強風と寒波の大晦日。そんな表現がいいかな?。
などと思いながら、パソコンに向かう。
昼間も寒かったが、日没のあとはそれが更に強く感じる老人だ。
一年が過ぎれば、新しい年に代わるのは当たり前のことだが。
総じて日本人はこのことにこだわる人が多いように思う。
でも、そのお陰かどうかわからないが、新しい年ということに異常にこだわる傾向にある。
各地の神社、有名、無名、そうでないにかかわらず、正月だけは賑わう(人が寄ってくる)。
自分が小学生だったか中学生になった頃のようにも思われるが、敗戦のあと戦死者の遺骨が順次故郷に帰ってくる。
村人の大方の人が英霊となった個人を出迎えるために、国民学校など、指定された場所、時間に出迎えに出たものだ。
数年前、あるいは1~2年前に出征兵士を祝い、励ましの目的で同じ場所、時間に集合した場所、時間も同様だ。
つまり、戦争というものは、ところ、とき、条件が変わってもパターンは同じものなのだ。
得るものはない。
日本のみならず、外国においても大きな違いはある筈はなく、人間が人間である限り、以後も、あるのだろう。
国民のすべてが、「昭和の戦争を、どうとらえるかにかかっている。」
そのことに尽きる。
今日は雨の日、昨夜からの延長だ。
随分降りました。
ポタポタと雨だれの音が、まだ耳に残ってる感じ。
洗濯物などを乾かすスペースが薄いアクリル板で天井と3方向が覆われているが、
雨のポタポタとたれる音がするのだ。
午後3時ごろには、霧雨のような感じだ。
いづれにしても、今年の天候は自分の居住する地方では例年とは異なるように思われてならない。
つまりその日の天候が予報と異なることが多いと思う。
自分の頭も相当に呆けているが、その分を勘案しても、やっぱり思いは同じなんだ。
この一年を振り返ってみるに、齢相応に、この点だけは、間違いなく気力、体力共に、衰えてしまうのだ。
同様に頭の方も衰えていることが分かるのだ。
来年のことをいうと「鬼が笑うという表現をどくかで聴いたが、普通の人の場合」で言うと皆同じようなものだろう。
考えてみれば自分は、昭和12年5月24日生まれの現在82歳だ。
近頃、頭の方が少々というべきか、かなりの「呆け虫」である。
総合病院で、脳神経外科に定期に通っているいる。
他の皮膚科、泌尿器科、また時には眼科にも1年に一回程度診てもらってる。
自分ではすっかり病院慣れしているつもりなんだけれども、必ずしもそうとは言えないこともある。
自身の過去を振り返ってみれば、随分、むちゃな生活、生き方をしてきたなと思うが
これも今更どうこう言えるものでもない。
生まれ育った新潟県内の豪雪地帯を出てからの年月、出来事を思い出してみても相当なものだ。
当時の日本経済の規模を考えて見ればわかるが、いまのそれに比べてみれば、何100分の1なんだろうか?。
あるいは、もっと少ないのかもしれない。
「高度経済成長に支えられての今の日本国」
大多数の日本人は敗戦の弊害、破壊からの生き残るために、なんでもいいからその日一日喰えるものを求めて
毎日、動き回ったのだ。
そして敗戦の日本兵士たちの帰還。でも「外地での戦争」に派遣された兵隊たちの惨めな帰還。
「出征するときの勢いもなく、一様に体が小さく見えたのは自分だけではないと思う。」
「何もない日本」それからの、日々の運、不運が自分のような子供にも想像できた。
大方の老人たちは、当時のことを話したがらない。何故か?
