています。その他にメンバーだけで月一度の練習もあります。仕事帰りにメンバーは集うので、一日の労の疲れがありますが、毎回、賛美を主にささげている中で、主の恵みを受け心も体も、霊も肉体も満たされて、終わる時には新たなる力を与えられています。礼拝時の賛美の時も、ゴスペルレッスン賛美の時も、また自宅で口ずさむ賛美の時も、皆さんと同じく私も賛美の歌詞を私の信仰告白として、主にささげています。今、ゴスペルで練習をしている曲も素敵な賛美です。この詩も自分の信仰告白です。
 「世の人は山は動かせない 鎖は決して切れない」と言う でもね 彼らは私たちのように主なる神を知らないの 主なる神の御名には力があることを 私たちは「進む道がない、潮の流れは決して変わらない」と彼らからの言葉を聞く 彼らはどんなに大きな力が主なる神にあることを見ていないから 動かせないものを動かし 壊せないものを打ち砕く 神様 私たちは信じています あなたの奇跡を見ることを 希望は失望に終わらない なぜなら主の墓は空だから 道がないと思える時もも あなたこそが道なのです 私たちは信じています 神様 あなたは主権をもっておられるから  
「アーメン(まことに、真実に、そのとおりです)」です。
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天のマナ

2024年04月07日 | 天のマナ
「横を見るから見上げるへ」 
 
 小さい頃から私たちは比べられて育てられたのではないでしょうか。横を見て、皆と同じように歩みなさいとです。確かに協調性は必要ですが、個性を潰す協調性ではなく、オーケストラのハーモニーのように個性が活かされた協調性であることが大切です。教団の年会講演のテーマは「牧師のストレス解消法」でした。講演の後、一人一人がエゴグラム(性格分析・診断)をしましたが、その結果は全く異なるものでした。横を見て比べる見方が小さい頃から刷り込まれ、その世界に生き、ある時には優越感をもちうぬぼれ高慢になったり、別の時には劣等感をもち自己卑下し、嫉妬しねたんでいるのではないでしょうか。全ての人に共通している問題は、「罪」と「死」です。これは横を見ていては全く解決できません。人間には解決できないからこそ、神の介入が必要なのです。神は、その独り子イエス・キリストをこの世界に遣わし、十字架によって「罪」を、復活によって「死」を解決して下さったのです。ですから、横(人)ではなく、上(神)を見上げましょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)
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講壇の花(イースター)

2024年03月31日 | 生花



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天のマナ

2024年03月31日 | 天のマナ
 「信念と信仰」

「信念と信仰の違いは?」と問われたらなんと答えるでしょうか。「信念」を一般の辞書で調べると、「正しいと信じる自分の考え」「『これが正しい』と固く信じて疑わない心」「『これを必ず最後までやり通して見せる』といったような強い決意」とあります。「信仰」は、「神仏などを信じてあがめること」「ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること」とあります。聖書辞典では「信仰」を調べると、「神に対する信頼、そしてそこから当然起こる神のことばに対する信頼を言う」、また「新約聖書の中において『信じる』という動詞はほとんどの場合『の中に』(ギリシャ語エイス)、または『の上に』」ギリシャ語エピ)という前置詞を伴って用いられている。これは人となってくださった神の御子イエス・キリストの人格とみわざの上に、あるいはその中にすべてをゆだねることこそが信仰であることを示している」とあります。「信念」は自分を土台にした意志であり、「信仰」は神を土台とした意志であることとなります。私たち人間は揺れますが、どんなに時代が過ぎ状況が変わっても、揺るがない神を土台にしている私たちの信仰はなんと幸いでしょうか。
「主はわが岩、わが城、私を救う方」(詩編18:2)。
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天のマナ

2024年03月24日 | 天のマナ
「十字架で注がれた命による永遠の神の家族への招き」

 「家族の大切さ」をテーマにした一つの映画を観て考えておりました。私達、イエス・キリストを救い主と信じ救われたクリスチャンは、二つの家族に属しています。一つは「地上での肉親の家族」であり、もう一つは「永遠の神の御国での永遠の神の家族」です。「地上での肉親の家族」については説明はいらないでしょう。これも主なる神がひとりひとりに与えて下さった大切な繋がりであります。しかし、いつまでも一緒にいたいと願いますが、人は死にそして地上での別れの時が来ます。肉親の家族は地上のものであり、永遠のものではありません。主なる神はこれとは別に永遠の神の家族を用意されました。永遠の神の家族に加わり、そして永遠の神の御国に入るように、子なる神イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちを招き門を開いて下さったのです。それが十字架の御業です。主イエスを自分の救い主と信じて永遠の神の家族に加わりませんか?今も神はあなたを招いています。
 「御子を信じる人は永遠の命を得る」(ヨハネによる福音書3章36節)。
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天のマナ

2024年03月17日 | 天のマナ
「主イエスの内にあって互いに愛し合い仕え合う」

 エフェソ6章、コロサイ3章、Ⅰテモテ6章、テトス2章、フィレモン書などのみ言葉に聴いてきて、「聖書は当時の主人と奴隷の関係、そして奴隷制度そのものにどういう考えなのか?」という思いを持った人は私を含め少なくないのではないしょうか。聖書は「主人と奴隷の関係」を抑圧的な関係ではなく、兄弟愛の関係でありなさいと言っています。つまり「主人は奴隷を平等に扱い脅かすことをやめなさい。奴隷は主人に忠実に仕えなさい」ということです。では「奴隷制度そのものについて」はどうでしょうか。主イエス、そして主イエスの御心を記したパウロは、「直ちに廃止にしなさい」とは言っていません。なぜなら、当時は現代のような働き場もなく、社会支援もなく、生きていくので精一杯の時代であり、安易に廃止したら飢え死にしてしまう者達も多かったのです。主イエスの使命は、社会制度を変え整えるために来たのではなく、もっと根本的なこと、全ての問題の根源である罪を解決することでありました。どれほど社会制度を変えようとも、それは対処療法に過ぎず、問題は人の心の罪であり、内側を解決する根治(原因)療法が成されなければなりませんでした。主イエスは、救い主にしかできない根本問題を解決し、社会制度の変えることは後世の者達に任せられたのです。
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天のマナ

2024年03月10日 | 天のマナ
「人生における苦難の役割」

 伊東教会の祈祷会は月の3~4回、伊東教会堂と伊豆大島の泉の家と静岡教会堂の三か所をネットでつなぎ、オンライン(映像と音声)でしています。今はヨブ記のみ言葉に耳を傾けて23章まできました。ヨブの忍耐、そしてヨブ記を読む者達の忍耐、何よりも主なる神の忍耐と主権とをおぼえます。

「神はなぜ人間が受ける苦難を許容しているのか」という問いを誰しも持ったことがあるのでしょうか。もし、苦難がなければ幸いな人生なのにと思います。もちろん苦難は苦しく辛く喜ばしい事ではありませんが、地上の歩みをしている私たちには必要なことなのでしょう。もし、苦難がなければ、人は高ぶり、人の弱さ小ささを知ることがないからです。苦難は、第一に「人がどういう者かという」ありのままを教えてくれます。人はまさに「小さくて弱い存在」です。そして第二に苦難は、人を神に向けさせます。それも真摯(まじめに熱心な事、ひたむき)に向き合うことをさせるのです。そして「神こそが主権者である」ことを人は知るのです。
「苦しみ遭ったことは私に良い事でした。あなたの掟を学ぶためでした」(詩編119:71)
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講壇の生花2

2024年03月10日 | 生花
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