「話してみてもしょうがない。嫌な思い出を早く忘れたい」
この思いを心の奥にしまって、今日まで生き延びてる人も少しはいる。
ところで、この先「日本国はどうなる?」といえば大方の若い世代の人は、「心配する要素は極めて少ない」
と見ている。または、そんなこと「考えもしない」というところか。
でも、「人が人間という生き物である限りは争いの種は尽きないのだ」。
このことは、日本国が出来て以来の歴史を見ていればわかること。
「人間は機械やコンピューターではない」いわば、「動物の進化した生き物」だからだ。
年末まで一週間、もうどうにもならない。日一日と確実に過ぎていく。
せっせと働くも、何もしないでゴロ寝を決めつけていても、時間の経過は確実だ。
もう、何もかも間に合わないのだ。
若いころを思い出せば、どなたも経験があろうかと思うところ。
切羽詰まっているのに、あれとこれまでは年内にやりたなど。
でも、いまの「うぬまじいちゃん」の心境はそうか、「正月がくるか」である。
待っていました。新年、ところで来年の干支はなに年?。
82歳の心境だ。若いころの自分の、この世の寿命については、現在の自分よりは少し短いのだ。
そのように確信していた。
まあ、良い。あとは「おまけの人生なればそのつもりで日々を送ろう」である。
今日はクリスマスイブだ。
朝のニュースでテレビで伝えていた。
そうか、そうなんだと”鵜沼じいちゃん”も納得。
当然といえば当然なんだけど、自分にとっては関係ないことなんだからだ。
当たり前のことである。日本の歴史から言って、キリスト教と仏教との比較から見れば分かること。
現在ではどちらでも国教であるなどとは決めてはいない。
地域によっては、特定の宗教が多いところもある。(仏教とかキリスト教など)
なお、これも特定の信者による大伽藍を構えて地域の人たちをびっくりさせているような例もある。
何十年か前のことだが、国内には、おおざっぱに言って18万程の宗教があると聞いたこともある。
そして、わが国では幾多の信教をすべてひっくるめて、信教の自由が決まっている。
そして、もめごともなく国の運営がなされ、一般の国民もそれを良しとしているから平和に年月が過ぎていくのだ。
60数年以前のことなどが、頭をめぐる。
自分もお酒や焼酎を飲んで街に繰り出し、赤いトンガリ帽子など頭にのせて、会う人ごとに、「メリークリスマス!」
と言い合い、騒ぎながら、赤ら顔で歩いた記憶が頭によぎってきた。
なんとも「ばかばかしい」ことだったのかと思うのだ。
今朝は日曜日なので、無職の自分、そして家内ともに炬燵に潜って時間だけが経過しそう」。
8時からのNHKテレビを見てると、自分のようなものでも、いまの日本が直面してるいろんなことがわかる。
次は「小さな旅」「奥羽栗駒山の目に沁みるような紅葉が見られた」
「わが町の病院がなくなる」というテーマでは国の施策によって「総合病院」を地域を広めて一定の面積、人口の中に一か所をという計画を立てているが、交通、人口、環境などによって利用しにくい地域も多くあることから、更に面倒な例も紹介されるなど多くのむづかしいい問題がが紹介された。更に利用する立場の住民だけでなく、医師、看護に関わる人達のこともある。
「中央の役人が机上で出した計画だけでは、なにも前には進まないんだな」の思いが確信に変って思われるから、この社会は複雑でもあり、むづかしいんだ。」
恒例の「日曜討論」では、世界のこと、ヨーロッパでの「イギリスのEUからの離脱の問題」等々だ。
地球温暖化という言葉を聞いたのち、現在までどれ程の年月が経過したことだろう。
国や地域により、まるで事情が異なる。日本の場合、大方の諸外国、と異なり、例えば欧米などと足並みをそろえる。
というわけに行かぬどうにもならない事情がある。
寒い日、暑い程と感じられる日が、交互に、あるいは不定期にあるように感じられるのは、自分だけだろうか?。
今日は12月21日(土)だ。
この地方ではこのように感じられるのは、自分だけだろうか。
年末も近いのだが、自分自身も呆けてはいるが、その日の、
またはその置かれた場所によって感じ方が変化するのだ。
自分が呆けているので、例えばその日またはその時間の周囲の状況までもが
そのように思えてくるのだろうか?。多分その両方であると自分には思われるのだ。
年末がすぐそこまで迫ってきた。
毎年思うのだが、新年が近づく日々をずっと数えるのは気分のよいものではない。
子供のときは、その逆だったようにも思うのだが(反比例)、どうだろう。
朝、弱い雨の音がしたが、9時前には曇り空に代わっていた。
早速、男女一緒に籤引きを済ませ、青、赤、黄に籤引きを済ませて即、ゲームに。上手な人も自分のような下手な人も人数分だけ袋に入れて、くじを引くので、自分がどの組に入るかは、その日の籤引きにより決まるので、全く分からないが、だれにとっても、平等だ。
毎月一度だけ、順位を決める。体験から、全参加者のうちでも、自分が一番底辺にいることがわかるが気にしない。
何といっても毎日、気分転換になること間違いなし。
それと、食事が旨いのだ。
この歳になって食事が旨いというのは、幸せであることと、同義語でもあろう。
それと、少しは体を動かす関係で、健康でいられるのは最大の利点だ。
何年前からやりだしたかは、必ずしも定かでないが、有難い。この先もできることなら、続けようと思う。
自分の居住する地域が市内でも、高齢者の割合が一番高いと聞く。
そのことを思うと有難く思わなくては罰が下るかも。
朝から雨だ。大雨ではないが、しとしとといった表現したいような天気。
全く外出しようとしない自分でした。
「たまにこういう一日もあってよいだろう」と自分なりの結論だ。
15時から「ヨーロッパの山小屋」という番組(テレビ)を見つけて、炬燵を動かない。
ヨーロッパ旅行の際にみたアルプスの山々、実際に登山鉄道で登った山の思い出が頭に残っている。
何十年前のことだったかは、いま直ぐには思い出せないが、いまでも頭に残ってることがある。
その一つ、登山鉄道頂上の終点の駅舎の真ん中で見た「日本製の郵便ポスト」。おなじみの丸く縦長の赤いやつだ。
それと登山鉄道の駅に続く道の交差点近くに、赤い縦長の旗がひらひらと風に揺れて白地の中抜きでラーメンとあった。当時、日本ではお祭りのときなどによく見る屋台の看板に利用されてるやつだ。その時の自分は苦労して、やっとここまで来たのにラーメンの旗にはがっかりした覚えがある。
もう一つはスイスアルプスの雪解けの冷たいが澄んだ水が、勢いよく流れ下る川ともいえない程の水路のことだが、初夏のアルプスの山々の雪が一斉に解けだすと道路に沿った掘割りは滔々たる勢いで流れる。その状態は流れ下るというより、波を打って流れていくのだ。その波は道路すれすれの高さまで来ていた。そして道路と流れを隔てる、柵はというと立てた鉄棒と
太い針金を通しただけのもの。
これで大丈夫なのか?。「心配の心まで覚えてるのだ。」
現在の自分は82歳だ。
「異常な気象がまだ続く」
今朝のニュース番組(テレビ)をなんとなく聞いてたら、「ビクトリアの滝が地図から消えるようになりそうです」。
グリーンランドの氷の壁(高さが何メートルあるかは不明ですが)次々に崩れ、落下。海中に凄いしぶきをあげて砕けている場面をわずかな時間ですが、放映されました。
この場面は数年前にも見た記憶がありますので、その時のものを利用してるのかはわかりませんが、地球の温暖化の故であることが原因とみるのが妥当だろうと思うところです。
更にニュースは「人口集中地帯のスモッグ」ににも言及していましたが、日本列島の場合いま、この時点でにわかに風力による発電にはできない事情があります。
「火力発電をやめてすべて水力、風力による発電に」の発想は日本列島における「人口、気候条件、その他諸々の条件」は満たされません。
そのことのすべてを無視して仮に責められても、同意は出来ない以上はどうにもなりません。また、近い将来において日本列島の気候まで変えれないのだから、たとえ欧米諸国から何といわれようとも意のままににはならない。
これは、季節により、大陸からの「砂嵐」をなくしてくれというのと同じ。
歳末がどんどん近くなってきます。
待ってはくれない。
自然が好きな自分です。
水の流れ(せせらぎ、滝などに深い緑が加われば最高だが)
しかし、最近は加齢故に全くの自然に触れることが少なくなっている。
自分の住む地域はすぐ近くに300m(標高)に満たない八木山3山がある。
数年前までは連日のように縦走したものだが、最近はそれは体の負担が大きく思われるのでやめている。
その代わりといっては、表現がよくないと思うが、買い物(食品その他)はもっぱら家内と一緒に歩いていく。そして歩いて帰る。結構時間を要するものだが、体への負担も少なくて済む。
このパターンは自分が元気なうちは続くと思うのだ。車があってはどんなに頑張っても、車に頼ってしまう。
それでは自分の意思に添わない結果になる。
免許証は自分の意思で期限切れのときが来ても書き換えをあえてやらなかった。
従って、時間あるいは距離の長短に無関係に歩くのだ。
雨の日は他の人たちがうらやましくも思うが、免許証がない以上はどうにもならない。
「自分の足でもっぱら歩くのみだ」
いま82歳だが車がない生活になじんでいるから、これがあたりまえと思えば、それ以上どうこう思い煩うこともなしだ。
今日は、まあまあの好天、でも朝一番にでテレビ確認してる予報のマークでは終日晴天の予報ならば、赤い太陽の印が9時から日没まで並ぶが、最近の天候は実際のところは、薄曇り~曇りなのだ。
まあ、朝の予報そのものにしても絶対にマークのままになったら、一般の住民も楽だし、とても助かるのだが、予報は予報にして実際にはあらず。
これが各地方ごとに80パーセント程度の確率で当たるならば、自分も含めた老人にしても有難い限りだが、そうもいかない。
晴れの予報に対して薄曇りならば我慢のしどころといったところか。
朝9時から1~1時間30分程度近所の公園で長寿会の有志によりグランドゴルフの練習がある。
雨天でなく、体調が特に悪くもなければ、連日参加するように心がけている。
この時期、極端に寒かったら休んでしまうが、少々寒くても出かける。
少し体を動かすだけで、日々の体調を整えることができる。
このことが実感できるのだ。(自分の場合)
朝からテレビの番をしていることが最もよくないことが自分の身体で感じることができるからだ。
一年の経過は加齢とともに早く感じられる自分だ。(つまり加速度的に)
このことは、後期高齢者になったった頃より次第に明確に感じられるようになったものだ。
でも今年の天候はどう見ても例年と比較して、異常としか思えないのだ。
秋になればこの辺りでも、モズ(野鳥)の高啼きとか言って例えば電柱の上とか、尖った木の先端部分に止まって、そこに何か尖った棒のようなものがあれば、カエルなどを咥えてきて自分で喰うのでなく尖った部分に突き刺して置くのが通例と見ているが、今年に限っては秋になってもモズの姿を見ることが無かった。
不思議な現象だ。何故だろう。他人の目には入っているのかもしれないが?。
蝶の類で(アゲハチョウ?)遠く海を越えて外国にまで飛翔するものもいるし、ツバメや雁、ハクチョウ、その他にもいる筈だが、自分の脳が退化して、今は思い出せない。
野生のものには不思議な生態のものが多くて驚く。
来年はオリンピックなどが予定されているが、心配性の自分にはどうなるか分からないなどと、思ったりするのだ。
昨日は地元「長寿会」の忘年会だった。
とはいっても、長寿会そのものが任意団体であるから、会員になるか否かは自由だ。
弁当とお酒、ビールなどが沢山出されて、更に個人での差し入れの方もあって、弁当も、飲み物も食べきれない、呑み切れない。これは恒例の行事だ。
家内と二人で参加。食事や飲み物がひと段落したところで、ビンゴゲーム、カラオケその他ばらばらになる。
勿論、地元の町内会は公式な面も多い。予算の裏付けもある。これはきちんとしている。
ところで天候の方が不順であったが、今日は朝から好天だ。寝ていても、寒かった。
徐々に寒くなっていくのであれば、それは当たり前であり、望まれる状態だが。
近年というか特に今年の天気は極端から極端に変わるので、自分のようなヨレヨレの老人には身体に応えるのだ。
この先、日本列島の気候はどのように推移していくのか?。